« August 2011 | Main | December 2011 »

2011.11.12

尾崎宗吉の音楽を聴く

 夜の歌 尾崎宗吉作品集成
 1. 小弦楽四重奏曲(1935)
 2. 幻想曲とフーガ(1936)
 3. 初夏小品(1936)[作詩:大木惇夫]
 4. チェロ・ソナタ(1937)
 5. ヴァイオリン・ソナタ第2番(1938)
 6. ヴァイオリン・ソナタ第3番(1939)
 7. 夜の歌(1943)
 演奏:モルゴーア・クァルテット他

 アマゾンから届いたので聴いた。これはすごい。戦前の日本に、こんなに良い曲を書ける作曲家がいたのか。

 尾崎宗吉(1915-1945)は昭和20年に30歳で中国大陸にて戦病死した作曲家。小倉朗など関係者の回想を読むと、必ず「才能抜群」として登場する。LP時代に極少部数で作品集が一回出ていたようだが、作品が一枚のCDにまとまって、市販されるのは多分これが初めて。

 こちらに尾崎に関する詳細な解説がある。
夭逝の作曲家/尾崎宗吉

 これほどの作品を書ける男が、わずか30歳で戦病死しなくてはならなかったなんて…かわいそうだし惜しいし、くやしいし、とにかくなんといっていいかわからない。残した音楽が素晴らしいほどに、死の無念さが胸に迫る、

 尾崎は1915年、浜名湖に浮かぶ弁天島で旅館を営む夫婦の六男として生まれた。子供の頃から木琴を好み、音楽を志して上野の音楽学校(現東京芸大)を受験するが、音楽の成績ではなく健康診断で尿タンパクが出たというだけで受験に失敗(尿タンパクは激しい運動後には健康人でも出るものだ)。
 このことが彼の人生を決めてしまう。当時、上野の音楽学校の学生には徴兵猶予があったのである。
 上野に代わって東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進学し、小倉朗と知り合い、親友となる。当ブログでも取り上げた諸井三郎に師事し、やがてめきめきと頭角を現し始めた。その前に立ちはだかったのが徴兵だった。尾崎は兵隊として中国大陸の戦線を転々とすることになる。。

 尾崎の創作は19歳の小弦楽四重奏曲から始まり、28歳の夜の歌で終わる。20代の10年は、そのうち5年を兵隊として戦地で過ごし、30歳でこの世を去った。作曲にあてることのできた時間は5年に過ぎない。
 その間に、彼は恐ろしいほどの進歩を示した。稚拙と瑞々しさの同居の裡に才能のきらめきを見せる小弦楽四重奏曲から、プロコフィエフやバルトークすら連想させるヴァイオリン・ソナタ第3番まで、わずか4年だ。彼の音楽ははつらつとしたリズムと無駄のない構成が際立っている。初期の作品は淡い五音音階の音感で日本調を感じさせもするが、やがて自由自在に半音階を使いこなしていくようになった。
 徴兵が年限になって戦地から帰ってきた時に書いた絶筆、夜の歌は他に比較する対象がないほどに透みきっている。同じく戦地から帰ってきている間に書いたヴァイオリンソナタ4番の楽譜が行方不明になっているのが惜しい。

 彼の死因は戦地で患った虫垂炎だった。交通不便の地であったため、病院への搬送が遅れ、手術の甲斐無くこの世を去ったのである。今ならなんということもなく直る病気だ。ひょっとしたら抗生物質の服用のみで、助かったかもしれない。

 哀しく、美しく澄み切った夜の歌の後に、一体どんな音楽があったのか、あり得たのか。彼の頭の中では、数多の音が現実化されるのを待っていたはずなのに、今やすべては想像するしかない。それどころか、彼が残した楽譜もそのかなりの部分が紛失して行方不明になっている。このCDには、現存する作品のほぼ全部(オーケストラのための田園曲以外)が入っている。これだけしか残らなかった、というべきなのか、これだけでも残って良かったというべきなのか。

以下、友人であった小倉朗の自伝「北風と太陽」(1974)に登場する尾崎。

 尾崎はその音楽学校に僕より少し遅れて入ってきた。いかつい青年――第一印象はまあそういったものだった。弁天島の生まれで、僕より数ヶ月上。強い近視の眼鏡の中で目が小さく見え、堅く結んだ口元は芯の強さを示したが、笑うと目尻が下がって子供のような可愛らしい顔になった。

(中略)
 たちまち意気投合して、親友兼ライバルとなり、僕が学校を飛び出してからもこのつき合いは深まる一方で、彼の下宿と僕の家との行き来は頻繁。一緒に音楽会にいき、レコードをきき、勉強を競い,討論し、やがて木琴の名手と知ると僕のピアノの伴奏で,僕等が名付けた「サバリアン・ラプソディー」——つまり気分本位のごまかし演奏——をやって涙のこぼれるくらいの大笑いをした。
 彼は着実に学校を卒業し、卒業するとすぐ作曲家連盟の主催する試演会で「小絃楽四重奏曲」を発表して一躍注目を浴びる、僕はその曲に旋律の発明力とリズムの自発性を見て、手強い相手に出会ったことを思い知る。
 その後、彼は立てつづけに作品を書いた。その筆の早さを僕が危ぶむと、「とんでもない。まだ完成を求めるなんていう年頃じゃないよ」と笑った。尾崎はそうして遠い未来を睨んでいたのである。けれども中国で始まっていた戦争が彼をひきずり出す。徴兵検査が終るとまもなく、佐倉の鉄道隊に入り、ある朝、朝靄をついて営門を出て、銃を担い、隊列の中から目だけで僕に笑って中支に向かった。
 幸い、そのときは帰ってきた。しかし戦争については「愚劣!ひどいもんだ!」というだけで、後は何も語ろうとはしなかった。そして、戦争の疲れから脱けきらないうちにまた召集される。出発の直前、彼の家を尋ねた。がらりと玄関をあけると、玄関先でこっちを向いてチェロを弾いていた。そのチェロを弾く姿が彼の最後の姿となった。――死んだのは太平洋戦争も間もなく終わろうとするころのことである。

 尾崎に関する唯一の文献。古書店経由で入手できるようなのでリンクを掲載する。20年前の出版だが、当時存命だった関係者——小倉朗、柴田南雄、井上頼豊、安部幸明などは、全員がこの20年の間にこの世を去った。おそらく生前の尾崎を知る人はもうほとんど残っていないのだろう。

 人は死んで去っていく。作曲家は後に楽譜という形で音楽を残す。楽譜は音楽そのものではない。楽譜を音楽にするためには演奏しなくてはならない。

 もっと彼の作品が演奏されますように。そう願う。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2011.11.03

山田一雄作品を聴いてきた

 久しぶりにブログを書くことにする。10月30日の日曜日、下記のコンサートに行った。

オーケストラ・ニッポニカ 第20回演奏会・山田一雄没後20周年記念/交響作品展 2011年10月30日(日) 14:30開演予定(14:00開場予定) 紀尾井ホール(東京・四ッ谷)/全席指定 3,000円 山田和男/ 大管絃楽の為の小交響詩「若者のうたへる歌」 (1937) 交響組曲「呪縛」(1940)* もう直き春になるだらう (1938) 城左門詩* 日本の歌 (1944/1959) 深尾須磨子詩* おほむたから 作品20 (1944) 大管絃楽の為の交響的「木曾」 作品12 (1939)

ソプラノ 山田英津子*
指揮 田中良和
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ

 山田和男(途中で改名して一雄、1912〜1991)の作品を集めたコンサートだ。

山田一雄の世界

 ヤマカズさんは、指揮者として何回も実演を聴いたものだ。頭の後ろのほうにだけ残った白髪を長く伸ばし、髪振り乱し汗飛び散らせ、飛び上がって指揮をする姿はありありと思い出せる。指揮棒から紡ぎ出される音楽は、いつも完璧ではなく、時として野暮ったさも感じさせた(当時は、あの流麗極まりない音楽を紡ぎ出す小澤征爾が、当たり前のように日本のオケの定期演奏会を振っていた)が、なによりも熱くエネルギッシュで、いったんエンジンがかかるとどこまでも高揚していった。

 作曲家としての顔もあることは、高校時代に著書「指揮の技法」を読んで知った。自作の譜例を掲載していたのだ。いや、顔があるどころではない、山田和男は戦前戦中を通じて、たいへん精力的に活動した作曲家だった。1950年頃から活動の軸足を指揮に移して作曲を止めてしまったので、ちょうど私が音楽に興味を持ち始めた時期は、作曲家としての側面が忘れ去られていた(ピエール・ブーレーズと似ているが、ブーレーズは完全に作曲を止めることはなかった)。ここ数年、代表作の「交響的木曾」が何回か演奏され、近くナクソスからCDが出るという噂もある(是非出て欲しい!)。

 ヤマカズさんはグスタフ・マーラーの影響を色濃く受けた人だった。戦前に日本にやってきたマーラーの直弟子、クラウス・プリングスハイムから直接作曲と指揮の指導を受けている。マーラーの孫弟子というわけだ。最初の「若者のうたへる歌」は、24歳の時の作品。濃厚なマーラーの影響が、五音音階的な旋律と混ざり合い、かつどこかショスタコーヴィチの交響曲、それも3番あたりを思わせる無限変奏的構成で展開していく。なにより瑞々しい。私は白髪の姿しか知らない作曲者の、若い瑞々しさが音楽に溢れている。
 「呪縛」は貝谷とも子バレエ団の為に書いた異国情緒溢れるバレエ音楽から抜粋した組曲。途中ソプラノ独唱が入り、意味不明(おそらくは異国語を想定したでたらめ、ハナモゲラ語じゃないかと思う)の歌詞を歌うのが面白い。
 ソプラノの山田英津子は、作曲者の娘さんだ。ヤマカズさんは、再婚でずいぶん歳を取ってから娘に恵まれた。私が高校生の頃「音楽の友」誌でまだ小さな娘さんと並んだ写真を見た記憶がある。
 あの写真の娘さんが、この人か…日本語の的確な発音と、ベルカント唱法の響きを効果的に使い分けるソプラノ歌手となっていた。実に良い声だと感じ入って、帰ってきてから検索をかけたら冬樹蛉さんのこのページがひっかかった。私の知人では随一の声フェチの冬樹さんが、ここまで入れ込むというのは大したものだ。

 ところで、パンフレットによると、チャイコフスキーの「白鳥の湖」日本初公演は貝谷とも子バレエ団によるが、オーケストラ譜が入手できず。ピアノ譜からヤマカズさんが独自にオーケストレーションを施して演奏したんだそうだ。当時の例としては他に、近衛秀麿版「展覧会の絵」なんてのもあるそうな。
 これは聴いてみたいな。楽譜は残ってないだろうか。

 「もう直き春になるだらう」は代表作のひとつ。素直な歌詞に素直な音楽が付き、繊細なオーケストレーションが可憐に響く。
 一方、休憩を挟んでの「日本の歌」は、「うましくに、ひのもと」と歌う日本賛美の歌詞に、マーラーを思わせる堅固・緻密なオーケストレーションを施した、まさに「マーラーの交響曲の一部」みたいな曲。
 パンフの記述によると、作曲者本人はこの曲にかなりの愛着があり、戦後も改作を続けて1959年に決定稿を演奏しているのだそうだ。あるいはこの曲こそは詩だけではなく音楽も含めて本人の「日本観」の吐露なのかも知れない。

 「おほむたから」はこの日最大の聴きもの。戦局急を告げる1944年に作曲され、一見戦意高揚を思わせる題が付いたオーケストラ曲ながら(「おほむたから」は天皇にとっての大いなる宝、つまり臣民を意味する)、マーラーの第5交響曲の第1楽章を換骨奪胎した構成をしており、極めて悲劇的な色彩が強い。近年になって音楽評論家の片山杜秀氏がこの事実を指摘したことから一気に注目されるようになった。


 徹底した引用と換骨奪胎という表現手法の面では、ルチアーノ・ベリオのシンフォニア(1969年)第3楽章(こちらはマーラーの第2交響曲「復活」の第3楽章を骨組みとしてありとあらゆる引用をコラージュしていった)に25年先駆け、自由に物言えぬ環境での暗喩による音楽の表現という意味ではショスタコーヴィチとほぼ同時期ということになる。
 もう冒頭から、マーラー5番からの換骨奪胎はありあり、ビートルズのパロディのラトルズを聴いているような雰囲気。そして、オリジナルの悲劇的雰囲気は拡大再生産されている。
 ここまで沈痛な雰囲気の曲でも、「おほむたから」とそれっぽい題を付ければ堂々演奏できたのだな。まあ1944年の段階で元ネタとなったマーラー5番を知っていた者のほうが少なかったのは間違いない。
 そういえば、ショスタコーヴィチ交響曲連続演奏会の時のトークで指揮者の井上道義氏が「昭和20年の空襲が続く中、日比谷公会堂では三日に一回の割合でクラシックのコンサートをしていたんですよ」と話をしていたのを思い出した。

 最後の大管絃楽の為の交響的「木曾」は文句なしの傑作。木曽節をはじめとした民謡が気持ちよく鳴りまくる。私はこの曲を実演で聴くのは2回目だけれど(前回もニッポニカの演奏だった )、外山雄三の「オーケストラのためのラプソディ」あたりと並んで、オーケストラが気持ちよく鳴らす日本民謡の曲としてもっと演奏されていいと思う。
 …と書いたら、こちらに「外山雄三のラプソディは、交響的木曾に触発されて書いたもの」という記述があった。これはびっくり。

 会場で、立派な装丁のヤマカズさんの演奏記録を500円というお値打ち価格で売っていたので入手。折田義正さんというお医者さんにしてヤマカズさんの大ファンが、編集したものだ。
 1991年7月21日の新交響楽団コンサートが最後の舞台。翌月の8月13日に79歳で急逝。最後まで現役だったんだな。もっともっと演奏したかったのだろう。

 ちなみに、「おほむたから」は来年2012年2月3日の東京ニューシティ管弦楽団第80回定期演奏会で、元ネタのマーラー第5交響曲と共に演奏される予定だ。興味のある方はどうぞ。



 指揮者としての山田一雄はあまり録音を残さなかったが、近年ライブ録音がいくつもCD化されている。こちらは、1978年2月12日に神奈川件の藤沢市民会館で演奏したマーラーの交響曲8番「千人の交響曲」のライブ録音。

 高校2年生の私はこの時、二階席の最前列にいた。木管が五管に拡大された四管編成オーケストラに合唱団、独唱と多数の演奏者を乗せるため、ステージは大きく客席側に張り出していて、張り出しの上で指揮する山田の姿は、二階席からは手すりの間を見え隠れしていた。山田は、例によって飛び上がり、伸び上がり、身をかがめて渾身の指揮をした。感極まって飛び上がる山田の後頭部が、手すりの間から飛び出してきたのを、私はありありと思い出せる。

 演奏も録音も決して最高ではない。特に第一部は雑駁でさえある。しかし第二部に入るとどんどん音楽は高揚していく。最後の「神秘の合唱」はまさに超絶的名演と言えるだろう。



 前にも紹介したけれども、この諸井三郎追悼演奏会のライブ録音はまさに名演。山田は多数の邦人作品を初演した。岩城宏之の先輩的存在でもあった。




| | Comments (0) | TrackBack (0)

« August 2011 | Main | December 2011 »