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2013.04.30

東京にオリンピックを???

 猪瀬直樹都知事が、2020年オリンピック招致を巡ってニューヨークタイムズから受けたインタビューで「アスリートにとって、いちばんよい開催地はどこか。インフラや洗練された競技施設が完成していない、2つの国と比べてください」と立候補国を比較する発言をし(IOC行動規範は比較を禁じている)、「イスラム諸国で人々が共有しているのは唯一、アラーだけで、互いにけんかばかりしている」と誹謗ともとれる発言をした——と、ニューヨークタイムズが記事を掲載し、波紋が拡がっている。

NHKニュース:すぐ消えるだろうが、この手のニューズの扱いがもっとも遅れるであろうNHKに掲載されたので。
毎日新聞

 これに対する猪瀬知事コメントは、知事のフェイスブックに掲載された。
猪瀬直樹facebook

 私は、IOCの行動規範第14条を充分理解しており、これまでも遵守してきている。今後も尊重し遵守していく。
記事の焦点が、あたかも東京が他都市を批判したとされていますが、私の真意が正しく伝わっていない。
 私は、トルコに行ったこともあり、イスタンブールは個人的にも好きな都市である。私には、他の立候補都市を批判する意図はまったく無く、このようなインタビューの文脈と異なる記事が出たことは非常に残念だ。
 私の招致にかける熱い思いは変わらないし、今後もIOCルールの遵守、他都市の招致活動への敬意をもって、招致活動に取り組んでいく。

 知事がどう思ったかは問題ではなく、具体的にどういう文脈でどのような発言をしたかが問題となっているのだが。

 ともあれ——個人的に不思議なのは、「なぜそこまでオリンピックにこだわるのか」ということだ。石原都知事時代に一度落選し、なおかつ運動を復活させ、しかも知事が猪瀬知事となっても運動を継続展開する理由が、私には分からない。
 私の周囲にも、「東京の古くなった都市インフラを一気に再整備するにはオリンピックをするしかない」という人がいるのだけれど、そんな内向きの理由だけでオリンピックを招致していいの?

 1964年の東京オリンピックは、首都高速道路を始めとしたインフラ整備に目が行きがちだけれど、実際には敗戦・占領を経た国が国際社会に再デビューを果たすという意味合いが大きかった。1963年に日本は「関税および貿易に関する一般協定(GATT)」12条国から11条国に移行している。GATTでは、11条で自由貿易を規定する一方で、経済力の弱い国の自由貿易の制限を認めている(12条)。日本は1955年にGATTに加盟した時は12条の適用を受けていたが、1963年に11条国へ移行した。また1964年4月にはIMF(国際通貨基金)協定第8条を受託してIMF8条国に移行している。IMF8条は、自国通貨の交換性維持や差別的通貨措置(例えば自国に有利に相場を政策的に設定すること)の回避などを記した条項だ。GATT11条とIMF8条は、簡単に言えば国際的な貿易ルールの基本を定めたもので、日本がそれに従うということは、国際的な財貨の流れの中に復帰することを意味した。1964年10月の東京オリンピックには日本の国際社会復帰をアピールする意味があったわけである。

 このあたり、誰かが仕組んだというよりも、時代の流れの歯車がそのように噛み合っていったということのようだ。1959年5月に、1964年オリンピック開催地として東京が選出されている。一方IMF8条国移行は、1960年代に入ってから問題になりはじめ、1962年11月のIMF対日年次協議(東京にて開催)で、「日本は8条国に移行すること」という対日勧告が採決されている。GATTの12条適用の可否はIMFが判断することになっており、この対日勧告で自動的にGATT11条国移行も不可避になった。
 かくして日本の国際貿易体制への復帰とほぼ同時期に、海外から人もメディアも集まってくるオリンピックが開催されたわけである。

 今回そのような外向きの誘致の理由はない。となると、オリンピックという道具の使い道は、東京のインフラ再整備しかなくなる。インフラの再整備はどのみちやらねばならないことだし、拙速で変なハコモノを作ると今後100年は後を引くだろう。そこまでのリスクを取ってまで、たかだか2週間のお祭りを引っ張ってくる理由は、私にはないように思える。
 オリンピックの価値もかつてほどではないだろう。レスリングの五輪種目外れ問題に見るように、ますますオリンピックはショーアップされたお祭りと化している。たんまりと公費を突っ込むには、あまりにコストパフォーマンスが悪くはないだろうか。
 同じ肉体を駆使するショーなら、私はXスポーツを引っ張ってきたほうがずっと面白いと思うのだけれど(もちろんXスポーツを名目に、インフラ整備を行うことはできないだろうが)。

 その昔、墨田区の古老から東京オリンピックの印象を聞いたことがある。「川向こうでなんかやっとるという雰囲気で、こっちはどうってことなかったねえ」と言われて、はっとした。川とは隅田川だ。同じ東京でも、代々木のあたりと墨田区ではそれほどまでに大きな温度差があったのだ。50年を経てはるかに多様化した東京にオリンピックを誘致しても、面倒ばかり増えて大きな意義はないのでは、と思うのである。

 個人的には日本にオリンピックを誘致するとしたら東北。東日本大震災からの復興を見計らったタイミングで、と考える。もっと言うならオリンピックよりILC(国際リニアコライダー)誘致のほうがずっと有意義で、生きた投資となるだろう。

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2013.04.28

佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶ

 先だってのNHKドキュメンタリーに合わせるかのように、CDショップにはコロンビアが配布した佐村河内守のポスターが張り出されるようになった。こんなページもできている。交響曲1番のコンサートは追加公演決定というクラッシックの世界で異例の盛況となっているそうだ。クラシック系作曲家の集中プロモーションとしては大成功したと言えるだろう。

 Twitterで書いたけれど、この交響曲の意味は、古い後期ロマン派のイディオムでコンサート全体を使うような巨大な交響曲を書いても、本気で一心に取り組めば現代の聴衆の心に届く可能性があるのを示したところにある。
 もちろんリスクは大きい。そんなことをすればそもそも演奏する機会を得るのが至難になる。誰が知らない聴いたこともない作曲家の80分もある新曲を聴くために何千円かを払うか(私のような物好きは払うかも知れないが)。
 「ドーリアン」初演のすっからかんの東京文化会館大ホールを知っている者としては、よくまあ(収入的に)危ない橋を渡って、渡りきったなあとしか言うほかはない。もちろん作曲者にはそうしなければならない強迫観念に近い内面的理由があったのだろうし、内面の声に従った結果が、いくつかの条件が重なって現状となったのだろう。
 しかもこれは出発点であって、この先作曲者本人は作品を持って「自分が本物である」と証し続けねばならない。聴衆の望む方向と作曲者の望む方向が乖離することだってあるだろうし、どんどん作品が長くなっていって、ついには誰も聴かなくなる可能性もあるだろう(ソラブジのように!!)。茨の道は続くのだ。

 ロートル現代曲ファンとして、ここでは「佐村河内の曲で、日本人の手による交響曲が存在し、しかも聴いて面白い」と知った人向けに、次にこの曲を聴いたらいいよ、と示そう。明治以来の積み重ねで、日本人の曲でも面白いものはいっぱいあるのだから。
 以下、佐村河内守「交響曲1番」の次に聴いてみたい邦人の手による交響曲を紹介する。もちろんセレクションは私の独断と偏見であり、タイトルになんらかの形で「交響曲」と入っていることを前提条件とした。CDは演奏が良く、手に入りやすいものをこれまた独断で選んで掲載している(そもそも録音が一種類しかない曲も多いが)。

 「佐村河内の交響曲1番は素晴らしい」と思ったあなた。あなたは今や、過去100年以上に渡って我らが同胞が積み上げてきた傑作の森の入り口に立っているのです。



その1 定評ある名曲を聴きたい

矢代秋雄:交響曲
 矢代秋雄(1929〜1976)は、戦後日本第一世代で、黛敏郎と共にその傑出した才能を生前から認められた巨星である。ただし47歳の若さで夭折したこともあり作品数が極端に少ない。十代の頃はそれこそ一日ピアノ曲一曲というようなペースで作品を書いていたそうだが、乱作を諭されて本人曰く「鯛の目の肉を集めてカマボコを作る」ように推敲に推敲を重ねるようになった。数少ない作品はその全てが傑作であり、日本を代表する作品となり得ている。
 矢代が残した唯一の交響曲は1958年の作。スケルツォとアダージョを挟む4楽章制という、古典的な交響曲の形式を忠実に守りつつ、斬新なリズムと和声が全体を彩る。特に2楽章スケルツォの特徴的なリズム(獅子文六「箱根山」の太鼓の描写から着想されたそうだ)が有名だが、第1楽章や第3楽章の神秘的な響きや、第4楽章の大胆なオーケストレーションも魅力的だ。第1楽章に出現するモチーフが全体に統一感を与えている。


伊福部昭:タプカーラ交響曲
 矢代より一つ上の世代の伊福部昭(1914〜2006)の手による唯一の交響曲。一般には「ゴジラ」「ラドン」などの東宝怪獣映画の映画音楽で有名だが、映画音楽、コンサート用音楽を問わず一生を通じて作り出す音楽がぶれることなく一貫していたという点で希有の存在だった。どれを聴いても、どこを切っても伊福部昭。しかしそのたたずまいは単なるマンネリズムではなく、深く血脈に根ざした安定感に溢れている。
 タプカーラ交響曲は1954年作、現在は1979年の改訂版が演奏されている。古典的交響曲と異なりスケルツォのない3楽章の構成をしている。タプカーラとはアイヌ語で「立って踊る」の意。その名の通り、1楽章と3楽章はパワフルで律動的なタテノリの音楽——いや、タテノリなんて軽く言ってはいけないのだろう。静かに心に沁みる第2楽章とも合わせて、深い深い伝統の奥底から天空の果てに至るまでを垂直に貫く傑作である。


黛敏郎:涅槃交響曲
 黛敏郎(1929〜1997)は一般に「題名のない音楽会」司会の右翼の人、として記憶されているようだが、冗談じゃない。矢代と並んで戦後の日本の音楽を牽引した大スターだった。矢代がアカデミズムの領域に留まったのに対して、サンバ、マンボ、ジャズ、ルンバから前衛にいたるまでなんでもござれ、交響曲やオペラなどシリアスなコンサート音楽や「天地創造」(ハリウッド進出で坂本龍一に先駆けること21年!)のような映画音楽、結婚式のための「ウェディングシンフォニー」なんて実用音楽も書くし、晩年は新興宗教向け式典音楽も書いた。なんでもできるし、なにを書いても一定以上の水準をあっさりクリアする希有の天才だった。
 その黛畢生の傑作がこの涅槃交響曲(1958)。梵鐘の音響を解析してオーケストラで再現するというアイデアから始まって、全6楽章の壮大な仏教音楽を作り上げてしまった。もっとも聴くにあたっては仏教がどうのこうのととらわれず、壮大な音響の伽藍を楽しむほうがいいかも知れない。「とにかく聴け」というべき作品。黛にはもう一曲「曼荼羅交響曲」(1960)という作品がある。こちらも必聴。


芥川也寸志:エローラ交響曲
 いわゆる4楽章の交響曲の形式を全く踏襲していない交響曲。芥川也寸志(1925〜1989)は、若い時に国交のないソビエトに単身入り込むなど行動派の作曲家だったが、1958年に作曲されたこの曲は、インドのエローラ石窟を訪れた時の印象に基づいている。
全体は初演版は20、現行版は16の「♂」と「♀」の記号の付いた短い楽章で構成されており、♂と♀の断片を交互に演奏していく。初演時は、このルールを守る限り、どんな順番で演奏してもOKという指定だったそうだが、現在は固定された順番で演奏されている。短いモチーフが絡み合い、最後に巨大な岩盤をくりぬいたエローラ石窟を思わせる壮大なクライマックスを構成する。


松村禎三:交響曲1番
 一生を通じて東洋的な生命力に溢れた音楽を追究した松村禎三(1929〜2007)。その半世紀以上の作曲の軌跡における最初の爆発というべき作品。5年以上の歳月をかけて作曲し、1965年に初演された。演奏時間25分ほどの小振りの曲だが、圧倒的かつ巨大な印象を残す。冒頭、木管楽器の細かな音符の繰り返しが積み重なって、マッシブな音響となり、そこに金管や打楽器が加わってどかんと大爆発を起こす様から、無限に続くがごときぬめぬめとした旋律が疾走するラストに至るまで、一瞬たりと気を抜くことができない高密度の作品。この曲をきっかけに、松村は「管弦楽のための前奏曲」(1967)、ピアノ協奏曲第1番(1973)、同2番(1978)と、傑作を生みだしていくこととなった。




その2 佐村河内「交響曲1番」みたいなのを聴きたい

諸井三郎:交響曲3番
 曲の持つ精神的内容では、もっとも佐村河内作品に近いかもしれない。この曲については以前こういう記事を書いた。諸井三郎(1903〜1977)が、太平洋戦争も敗色濃厚となった1944年、自らの死を覚悟しつつ作曲した大作。第1楽章 静かなる序曲〜精神の誕生とその発展、第2楽章 諧謔について、第3楽章 死についての諸観念——というそれぞれに表題を持つ3つの楽章から成る。ドイツに音楽を学んだ諸井らしく、重厚な後期ロマン派の系譜に連なる響きから、生と永遠を希求する感情が立ち上る。


吉松隆:交響曲5番
 時代思潮がどうであれ、己のやりたい音楽をオーケストラを使って書くという点で、佐村河内作品に近い曲。ただし吉松隆(1953〜)は、シベリウスとプログレロックに根を持ち、ロマン派的なところはない。その音楽は真摯さとポップさとキッチュさが、奇妙に混合し、疾走する。精神的には佐村河内からもっとも遠いと言えるかも。2001年作曲の5番は作曲者によれば「ベートーベンの運命と同じく、ジャジャジャジャーンで始まりハ長調主和音で終わる」というコンセプトのもとに書かれたファウスト交響曲。ファウストたる自分、誘惑するメフィストフェレス、愛するグレートヒェンという3つの主題が50分近い演奏時間を通じて絡み合う。最終楽章は、これまた作曲者曰く「ビートルズのヘイ・ジュード」。恍惚の極みの旋律が延々と繰り返され、一瞬愛する者を回想し、ドミソの和音になだれ込む。


原博:交響曲
 時代思潮と関係なく書きたい曲を書くという意味では、この曲も同じだが、原博(1933〜2002)の場合、範とすべきは佐村河内のようなロマン主義でも、吉松のようなシベリウスとプログレでもなく、さらに古い古典派音楽だった。とはいえ、以前にも紹介記事を書いたが、単なる古典派を模した曲ではなく、古典的な端正な形式感の中にきちんと現代性を織り込んでいる。
 佐村河内作品と同様に重々しく内面的な第1楽章から始まるが、最後に重厚なコラールで救済をうたう佐村河内作品に対して、原の第4楽章はあくまで快調にアレグロでラストまで走り抜ける。リズミカルな快速走行が一瞬悲しみに陰るところで、秩父音頭が引用されるのが印象的。




その3 せっかく邦人作品を聴くのだから、いわゆる西洋の名曲とは毛色の違う交響曲を聴いてみたい

山田耕筰:交響曲「かちどきと平和」
 日本人の手による最初の交響曲(1912年作曲)。西洋の音楽を急速に学んだ日本人が、20世紀初めの段階で、どの程度自家薬籠中のものにしていたかを示す指標のような作品。聴き所は、山田耕筰26歳の若々しくも瑞々しい感性だろう。後年、山田は「長唄交響曲」という長唄にそのまんまオーケストラの伴奏を付けるという曲を3曲も発表しており、そちらも同じナクソスのCDで聴くことができる。


橋本國彦:交響曲1番
 太平洋戦争中、中学生の矢代秋雄と黛敏郎が師事していた先生が、橋本國彦(1904〜1949)だった。戦前・戦中の音楽界の大スターで、オーケストラ曲から歌謡曲の作曲に至るまで幅広い分野で活躍した。交響曲1番(1940)は、皇紀2600年奉祝曲のひとつとして作曲、初演された。堂々たる構成と優雅な旋律美が特徴で、大澤壽人の交響曲2番(1934)や、諸井三郎の交響曲2番(1938)などと共に、山田耕筰から30年を経ずして、日本人作曲家の到達した水準を示す曲といえる。第2楽章が琉球風の音階に基づいた旋律を繰り返すラヴェル「ボレロ」風の音楽であるところが面白い。戦後は、戦争中の体制協力が災いし、半蟄居状態のまま44歳にして病没する。今一度、その作品の発掘と評価が必要な作曲家の一人である。


三木稔:急の曲——2つの世界のための交響曲
 三木稔(1930〜2011)は、日本音楽集団の創設に参加し、邦楽器と西洋楽器の世界を股に掛けて活躍した作曲家。「急の曲」(1981)は、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団からの委嘱で作曲された。「2つの世界のための交響曲」という副題の通り、通常の3管編成のオーケストラと日本音楽集団の邦楽オーケストラというべき編成の邦楽器群が、あるいは拮抗しあるいは調和して華やかな音楽を繰り広げる。三木には「序の曲」(1969)、「破の曲」(1974)という作品もあり、作曲者はまとめて「鳳凰三連」と題している。




その4 番外編:交響曲というにはちょっと違う……しかし面白い

伊福部昭:ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲
 1941年、伊福部26歳の若さ一杯、元気いっぱいの野心作。戦争で楽譜が消失したと思われていたが、1997年にNHK交響楽団の倉庫でパート譜が発見されて復活した。タイトルこそ協奏風交響曲だが、実体はピアノ協奏曲に近い。作曲者の若さが全面的に爆発する音楽だ。戦後、この曲が失われたものと判断した伊福部は、使用したモチーフを再度つかって2曲を作曲する。タプカーラ交響曲(1954/1979)と、「ピアノと管弦楽のためのリトミカオスティナータ」(1961)である。この曲の土俗的側面がタプカーラ交響曲に、メカニカルでリズミカルな側面がリトミカオスティナータにと分割されたといってもいいのかもしれない。同じCDに収録されている「 ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲 」も傑作。特に「巨大な悲しみが行進する」と評される第2楽章は涙なしに聴けない。


松下眞一:シンフォニア・サンガ
 松下眞一(1922〜1990)は、数学者であり物理学者でありその一方で前衛的技法を駆使する作曲家でもあった。キャリアの後半は仏教に傾倒し、仏典に基づくカンタータなどを作曲している。シンフォニア・サンガ(1974)は、彼の第6交響曲に相当する作品。サンガとは「僧伽(そうぎゃ)」、すなわち仏教修行者の集団を意味する。その名の通り純粋な器楽曲としての交響曲ではなく、独唱、合唱、邦楽器なども交えて、釈迦とその周囲の人々を扱った一大カンタータといえる作品。ただし、黛敏郎とは異なり、響きに仏教っぽいところはまったくない。むしろ前衛の時代を通じて身につけたのであろう、全天に星が飛び散るかのような華麗なオーケストラの響きが詰まっている。そんな美しい音響と、サンスクリット語の異国的な響きの絡み合いが楽しい作品である。


柴田南雄;交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」
 柴田南雄(1916〜1996)は、一般的には作曲家としてよりもNHK-FMの解説者としての顔のほうが知られているかも知れない。祖父、父ともに化学者で東京帝国大学の教授という裕福な家庭に生まれ(自伝を読むと、そのおぼっちゃん振りに腹が立ってくるほど!)、本人も植物学を専攻するが諸井三郎に音楽を学び、作曲の道へ進んだ。作風は叙情的なものから、前衛へと転じ、合唱曲「追分節考」(1973)から様々な素材を知的に組み合わせるコラージュ的なものへと変化した。
 交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」(1975)は、第3期を代表する大作。鴨長明の「方丈記」をテキストに、昭和初年から作曲時の昭和50年までの時代の流れが、様々な引用によって重ね合わされる。同時に、古典派からロマン派、現代へと楽章が進む毎に音楽の時代様式が下って現代的で複雑なテクスチュアになるという——言ってみれば「交響曲で追う交響曲の歴史」のような趣向も凝らされている。演劇的要素も含み、昭和という時代を多面的に回顧するシアターピース的な作品。

 このようなセレクションをすると、おそらくは團伊玖磨(交響曲を6曲作曲した)はどうした、とか、別宮貞雄(同5曲)は入らないのか、あるいは最近リバイバル著しい大澤壽人(同3曲)はとか色々異論はでるだろう。池辺晋一郎(同8曲)は。一柳慧(同8曲)は、という人もいるだろう。
 もちろん分かっているけれども、ここでは佐村河内の曲の次に聴く一曲ということで割愛した。
 色々な意見がネットに載るほうが面白いので、是非とも異論のある方は自分のセレクションを公開してほしい。

 ちなみに、こういうページも存在している。

かたより交響曲道(日本人):なかなかすごいページで、邦人の手による交響曲をほぼ完全に網羅しているかも。



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2013.04.26

5年目のBD-Frog

 しばらく記事を書いていなかったBD-Frogだが、現在こんな状態になっている。
201304frog1

 見かけでは分からないが前後のハブはセラミックボール入りになった。

 小径車はハブの回転数が高い。このためスムーズに走るにはハブの抵抗軽減が重要になる。ところがシマノの小径車用のハブ「カプレオ」はコストダウンのためかハブ内面の加工が意外と荒い。
 一昨年11月、「ふじのくにCYCLE FES.2011 in 新東名」というイベントに参加して、開通前の新東名高速をFrogで89kmばかり走った。高速道路なもので、2%程度のだらだらの上り下りが連続する道だったのだが、そのだらだら下りで、どんどん普通の自転車に抜かれたのである。これは走行抵抗の低減を図らねばならぬと思ったが、実際の作業は今年までずれ込んでしまった。

Fujinokuni

 ちなみに12インチの小径車での参加は自分だけかと思っていたが、どうやら他に同じ12インチのOX Pecoで参加した方がいるようだ。

 セラミックボールは舟辺精工が通信販売しており、自分でも加工可能なのだが、Frogでは東京・曙橋の小径車専門店イークルにお願いした。というのも、最初は抵抗の少ないハブでゼロからホイールを組むつもりでイークルに相談していたのだが、現物を見せたところ、特殊な加工をしてあるので代替ハブが入らないことが判明。そのまま既存のハブにセラミックボールを入れることになった次第。

 研磨とセラミックボールの効果は予想以上に大きかった。ぐっとエネルギーロスが減ったのが体感できる。が、その代償として今度はタイヤがかなりの抵抗となっているのが実感できるようになってしまった。今入れているシュワルベのCityJetというタイヤは幅が1.95インチもあって太く、重い。実はより細くて軽いタイヤも手に入れてあるのだが、現在のCityJetが寿命になってから入れ替えるつもりだった。さあ、どうしたものか。



201304frog2 サスはサイクルショップしぶやのスプリングから、台湾製のオイルダンパー入のMulti-Sに交換した。現在は日本のショップでも買えるようだが、私は円高絶好調時にeBayで安く購入。
 これは効く。かなり効く。ペダリング時のエネルギーロスが目に見えて減り、走行時の姿勢も安定した。BD-1ないしFrogに乗る方にはお勧めだ。BD-1/Frogのサスはダンピングをバネの内側に押し込んだエラストマに持たせるという簡便な機構を採用しており、ダンピングが十分ではない。このため、以前からラジコン車用のダンパーや、バイク用のステアリングダンパーを使った改造が行われたりしていた。が、それらは結構高度な機械加工を伴い、だれでもできるというものではなかった。どこかがきちんと効くダンパーを組み込んだサスを出してくれないかなと思っていたら、元気な台湾自転車産業からこのような製品が発売されたというわけ。

 もともとFrogはタイヤサイズが小さい分、フロント回りの比剛性がBD-1より高い。このためフロントフォークの剛性が低いというBD-1の欠点はかなり緩和されているのだが、Multi-Sと組み合わせることでやっと理想的なセッティングが出たな、という印象である。ダンパーの容量が小さいので、耐久性はどの程度あるのか不明だが、壊れたらその時はそれまでと思って、がんがん使っていくつもりである。

201304frog4 リアもMulti-Sに交換したが、なかなか良い感じだ。このサイズの中にどうやってダンピング機構を組み込んでいるかは不明。ひょっとしたら各種エラストマを組み合わせているだけかとも思うのだが、ともあれなかなか効果的にダンピングを効かせてくれる。純正のハードエラストマよりもぼよんぼよんする感覚は小さい。また、サードパーティのスプリングとエラストマを組み合わせたリアサスよりも若干長めのストロークは確保できているようだ。

201304frog3 ヘッドパーツは、定番のクリスキング製に交換した。こちらも円高最盛期にeBayにて購入。すくなくとも自転車趣味にとっては円高は、けっこうな福音であったことは間違いない。BD-1/Frogは1-1/8のマウンテンバイク用ヘッドパーツを上下逆に使用する。以前のクリスキングのヘッドパーツは、逆に使用すると彫り込まれた「CRIS KING」の文字が上下逆さまになってしまったが、現在のモデルは上下を揃えて取り付けることが可能になっている。
 さすがは定番というべきか、ステアリング回りの剛性は体感できるほど向上し、なおかつ回転もスムーズになった。ステアリングダンパーが欲しいほどだ(それは本末転倒)。

 2007年12月に購入してから5年ちょい。ぼちぼちと改造は続いている。だいぶ理想の折り畳み自転車に近づいてきた感がある。
 が、分かる人には分かるでしょうが、ここからは金がかかるのだよなあ……(もちろんつまらない夢を追わなければいいのだ、が)。

Azumino
 改造ばかりしているのではなく、ちゃんと走ってますよ、ということで一枚。昨年の秋、安曇野を走った時の写真。

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2013.04.01

33年目の「ドーリアン」

 ちょっとエンジンがかかってしまったので続けて更新。

 3月20日、吉松隆 還暦コンサート《鳥の響展》に行ってきた。


吉松 隆 還暦コンサート≪鳥の響展≫
2013年03月20日(水・祝) 15時開演 東京オペラシティ コンサートホール

出演者
吉松 隆 Takashi Yoshimatsu (作曲 / Composer)
藤岡 幸夫 Sachio Fujioka (指揮 / Conductor)
舘野 泉 Izumi Tateno (ピアノ / Piano)
須川 展也 Nobuya Sugawa (サックス / Saxophone)
田部 京子 Kyoko Tabe (ピアノ / Piano)
吉村 七重 Nanae Yoshimura (二十絃 / Koto)
福川 伸陽 Nobuaki Fukukawa (ホルン / Horn)
長谷川 陽子 Yoko Hasegawa (チェロ / Cello)
小川 典子 Noriko Ogawa (ピアノ / Piano)
東京フィルハーモニー交響楽団 Tokyo Philharmonic Orchestra

第1部 (第1部の曲順は未定)
プレイアデス舞曲集より
(ピアノ:田部京子)

ランダムバード変奏曲より(1985)
(ピアノ:田部京子/小川典子)

夢色モビールより(1993)
(チェロ:長谷川陽子)

タピオラ幻景より(2004)
(ピアノ:舘野泉)

スパイラルバード組曲より(2011)
(ホルン:福川伸陽)

夢詠み(2012)
(チェロ:長谷川陽子/二十絃:吉村七重)


第2部
鳥は静かに・・・(1998)
…静謐を湛える鳥たちへの鎮魂歌。透明な夢の詩情

サイバーバード協奏曲(1994)
…天空を翔け大地を疾走する超絶のコンチェルト降臨
(サックス:須川展也、ピアノ:小柳美奈子、パーカッション:小林洋二郎)

ドーリアン(1979)
…幻のデビュー作復活!青春のシンフォニックロック


第3部
「平清盛」組曲(2012)
…NHK大河ドラマ「平清盛」を彩る壮大な平安交響絵巻

タルカス(2010)[原作:キース・エマーソン&グレッグ・レイク]
…プログレッシヴ・ロックの名曲オーケストラ版、ついに再演!

 NHK大河ドラマ「平清盛」の音楽ですっかりメジャーになった吉松隆だが、私は極初期から注目して彼の曲目当てにコンサートに通っていた。今回の目的は33年振りの再演となる「ドーリアン」を聴くこと。。実は私は、1980年の「ドーリアン」初演。つまり吉松隆のオーケストラ曲デビューを東京文化会館大ホールで聴いているのである。おそらくは作曲者以外は数人しかいないだろう、「ドーリアンを実演で2度聴いたリスナー」になるべく、コンサートに赴いた次第。
 コンサートそのものは「堪能した」の一言に尽きる。特に、当代随一の美音の持ち主である田部京子と近現代の曲を積極的に取り上げる小川典子による「ランダムバード変奏曲」は、素晴らしい演奏だった。

 1980年のドーリアン初演は以下のようなものだった。

現代日本のオーケストラ音楽 第4回演奏会 <委嘱作品と第2回作曲賞入選作>

Yoshimatsu1委嘱作品
小倉朗 チェロ協奏曲

第2回作曲賞入選作品
高橋裕 シンフォニア・リトルジカ
吉松隆 ドーリアン

招待作品
入野義朗 ヴァンドゥルンゲン(転)

指揮 秋山和慶
チェロ 岩崎洸 
尺八 横山勝也・岩本由和
東京交響楽団

主催:日本交響楽振興財団

1980年6月21日 午後2時〜 東京文化会館大ホール


 当時私は高校を卒業したばかりで、浪人中だった。予備校通いで東京までの定期が手に入ったのをいいことに、勉強もせずにせっせとコンサート通いしていた。上野の東京文化会館大ホールは、客が入らずにほとんど空っぽで、オーケストラの音がとてもよく響いていた。空っぽのコンサートホールは、かくも音を良く響かせるのかと、私は感じ入った。

 このコンサート、今にして思えば空っぽだった客席と反比例するかのようなエポックメイキングなコンサートだった。

Yoshimatsu2 まず吉松隆が、オーケストラ曲デビュー。シベリウスとプログレロックに根を持ち「現代音楽撲滅」を叫ぶ吉松のデビューは、日本音楽史にとってけっこう大きな転換点だったのではないだろうか。
 ドーリアンについては作曲者本人が語るのを聞いたことがある。「これはイエスとかELPをオーケストラで模写する試みだったんですよ。でも、評論家にはストラヴィンスキーを思わせるとか言われた。イエスもELPもロックでストラヴィンスキーを模写したわけで、それを再度オーケストラで模写したわけですから、ストラヴィンスキーと言われても仕方ないんですが」と言っていた。

 2曲目の高橋裕は、音大の先生をしつつ仏教音楽を着々と発表する人生を歩んでいる。普通の作曲家の人生と言えないことはない(本当のところは分からないけれども)。
 が、残る2曲は壮絶。
 まず入野義朗。この日、本当は「交響曲 あめつちのことば」という邦楽器とオーケストラの新作が初演されるはずだった。しかし作曲者体調不良で作曲が間に合わず、急遽同じ邦楽器・オーケストラの編成ということで「二本の尺八とオーケストラのための転」が演奏された。
 実はこの時、入野は体調が悪いどころではなく、末期の床についていた。2日後の6月23日に死去。享年59歳。絶筆となった「あめつちのことば」は、冒頭20小節ほどが残っており、この断片は後に黛敏郎が「題名のない音楽会」で演奏した。

 そして小倉朗の「チェロ協奏曲」。この曲が、戦前・戦中・戦後を反骨の作曲家として生き抜いてきた小倉朗にとって人生最後の作品となった。小倉はその後10年を生きたが、体調を崩したために作曲をやめてしまい、絵ばかりを描いて晩年を過ごした。その間、作曲はわずかに旧作の「フルート。ヴァイオリン、ピアノのためのコンポジション」の改訂を行ったのみである。

 まさに世代交代の節目となったコンサートだったのである。

 この時聴いたドーリアンは、まず巨大音量で私の耳を圧倒した。叩きまくる打楽器は、時にケチャのリズムになり、祭太鼓となり、「こんなのありか?!」と感じた当惑は、ラストの全オーケストラが高々と協和音をフォルテッシモで引き延ばし、打撃音で曲が終わると同時に「この手があったかっ」という喝采に変わった。印象はあいさつに出て来た肥満の巨軀にベレー帽という作曲者本人を見て、さらに強まった、
 私は吉松隆という名前を意識に刻み込み、その名前が出てくるコンサートに意識的に通うようになったのだった。

 1980年6月21日のコンサートでは、私は東京文化会館の3階中央の最前列で聴いた。だから今回も東京オペラシティ、タケミツメモリアルホール3F中央最前列の席を取った。学生800円だったチケットはA席7000円となっていたが、その価格差こそはメジャーになるということの意味なのだろう。
 33年前のドーリアンの演奏は、疾走するという形容が相応しかった。秋山和慶は高いバトンテクニックで分析的に演奏を組み立てるタイプの指揮者だが、この時の演奏ではオーケストラを追い立てるようにして、アレグロというよりもプレストで10分間の曲をまとめ上げていた。
 今回の演奏で、藤岡幸夫は、よりゆっくりとしたテンポで、ストラヴィンスキー的な変拍子の構造が聴く者にはっきり分かるような知的で分析的な演奏を行っていた。作曲者が若い時のどしゃめしゃな曲なのだから、もっとノリと勢いで演奏してもいいのにと思ったが、これもまたありだろう。次に演奏する指揮者が、また違った解釈を聴かせてくれればいい。

 1980年の演奏はNHK-FMで放送されたので、エアチェックした音源が手元に残っている。今回のコンサートも近くFMで放送され、CDにもなるらしい。まとめて33年の時を経た2つのドーリアンを聴き比べることができるようになるわけだ。今から楽しみである。

 還暦を機に綴った作曲家の自伝。例によってシニカルで苦いユーモアを秘めた語り口で来し方を振り返っている。東由多加が主催するミュージカル劇団、東京キッドブラザースのニューヨーク公演「SHIRO」の音楽を担当するくだりがとても興味深いのだが、よっぽど大変な経験だったらしく、「胃に穴が空いた」と記してさらっと流しているのが印象的。1970年代後半から80年代にかけて、東京キッドブラザーズの人気はものすごかった。その渦中に巻き込まれ、振りまわされた話は、別途どこかで詳細を記録してほしいなと思う。

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