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2007.09.30

スイングバイ

 月探査機「かぐや」は、10月4日の月周回軌道投入へと、順調に飛行している。

 運用現場の雰囲気はとても良いそうだ。実際に探査機が飛ぶというのはとても重要なことなのだな、と感じる。

 オーマイニュースに、「かぐや」は月軌道まで達した!を、中山 正志さんという市民記者が投稿している。その中の、以下の部分が一部で議論になっているようだ。

ロケット噴射して高度を上げたのでしょうか。実は、地球の重力を利用して「地球スイングバイ」を行ったのです。

 図中左の水色の円弧が、地球の公転軌道です。「かぐや」が1周目の間に地球は、公転で図の下に移動します。1周目の終わりに、地球に落下してくる時に、打ち上げの時点より地球は、下に進んでいます。

 すると「かぐや」の地球への落下時間(距離)はその分多くなり、地球を離れる2週目には、1周目より加速され、衛星速度が上がるのです。そのため、いっきに高度38万6000キロメートルまで到達しました。これが、9月24日の朝のことです。空中ブランコのようですが、スイングバイが使われてるのです。

 この記述は明らかな誤りである。スイングバイとは、重力場を介して大質量の星と探査機が運動エネルギーと運動量のやりとりを行い、探査機を加速・減速する軌道変更手法だ。地球を周回する探査機は、地球の重力場を利用したスイングバイを行うことはできない。

 拙著「恐るべき旅路」から、該当部分を抜粋し、以下に掲載しておく。

 月でも地球でもいい、とにかく星が一つ、宇宙空間に浮かんでいるところを想像してみてほしい。そこに遠くから探査機が飛んでくる。別に探査機でなくても隕石でもなんでもいい。とにかく星に向かって遠くからなにかが飛んでくると考えてみよう。

 星に近づいた探査機は、星の重力場に引かれて、ぐるりと星を回って向きを変え、また遠ざかっていく。この時、探査機の速度は向きが変わっただけで変化しない。プラスマイナスゼロだ。イメージとしては、抵抗がゼロの台車に乗って、同じだけの高さの坂道を降りてまた登るのと同じだ。台車は探査機、坂道は星の周囲の重力場というわけである。

 しかし実際には星は動いている。月なら地球の周りを回っているし、惑星ならば太陽の周りを回っている。つまり探査機を振り回す重力場も星と一緒に動いている。つまり、先ほどのたとえで言えば、降りて登る坂道自体が動いているのだ。

 坂道が動くとどうなるか。坂道を降りて上る台車の速度に坂道が動く速度が加わる。台車は坂道が動く分の速度を得て加速することになる。

 「坂道が動くなんて考えにくい」と妙な例えに困惑する人もいるだろう。しかし地球には動く坂道を利用するスポーツが存在する。サーフィンだ。サーフィンは大波、つまり動く坂道を滑り降り続けながら波の移動でサーフィンボードと上に乗るボーダーが前に進む。

 サーフィンの場合は空気や水が抵抗となるので、抵抗によるエネルギー損失と、波の移動から得るエネルギーが釣り合ったところでサーファーは波と共に同じ速度で移動する。しかし探査機と星の場合には、抵抗となる空気も水も存在しない。「移動する坂道」である星から得られたエネルギーのすべてが探査機を加速することになる。

 スイングバイとは、月や惑星を大波に見立てた、宇宙のサーフィンでもある。

 ところで、高校で物理を習った人は、「速度はベクトルである」ということを思い出して欲しい。ベクトルとは「向き」と「大きさ」を持つ量のこと。速度は単に「時速4km」というような大きさだけではなく、例えば「東に時速4km」というように「向き」と「大きさ」の両方を本質的に兼ね備えているのだ。だから、より正確に言うならば、スイングバイでは、探査機の速度ベクトルと星の速度ベクトルが足し算されることになる。スイングバイは単なる探査機の加速減速ではなく、速度ベクトルの足し算で、探査機の速度ベクトルが変化するということだ。

 「速度ベクトルの足し算」ということを、もう少しくだいて言うと、スイングバイでは、探査機の速さと向かう向きが変化するのである。

 スイングバイの原則は以下の3つだ。
・惑星や衛星の進行方向の後ろを探査機が通過する場合には、探査機は加速する。
・惑星や衛星の進行方向の前を探査機が通過する場合には、探査機は減速する。
・探査機自身が惑星や衛星の周囲を回っている場合、その惑星や衛星の重力場を使ったスイングバイはできない。

 一番目と二番目は、つまり最終的な探査機の向かう方向が、坂道の動く方向、つまりは星の進行方向と同じだと探査機は加速する。逆に探査機が向かう方向が星の進行方向と反対なら探査機は減速するということである。スイングバイを使えば加速するだけではなく、減速することもできるのだ。

 三番目の原則の意味は、例えば地球の周りを回っている科学衛星は、地球の重力場を使ったスイングバイはできないということである。地球の周囲を回るということは地球と同じ速度で太陽の周りを回っているということだ。だから地球の移動速度を使って自身の速度を変えられるはずがない。もちろん、地球の周りを回りつつ、月を使ったスイングバイは可能である。

 この件に関しては、色々な指摘があったようだ。中山さんはコメント欄で「地球周回軌道上でスイングバイが可能かどうかは調査中ですが(これも2chで宙ぶらりんになってるので、資料探します)今回の2周目の軌道修正は△Vc2によるロケットエンジンによる軌道変更でした。」と書いている。

 まだ納得はしていないようだが、自分が事実誤認をしたというのは認めた。

 実のところ、中山さんのような人は貴重だ。宇宙開発にとって、非難よりも無関心のほうが問題である。

 「勉強してから書け」という考え方もあるが、オーマイニュースは市民メディアとして書き手を広く募る媒体だ。「書きながらつまずきつつ、覚えていく」のは許されるべきだと思う。その分、オーマイという媒体の信頼度は下がるが、それは市民メディアを標榜した以上、甘受すべきデメリットであろう。

 実際、自分も駆け出し記者時代からどれほどつまずいてきたかを思い出すと、のたうち回りたくなる。私の場合は、先輩記者や編集長などがフォローしてくれたわけだが、オーマイでは、書いた本人が間違いに対する非難を直接受け取ることになる。それは、かなり厳しい試練だろう。

 中山さんには、きちんと勉強をして、今後とも宇宙関係の記事を出していって貰いたいな、と思う。

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2007.09.29

ビンディングで走る

Pedal


 A-Bikeにうつつを抜かしていた今年の前半、いつも乗っているGIOSはどうなっていたかというと、写真の通りになっていた。

 ペダルの形が変わっている。ビンディング・ペダルにしたのである。

 通常のペダルは脚が固定されておらず、踏み込む時だけペダルに力がかかる。なんらかの方法でペダルを脚に固定すると、脚を持ち上げるときも、ペダルに力をかけることができる。使う筋肉が増えるので、それだけ力強く効率的に自転車を漕ぐことができる。

 脚を固定する方法には、トウクリップというのもあるのだけれど、最近は金属の爪のついた専用の靴を履き、爪が噛み込む専用のペダルと組み合わせて使用する、ビンディングが一般的である。

 ビンディングにはオンロード、オフロード、レース用など様々な種類がある。あまりレース指向のものは、靴底がカーボンで軽量化されており、自転車を降りた時に歩きづらい。完全に自転車に乗るため専用の靴となっている。
 そこでシマノのSPDというシリーズから、ツーリング用のモデルを買って装着した。ペダルとシューズ、合わせて1万円弱の出費だった。

 ビンディング・ペダルの中には、ペダルの表裏で、通常の靴と使い分けることが可能なものもあるが、私は両面ともビンディングになったものを選んだ。中途半端では、使いこなすことができなくなると思ったからだ。だから現在。私のGIOSは専用の靴を履いていないと乗ることができなくなっている。


 ビンディングでは、まずなによりもペダルから脚を外すことを覚えなくてはならない。
 脚を固定してしまったら、止まる時に倒れてしまいそうに思うが、その時は足首を軽く横方向にひねると、簡単にはずれる仕組みとなっている。
 いついかなる時も止まりそうになった場合に、無意識のうちに足首をひねってペダルをはずせるようにしておく必要がある。

 私は運動神経が鈍いほうなので、長い間ビンディングを使うのをためらっていた。今回の導入にあたって、実際の使用者数人に「転ばないかねえ」と聞いてみた。

 全員が「転ぶね」「絶対転ぶね」と答えた。

 早い話、全員が転倒の経験者だったのである。

 どうやら、こればかりは転んで覚えるしかないらしい。となると、車道に倒れたところに自動車が来るというような致命的な事態だけは絶対に避けるということに専心するべきだろう。そう、覚悟を決めて乗り始めた。

 まず、ビンディングの効果だが、これは抜群だ。自転車のグレードを上げた位の大きな変化がある。こんなに効果があるとは事前には予想もしていなかった。
 それまで約20km/hで走っていた力で25km/h以上の速度を出すことができる。一生懸命走るだけではなく、適当な速度で流す場合も、ずっとリラックスして走ることができる。
 ただし踏み込むだけではなく、脚を引き揚げる力も利用するので、脚を丸く回すという意識が大事になる。もっとも脚を丸く回すというのは、自転車本来の脚の使い方だから、きちんと自転車に乗るという意味では望ましい。

 シューズの底には金属の爪が付いており、歩くと床とこつこつあたる。しかし私が買ったシューズの場合、ほとんど違和感はない。これで山道をハイキングするとなるとつらいだろうが、街中を数km程度歩く場合には十分である。

 実際の走行では注意深く交通の流れを読んで、「これは脚を下ろすことになりそうだ」と思ったら無理をせず、いち早くどちからの脚をはずしておくことが必要だ。
 そんなに難しいことではない。いままで以上に注意深くなり、「無理をすれば行けそうだ」という判断をしていたところを「無理だ」と判断するように習慣づければいい。
 足首をひねるという動作そのものは簡単に覚えることができる。むしろ、どのタイミングで脚をはずすかという判断が重要になる。

 これまでに2回転んだ。どちらも自転車で街中を走っている時ではなく、帰宅して自転車を降りようとした時に、ついうっかり脚を外すタイミングが遅くなってしまい、ひっくり返ってしまったのだった。
 走っている時は緊張しているせいか、転ぶことはなかった。むしろ、「やれやれ、帰ってきたぞ」と緊張が抜けたところで、「あれれ、脚がはずれないぞ!」となって転んだのである。

 ここ半年ほどは、転ぶこともなく快調に走っている。専用の靴を履くというのも、ちょっと慣れればいいだけの話で、特に不便になったという印象はない。使いこなせずに転倒する危険よりも、ビンディングを導入したことで、走ることが楽しくなるというメリットのほうがはるかに大きい。
 これほど簡単に、大きな効果が得られるなら、もっと早くから使ってみるべきだったというのが率直な感想である。

 実際問題として、高校生になったら学校で自転車教室を開き、ビンディングの使い方を教えても良いのではないかとすら思う。

 ビンディングを自転車に乗るための基礎的技能と考え、自転車は専用の靴を履いて乗ると習慣づければ、タバコ吸ったり携帯電話を使ったり音楽を聴いたり道の右側を逆走したりといった、マナーもモラルもない暴走自転車を減らせるのではないだろうか。

 というわけで、今のところ私は、サイクリングをするのも、ちょっと買い物に行くにも、ビンディングを使って走り回っている。
 これは自転車にとって、偉大な発明だ、と思いつつ。

楽天内のビンディングペダル一覧

楽天内の自転車用シューズ一覧

 一応楽天にリンクしておくが、種類が多く、また体にきちんと合ったものを選ぶ必要があるので、自分が自転車専門店に赴き、試着した上で購入することをおすすめする。ロードレース用からBMX用、サイクリング用と様々な種類があるので、自分の自転車の乗り方を考えて選ぶこと。

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2007.09.28

ミームとバックドアの与太話

 アマゾンからこんなメールが来た。

 ご注文時に予定して おりました発送予定日となっておりますが、まだ下記の商品の調達が できておりませ ん。

 お待たせしており誠に申し訳ございませんが、継続して商品の調達を行いますので、今しばらく時間の猶予をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。これに伴い現時点において目処となる発送予定日に変更させていただいております。

(中略)

"初音ミク HATSUNE MIKU"

 出遅れたかな。

 さて、昨日の、「神の恩寵を私の説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか」という話の続き。

 最近になって、4月のキャンパスで私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と叫んだ若者と同じ印象を受ける振る舞いを、ネットでよく見るようになった。

 mixiには、「懐疑論者の集い-反擬似科学同盟」というコミュニティがある。ニセ科学をウォッチングするコミュニティだが、ニセ科学というか、トンデモの信奉者が入り込んできて論戦になることがある。「911テロはアメリカの自作自演である」とか。

 もちろん論理的にはコミュニティに集う強者に論破されてしまうわけだが、彼らはほとんどの場合に自らが間違っていることを認めようとはしない。逆に「なんであなた方はこんなことが分からないのか」「こんなことも分からないようでは話にならない」「議論の相手にもならないのでさようなら」と、一方的な勝利宣言をして去っていく。

 その発言が、どうにも私には「あなたなんか地獄に落ちますからね」という言葉と似ているように思えるのだ。

 mixi以外では、大阪大学の菊池誠教授が、自らのkikulogで、911陰謀論、マイナスイオン、血液型制作診断といったトンデモの信奉者と激論を戦わせている。
 ここでも、時折、ビリーバーによる「あなたなんか地獄に落ちますからね(私の勝ちだ)」的な発言をみることができる。

 さて、怪しげな推論を組み立てることにしよう。以下は話半分に読んでもらいたい。

 宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していくのか。それはなにか両方が、同じ現象に根ざしているからではないか。

 もう一歩、怪しげな推論を進める。宗教もエセ科学も陰謀論も、人間の脳の同じ働きによって発現しているのではないか。

 もっと怪しい話を考える。それはひょっとしてミームによる人間の脳のクラッキングの結果ではないか。つまり、人間の脳に実装された世界認識のシステムには、最初から宗教のようなミームが利用可能なバックドアが組み込まれているのではないか。

 ドーキンスも「神は妄想である」の中で、人間の認識の問題点について言及している。人間が世界を認知する仕組みは、人間の体のサイズに合わせ、人間が進化したサバンナという場所での生存に役立つように進化してきたの。だから、それ以外の世界、例えば極微の量子力学的現象や、光速に近い速度の相対論的現象などを直感的に理解するようにはできていない、というわけだ。

 そこで、もう一歩、怪しい方向に進んで、「そんな穴だらけの世界認識のスキーマに、クラッキング可能なセキュリティホールがあったら」と考えてみる。

 「人間はコンピュータ・ソフトウエアと違う」と言われそうだが、認知に関する現象には錯視の一部のように「魂」と言うものを持ち出さなくても、説明できるものが少なくない。とすれば、人間の世界認知システムを、ソフトウエアと考えてもいいのではないだろうか。


 思うに、このセキュリティホールは、人間が社会を営む生物であるというところに起因しているのではないだろうか。
 私たちには、社会を営む中で「周囲の人間に認められたい」といいう欲求が存在する。それはもちろん、認められることが生存に有利になるという理由から、進化してきたものだろう。

 しかし、実際問題として多くの人は、能力以上に認められることなく、社会に埋没していく。

 では「自分は特別であり、周囲に認められるべき存在である」と確信させてくれるミームが存在したらどうか。

 「特別であるべき自分」という欲求と、「特別ではない自分」という実際とのギャップに、バックドアが存在する。そこを突いてミームが入り込む。人間は酸素不足や睡眠不足、薬物などで幻覚を起こすハードウエアであるということも、ミームは利用する。神秘体験というやつだ。こんな神秘体験をした自分は特別である、というようにミームは自己認識を歪め、誘導する。

 ミームは集団に感染する。一人に感染しただけなら、ミームの創り出す「特別な自分」という認識は、現実の前に崩れるだろう。しかし集団に感染し、集団全体が「俺もお前も特別だよ」という幻覚を相互供給し合うなら、ミームは生存し続ける。

 集団感染は、ミームが生き延びる前提条件である。だからミームに感染した者は、ミームを広げるべく布教活動を始める。それは、宗教でもエセ科学でも、トンデモでも、マルチ商法でも、同じである。
 これらは、同じバックドアを利用するミームの変種なのである。

 ああ、なんだか書いていて、妙な気分になってきたぞ。

 でも、こんなことを思いつく俺ってすごいな。おお、息を止めると光が見えるぞ。わはは、我は解脱せり。ひれ伏せ!蛆虫めら!!(あれ?)


 そう、これは、かなりの過程を積み重ねた与太話である。「宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していく」ということのみを根拠で、論理を積み上げただけ。

 「人はひっかかりやすい生き物である」ということをごちゃごちゃ言ったに過ぎないような気もする。

 にわか作りだから、崩れるのもまた早いな。

 最後に、もう一つ妄想を積み重ねておくと、この手のミームの感染に対抗する免疫に相当するものがあるとするなら。それは「笑い」ではないかという気がする。

 池乃めだかの「今日はこれくらいにしといたるわ!」——あれですね。凝り固まった認識をすっとほぐすわけです。

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2007.09.27

神と悪魔と罵詈雑言

「『あなたは神を信じますか』って寄ってくる人をからかうと、おもしろいよ」
 こういう、ろくでもないことを教えてくれたのは、高校の年若い生物の教師だった。
「僕も学生の時、よくやったんだよね。話させるだけ話させておいて、『神様なんていませんよ』ていうとむきになったりしてね」

 しかしながら高校の頃は見知らぬ人をからかうには、自分は人見知りが過ぎた。
 意識してこの手の人たちをからかうようになったのは、大学に入ってからだ。

 大学という場所は、おおかたの宗教にとって信者の草刈り場だったのだろう。色々なのがいた。「あなたは神を信じますか」から始まって、「あなたの幸福を祈らせて下さい」とか、「手かざしをさせてください」とか。
 そういえば「神ノ愛ヲ、信ジナサーイ」というモルモン教徒に行き当たったこともある。「どこから来たのか」と聞いたら、アイダホだと言っていた。

 その手の人たちをからかうようになって、面白かったのは、最後の去り際だった。大体はからかわれると分かって、去っていく。その時、必ずといっていいほど、悪態を付くのだ。
 「なんて酷い人だ」というような非難ではない。悪態だ。

 4月、クラブの勧誘でいっぱいのキャンパス中庭で声をかけてきた若者は、特に印象に残っている。のらくらとこちらがはぐらかしていると、遂に怒り出し、「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言ったのだ。確か「なんでそんなことが分かるんですかあ?」と返したら、憤然たる態度で「絶対です!」と叫び、去っていったのだった。

 確かに純な魂をもてあそんだ罪は、私にある。が、私は地獄への地図も、地獄の住所も知らない(だから、そういう態度でいたから彼は怒ったんだってば)。

 確か大学の3年になったころだったか、「幻魔大戦」がアニメになり、原作の平井和正も小説を書き継いだことがあった。ところが、当時平井が「GLA」という新興宗教にはまっていたこともあり、書く小説がどんどん妙な方向にいってしまい、20冊も書き継いでもストーリーは全然進まない、ということになってしまった(平井はその後GLAから離れたそうだが、GLAは今も活動している)。
 その頃、GLAの教祖である高橋佳子の著作を何冊か読んだことがある。文章が達者で、後で知った出口王仁三郎の「霊界物語」などに比べると格段に読みやすかった。これらは事実上平井がゴーストライターを務めたそうだ。

 このあたり、本当は再読して確認してから書くべきなのだろうが——ここでは記憶を優先することする。

 高橋佳子の著作(確か「真創世記」だったか、そんなタイトルだった)で強烈に覚えているのが、霊界で農家のおばあさんに会って会話する(霊界で農家ってどういうこと??)というところで、おばあさんの言葉が「だべ」だったか「だべさ」だったか、訛っているのだ。

 霊界がどんなところかは知らないが、訛っているとはこれ如何に?霊界に加藤茶がいたら、やっぱりおまわりさんは「すんずれいしました!」とやっているのか??
 キリスト教の典礼文がキリシタン弾圧の結果、オラショへと転訛したという事例もあるし、訛っていていかんということはないのだろうが、それでも光に満ちた清浄なる霊界に、いきなり俗世間っぽい訛りとはねえ、と、思ったものである。そりゃ、「霊界とはそういうものだ」と言われれば、「はいそうですか」としか答えようがないわけだが。

 この本の中には、悪魔退散のシーンがあり、悪魔は、光の前にありとあらゆる罵詈雑言を吐きつつ退散するのであった。

 いや、このシーンがあったのは平井版「幻魔大戦」だったかも知れない。だいぶ記憶があいまいになっている。

 ともかく、大学生だった時に読んだ新興宗教がらみの本で、一番印象に残ったのが、「悪魔が罵詈雑言吐きつつ退散する」というシーンだったのである。なぜなら、私にはその悪魔が、私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言った若者と重なって見えたから。

 神の恩寵を私に説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか(だから、からかったお前が悪いんだってば、という話はともかくとして)。

 その後も宗教がらみで、罵詈雑言を見る機会が何度もあった。例えば、創価学会が日蓮正宗大石寺との確執の中で放った言論攻撃も、私には「まるで退散する悪魔の罵詈雑言」のように響いたものである。

 神と悪魔が、罵詈雑言という、余り行儀良くないキーワードで結びつくなら、それはそもそも宗教という思考様式に致命的な欠陥があるためではないか——当時の私はこの程度まで考えて、そこで思考を止めた。

 例えは悪いかもしれないが、吉本新喜劇の池乃めだか演じる、凄んでも凄んでも、すべて外して笑いをとったあげく、「今日はこれくらいにしといたるわ!」で締める——あれに近いものを感じたわけですな。

 昨日のドーキンスの本で思い出した、そろそろ四半世紀も昔の記憶である。もちろんオウム真理教なんて連中が本物のテロをやらかす大分前の話だ。

 以下は余談。

 私が、その手の人たちをからかうのをやめたのは、大学最寄りの駅で、おそらく同じ大学に通っていたのであろう——女性から「あなたの幸福を祈らせて下さい」と声をかけられたからだった。

 そーら、カモさんキター、しかも鍋と葱付きーっ、てな調子で、私はへらへらと相手をしたのだが、彼女はすべてを真剣に受け取って、「またお会いしましょう」といって去っていったのである。

 む、勝手が違うぞ。

 その後数回、彼女と会った。その都度、彼女は真剣な調子で「真理」を語り、私はへらへらと受け流した。何回目だったか、彼女は「私達の家に来ませんか。仲間の家があるんです」と言い出した。まあ、新興宗教が気の弱い学生を巻き込む時の常套手段である。

 だが、その後の言葉が違った。「家ではみんなでご飯を食べるんです。みんなで一緒に食卓を囲むなんて、とても素晴らしいことって思いませんか」

 私はこの言葉にショックを受けた。私の育った家庭は、円満にして満点というわけではなかったが、それでも家族が揃って食卓を囲むのは当たり前であった。私はそれを素晴らしいことと思っていなかった。家族の食卓は、当然あるべきものだった。

 「一緒に食卓を囲む」ことを「幸福である」と語る彼女の背後に、なにか尋常ならざる不幸の気配を感じた。触れてはならぬものに触れてしまったという後悔が背筋を走り抜けた。

 私は二度と彼女に会うことはなかった。そして、その手の人をからかうのもやめた。

 私には神も悪魔もどうでもいい。彼女はその後幸福になったのだろうか。そちらのほうが気にかかる。





 昨今、「神と悪魔」テーマなら、やはり「るくるく」だろう。悪魔の王女が貧乏学生のところに同居するという典型的落ち物パターンながら、込められた毒と哄笑が半端ではない(なにかとんでもない伏線を仕込んでいるようでもあるし)。実際問題として、天使がなぜか荒れ寺の小坊主になって、「やはうえさま、お元気ですか」と祈る、なんて発想は、あさりよしとお以外から出てきようがない。

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2007.09.26

神と戦うドーキンス

 書評という仕事をしていると、自分の楽しみとしての読書がなかなか難しくなってしまう。そんな中、電車の中で読み進めていたドーキンスの「神は妄想である—宗教との決別」を読み終えた。

 日本で「無神論者です」といっても、「へえ、そうですか」で終わるけれども、キリスト教圏では無神論者というと、「悪魔の手先」と思われるほどである。キリスト教圏にせよイスラム教圏にせよ、宗教は人々の思考をがっちりと規定している。

 そんな中、ドーキンスは、多くの人々が薄々、あるいは無意識に感じていた事を、この本ではっきりと言ってのけた。「何をどう考えていっても、神などというものがこの世を見守っていると信じる合理的理由はない」「宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはない」。

 特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うのである。

 言われてみればその通りだ。例えば、「キリスト教によって平和がもたらされた歴史的事例」をあなたは思い出せるだろうか。私はすぐには思い浮かばない(なんかあったっけかなあ…マザー・テレサのような個人的努力ぐらいしか心当たりがない)。
 逆に「キリスト教などというものがあったばかりに発生した悲惨な事例」なら、十字軍、インカ帝国滅亡とそれに続くスペインによる現地民の扱い、ドイツ農民戦争、スペインの異端審問などなど、いくらでも思い出せる。

 宗教の否定という点では、「宗教は阿片である」としたマルキシズムを思い起こす。が、結局共産主義という新しい宗教を作っただけに終わったマルキシズムと比べると、ドーキンスの態度はより柔軟で、科学的方法論に忠実である。

 彼は、激することなく平静に、「そもそも神がいるとする合理的理由はどこにあるのか」を追求していく。彼の論理は、過去何度となく繰り返された神学関係者との論争で鍛えられているのだろう。冷静で、隙がなく、破綻もしていない上に、容赦ない。神の存在を主張する意見をひとつずつとりあげ、確実に論破していく。宗教関係者が「要するに信じたいのだから信じるんだ。別にいいじゃないか」というトートロジーに陥るところまで、詰め将棋のように一手ずつ包囲網を縮めていく。

 本の後半に入るとドーキンスは、宗教に帰依することにより、いかに人間性がゆがめられ、生きていく上での不利益を被るかという事例を、これでもか、これでもかと列挙していく。この辺り、彼もヒートアップしているという印象だ。

「宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されねばならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。」(p.448)

 いや、まったくその通り。

 本書が描くキリスト教圏におけるキリスト教のありようを読んでいくと、アメリカという国が滅ぶならば、イスラム教原理主義との戦いで滅ぶのではなく、内部に抱えたキリスト教が振りまく無知蒙昧のために滅ぶのではないかと思えてくる。

 先だって死去した、テレビ宣教師ジェリー・ファルウェルのテレビ伝道におけるデタラメっぷりは一部知っていたけれども、彼のようなテレビ宣教師が他にもいくらでもいるとは知らなかった。

 ジェリー・ファルウェルについては、町山智浩氏のTBSラジオ「コラムの花道」5月22日(Podcast)あたりを参考にしてもらいたい。

 ちなみにドーキンスは、宗教が生み出してきた文化や芸術を否定はしていない。宗教の否定とは別に、それらの文化を理解し、観賞することは可能だと、生真面目に説明していく。その通りだと思う。

 本書を書くのは、大変勇気のいることだったろう。それでもドーキンスのような世界第一線級の知性が、このような本を書いた理由の一つに、欧米社会でのキリスト教原理主義の台頭、911テロに始まるイスラム教原理主義との対決のエスカレートがあるのだろう。
 本書には、テロを起こす殉教者の心理も分析されている。

 宗教というやくたいもないものが、世界を壊そうとしている——その危機感こそが、本書執筆の原動力だったのだろう。

 こんな書評を最近書いたせいもあるのだろうけれど、「宗教とは、溺れる者がつかむ藁」という気がしている。つかんだ者は、「やれうれしや、つかんだぞ」と思っているし、思ったことによって心の持ち方は安定するが、事態が改善するわけではない。

 生きることが一大事業だった時代には、心が安定するだけでも意味があったのかも知れない。が、これだけ科学技術が進歩し、平均寿命も延びたとなると、藁をつかんだまま沈んでいくことの弊害のほうが、遙かに大きくなっている——ということかな、と思うのだ。

 本書に見るキリスト教圏の惨状(確かにこれは惨状だろう)からすると、ぼくらは八百万の神のいましめす 豊葦原瑞穂の国に生まれてよかった。山田正紀「神三部作」(「神狩り」「弥勒戦争」「神々の埋葬」だったっけ)のような小説を、さらっと受け入れられる社会というのは悪くない。

 いや、日本人であるということは、そういいことではないのかも。昨今はやりのスピリチュアルやら「水からの伝言」のようなニセ科学は、エセ宗教でもあるという点で、宗教以上に性悪なのかも知れないな。


 神をも相対化して思考実験の道具に使えるのがSFの醍醐味だ。「神は沈黙せず」は、ここ数年に読んだSFの中でも出色の、神SF…じゃない「神ネタSF」である。







 山田正紀「神三部作」は、「神々の埋葬」が現在入手不可能のようだ。まだ私は読んでいないのだけれども、「神狩り2」へのリンクを置いておく。アマゾンの書評を読むと読むのが怖いような作品のようなのだけれども、これは読まねばならないだろう。

 私は中学生の時、SFマガジンに一挙掲載された「神狩り」を読んでいる。図書館の子ども向け小説の棚ばかり読んでいた、まだ小学生気分が抜けない中坊は、疾走する文体に圧倒された。それからしばらくの間、確か「宝石泥棒」ぐらいまでは、熱狂的な山田正紀ファンだった。「神狩り」は小説として評価すると、未完成で欠点だらけだと思う。それでも、あの悪夢のような熱を帯びた文体だけは、あの時25歳だった山田正紀にしか書けなかったろう。


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2007.09.25

地球温暖化と惑星工学

 暑さ寒さも彼岸まで、という。秋分の日を過ぎて、やっと涼しくなってきた。

 しかしまだ暑い。例年ならそろそろ寒さが忍び寄ってくるはずなのに、私はまだTシャツ一枚に短パンという夏の姿で原稿を書いている。

 地球温暖化のせいだろうか。

 温暖化の問題がやっかいなのは、まだ我々が科学的に「こうだ!」と言い切れるだけの知見を蓄積できていないことにある。確かに大気中の二酸化炭素濃度は増える一方であり、世界の平均気温も又上昇し続けている。しかし、その因果関係がどうなのかは、今なお議論の対象となっている。現在は長い周期で見た間氷期であることは分かっているが、では間氷期のどこいらへんなのか。今の温暖化は二酸化炭素の影響ではなく、別の要素のせいなのではないかとか、今なお議論は続いている。

 実感として確かに温暖化は進んでいるように思える。温暖化を示すデータも数多く集まっている。それでも、納得しない者、例えばアメリカの為政者などは、納得しない。その程度のあいまいさは今も残っている。

 悩ましいことに、温暖化対策には「皆が納得するだけのデータを積み重ねた頃には手遅れになっているのではないか」という恐怖がつきまとっている。

 地球温暖化のポジティブな側面はないものか、と考えていたら、SFマガジン11月号の、金子隆一さんのコラムに、興味深い意見が書いてあった。南極の氷の内部の窒素と酸素の濃度比を調べることで、地球の長周期気候変動の一つであるミランコヴィッチサイクルの物証が得られたというニュースに続いて、金子さんはこう書いている。

 しかし、それよりもわれわれにとってなお興味深いのは、これで、惑星を人為的に冷却したり加熱したりする未来の惑星工学への新たな突破口が開かれたという点である。

 そうか、地球温暖化を別の面でみると、「人間が遂に地球の気候を変化させる力を得た」ということなのだ。次に必要なのは「人間が地球の気候を制御する力を得る」ことなのであろう。そこには様々な倫理的問題が存在する(気候兵器など考えたくもない)が、これは温暖化が示す希望の側面なのかも知れない。

 我々は、人間が気候を制御する時代の夜明けに生きている、と考えると、温暖化防止も単なるエコロジーの問題ではなく、宇宙に進出する人類が解決すべき課題と、前向きに捉えられるようになる。

 温暖化を防止するということは、地球上で人間が生き続けるということのみならず、より大きな宇宙的視点で、知性が惑星全体を制御するという意味もあるわけだ。

 これだけで、前向きな気分になるというのも単純な話ではある。が、私としては少し元気が出てきた。

追記:あ、自分で過去にも同じようなことを書いているぞ。ボケっと自分を罵るべきか、それとも一貫性を自賛すべきか。

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2007.09.24

野菜炒め大実験

 以前、ジャンクフードの定義を試みたが、今回はその続き。

 前回、最後にジャンクフードの定義における「過度」を適度に書き換えると、ヘルシーフードの定義となる、という話を書いた。自分の書いた文を引用してみると、

上記のジャンクフードの定義から、「過剰」を抜いて、代わりに「適度」と入れてみよう。

・炭水化物を中心に
 1)適度の塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)肉、チーズなど適度なタンパク質
   c)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

・タンパク質を中心に
 1)適度な塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

途端にヘルシーフードに早変わりする。二郎ラーメンのようにこれに適度の野菜が加わるならば、けっこうな健康食だ。

 主題はヘルシーフードとジャンクフードの定義は何故似ているのか。実はここ数日の食事で実験をしていたのである。

 実験材料は、キャベツともやしだけの野菜炒めだ。要するにキャベツを玉一つ買ってしまったので、もやしと合わせて食べ尽くそうとしたわけ。ついでに実験もしてしまえと考えたのだ。

 キャベツともやしをごま油で炒める。このままでは野菜と植物性油脂だけだ。当然まずい。

 そこで味付けする。塩を入れると一応食べられる味になる。物足りないのでコショウを振りかける。ますますおいしくなる。

 適度なアミノ酸を求めて、塩の代わりに醤油を使ってみる。これもいい。

 ここまでで欠けているのは、タンパク質と炭水化物だ。豚肉の細切れを入れると、いっそうおいしくなる。思い立って、油揚げを細切りにして入れてみると、これもなかなかいける。

 次に炭水化物として、炊いたご飯も少しいれてみた。悪くない。野菜主で米が従のチャーハンみたいになるが、ごま油と合っておいしく食べられる。

 では異なるタンパク質はどうか。味付けを塩コショウにして、チーズをちぎって入れてみた。ナチュラルチーズを使いたいところだが、お手軽にコンビニで買ったプロセスチーズを使った。

 うまいっ。味にこくがでる。チーズはタンパク質でもあるしアミノ酸でもある。なるほどなるほど。

 ややリゾット風になったので、次はもう少し工夫してみる。米の代わりに手元にあったせんべいをちぎっていれてみた。

 これまでで最高の味になった。食感も、もっちりしたチーズにぱりぱりのせんべいが加わって意外なぐらいに良好だ。

 なぜ、このような料理を美味しく感じるのか。その原因は当然生物進化に求められるべきであろう。野菜炒めは、塩分、香辛料、アミノ酸、タンパク質、炭水化物を加えることによって、より生体を維持するのに適した食事になったのだ。

 つまり我々は、より的確に必須栄養素を的確に摂取できる食事を美味と感じるのである。

 そう考えると、なぜジャンクフードがおいしいかも理解できる。つまり、ジャンクフードは我々が本能的に持っている「より生体を維持するのに適した食事をおいしいと感じる性向」に対する超正常刺激なのだ。

 この次の段階としては、野菜炒めをベースに過剰さを付け加えて、ジャンクフードを作るということが考えられるだろう。

 いずれやってみよう。

 なお、この実験は、あくまで個人的なものであり、これにより何かを主張するものではない。「対照実験は?」とか「二重盲検は?」とか「条件が一定になっていない」「サンプル数が少なすぎる」といった疑問や批判は却下である。というか実験そのものが、批判に値しない。はい、自覚しております。

 で、当面野菜炒めはもういいやというのが、オチでありました。

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2007.09.22

パリの素敵なおじさまたち

おわびと訂正(2007.9.25)この記事で引用したaqqueさんのBlogの記事を、私は2007年のものと誤解していました。実際には2005年、前回のパリエアショーの時のものでした。この記事の趣旨には影響ないですが、一部言い回しが事実とは異なることになります。訂正し、お詫びいたします。コメント欄で指摘してくれた方、ありがとうございます(松浦)。


 パリ・エアショーには、日本からはいつも日本航空宇宙工業会がブースを出している。ところが、この展示がなんともやる気を感じさせない——という話は、2003年に私と一緒にパリ・エアショーを取材した笹本祐一さんが「宇宙へのパスポート3」の74ページに「やる気のない美術部が過去の遺産を寄せ集めて文化祭の体裁だけ整えました、な感じ。いや実際やる気ないんだろうし、閑散としてましたけど。」と書いている通りである。

 航空宇宙工業会の展示のみすぼらしさは、関係者も認識しているらしい。3年前に航空宇宙学会のパネルディスカッションに出席した時、 「パリエアショーでなにが恥ずかしいって、まったくやる気が感じられない航空宇宙工業会の展示が恥ずかしかった」と言うと、横でパネラーとして出席していた三菱重工の方が、吹き出し笑いをした、ということもあった。

 MRJがモックアップまで出展した今年パリ・エアショーで、日本航空宇宙工業会はどうだったのだろうか、と思っていたら、某氏からこんなページを教えてもらった。

 「フランスよもやま生活記 自由な生活を求めて」より。パリで生活する日本人女性aqqueさんのBlogである。

 2007年ではなく2005年でした。

 パリ・エアショーで、「日本*****という財団法人」の受付で働いたという話である。パリ・エアショーに日本の財団法人は出ていないので、これは間違いなく社団法人・日本航空宇宙工業会であろう。

 核心は パリ エアショー裏話1に書いてある。

みなさん、天下りの人たちだろうと思います。

*肩書きが同じ人が多すぎて、どういう位置づけかわかりません。
(副会長だけで3人、専務(vice president)だけで3人、部長も何人いるんだか・・・など)

*こちらが「おはようございます」と挨拶をしても、挨拶は返さない。

*名前を覚える気がない。(「女性の方たち」でひとくくり)

*陰でこそこそ悪口を言う。

*会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる。
→これって、フランスではあまり考えられないことなんですよ。
だからかもしれないけれど、わたしたち女性軍が人(地位)によって態度を変えないことに、彼らはまた腹が立っていたのかもしれません。

(中略)
  やっぱりいわゆる本当にエライ人たちというのは、人間的に非常にできた人たちが多いので、とても謙虚だと言うことがわかります。
中途半端にエライ人、既得権を最大限に利用する人たちだけが、横柄な態度をとるのかな、と感じました。

 ここで、日本航空宇宙工業会を離れて一般論をしよう。主題は終身雇用組織が、組織中の厄介者をどう処遇するか、である。

 会社組織と所属する人にも相性というものがある。会わない場合、その人は組織内で「使いづらい奴」「役に立たない奴」と判定される。その中には、有能なのだが性格に問題がある、とか、上司に恵まれず能力を発揮できずに腐っているという人もいる。もちろん、本当の困ったちゃんもいる。

 終身雇用の世界では、そんな彼らを組織外に放り出すことができない。

 ではどうするか。道は2つある。一つは子会社に押しつけること。もう一つは業界団体など、関連する外部団体に押し込むことである。

 前者の場合、子会社社長になって阿鼻叫喚の惨状に、などということもままある(大抵の場合「ヒトラー」とか「アミン」といった独裁者のあだ名が付く)。ただし、この場合はまだましな人材であることが多い。

 子会社は本社と利益共同体なので、あまりの惨状になると本体の経営に差し支える。このため、本当にどうしようもない奴と判定された者は、業界団体に出される場合が多い。

 送り出す側は、困ったちゃんがよろこんで業界団体に出て行くように腐心する。大抵は「業界団体から大所高所の見地で、業界を指導してもらいたい」などといって送り出すことになる。

 そして困った人の多くは洞察力と自省心に欠けているので、「そうか、俺は偉くなったんだ」と錯覚して、業界団体にやってくることになる。そうなると、「この人は本当に社会人なのか?」とびっくりするような横柄な態度を取ったり、稚拙なウソをついたり、相手に応じてころっと態度を変えるような素敵なおじさまの一丁上がり、ということになる。
 中には会社を離れて、うってかわって水を得た魚のごとく働き出す例もあるが、誰もがそうなるというわけではない。

 ちなみに私が過去の取材経験でぶつかった最悪の例。

 もう時効だろうから書くが、1997年に「H-IIロケット上昇」を書くとき、私は当時のロケットシステム社長にインタビューしようとした、別の席でお会いした時に本人の了解も取り付け、一応会社に話を通しておかなくてはな、と電話したら、まさに素敵なおじさまにぶつかってしまったのである。

 彼は名乗りもせず、鼻息も荒く私を断罪した。
「あなたは何者ですか。社長があなたのような人に会うわけがないじゃないですか。ダメです。お断りいたします。取り次ぎなんてとんでもない」
 いくら社長本人の了解を取っていると説明しても、ダメの一点張り。そのうちに、「あなたは何の権限があって社長に会おうというのですか」と言い出したので、こりゃダメだと思って電話を切った。
 「完全に、社長に会う人をコントロールするという権限に酔っているな」と思った。無能の人が、与えられた職務上の権限を自分の能力であると錯覚するのは、よくあることである。
 私は結局、社長のインタビューをあきらめた。

 ずっと後になって、ロケットシステムの重役に「こんなこともありました」と話したことがある。重役氏は、私が名前も知らない素敵なおじさまが誰であるかを一発で理解したようだった。
「彼は元の会社に返しました」
という返事が、即座に返ってきたのであった。

 もちろんそれがいかなる団体であっても、よく働く有能な人はいる。そういう人がいないと、そもそも組織は回らない。

 とりあえずaqqueさんのBlogから推察するに、日本大使館で開催されたMRJレセプションには、「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していたのだろう。

 正確には「今年のパリエアショーにおいても、MRJレセプションに「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していた可能性が高い」です。

 私は、MRJが心配である。

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2007.09.21

続・MRJ、大丈夫か?

 昨日の記事のコメント欄で、大石英司の代替空港でのMRJの記事、および記事の主題であるパリ日本大使館レセプション(三菱重工ニュース)へのリンクを教えてもらった。

 大使館でレセプションを開くのはいい。日本大使館でMRJのレセプションがあるということは、MRJ開発を日本政府が支援するということは暗黙に示す意味がある。その分MRJの本気の度合を海外に示すことになるわけだ。

 問題は、レセプションにどれだけユーザーであるエアライン関係者、そして重要なのは海外専門メディアの記者を呼んでいるかということだ。

各国エアラインの幹部など日米欧を中心とした航空宇宙産業関係者多数のほか、経済産業省から片瀬裕文製造産業局航空機武器宇宙産業課長が、また当社から西岡喬取締役会長が出席。総勢267人規模の盛会となった。

 というのだが。

 267人というのは、まあまあの規模だ。うち、エアラインとメディア関係者が何人ぐらいだったかが気になるところ。エアライン関係者の重要性は言うまでもないが、メディア関係者というのは説明が必要かもしれない。

 MRJは、いまだ海外では無名だ。その知名度を上げるには海外専門メディアへの露出を増やす必要がある。露出を増やすには重工首脳部がメディアと接触し、記事になるような発言をすることが必要。そして、メディアをまとめて相手にする場としては、このようなレセプションが最適なのだ。

 レセプションには西岡三菱重工会長が出席したということなので、西岡会長の回りに内外の航空専門メディアの記者が群がり、会長発言を記事にするというのが望ましい。重工首脳部としても、リップサービスでいいから、メディアが一本の記事にしやすいような発言を心がける必要がある。もちろん英語、ないしフランス語で発言するべきところだ。

 大石氏のレポートだと、どの程度メディアを呼んだか、かなりあやしいような気もする。これが内輪向けレセプションだったら、単なる大使館備蓄ワインの浪費以外の何物でもない。

 一見してひがみっぽくも読める大石氏の記事だが、もしも広報部なり工業会なりが作家の大石氏をメディアとして認識していなかったのだとしたら、それは思い違いだ。

 小説に登場するメカが、時としてその一般へのメカの印象すら決める(ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」におけるシトロエンDSのように)。だから当然、作家もレセプションの招待リストに入れておくのが、広報部の仕事だろう。

 このクラスのパーティだと、参加人数が数人増えたところでどうということはない。大石氏を参加させたことで、例えば氏の次回作にMRJが少しでも登場すれば、宣伝費として安いものである。

 そういう計算を、重工広報部ができていたかどうか。

 とりあえず、航空宇宙工業会から、パリに出張した者は皆出席したんだろうなあ、というところで次回に続きます。

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2007.09.20

MRJ、大丈夫か?

 三菱重工業が、YS-11以来の国産旅客機「MRJ(Mitsubishi Regional Jet)」の開発に乗り出そうとしていることは、多くの人がご存知のことと思う。

 開発にゴーサインはまだ出ていないが、今回三菱重工はかなり本気のようだ。やっと航空ニッポン復活となるのだろうか。

 私は、かなり危惧している。旅客機市場はそんなに甘い世界ではないというのもあるが、それ以上に三菱重工の営業に不安感を抱いている。

 私の漠然とした不安感を補強する記事を見つけたので紹介する・

 「航空の現代」という航空の世界では有名なホームページがある。作者の西川渉氏は、朝日航洋の代表取締役専務まで務めた、リージョナルエア、すなわち地域航空のプロ中のプロだ。

 その西川氏が今年7月2日付けで、<パリ航空ショー> 三菱リージョナルジェット という記事を公開している。今年のパリ航空ショーに、三菱重工はMRJのモックアップを出展した。西川氏は航空ショー会場で、モックアップ内部を見学しようとした、その時の記録である。以下少し長くなるが引用しよう。

 川崎重工の向こう側では三菱重工が計画中のリージョナル・ジェットMRJのキャビン・モックアップを展示していました。実物大のコクピットと胴体部分を模したもので、非常に立派です。ところが、内部を見せてほしいというと、断られたのです。今日からパブリックデーなので、機内に人をいれるとキリがないからという理由です。

 しかし今日はビジネスデーでもあるし、第一そんなに人が詰めかけているわけでもない。周囲には誰もいないじゃないかというと、特別な人以外は見せられないという。なんだか「馬の骨」呼ばわりされたみたいで、確かにそうには違いないが、やっぱりカチンときた。無論こちらは最初から名刺を出して名乗っているわけです。

 こんなに立派なモックアップをわざわざつくって、はるばると日本から持ってきて、おそらくは高い料金を払って会場に展示しているのでしょう。にもかかわらず、内部を見せるわけにはゆかぬとはどういうことか。展示の意味がないではないかと押し問答をしていると、三菱の若い社員に代わって年配の女性が出てきました。そして、こちらの話を聞くと、しばらくお待ちくださいと言って引っ込み、やがてデザイナーを名乗る人物が登場しました。いずれも日本人です。

(中略)

 こうした規制というのは警察や国家のやりたがることで、何かの秩序を保つには必要なことですが、人に見せるための展示をしながら見せないというのは、どう考えてもおかしい。どこかに秘密があるのなら最初から展示しなければいいわけで、三菱重工の妙にこわばった権威主義を感じさせられました。平たくいえば「もったいぶるな」ということです。

 パリにMRJモックアップを持っていったのは、三菱重工の経営判断だったのか、それとも営業サイドの意向だったのか、いずれにせよ、この対応はあまりにひどい。

 まず、出てきた「三菱の若い社員」が、西川氏の名前を知らなかったということが信じがたい怠慢だ。MRJは、ミツビシ・リージョナル・ジェットだ。Googleで「リージョナルジェット」と検索すると、トップに出てくるのは西川氏のホームページなのである!

 西川氏のページを少しでも読めば、「作者はこの分野に非常に深い見識を持っている」と分かり、「作者は誰だろう」と西川氏の名前で検索をかけるはずである。そうすれば氏の経歴も出てくるので、「なるほど、仕事上この人の名前は覚えておかなくては」と考えるのが自然だろう。

 それが「特別な人以外は見せられない」と対応をしたということは、「三菱の若い社員」が、自分の仕事についてネットで検索することもしなかったということを意味する。仕事に対する意欲が全く感じられない。

 それ以前に、なぜパリ航空ショーまでモックアップを持っていったのか、その意図は末端まで徹底していたのだろうか。

 より多くの人にMRJを知ってもらい、その性能とコストパフォーマンスを宣伝し、受注につなげるためだろう。パリ航空ショーは、飛行機が飛び回るただのお祭りではない。軍民を問わず世界各国の航空関係者が集まり、ついたてを立てたブースの中で様々な商談を行い、自らの優位をアピールし、ライバルをけ落とす宣伝すらする、熾烈な商売の場なのである。
 一般客に混じって、お忍びの各国関係者がいてもおかしくない、そういう場所なのだ。

 モックアップなど汚れても壊れてもいい。直せばすむのだから。もったいぶるよりも一人でも多くの人にモックアップを体験してもらい、意見を聞くと同時に、「三菱は本気で旅客機を開発するつもりだぞ」と思わせることが重要なのだ。

 それが、「特別な人以外は見せられない」とはどういうことだろうか。西川氏の体験は、ビジネスデーに起きている。一般客は入場しておらず、会場内は航空関係者と出展者、そして報道関係者が大部分だ。
 やってきた各国の報道関係者にも「特別な人以外は見せられない」と言ったのだろうか。

 もしそうなら、つれなくされた報道関係者は、自国に戻り、「ミツビシはモックアップも見せてくれなかったよ、ケチだな」と言って回ることになるだろう。それが、MRJの国際的なイメージにどれだけのダメージとなるか、想像できているだろうか。

 一般公開日はどうだったのだろう。特別でない一般客がいくら来ても「特別な人以外は見せられない」という対応だったのだろうか。
 それら特別でない人が、将来MRJが就航した暁には、乗客として乗ることに、思い至っていただろうか。その時、「自分はパリで初めてこの飛行機のモックアップにすわったんだぜ」と考えることが、どれだけ三菱のイメージを高めるか、考えはしなかったのだろうか。

 パリまでモックアップを持っていって、対応を間違って悪印象を振りまいて、どうするというのだろうか。

 2003年にパリ航空ショーに行った時に見た、中国のリージョナルジェット旅客機「CRJ」の展示を思い出す。ものすごい熱気で、「買って下さい、買って下さい」と迫ってくるようだった。もちろんモックアップも全日公開である。

 そんな奴とMRJは市場で戦うのだ。戦う前の宣伝で負けていてどうするというのだろう。

 西川氏は、続三菱リージョナルジェットという記事も書いている。

 テレビや新聞は三菱の宣伝文をなぞって、これが如何に素晴らしいプロジェクトであるかを喧伝するが、絵に描いた餅ではどうにもならない。パリ航空ショーの現場では「こんな遠いところまで、朝早くからようこそ来てくれました。どうぞ、ご覧下さい」といった姿勢は、広報の美辞麗句とは逆にどこにも見られなかった。

 そうした姿勢はむろん現場の問題ではなく、上層部の熱意の程を反映し、税金を投入する日本政府の考えを映し出したものであろう。そこには何とかして、この飛行機を売りたい、買って貰いたいという背水の気迫は少しもうかがえないのである。

 この西川氏の意見に、私も同意する。

 三菱重工は官需主体のメーカーだからだろうか、営業部門がどうにも鈍重な印象を受ける。
 経営に失敗し、会社を閉じたロケットシステムも、三菱重工から営業出身の社長が来ていた。だが、同社が、営業的に目が覚めるような活動をしたという記憶はない。

 私としても、MRJで三菱重工が久し振りに意欲を出していることは素直にうれしい。1962年のYS-11初飛行から45年、1983年の日本航空機製造の解散以降24年もの時を経て、また旅客機を日本で作ろうという動きが出てきたことは、大きな意味があると考えている。

 それでも、パリでのこの振る舞いを知ると、「本当に大丈夫か」と、暗澹たる気分になるのだ。

 これでは勝てる戦いにも負けてしまうだろう。技術で負けるのではない。営業の基本ができていないことで負けるのだ。

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2007.09.19

初音ミクからボイセスカミングへ、その2

 では「ボイセスカミング」の話を。

 「Voices Coming」、「声ぞ来る」とでも訳せばいいのだろうか。この曲は、湯浅譲二により1969年にNHK電子音楽スタジオで制作された。作曲者は当時ちょうど40歳、バリバリに前衛の先頭を走っていた湯浅譲二。湯浅のイメージをテープに定着する仕事をこなした技術者は佐藤茂である。

 全体で20分50秒の尺があり、3部構成。うち大阪万国博の電電公社パビリオン「電気通信館」で流れたのは第1部の「テレフォノパシー」である。

 全3部とも、電子的に合成した音響と、実際の具体音とを融通無碍に使いこなしており、この時点の湯浅が「これは具体音から作ったからミュージック・コンクレート」「こっちは電子音で作った電子音楽」というような区別をせずに、「電子回路とテープなんだからまとめてもいいじゃないか」という意識であったことがうかがえる。

 3部の構成は1)テレフォノパシー、2)インタビュー、3)平和のために戦い殺された二人を記念して。

 テレフォノパシーは、当時の国際通話のオペレーターの声を録音し、これをテープを切った貼ったでつないでいったりして構成している。「ハロー、ハロー」さらには基地局名を告げる女声が交錯する、おそらく電電公社は、電話を象徴するオペレーターの声で、当時最新の電子音楽を創るというのが、「人類の進歩と調和」を標榜する万博に相応しいと思ったであろう。
 曲としては、当時の前衛系電子音楽の標準のような仕上がりを見せている。

 が、次の「インタビュー」はとんでもない問題作だった。

 インタビューというタイトル通り、様々な識者にシリアスな問題を投げかけ、その返事の音声をつぎはぎして作られている。…のだが、使われているのは、返事そのものではなく「あのー」「でもね」「それは、」「うーん」といった、返事の中の意味を持たない部分なのだ。

 技術者の佐藤によると、最初はインタビューから無意味なところを全て取り除き、意味のある部分だけで構成しようとしていたという。ところそれでは面白くないので、逆に無意味な部分だけを取り出すということになったのだそうだ。
 確かに聴いていると、無意味な間投詞にこそ、インタビューされた人の性格が投影されているのがありありと分かる。制作から37年も経った今、聴くと、これはとても面白い試みに思える。

 ところが公開当時、この部分はかなり激烈な批判にさらされたのだそうだ。「無意味な部分になんの意味があるのか」とか、変調などの操作をあまりかけない生の音声をつぎはぎした構成のせいだろう、「これは音楽ではない」とか。

 音楽かどうかはともかく、音響オブジェと考えれば、これもありかと思うのだが、当時はそうではなかったようだ。

 いやあ、本当にこれは面白いです。時間が経ったので、「ここで『うーん』と言っているのは誰それに違いない」というようなクイズ的要素も加わっているし。

 「平和のために戦い殺された二人を記念して」は、全曲で一番音楽っぽい、というと妙な言い方だが、音楽のように聞こえる音楽。
「平和のために戦い殺された二人」とは、ジョン・F・ケネディと浅沼稲次郎。演説が、そもそも音楽的要素を含むものなのだから、音楽的に響くのは当然なのかも知れない。

 前の2部では殆ど使われなかった電子変調が派手に使われ、ディストーションされたケネディと浅沼の声が、ステレオ音声で左右に行ったり来たりするところに、湯浅お得意の変調されたホワイトノイズが、がーっとかぶさる。ケネディの発する「As a result,」という言葉でクライマックスが来る。

 この曲の奇妙さ、怪作っぷりは、湯浅の問題意識の鋭さと、佐藤の技術の確かさががっちり組み合ったところにあるのだろう。音楽として聴こうと思えば聴けるし、音響オブジェと思えば音響オブジェだし、「人の声だ」と思えば人の声に聞こえる。そういう、音楽と言葉と音響の真ん中あたりに宙ぶらりんになっているところが、ものすごく面白い。

 こういう面白い曲(と言っていいのだろうか、いいんだろうな)が埋もれているのはとてももったいない。
 少しでも興味を持った人は聴いてみてもらいたい。


 というわけで、またもアマゾンからは買えないCDだ。検索に「音の始源を求めて3 佐藤茂の仕事」と入れて、オンラインで扱っているCDショップをさがしてみてもらいたい。

Sigen3 音の始源を求めて3 佐藤茂の仕事
収録曲
「小懺悔」(諸井誠)
「ディスプレイ'70」(柴田南雄):万国博日本政府館の音楽
「電子音と声によるマンダラ」(黛敏郎)
「ボイセスカミング」(湯浅譲二):万国博電気通信館の音楽
「ブロードキャスティング」 (篠原真)

 普通の人は海の物とも山の物ともつかないCDに3000円を払うのは冒険かと思う。が、他にも面白い曲が入っているので、私としてはお薦めである。

 例えば、篠原真の「ブロードキャスティング」(1973)は、当時のNHK5波(テレビ、教育テレビ、ラジオ第一、ラジオ第二、NHK-FM)を、ある1日すべて録音し、それらをつぎはぎして作った「NHKのある1日」のような作品だ。

 作者としては、現代の放送というものを象徴させたかったらしいいのだけれども、今聴くと、ここにあるのは34年前にNHKがどんな放送をしていたかをダイジェストした生々しい記録である。
 私と同年代ならば、「ああ、あの頃のNHKってこんな雰囲気だったよなあ」と当時の記憶まで蘇ってきてしまう、ちょっとノスタルジックな曲になっている。

Utukushi
 「こんな変なことばっかりやっている湯浅なんて作曲家に興味ないよ」と思ったあなた。いえいえ、多分あなたもまた、知らないうちに湯浅の作品で育てられているのです。  実は湯浅譲二は、童謡の分野でも様々な作品を書いている。「インディアンがとおる」「ピコットさん」「はっぱがわらった」「はしれちょうとっきゅう」——すべて湯浅の作品なのである。

 このblogを読みに来る人なら、おおかたは「びゅわーん、びゅわーん、は、し、るー」と超特急の歌を歌って育ったはずだ。。

 湯浅の童謡は「美しいこどものうた」という1枚のCDにまとまっている。これまたアマゾンでは買えないが、HMVとタワーレコードは扱っているのでそんなに入手は難しくないはずだ。

美しいこどものうた(HMV)
美しいこどものうた(タワーレコード)

 収録曲は以下の通り。いくつ歌えるだろうか。


「美しいこどものうた」:平松英子(ソプラノ)、中川賢一(ピアノ)

  • ほんとだよ
  • ピコットさん
  • あめのひ
  • インディアンがとおる
  • やさいはきらい
  • こおろぎ
  • まど
  • チビのハクボク
  • 大きくなったでしょ
  • ちゃっぷちゃっぷらん
  • それでも あんよ
  • かぜ
  • ふしぎなおかお
  • とけい
  • 僕だけが知ってたうた
  • しゃぼんだま
  • はしれちょうとっきゅう
  • きょうはなにいろ
  • はっぱがわらった
  • 甘い夏みかん
  • ジェット機きゅーん
  • 宇宙船ペペペペランと弱虫ロン
  • 冬の思い出
  • 二冊の本
  • じゃあね
  •  あるいは前衛保守を問わず、メロディストであることが作曲家の条件なのかも知れない。

     とりあえずアマゾンは、「美しいこどものうた」の楽譜にリンクしておく。


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    2007.09.18

    初音ミクからボイセスカミングへ、その1

     もののついでだから、「初音ミク」からこのまま暴走して希代の怪作「ボイセスカミング」のことを書いてしまおう。

     といっても、なんで1969年という時期に、前衛的な作品を次々に発表していた湯浅譲二が、かくも奇怪にして愉快な作品を発表したかを理解するには、20世紀の音楽史をちょっとばかり理解する必要がある。

     トーマス・アルバ・エジソンが蓄音機を実用化したのは1877年。ここに人類は初めて、音声を記録再生する手段を得た。それまで音楽は、演奏家が楽器を演奏したり歌ったりするその場にいなければ聴くことができなかった。

     蓄音機は2つの可能性を人類に示した。ひとつは音楽を記録し、いつでも聴けるようにすること。こちらはエミール・ベルリナーによるレコードとレコードプレイヤーの元祖「グラモフォン」の発明で、現在のiPodにまで至るオーディオ機器の流れを形成することになる。

     もう一つは、蓄音機を楽器として扱う、という可能性だった。

     世紀が変わると、イタリアで未来派という芸術運動が起こり、ルイージ・ルッソロが1913年に「騒音も芸術だ」と宣言する「騒音芸術宣言」を出した。要は、音楽は楽器の出す楽音のみではなく、都市の機械類が発する音からも作りうるという主張だ。

     楽音は楽器によってコンサートホールの聴衆に届けられる。では騒音は?
     もちろん蓄音機によって届けられるのだ。

     ルッソロの騒音音楽は単発的な宣言に終わったが、それは録音技術が未熟だったからだった。技術の発達により第二次世界大戦後の1948年、フランスの電気技師ピエール・シェフェールにより、録音した音を加工することによって音楽を創るという新たな方向性が示された。

     これがミュージック・コンクレートだ。「具体音楽」などと訳される。当初はレコード盤への記録をあれこれいじっていたが、テープレコーダーの出現によりテープに録音した音に加工を加えるという方向で進化していくことになった。なにしろテープは切ったり貼ったり、レコーダーの回転数を変えることで音の高低を変えたり、逆回して音を後ろから再生することができる。色々と音を加工するのに好適だったのだ。

     さて、この一方、第二次大戦後、全ての音を正弦波から合成できないかという研究も進みはじめた。
     フーリエ級数が示すとおりすべての波は正弦波の合成で再現することができる。となれば、オーケストラのすべての音色を電子的に再現することだっで可能ではないだろうか。

     電子楽器は、20世紀初頭のテルミン、オンド・マルトノといった楽器が作られていたが、これらはそれぞれ独自の音色を持つ「楽器」であった。

     そうではない、音色を自由自在に操る電子楽器が可能なのではないか。

     この流れはやがてムーグのシンセサイザーへとつながっていくわけだ。

     ミュージック・コンクレートにせよ、後のシンセサイザーにつながる音色合成の研究にせよ、電子回路で音をいじくっていくというところは共通だ。そして、1950年代初頭、まだ大規模な電子回路を個人が開発、所有、維持できる状況ではなかった。テープレコーダーもテープも高価だった。発振回路や変調器、バンドパスフィルターなどを作るには電気工学のスペシャリストの手を借りる必要があった。

     しかし、これらの困難さ以上に、過去の音楽にない、新たな表現形態が可能になるのではないかという予感が、芸術家と技術者の両方を熱くさせた。

     というわけで、1950年頃から世界のあちこちで、主に金を持っている放送局がパトロンになって「電子音楽スタジオ」というものが立ち上がった。その実態は、基本的に技術者一人に、テープレコーダーと各種電気回路を詰め込んだ狭いスタジオ、そして芸術家という構成だったが、そこから色々な音楽が生み出されていったのである。
     日本でもNHKがNHK電子音楽スタジオを、1955年に立ち上げる。その最初の作品が「音の始源を探る1」に収録された黛敏郎「素数の比系列による正弦波の音楽」というわけだ。

     この辺りの歴史はなかなか面白くて、例えば初期の電子音楽をリードした3つのスタジオというのが、一番早く活動を開始した西ドイツ放送局電子音楽スタジオ、次いでイタリアのミラノ放送局内電子音楽スタジオ。そして日本のNHK電子音楽スタジオなのだ…なにか戦争に負けたことが影響しているのだろうか。戦争に負けると電子音楽をやりたくなるとか??

     あるいは東京が電子音楽スタジオを立ち上げたことで、「JOAKに負けるな」とばかりにBKこと大阪のNHKも電子音楽に進出し、松下真一をひっぱってきて「黒い僧院」を作らせたり、とか(このあたり、大阪における電子音楽の歴史は未だにまとまっていない。関係者もあらかたこの世を去っており、このまま埋もれてしまう可能性もある)。

     さらには黛が、内幸町にあったNHKで電気回路と格闘しながら「素数の比系列による正弦波の音楽」を作っていたのと同時期、25歳の武満徹が、日本初のミュージック・コンクレート「ルリエフ・スタティク」を作成している。こちらは新日本放送、現在の毎日放送がスタジオと技術者を提供した。
     物量主義のNHKに対して、ちゃんと民放が同じ時期に対抗して似たようなことをしていたのである。

     「ルリエフ・スタティク」は最初、芸術祭参加ラジオドラマ「炎」の劇伴音楽だった。
     できたばかりの民放ラジオ局が劇伴にミュージック・コンクレートなどという新しい手法を使おうとした背景には、当時の民放はどこも最新鋭のテープレコーダーを導入していたという事情があったらしい。つまりスタジオをたくさんもつNHKは生放送で放送を続けることができたが、後発で規模が小さな民放局はすべての放送を生でまかなうことができなかったのである。

     そこで民放各社は、出始めたばかりのテープレコーダーを導入して対処しようとした。テープレコーダーがあるならいっちょ最先端のミュージック・コンクレートをやるかとなって、無名ではあるが実験工房で注目を集め始めていた武満に声がかかることになったようだ。

     ちなみに、NHK電子音楽スタジオは1993年にその幕を閉じている。スタジオの主的存在だった技術者の佐藤茂が1992年に定年退職となったのをきっかけに、「あんな儲からないセクションは閉じてしまえ」ということになったらしい。

     佐藤の証言:「ああいう電子音楽をNHKの中で残そうとするには、相当努力しないと残らんでしょう。3ヶ月も使って売れない曲を作ってたら、商売にならんからいらないって言われるでしょうね。佐藤がいるんだから歴史があるからって、いる間は残しとけってことだったけど、いなくなったらあっというまに潰しちゃった。」(「電子音楽 in JAPAN」田中雄二著 p.100)

     ありゃ、随分長くなってしまった。

     肝心の「ボイセスカミング」については、次の回にということで。


     今回の記事の元ネタ本。

     日本の電子音楽の歴史は、田中雄二氏の手によるこの大部の著作で見事にまとめられている。黛敏郎や武満徹による初期の試みから説き起こし、ムーグ・シンセサイザーの衝撃とそれまで劇伴作曲家だった富田勲の華麗な転身と成功、さらにはYMOのデビューとテクノポップ全盛にいたるまでを、あますところなく描ききっている(残念ながらJOBKと松下真一の協力のような大阪における活動は抜けているのだけれど。それでも大阪芸術大学における塩谷宏の業績にはきちんと触れている)。

     なによりも芸術家の側からだけではなく、技術者やメーカーの側からも取材を進め、両面から電子音楽というテクノロジーアートの歴史を描いているところを高く評価したい。例えば秋山邦晴による武満初期作品の評価は、テクノロジーの部分に関する分析が希薄だったから。

     電子音楽、さらにはテクノ系ミュージックに興味があるなら是非とも読んでおくべき、聖書のような本だ。確かに高い本だが、CDによるサンプルも付いていて、お買い得だと思う。

     余談だが、今見たら、アマゾンに掲載されている日経パソコン掲載のブックレビューは、かつて私が書いたものだった。

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    2007.09.17

    DTM熱再燃か

     「初音ミク」ショック以来、DTM熱が戻ってきてしたようで、DTMマガジンを買ってきて読んでいる。DTM——デスクトップ・ミュージックの略で、要はパソコンで音楽を作り、鳴らすことだ。

     使用機材が15年前とはずいぶん様変わりしている。音源をハードウエアとして持つ時代はとっくに過ぎ、今や音源はソフトウエアとなってパソコンで動かすようになっているのだな。データの持ち方もMIDIだけではなく、生音の録音やサンプリングを組み合わせるのが当たり前になった。

     かつてせっせとDTMをしていた頃は、パソコンにMIDIインタフェースを付けて、モジュール音源につないで鳴らしていた。モジュール音源というのは、鍵盤のないシンセサイザーのようなものだ。
     特に1987年にローランドが出した「MT-32」というモジュール音源は、6万9800円という低価格でDTMの普及に一役買った。それまで、シンセサイザーは20万円以上したのである。私もMT-32のユーザーだった。

     DTMマガジン附属のDVDディスクで、読者投稿を聴いてみる。…どうも音楽としての質は、かつてとあまり変わっていないようだ。
     それどころか生音が使えるようになったことで、ボーカル付きが当たり前になり、逆に発想を狭くしているように思う。かつてのように、不自由かつぎくしゃくした音源で、ビッグバンドやオーケストラを再現してやろうという発想はマイナーになってしまったらしい。

     かつての名作はまだどこかにあるかな、と検索してみたらあった。「大星夜92」(子龍作)。1992年にパソコン通信のNifty-Serveで発表され、FMIDI(MIDIフォーラム)に大反響を引き起こした曲である。なにしろ自分の結婚式にこの曲を流した人がいたぐらいだ。
     今聴くと、もう少し自然な表情がつけられるはずと思うが、当時この曲のインパクトはとても大きかった。曲としては今聴いてもなかなかいいな。

     あの当時のDTMの精神は、ローランドの力作コンテスト入賞作品に残っているという印象だ。今の機材で作り込むと、アマチュアでもここまでできるという実例が集まっている。

     私は、実のところかなり変格的な態度でDTMに入っていった。「シンセサイザーで自然な音楽を創る」のではなく「自分が作曲するためのシミュレーター」としてDTMを利用しようと思ったのだ。
     作曲するには、頭の中で音が鳴らせなくてはダメ、とか、ピアノが弾けることが最低条件とか、絶対音感がなければダメというような様々な伝説が存在する。しかし当時の私は、「それらすべて、コンピューターで代用できるのではないか」と考えたのだった。
     シミュレーターが目的だから、私は音のアウトプットに無頓着だった。自分の頭の中で鳴っている音の確認ができればそれで十分なのだ。楽譜に出力して、後はそれを誰かに演奏してもらえればいい。

     とはいえ、MT-32の音はあまりに貧弱であり、それで再現したオーケストラサウンドは悲しいぐらいにオーケストラとは似ていなかった。特に弦楽器は涙が出るぐらい、本物の弦楽器とはほど遠かった。

     私はオーケストラ曲を書くのを諦め——まあ、そもそもそんなもんを書くだけの実力があったのか、という問題はあったわけだが——ぼそぼそと管楽器を中心にした室内楽やら歌曲やらをいくつか書いた。

     もちろんそれを演奏する人が現れるはずもなく、データは15年以上死蔵されたのである。つまらない音楽が世に出なかったのは、世のため人のため自分のため、という見方もできるだろう(誰だってジャイアンになるのはゴメンだ)。
     そうこうしているうちに、仕事が半端ではなく忙しくなり、私はDTMから離れた。

     今からDTMを再度始めるならば、おそらく今までとは違う知見をどこかから引っ張ってくるべきなのだろうな。既存のDTMユーザーの基本教養となっている昨今のJPOPやハウスミュージック、ハリウッドのサントラに代表される良く鳴るオーケストラサウンドとは別のところから。

     例えば、今やこれだけ機材が進歩しているのだから、1950年代から70年代にかけて、NHK電子音楽スタジオで作られた電子音楽など、個人レベルで同じことができるようになっているわけだ。このあたりに再注目すると、斬新な音楽を机の上から作り出せそうな気がしないでもない。

     NHK電子音楽スタジオで生み出された音楽は、21世紀に入ってから「音の始源を求めて」という5枚のCDになって発売された。企画は、大阪芸術大学音楽工学OB有志の会。ロームミュージックファンデーションからの助成を受けての発売である。

     極めてプレス枚数が少ないらしく、アマゾンでは扱っていないし、私が入手したタワーレコードのオンラインショップでも売り切れとなっている。ネットで検索するといくつかのショップではまだ在庫が残っているようなので(例えばドッペルゲンガーレコーズ)、まずは「音の始源を求めて」で検索をかけてみてもらいたい。

     このCDは大変ユニークなことに、作曲家別ではなく、作曲家の意図を汲んで実際の音として実現した音響技術者別に組まれている。第1巻が塩谷宏、第2〜第4巻が佐藤茂、第5巻が小島努というそれぞれの技術者別のCDとなっているのだ。

     ライナーノートも、作曲者がどうこうではなく、それぞれの技術者がどのようにして作曲者の望む音を実現したかについて書いてあり、技術と芸術の関わりをのぞき見るという点でも興味深い。

     1枚3000円するCDを5枚そろえるのは結構なコストだが、DTMや電子音響に興味があるならばその価値はある。ただし、冨田勲的な聴きやすいシンセサイザー音楽を求めてはいけない。収録された曲はどれもかなり前衛的かつ刺激的なものだ。

     とりあえず1枚というならば、最初にでた「音の始源を求めて 塩谷宏の仕事」、または2枚目の「音の始源を求めて 2 佐藤茂の仕事」をお薦めする。


    Otonosigen1音の始源を求めて 塩谷宏の仕事
    収録曲
    「テレムジーク」(カールハインツ・シュトックハウゼン)
    「素数の比系列による正弦波の音楽」(黛敏郎)
    「7のヴァリエーション」(黛敏郎、諸井誠)
    「ピタゴラスの星、第一部:沈黙の環」(諸井誠)
    「ヴァリエテ」(諸井誠)
    「オリンピック・カンパノロジー」(黛敏郎)

     どれも電子音楽関係の本を読むと必ずでてくる曲だ。特に東京オリンピックの開会式で使われた「オリンピック・カンパノロジー」が素晴らしい。

    Otonosigen2 音の始源を求めて 2 佐藤茂の仕事
    収録曲
    「フィノジェーヌ」(高橋悠治)
    「トランジェント '64」(松平頼暁)
    「電子音のためのインプロヴィゼーション」(柴田南雄)
    「マルチピアノのためのカンパノロジー」(黛敏郎)
    「プロジェクション・エセムプラスティック」(湯浅譲二)
    「ホワイトノイズによるイコン」(湯浅譲二)

     第1集がエポックメイキングな曲を集めたとすると、こちらは「名曲」が集まっている。なかでも一番前衛的でとがっていた頃の湯浅譲二による「ホワイトノイズによるイコン」は、音響系の音楽を志すなら必聴だ。

     ちなみに第3集には、湯浅譲二が大阪万国博エキスポ70のNTTバビリオンのために作った希代の怪作「ボイセスカミング」が収録されている。あまりに面白い曲なので、この曲についてはあらためて書くことにしたい。

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    2007.09.16

    「かぐや」順調に飛行中

     種子島から帰着した。「初音ミク」はまだ届いていない。よほどの人気らしい。

     「かぐや」は順調だ。軌道修正マニューバーも成功し、とりあえず安定した状態に入った。今後は搭載機器の立ち上げとチェックを行い、10月4日の月周回軌道投入に備える。

     正直、かぐやに付いては色々と不安要素が多く、ずいぶんと心配していた。一部はnikkeibp.netの記事に書いたが、以下まとめておく。

     まず、探査機の構成だ。

     いくら予算を取る機会が限られており、打ち上げにH-IIAを使うからといって、いきなりセンサー満載の3トン級巨大探査機を開発して大丈夫なのか。

     失敗の前例もある。地球観測衛星「みどり」「みどり2」は、観測上の要請ではなく、「H-IIロケットで打ち上げる」という、洋服に体を合わせるような理由から3〜4トンの巨大衛星として企画され、その複雑さが一つの原因となって(それだけが原因ではないが)、軌道上で1年を経ずして壊れてしまった。

     さらに、運用に使う臼田局の老朽化がある。

     1985年に作られた臼田局の設備は老朽化しており、ぽつぽつ故障が起き始めている。設備更新の予算は支出されず、臼田局を利用する探査機の開発予算の中から、臼田局設備の修理維持経費を捻出しているのが現状だ。

     もしも月周回軌道投入というようなクリティカルな局面で地上局側がトラブルを出したら、取り返しのつかないことになるのではないか。

     そして、旧NASDA/ISASの計画管理や運用手法の違いによる、運用チーム内の軋轢がある。

     色々な反目の噂も聞いたし、「あれがうまくいっていない」「この分野の責任者が誰だか分からない」「会議に出てくるべき人が出てこない」というような話も頻出していた。

     今年春に、相模原に月・惑星探査推進グループ(JSPEC)が設立された。月探査の嚆矢となる「かぐや」も、筋から言えばJSPECの管轄になるはずだが、そうはならなかった。どうやら背景にはJSPEC対筑波宇宙センターの一部という対立関係があるらしい。

     宇宙開発委員会では、計画部会に月探査ワーキンググループができて、将来の月探査について議論を始めた。探査機が上がる、それも当初スケジュールからするとさんざん遅れて上がる、という時になってやっとこさ長期計画を議論するというのはいったいどういうことか。アメリカの有人月探査構想にせっつかれないと、そもそも議論すらできないのか。

     そしてまた、JSPEC(「月・惑星探査推進グループ」と、名前に「惑星探査」が入っている)と、「月探査ワーキンググループ」(有人も含め月探査のみ)という名前の齟齬はいったい何なのか。「惑星探査の予算を削ってアメリカ主導の有人月探査に振り向ける」ということなのか。

     とにかく「かぐや」に関しては、不安要素が多かった。それらの多くはまだ解決していない。

     だが、実際に探査機が宇宙に上がり、動き始めると雰囲気は変わる。順調に行っていればなおさらだ。政策も予算処置も、国民の雰囲気がけっこう影響するものである。今後の「かぐや」の働き如何では、色々膠着していた事態が一気に動くことになるかも知れない。

     本当にうまくいって欲しいと思う。


     以下はおまけ。

     日本経済新聞の春秋(9月14日付け)

    ▼専門家によれば「月の誕生の論争に終止符を打てるかもしれない」し、これから中国、インド、米国が相次いで月へ人工衛星を打ち上げるので国威発揚の意味も少なからずあるらしい。そう聞かされてもなお、文筆家の山本夏彦さんが昔、発した警句「何用あって月世界へ」の方に共感する人は多いのではないか。

    ▼巨額の国費を費やす宇宙開発なら、月を研究するより、宇宙から、温暖化に悩む地球を調べたり日本の安全を保つのに必要な情報を集める技術を磨くのが先。そんな考えもある。税金の使い道に優先順位をつけるのは政治の仕事だ。混乱を早く収め、天人にさげすまれない国にする本来の仕事に取り組まなくては。

     筆者は論説委員の誰だろうか。

     なにやら航空宇宙工業会と同調したことを書いているが、おそらく情報収集衛星の実態や、防災衛星計画の現状をきちんと調べることをしないままに「温暖化に悩む地球を調べたり日本の安全を保つのに必要な情報を集める技術を磨くのが先。」などと書いているのだと思う。
     実情を知っていたらこんなことは書けないはずだから。

     確かに、「月探査よりも、温暖化の実態調査や、安全保障が先」というのは耳に入りやすい議論だ。

     だが、1998年から始まった情報収集衛星計画はこれまでに累積で5050億円を消費し、今もコンスタントに年間500億円あまりを使い続けている。毎年「かぐや」1機並の予算を着実に消費しているわけだ。
     なおかつ最初の光学衛星は公称解像度を達成できず、しかも何に使っているかは機密の壁の向こうである。

     JAXAが次の中期計画の目玉に使用としてる防災衛星構想は、現状では、性能を達成できなかった情報収集衛星ほぼそのままの衛星を4機体制で打ち上げるという構想になっている。
     一応、日本全体を3時間間隔で監視するという計画だが、このあたりにも書いた通り「本当に役に立つシステム」というよりも、「業界を食わせるための巨大計画」となってしまっている印象が強い。
     衛星で何をどう撮影し、それをどのようなユーザーに伝えるのか、伝えるにあたってどのような仕組みを使うのか、データは何の役に立つのか、最終的に衛星データがあることで、どんな場合のどんな生命財産を保全することができるのか——防災衛星に関しては、どうも議論がきちんとされていない印象が強い。

     その現状で、「日本の安全を保つのに必要な情報を集める技術を磨くのが先。」と言い切ってしまえるというのは…やはり筆者の論説委員が、きちんと取材せずに印象だけで書いているからだろう。

     日経は9月16日の社説「夢より成果が問われる月探査」では、わりとまともなことを書いているのだけれども(それでも、探査は大型になればいいというものでもない、ということには思い至っていないようではある)。

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    2007.09.14

    H-IIAF13

     本日のH-IIAF13打ち上げの動画像をYouTubeにアップしました。


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    買ってしまった…

     買ってしまったよ。アマゾンでポチっと。

     最近ネットで人気沸騰している。DTM(デスク・トップ・ミュージック)用ボーカルソフトだ。女性声優の萌え声で、入力した通りの歌詞で歌ってくれる。その名も「初音ミク」

     松浦も萌え声にノックアウトされたか?
     いやいや、そうではない(正確にはそれだけではない、なのかも)。

     野尻ボードで野尻さんに教えられ、YouTube動画を聞いて(妙な言い回しだが、要はYouTubeにアップされた音を聴くことを目的にした動画ファイル)、びっくりしてしまった。
     これが、機械の歌か!!


     クラフトワークが「I am robot」とロボットボイスで歌ったり、「メガゾーン23」なんてアニメに時祭イブというバーチャルアイドルが出てきたりしてから幾星霜。
     その間、伊達杏子なんて色物もあったが、この「初音ミク」は声優が声をあてているのではない。マシンがプログラムに従って発声しているのだ。公式サイトにはサンプルがあるので、まずは聞いてみてほしい。

     知らない間の技術の進歩には、びっくりだ。

     著作権的にどうかと思うのでリンクはしないが、YouTubeやニコニコ動画を「初音ミク」で検索してみて貰いたい。沢山のファイルがアップロードされている。中でも「もののけ姫」を歌わせたやつなどは感嘆するしかない。





     これは著作権的に問題がないと思うのでリンクする。多分現役の合唱部員が作ったんだろうなあ。「モルダウ」。どうやら表情をつけずに素で歌わせたものらしい。ちょこっと入力させただけでもこの程度にはできるということだろう。

    ♯19 ave;new feat.初音ミク(試聴あり)
     こちらはave;newというプログループが、初音ミクを使って自作の「True My Heart」という曲ををDTM化したもの。プロがやるとここまで自然なボーカルに仕上げることができる。

     私も15年以上昔の、DTM草創期に、ローランドのMT-32を使ってDTMまがいのことをやっていた。あの頃DTMは個人に入手可能になったばかりの凄い技術だった。「凄い技術で凄いことをやってやる」と思わせる魅力があった。

     「初音ミク」には、その頃の感覚を蘇らせるものがある。

     もちろん、15年以上DTMから遠ざかっていた自分がそうそうスゴイことなどできないことも分かっているが、こういうものは色々遊んでみたくなるものである。

     種子島から帰った頃には届いているであろう。なにか結果が出せたら、このページで公開することにしよう。

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    2007.09.13

    「宇宙基本法を考える2」の補足その2

     昨日の記事の続きです。

     宇宙基本法が施行されれば、日本の基礎的な政策として宇宙開発が位置付けられる。と、同時に政治家の判断が非常に重要になる。本当に政治家はきちんと勉強して的確な判断を下せるようになるかどうかが、今後の日本の宇宙開発を左右することになる。

     では、もう一方の産業界が、宇宙基本法について何を考えているかという、これははなはだ心許ない。

    宇宙基本計画への要望 宇宙変革の時期を迎えて(pdf)

     この22ページを読んでもらいたい。

     我が国宇宙開発や宇宙産業をめぐる状況は、財政制約の強まりなど、様々な制約条件がある。限られた予算の枠組みを最大限有効活用し、宇宙基本法の理念を実現しつつ、優先度の高いプログラムを推進していくためには、全てのプロジェクトに均等に予算を配分することは出来ない。重要な政策課題に対応し、優先度の高いプログラムから順次進めていくためにはメリハリのきいた予算配分が必 要である。

     この認識には賛成だ。

     本提言では、利用するサイドの優先度が高く、前項で述べた「宇宙基本法」の理念である「国民生活の向上」「産業振興」「研究開発」「国際協力」の四つの視点を含み、技術基盤も構築できる一石三鳥のプロジェクトに高い優先度を与えた。

     この手法も通常のものだ。選択と集中というわけだ。ところが…

     宇宙分野を大別すると、危機・災害管理を含んだ広義の「安全保障」と、技術基盤を含む通信・放送、リモセン、航行などの「実利用」、科学・有人ミッションなどの「研究開発」に分けられるが、特に我が国が喫緊に必要としながらも、十分に技術力が定まっていない分野に重点を置くとすれば、まずは、思い切って「安全保障」に重点的に予算配分することとし、ついで「実利用」を進めていくことが望ましい。

     なんだろう、これは?

     「選択と集中」ならば得手に集中して不得手分野を後回しにする。それが「特に我が国が喫緊に必要としながらも、十分に技術力が定まっていない分野に重点を置く」とは??

     これは「選択と集中」から見れば全く逆の、危険な失敗への坂道だ。

     はっきり言えば、「安全保障」と「実利用」とは、現在の日本の宇宙開発の得意分野ではなく、産業界から見て「政治家が納得してお金を出してくれそうな分野」というだけに過ぎない。

     航空宇宙工業会は、国防族議員とのつながりがある。おそらくは、そちらから手を回して安全保障分野を押し立てれば、政治家が財務省を説得して予算を付けてくれると考えているのだろう。

     ところが、安全保障分野の現状はどうかといえば、公称1mの分解能すら達成できない情報収集衛星の光学衛星に代表されるように、性能の足りない機器を、機密の壁の向こうで何をやっているか分からない状態で使っている(らしい)に過ぎない。

     光学衛星は、はっきり言って三菱電機が政府に売りつけた不良製品である。
     もちろん三菱電機やJAXAの技術者にすれば「4年であれだけの性能の衛星を作れというのが土台無理な話だ」ということになる。

     だが、三菱電機は民間企業だ。
     民間企業が「できます」と言って請け負った以上、商業道徳としてまともな製品を納入する義務がある。性能を達成できなかったということは詐欺的営業をしたということに等しい。

     「1000万画素です」といって300万画素のデジカメを売れば詐欺である。

     光学衛星が要求性能を達成できなかった理由は、基礎的の技術的蓄積が足りなかったからだ。日本の宇宙開発はこれまで安全保障分野の経験を積んでいない。つまり不得手分野だ。

     「喫緊に必要」であっても、地道で十分な時間を掛けた技術開発を省いて、いきなり大きな計画を実施すれば失敗する。ごく当たり前の常識である。

     工業会の主張は足元がしっかりしていない分野に金を突っ込め、といっているのと同じである。航空宇宙工業会は、こんなところに金を出せといって、本当に強固な縦割り予算体制を打破できると思っているのだろうか。

     予算総額が増えない現状で、縦割り予算を打破して予算を獲得するということは、予算をどこかから削って持ってくるということだ。
     そのためには、「我々の宇宙計画はこんなに役に立ちます。そっちに国家予算を投資するよりお得ですよ」と言って、しかも実績を示せなくてはならない。

     まず、実績を示せるところ、得意な分野に集中投資すべきなのだ。

     それはどこか。私は宇宙科学だと考えている。1955年のペンシルロケット以来、50年を超える蓄積が存在する分野だ。

     宇宙科学は、最先端の科学観測を行う。そこで蓄積された技術は、センサー技術から姿勢制御技術に至るまで、安全保障にも実利用にも役立つ。しかも、宇宙科学は人類が宇宙に進出するために必要な情報を宇宙から地球に送ってくる。我々は宇宙について何を知っているというわけではない。太陽系の中であっても分からないことだらけなのだ。

     その一方で日本の宇宙技術は基礎が薄いということをよく理解して、基礎研究に厚く投資すべきだろう。

     例えば宇宙輸送系の分野では、地上から宇宙への輸送コストを劇的に下げねば宇宙利用は進まないことが指摘されている。劇的に輸送コストを下げたければ、再利用宇宙機から軌道エレベーターに至るまでの様々な高い技術に挑まなければならない。
     一足飛びに高い技術に飛びつくことはできない。そんなことをすればスペースシャトルの失敗に続くことになる。

     日本の宇宙開発には、まず、なによりも多方向への厚い基礎研究が必要だ。「現状で何かを達成している」と慢心するのではなく、「まだまだできていないことが多い」と考えて、基礎を充実させなくては、未来の成功はあり得ない。


     以上、やや駆け足だが、私の主張をまとめておいた。

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    2007.09.12

    「宇宙基本法を考える2」の補足その1

     昨日のネイキッドロフト「宇宙基本法を考える2」に来場した皆様、雨の中をご苦労さまでした。

     そして石附澄夫さん、吉井英勝さん、お疲れ様でした。特に吉井さん(「さんで呼んで下さい」ということでしたから、以下「先生」ではなく、「さん」と書きます)、私は共産党の議員の方と長時間話したことはなかったので、非常に刺激的で面白かったです。

     席上、吉井さんから「内閣総辞職、解散となると、議案は廃案になる」「継続を続けて衆議院任期満了と共に廃案という手もある」という発言があったが、一夜明けると安倍総理辞職というニュースが。
     この先、宇宙基本法がどんな扱いを受けるのか、成立するのかしないのか、ますます混沌としてきた。


     以下はちょっとしたまとめである。

    宇宙基本法法案(衆議院):議員立法として提出された法案全文。

     法案は、最後まで細かい手が入れられている。これが最終的に提出された法案だ。

     私はずいぶんとよく練られた条文ではないかと考えている。第1条で法律の目的を「宇宙開発に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の向上及び経済社会の発展に寄与するとともに、世界の平和及び人類の福祉の向上に貢献することを目的とする」と定め、以下「宇宙の平和利用」「国民生活の向上等」「産業の振興」「人類社会の発展」「国際協力等」と条文が続く。

     特に7条に「環境の配慮」としてスペースデブリも含む環境問題に触れているのはいいことだと思う。

    第13条に「国民生活の向上等に資する人工衛星の利用」として、「人工衛星を利用した安定的な情報通信ネットワーク、観測に関する情報システム、測位に関する情報システム等の整備の推進その他の必要な施策を講ずる」と定めている。つまり法律が国に対して「これらを整備せよ」と命令しているわけで、このあたりが経済界がこの法律を歓迎する理由のひとつだろう。その分、国家予算が宇宙開発に回るというわけだ。

     吉井さんが「宇宙の軍事利用につながる」と指摘した部分は14条。「国は、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資する宇宙開発を推進するため、必要な施策を講ずるものとする。」という部分だ。
     ただしこの部分は、法の理念を規定した第2条の「宇宙の平和利用」に反しない限り、ということになる。法制局は、「偵察や早期警戒衛星のような非破壊的利用は合法である」という解釈を出してくることになるだろう。
     従ってそれが軍拡かどうかは、軌道上からの偵察が軍拡にあたるかという問題になるはずである。

     第15条には、「我が国が宇宙開発に関し使用できる周波数の確保」という文言が入っている。これは大学衛星などにとって非常に重要だ。これまで総務省の動きが鈍かったために、国際的な周波数確保が難しかったのが、この法律が成立すると総務省に「すみやかに周波数を確保せよ」という強制力が働くことになる。

     第18条は「国は、宇宙の探査等の先端的な宇宙開発及び宇宙科学に関する学術研究等を推進するために必要な施策を講ずるものとする。」(ネイキッドロフトに来た皆様にお詫び:私は条文に「探査」の文言が入っていないと話しましたが、ここに入っていました)とある。

     この条文を「そうは言うけれども国家予算は限られているし、防災衛星や情報収集衛星が先で探査は後回し」という形で遮られないようにしなくてはいけないだろう。今現在の時点で宇宙から得られるのはごく微量の土壌サンプルと情報だけだ。そして宇宙探査こそ、宇宙から人類にとって最も有意義な情報を得ることができる分野なのであるから。

     石附さんからは、第24条以降に定められた宇宙開発戦略本部について議論が提起された。宇宙開発戦略本部は、本部長が内閣総理大臣、副本部長が官房長官と宇宙開発担当大臣、本部員が残る国務大臣という構成になっている。つまり閣議と同じということだ。

     条文案の段階では、本部員に有識者が入っていた。提出された法案では、「有識者」がはずれてより政治主導が鮮明になっている。石附さんからは、産業界はこのことに不満で、産業界からの有識者を入れろと主張しているという話が出た。

     これは不安要素だ。事実上の閣議で宇宙開発が審議されるというのは宇宙開発が国の施策としてはっきり位置付けられるということだが、では政治家達がいったいどの程度宇宙開発にまつわる問題を理解しているかといえば、現状ではかなり心許ない。
     ここで「よきにバカらえ」というバカ殿的丸投げの態度が定着してしまうと、官僚が作った計画に認め印という今までと変わらないことになってしまう。

     政治家には勉強してもらわなくてはならない。それも、最低でも高校の物理化学地学程度の基礎知識を持った上で、である。

     そして附則の第2条だ。

    第二条 政府は、この法律の施行後速やかに、独立行政法人宇宙航空研究開発機構その他の宇宙開発に関する機関について、その目的、機能、組織形態の在り方等について検討を加え、必要な見直しを行うものとする。

     はっきりとJAXAの体制を見直すとしている。

     ここが宇宙基本法の理念をきちんと生かすことができるかどうかの分水嶺である。

     私は、アメリカがNASAと国防総省に別個の宇宙組織を持つように、安全保障分野の利用と民生利用の技術開発・宇宙科学を担当する組織をはっきり分離するべきだと考える。
     現状、JAXAが内閣府が運用する情報収集衛星を開発しているが、これは宇宙開発にとって好ましいことではない。安全保障分野の開発を同一組織で行うとなると、宇宙開発全体が閉鎖的な傾向を帯びることになりかねない。それは、現状でも近いとは言い難い国民と宇宙開発をさらに遊離させ、国民の支持を失わせる可能性が非常に高い。

     安全保障分野は予算も組織も別立てにすべきである。

     さらに宇宙科学の分野も、NASAがフィールドセンターのゴダード宇宙飛行センターに加えて、NASAの予算でカルテックによって運営されるジェット推進研究所(JPL)を持つように、地球回りと太陽系探査で独立性の高い組織が実施するようにすべきだろう。現状のように、情報収集衛星の予算負担が大きいから宇宙科学に予算が行かないというようなことは、縦割り予算の弊害であって、本来おかしい。

     縦割り予算を維持するならば、現状のJAXAに安全保障分野の衛星開発も割り振った上で、「いままでの予算枠でなんとかしろ」というのが一番簡単だ。霞が関としては、この一番安易な組織見直しを押してくる可能性が高いと私は見る。
     これからも宇宙開発を進め、我々がウォッチングしてあれこれと議論するためにもこれを許すべきではない。

     結局、宇宙基本法は、きちんと生かすならば、縦割り予算の見直しを必要とする法律なのだ。つまり新たな体制とその体制が打ち出す宇宙政策は、例えば「道路と堤防なんかより宇宙に金を」と主張できなくてはいけない。

     国家財政がきびしい現状で、国家予算の総額が増えることはないだろう。宇宙基本法が成立するということは、縦割り予算の枠を超えて、別の分野の予算をを削り、宇宙分野に予算を配分するということである。官僚組織としては予算不足を理由に再配分を拒否し、宇宙機関を安全保障をもまとめて一本化する案を押してくる可能性がある。

     予算の再配分を行うのは政治家の仕事である。日本の政治家は、政治に大きな権限を持たせる法案に見合うだけの、判断力、実行力を示してくれるだろうか。


     この話題、明日に続きます。

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    2007.09.11

    お知らせ:本日、ネイキッドロフトに来る方へ

     明日、というか今日になってしまいましたが、ネイキッドロフト9月11日のイベント「宇宙基本法を考える2」に来られる方は、可能ならば以下の資料を読んでおいて下さい。

    宇宙基本計画への要望 宇宙変革の時期を迎えて(pdf)

     社団法人日本航空宇宙工業会の会報「航空と宇宙」8月号に掲載された記事です。これを読むと、日本の産業界が宇宙基本法の向こうに宇宙活動法(仮称)を通じて何を求めているかが分かります。

     ぎりぎりになってしまいましたが、取り急ぎ。


    追記:もう一つ。

    明日一緒に出演する共産党の吉井英勝議員による、質問趣意書です。

    宇宙の軍事利用に関する質問主意書(平成十八年六月十四日)

     日本共産党の宇宙基本法に対するスタンスが分かります。

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    2007.09.10

    「コダワリ人」その後

     拙著「コダワリ人のおもちゃ箱」に登場する人たちのその後をちょっとフォロー。

     羅須地人鉄道協会は、糸魚川市が保管していたナローゲージの蒸気機関車「2号機」のレストアを実施。同期間車は9/9で閉幕した江戸東京博物館にての「大鉄道博覧会」にて展示された。

     この機関車は日本で最後に製造された実用蒸気機関車なのだそうで、かつて糸魚川市の東洋活性白土という会社で使われていた。羅須は東洋活性白土の線路で活動していた時期があり、その縁でレストアの話が舞い込んできたそうだ。屋外保存だったために相当痛んでいたらしいが、見事に9日間でかつての外見を復元させることができたわけだ。

     活動報告の「2号機と過ごした9日間」という一連の記事を読んでいくと、色々感じることが多い。「これが人の縁か」「本当に好きなんだなあ」…そして「糸魚川と2号機の思い出」などを読むと妙に泣けてくるじゃないか。

     「大鉄道博覧会」終了後は、糸魚川市に戻りフォッサマグナミュージアムに展示されるとのこと。屋根付きの場所だろうか。また錆びて腐らせてしまうことはないだろうか。こうなると、糸魚川市にはちょっと度量を示して貰い、羅須の手で火を入れて運転するところまでレストアしてもらいたくなる。

     おそらく羅須のメンバーも走らせたいのだろう。「大鉄道博覧会」終幕の中の「8日夕方にはロッドの保護のため、当会メンバーの手によりグリスの塗布が行われました。」という記述に、「きっと走らせてやるぞ」という意志を感じてしまうのは気のせいだろうか。


     私の知る限り、日本の地方自治体は展示用の機械類を本当に大切にしない。以下は一つの事例。

    Nishiboriyacht
     第一次南極越冬隊の隊長を務めたことで知られる西堀栄三郎の故郷である滋賀県東近江市(旧湖東町)には「西堀栄三郎記念・探検の殿堂」という施設がある。

     西堀の遺族は、ここに西堀が晩年愛用した木製ヨット「ヤルンカン号」を寄贈したが、町当局は屋外展示にしてしまい、結局経年劣化で崩壊が進み、2003年に撤去されてしまった。リンク先の滋賀報知新聞は、「老朽化のため」と書いているが、それがヨットだろうが、屋外に放置すれば痛むのは当たり前の話である。
     私は2001年に、「探検の殿堂」を訪れているが、ヤルンカン号は、すでにかなり傷んでいた(写真は在りし日のヤルンカン号。2001年10月2日撮影)。

     ここにはきちんとした展示用の建物もある。一応、「どきどき南極体験ゾーン」というのが目玉なのだが、要は人が入れる冷蔵庫でしかない。建屋の2階は「探検の殿堂」という、各国の探検家の資料展示エリアなのだが、おそらくきちんとした学芸員がいないのだろう。私が行った2001年の段階では、資料的な価値も低い、内容の薄い展示をしていた。

     後の世に残すべき貴重な機械類こそ傷まないように屋内展示すべきなのに。

    Snowvehicle
     「探検の殿堂」には、初期の南極探検に使われた雪上車も屋外展示されていた。2001年の段階で、ろくに手入れもされずに腐食がいい加減進んでいる状態だった。

     あれから6年経っているが、果たして今どうなっているだろうか。

     取りあえず滋賀県東近江市(旧湖東町)というところを、私は「故郷の偉人の遺族から寄贈されたヨットを腐らせてダメにした地方自治体」として認識している。

     糸魚川市が、せっかくレストア成った2号機を、きちんと屋内で保管しますように。そしていつの日か、羅須の手によって釜に火が入ることを祈ろう。

     もうひとつの話題。
     燃費を競うマイレッジマラソンの世界記録保持者の中根久典さんと中根さんのチーム「ファンシーキャロル」は、 8月18〜10日に開催された「スーパーマイレッジチャレンジ広島2007」で、エタノール燃料による世界記録に挑戦し、ガソリン発熱量換算3478km/lの世界新記録を樹立した。

    Fc98
     写真を見ると、車両は従来と同じ「FC98」だ。単行本の取材時には次の車両で5000km/lを狙うと語っていた中根さんだが、まだ新車両の開発には踏み切れていないようだ(写真は中根さんより頂いたもの)。

     それにしてもノウハウを持っているというのは強い。本にも書いたが、私は中根さんのノウハウが行動を走る自動車に還元されることを望んでいる。
     ちなみに、本の中で触れたフォルクスワーゲンの「1リッターカー」はこれである。正直、私はこんなクルマが欲しい。


     というわけで拙著の宣伝。この本はある種の人を思いきり刺激するみたいなのだけれど、そうでない人には徹底的に無視されているようだ。書いた本人は面白い本ができたと喜んでいるのだけれども、なかなかその面白さを他人に伝えるのは難しい。

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    2007.09.08

    きさくの燃麺を食べる

     色々書きたいことは多いのだが、まずは気楽なところから。

     以前も紹介した広島の汁なし担々麺の「きさく」(楽天内通販ショップ)だが、メニューを増やしている。

    に、加えていつの間にか


    が、メニューに加わっていた。

     この夏、燃麺を取り寄せて食べたのだが、これがなかなか良い。

     きさくの汁なし担々麺は辛くておいしいのだが、私のような辛党には一つ問題があった。がつがつとあっという間に食べてしまいがちなのだ。楽しんで食べることがなかなかできないのである。これは極辛汁なし担々麺であっても同じであった。極辛といいつつ、食べる勢いを押しとどめるほどは辛くないのである。

     ところが、この燃麺は、本当に辛い。がつんと来るほど辛い。一口食べると、しばし箸を止めないとたまらないほどに辛い。

     しかもうま味は通常の汁なし担々麺と変わらない。

     これをがっつける人は、よほどの辛党だろう。少なくとも私にはできない。そしてこれならしっかりゆっくりと味わいつつ、なおかつ強烈な辛味も楽しむことができるのである。通常の汁なし担々麺よりちと高いが、それだけの価値はある。

     これはいい。葱を刻んで半熟卵を落としてまず一杯。残った汁に白いご飯を入れて、さらに一杯。今年の暑い夏、実に楽しめた。

     ここの担々麺は唐辛子の辛味だけではなく、ちゃんと山椒の「麻」の辛さ効いていて、しかもうま味も感じるというのがよろしい。基本的にジャンクな食べ物であり、毎日食ってはいかんと思うのだけれど、それでも私は好きだ。

     と言う訳で、辛党の皆様、お薦めですよ。

    こちらは、燃麺2、通常の汁なし担々麺2のセット(2250円)。「さすがに燃麺4食セットを初めて買うのは怖い」という人向けだろう。

     なお、楽天の通販を使う時には、申し込みページの一番下にあるダイレクトメール受け取りのチェックを必ず外すこと。これまた以前書いたが楽天のeメールマーケティングは、相変わらず稚拙で、ユーザーの反感を買うようなことを平気で続けている。いい加減、メール不要をデフォルトにすべきなのだが、態度を改める様子はない。

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    2007.09.07

    宣伝:9月30日(日曜日)、新宿・ロフトプラスワンのトークライブ「ロケットまつり18」に出演します

     次回のロケットまつりは、タイトルに偽りあり!ロケットではなく、衛星を作った方をゲストに迎えて、日本の衛星事始めを聞きます。

    宇宙作家クラブpresents
    「ロケットまつり18〜日本で一番多く人工衛星を設計した男 登場〜」
     ペンシル、ベビー、カッパ、ラムダとロケットは大きくなっていった。ロケットができれば衛星打ち上げだ。でも人工衛星ってどうやって作ったらいいの?40年前、衛星開発に挑んだ本人が、日本の人工衛星開発のはじまりを語る。

    【Guest】小野英男(日本で一番多く人工衛星を設計した男)
    【出演】浅利義遠(漫画家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)、笹本祐一(予定)
    Open18:00/Start19:00
    ¥1000(飲食別)
    ※当日券のみ

    注意:開始がいつもの午後7時30分ではなく、午後7時です。

    場所:ロフトプラスワン(新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2 03-3205-6864、地図)

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    宣伝: 9月11日(火曜日)、ネイキッドロフトのイベントに出演します。

     時間はすぐに過ぎてしまうと痛感している。色々書きたいことはあるのだけれど、なかなかおっくうになってしまい、ここの更新も途切れてしまっている。

     この夏、いくつかの場所で「イベントはもっと早く告知して下さい」という言葉を頂いた。申し訳ないです。なるべく早く告知するようにします。

     というわけで次のイベントですが、11日火曜日に、ネイキッド・ロフトに出演します。また「宇宙基本法」絡みです。前回同席した石附さんに加えて、今度は共産党の吉井議員が出席します。

     911という日付が挑戦的ではありますが、宇宙基本法を巡って今度は政治家とのバトルトーク、なるか?
     といったところでしょうか。

    ●2007年9月11日(火)@ネイキッドロフト
    「宇宙基本法を考える2」
    【出演】石附澄夫(国立天文台電波研究部・助教)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)
    【Guest】吉井英勝(衆議院議員)

    場所:ネイキッドロフト:東京都新宿区百人町1-5-1 百人町ビル1F 03-3205-1556
    地図:いつものロフトプラスワンとは別の場所です。

    日時:9月11日(火曜日)
    OPEN18:30/START19:30
    前売¥1,000(+1drinkから)
    当日¥1,200(+1drinkから)
    ※前売券は電話予約のみ受付中(1人につき2枚まで)


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