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2017.02.11

「この世界の片隅に」からはじまる読書ガイド5冊

 映画「この世界の片隅に」がヒットを続けている。しかも様々な賞を総なめだ。

 自分は大変幸いなことに、公開後の割と早い時期に片渕須直監督のインタビューという仕事をすることができた。インタビューを手配したY中さんに感謝である。

 私は、「この世界の片隅に」は単なる映画の傑作ではなく、文化史的な事件だと思っている。
 決して誇張ではない。この映画により、私達は70年昔の戦争を、今と地続きの“そこにあった/そこにある現実”として改めて認識しなおすことになったのだから。
 もうあの戦争が、「いつかどこかであった、自分とは関係のない、知らない戦争」に戻ることはない。あの戦争は「すずさんが体験した、すずさんがそこに暮らしていた時と場所」として私達のなかに刻まれた。
 映画の公開が続く限り、そしてロードショー公開が終わっても、ディスクが発売されたり、あるいはテレビで放送されるたびに、私達は、かつての「今と地続きのあの時、あの場所」として昭和18年から昭和21年にかけての広島・呉を思い起こすことになるだろう。何度でも、何度でも、思い出すだろう。
 すずさんの生きる“世界の片隅”は、世界のすべての“片隅”へとあまねくつながっている。どの片隅にも誰かがいて、なにかをしていて、それら全てが寄り集まることで社会とか歴史とかが形成されていく——自分にとって「この世界の片隅に」はそう思わせる映画だった。
 非常に高密度に情報が詰め込まれた映画なので、何度観ても発見があり、しかもさりげないシーンが画面の外側の事象を反映している。

 以下、そんな映画の画面の外にある/あった世界についての読書ガイドを掲載する。なるべく基礎的な本に絞って5冊、プラスさらに読み進めることができる本で構成した(一部本でないものも入っている)。
 お勧めの本は以下の通り。

    
 まだ映画を観ていない方は、是非観てください。その上でこのページを読んでもらえたら幸いです。  以下の本文中で、幾分映画の内容に触れるので、未見の方のためにここで記事を分割します。

 映画の参考文献にもなった。基礎中の基礎の一冊。「暮らしの手帖」誌を創刊した、編集者・花森安治が戦後23年の1968年に、多くの人々の体験記を集め、出版したものである。比較的戦争の記憶が鮮明な時期に、まだまだみんなが「当たり前に体験したことで、特に言葉に出すほどのこともない」と思っていた戦時下の生活についての記録をまとめた花森の慧眼には敬服せざるを得ない。
 なにを食べたか、何を着たか、どんな体験をしたか、防空壕は具体的にどんなものだったか、小学生の生活はどんなものだったか、疎開はどんなものだったか、戦時下の東京のサラリーマンは昼食で何を食べていたのか、戦争中の出産はどんなものだったか、汽車に乗って旅をするというのはどういうことだったか——。
 まず、1968年に「暮らしの手帖」96号の全冊特集として出版され、翌1969年に単行本となった。それから48年、暮らしの手帖社はこの本を切らすことなく在庫し続けている。


 いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
 しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。

(「戦争中の暮しの記録」p.53「この日の後に生まれてくる人に」より)
 
 花森安治(1911〜1978)はおそらく20世紀日本の生んだもっとも優れた編集者であろう。東大を卒業後に広告の世界に進み、戦中は大政翼賛会の国策広告に携わった。戦後、大橋鎭子(1929〜2013)という最高の仕事のパートナーを得て「暮らしの手帖」を創刊。そこからの活躍は、2016年にNHK朝の連続ドラマの「とと姉ちゃん」でも描かれた。


 戦後の花森安治が戦争をどのように考え、「暮らしの手帖」という婦人雑誌を創刊し、編集し続けたかは、彼のエッセイ集「一戔五厘の旗
」を読むと見えてくる。一銭五厘とは戦時下のはがきの値段。転じて召集令状のことを意味する。戦後の花森は、召集する側ではなく召集される側、なにがあろうと生活していかねばならない“うちら”の側に徹底して寄り添っていこうとしたのだった。

 「この世界の片隅に」には、呉で建造された戦艦大和が、船上で多くの水兵が作業をしている姿で登場する。だからこそ映画の後半、すずさんの義父の円太郎が声を潜めて「大和が沈んだぞ」と告げるシーンは衝撃的だ。周作さんとすずさんが並んで眺めた大和。その艦上で忙しく立ち働いていた男達の多くは、坊ノ岬沖の海上で死んだのだ。

 「戦艦大和ノ最期」は、22歳にして大和最後の出撃に乗り組み、生き残った著者による大和沈没の記録だ。確定した死へと赴かねばならない若者達の煩悶が生々しく描き出される。戦後すぐに文語調の初版が書かれ、その後長い間の紆余曲折の末に、口語体を交えかなり長くなった決定稿となった。描かれている事実関係の一部には疑義もあるが、これには「後からの記憶の上書き」も関係しているのだろう。

 現在、初稿も決定稿も出版されているので、両方を読み比べるのも面白いと思う。初稿は、「「戦艦大和」と戦後 吉田満文集」に収録されている。

 著者の吉田満(1923〜1979)は、復員後は日本銀行に勤務し、高度成長期のモーレツ社員を体現するかのように働きに働いていくつもの要職を歴任し、56歳でこの世を去った。彼が何を考えて戦後を生きたのか、死んでいった仲間達に何を感じていたのか、生き続ける中でどのような死生観を醸成していったのかは、遺稿集の「戦中派の死生観」
を読むと見えてくる。

  
 大和は乗り組んだ当事者からの記録文学が生まれたが、武蔵では第三者の手による徹底した調査に基づいた記録文学が生まれた。吉村昭「戦艦武蔵 」 である。「戦艦大和ノ最後」は最後の出撃のみを描くのに対して、「戦艦武蔵」は建造から沈没までの武蔵の艦歴、さらには沈没後に救出された乗組員の処遇までを追跡して、結果的に巨大戦艦の周囲で渦巻いていた時代の狂気を描き出していく。  著者には他にも戦艦陸奥の突然の爆沈を取り上げた「陸奥爆沈」 を著している。また、「戦艦武蔵」をどのようにして執筆したかを解説した「戦艦武蔵ノート」 は、ノンフィクション執筆を志す者にとって必読の書。


 戦争最後の年、昭和20年、8月15日までの7ヶ月半の間に、浦野と北條の家には続けざまに悲劇が叩き込まれる。最初の打撃となったのが、すずさんの兄、“鬼イチャン”要一の戦死だ。すみちゃんの素っ頓狂な「お兄ちゃんの脳みそ?」というセリフでさらっと笑って流されてしまうが、骨ではなく石ころひとつしか還ってこないというところから、要一が尋常ならざる戦場に放り込まれたことは間違いないだろう。
 すずさんが書いた手紙の宛先から、要一の所属した部隊はニューギニア方面に派遣されたことが分かる。では、鬼イチャンはどこでどんな体験をしたのか? どんな最期を遂げたのか?
 それを知るよすがとなるのが水木しげる「総員玉砕せよ!」だ。実際に起きたニューブリテン島のズンケン支隊500名の玉砕を題材にした戦争マンガである。主人公は水木本人をモデルとした丸山二等兵。「90%は事実」という、自らの体験に基づいたノンフィクション的なフィクションである。
 血湧き肉躍る描写はひとつもない。あるのはビンタと空腹と死だけ。ワニに食われる、魚が喉に詰まって死ぬなどなど、戦死ではない死亡事案も当たり前のように起きる。浦野のお母さんは、骨壺の中の石ころを見て「要一が簡単に死ぬものかね」というが、実はその死は戦死ですらなかったのかも知れない。
 藤原彰・一橋大学名誉教授の研究によると、太平洋戦争の戦没者数230万人中140万人あまりが餓死を含む戦病没者だという。物資の輸送を軽視して戦線を拡大したことの、必然的な帰結だった。
 楠木正成に心酔する支隊長が突撃を敢行して支隊は玉砕。後方ではそれを美談と宣伝するが、実際には丸山以下数十名の生き残りがいた。美談を貫徹するため、生き残り達は無意味な突撃による無意味な戦死を強制されることになる。

 もう一冊、水木しげるは、自分の娘達に戦争体験を語るという体裁の「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記」を著している。淡々と、ユーモアすら帯びる語り口の中からは、過酷という言葉すら生ぬるく感じる“戦争の現場”が立ち上がってくる。

 「総員玉砕せよ」の丸山は生き残ることができなかったが、現実の武良茂二等兵は左腕を失うも生き残った。
 ジャングルをさ迷った末に武良は、現地人の村に転がり込み、馴染んでしまう。すっかりそこが気に入った彼は、敗戦後、現地除隊を申し出る。しかし「父母の顔を一度見てからでもいいだろう」と諭された彼は帰国。やがて水木しげるのペンネームを使い、妖怪マンガで爆発的なヒットを飛ばすことになる。
 すずさんの語る物語で鬼イチャンは、南方で船が沈んでバケモノとなりワニのお嫁さんと結婚する。そして広島で一瞬すずさんと行き違うバケモノ。
 生きながらにして自らも周囲から“妖怪”と称され敬愛された水木しげるこそは、南から帰ってきた鬼イチャンの仲間のひとりだったのであろう。


 屋外を一瞬強力な光が走る。「今の光はなんね」といぶかっているところに、強烈な衝撃波がやって来る。慌てて表に飛び出すと、山の向こうでは見た事もないような雲がむくむくともちあがっている——広島中心部から20km離れた呉での原爆の描写には、本当に意表を突かれた。今まであまたの原爆関連の映画や小説で描かれたのは、「広島のという現地の原爆」だった。遠くから見る原爆の爆発がかくも恐ろしいものだったとは——。

 すずさん達が見上げる原爆雲の下で起きていたことは、様々な形で語られているが、ここでは学徒動員の学生達の話を紹介したい。映画では、昭和20年6月22日の呉空襲の直前、すずさんが晴美さんを連れて入院中の円太郎を見舞いに行く場面に呉駅前を歌いながら行進して過ぎる学徒動員の女学生が描かれている。彼女らは呉海軍工廠で働いており、この日の空襲で亡くなられた方も多かった。

 昭和20年8月6日の朝、広島市・中島新町の本川土手(現在の広島国際会議場付近)の路上に広島県立広島第二中学校の1年生321名と教師4名が集合していた。「この世界の片隅に」冒頭、幼いすずさんがお使いで船を下りた雁木のすぐ近くだ。
 彼らは空襲に備えて建物を取り壊して防火帯を作る作業に動員されていたのである。午前8時15分、彼らの頭上で原子爆弾「リトルボーイ」が爆発、325名全員が死亡した。
 「いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録 」は、彼ら325名が原爆爆発の後、どのように行動し、どのように死んでいったかをひとりひとり、判明した限りにおいて克明に追跡した記録である。1969年に広島テレビが制作したドキュメンタリー番組に基づき、書籍化された。
 いくら調べても行方が分からなかった者もいるし、辛うじて命をつなぎ、父母に再会してから亡くなった者もいる。「この世界の片隅に」で刈谷さんが、本当にさらりと息子のことを語るのは、そんな人が珍しくなかったからだということが見えてくる。

 被爆当時12歳から13歳だった生徒たちの人生最後の行路を追っていくうちに、広島原爆の死者数14万人(昭和20年末までの推計値)は、ただの数字ではなくなってくる。そこには14万通りのそれぞれ固有の、他に代替するもののない人生があったのだ。
 「この世界の片隅に」では冒頭の広島本町を行く幼いずすさんのシーンで、かけがえのない街並みの中のかけがえのない人々が再現されている。

 遠くから広島原爆を見るという映画は、「この世界の片隅に」がはじめてではない。今村昌平監督の「カンゾー先生」(1998年)に、岡山の瀬戸内海の洋上から見る広島原爆が登場する。周辺住民の病気を全部「肝臓炎だ」と診断するので“カンゾー先生”とあだ名される医師を榎本明が、カンゾー先生を慕う奔放な助手ソノ子を麻生久美子が演じた。この2人に周囲の奇妙な人間関係が絡まり、さらに脱走したオランダ兵捕虜が紛れ込んで、ドタバタが展開する。
 映画のラストでカンゾー先生と共に船に乗ったソノ子は鯨を獲ろうとして銛一本持って海に飛び込む。眩しい夏の陽光、どこまでも明るい海、目をぎろつかせて悠々と泳ぐ鯨、素晴らしく色っぽいソノ子の尻、そして遠くに立ちのぼるキノコ雲……。
 ただしこちらのキノコ雲の描写は、より遠い岡山からということもあり、ずっと幻想的。

 「この世界の片隅に」のラスト、孤児の女の子を迎える北條家の家屋が夏の敗戦の日よりもぼろくなっているのに気が付かれただろうか。原作を読むと、ぼろくなった理由は書いてある。昭和20年9月17日から18日にかけて日本を縦断した枕崎台風のせいだ。全国では3756人が死亡。特に呉市では、まさに北條の家があるような山の斜面で土石流が発生し、1154人が犠牲になった。家がぼろくなるぐらいで済んだのは運が良かったというわけ。
 柳田国男「空白の天気図」は、原爆、そして枕崎台風に立ち向かった広島地方気象台を描いたノンフィクションだ。当時、気象台は江波山、つまりすずさんの実家の浦野の家のすぐ近くにあった(現在は江波山気象館という展示施設になっている)。
 気象台も原爆で大きな被害を受けた。しかし混乱の中、気象台職員はなんとかして気象台の機能を維持しようとする。「なにがあっても観測だけは絶やしてはならぬ」と気温を測り、気圧を測り、データを東京に送ろうと必死の努力を続けた。彼らの手によって、原爆爆発後の降雨(いわゆる黒い雨だ)や爆発の熱が起こした竜巻などの、原爆が引き起こした気象現象のデータが集められた。。
 が、9月に入り、その努力をあざ笑うかのように、大型台風は一気に襲来し、敗戦間もない国土にざっくりと爪痕を残して行く。

 「この世界の片隅で」が描く昭和18年から21年は、戦争と同時に自然災害が多発した時期でもあった。


  • 昭和18年9月10日:鳥取地震(マグニチュード7.2。死者1083人)
  • 昭和19年12月7日:東南海地震(M7.9。死者1223人)
  • 昭和20年1月13日:三河地震(M6.8。死者2306人)
  • 昭和20年9月17〜18日:枕崎台風(死者3756人)
  • 昭和21年12月21日:南海地震(M8.0、死者1443人)

 
 だが、これらの災害は戦中は情報統制のために、戦後は社会の混乱のために十分に調査も報道もなされなかった。実際には戦時中に軍需産業の集中する中京地区を襲った東南海地震と三河地震はその甚大な被害により日本の継戦能力を奪ったのである。「日本は神国だから神風が吹く」どころの話ではなかったのであった。

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