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2006.08.17

盛夏を過ごす

 12日はコミケット70の2日目。私は友人のILMA Expressで売り子。売れ行き盛況でコミケを楽しむ。メカ・ミリタリー系の知人達も、それぞれ成果を挙げた模様。

 今回は沖さんズのおうやん氏が、愛知からクーペ360で参加。駐車場でかなりの注目を浴びていたようだ。午後2時頃、大雨が降ってきたので自動車を保護するために大急ぎで撤収していったそうな。彼らの「クーペ360マガジン」は今回で終刊とのこと。今後はウェブに活動の舞台を移すという。ごくろうさまでした。

 風虎通信からは「宇宙の傑作機10 アポロ誘導コンピューター」(水城徹著)と「世界の競争自動車2 シャパラル2D/2F」(浜田一穂著)が出た。「アポロ誘導コンピューター」は、アポロ宇宙船を月に送り込んだ組込型コンピューターに関する本格的解説書。宇宙開発ファン必読。多分、またくだん書房で入手可能になると思います。ですよね、高橋さん。
 「シャパラル2D/2F」は、1960年代に光芒を放った革新的レーシングカーの本。おお、シャパラルかっこエエ。

 Yahoo!ムービーズのゲド戦記評は、星2つから星4つまでの様々な評価が出そろってきた。相変わらず、夜の一定の時間帯に内容のない星5つ評価が集中して投稿されてはいるが、自分なりの正直な評価を書き込む人が増えているようである。その結果の平均星2.3というのは、意外に正確な評価ではないかと思う。

 最近の星5つは、関係者というよりも、無意味な書き込みで場を混乱させることで自己顕示欲を満足させたい困ったチャンという気がする。

 映画「ゲド戦記」に対する原作者、アーシュラ・K・ル=グウィンのコメントが公開された。さっそくネット上には翻訳がアップされている。どなたの手によるものか、日本語で読めるのはとてもありがたい。

 この手の文章は、1)誤解を防ぐための状況に関する説明、2)本音による意見表明、3)本音の厳しさを緩和するためのフォロー——というフォーマットで記述されるのが普通だ。そう考えると、原作者は映画「ゲド戦記」に対して激怒しているといって良いといいだろう。
 ちなみに宮崎吾朗監督日記には、ル=グウィンの前で行った試写についての記述がある。


そのパーティーの最後のお別れの挨拶のとき、
自分からル=グウィンさんに映画の感想を求めました。
これだけはきちんと聞いておかなければと思ったからです。

彼女は短く答えてくれました。
「It is not my book.
It is your film.
It is a good film.」
と。

彼女としては、本当はたくさんおっしゃりたいことが
あったのではないかと思うのですが、
それでも温かい笑顔とともに下さった言葉です。

この短い言葉を素直に、
心から感謝して頂戴したいと、思ったのでした。


 確かに英語によほど堪能でないと、相手が言葉に込めたニュアンスを読み取るのは難しいことだが、これはまた随分とナイーブに受け取ってしまったものだな、と思う。

 その後、お盆の時期を、仕事をしつつ、小学校1年生の甥と遊んで過ごす。好奇心が勝ったエネルギーが有り余っている子供と、一緒に犬の散歩に行き、一緒に工作し、一緒にスイカを食べ、一緒に川で遊び、一緒に温泉に浸かり、一緒に新江ノ島水族館に行き、一緒にモノレールに乗る。

 訳もなく腕を振り回してスキップをする甥と遊んでいると、自分の中で眠っていた感覚が蘇ってくる。

 そうだった、俺も小学生の頃の夏休みはこうだったな。

 ああっ、仕事が終わらない。

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2006.08.16

宣伝:8月18日(金曜日)、新宿・ロフトプラスワンのトークライブ「ロケットまつり12」に出演します

 また告知が遅くなってしまいましたが、今週末金曜日にロフトプラスワン恒例のロケットまつりがあります。ロフトプラスワンには、すでに林さんから、「大きなつづら」が三つも届いているそうです。

 どうやら新発見の秘蔵資料の公開がある模様です。

宇宙作家クラブpresents
「ロケットまつり12」

夏!ロケット祭!

【Guest】林紀幸、垣見恒男
【出演】浅利義遠(漫画家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)、他

場所:ロフトプラスワン(新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2 03-3205-6864、地図)

Open18:30/Start19:30
チケット:1000円(飲食別)

 前回のはやぶさトークライブで、ロフト斎藤さんから「こんなに盛況だと、ローソンチケット予約にする必要があるかも」という話がありましたが、今回は従来通り、当日チケット販売となります。安心してご来場頂ければと思います。

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2006.08.09

ショスタコ第7交響曲を語る——「涼宮ハルヒの憂鬱:射手座の日」上級編

 「時かけ」「ハルヒ」「ゲド」と、アニメの話を続けて書いたらアクセスが急に増えた。
 これも一つの縁であろう、ということで、急遽「涼宮ハルヒの憂鬱:射手座の日」の上級編を書くことにする。

 といっても、実のところアニメとはほとんど関係ない。脳内宇宙艦隊戦シーンに使われているショスタコービッチ「交響曲第7番」第1楽章に存在する宇宙的恐怖にして深淵のような因縁について以下つらつらと述べていこうというわけ。若干ミリタリー風味も入ってくる話題だ。

 本当はもう少しきちんと調べてから書こうと思っていたネタなので、少々調査不足ではあり、一部は記憶に頼っている。事実誤認や新事実が分かり次第訂正を入れていくことになるだろう。
 ショスタコーヴィチのマニアの間では有名な話であるし、色々突っ込みを入れたいところもあるだろう。そのあたりはコメント欄で指摘してもらえるとうれしい。


 「射手座の日」に使われた第7交響曲(1941〜1942)は通称「レニングラード」とも呼ばれる。作曲年代で分かるように、この曲は第二次世界大戦最大級の激戦地であったレニングラード、現在のサンクトペテルブルグと密接な関連を持っている。

 独ソ戦開始時、作曲者ショスタコーヴィチは、レニングラード音楽院で作曲を教えていた。第7交響曲はドイツ軍が迫るレニングラードで、1941年7月から作曲が始まった。ドイツ軍がレニングラードを完全に包囲する前に、ショスタコーヴィチは、当時モスクワの首都機能が移転していたクイビシェフに避難し、そこで全曲は完成した。作曲者によるスケッチのメモによると、最後の第4楽章が完成したのは1941年12月27日。

 レニングラードは1941年8月末からドイツ軍に完全に包囲されており、作曲が終了したこの時、冬将軍が到来した市内は、物資の不足によりまさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 作曲者は、この曲を「レニングラード市」に捧げた。

 初演は1942年3月5日、クイビシェフで行われた。ソ連政府は、世界的に有名な作曲家であるショスタコーヴィチが完成させたこの一見壮大な交響曲を戦意高揚に利用する。複製された楽譜は空輸によってレニングラードに運ばれ、1942年8月9日、包囲下のレニングラードにおいて、レニングラード放送管弦楽団により演奏された。

 オケのメンバーはほとんどが、徴兵され最前線で戦っていた。皆、演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器を持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。
 彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。

 ソ連政府の手により、楽譜はマイクロフィルム化され連合国各国へと渡った。アメリカでは、1942年7月19日、トスカニーニの指揮、NBC交響楽団によって初演が行われた。アメリカはその演奏を、全世界にラジオ中継した。戦意高揚と連合国各国の連帯の強化のために、この曲を利用したのである。


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 と、いうような曲の来歴を頭に入れて、一度ハルヒの「射手座の日」に戻ろう。
 「射手座の日」で使用されるのは第1楽章。まず、コンピ研との戦闘開始にあたってハルヒが演説するシーンで、楽章冒頭の弦とファゴットのユニゾンによる雄大な印象の第一主題が使用される。

 この第1楽章は、非常に変則的なソナタ形式をしている。通常のソナタ形式では中間部は、2つの主題の展開部になる。ところがこの楽章では、展開部の代わりに、そこに全く別のメロディによる「ボレロまがい」が挟まっているのだ。

 この変ホ長調の主題は「戦争の主題」と呼ばれている。

 このメロディが14回ほど繰り返され、繰り返すたびに盛り上がり、最終的に暴力的なまでの音量ですべてを圧倒する。レニングラード市が戦争に巻き込まれる過程というわけだ。

 「射手座の日」では、この繰り返しの部分が使用される
「1600開戦」の部分では、弦楽器が並行和音でメロディを演奏する7回目と8回目の繰り返しが使われる。

 キョンの「どうにもならないんだ」からはオーケストラの全楽器が咆哮する12回目、続いてメロディが大きく変形されて短調で出現する13回目の部分が使われる。いきなり曲調が悲壮な雰囲気に変わる部分に、みくるの「みなさんどこにいっちゃったんですか〜」という悲鳴が重なるあたり、演出効果満点だ。


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 と、まあここまでは、ショスタコーヴィチが生きていた頃の解釈である。

 ところでここで、メロディを覚えている人は、「戦争の主題」を口ずさんでみて欲しい。
 なんだか間抜けな気はしないだろうか。メロディだけ取り出すと、およそ戦争とは思えないぐらいのどかで間抜けで、しかもどこか茶番じみてもいる。これならば、ジョン・ウィリアムズが「スターウォーズ」で書いた戦闘の音楽のほうが、ずっと戦争と言うには似つかわしい。
 そういえば、このメロディ、かつてCMでシュワルツネッガーが、「ちちんぷいぷい」という歌詞を付けて歌っていたではないか。それぐらい、メロディとしては間抜けなのだ。

 この間抜けなメロディが「戦争の主題」とはどういうことなのだろうか。

 実は間抜けなのは主題だけではない。この「ボレロまがい」は、ボレロのように厳格にオーケストレーションだけを変化させるのではなく、繰り返しごとに異なる装飾的な対旋律を伴っている。早い話が「合いの手」が付いているわけ。その合いの手もまた、どこかサーカスじみた茶番っぽい雰囲気を持っているのである。

 はて?


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閑話休題
 1942年に全米にラジオ放送された、第7交響曲の演奏を、アメリカに亡命した一人のハンガリー人の作曲家が聴いていた。

 その名は、バルトーク・ベーラ。ハンガリー人は、「姓・名」の順番で書くので、バルトークが姓である。

 彼は母国ではハンガリー民謡の研究で名前を上げ、民謡と近代的作曲技法とを統合した独自の作風を確立した作曲家として尊敬されていた。
 ところが彼の音楽は、アメリカが受け入れるには晦渋に過ぎた。そしてまた彼の性格もまた、アメリカでうまく立ち回るには実直に過ぎた。ナチスから逃れたアメリカに渡ったものの、ハリウッドを手玉に取ったストラヴィンスキーや、カリフォルニアに作曲の教師の職を見つけたシェーンベルグのようにうまくやることができず、この時期彼は貧乏のどん底にいた。
 しかも彼は、亡命による環境の激変によってか体調を崩しており、あまつさえ精神的には作曲すらできなくなっていた。
 何人かの音楽関係者が、彼を援助しようとしたが、援助を受けるにはバルトークは誇りが高すぎた。難儀な人である。

 そのバルトークは、このショスタコーヴィチの第7交響曲を聴いて怒り狂った。「なんという不真面目な曲だ」と。このことは、彼の息子のピーターが記録している。

 さあ、バルトークはこの曲の何を「不真面目だ」と怒ったのだろうか?


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 この時、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーが、なんとかしてバルトークに生活費を渡そうとしていた。裕福な女性と結婚していた彼は、妻の財産を使ってクーセヴィツキー財団を設立し、様々な作曲家に新作を依頼し、自ら初演していた。
 誇り高いバルトークが生活費を受け取らないであろうことを知ったクーセヴィツキーは、代わってバルトークに「自分のためにオーケストラのための曲を書いて欲しい」と依頼した。それが、渡米以来萎えていたバルトークの創作意欲に火を付けた。

 かくしてバルトーク晩年の傑作、オーケストラの各楽器が縦横無尽に活躍する「管弦楽のための協奏曲」が生まれた。

 全5楽章からなる「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章は「中断された間奏曲」という題名を持つ。ここで、ショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章の、あの「戦争の主題」後半が引用される。上から下へと音符が下がってくる部分だ。

 引用されたメロディの繰り返しが、木管楽器による人間の笑いを模擬したようなフレーズで3回中断される。「中断された間奏曲」という題名の由来だ。
 同時にバルトークのショスタコーヴィチに対する「不真面目だ!」という意思表示でもあるのだろう。


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 では、ショスタコーヴィチは、何が不真面目だったのか。私の記憶ではこれを指摘したのは日本の作曲家、柴田南雄だった。

 実は、「戦争の主題」の後半には元ネタがあった。ウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの代表作「メリー・ウィドウ」(1905)だ。

 「メリー・ウィドウ」は、「会議は踊れど進まず」で有名な1814年のウィーン会議を舞台にした恋のさやあての物語だ。ご存知、ナポレオン後のヨーロッパの勢力図を確定しようと各国が角突き合いをしたあげく、ナポレオンのエルバ島脱出でお流れになった会議である。

 ショスタコーヴィチが引用したのは、登場人物の一人、ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵が酒場に繰り出すところで歌う歌。そして、ショスタコーヴィチが引用したまさにその部分の歌詞は「彼女ら(松浦注:酒場の女達)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というものだったのである!

 おいおい、これはどういうことか。レニングラード市に捧げられた交響曲の「戦争の主題」が、「女で祖国を忘れよう」というのは一体何なのだろうか。バルトークが不真面目と怒った理由も分かろうというものだ。

 皮肉なことに、ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、バルトークがそれに怒って「管弦楽のための協奏曲」を書いたその時期、老いたレハールはナチスの庇護を受けていた。しかもユダヤ人の妻と共に。
 ヒトラーが「メリー・ウィドウ」が大好きだったという理由からだった。それ故、戦争終結後、レハール自体は一切政治的な動きをしていなかったにもかかわらず「戦争協力者」と非難されることになる。


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 ここで最大の問題は、なぜショスタコーヴィチは、本当に「メリー・ウィドウ」を引用したのか。そして、引用するとしたらその意図は何だったのかということだろう。

 実はショスタコーヴィチには、そのような引用を行う動機が十分にあった。彼は向かうところ敵なしの天才児としてスタートしたが、芸術をも統制しようとするソ連共産党によって1936年、プラウダ紙面で非難されたことがあった。
 スターリンが密告を奨励し、派手に粛正を繰り広げた時期、彼はこともあろうに共産党の機関紙の紙面で批判されたのだ。その恐怖はいかばかりだったろうか。彼は、彼の庇護者でもあった陸軍のトハチェフスキイ元帥に相談したのだが、翌1937年には、そのトハチェフスキイが、スターリンによって粛正されてしまうのである。

 プラウダによる批判以降、ショスタコーヴィチの音楽は変化した。生き延びるために「明るく健全で分かりやすい」という社会主義リアリズム方針に従った。
 彼の巨大な才能を持ってすれば、その路線ですら傑作を書くことが可能だった。そうして有名な第5交響曲が生み出された。
 彼は第二次世界大戦後、もう一度批判されるが、そのときはスターリンへのおべんちゃらに満ちたカンタータ「森の歌」を書いて生き延びた。歌詞はどうしようもないが、音楽は間違いなく傑作だった。

 その一方で、自由に作曲できない環境の中、彼は鬱屈し、屈折していった。彼は自分の音楽に謎めいた仕掛けをするようになる。奇妙に音楽の流れを断ち切るような音名象徴、それとは分からないような引用など。
 音楽は言葉と異なり、それ自身で確定した意味を持たない。いかようにでも解釈できる。有名なロッシーニの「ウィリアムテル」序曲は、アメリカ西部の騎兵隊の映像にもマッチするし、蒸気機関車の疾走にも、あるいは「スターウォーズ」のクライマックスで共和国軍を助けに駆けつけるハン・ソロとミレニアム・ファルコン号の映像にもぴったりだろう。
 その音楽の特質を生かし、ショスタコーヴィチは音楽の中に自分の真意をひそかに埋め込むようになっていった。


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 そう、ショスタコーヴィチが「戦争の主題」に込めたのは、反祖国的なもの、即ちスターリンによる粛正ではなかったのか。そう考えるとすべてが符合する。どこかおちゃらけた旋律が、サーカスのような対旋律を伴ってどんどん威圧的になっていく過程は、まさにスターリンの治世そのものでないか。
 すなわち、ショスタコーヴィチは、ナチスと戦う祖国の英雄を称える交響曲を書くと見せかけて、実はスターリンに対してあかんべえをかませていたということになるのだ!


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 ショスタコーヴィチの「音楽の暗号」は、彼の死後の1982年、西側で出版された衝撃的な「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編)で一躍表に飛び出た。回想録にはそれまで公式発言で形成されたいた西側のショスタコーヴィチ像とは全く異なる、彼があった。公式発言とは異なる、人間的に納得できるショスタコーヴィチがそこにいた。


 これで、めでたしめでたし。謎は解けたぜ、で終わればいいのだが…

 音楽の暗号は、数理的な暗号と異なり読み手がある意図を持っていなければ読み出せない。その意味では、ノストラダムスの予言とよく似ている。
 ということは、常に「それはショスタコーヴィチの真意か。深読みしすぎじゃないか」という問題がつきまとうことになる。戦争の主題が「メリー・ウィドウ」の引用って本当か?他人のそら似で、深読みしすぎじゃないか、というように。

 実際、現在では「証言」は「編者」ヴォルコフが、ショスタコーヴィチ周辺でプライベートに話されていたことや、ショスタコーヴィチが書いた文章を適当につなぎ合わせたものじゃないかという意見が優勢になっている。その証拠に、「証言」には、ショスタコーヴィチが死後に残した最大の爆弾が記載されていない。

 彼はスターリン時代に、スターリンをはじめとしたソ連政治を思い切り皮肉ったカンタータ「反形式主義的ラヨーク」を密かに書いていた。「証言」にはこの曲についての記述が一切ない。「反形式主義的ラヨーク」の存在を、本当に親しい人は皆知っていたが決して口には出さなかった。これが出てこないということは、「証言」は大して親しいわけでもないヴォルコフのでっちあげということだ、というわけである。


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 だが、私には、そういった混乱すら、実はショスタコーヴィチが意図したものじゃないかという気がする。

 ヴォルコフが西側の出版社に持ち込んだタイプ原稿にはショスタコーヴィチ自身のサインがしてあったという。

 私は想像してしまう。ソ連からの亡命を企てた若きヴォルコフが、西側へのみやげとして、ショスタコーヴィチの回想録をでっちあげるべく取材を開始する。それに気が付いたショスタコーヴィチは、ヴォルコフを呼びつける。おびえるヴォルコフに対して、老いたショスタコーヴィチは何も言わずに、彼の原稿にサインをいれる、というような鬼気迫る光景を。


 さて、長々とした話はこれでおしまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」から始まって、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。

 まあ、「射手座の日」でなにげなく使われた、そして、かつてシュワルツネッガーがCMで「ちちんぷいぷい」と歌ったメロディには、これだけの因縁がまとわりついていて、暗い暗い深淵が口をぽっかりと開けているのだ、ということで。


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 バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、色々な録音を聴いたけれど、このライナー指揮シカゴフィルの古い演奏が、やはり一番いい。歴史的名演だ。

 オーケストラの各楽器が、あたかもソリストのように縦横無尽に活躍する、エネルギッシュかつスタイリッシュな曲だ。第1楽章の途中、3本のトランペットと3本のトロンボーンがいきなり6声のカノンを演奏するあたりなど、背筋にぞくっと来るぐらい格好良い。




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 酸鼻を極めたレニングラード攻防戦の概要を知るには、このソールズベリーによるノンフィクションをお薦めする。長らく入手不可能だったが、最近再刊された。高いとかいわずに、買うべし。

 レニングラードの指導者だったジダーノフは、スターリンにとって目の上のタンコブ的存在だった。スターリンは、ジダーノフを消すために半ば意図的にレニングラードを見捨てたのである。その結果、市民は地獄を見ることになった。

 スターリンの意図に反し、ジダーノフは包囲戦を生き抜き、ナチス・ドイツを打ち破って、ソ連共産党における地位を固める。そして、戦後ジダーノフは、ショスタコーヴィチに対してさらなる個人攻撃を仕掛けることになるのだ。



 偽書だという説が優勢になっているものの、この「証言」が西側に出てきたときのショックは巨大だった。今後ともショスタコーヴィチの受容史を語るには欠かせない文献といえるのではないだろうか。
 最近はかなりショスタコーヴィチの研究も進んでいるようだが、私がフォローできていない。なにか良い本が出ているようならば、是非とも教えてほしい。


 ショスタコーヴィチ趣味の行き着く果て、ということで遺作の「ヴィオラソナタ」をリンクしておく。間違っても素人はこれを買ってはいけない。
 晩年に向かうにつれ、ショスタコーヴィチの音楽は鬱屈し、内省的で暗いものになっていった。その到達点が、死の直前に完成したこのヴィオラソナタだ。
 マーラーの後期交響曲を暗いと感じる人は多いだろうが、これはそれどころじゃない。おそらく、人類が手にした最も暗い、ブラックホールのような音楽である。
 にもかかわらず、この曲は、あたかもホーキング輻射のように光を放っている。恐ろしいまでに高貴で、気高く、そして真っ黒な絶望に彩られている。この曲と比べることができるのは、ゴヤが晩年に描いた一連の「黒の絵画」だけだろう。
 ショスタコ19歳のはつらつとした第1交響曲を考え合わせると、社会主義というのはいったい何だったんだろうかと考えざるを得ない。

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2006.08.08

映画のマーケティングを考える

 「時をかける少女」「ゲド戦記」「涼宮ハルヒの憂鬱」と、アニメ系の記事を3つ書いたら、あちこちでリンクされてアクセスが集まった。
 そこでリンク解析を使って、リンク元を辿っていったら、こんな記事にぶつかった。


「亀田」と「時かけ」—メディアの煽動力がネットに圧される時代(デジモノに埋もれる日々 2006.8.6)
『ゲド戦記』が不評のようなのに商売人根性が炸裂し興行成績は優秀な件についての考察
(切込隊長BLOG(ブログ)~俺様キングダム~ 2006.8.7)

 結論は正反対だが、共にメディアが圧倒的な宣伝によって映画なりボクサーなりを売り出して利益を上げることに対する違和感が表明され、それに対してネットによるコミュニケーションがどのように影響するかを考察している。

 マーケティングを専門に勉強したわけではないので、このような手法が、歴史的にどのように立ち現れてきたか、私は不案内だ。ゲッベルスがヒットラーとナチスを売り出していったというあたりだろうか。新聞や映画、ラジオなどのマスメディアを使って刺激の強い情報を繰り返し流し続けるという手法だ。

 映画に関して言えば、これは間違いなく1970年代半ばに角川映画が、文庫本と連動して行ったマーケティングが最初だ。過去の人になりかけていた横溝正史を引っ張り出し、刺激的な宣伝で本も映画も売りまくった。

 あの当時でも、角川の宣伝手法には不信感は存在した。映画「野生の証明」の宣伝コピー「父さん、怖いよ。みんなで父さんを殺しに来るよ」をもじった、「父さん、くどいよ。宣伝で駄作を売りに来るよ」(正確なところは、記憶が曖昧になっている。検索をかけたが見つからなかった)というパロディがあったぐらいだから。
 しかし、あの時の角川は、「通常のメディアのプログラムに、宣伝的メッセージを意図的に挟み込む」ということはしていなかった。そして角川映画には駄作も多かったが、間違いなく傑作も存在した。

 その意味では、当時の角川映画は今よりもずっとましだった。

 さて、現在はといえば、「新聞や映画、ラジオなどのマスメディアを使って刺激の強い情報を繰り返し流し続ける」という、ゲッベルス以来の手法に加えて、「メディアに出資させて利害関係を作り、一見宣伝とは思えないフレームワークに宣伝的情報を挟み込む」という手法が、派手に使われている。

 ボクシングの亀田兄弟をニュースで取り上げるのも、「ゲド戦記」の制作発表やら興行収入をニュースで流すのも、NHKが来年の大河ドラマの配役決定をニュースで報じるのも、メディアが出資による利害に連なっているなら、それは一見公正中立なニュース情報という形を装った宣伝に他ならない。メディアは、聴衆を騙していると言える。

 特にテレビやラジオは、公共財である電波帯域を、免許によって私的に占有しているということを考え合わせると、このマーケティングは日本国民に対する背信行為とさえ言える。

 このような仕掛けを、電通、博報堂のような巨大広告会社が大々的に仕掛けると、利用するメディアも横断的になる。多分、ではあるが、韓流ブームというのもそうやって作られたものだったんだろう。

 それで、売るモノが、それなりに意味のあるものならまだしも、人格未熟にして技量不足のボクサーだったり、二世が作った生煮えプライベートフィルムだったりとなると、これは正当な商行為というよりも、かなり詐欺に近づいた事業となる。

 私は、素朴に、「それではいけない」と思っている。「ゲド戦記」は、星一つというほどひどい映画ではないが、それでも「時をかける少女」よりも高い興行成績を上げてはいけない。

 そう、はっきり「いけない」と言い切ってしまおう。

 なぜなら、「駄作でも宣伝で売れる」という例を、さらに一つ積み上げてしまうから。そうなると、製作会社もメディアも広告会社も、それでいいのだと思ってしまう。
 結果、我々はまた宣伝でじゃぶじゃぶになった駄作を観せられることになる。人生の時間を浪費させられるのだ。

 単純に私はいいものを享受したいのだ。私は、大手広告会社の意のままにお金を引き出せる、便利な財布ではない。駄作を観せられて、「でも、テレビのニュースであんなに言っているから良いものだったに違いない」と自己欺瞞に陥るのはご免こうむる。

 ネットによる情報の双方向性が、メディアを駆使した大規模マーケティングをひっくりかえすだけの可能性があるのかどうか。

 7/29の週は一位だったという「ゲド戦記」の興行収入が表しているのは、まだまだこのような広域かつ暴力的マーケティングは健在だということだ。

 だが、それをもって、「やはりネットの影響力は限られている」と考える必要もないはずだ。取りあえずボクシングの亀田・ランダエダ戦では、興行にまつわる不透明な闇の世界の存在が、放送直後にあっさりとネットを駆け回った(今、気が付いたけれどもTBSの放送免許剥奪を求める陳情なんてものも、ネットでは始まっているのだね)。
 これは今までになかった現象だろう。

 少しずつでも良い方向に変化していく、と私は思いたい。

 ところで、立て続けに映画館に通ったものだから、妙に映画づいてしまった。次に観たいなと思っているのは、ソクーロフ監督の「太陽」だ。
 だって、イッセー尾形の昭和天皇に、桃井かおりの香淳皇后、とどめは佐野史郎の侍従長(Wikipediaを見ると、時期的に藤田尚徳侍従長)ですぜ。この顔ぶれで、ロシア人監督が昭和天皇を撮る、というだけで、ゲドも時かけも沈没も吹き飛ぶ、今年最大の話題作になってしかるべきだと思うのだけれども。

 え、文芸映画だって?
 だってマーケティングに内容は関係ないんじゃないの??

 なんで、電通も博報堂も、メディアを巻き込んでマーケティングしないのだろうね(やや棒読み調)。


#おまけ
 おおっ、ポチは見た!更新しているぞ。今回のテーマはネコタ自動車の欠陥隠蔽問題。

 そのネコタ自動車ですが、こんなニュースも流れている。NHKの今後の報道態度は要注目だ。

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2006.08.07

宣伝:笹本祐一さんの「宇宙へのパスポート3」が8月5日に発売されました

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 JAXA発足後の種子島や内之浦、最後のアリアンⅣ、再開スペースシャトル、ロシアのプレセツクと打ち上げ最前線を駆け巡った取材日記第3弾。松浦晋也が世界の宇宙開発事情を解説する。

 「宇宙へのパスポート」(2001)、「同2」(2003)に続く、笹本祐一さんのロケット打ち上げ取材日記第三弾です。私は、「世界の宇宙開発」という題目で解説を書きました。アマゾンでは、私の名前で検索すると、この本も出てきます。

 笹本さんは、自覚的なミーハーとして、ロケットの取材を始めた、と思うのですが、取材回数を重ねるごとに、彼の身も蓋もないほどストレートな性格と感性は、宇宙開発という人類最先端の事業にべっとりとまとわりつく暗い「人の世の事情」を、直視していくようになりました。
 とにかく勘の良い男なので、大抵の美辞麗句、大言壮語、組織的言いつくろいはあっさりと見透かしやがります。しかも、しがらみもないので、見たまま感じたままを書きます。

 私自身は本文中に登場する当事者でもあるので、読んでいると色々思い出します。

 種子島からの帰りのフェリーで、「なあ、H-IIAって実は駄目なんじゃないか」と言った彼の顔とか。

 スペースシャトル取材でケネディ宇宙センターの打ち上げ延期記者会見に出席後、「なんだ、あのずらーと並んだ政治家は。こういう時はまず技術の人間が出てくるもんだろう」と言った私に、「来年の予算のためにそろそろシャトルを上げとかんとまずい時期だしのー」と喝破した口ぶりとか。

 小惑星探査機「はやぶさ」の小惑星イトカワ着陸の取材で、興奮した彼が「俺たちは今、日本の宇宙探査の黄金時代を観ている!」と口走ったときの表情とか。
 これには私が「今を黄金時代にしちゃいけないんだ。これは始まりなんだから」と応じたのですが。

 本書は、立場とか思惑を離れた、現時点でもっとも正直かつ率直な、宇宙開発最前線のレポートになっていると思います。

 よろしくお願いいたします。

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2006.08.06

広島に黙祷する

 今年は広島に行ったこともあり、朝から広島の原爆の日式典をテレビで観ている。61年前の今日、午前8時15分、アインシュタインの手紙に始まり、アメリカが科学と財力の限りを尽くして完成させた原子爆弾が、トルーマン大統領の指示の元、ティベッツ機長率いるボーイングB29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって、広島に投下された。

 かくして現出した地獄絵図の余波は、今も続いている。

 式典の音楽や、広島市長のあいさつなど、色々感じるところはあれど、今日は私も黙祷する。

 もちろん、「過ちを繰り返さないのは誰だ?」と考えつつ。

 式典に関して一つだけ言うと、そろそろ誰か有能な作曲家が式典用の実用音楽としての鎮魂音楽をもう一度作曲すべき時期ではないだろうか。
 コンサート用音楽としては、ペンデレツキの「広島の犠牲に捧げる哀歌」(これは作曲後に後から付けた題名で、曲と広島には内的関連は一切ないだそうだが)があり、大木正夫の「カンタータ 人間を返せ」「交響曲5番」があり、もっと若い世代では細川俊夫「ヒロシマ・レクイエム」があるが、どれも式典で使える音楽ではない。
 真の式典用音楽の作曲は、己の主張を押し出せばいいコンサート用音楽よりもずっと難しい。そろそろ、今後100年200年のために、誰かが新たに曲を書いていい時期に来ていると思うのだが。

 私見を述べるなら、2発の原爆投下について、アメリカ、特にトルーマン大統領は人道に関し、真っ黒の有罪であると思う。そこに至るまでの大日本帝国指導部の政策的な稚拙さと甘さもさりながら、爆弾一発の放射線と熱線で、赤ん坊から老人に至るまでの非戦闘員を10万人単位で焼き殺し、生き延びた人にその後60年以上も続く後遺症を残したということが、人道に対して有罪でないと考えるほうがおかしい。

 免罪があるとするなら、原子爆弾がそれほどのものだと、完成するまで誰も、それこそ開発に携わった科学者らですら、思いもしなかったということの一点のみだろう。人間の想像力は悲しいほど限定されている。

 ハリー・トルーマンという一人の人間の行為から学ぶことがあるとするなら、「自分が同じ立場に置かれたらどうするか」をよくよく考えることしかないだろう。
 自分の国の若者は、今日も星条旗の下、太平洋の戦場で死につつある。なにやらソ連では先代の大統領が結んだ密約に基づいて、スターリンが戦後地図を睨んで兵を動かしそうな雰囲気だ。そして手中には決定的かつ最終的解決をもたらしてくれそうな強力な爆弾が2発。
 この状況で、現在交戦中の敵国の一地方、見たこともない知らない土地に住む、人種も違う、赤ん坊から老人に至るまでの人々の日々の生活に、あなたなら思いを致すことができるだろうか。
 それが、想像力を持つということなのだ。

 広島と原爆を巡るCDを2枚紹介する。最初は芥川也寸志がただ一曲だけ残したオペラ「ヒロシマのオルフェ」。1960年に「暗い鏡」という題名で初演され、その後の改訂を経て1967年に「ヒロシマのオルフェ」という名前の決定版となった。
 脚本は大江健三郎。顔にケロイドを持つ若者が、娼婦から不思議な鏡を受け取り、鏡に映る己の姿を通じて希望と絶望を経験するという象徴的なストーリーだ。
 音楽は芥川特有の切れの良さと、表現主義的な暗さが見事にマッチした傑作である。
 音楽では、全体のバランスを取るためにどこかに明るい部分があったほうが良いが、原爆を題材にすると、明るい曲調を埋め込むことが極端に難しくなる。芥川も非常に苦労したようで改訂にあたっては全曲中唯一明るい曲調の第3幕「未来の夢、春の花、光の子供達」を全面的に書き直している。

 

 広島で被爆した詩人原民喜の詩に、林光が曲を付けた混声合唱曲「原爆小景」。1曲目の「水ヲ下サイ」は1958年に発表され、高い評価を受けたが、作曲者はその後をどうしても書き継ぐことができなかった。当初構想では、この後に「永遠のみどり」を書いて2曲で完結することになっていたが、どうしても書けなかったのだという。想像するに、林もまた芥川と同様に、明るい曲調を書きあぐねたのではないだろうか。
 結局、14年後の1971年になってより激越な曲調の第2曲「日ノ暮レチカク」と第3曲「夜」が書き足され、最後の「永遠のみどり」を書いて全曲が完結したのは、実に第1曲から44年を経た2001年になってからのことだった。
 林光へのインタビューによると、作曲にあたっては岩城宏之の要請があったそうだ。これもまた、岩城宏之という希代のキャラクターがあって、この世に生まれた曲なのである。
 背筋を伸ばして聴くしかない、林光一世一代、一期一会の作だと思う。

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2006.08.04

「涼宮ハルヒの憂鬱」を楽しむ

 またまたアニメの話。

 仕事でぎちぎちになっている間、「涼宮ハルヒの憂鬱」を楽しみにしていた。

 実際、良くできたアニメだった。絵やストーリーや演出といった単体が、というわけではなく、すべてが良くできていた。アニメの次週を楽しみにしたのは、「エヴァンゲリオン」以来だろうか。「ターンAガンダム」と「キングゲイナー」は、思わずレンタルショップで次々と借りてしまったが、放送中に気が付いて、次回が楽しみだったのは、本当にエヴァ以来だ。

 検索をかければ「ハルヒ」に関して熱く語っているページはいくらでも見つかるので、ここでは、「現状でもこれだけのことができることが証明された」ということを指摘しておきたい。金の回らなさに代表される、アニメ業界の駄目っぷりは、あちこちで指摘されているが、「ハルヒ」はその駄目な状況の中でもこれだけのことをできる、と示したといえるのではないか。

 これは、「ハルヒ」以下のアニメを乱発しているところ、テレビ局からアニメプロダクションに至るまで——は、なにかやり方を間違っているか、無能であるかのどちらかである、ということでもある。

 ネットを見ていくと、「京都アニメーションは神」というような記事が目立つのだけれど、逆に言えば京都アニメーション以外のアニメプロダクションは、すべて経営が稚拙で、その結果駄作を連発しているという可能性もあるのではないだろうか。

 今後、色々な意味で、「ハルヒ」がアニメーションのクオリティの基準になればいいと思う。ハルヒ以上のものが作れないということが無能の証明になれば、淘汰も進むだろう。結果として日本のアニメーションの底上げになれば、我々はそれだけ次週を楽しみにできるということだ。

 「ハルヒ」で、楽しみだったのは、音の演出が非常にうまかったこと。長門有希がうなずくところで、かすかに衣擦れと喉の音らしきものが入っているのは気が付いたろうか。音の演出の頂点が「射手座の日」と「涼宮ハルヒの憂鬱VI」におけるクラシック音楽の使用にある、と私は思う。

 例えば「エヴァンゲリオン」におけるベートーベンの第九とヘンデルの「メサイアコーラス」の使用は、「誰もがよく知っているクラシック音楽の使用」に留まっていた。その証拠に、よく知っている部分を頭から流していたのだ。

 一方「ハルヒ」におけるクラシックの使用には、明らかに「この部分をこのように使用すれば盛り上がる」という演出上の意図が存在した。お見事である。

 「射手座の日」冒頭は、モーリス・ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」の夜明けの音楽。バーンスタインが、「青少年のための音楽入門」だったか「答えのない質問」だったかで、「音符が一杯」と形容した音楽だ。
 朝の音楽で、大抵の人が思い出すのが、グリークの「ペールギュント」における「夜明け」だろう。だが、ラヴェルの夜明けの音楽は精緻かつ構成的で、素朴なグリークの音楽をあっさりと凌駕していると思う。ここでは、かつてラヴェルのスペシャリストと謳われたアンドレ・クリュイタンス指揮の演奏を推薦する。


 「射手座の日」の脳内宇宙艦隊戦が、先行するアニメ「銀河英雄伝説」それもOVA版のパロディであることは明白。「銀英伝」ではラヴェルの「ボレロ」を使っていたが、その「ボレロ」をパクったショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章をもってくるあたり、「良く分かっている」と思う。それも、きちんと「ここをこう使えば盛り上がる」というところをうまく使っているのは素晴らしい。
 この「ボレロ」まがいについては、20世紀初頭に活躍し、第二次世界大戦当時はナチスの庇護を受けていたオペレッタ作家レハール、ショスタコーヴィチ、そしてアメリカに避難していたハンガリーの作曲家バルトークの三人を巡る因縁が存在する。因縁については、また別項で書こうかと思う。
 演奏は、かつてのスタンダードであったムラヴィンスキー、レニングラードフィルによるものをリンクした。ショスタコーヴィチ自身はムラヴィンスキーの演奏を「何も分かっちゃいない」と感じていたようなのではあるが。


 チャイコフスキーでおおかたの人が思い浮かべるのは「白鳥の湖」のあのメロディだろうが、私思うに、あのメロディはチャイコフスキーとしては駄作だ。分かりやすいというだけ。
 チャイコフスキーの特長は、なによりも「格好良さ」にあると思う。それこそ粋がっているヒップホップ系のガキがひっくり返るほどに、チャイコフスキーの繰り出すメロディは格好良い。  中でも4番から6番までの交響曲3曲は、どこを切っても格好良いという点で、音楽史上空前絶後だ。
 「射手座の日」、長門有希による逆襲に使われるのは、交響曲4番第4楽章のラスト、コーダの部分。長門有希がうなずいて、リターンキーを押す、その瞬間に冒頭主題が鳴り出すのは、実に気分が良い。
 誰が演奏しても盛り上がる曲なので、ここでのお薦めはシャルル・デュトワ指揮のNHK交響楽団。同時カップリングが武満徹のヴァイオリン協奏曲「遠い呼び声の彼方へ」であるところもポイントが高い。


 元々、ロマン派音楽は、セカイ系そのものだよな、と思っていたら、そのセカイ系を思い切りひねった「ハルヒ」に、ロマン派的誇大妄想の頂点であるマーラーの交響曲8番を持ってくるとは——「分かっているじゃないか」としか言いようがない。
 「涼宮ハルヒの憂鬱VI」使われているのは、第1部と第2部からなる曲の、第1部、展開部終盤から再現部にかけて。派手に転調を繰り返してきた音楽が、主調である変ホ長調の主和音上に戻り、がーんと「Veni, creator spiritus(来たれ、創造主たる聖霊よ)」と歌う部分が、キョンとハルヒのキスシーンに重なる。おそらく音楽の演出をやった者は、「してやったり」と笑っているはずだ。それぐらい、音楽と映像がリンクしている。
 演奏は、最初の一枚にはどれがいいか、ということで、安くて聴きやすい小澤征爾・ボストンフィルの演奏を。


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2006.08.03

「ゲド戦記」を観る

 またアニメの話。

 Yahoo!ムービーの評価を見て、興味を押さえられなくなり、8月1日の映画の日、「ゲド戦記」を観てきた。

 世襲の監督起用、因縁ある細田監督とのバッティング、ネット上の駄作評価と、思い切り投資した日本テレビのプッシュの温度差——話題には事欠かない。「この夏一番の問題作」というのは間違いないところ。

 醜聞でしょでしょ、ホントか嘘か分からぬ評判
 夢があるからジブリだけども 誰のためやら

 と、「涼宮ハルヒの憂鬱」オープニング替え歌を口ずさみつつ、独身中年男一匹、アニメ映画を見に行くのである(なんだかなあ)。

 色々情報を仕入れておいたので、心理的に武装して椅子に座る。周囲は「やっぱカーズみようよー」とかいう彼女をなだめている彼氏だとか、「きゃっきゃ」と喜んでいる子供2人を連れてきているおとうさんだとか、惨劇の予感十分。

 で、感想だが、私ならYahoo!ムービーの評価で星2つを付ける。たしかに駄作。だが、これよりひどい映画というのも世の中には存在する。

 初監督としては、意外なぐらいしっかりできていた。本当の素人がやると、もっとでたらめになるものだ。
 脚本は何やっているのか分からないほど不親切だが、内的な構造ががっちりしているので脳内補完は容易。起承転結はあるし、最後はまあまあ盛り上がる。「一応の筋が通っている(と解釈できる)」というだけでも、もう少し点を上げてもいいかも知れない。これが出来ていない脚本がいかに多いことか。

 「猫の恩返し」や「ギブリーズ」に比べればずっと良い。これらは経験を積んだアニメスタッフが制作したということを考えれば、宮崎吾朗監督は大健闘したと評価してもいいだろう。

 でも、「夏の楽しいジブリアニメ」を期待して観に来た客は怒ると思う。期待を思い切り裏切っているから。

 「ゲド戦記」は、宮崎吾朗監督が、自らと父との葛藤を投影したプライベートフィルムだ。しかも、一般的な父子像に昇華し切っていない、金のかかった生煮えプライベートフィルム。
 その意味では、せいぜい100人ぐらいの劇場単館でかけるべき内容といえる。「生煮えなところもまた、味わい深くて面白い」と観賞するような、美食が過ぎてゲテモノ食いに走ったような客向けの作品なのである。

 夏休みのジブリ大作に、多くの人はプライベートフィルムなんて期待していないのだ(「映画版エヴァンゲリオン」ぐらい突き抜ければ、それはそれで素晴らしかったろうが)。

 父親の作品からの借り物と、あえて省いたものを考えると、陰影に富んだ父子像が見えてくる。なんてといっても作中で2回も父親殺しもどきをやっているし。冒頭のアレンの父、と、ネタバレっぽいが、クライマックス前にはアレンがハイタカ(ゲド)を殺そうとする。後者は未遂だし、前者も私の見る限り未遂。あの父王はせいぜい軽傷だろう(殺るなら、ざっくりやらんかい !) 。

 演出面では、駿監督が必ず映画に入れ込んでくる「観客を気持ちよくさせる要素」を狙ったように省いている。
 例えば善人の隣人(でてくる隣人は悪人のみ)とか、人間くさい悪人とか(悪人には全く感情移入できない)、楽しい食事シーンとか(飯はすごくまずそう)。

 それが吾朗監督の自己主張なのだろう。父にむかって、ぎりぎりの危機で助けてくれる親方一家(ラピュタ)や、悪人ぶって悪人になりきれないクロトワ(ナウシカ)や、洞窟内の不安な状況で美味しそうに目玉焼きサンドを食べるシータ(ラピュタ)は、嘘だといいたいわけだ。

 だが監督は、映画で「自分が正しいと信じる現実」を描いて客を喜ばせることができるのか、そんなものをみて楽しいのか、とか、それを描くことで観客に何を与えることができるのかというところには思いが及んでいない。
 自分の内面を表現する意欲が先行して、それを一般にプレゼンテーションした場合に何が起こるかまでを計算できていない。
 それが許されるのはプライベートフィルムのみだ。商業映画ならば、観客の反応まで考慮して作品を仕上げなくてはいけないはずなのだ。

 嫌な現実を説得力を持って描く能力は、父親以上にあるようだ。もう少し強烈だとかつての新藤兼人映画みたいな境地に達することができるのだろう。

 私としては、スタニスワフ・レムの「エデン」とか「砂漠の惑星」、ストルガッキー兄弟の「収容所惑星」といった、深い思索と憂鬱が合体した旧共産圏のSFをアニメ化すると、力を発揮してくれるかも、と感じた。
 なんにせよ、宮崎吾朗監督は、もっと小規模な作品のサブで経験を積むことが必要だろう。

 監督父子の葛藤とか、ジブリの行く末、アニメビジネスの将来などについて考察してみたい人には、観に行くようお薦めする。あれこれ語る素材としては、良くできている。

 それ以外の人は、同じ入場料で、「時をかける少女」に行くべきと、私は判断する。


 さて、Yahoo!ムービーの映画評だが、7月29日の封切り直後に、急に五つ星評価が増えた。しかも狙ったように同日にYahoo!に登録したアカウントで、だ。
 これは、興行側のサクラがマルチアカウントで書き込んでいるに違いない、と指摘されると、30日になって五つ星評価の人の登録日時が急にばらけた。ところが、今度はなぜか今年の3月後半あたりの登録がやたらと多い。春休みロードショーでサクラ書き込みをした面子に声がかかったと解釈できる現象だ。

 果たして本当に興行側が、評価の誘導を行ったかどうかは分からないが、一つ一つ読んでいくと文体の癖がそっくりの書き込みが見つかることから、意図的にマルチアカウントを駆使して多数の五つ星評価を書き込んでいる者が複数存在するようだ(文章を変えても、改行の癖や、…を・・・と書くといった特徴は残っている)。

 何があったにせよ、マルチアカウントは、映画そのものの評価を貶める行為だろう。書き込みを続けている者は、ネット社会における公正のあり方を考え直したほうがいいと思う。

 私が読んだ中で出色だったのはこれ。もちろんYahoo!アカウント登録は書き込み当日だ。なるほど、ホラー映画ねえ。

 「実は駄作と分かっている映画の宣伝部員が業務の一環でサクラを命じられ、ほめ殺しで鬱憤晴らし」などとあらぬ妄想をしたくなる内容なのだが、本当はどうなんだろうね。

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