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2008.10.28

本当の神曲:バッハの「フーガの技法」

 ニコニコ動画で楽しく遊んでいる私だが、コメントでやたらと「神曲」という言葉が出てくるのには違和感を感じている。日本は八百万の神のいる国だから、そこらにぽっと神が現れても不思議はないが、「神曲」という言葉をそうそう乱発していいものやら。本物の神懸かり的な曲に失礼ではないだろうか。

 まず「神曲」の定義を考える。過去数千年の人類の歴史の中で一曲を選ぶとしたらどれを選ぶか、あるいは人類が滅亡に際して次の世代の知性体に残すべき一曲はどれか――八百万ではなく一神教的な神曲を考えてみる。

 色々な意見が出るだろうが、私としてはどうしてもヨハン・セバスチャン・バッハの曲ということになる。バッハは音楽一家に生まれ、当時の欧州では田舎であったドイツの宮廷楽士として一生を送った人だが、音楽史的にはまさに一つの結節点であり転回点でもあった。バッハ以前の音楽はバッハによって統合されて完成し、バッハ以降の音楽はバッハの遺産の上に展開する――そんな存在である。

 そんなバッハの曲から選ぶとしたら、これまた私としては「フーガの技法」「マタイ受難曲」「音楽の捧げ物」が思い浮かぶ。「ゴールドベルク変奏曲」もありうるが、これはグレン・グールドによる1980年のそれこそ神懸かり的録音をもって「人類が未来に残すべき最高の録音記録」として別枠で選ぶべきだろう。

 その中で、どうしても一つ、となれば、私は「フーガの技法」を選ぶ。

 フーガとは複数の旋律が追いかけ合い、絡み合う音楽の形式だ。

 音楽には対位法という技術が存在する。和声法が異なる高さの音を同時に鳴らして、その響きを時間軸方向につなぎ合わせていく技術であるのに対して、対位法は複数の旋律を同時に鳴らしつつ、調和の取れた響きと両立させる技術である。

 フーガは対位法を駆使し、旋律の追い掛け合いや絡み合いを作り出していく。バッハは生涯にわたってフーガという形式の技法の探求し、最晩年に至って自分が開発した技法の集大成として、この「フーガの技法」を作曲した。

 「フーガの技法」を特徴づけるのは、その恐ろしいまでの抽象性だ。技法の開陳を目的に作曲されたので、そこには様々な表情の指定が一切存在しない。テンポ、強弱、クレッシェンド、ディクレッシェンド、アチェレランド、ディヌミエンドなど、音楽に表情を与える指定は楽譜上ではなされていない。それどころか、どのような楽器で演奏するかの指定すらない。

 存在するのは、比較的簡単な主題とその変奏、それらに技法を厳格に適用していった結果の旋律の絡み合い、それだけである。

 そこにあるのは音の高さと音の長さの指定だけだ、とも言える。音の長さも音の高さも厳密に数字で指定しうるから、「フーガの技法」の実態は一連の数字の羅列、つまり数列である。

 しかし、その数列がひとたび音として響くと、それは「音楽である」としかいいようのない、異様なまでの感動を生み出す。

 あれこれ説明するよりも、以下のページで実際に聴いてもらいたい。

フーガの技法研究所

 フーガの技法に入れ込んだ方が作成したホームページだ。楽譜を入力しただけのMIDIファイルが多数アップロードしてあり、分析室1では、楽譜そのままの「フーガの技法」各曲を聴くことができる。

 もうひとつ、「フーガの技法」を人類最高の音楽たらしめているのは、この曲集がまさにクライマックス直前で未完成となっているというところにある。

 技法的にも音楽的にも全曲の頂点として企画された3主題によるフーガは、3つめの主題が登場して、最初の2つの主題と絡み合って楽が大きく盛り上がる直前、239小節で途切れてしまっている。
 しかもその3つめの主題は、バッハ(Bach)自身を象徴する、「BACH(シ♭、ラ、ド、シ)」という音の並びに基づいているのである。

 この「3主題によるフーガ」の自筆楽譜の末尾に、息子の一人であるエマニュエル・バッハは、

"NB. uber dieser Fuge, wo der Nahme B A C H im Contrasubject angebracht worden, ist der Verfasser gestorben."

「注意.このフーガにおいて、対主題として B A C H の名前が持ち込まれたところで、作者は亡くなりました。」

と書き込んだ。このため、長い間この曲がバッハの絶筆とされてきたのだが、実際には死の約1年前にこまで書き進めたところで視力と体力の低下で継続を断念したことが判明している。

 とはいえ、このフーガの宇宙的とも形容できる幕切れは衝撃的だ。聴き手は宇宙の彼方まで連れて行かれたあげく、そこにぽんと放り出されたような異様な感覚を味わう。

 ミロのビーナスが腕がないために様々な想像を誘うように、「フーガの技法」も未完であるが故に、他を寄せ付けない絶対孤高の音楽足り得たと言えるかもしれない。

 「神曲というからには、“フーガの技法”を聴いた上で言っているんだろうな」というのが私の意見。この曲を聴かずして死ぬのは、人生の痛恨事であると断言しうる音楽だ。


 非常に抽象性の高い曲なので、誰が演奏しても聞けるし、どんな楽器で演奏してもきちんと響く。CDを買うならば、Amazon フーガの技法で検索から、好きな編成での演奏を選べばいい。

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Comments

ニコニコにおける「神」は、一神教のそれではなく、「優れた作り手」を称える彼らなりの敬称ではないでしょうか。

Posted by: @aka | 2008.10.29 at 06:38 AM

私のアドレスは、なぜかニコ動からはねられてしまうので、見ていません。。。
自分の曲も初音ミクが歌っているらしい。。。

「フーガの技法」は、藪医者にかからなかったら完成していたんでしょうかねぇ。。。
未完のフーガ、4重フーガになることが判っているだけに、後何小節くらい書き進めて全体をまとめるつもりだったのか、考えると非常に興味深いです。
純粋に音楽を思考していくと、このような境地にたどり着けるんでしょうか。。。
遙か彼方です。。。

私にとっての「神曲」は、ベートーヴェンの一連の後期弦楽四重奏曲です。特に13,14,15,16番プラス大フーガ。
未だにきちんと理解出来ません。。。

Posted by: 大澤徹訓 | 2008.10.29 at 11:30 PM

 藪医者の名前はジョン・テイラーでしたっけ。ヘンデルの白内障も手術して、あげくに失明させているトンデモな奴。

 あの詐欺師野郎がいなければ、僕らはバッハとヘンデルの曲をもっと沢山聴くことができたと思うと、音楽史最大の犯罪人ですね。

 「合唱」以降のベートーベンも確かに謎です。私は「いつか自分の準備ができたらきちんと聴こう」と思ってとってあります。ピアノソナタも凄まじいですよね。なにか宇宙そのもののような茫漠感が溢れている。
 

Posted by: 松浦晋也 | 2008.11.01 at 03:09 AM

 そうそう。

 Let's Search for Tomorrowは、確かにミクが歌っておりますよ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1155993

 皆から愛される曲を持つのは、作曲家の幸せでありますね。

Posted by: 松浦晋也 | 2008.11.01 at 03:27 AM

他人のホームページに自分の考えを書くのは、少し気が咎めるので短めに書きこませて頂きます。
>>コメントでやたらと「神曲」という言葉が出てくるのには違和感を感じている。
という部分の、私なりの解釈と納得の仕方の話です。
たぶんこれは神曲という言葉そのものの意味と、何故その言葉を書き込むのかという理由の差から生まれる問題だと考えます。
簡単に言えば、
「神曲!」というほめ言葉の中に、「皆もそう思うよね?」「皆もそう思ってほしい」という気持ちが混じっているのです。
“感想”を逸脱し自己の感情の“共有”という思念を、「神」という短い文字に込める。
ニコニコ動画に限らず、メディアが使う「カリスマ」という表現も、「神」という言葉が持つそもそもの定義を逆手に取った、新しい(陳腐な)意思伝達方法なのではないでしょうか?
そう思えば、「神曲」という言葉の乱発にも、わかりやすい理由をつけることができると私は考えます。

「神曲」と認めるべきただ一つのものという概念が先にある。
これなら松浦晋也さんが考える定義そのままで、比較的「神曲」に対する失礼度合を抑えることができませんでしょうか?

Posted by: ゆめよし | 2008.11.23 at 03:00 AM

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