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2007.09.30

スイングバイ

 月探査機「かぐや」は、10月4日の月周回軌道投入へと、順調に飛行している。

 運用現場の雰囲気はとても良いそうだ。実際に探査機が飛ぶというのはとても重要なことなのだな、と感じる。

 オーマイニュースに、「かぐや」は月軌道まで達した!を、中山 正志さんという市民記者が投稿している。その中の、以下の部分が一部で議論になっているようだ。

ロケット噴射して高度を上げたのでしょうか。実は、地球の重力を利用して「地球スイングバイ」を行ったのです。

 図中左の水色の円弧が、地球の公転軌道です。「かぐや」が1周目の間に地球は、公転で図の下に移動します。1周目の終わりに、地球に落下してくる時に、打ち上げの時点より地球は、下に進んでいます。

 すると「かぐや」の地球への落下時間(距離)はその分多くなり、地球を離れる2週目には、1周目より加速され、衛星速度が上がるのです。そのため、いっきに高度38万6000キロメートルまで到達しました。これが、9月24日の朝のことです。空中ブランコのようですが、スイングバイが使われてるのです。

 この記述は明らかな誤りである。スイングバイとは、重力場を介して大質量の星と探査機が運動エネルギーと運動量のやりとりを行い、探査機を加速・減速する軌道変更手法だ。地球を周回する探査機は、地球の重力場を利用したスイングバイを行うことはできない。

 拙著「恐るべき旅路」から、該当部分を抜粋し、以下に掲載しておく。

 月でも地球でもいい、とにかく星が一つ、宇宙空間に浮かんでいるところを想像してみてほしい。そこに遠くから探査機が飛んでくる。別に探査機でなくても隕石でもなんでもいい。とにかく星に向かって遠くからなにかが飛んでくると考えてみよう。

 星に近づいた探査機は、星の重力場に引かれて、ぐるりと星を回って向きを変え、また遠ざかっていく。この時、探査機の速度は向きが変わっただけで変化しない。プラスマイナスゼロだ。イメージとしては、抵抗がゼロの台車に乗って、同じだけの高さの坂道を降りてまた登るのと同じだ。台車は探査機、坂道は星の周囲の重力場というわけである。

 しかし実際には星は動いている。月なら地球の周りを回っているし、惑星ならば太陽の周りを回っている。つまり探査機を振り回す重力場も星と一緒に動いている。つまり、先ほどのたとえで言えば、降りて登る坂道自体が動いているのだ。

 坂道が動くとどうなるか。坂道を降りて上る台車の速度に坂道が動く速度が加わる。台車は坂道が動く分の速度を得て加速することになる。

 「坂道が動くなんて考えにくい」と妙な例えに困惑する人もいるだろう。しかし地球には動く坂道を利用するスポーツが存在する。サーフィンだ。サーフィンは大波、つまり動く坂道を滑り降り続けながら波の移動でサーフィンボードと上に乗るボーダーが前に進む。

 サーフィンの場合は空気や水が抵抗となるので、抵抗によるエネルギー損失と、波の移動から得るエネルギーが釣り合ったところでサーファーは波と共に同じ速度で移動する。しかし探査機と星の場合には、抵抗となる空気も水も存在しない。「移動する坂道」である星から得られたエネルギーのすべてが探査機を加速することになる。

 スイングバイとは、月や惑星を大波に見立てた、宇宙のサーフィンでもある。

 ところで、高校で物理を習った人は、「速度はベクトルである」ということを思い出して欲しい。ベクトルとは「向き」と「大きさ」を持つ量のこと。速度は単に「時速4km」というような大きさだけではなく、例えば「東に時速4km」というように「向き」と「大きさ」の両方を本質的に兼ね備えているのだ。だから、より正確に言うならば、スイングバイでは、探査機の速度ベクトルと星の速度ベクトルが足し算されることになる。スイングバイは単なる探査機の加速減速ではなく、速度ベクトルの足し算で、探査機の速度ベクトルが変化するということだ。

 「速度ベクトルの足し算」ということを、もう少しくだいて言うと、スイングバイでは、探査機の速さと向かう向きが変化するのである。

 スイングバイの原則は以下の3つだ。
・惑星や衛星の進行方向の後ろを探査機が通過する場合には、探査機は加速する。
・惑星や衛星の進行方向の前を探査機が通過する場合には、探査機は減速する。
・探査機自身が惑星や衛星の周囲を回っている場合、その惑星や衛星の重力場を使ったスイングバイはできない。

 一番目と二番目は、つまり最終的な探査機の向かう方向が、坂道の動く方向、つまりは星の進行方向と同じだと探査機は加速する。逆に探査機が向かう方向が星の進行方向と反対なら探査機は減速するということである。スイングバイを使えば加速するだけではなく、減速することもできるのだ。

 三番目の原則の意味は、例えば地球の周りを回っている科学衛星は、地球の重力場を使ったスイングバイはできないということである。地球の周囲を回るということは地球と同じ速度で太陽の周りを回っているということだ。だから地球の移動速度を使って自身の速度を変えられるはずがない。もちろん、地球の周りを回りつつ、月を使ったスイングバイは可能である。

 この件に関しては、色々な指摘があったようだ。中山さんはコメント欄で「地球周回軌道上でスイングバイが可能かどうかは調査中ですが(これも2chで宙ぶらりんになってるので、資料探します)今回の2周目の軌道修正は△Vc2によるロケットエンジンによる軌道変更でした。」と書いている。

 まだ納得はしていないようだが、自分が事実誤認をしたというのは認めた。

 実のところ、中山さんのような人は貴重だ。宇宙開発にとって、非難よりも無関心のほうが問題である。

 「勉強してから書け」という考え方もあるが、オーマイニュースは市民メディアとして書き手を広く募る媒体だ。「書きながらつまずきつつ、覚えていく」のは許されるべきだと思う。その分、オーマイという媒体の信頼度は下がるが、それは市民メディアを標榜した以上、甘受すべきデメリットであろう。

 実際、自分も駆け出し記者時代からどれほどつまずいてきたかを思い出すと、のたうち回りたくなる。私の場合は、先輩記者や編集長などがフォローしてくれたわけだが、オーマイでは、書いた本人が間違いに対する非難を直接受け取ることになる。それは、かなり厳しい試練だろう。

 中山さんには、きちんと勉強をして、今後とも宇宙関係の記事を出していって貰いたいな、と思う。

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2007.09.29

ビンディングで走る

Pedal


 A-Bikeにうつつを抜かしていた今年の前半、いつも乗っているGIOSはどうなっていたかというと、写真の通りになっていた。

 ペダルの形が変わっている。ビンディング・ペダルにしたのである。

 通常のペダルは脚が固定されておらず、踏み込む時だけペダルに力がかかる。なんらかの方法でペダルを脚に固定すると、脚を持ち上げるときも、ペダルに力をかけることができる。使う筋肉が増えるので、それだけ力強く効率的に自転車を漕ぐことができる。

 脚を固定する方法には、トウクリップというのもあるのだけれど、最近は金属の爪のついた専用の靴を履き、爪が噛み込む専用のペダルと組み合わせて使用する、ビンディングが一般的である。

 ビンディングにはオンロード、オフロード、レース用など様々な種類がある。あまりレース指向のものは、靴底がカーボンで軽量化されており、自転車を降りた時に歩きづらい。完全に自転車に乗るため専用の靴となっている。
 そこでシマノのSPDというシリーズから、ツーリング用のモデルを買って装着した。ペダルとシューズ、合わせて1万円弱の出費だった。

 ビンディング・ペダルの中には、ペダルの表裏で、通常の靴と使い分けることが可能なものもあるが、私は両面ともビンディングになったものを選んだ。中途半端では、使いこなすことができなくなると思ったからだ。だから現在。私のGIOSは専用の靴を履いていないと乗ることができなくなっている。


 ビンディングでは、まずなによりもペダルから脚を外すことを覚えなくてはならない。
 脚を固定してしまったら、止まる時に倒れてしまいそうに思うが、その時は足首を軽く横方向にひねると、簡単にはずれる仕組みとなっている。
 いついかなる時も止まりそうになった場合に、無意識のうちに足首をひねってペダルをはずせるようにしておく必要がある。

 私は運動神経が鈍いほうなので、長い間ビンディングを使うのをためらっていた。今回の導入にあたって、実際の使用者数人に「転ばないかねえ」と聞いてみた。

 全員が「転ぶね」「絶対転ぶね」と答えた。

 早い話、全員が転倒の経験者だったのである。

 どうやら、こればかりは転んで覚えるしかないらしい。となると、車道に倒れたところに自動車が来るというような致命的な事態だけは絶対に避けるということに専心するべきだろう。そう、覚悟を決めて乗り始めた。

 まず、ビンディングの効果だが、これは抜群だ。自転車のグレードを上げた位の大きな変化がある。こんなに効果があるとは事前には予想もしていなかった。
 それまで約20km/hで走っていた力で25km/h以上の速度を出すことができる。一生懸命走るだけではなく、適当な速度で流す場合も、ずっとリラックスして走ることができる。
 ただし踏み込むだけではなく、脚を引き揚げる力も利用するので、脚を丸く回すという意識が大事になる。もっとも脚を丸く回すというのは、自転車本来の脚の使い方だから、きちんと自転車に乗るという意味では望ましい。

 シューズの底には金属の爪が付いており、歩くと床とこつこつあたる。しかし私が買ったシューズの場合、ほとんど違和感はない。これで山道をハイキングするとなるとつらいだろうが、街中を数km程度歩く場合には十分である。

 実際の走行では注意深く交通の流れを読んで、「これは脚を下ろすことになりそうだ」と思ったら無理をせず、いち早くどちからの脚をはずしておくことが必要だ。
 そんなに難しいことではない。いままで以上に注意深くなり、「無理をすれば行けそうだ」という判断をしていたところを「無理だ」と判断するように習慣づければいい。
 足首をひねるという動作そのものは簡単に覚えることができる。むしろ、どのタイミングで脚をはずすかという判断が重要になる。

 これまでに2回転んだ。どちらも自転車で街中を走っている時ではなく、帰宅して自転車を降りようとした時に、ついうっかり脚を外すタイミングが遅くなってしまい、ひっくり返ってしまったのだった。
 走っている時は緊張しているせいか、転ぶことはなかった。むしろ、「やれやれ、帰ってきたぞ」と緊張が抜けたところで、「あれれ、脚がはずれないぞ!」となって転んだのである。

 ここ半年ほどは、転ぶこともなく快調に走っている。専用の靴を履くというのも、ちょっと慣れればいいだけの話で、特に不便になったという印象はない。使いこなせずに転倒する危険よりも、ビンディングを導入したことで、走ることが楽しくなるというメリットのほうがはるかに大きい。
 これほど簡単に、大きな効果が得られるなら、もっと早くから使ってみるべきだったというのが率直な感想である。

 実際問題として、高校生になったら学校で自転車教室を開き、ビンディングの使い方を教えても良いのではないかとすら思う。

 ビンディングを自転車に乗るための基礎的技能と考え、自転車は専用の靴を履いて乗ると習慣づければ、タバコ吸ったり携帯電話を使ったり音楽を聴いたり道の右側を逆走したりといった、マナーもモラルもない暴走自転車を減らせるのではないだろうか。

 というわけで、今のところ私は、サイクリングをするのも、ちょっと買い物に行くにも、ビンディングを使って走り回っている。
 これは自転車にとって、偉大な発明だ、と思いつつ。

楽天内のビンディングペダル一覧

楽天内の自転車用シューズ一覧

 一応楽天にリンクしておくが、種類が多く、また体にきちんと合ったものを選ぶ必要があるので、自分が自転車専門店に赴き、試着した上で購入することをおすすめする。ロードレース用からBMX用、サイクリング用と様々な種類があるので、自分の自転車の乗り方を考えて選ぶこと。

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2007.09.28

ミームとバックドアの与太話

 アマゾンからこんなメールが来た。

 ご注文時に予定して おりました発送予定日となっておりますが、まだ下記の商品の調達が できておりませ ん。

 お待たせしており誠に申し訳ございませんが、継続して商品の調達を行いますので、今しばらく時間の猶予をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。これに伴い現時点において目処となる発送予定日に変更させていただいております。

(中略)

"初音ミク HATSUNE MIKU"

 出遅れたかな。

 さて、昨日の、「神の恩寵を私の説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか」という話の続き。

 最近になって、4月のキャンパスで私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と叫んだ若者と同じ印象を受ける振る舞いを、ネットでよく見るようになった。

 mixiには、「懐疑論者の集い-反擬似科学同盟」というコミュニティがある。ニセ科学をウォッチングするコミュニティだが、ニセ科学というか、トンデモの信奉者が入り込んできて論戦になることがある。「911テロはアメリカの自作自演である」とか。

 もちろん論理的にはコミュニティに集う強者に論破されてしまうわけだが、彼らはほとんどの場合に自らが間違っていることを認めようとはしない。逆に「なんであなた方はこんなことが分からないのか」「こんなことも分からないようでは話にならない」「議論の相手にもならないのでさようなら」と、一方的な勝利宣言をして去っていく。

 その発言が、どうにも私には「あなたなんか地獄に落ちますからね」という言葉と似ているように思えるのだ。

 mixi以外では、大阪大学の菊池誠教授が、自らのkikulogで、911陰謀論、マイナスイオン、血液型制作診断といったトンデモの信奉者と激論を戦わせている。
 ここでも、時折、ビリーバーによる「あなたなんか地獄に落ちますからね(私の勝ちだ)」的な発言をみることができる。

 さて、怪しげな推論を組み立てることにしよう。以下は話半分に読んでもらいたい。

 宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していくのか。それはなにか両方が、同じ現象に根ざしているからではないか。

 もう一歩、怪しげな推論を進める。宗教もエセ科学も陰謀論も、人間の脳の同じ働きによって発現しているのではないか。

 もっと怪しい話を考える。それはひょっとしてミームによる人間の脳のクラッキングの結果ではないか。つまり、人間の脳に実装された世界認識のシステムには、最初から宗教のようなミームが利用可能なバックドアが組み込まれているのではないか。

 ドーキンスも「神は妄想である」の中で、人間の認識の問題点について言及している。人間が世界を認知する仕組みは、人間の体のサイズに合わせ、人間が進化したサバンナという場所での生存に役立つように進化してきたの。だから、それ以外の世界、例えば極微の量子力学的現象や、光速に近い速度の相対論的現象などを直感的に理解するようにはできていない、というわけだ。

 そこで、もう一歩、怪しい方向に進んで、「そんな穴だらけの世界認識のスキーマに、クラッキング可能なセキュリティホールがあったら」と考えてみる。

 「人間はコンピュータ・ソフトウエアと違う」と言われそうだが、認知に関する現象には錯視の一部のように「魂」と言うものを持ち出さなくても、説明できるものが少なくない。とすれば、人間の世界認知システムを、ソフトウエアと考えてもいいのではないだろうか。


 思うに、このセキュリティホールは、人間が社会を営む生物であるというところに起因しているのではないだろうか。
 私たちには、社会を営む中で「周囲の人間に認められたい」といいう欲求が存在する。それはもちろん、認められることが生存に有利になるという理由から、進化してきたものだろう。

 しかし、実際問題として多くの人は、能力以上に認められることなく、社会に埋没していく。

 では「自分は特別であり、周囲に認められるべき存在である」と確信させてくれるミームが存在したらどうか。

 「特別であるべき自分」という欲求と、「特別ではない自分」という実際とのギャップに、バックドアが存在する。そこを突いてミームが入り込む。人間は酸素不足や睡眠不足、薬物などで幻覚を起こすハードウエアであるということも、ミームは利用する。神秘体験というやつだ。こんな神秘体験をした自分は特別である、というようにミームは自己認識を歪め、誘導する。

 ミームは集団に感染する。一人に感染しただけなら、ミームの創り出す「特別な自分」という認識は、現実の前に崩れるだろう。しかし集団に感染し、集団全体が「俺もお前も特別だよ」という幻覚を相互供給し合うなら、ミームは生存し続ける。

 集団感染は、ミームが生き延びる前提条件である。だからミームに感染した者は、ミームを広げるべく布教活動を始める。それは、宗教でもエセ科学でも、トンデモでも、マルチ商法でも、同じである。
 これらは、同じバックドアを利用するミームの変種なのである。

 ああ、なんだか書いていて、妙な気分になってきたぞ。

 でも、こんなことを思いつく俺ってすごいな。おお、息を止めると光が見えるぞ。わはは、我は解脱せり。ひれ伏せ!蛆虫めら!!(あれ?)


 そう、これは、かなりの過程を積み重ねた与太話である。「宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していく」ということのみを根拠で、論理を積み上げただけ。

 「人はひっかかりやすい生き物である」ということをごちゃごちゃ言ったに過ぎないような気もする。

 にわか作りだから、崩れるのもまた早いな。

 最後に、もう一つ妄想を積み重ねておくと、この手のミームの感染に対抗する免疫に相当するものがあるとするなら。それは「笑い」ではないかという気がする。

 池乃めだかの「今日はこれくらいにしといたるわ!」——あれですね。凝り固まった認識をすっとほぐすわけです。

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2007.09.27

神と悪魔と罵詈雑言

「『あなたは神を信じますか』って寄ってくる人をからかうと、おもしろいよ」
 こういう、ろくでもないことを教えてくれたのは、高校の年若い生物の教師だった。
「僕も学生の時、よくやったんだよね。話させるだけ話させておいて、『神様なんていませんよ』ていうとむきになったりしてね」

 しかしながら高校の頃は見知らぬ人をからかうには、自分は人見知りが過ぎた。
 意識してこの手の人たちをからかうようになったのは、大学に入ってからだ。

 大学という場所は、おおかたの宗教にとって信者の草刈り場だったのだろう。色々なのがいた。「あなたは神を信じますか」から始まって、「あなたの幸福を祈らせて下さい」とか、「手かざしをさせてください」とか。
 そういえば「神ノ愛ヲ、信ジナサーイ」というモルモン教徒に行き当たったこともある。「どこから来たのか」と聞いたら、アイダホだと言っていた。

 その手の人たちをからかうようになって、面白かったのは、最後の去り際だった。大体はからかわれると分かって、去っていく。その時、必ずといっていいほど、悪態を付くのだ。
 「なんて酷い人だ」というような非難ではない。悪態だ。

 4月、クラブの勧誘でいっぱいのキャンパス中庭で声をかけてきた若者は、特に印象に残っている。のらくらとこちらがはぐらかしていると、遂に怒り出し、「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言ったのだ。確か「なんでそんなことが分かるんですかあ?」と返したら、憤然たる態度で「絶対です!」と叫び、去っていったのだった。

 確かに純な魂をもてあそんだ罪は、私にある。が、私は地獄への地図も、地獄の住所も知らない(だから、そういう態度でいたから彼は怒ったんだってば)。

 確か大学の3年になったころだったか、「幻魔大戦」がアニメになり、原作の平井和正も小説を書き継いだことがあった。ところが、当時平井が「GLA」という新興宗教にはまっていたこともあり、書く小説がどんどん妙な方向にいってしまい、20冊も書き継いでもストーリーは全然進まない、ということになってしまった(平井はその後GLAから離れたそうだが、GLAは今も活動している)。
 その頃、GLAの教祖である高橋佳子の著作を何冊か読んだことがある。文章が達者で、後で知った出口王仁三郎の「霊界物語」などに比べると格段に読みやすかった。これらは事実上平井がゴーストライターを務めたそうだ。

 このあたり、本当は再読して確認してから書くべきなのだろうが——ここでは記憶を優先することする。

 高橋佳子の著作(確か「真創世記」だったか、そんなタイトルだった)で強烈に覚えているのが、霊界で農家のおばあさんに会って会話する(霊界で農家ってどういうこと??)というところで、おばあさんの言葉が「だべ」だったか「だべさ」だったか、訛っているのだ。

 霊界がどんなところかは知らないが、訛っているとはこれ如何に?霊界に加藤茶がいたら、やっぱりおまわりさんは「すんずれいしました!」とやっているのか??
 キリスト教の典礼文がキリシタン弾圧の結果、オラショへと転訛したという事例もあるし、訛っていていかんということはないのだろうが、それでも光に満ちた清浄なる霊界に、いきなり俗世間っぽい訛りとはねえ、と、思ったものである。そりゃ、「霊界とはそういうものだ」と言われれば、「はいそうですか」としか答えようがないわけだが。

 この本の中には、悪魔退散のシーンがあり、悪魔は、光の前にありとあらゆる罵詈雑言を吐きつつ退散するのであった。

 いや、このシーンがあったのは平井版「幻魔大戦」だったかも知れない。だいぶ記憶があいまいになっている。

 ともかく、大学生だった時に読んだ新興宗教がらみの本で、一番印象に残ったのが、「悪魔が罵詈雑言吐きつつ退散する」というシーンだったのである。なぜなら、私にはその悪魔が、私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言った若者と重なって見えたから。

 神の恩寵を私に説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか(だから、からかったお前が悪いんだってば、という話はともかくとして)。

 その後も宗教がらみで、罵詈雑言を見る機会が何度もあった。例えば、創価学会が日蓮正宗大石寺との確執の中で放った言論攻撃も、私には「まるで退散する悪魔の罵詈雑言」のように響いたものである。

 神と悪魔が、罵詈雑言という、余り行儀良くないキーワードで結びつくなら、それはそもそも宗教という思考様式に致命的な欠陥があるためではないか——当時の私はこの程度まで考えて、そこで思考を止めた。

 例えは悪いかもしれないが、吉本新喜劇の池乃めだか演じる、凄んでも凄んでも、すべて外して笑いをとったあげく、「今日はこれくらいにしといたるわ!」で締める——あれに近いものを感じたわけですな。

 昨日のドーキンスの本で思い出した、そろそろ四半世紀も昔の記憶である。もちろんオウム真理教なんて連中が本物のテロをやらかす大分前の話だ。

 以下は余談。

 私が、その手の人たちをからかうのをやめたのは、大学最寄りの駅で、おそらく同じ大学に通っていたのであろう——女性から「あなたの幸福を祈らせて下さい」と声をかけられたからだった。

 そーら、カモさんキター、しかも鍋と葱付きーっ、てな調子で、私はへらへらと相手をしたのだが、彼女はすべてを真剣に受け取って、「またお会いしましょう」といって去っていったのである。

 む、勝手が違うぞ。

 その後数回、彼女と会った。その都度、彼女は真剣な調子で「真理」を語り、私はへらへらと受け流した。何回目だったか、彼女は「私達の家に来ませんか。仲間の家があるんです」と言い出した。まあ、新興宗教が気の弱い学生を巻き込む時の常套手段である。

 だが、その後の言葉が違った。「家ではみんなでご飯を食べるんです。みんなで一緒に食卓を囲むなんて、とても素晴らしいことって思いませんか」

 私はこの言葉にショックを受けた。私の育った家庭は、円満にして満点というわけではなかったが、それでも家族が揃って食卓を囲むのは当たり前であった。私はそれを素晴らしいことと思っていなかった。家族の食卓は、当然あるべきものだった。

 「一緒に食卓を囲む」ことを「幸福である」と語る彼女の背後に、なにか尋常ならざる不幸の気配を感じた。触れてはならぬものに触れてしまったという後悔が背筋を走り抜けた。

 私は二度と彼女に会うことはなかった。そして、その手の人をからかうのもやめた。

 私には神も悪魔もどうでもいい。彼女はその後幸福になったのだろうか。そちらのほうが気にかかる。





 昨今、「神と悪魔」テーマなら、やはり「るくるく」だろう。悪魔の王女が貧乏学生のところに同居するという典型的落ち物パターンながら、込められた毒と哄笑が半端ではない(なにかとんでもない伏線を仕込んでいるようでもあるし)。実際問題として、天使がなぜか荒れ寺の小坊主になって、「やはうえさま、お元気ですか」と祈る、なんて発想は、あさりよしとお以外から出てきようがない。

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2007.09.26

神と戦うドーキンス

 書評という仕事をしていると、自分の楽しみとしての読書がなかなか難しくなってしまう。そんな中、電車の中で読み進めていたドーキンスの「神は妄想である—宗教との決別」を読み終えた。

 日本で「無神論者です」といっても、「へえ、そうですか」で終わるけれども、キリスト教圏では無神論者というと、「悪魔の手先」と思われるほどである。キリスト教圏にせよイスラム教圏にせよ、宗教は人々の思考をがっちりと規定している。

 そんな中、ドーキンスは、多くの人々が薄々、あるいは無意識に感じていた事を、この本ではっきりと言ってのけた。「何をどう考えていっても、神などというものがこの世を見守っていると信じる合理的理由はない」「宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはない」。

 特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うのである。

 言われてみればその通りだ。例えば、「キリスト教によって平和がもたらされた歴史的事例」をあなたは思い出せるだろうか。私はすぐには思い浮かばない(なんかあったっけかなあ…マザー・テレサのような個人的努力ぐらいしか心当たりがない)。
 逆に「キリスト教などというものがあったばかりに発生した悲惨な事例」なら、十字軍、インカ帝国滅亡とそれに続くスペインによる現地民の扱い、ドイツ農民戦争、スペインの異端審問などなど、いくらでも思い出せる。

 宗教の否定という点では、「宗教は阿片である」としたマルキシズムを思い起こす。が、結局共産主義という新しい宗教を作っただけに終わったマルキシズムと比べると、ドーキンスの態度はより柔軟で、科学的方法論に忠実である。

 彼は、激することなく平静に、「そもそも神がいるとする合理的理由はどこにあるのか」を追求していく。彼の論理は、過去何度となく繰り返された神学関係者との論争で鍛えられているのだろう。冷静で、隙がなく、破綻もしていない上に、容赦ない。神の存在を主張する意見をひとつずつとりあげ、確実に論破していく。宗教関係者が「要するに信じたいのだから信じるんだ。別にいいじゃないか」というトートロジーに陥るところまで、詰め将棋のように一手ずつ包囲網を縮めていく。

 本の後半に入るとドーキンスは、宗教に帰依することにより、いかに人間性がゆがめられ、生きていく上での不利益を被るかという事例を、これでもか、これでもかと列挙していく。この辺り、彼もヒートアップしているという印象だ。

「宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されねばならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。」(p.448)

 いや、まったくその通り。

 本書が描くキリスト教圏におけるキリスト教のありようを読んでいくと、アメリカという国が滅ぶならば、イスラム教原理主義との戦いで滅ぶのではなく、内部に抱えたキリスト教が振りまく無知蒙昧のために滅ぶのではないかと思えてくる。

 先だって死去した、テレビ宣教師ジェリー・ファルウェルのテレビ伝道におけるデタラメっぷりは一部知っていたけれども、彼のようなテレビ宣教師が他にもいくらでもいるとは知らなかった。

 ジェリー・ファルウェルについては、町山智浩氏のTBSラジオ「コラムの花道」5月22日(Podcast)あたりを参考にしてもらいたい。

 ちなみにドーキンスは、宗教が生み出してきた文化や芸術を否定はしていない。宗教の否定とは別に、それらの文化を理解し、観賞することは可能だと、生真面目に説明していく。その通りだと思う。

 本書を書くのは、大変勇気のいることだったろう。それでもドーキンスのような世界第一線級の知性が、このような本を書いた理由の一つに、欧米社会でのキリスト教原理主義の台頭、911テロに始まるイスラム教原理主義との対決のエスカレートがあるのだろう。
 本書には、テロを起こす殉教者の心理も分析されている。

 宗教というやくたいもないものが、世界を壊そうとしている——その危機感こそが、本書執筆の原動力だったのだろう。

 こんな書評を最近書いたせいもあるのだろうけれど、「宗教とは、溺れる者がつかむ藁」という気がしている。つかんだ者は、「やれうれしや、つかんだぞ」と思っているし、思ったことによって心の持ち方は安定するが、事態が改善するわけではない。

 生きることが一大事業だった時代には、心が安定するだけでも意味があったのかも知れない。が、これだけ科学技術が進歩し、平均寿命も延びたとなると、藁をつかんだまま沈んでいくことの弊害のほうが、遙かに大きくなっている——ということかな、と思うのだ。

 本書に見るキリスト教圏の惨状(確かにこれは惨状だろう)からすると、ぼくらは八百万の神のいましめす 豊葦原瑞穂の国に生まれてよかった。山田正紀「神三部作」(「神狩り」「弥勒戦争」「神々の埋葬」だったっけ)のような小説を、さらっと受け入れられる社会というのは悪くない。

 いや、日本人であるということは、そういいことではないのかも。昨今はやりのスピリチュアルやら「水からの伝言」のようなニセ科学は、エセ宗教でもあるという点で、宗教以上に性悪なのかも知れないな。


 神をも相対化して思考実験の道具に使えるのがSFの醍醐味だ。「神は沈黙せず」は、ここ数年に読んだSFの中でも出色の、神SF…じゃない「神ネタSF」である。







 山田正紀「神三部作」は、「神々の埋葬」が現在入手不可能のようだ。まだ私は読んでいないのだけれども、「神狩り2」へのリンクを置いておく。アマゾンの書評を読むと読むのが怖いような作品のようなのだけれども、これは読まねばならないだろう。

 私は中学生の時、SFマガジンに一挙掲載された「神狩り」を読んでいる。図書館の子ども向け小説の棚ばかり読んでいた、まだ小学生気分が抜けない中坊は、疾走する文体に圧倒された。それからしばらくの間、確か「宝石泥棒」ぐらいまでは、熱狂的な山田正紀ファンだった。「神狩り」は小説として評価すると、未完成で欠点だらけだと思う。それでも、あの悪夢のような熱を帯びた文体だけは、あの時25歳だった山田正紀にしか書けなかったろう。


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2007.09.25

地球温暖化と惑星工学

 暑さ寒さも彼岸まで、という。秋分の日を過ぎて、やっと涼しくなってきた。

 しかしまだ暑い。例年ならそろそろ寒さが忍び寄ってくるはずなのに、私はまだTシャツ一枚に短パンという夏の姿で原稿を書いている。

 地球温暖化のせいだろうか。

 温暖化の問題がやっかいなのは、まだ我々が科学的に「こうだ!」と言い切れるだけの知見を蓄積できていないことにある。確かに大気中の二酸化炭素濃度は増える一方であり、世界の平均気温も又上昇し続けている。しかし、その因果関係がどうなのかは、今なお議論の対象となっている。現在は長い周期で見た間氷期であることは分かっているが、では間氷期のどこいらへんなのか。今の温暖化は二酸化炭素の影響ではなく、別の要素のせいなのではないかとか、今なお議論は続いている。

 実感として確かに温暖化は進んでいるように思える。温暖化を示すデータも数多く集まっている。それでも、納得しない者、例えばアメリカの為政者などは、納得しない。その程度のあいまいさは今も残っている。

 悩ましいことに、温暖化対策には「皆が納得するだけのデータを積み重ねた頃には手遅れになっているのではないか」という恐怖がつきまとっている。

 地球温暖化のポジティブな側面はないものか、と考えていたら、SFマガジン11月号の、金子隆一さんのコラムに、興味深い意見が書いてあった。南極の氷の内部の窒素と酸素の濃度比を調べることで、地球の長周期気候変動の一つであるミランコヴィッチサイクルの物証が得られたというニュースに続いて、金子さんはこう書いている。

 しかし、それよりもわれわれにとってなお興味深いのは、これで、惑星を人為的に冷却したり加熱したりする未来の惑星工学への新たな突破口が開かれたという点である。

 そうか、地球温暖化を別の面でみると、「人間が遂に地球の気候を変化させる力を得た」ということなのだ。次に必要なのは「人間が地球の気候を制御する力を得る」ことなのであろう。そこには様々な倫理的問題が存在する(気候兵器など考えたくもない)が、これは温暖化が示す希望の側面なのかも知れない。

 我々は、人間が気候を制御する時代の夜明けに生きている、と考えると、温暖化防止も単なるエコロジーの問題ではなく、宇宙に進出する人類が解決すべき課題と、前向きに捉えられるようになる。

 温暖化を防止するということは、地球上で人間が生き続けるということのみならず、より大きな宇宙的視点で、知性が惑星全体を制御するという意味もあるわけだ。

 これだけで、前向きな気分になるというのも単純な話ではある。が、私としては少し元気が出てきた。

追記:あ、自分で過去にも同じようなことを書いているぞ。ボケっと自分を罵るべきか、それとも一貫性を自賛すべきか。

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2007.09.24

野菜炒め大実験

 以前、ジャンクフードの定義を試みたが、今回はその続き。

 前回、最後にジャンクフードの定義における「過度」を適度に書き換えると、ヘルシーフードの定義となる、という話を書いた。自分の書いた文を引用してみると、

上記のジャンクフードの定義から、「過剰」を抜いて、代わりに「適度」と入れてみよう。

・炭水化物を中心に
 1)適度の塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)肉、チーズなど適度なタンパク質
   c)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

・タンパク質を中心に
 1)適度な塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

途端にヘルシーフードに早変わりする。二郎ラーメンのようにこれに適度の野菜が加わるならば、けっこうな健康食だ。

 主題はヘルシーフードとジャンクフードの定義は何故似ているのか。実はここ数日の食事で実験をしていたのである。

 実験材料は、キャベツともやしだけの野菜炒めだ。要するにキャベツを玉一つ買ってしまったので、もやしと合わせて食べ尽くそうとしたわけ。ついでに実験もしてしまえと考えたのだ。

 キャベツともやしをごま油で炒める。このままでは野菜と植物性油脂だけだ。当然まずい。

 そこで味付けする。塩を入れると一応食べられる味になる。物足りないのでコショウを振りかける。ますますおいしくなる。

 適度なアミノ酸を求めて、塩の代わりに醤油を使ってみる。これもいい。

 ここまでで欠けているのは、タンパク質と炭水化物だ。豚肉の細切れを入れると、いっそうおいしくなる。思い立って、油揚げを細切りにして入れてみると、これもなかなかいける。

 次に炭水化物として、炊いたご飯も少しいれてみた。悪くない。野菜主で米が従のチャーハンみたいになるが、ごま油と合っておいしく食べられる。

 では異なるタンパク質はどうか。味付けを塩コショウにして、チーズをちぎって入れてみた。ナチュラルチーズを使いたいところだが、お手軽にコンビニで買ったプロセスチーズを使った。

 うまいっ。味にこくがでる。チーズはタンパク質でもあるしアミノ酸でもある。なるほどなるほど。

 ややリゾット風になったので、次はもう少し工夫してみる。米の代わりに手元にあったせんべいをちぎっていれてみた。

 これまでで最高の味になった。食感も、もっちりしたチーズにぱりぱりのせんべいが加わって意外なぐらいに良好だ。

 なぜ、このような料理を美味しく感じるのか。その原因は当然生物進化に求められるべきであろう。野菜炒めは、塩分、香辛料、アミノ酸、タンパク質、炭水化物を加えることによって、より生体を維持するのに適した食事になったのだ。

 つまり我々は、より的確に必須栄養素を的確に摂取できる食事を美味と感じるのである。

 そう考えると、なぜジャンクフードがおいしいかも理解できる。つまり、ジャンクフードは我々が本能的に持っている「より生体を維持するのに適した食事をおいしいと感じる性向」に対する超正常刺激なのだ。

 この次の段階としては、野菜炒めをベースに過剰さを付け加えて、ジャンクフードを作るということが考えられるだろう。

 いずれやってみよう。

 なお、この実験は、あくまで個人的なものであり、これにより何かを主張するものではない。「対照実験は?」とか「二重盲検は?」とか「条件が一定になっていない」「サンプル数が少なすぎる」といった疑問や批判は却下である。というか実験そのものが、批判に値しない。はい、自覚しております。

 で、当面野菜炒めはもういいやというのが、オチでありました。

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2007.09.22

パリの素敵なおじさまたち

おわびと訂正(2007.9.25)この記事で引用したaqqueさんのBlogの記事を、私は2007年のものと誤解していました。実際には2005年、前回のパリエアショーの時のものでした。この記事の趣旨には影響ないですが、一部言い回しが事実とは異なることになります。訂正し、お詫びいたします。コメント欄で指摘してくれた方、ありがとうございます(松浦)。


 パリ・エアショーには、日本からはいつも日本航空宇宙工業会がブースを出している。ところが、この展示がなんともやる気を感じさせない——という話は、2003年に私と一緒にパリ・エアショーを取材した笹本祐一さんが「宇宙へのパスポート3」の74ページに「やる気のない美術部が過去の遺産を寄せ集めて文化祭の体裁だけ整えました、な感じ。いや実際やる気ないんだろうし、閑散としてましたけど。」と書いている通りである。

 航空宇宙工業会の展示のみすぼらしさは、関係者も認識しているらしい。3年前に航空宇宙学会のパネルディスカッションに出席した時、 「パリエアショーでなにが恥ずかしいって、まったくやる気が感じられない航空宇宙工業会の展示が恥ずかしかった」と言うと、横でパネラーとして出席していた三菱重工の方が、吹き出し笑いをした、ということもあった。

 MRJがモックアップまで出展した今年パリ・エアショーで、日本航空宇宙工業会はどうだったのだろうか、と思っていたら、某氏からこんなページを教えてもらった。

 「フランスよもやま生活記 自由な生活を求めて」より。パリで生活する日本人女性aqqueさんのBlogである。

 2007年ではなく2005年でした。

 パリ・エアショーで、「日本*****という財団法人」の受付で働いたという話である。パリ・エアショーに日本の財団法人は出ていないので、これは間違いなく社団法人・日本航空宇宙工業会であろう。

 核心は パリ エアショー裏話1に書いてある。

みなさん、天下りの人たちだろうと思います。

*肩書きが同じ人が多すぎて、どういう位置づけかわかりません。
(副会長だけで3人、専務(vice president)だけで3人、部長も何人いるんだか・・・など)

*こちらが「おはようございます」と挨拶をしても、挨拶は返さない。

*名前を覚える気がない。(「女性の方たち」でひとくくり)

*陰でこそこそ悪口を言う。

*会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる。
→これって、フランスではあまり考えられないことなんですよ。
だからかもしれないけれど、わたしたち女性軍が人(地位)によって態度を変えないことに、彼らはまた腹が立っていたのかもしれません。

(中略)
  やっぱりいわゆる本当にエライ人たちというのは、人間的に非常にできた人たちが多いので、とても謙虚だと言うことがわかります。
中途半端にエライ人、既得権を最大限に利用する人たちだけが、横柄な態度をとるのかな、と感じました。

 ここで、日本航空宇宙工業会を離れて一般論をしよう。主題は終身雇用組織が、組織中の厄介者をどう処遇するか、である。

 会社組織と所属する人にも相性というものがある。会わない場合、その人は組織内で「使いづらい奴」「役に立たない奴」と判定される。その中には、有能なのだが性格に問題がある、とか、上司に恵まれず能力を発揮できずに腐っているという人もいる。もちろん、本当の困ったちゃんもいる。

 終身雇用の世界では、そんな彼らを組織外に放り出すことができない。

 ではどうするか。道は2つある。一つは子会社に押しつけること。もう一つは業界団体など、関連する外部団体に押し込むことである。

 前者の場合、子会社社長になって阿鼻叫喚の惨状に、などということもままある(大抵の場合「ヒトラー」とか「アミン」といった独裁者のあだ名が付く)。ただし、この場合はまだましな人材であることが多い。

 子会社は本社と利益共同体なので、あまりの惨状になると本体の経営に差し支える。このため、本当にどうしようもない奴と判定された者は、業界団体に出される場合が多い。

 送り出す側は、困ったちゃんがよろこんで業界団体に出て行くように腐心する。大抵は「業界団体から大所高所の見地で、業界を指導してもらいたい」などといって送り出すことになる。

 そして困った人の多くは洞察力と自省心に欠けているので、「そうか、俺は偉くなったんだ」と錯覚して、業界団体にやってくることになる。そうなると、「この人は本当に社会人なのか?」とびっくりするような横柄な態度を取ったり、稚拙なウソをついたり、相手に応じてころっと態度を変えるような素敵なおじさまの一丁上がり、ということになる。
 中には会社を離れて、うってかわって水を得た魚のごとく働き出す例もあるが、誰もがそうなるというわけではない。

 ちなみに私が過去の取材経験でぶつかった最悪の例。

 もう時効だろうから書くが、1997年に「H-IIロケット上昇」を書くとき、私は当時のロケットシステム社長にインタビューしようとした、別の席でお会いした時に本人の了解も取り付け、一応会社に話を通しておかなくてはな、と電話したら、まさに素敵なおじさまにぶつかってしまったのである。

 彼は名乗りもせず、鼻息も荒く私を断罪した。
「あなたは何者ですか。社長があなたのような人に会うわけがないじゃないですか。ダメです。お断りいたします。取り次ぎなんてとんでもない」
 いくら社長本人の了解を取っていると説明しても、ダメの一点張り。そのうちに、「あなたは何の権限があって社長に会おうというのですか」と言い出したので、こりゃダメだと思って電話を切った。
 「完全に、社長に会う人をコントロールするという権限に酔っているな」と思った。無能の人が、与えられた職務上の権限を自分の能力であると錯覚するのは、よくあることである。
 私は結局、社長のインタビューをあきらめた。

 ずっと後になって、ロケットシステムの重役に「こんなこともありました」と話したことがある。重役氏は、私が名前も知らない素敵なおじさまが誰であるかを一発で理解したようだった。
「彼は元の会社に返しました」
という返事が、即座に返ってきたのであった。

 もちろんそれがいかなる団体であっても、よく働く有能な人はいる。そういう人がいないと、そもそも組織は回らない。

 とりあえずaqqueさんのBlogから推察するに、日本大使館で開催されたMRJレセプションには、「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していたのだろう。

 正確には「今年のパリエアショーにおいても、MRJレセプションに「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していた可能性が高い」です。

 私は、MRJが心配である。

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2007.09.21

続・MRJ、大丈夫か?

 昨日の記事のコメント欄で、大石英司の代替空港でのMRJの記事、および記事の主題であるパリ日本大使館レセプション(三菱重工ニュース)へのリンクを教えてもらった。

 大使館でレセプションを開くのはいい。日本大使館でMRJのレセプションがあるということは、MRJ開発を日本政府が支援するということは暗黙に示す意味がある。その分MRJの本気の度合を海外に示すことになるわけだ。

 問題は、レセプションにどれだけユーザーであるエアライン関係者、そして重要なのは海外専門メディアの記者を呼んでいるかということだ。

各国エアラインの幹部など日米欧を中心とした航空宇宙産業関係者多数のほか、経済産業省から片瀬裕文製造産業局航空機武器宇宙産業課長が、また当社から西岡喬取締役会長が出席。総勢267人規模の盛会となった。

 というのだが。

 267人というのは、まあまあの規模だ。うち、エアラインとメディア関係者が何人ぐらいだったかが気になるところ。エアライン関係者の重要性は言うまでもないが、メディア関係者というのは説明が必要かもしれない。

 MRJは、いまだ海外では無名だ。その知名度を上げるには海外専門メディアへの露出を増やす必要がある。露出を増やすには重工首脳部がメディアと接触し、記事になるような発言をすることが必要。そして、メディアをまとめて相手にする場としては、このようなレセプションが最適なのだ。

 レセプションには西岡三菱重工会長が出席したということなので、西岡会長の回りに内外の航空専門メディアの記者が群がり、会長発言を記事にするというのが望ましい。重工首脳部としても、リップサービスでいいから、メディアが一本の記事にしやすいような発言を心がける必要がある。もちろん英語、ないしフランス語で発言するべきところだ。

 大石氏のレポートだと、どの程度メディアを呼んだか、かなりあやしいような気もする。これが内輪向けレセプションだったら、単なる大使館備蓄ワインの浪費以外の何物でもない。

 一見してひがみっぽくも読める大石氏の記事だが、もしも広報部なり工業会なりが作家の大石氏をメディアとして認識していなかったのだとしたら、それは思い違いだ。

 小説に登場するメカが、時としてその一般へのメカの印象すら決める(ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」におけるシトロエンDSのように)。だから当然、作家もレセプションの招待リストに入れておくのが、広報部の仕事だろう。

 このクラスのパーティだと、参加人数が数人増えたところでどうということはない。大石氏を参加させたことで、例えば氏の次回作にMRJが少しでも登場すれば、宣伝費として安いものである。

 そういう計算を、重工広報部ができていたかどうか。

 とりあえず、航空宇宙工業会から、パリに出張した者は皆出席したんだろうなあ、というところで次回に続きます。

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2007.09.20

MRJ、大丈夫か?

 三菱重工業が、YS-11以来の国産旅客機「MRJ(Mitsubishi Regional Jet)」の開発に乗り出そうとしていることは、多くの人がご存知のことと思う。

 開発にゴーサインはまだ出ていないが、今回三菱重工はかなり本気のようだ。やっと航空ニッポン復活となるのだろうか。

 私は、かなり危惧している。旅客機市場はそんなに甘い世界ではないというのもあるが、それ以上に三菱重工の営業に不安感を抱いている。

 私の漠然とした不安感を補強する記事を見つけたので紹介する・

 「航空の現代」という航空の世界では有名なホームページがある。作者の西川渉氏は、朝日航洋の代表取締役専務まで務めた、リージョナルエア、すなわち地域航空のプロ中のプロだ。

 その西川氏が今年7月2日付けで、<パリ航空ショー> 三菱リージョナルジェット という記事を公開している。今年のパリ航空ショーに、三菱重工はMRJのモックアップを出展した。西川氏は航空ショー会場で、モックアップ内部を見学しようとした、その時の記録である。以下少し長くなるが引用しよう。

 川崎重工の向こう側では三菱重工が計画中のリージョナル・ジェットMRJのキャビン・モックアップを展示していました。実物大のコクピットと胴体部分を模したもので、非常に立派です。ところが、内部を見せてほしいというと、断られたのです。今日からパブリックデーなので、機内に人をいれるとキリがないからという理由です。

 しかし今日はビジネスデーでもあるし、第一そんなに人が詰めかけているわけでもない。周囲には誰もいないじゃないかというと、特別な人以外は見せられないという。なんだか「馬の骨」呼ばわりされたみたいで、確かにそうには違いないが、やっぱりカチンときた。無論こちらは最初から名刺を出して名乗っているわけです。

 こんなに立派なモックアップをわざわざつくって、はるばると日本から持ってきて、おそらくは高い料金を払って会場に展示しているのでしょう。にもかかわらず、内部を見せるわけにはゆかぬとはどういうことか。展示の意味がないではないかと押し問答をしていると、三菱の若い社員に代わって年配の女性が出てきました。そして、こちらの話を聞くと、しばらくお待ちくださいと言って引っ込み、やがてデザイナーを名乗る人物が登場しました。いずれも日本人です。

(中略)

 こうした規制というのは警察や国家のやりたがることで、何かの秩序を保つには必要なことですが、人に見せるための展示をしながら見せないというのは、どう考えてもおかしい。どこかに秘密があるのなら最初から展示しなければいいわけで、三菱重工の妙にこわばった権威主義を感じさせられました。平たくいえば「もったいぶるな」ということです。

 パリにMRJモックアップを持っていったのは、三菱重工の経営判断だったのか、それとも営業サイドの意向だったのか、いずれにせよ、この対応はあまりにひどい。

 まず、出てきた「三菱の若い社員」が、西川氏の名前を知らなかったということが信じがたい怠慢だ。MRJは、ミツビシ・リージョナル・ジェットだ。Googleで「リージョナルジェット」と検索すると、トップに出てくるのは西川氏のホームページなのである!

 西川氏のページを少しでも読めば、「作者はこの分野に非常に深い見識を持っている」と分かり、「作者は誰だろう」と西川氏の名前で検索をかけるはずである。そうすれば氏の経歴も出てくるので、「なるほど、仕事上この人の名前は覚えておかなくては」と考えるのが自然だろう。

 それが「特別な人以外は見せられない」と対応をしたということは、「三菱の若い社員」が、自分の仕事についてネットで検索することもしなかったということを意味する。仕事に対する意欲が全く感じられない。

 それ以前に、なぜパリ航空ショーまでモックアップを持っていったのか、その意図は末端まで徹底していたのだろうか。

 より多くの人にMRJを知ってもらい、その性能とコストパフォーマンスを宣伝し、受注につなげるためだろう。パリ航空ショーは、飛行機が飛び回るただのお祭りではない。軍民を問わず世界各国の航空関係者が集まり、ついたてを立てたブースの中で様々な商談を行い、自らの優位をアピールし、ライバルをけ落とす宣伝すらする、熾烈な商売の場なのである。
 一般客に混じって、お忍びの各国関係者がいてもおかしくない、そういう場所なのだ。

 モックアップなど汚れても壊れてもいい。直せばすむのだから。もったいぶるよりも一人でも多くの人にモックアップを体験してもらい、意見を聞くと同時に、「三菱は本気で旅客機を開発するつもりだぞ」と思わせることが重要なのだ。

 それが、「特別な人以外は見せられない」とはどういうことだろうか。西川氏の体験は、ビジネスデーに起きている。一般客は入場しておらず、会場内は航空関係者と出展者、そして報道関係者が大部分だ。
 やってきた各国の報道関係者にも「特別な人以外は見せられない」と言ったのだろうか。

 もしそうなら、つれなくされた報道関係者は、自国に戻り、「ミツビシはモックアップも見せてくれなかったよ、ケチだな」と言って回ることになるだろう。それが、MRJの国際的なイメージにどれだけのダメージとなるか、想像できているだろうか。

 一般公開日はどうだったのだろう。特別でない一般客がいくら来ても「特別な人以外は見せられない」という対応だったのだろうか。
 それら特別でない人が、将来MRJが就航した暁には、乗客として乗ることに、思い至っていただろうか。その時、「自分はパリで初めてこの飛行機のモックアップにすわったんだぜ」と考えることが、どれだけ三菱のイメージを高めるか、考えはしなかったのだろうか。

 パリまでモックアップを持っていって、対応を間違って悪印象を振りまいて、どうするというのだろうか。

 2003年にパリ航空ショーに行った時に見た、中国のリージョナルジェット旅客機「CRJ」の展示を思い出す。ものすごい熱気で、「買って下さい、買って下さい」と迫ってくるようだった。もちろんモックアップも全日公開である。

 そんな奴とMRJは市場で戦うのだ。戦う前の宣伝で負けていてどうするというのだろう。

 西川氏は、続三菱リージョナルジェットという記事も書いている。

 テレビや新聞は三菱の宣伝文をなぞって、これが如何に素晴らしいプロジェクトであるかを喧伝するが、絵に描いた餅ではどうにもならない。パリ航空ショーの現場では「こんな遠いところまで、朝早くからようこそ来てくれました。どうぞ、ご覧下さい」といった姿勢は、広報の美辞麗句とは逆にどこにも見られなかった。

 そうした姿勢はむろん現場の問題ではなく、上層部の熱意の程を反映し、税金を投入する日本政府の考えを映し出したものであろう。そこには何とかして、この飛行機を売りたい、買って貰いたいという背水の気迫は少しもうかがえないのである。

 この西川氏の意見に、私も同意する。

 三菱重工は官需主体のメーカーだからだろうか、営業部門がどうにも鈍重な印象を受ける。
 経営に失敗し、会社を閉じたロケットシステムも、三菱重工から営業出身の社長が来ていた。だが、同社が、営業的に目が覚めるような活動をしたという記憶はない。

 私としても、MRJで三菱重工が久し振りに意欲を出していることは素直にうれしい。1962年のYS-11初飛行から45年、1983年の日本航空機製造の解散以降24年もの時を経て、また旅客機を日本で作ろうという動きが出てきたことは、大きな意味があると考えている。

 それでも、パリでのこの振る舞いを知ると、「本当に大丈夫か」と、暗澹たる気分になるのだ。

 これでは勝てる戦いにも負けてしまうだろう。技術で負けるのではない。営業の基本ができていないことで負けるのだ。

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