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2006.06.14

さようなら、初演魔の活火山

 指揮者の岩城宏之氏が13日、この世を去った。ずいぶんと長患いをしていることは、彼を扱ったテレビ番組で知っていたが、それでも悲しい。

 せっせと現代音楽の演奏会に通っていた頃、ずいぶんとその指揮を見た。いつ、いかなる曲を振っても、岩城の棒は筋肉質で弾力性に富む音を紡ぎ出した。それがたとえ武満徹の曲であっても、弱々しくはなく、響く音は(おそらくは武満本人の意図を超えて)筋肉質だった。若い頃、ヨーロッパでは「活火山」と評価されたという。確かに「活火山」の通り名は伊達ではなかった。

 今、世間では彼の事を、「ベートーベンの交響曲を一晩で振った男」として思い出しているのだろうか。しかし、私にとって岩城宏之という指揮者は、何よりも邦人作曲家の曲を誰よりも多数初演した、初演男だった。「日本人の曲を日本人が演奏するのは義務だ」というのが岩城のポリシーだったという。

 先だっての「武満徹の宇宙」で代役を立てた時、「これは最後かも」と思った。以下、そのときにmixiの読者限定日記に書いた文章。

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 28日午後は、東京オペラシティホールの「武満徹の宇宙」というコンサートに行ってきた。「カシオペア」「アステリズム」「ジュモー」と、そろって編成が変だったり演奏時間が中途半端だったりで、コンサートにかかりにくい曲ばかり3曲をあつめたなかなかとんでも無いプログラム。しかもアステリズムのピアノソロを、ほぼ30年ぶりに高橋悠治が弾くという演奏会だった。

 演奏会の感想は表で書くとしてこの演奏会、本当は若杉弘と岩城宏之が指揮をする(ジュモーは2人の指揮者を必要とする)はずだったのだが、岩城の体調不良で、高関健が代理で振った。

 で、演奏会で配布されたチラシに見る今後の岩城の予定。

新交響楽団 第194回演奏会 2006年7月22日(土)サントリーホール19:00<芸術文化振興基金助成事業>
指揮:岩城宏之 合唱:栗友会
曲目 芥川也寸志/交響管絃楽のための音楽
   伊福部昭/管絃楽のための日本組曲
   黛敏郎/涅槃交響曲

NHK交響楽団 指揮:岩城宏之 2006年9月18日
横浜定期演奏会
武満徹:弦楽のためのレクイエム/テクスチュアズ、黛敏郎:曼茶羅交響曲、ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

 かつて邦人作曲家の曲を次々に初演し、初演魔と言われた岩城が、こういうプログラムを組む理由は1つしかない。彼は明らかに死期を悟っている。ガンに犯され手術を重ねてきた岩城は、人生の締めにかかっている。

 涅槃、曼荼羅、テクスチュアズを演奏しようというのだ。どれも岩城が初演した曲だ。

 なによりも、「テクスチュアズ」は、後に「オーケストラのための弧」に第四楽章として組み入れられ、めったに単独演奏されることがない。7分ほどと短いが、巨大複雑な編成で演奏至難の曲である。
 1964年、34歳の武満、自分の語法を確立しようとあがいていた武満が書いて、32歳の岩城、若くてエネルギーがあり余り、ヨーロッパでは「活火山」と評されていた岩城が初演した曲だ。

 この曲をあえて単独でやろうというのだ。

 今日の一日のコンサートとしては破格かつ無茶苦茶な選曲も、おそらくは岩城の意志があってのことだったのではないだろうか。
 打楽器ソロに特殊編成のオーケストラという「カシオペア」、一種のピアノ協奏曲だけれども演奏時間が10分ほどしかない「アステリズム」、そして2つのオーケストラに2人の指揮者、しかもオーボエとトロンボーンのソロという、巨大複雑編成の「ジュモー」——どう考えても1日のプログラムとしては無茶だ。

 正直、彼がベートーベンの交響曲全曲を一気に演奏しようと、私としてはどうでもいい。

 が、黛、武満となると別だ。

 付き合いましょうも。それまで、彼の命が持つかどうかも含めて、付き合いましょうとも。音楽家の人生仕舞いを見届けましょうとも。

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 結局、涅槃も曼荼羅も、テクスチュアズもなかった。聴きたかったのに…

 いやもう、私の感性が一番柔軟だった頃の記憶が岩城の指揮と重なっているので、こうやって書いているだけで泣けてしまう。岩城の指揮で、ずいぶん色々聴いたなあ。新日フィルの横浜定期で聴いた武満の「地平線のドーリア」、黛敏郎追悼演奏会での涅槃交響曲。

 だが一番印象に残っているのは1984年6月13日、東京文化会館でサントリー音楽財団が主催した「作曲家の個展 武満徹」だ。

 あの時、22歳の私は、留年したあげくやっとこさ進学した専門課程が面白くなく、人生何をすべきか分からずに、ずーんと沈んでいた(本人は大変だったが、まあ良くある話だ)。コンサートには、留年せずに先に就職を決めた友人I(後に私の大家になった男)と行った。

「おめーどうすんだよ」
「ああ」
「このまま退学でもしたら、上野のガード下一直線だろうがよ」
「そうだなあ」

というような会話をしたのをはっきり覚えている。
 それまでがらがらの現代音楽コンサートばかりに通っていた私は、もちろんチケット予約などしていなかった。ところが東京文化会館は超満員で、主催者はついに立ち見のチケットを出した。私とIは、東京文化会館3階の通路階段に座って、鶴田錦史・横山勝也の「ノベンバー・ステップス」を聴いた。それは、私にとって鶴田・横山の初演コンビによる演奏の一期一会だった。

 超満員にもかかわらず、1階のS席のエリアには空席が目立った。
——おつきあいでチケットを買ったけれども、音楽にはそもそも興味がなくて欠席したブルジョワ野郎がたくさんいるんだ…
 私は見当外れの怒りを感じつつ、3階からどこに空席があるかを観察した。もちろん休憩時間に1階に移動して割り込んだのである。

 幸いにして、休憩時間が終わってもその席のチケットをかった仮想敵のブルジョワ野郎は来なかった。私は安い立ち見チケットでS席に座り、武満の「オリオンとプレヤデス」日本初演を聴いた。堤剛の独奏チェロの奏でる、微分音混じりのメロディがやけに心に沁みた。
 そのときも、目をつぶりチェロを演奏する堤の横で、岩城は切れの良い指揮棒を振っていたのだった。

 この日の演奏は後に二枚組CDとなった(残念ながら現在は絶版中だ)。私はそれを持っているが、滅多にかけない。かけるとあの日の陰鬱と充実が奇妙な界面を形成した気分を思い出してしまうから。思い出したくない自分が、あふれだしてしまうから。

 ともあれ、岩城宏之という人がいなければ、私が学生時代、あれほどの現代音楽の実演に接することはなかったろう。

 たくさんの音楽をありがとうございました。合掌。


 やはり岩城宏之は邦人作品の演奏を聴かなくては、と思うので、邦人作品の録音のみを紹介する。

 29歳の黛敏郎が書いた、正真正銘の大傑作。梵鐘の響きを音響解析し、六管編成で3つに分割したオーケストラで再現し、そこから様々な響きを引き出し、男性六部合唱と組み合わせた大作だ。初演は1958年4月2日「三人の会」第3回演奏会で、岩城宏之とNHK交響楽団が行った。この時岩城宏之は25歳!

 題名だけで「親父、涅槃で待つ」というようなセリフを思い出して笑ったり、抹香臭い音楽だと先入観を持つなかれ。おそらく過去100年に日本人が作曲した音楽の中でも間違いなく十本の指に入る曲だ。いや、最高の一曲に選ぶ人がいてもおかしくはない。
 このCDは、黛にインスピレーションを与えた奈良法相宗薬師寺の聲明「薬師悔過」(やくしけか)がカップリングされている。



 曼荼羅交響曲は涅槃交響曲で調子に乗った黛が次に書いた交響曲。これまた岩城が初演している。第一楽章が「金剛界曼荼羅」、第二楽章が「胎蔵界曼荼羅」と名付けられた二楽章で構成される。といっても、仏教的というより異国的で、黛お得意のラプソディックな音響が乱舞する。録音は古いのだけれど、「胎蔵界曼荼羅」の後半で、突如野太いメロディが出現してクライマックスを導く当たりのリズムの取り方は、間違いなく岩城宏之ならではだ。
 もう一曲の「BUGAKU」は、1962年作曲。岩城は日本初演をしている。雅楽の舞楽を、舞楽のメロディを引っ張ってくるのではなく、改めてオリジナルで作曲した、比較的なじみやすい曲。



 黛の死後、彼の管楽やブラスバンドの曲ばかりを岩城が指揮して録音した、まさに友情の一枚。表題の「トーンプレロマス55」は題名の通り1955年、黛25歳の作品。ミュージカルソウ(西洋のこぎりをヴァイオリンの弓で演奏する)が大活躍するユニークな曲。中間部ではマンボのリズムが爆発する。
 思想信条において、黛は右翼的で、岩城はどちらかといえば左翼的だったが、ともにそんなことは全く気にしていなかったようだ。岩城は黛の生前も、死後も、ことあるごとに黛作品を演奏した。



 岩城が、あまり演奏されない1970年代武満徹の名作を3曲振った是非とも手に入れるべき一枚。札幌オリンピックに合わせた「ウインター」の冷徹な美、様々な音響がなまめかしい身振りで浮遊する中から一瞬ワルツのリズムが立ち現れる「マージナリア」のエロティックな美。そして、このCD一番の聴き所は、高橋美智子のマリンバをソロにたてたマリンバ協奏曲「ジティマルヤ」だ。弦楽を排除したオーケストラをバックに、マリンバが意味深な身振りで旋律を紡ぎ出す。マリンバの打撃音と管楽器の異国風の旋律がアラベスク模様のように絡み合う。



 筆も立った岩城の著書から、とびきり面白い一冊を紹介する。岩城と山本直純は芸大の先輩後輩だった。指揮者を目指した二人は本物のオーケストラを振りたい一心で、「練習に来たら蕎麦をおごるから」と学生を集めてオーケストラを組織し、演奏会を開催する。
 才能抜群だが破天荒で破滅型、でも憎めない「ナオズミ」こと山本直純の行動が無茶苦茶面白い。脇を固めるキャラもどれもこれも個性的。「本当にあった話か?作ってないか?」と思ってしまうほど。ラスト、ショスタコービッチの「森の歌」を演奏するシーンは、もう泣くしかない。

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2006.06.13

360クーペに乗る

Coupe1


 広島ではもうひとつ、こちらは楽しいことがあった。

 まいなすさんのマツダR360クーペに乗せてもらったのだ(沖兄弟のページはこちら)。

 1960年発売、才能あるデザイナー小杉二郎がデザインした、素晴らしく粋なボディを持つ日本初のクーペだ。沖兄弟は、兄弟で2台のクーペを保有しているが、この日はまいなすさんの車だけが広島にあった。

 まいなすさんの家の周辺を少し運転させてもらったが、いやもう楽しい楽しい。かくも自動車の運転は楽しいものなのか、と思う。
「楽しいでしょう」と、まいなすさん。「エンジンの音やら色々な音が聞こえますしね」。
 V2気筒、たった16馬力のエンジンがぱたぱたと軽快に回る。最高速は80km/h出るかどうかだそうだが、それでいいじゃないかと思ってしまう。
 なんでシンプルな自動車はこうも楽しいのだろうか。私が「自動車ってなんて楽しいのだろう」と初めて思ったのは、550cc2ストエンジンを積んだジムニー「SJ10」に乗った時だったが、このクーペも同様の楽しさを感じさせてくれる。

 自動車は、本来この先に未来があったのではないだろうか。ひたすらシンプルで、必要十分な大きさ。不要不急の装備を降ろして、あくまで軽快に。
 あんな装備、こんな装備、あれもできる、これもできる、ではなくて、「これだけあれば、とりあえずは十分」という行き方。現代の目で見て、このクーペに欠けているのは、衝突安全性だけではないだろうか。

 しかし、この古い自動車を維持するのは大変だろうと思いきや、まいなすさん「いや、そうでもないです。例えば100万円でこのクーペを買っても、それで10年以上楽しむことができるんですから、フェラーリなんか買うよりもずっと安上がりの趣味ですよ」という。「ほら、エンジンだって、手で降ろせますし、まあ大きなラジコンみたいなものですよ」。

Coupe3

 見せてくれたリアのエンジンルームは見事にすかすか。エンジンの構造も簡単で、これなら個人でも楽々整備ができそうだ。

 車との良い付き合いとは、こういうものか。

 私のAZ-1も10年、20年と乗り続ければ、このクーペのように楽しむことができるだろうか。

 ちなみにまいなすさんは、AZ-1も保有している。運転はどうか、と尋ねると「クーペのほうがずっと簡単ですよ。前後の見切りはクーペのほうがAZ-1より全然いいですから」ということだった。

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2006.06.10

広島平和記念資料館で考える

Hiroshima
 旧聞だが、先月19、20日と広島に行った時の話。

 20日は午前中から、広島平和記念公園にある、広島平和記念資料館へと行った。
 不謹慎な書き方だが、期待していた。こうの史代「夕凪の街 桜の国」には、登場人物の一人がここの展示を見て気分が悪くなってしまうシーンがある。気分が悪くなるほど、原子爆弾というものの実態を突きつける展示をしているなら、それは見なくては。

 結論から言うと、ダメダメだった。特に、新しく作られたという東館の展示が見事なぐらいに駄目。公共事業で作られたと思しき「ま、こんなもんでしょ」感溢れるぐだぐださに満ちていた。修学旅行の中学生と思しき一団と遭遇したし、団体観光らしい中国人やロシア人の集団とも行き違ったが、彼らに何かが伝わったかどうか。

 博物館の要諦は、見物人に「ごめんなさい、もうしません」と泣き言を言わせるほどの展示品の密度にある。広島平和記念資料館東館の展示は、記述のイデオロギーがどうのこうの以前に、密度が低すぎる。
 大英博物館の、向こうがかすむほどでかい展示室一面に詰まった鉱物結晶サンプルとか、パリの戦争博物館のいくら見ても見ても終わらない甲冑のコレクションとか、ドイツはイエナのカール・ツァイス博物館の、建物はちょっとしたアパート程度の広さしかないのに到底1日ですべても見ることが出来ない息が詰まるほどの高密度展示とか、そういったものを経験している身にとしては、東館展示は「怠慢」と書いた紙を貼って回りたいほどに密度が低い。
 記念館に来る人は、もっとたくさんの事実を知りたいはずなのだ。壁面を写真パネルと解説で埋めるだけで、なにかが伝わるなどと思わないでほしい。

 そして展示方法も下手だ。アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆開発を進言した手紙のコピーが展示されている。たかだか便せん数枚の手紙なのに、重ねてあって全文を読むことができない。こんなものは全部読ませ、全文を翻訳展示すべきだ。読めたところだけでも、アインシュタインは原爆が重くなりすぎるので、船に乗せて港湾攻撃に使うしかないと考えていたという、興味深い一節を知ることができた。

 以前からあったという西館に移ると、展示はいくらか持ち直す。被災地から回収された遺品、破壊された建物の構造物などが展示され、ずっと原爆というものの実態を肌で感じることができる。
 それでも、やはり展示の密度が低すぎる。記念館は相当数の収蔵品を持っているらしい。ならば、もっともっと詰めてぎちぎちに展示すべきなのだ。

 常設展示にがっくりしつつ、地下の特設展示に回る。

 結論から書くと、こちらのほうが壮絶だった。まず、被爆者が当時を思い出して後に書いた絵画、通称原爆絵画などと呼ばれるものの展示。素人の絵なので、絵画としては稚拙。中には本人も想定していなかったであろう方向に突き抜けちゃった絵もあって、最初は不謹慎に笑いながら見ていたのだが、だんだんそれどころではない異様な感覚に引き込まれていった。
 絵に添えられた簡潔な言葉が、半端でなく強烈なのだ。これをなんと形容すればいいのか…淡々と生き地獄を俳句のように表現されてしまったと言えばいいのか…とにかく常設展示よりもはるかに迫真力に富む。このような事実に対面しては、もう泣くしかない。
 明らかに、これらの絵画は西館の遺品展示の中に混合して常設展示すべきだ。

 そして最大の収穫は企画展「宮武甫・松本榮一写真展 被爆直後のヒロシマを撮る」だった。被爆直後に広島に入った2人のカメラマンの撮影した生々しい写真の展示は、私の精神を打ちのめすに十分だった。現在、リンク先には一部の写真が掲載されているので、ぜひ見てもらいたい。

 原水爆禁止運動は、世界の冷戦構造に翻弄され、社会主義国の核兵器を認めるかどうかで、社会党・総評系の原水禁と共産党系の原水協に分裂した。広島平和記念資料館の展示も、あのふざけたイデオロギーの対立に巻き込まれたのだろうか。

 見学に当たっては、広島在住のまいなすさんに同行してもらった。本blogにもたびたび出演している双子の沖兄弟。その弟さんの方だ。
 彼のお祖母さんは、原爆が落ちたときに宇品の方に住んでいた。沖の似島に救護所ができたので、市内からそれこそ火傷で皮膚が大きく垂れさがったような人々が大量に橋を渡って避難してきたのを目撃したという。なにしろ情報の流通が悪かった。桟橋のあっちから船が出る、こっちから出るとうわさが流れるたびに、この世のものとも思えぬ地獄絵図の人々が、桟橋をあっちにうろうろ、こっちにうろうろしたのだとか。
 もちろん、似島の救護所に行ったところでろくな薬はなかったし、そもそも放射線障害について知識を持つ医師などいはしなかったのだ。

「ABCCって知ってますか?」
「知ってる。戦後になってアメリカが放射線障害のデータを集めるために作った設備だろ」
 アメリカにすれば広島と長崎は、来る核戦争に備えるための核兵器の実験場だった。実験である以上データを集めなくてはならない、1947年、アメリカはABCC(原爆傷害調査委員会)を広島と長崎に設立した。何をやったかといえば、占領軍の立場を利用して市民を呼び出してはデータを取っていったのである。
 治療ではない。調査したのだ。

「うちのばあちゃんも、ある日ABCCに呼び出されましてねえ」
「占領軍の呼び出しだから強制だわな」
「アメリカ人のお医者の前で、裸にされてあれこれ調べられたそうです。あんな恥ずかしいことはなかったって言うてましたわ」

 記念館から出ると、空は見事な快晴だった。素晴らしく気持ちよい天気だ。萩原朔太郎など思い出してしまう。

私の大好きな五月

その五月が來ないうちに

もしかして死んでしまつたら

ほんの氣まぐれの心から

河へでも身を投げたら

もう死んでしまつたらどうしよう

私のすきな五月の來ないうちに

 原爆ドームの方へと歩いていく。「エノラ・ゲイ」が爆撃にあたって目標にしたのは、川の上で三叉に分かれる相生橋だった。今も相生橋は三叉路になっている。

 まいなすさんが、東の空を指さした。
「原爆ドームの少し先だから…あのあたりの空で、爆発したわけですな」

 その日、一番衝撃的な言葉だった。


 原爆関係の本は多数出版されている。私はそのすべてに目を通したわけではないので、自分が読んだ範囲からごく一部を紹介する。

 比較的早い時期に、原爆開発をアメリカ側からまとめたノンフィクション。記述が古い部分もあるそうだが、今でも読む価値を持っていると思う。

 原爆開発を知るにあたっては、オッペンハイマーを中心とした科学者だけではなく、国防総省の側からマンハッタン計画の総責任者を務めたレスリー・グローブスを見落としてはならないだろう。グローブスの回顧録は翻訳も出ていたのだけれど、現在絶版中。是非とも読みたいのだが。



 ご存知リチャード・ファインマンの自伝。彼もまたマンハッタン計画に参加しており、本書には当時のロス・アラモスでの生活が出てくる。

 特に、最初の原爆、「トリニティ」爆発実験の後、かなりの関係者が「とんでも無いものを作ってしまった」と後悔したらしい記述があるのに注目したい。「トリニティ」を目の当たりにした者は、その意味を理解できた。しかし、それを見なかった者にとって、原爆は「破壊力抜群の新兵器」というだけだった。破壊力は既存の爆薬の類推で想像できても、それで何が起こるかは想像の外だったのだ。もちろんトルーマン大統領にとっても、想像の外だったのだろう。








 日本側の記録は多数出版されているが、私はそれらを取捨選択できるほど読んではいない。ここではamazonの「広島 原爆」によるキーワード検索だけを表示する。



 そしてやはりこの本を。60年を経て、やっと出現した「悲惨を語る」とも「非道を糾弾する」とも異なる、静かな、原爆を巡る物語。

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2006.06.06

広島で汁なし担々麺を食べる

 少々以前のことだが、5/19、20と仕事で広島に行ってきた。

 で、食べてきました。「きさく」の汁なし担々麺。

 ネットをさ迷っていて、某所で激賞する記事を見つけ、辛い物好きとしては食ってみなければいかんだろうと、楽天で4食セットを取り寄せたのは今年の1月の事。

 これがうまかった。

「辛い、うまい!」

 四川料理らしく唐辛子ではなく山椒の「麻」な辛さがつんと来る。「本場中国から山椒を初めとした香辛料を取り寄せた」という宣伝文句は伊達じゃない。ネギを山ほどかけて、半熟卵を載せて食べると最高。食った後に残ったソースに白ご飯をからめてたべるとまた良い。結局4食セットを、2食ずつ2日で食べてしまった。

 その後、あちこちで「うまいぞ」と勧めたものだから、一時期私の周囲は汁なし担々麺がちょっとしたブームとなった。

 こうなると「きさく」はどんな店なのか気になる。広島に行く機会があったら是非とも、と考えていたのであった。広島の友人達は一足先に偵察に行き、「やる気のなさそうなあんちゃんが、一刻も早く仕事から上がりたいような顔をして作ってますぜ」などという情報をよこしてくる。
 ますます気になる。



汁なし担担麺「きさく」

広島市中区舟入川口町5-13 佐々木ビル1F

Tel 082-231-0317

 「きさく」は広島中心部から少し離れた自動車通り沿いにあった。夜、わざわざタクシーを飛ばして行ったので、分かりずらかったがいかにも中華な店構えは昼間なら目立つのではないだろうか。

 大盛り卵乗せ、山椒増量で食券を買う。あんちゃんは、私がいった時にはそうだらだらはしていなかったな。カウンターには「がんがんかき混ぜて食ってくれ」という表示がしてある。もちろん従う。

 うまい。やはりうまい。山椒を増やすと、つんとくる「麻」の辛さがますます効いて素晴らしい。最後、どんぶりの底に残った汁でご飯でも、とご飯の食券を買ってカウンターに出すと、「店の隅にあります」と言われた。おお、巨大炊飯器がそのままどんとおいてある。ご飯盛りたい放題だ。

 満足しました。ごちそうさま。

 帰りは前線の通過で大雨になり、またもタクシーでホテルに戻った。たかが担々麺一杯に何をやっているのやらだが、それでも気分は痛快だった。

 基本的に、この汁なし担々麺は、ジャンクフードだと思う。ただ、通常のジャンクフードは過度の脂と塩味、あるいは過度の甘さで構成されているのに対して、こちらは、強烈な中国山椒がメインなのだ。健康への影響はどっちもどっちという気がするが、どちらを選ぶかといえば、私はためらわずに汁なし担々麺を選ぶ。

 辛い物が好きならば、一度は食べて損はないです。


・汁なし担々麺「きさく」楽天内通販ページ

:Web2.0の一環として楽天に「きさく」ショップへのアフィリエイトリンクを作ってみた。楽天のメールマガジンに関する態度は気に入らないのだけれど、まあとりあえずやってみるか、ということで。


・汁なし担々麺4食セット:2100円(税込み送料別)

:「ちょっと試してみるか」という方には4食セットをお薦めする。送料込みだとけっこうな値段になってしまうのが難点だけれど、辛い物が好きならそれだけの価値があると保証する。もちろん、気に入ったら10食セットを購入すればいい。賞味期限は一週間だけれど、冷凍保存は可能。だが、おそらく一週間もせずに食べ尽くすと思う。


・極辛汁なし担々麺2食セット:1050円(税込み送料別)

:多分、店で食べた山椒増量がこれだと思う。こっちもいけます。なぜか通販は2食単位のみ。

 なお、この他に「マイルド汁なし担々麺」もある。私は食べていないが、私の周囲における評判はあまりよくなかった。だいたい辛い物を食べるのだから、マイルドなどと言ってはいけないと思う。ひーひー言いながら、食うべし、食うべし、食うべし。

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2006.06.02

「はやぶさリンク」:イオンエンジンは無事、サイエンス誌で特集

 もうご存知の方も多いだろうが、JAXA?ISASから、「はやぶさ」関連の発表が一度に出た。以下、関連も含めて、少しコメントを書く。

2006年5月末現在の「はやぶさ」探査機の状況について
 6月1日付けの毎日新聞の「イオンエンジン2基が生存」というスクープ記事に対応した、川口淳一郎プロマネのコメント。地球帰還に必要なイオンエンジン2基の動作が確認できたことを、公式に公表した。

  現在、「はやぶさ」探査機は、交信と運用には問題はありませんが、いくつか検討を要する比較的大きな問題があります。その検討には、地上試験や比較的長期の飛行履歴の調査を要するため、現時点では正確な状況をお知らせすることができません。

というのが気になるところ、「比較的大きな問題」で「地上試験や比較的長期の飛行履歴の調査を要する」となるとイオンエンジン回りか、とも思える。ともあれ焦ることはないので、公式発表を待つことにしよう。

「はやぶさ」によるイトカワの科学観測成果、科学雑誌「サイエンス」が特集!
 やっと出ました。この雑誌掲載にあたっての縛りがあったので、今まで「はやぶさ」が観測したデータの、もっとも驚異に満ちた部分が公開できなかったのだった。
 「ネイチャー」とならぶ科学誌「サイエンス」に特集を組ませたというのは、大変な快挙と言っていい。論文執筆のあれこれは、いくらかは聞いていたが、情報の整理やサイエンス編集部側との折衝など大変だったようだ。「はやぶさ」サイエンスチームの皆さん、ご苦労様でした。

「はやぶさ」プロジェクトが、Space Pioneer Award を受賞
 5月6日、米National Space SocietyのSpace Pioneer Award を受賞した。未知へ果敢に挑んで成果を挙げたことが、アメリカではきちんと評価されたということだろう。

HAYABUSA SYMPOSIUM 2006
 「はやぶさ」の成果について話し合う国際学会の案内。7月12日から14日まで。場所は東京大学本郷キャンパスの東京大学武田先端知ビルのホール(地図)。

 それでも、まだ日本の中では、「はやぶさ」の成し遂げたことに対する認識は薄い。つい先日も、在京テレビキー局のそこそこ偉い人が、「我々とししては、はやぶさは失敗したものと考えている」と言った、なんて話を耳にしたばかりだ。

 そして、「はやぶさ」の劇的なまでの成功とはうらはらに、宇宙科学は予算不足から引き潮ムードになっているし、日本の宇宙開発全体を見ても、どうにも整合性が取れて力強く前に進んでいるとは言い難い状況になっている。

 「めでたいのに余計なこと言うな」と蹴飛ばされそうだが、事実は事実。きちんと見つめた上で、少しでも前に進むように考え、行動して行きたいと思う。我々は、やればできるということを「はやぶさ」は証明してくれたのだから。


アステロイド 光の港

未踏の天地

星の姿 星間物質

凍るるところ

カメラの目に映る

モノクロの像にさへ

青春燃ゆる 生命は躍る

未踏の天地

蒲田行進曲のメロディで:あさりよしとおさん作の替え歌

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2006.06.01

「宇宙の果てまで」を読む

 望遠鏡は大好きだ。望遠鏡で宇宙を観測すること、というよりも、望遠鏡という機械自体が大好きだ。機械は、人間の身体機能を拡張する役割を担っているが、特に望遠鏡は視覚という、人間にとってもっとも重要な知覚を拡張してくれる。しかも「遠くを見る」という方向で。それだけでわくわくする。  顕微鏡も視覚の拡張なのだけれど、少なくとも私の場合、わくわく感では望遠鏡に一歩譲る。  しかも、望遠鏡は大きければ大きいほど解像力が上がり、かすかな光を捉えることができるようになる。

 「視覚を拡張する。遠くを見る。大きいほどよい」。おお、なんという快感。

 しかし望遠鏡を作るには大変な手間がかかる。巨大望遠鏡となると、関係者の人生をいくつも飲み込むほどの労力をかけなければ作ることはできない。巨大望遠鏡建設は常にドラマでもある。

 だから私は、望遠鏡を作る話もまた、大好きだ。

 小平桂一著「宇宙の果てまで」がハヤカワ文庫で復刊した。国立天文台がハワイ島・マウナケア山頂に建設した直径8mの「すばる」望遠鏡建設を、著者の人生行路と重ねて記録した本。
 一言、傑作だ。何も言わず読むことをおすすめする。一人の天文学者がどのようにキャリアを重ねるかという人生読本でもあるし、同時に空ばかりを見ていた天文学者が、社会に向けて語り霞が関と折衝し政治家を説得し、ありとあらゆる俗事と関わりつつ、最後に空を見るための巨大望遠鏡を作り上げる物語でもある。最初の欲望は、「遠い宇宙を見たい」という学問上のものだったかも知れないが、実現には法律の壁を乗り越える必要があり、無理解と無関心をはねのける必要があり、なによりも資金が必要となる。なにしろ現地ハワイに赴任する者のための、勤務手当まで準備しなければならないのだ。

 著者は何度となく「この望遠鏡が何の役に立つのか」と自問自答する。答えは、読んで確認してほしい。「宇宙の果てを見たい」という素朴で根源的な欲望が、形をとるためにはどれだけの論理を必要とするかが分かる。
 やっと建設が始まっても、やってきた不況で予算の先送りされ、建設中の事故もあり、建設途中で逝く者もあり、著者は途中で体を壊し、何度となく上った梯子を外されるような事態が発生し——やっと望遠鏡が完成しても、それは観測に向けたスタートラインにたどり着いたに過ぎない。ラスト近く、「すばる」の試験で素晴らしい星像が得られるのを見た90歳の老天文学者が「もう観測は諦めていましたが、やっぱり観測をしたくなりました!」と語るシーンは感動的だ。

 以下は関連図書を紹介する。

 こちらは「すばる」のような国家級の巨大プロジェクトではなく、自分の研究の必要性からハワイに2m望遠鏡を建設した東京大学教授の記録。いやもう、この「マグナム」望遠鏡も、建設に当たってしゃれにならないほどの苦難を重ねている。その苦難のすべてが、技術的なものではなく、制度的なものだというあたりが腹立たしい。特に予算獲得に当たってのお役所の壁は——著者が決して泣き言を書かないだけに——その理不尽さ加減が目立つ。

 ちなみにイギリスには、人口比で日本の10倍の天文学者がいるそうだ。かつて広大な植民地を持ち、強大な経済力を誇ったイギリスが、なぜそれほど多数の天文学者を抱えているのか——天文学を不要不急の学問と思っている人は、考えてみてみよう。

 歴史を振り返れば、天文学は正確な時刻を知り、地球上で自分がどこにいるかを知り、さらには原子物理学の進展に必要な知見を得てきた。実は天文学は、様々な意味で実利も生み出している学問なのだ。



 以前も紹介したが、パロマー山の5m望遠鏡建設の記録。本書の主人公は巨大望遠鏡そのものだ。提唱者の天文学者ジョージ・エラリー・ヘールをはじめ、様々な人々の人生を飲み込んで、望遠鏡が作られていく過程は、めっぽう面白い。「すばる」関係者は、望遠鏡建設にあたって本書を読んで参考にしたという。



 巨大望遠鏡を語るにあたっての基礎文献。出版年次が1995年と少し古いので、最近のトピックは載っていないが、ハーシェルの望遠鏡以来、人類がどのようにして技術的困難に立ち向かって、巨大な望遠鏡を作ってきたかが分かる。旧ソ連における望遠鏡技術についても言及しており、私には、ソ連がパロマーの5mに対抗して作ったゼレンチュクスカヤの6m望遠鏡の記述が興味深かった。

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