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2006.11.11

名優の死から出世を考える

 名優ジャック・パランス死去の報を聞く。享年87歳。

J・パランス氏が死去=悪役で鳴らす: Yahooニュース

 私のお気に入り俳優の一人だった。いかつい顔にアクの強い演技がなんとも好きだった。訃報では、やはりというべきか、「シェーン」でのちらっと見るのすら怖いような敵役が取り上げられている。

 が、私にとっての一番は「攻撃」(1956年、ロバート・アルドリッチ監督)だ。

 J・パランス演じる小隊長は、アホタレ中隊長の下手くそ戦闘指揮で、部隊が全滅してしまう。ところがアホ中隊長はええところのボンボンで、誰も責任を追及しようとしない。死んだ部下に復讐を誓い、小隊長は上官を殺すべく最前線から司令部へと向かう——とまあ、全編怒りと執念とがぎとぎとに輝いている素晴らしい映画である。復讐鬼と化した小隊長を演ずるパランスは、まさにはまり役。生身で戦車と戦い、「神よ、力を」と唱えつつターミネーターのごとくきりきりと迫る様は、実に見応えがあった。

 フィルモグラフィを見ると、ごく最近まで元気に映画に出演していたのだな。シェーンで共演したアラン・ラッドはその後鳴かず飛ばずだったことを考えると、幸せな人生だったのだろう。合掌。

 話変わって。

 過去、記者会見で「この人ってダメな人じゃないか」と壇上の人物をまじまじと観察することが何度もあった。
 もう書いてもいいだろうから書くけれども、1990年代前半、ソニーに押されっぱなしだった頃の松下グループなどは、時折「こんな人が偉くなっていていいの?」と記者としていいたくなるような人物が記者会見に出てきたりしたものだ。その後の松下の盛り返しを見ると、困ったちゃんは一掃されたのだろう。とてもいいことだ。

 実際、アホタレが偉くなると周りは大きな迷惑を被る。これが天下りで転がり込んできた人物ともなると、下々のやる気もなくさせるわけで、一石二鳥の反対ということになる。
 自分の能力の限界を自覚して、自重してくればまだしも、困った人は往々にして「俺って優秀」と錯覚しているので、やらんでもいいことをして傷口を広げるということまでする。おお、一石三鳥の逆だ。

 憎まれっ子世にはばかるというのは真理であり、世の中にはこんな困った天下りにすり寄るスネ夫体質な人もいたりする。

 そして、多くの場合、困った天下りちゃんは「俺って優秀」という錯覚のまま、多額の退職金を受け取って退職していくのだ。後には「割り増し払っても良いからもっと早くいなくなって欲しかった」という嘆きが残る。

 ちなみに、某官庁から某独立行政法人幹部へ天下りしたケースの話。
 私は霞が関現役から、その天下り氏の官庁時代の愚行をあれこれ聞いた上、「彼を批判する記事を書くなら全面支援します」と言われたことがある。つまり役所でも厄介者扱いだった人材が、何を間違ったか人事ローテーションの関係でうかうかとおいしく天下ってしまったわけ。

 もちろん「全面支援します」というのは冗談だったのだろうけれども、世の中にはこれぐらい壮絶な事例も存在するのでありますな。

 ともあれ、人のことを言えた義理ではない。フリーの場合、厄介者のフリーランスは自然と淘汰されるのが、周囲にとっても本人にとっても救いでもある。願わくば自分も、ダメになったならば周囲に迷惑をかけることなく、さっさと淘汰されんことを願う(今すでにダメだって?)。

 ここで思い立って、久し振りにショスタコーヴィチの交響曲13番「バビ・ヤール」(1962)をかける。ソ連の反体制詩人エフトゥシェンコの詩に曲を付けた、交響曲というよりもカンタータと言うべき作品。
 第一楽章が、第二次世界大戦中のソ連におけるユダヤ人殺戮を扱った詩であるため、発表当時は、西側でウケが良かった。

 なぜこの曲を思い出したかといえば、フィナーレである第5楽章が、「出世」というタイトルなのだ。

 司祭達はガリレオを
 悪しき愚者と決めつけた
 しかし時が明らかにする
 愚者こそ賢者

と、歌い始め、

 私は出世しないことを
 私の出世とする

で締めくくる、それなりに感動的な詩なのだけれど、ショスタコーヴィチは、ここに、見事なまでに気合いの抜けたへなへなの音楽を付けているのだ。

 楽章冒頭のフルートの旋律からして、「へ〜なへな、へなへなへなへ〜、へ〜なへ〜な、へ〜な〜へなへ〜」と読み解けるほど力が抜けていて、聞くほどに脱力させられる。

 この直前の1961年、ショスタコーヴィチは彼の人生で最悪の駄作である「交響曲12番」を書いている。作曲家として全く不調だったらしい。
 彼が感動したらしき詩の作者であるエフトゥシェンコがその後微妙に体制側へ日和ったことやら、ショスタコーヴィチのひねくりねじ曲がった性格と根性から考えると、「出世」における詩と音楽の乖離もまた、彼が何かを意図した結果なのかもしれない(と、深読みが過ぎると、ショスタコーヴィチの術中にはまるのだ)。

 バビ・ヤール以降、ショスタコーヴィチの不調は1965年ぐらいまで続く(人によっては1964年のオーケストラ伴奏歌曲の「ステパン・ラージンの処刑」をほめるけれど、私は未聴)。

 そして1966年の弦楽四重奏曲11番あたりから、彼は前人未踏のど真っ暗な「黒の音楽」の世界へと突入していくのである。

 ちょっと高いが、ちゃんと「攻撃」のDVDは出ている。鬼瓦のごときジャック・パランスがすさまじい形相で汗と涙をまき散らし、戦車と対決するシーンは必見。そういった物見高さを別にしても、戦争、ひいては組織というものの不条理さを描いた映画としてとても面白い。この映画の撮影にあたって、米国防総省は「反戦的である」と協力を拒否したそうだ。そりゃそうだよな、なにしろ上官に復讐するという話なのだから。

 一応リンクしておくけれども決して薦めません。世評は高い曲だけれども、私としては交響曲12番に続く彼の駄作だと思う。

 どうせ後期ショスタコーヴィチの交響曲を聴くなら、14番と最後の15番にしよう。14番「死の歌」はその題の通り、古今東西の死を題材とした詩を2人のソロが切々と歌い上げるど真っ暗な曲。ロシア的な深い情念と共産主義が導く即物主義が合体すると、かくも身も蓋もない絶望が吹き出すのかと思わせる。しかし音楽の密度は鋼のごとくであり、聴き応えあり。
 交響曲15番は、絶望の暗黒を突き抜けて彼岸にいっちゃった曲。もはやこの世のものとは思えぬ音達が、向こう側でのびやかに踊っている。ここで推薦したCDでは、オーマンディの軽やかな演奏が、なんとも恐ろしく、同時に快感。

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