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2014.02.09

佐村河内騒動で考える

 なにやら面白いことになっている。

 佐村河内守作曲の諸作品は、実は新垣隆作曲だったというスキャンダル。

 すでに多くの音楽関係者が語っており、その中には新垣氏を知る人も多い(中でも吉松隆氏のしつこくS氏騒動・交響曲編は傾聴すべき意見と思う)。

 ここでは佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶというブログ記事を書いた一聴き手としての感想を書く。

 私が佐村河内守という名前を知ったのは、まさに吉松氏の佐村河内守「交響曲第1番」(2008年1月13日)というブログ記事からだった。そのまま忘れていたのだが、そのうち誰かが2008年9月1日(広島厚生年金会館)の第1、第3楽章初演(の、おそらくテレビ放送)の第3楽章のみをYouTubeにアップしていたことで、実際の作品に触れた(権利者抗議で、すぐに動画は削除された)。
 びっくりした。第3楽章だけで30分近い時間を、ロマン派に近い、およそ今風ではない響き(ただし良く聴くとそれだけではないことが分かる)で満たし、なおかつ飽きさせず最後まで聴かせたからだ。YouTubeを使っている方は分かるだろうが、ネットの動画像体験は1分でも長いと感じる時は、とても長く感じる。なかなかテレビのようにのんべんだらりと長時間観ている気にならない。それが、27分間、きちんと聴くことができた。
 すれっからしの現代音楽マニアの耳には音楽的な常套句が鼻につくところはあったが、全体に非常に確実な作曲技術と熱意で作られた労作と感じた。

 正直に書こう。3楽章を聴いてから、1楽章と2楽章も聴きたくなった。実際全曲初演があると聞きつけて、行こうかと思った位だ(結局行かなかったが……)。
 後にCDを入手して全曲を聴いたが、「確実な作曲技術と熱意で作られた労作」との印象は変わらなかった。

 その後のNHKスペシャルをはじめとした、「全聾の被曝二世作曲家」を巡る盛り上がりは、「バカめ」と思って傍観していた。NHKスペシャルは観たが、その余りにひどいお涙頂戴の番組構成っぷりに「どうせNHKはまたボロを出すぞ」と思った。

 なにしろNHKには、老いて益々盛んに作曲活動を展開していた松平頼則を、老残の作曲家の夫婦愛というくくりで描いてしまい、作曲家本人の怒りを買った「妻に贈る銀の調べ(ドキュメントにっぽん:1999年放送)」という前例がある(おかげで、生前の松平の貴重な映像満載にも関わらず、番組は封印されてしまった。時折誰かがYouTubeにアップしては、権利者抗議で削除、といういたちごっこを繰り返している)。
 また、別に忘れ去られたわけでもない作曲家の吉田隆子を「忘れられた作曲家」にでっちあげてしまった、「忘れ去られた女流作曲家」(ETV特集:2012年)もあった。これについてはNHKの残念な音楽ドキュメンタリーという記事も書いた

 ——今読むと、ここでちゃんと自分はNHKスペシャル|魂の旋律〜音を失った作曲家〜に触れているな。

 ただし、この盛り上がりを、きちんと邦人のコンサート用音楽作品の聴衆を拡げる方向に繋げたいなと思って佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶを書いた。
 どんな音楽ジャンルにしても、聴き始めるにはきっかけが必要だ。きっかけはいくらあってもいい。

 NHK始め、マスメディアの視聴率欲しさからのお涙頂戴ネタへの集中は、結局「それで聴衆が増えるなら受忍すべきか」というところで、関係者が存在を許してしまっているところがある。まだまだマスメディアの影響力は大きいから。
 私も、こたびは許して、積極的に利用しようとしたのであった。

 そんなわけで、いずれボロが出るとは思っていたが、それはNHK以下メディアのお涙頂戴っぷりがであって、まさかかくも大型のスキャンダルになるとは思っていなかった。少なくとも私は、作品は佐村河内守氏の作ったものだと思っていたので。

 今回の件が発覚し、「新垣隆」という名前を知った時、まず私はネットのどこかに新垣氏の曲がアップされていないか探した。まずは経歴とか実績とかの周辺情報抜きで、実作者の音楽を自分の耳で確かめたかったのだ。
 Twitterで助けてもらい、2曲を聴くことができた。 

作曲:新垣隆「インヴェンション あるいは 倒置法 III」


作曲:新垣隆「連辞一層次Ⅱ」


 また現代曲のピアノ演奏も見つかった。
作曲:杉山洋一「君が微笑めば、それはより一層、澄んでゆく」
演奏:新垣隆


 たまげた。この新垣さんという方は、素晴らしい感性をしているし、ピアノも達者なんてものではない。とても美しい音色を紡ぎ出している。桐朋で三善晃門下であったと知り、なるほどと唸った(「お前、現音マニアとかなんとかいいつつ、いままで新垣隆も知らんかったのか」、というのはさておいて)。それは、技術が確実なはずだ。

 音楽のことは、音楽を聴くことでしか分からない。ここ数日、私は佐村河内守作曲ならぬ新垣隆作曲「交響曲1番」を繰り返し、聴いていた。

 佐村河内氏の作曲への関与を示すものとして公開された、紙1枚の構想図だが、これは私には落書きに見えた。なにしろ自分も、似たような「ぼくのさっきょくのせっけいず」を高校の頃に書いたことがあったから(実物を全部大学の時に破棄していて良かった!)。それは妄想を形にしたものかもしれないが、音にはつながっていない。音に直結しないものをいくら書いても、それは作曲という行為ではない。
 そもそも、この図は縦軸が何を意味しているか不明だし、5%単位で書き込まれた「調性音楽的」と「現代音楽的」の配分も意味不明である(そのようなフレーズを演奏するパートの数?)。

 こういう聴き方をすると、図と音楽とを比較することもできる。
Sym1

もちろん演奏ではテンポが変化しているので、きちんと対応するわけではないだろうが、それにしても図と実際の構成には乖離がありすぎる。

 新垣氏は、作曲時にこの図を手元に置いていたと記者会見で語っている。おそらくは、「祈り」「啓示」「葛藤」「混沌」の4要素があるとか、機能調性と無調の音楽的調和といった言葉が、作曲の指針として機能したのではないだろうか(しかも、この図は佐村河内氏本人ではなく、佐村河内夫人の筆跡ではないかという指摘まで出て来た。)。

 何度も聴き直したが、私の感想は変わらない。ところどころ、すれっからしのクラシックマニア(クラヲタといってもいいかも)には「あ、このやろ、チャイコフスキー(マーラーでもシベリウスでもいい)風を狙いやがって」という響きがある。しかし、全体はがっちりと、高い作曲技術で破綻なくまとまっている。しかも、そこには作曲者の“熱”も籠もっている。

 当たり前なのだ。手元に五線紙のノートがあるなら試してもらいたい。4/4拍子で、とにかく8分音符を、ノート1ページ一杯に書き込んでみてみよう。
 けっこうな労働ではなかったろうか。

 交響曲を作曲するとは、そのような楽譜を書くという労働に耐えることでもある。最近ではノーテーション・ソフトという“楽譜のワープロソフト”も存在するが、この交響曲1番は手書きで何十段にもなる楽譜を書いていたことが佐村河内氏“自伝”の表紙で判明している。
 何ヶ月も机に向かって、大量の音符をひたすら書き続ける——そんな孤独な労働が耐えられるのは、音符に己の創意を込めることができるという喜びがあるからだ。それ以外あり得ない。
 私は、佐村河内氏の発注があったにしても、少なくとも交響曲1番については、新垣氏は創作の喜びと二人三脚で作曲したのだと思う。それはきちんと音に現れていると思う。

 同時に、新垣氏の側にも、なにか歪んだ誇りというべき感情があったのだろう。

 どなたかがサントラ「鬼武者」に、“指揮者”新垣隆が寄せた文章を、はてなアノニマスダイアリーにアップしている。

 真相を知った今、この文章にある「奇跡の目撃者」の奇跡を成したのは新垣氏本人であることが分かる。
 「徹底アナリーゼ」の「この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品」という指摘は、自画自賛であり、そうと相手に知られずに自分を誇る稚気の発露であると分かる。
 そんな稚気は、やはり歪んでいると言わねばならない。

 一連の「佐村河内作品」は、詐欺師・佐村河内守と、天才・新垣隆が、陰になり陽になり絡まり合って産み出されたのだろう。詐欺師が許されるべきではないが、天才も無垢というわけではない。
 そして作品は——それが天才が自らの選び取った様式で書かれているか否かに関わらず——あくまで詐欺師のものではなく天才のものなのだ。

 新垣氏は、一連の作品の著作権を放棄すると表明している。もったいないことだ。どうせなら、新垣氏の名前で出版なりCD販売なりを継続し、収益はすべて赤十字かどこかに全額寄付することにすればいいと思う。


 私は、今回のスキャンダルで一番重大なことは、マスメディアの自浄能力のなさだと考える。が、この件についてはNHKを例に上に書いたから繰り返さない。

 同じぐらい重大なのは、「聴き手を最前線の音楽表現の実験に導くための、太い導線の不在」が顕わになったということだろう。
 現代音楽の売れなさは、もう笑うしかないレベルで、CDが出てもスタンプ枚数は数百枚というのが当たり前だ(コミケかよ!)。私はその手のCDを数百枚持っているが、「これと同じCDを世界の何人が持っているのだろう」と盤面を眺めたりもする。

 けっしてつまらないということはない。そこは玉石混淆の、持ち上げるもけなすも自在で自己責任の魅惑のバトルフィールドだ。

 ところが、そこに至るためには、せっせと聴き込んで,耳の感受性を作らねばならない。その敷居がすごく高い。理由は簡単で、クラシック系音楽は長いし、普通に生活していると聴く機会も限られているからだ。
 1時間あれば、2分のビートルズ「オール・マイ・ラビング」は30回聴ける。30回も繰り返し聴くと、曲の構造から込められた創意まで、なんとはなしに感じられるレベルの耳ができてくる。気がつくとラジオでかかったりもするし、知らずに全曲を聞いたりもする。

 しかしマーラーの交響曲は1時間あっても1曲聴けるかどうかだ。それを30回聴こうと思えば、1日以上の苦行となる。
 そこをくぐり抜けた者だけが「クラシックマニア」になる。さらにその中でも、さらに現代曲なんてものに引っかかった者が、分からないなりに聴き込んで、NHK-FM「現代の音楽」をエアチェックしたりして、やっと現代音楽の消費者となる。
 そんな小さな市場に、音大は年間100人オーダーの作曲家の卵を送り込み続けている(なんという蠱毒、オネゲルが「私は作曲家である」に書いた通りだ)。

 市場を大きくしたければ、そこに人々を導く導線が必要になる。デパートが人の動きを考えてエスカレーターを設置するのと変わるところはない。

 現状、学校の吹奏楽部と合唱部(そして若干の室内楽とオーケストラの部活)が、若干の導線の役割を果たしている。

 佐村河内守名義の各曲は、新たな導線の可能性を示したのではなかろうか。なにしろ18万枚もCDが売れたのだ。
 それが「全聾の被曝二世作曲家」というレッテルなしに聴かれるか、という問題はある。が、それでも一切手抜きなし、ガチンコにしてセメントマッチの「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」というのはありではないだろうか。アルバート・ケテルビーが、イッポリト・イワノフが果たした役割を、誰かが果たすべきではないだろうか。


 実は戦前の日本に、その萌芽は存在した。
  須賀田礒太郎作曲の東洋組曲「沙漠の情景」を聴いて貰いたい。





 1941年(昭和16年)の作品だ。沙漠とオリエンタリズムという通俗的題材が、高い管弦楽技法により見事にコンサート音楽として結晶している。私はケテルビーより須賀田礒太郎のほうが上ではないかと思う。
 現代音楽という表現の最先端が死滅しないためには、聴衆を導く導線としてのこのような曲が必要なのではなかろうか。

 つまり、わがままなオタク消費者である私としては、中川俊郎「青少年のための現代音楽入門」とか、北爪道夫「シンプルシンフォニー」とか、木山光「古典交響曲」とか、伊佐治直「語りを伴う音楽物語、いやいやえん」とか、西村朗「小樽の市場にて/北三陸の風景より“海女の行列”」とか、そんなものを聴いてみたいのであった。

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2013.10.05

巨匠が去って行った

 覚悟はしていた。でも悲しい、悲しいなあ。

訃報:三善晃さん80歳=作曲家、文化功労者(毎日新聞 2013年10月05日)

 2007年で創作が途絶え、風の便りで体調を崩しているらしいと知り、年齢もあって密かに覚悟はしていた。それでも……

 武満徹と並び、十代の自分に決定的な影響を与えた作曲家が去っていったのはショックだし、悲しい。

 とはいえ、私に書けることは多くない。ご本人のことは直接薫陶を受けたお弟子さん達が語るだろう。私が三善晃という作曲家について書けば、必然的に自分の音楽遍歴について告白することになる。

 音楽の記憶をたどるで書いた通り、中学2年の私は吉田秀和の「現代音楽を語る」で現代音楽なるものが存在することを知った。レコード漁りとエアチェックが始まったが、そうそうレコードを買うわけにはいかないし、エアチェックといっても聴きたい曲がすぐに放送されるわけでもない。

 そこで、茅ヶ崎市立図書館の音楽の書棚を漁った。すぐに目に付いたのは、タイトルに現代音楽と入った船山隆「現代音楽 音とポエジー」だった。

 当時新進気鋭の評論家であった船山の筆による、この見事なまでに凝った装丁の本は冒頭に3人の日本人作曲家、武満徹、黛敏郎、三善晃に関する評論を掲載していた。そこで三善晃という名前を知った。

Funayama1

 否、それ以前に「みよしあきら」という名前は聞いたことがあった。小学校6年の時、我が家にラジオ付きのカセットテープレコーダー、つまりラジカセがやってきた。面白がって録音したうちのひとつに、1974年5月5日放送のNHK-AM「音楽の泉」があった。その日の特集は「子供のための音楽」。レオポルド・モーツアルトの「おもちゃの交響楽」などと共に、木訥に語る村田武雄の声は三善晃の「砂時計」と「どんぐりのコマ」を紹介していた。合唱組曲「五つの童画」の第4曲と第5曲だ。
 このエアチェックのテープは自分のお気に入りとなり、その後何度も繰り返し聴いた(今も手元にある)。その他の“子供のための音楽”に比べ、この2曲は響きが全く違っていた。怖いとさえ思った。
 が、どうも心にひっかかって離れなかった。喉に刺さった魚の小骨のように、「砂時計」と「どんぐりのコマ」は精神をちくちくと刺激した。そして、船山「現代音楽 音とポエジー」により私は、村田がぼそぼそと語る「みよしあきら」が漢字で三善晃と書くことを知った。

 確か最初にエアチェックに成功したのは、堤剛が弾いた「チェロ協奏曲(1番)」だ。当時、中村紘子(ピアノ)、海野義雄(ヴァイオリン)、堤剛(チェロ)がソロを務めた、矢代秋雄「ピアノ協奏曲」、間宮芳生「ヴァイオリン協奏曲」、三善晃「チェロ協奏曲」をカップリングした2枚組LPが出たのだった(買いたかったけれど買えなかった)。とにかく激烈な、それまで自分が音楽と思っていたものとまったく違う激烈な音響に度肝を抜かれた。面白いことにその激烈さは不快ではなかった。なにか自分の内側を共鳴させる激烈さだった。

 最初に買った三善晃のLPは、「レクイエム」だった(左記の通りCDが再発売されている)。この素晴らしいジャケットデザインのLPに収められた「レクイエム」は、チェロ協奏曲を超える激烈さで、高校2年生の心を打ちのめした。

3lp1

 必死に貯金して、三枚組の「三善晃の音楽」を買った。そこで,激烈な音楽の前に、端正な白面の貴公子然とした作品が存在したことを知った。この三枚組には「五つの童画」も入っていて、何度も何度も聴き直した。

3lp2

 確か初期の代表作「交響三章」をエアチェックで聴いたのも同じ頃だ。三善晃27歳のこの作品はスタイリッシュな格好良さで自分を魅了した。

 そして突如、テレビアニメで三善晃の音楽が響くことになる。赤毛のアン(1979)だ。エンディングタイトルの「さめない夢」には驚愕した。

 そこからずいぶん彼の音楽を聴いた。戦争三部作の掉尾を飾る「響紋」は初演を聴いた。民音現代作曲音楽祭では時折ご本人を見かけた。休憩中、いつもロビーで満足そうにタバコを燻らせていた。

 言葉でも随分影響を受けた。三善の文章には、若者を惑わす毒があり、ご多分に漏れず自分も引っかかった。エッセイ集「遠方より無へ」は一時、自分にとっての聖書だった。

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これは、「遠方より無へ」ではなく、LP「三善晃の音楽」附属の小冊子。有名な「ソナタに精神なんかありはしない、。あるのは形式だけだ……」という言葉。

 三善晃はまさに白面の貴公子として。作曲家の経歴を開始したと思う。フランス留学時には一年先に留学していた矢代秋雄と共に、「キラ」「キオ」とお互いを呼んで研鑽に励んだという、それこそ腐女子が目を輝かすようなエピソードもある。紡ぎ出す音楽には、あくまで内面の感情の襞をなぞるような柔らかさがあった。
 それが1962年の「ピアノ協奏曲」から、ごろんと物体としての音を外に放り出すようなマッシブな量感に満ちた音楽を書くようになる。さらに1971年の「レクイエム」からは、生と死の間で引き裂かれた戦争被害者の悲鳴をそのまま音に塗り込めたような激烈な音楽へと変化した。
 この変容を音楽評論家の片山杜秀氏は、生と死の間の断絶を唄う「日本一の断絶男」と評した。根底にあったのは三善本人がエッセイで書くとおり、子供の時の戦争体験——機銃掃射により目の前で学校の先生が死んでしまった経験——である。同じ場所で伏せたのになぜ自分は生き残り、先生は死んだのか。

 心から鮮血が噴出するかのような体験は、成長の過程で一度は白面の貴公子に覆われたが、中年期に至り貴公子の仮面を割って再度噴き上げたのだろう。ただし鮮血ではなく、激烈なる断絶の音楽として。端正な感性と、フランスで学んだ完璧な技術が支える激烈なる音楽は、他に類を見ないものとなった。

 最後にあまりに美しい「ふるさとの夜に寄す」と個人的な思い出の染みついている「どんぐりのコマ」をリンクする(それが代表作ではないことは百も承知の上で)。

 そして、秋山邦晴「日本の作曲家」(音楽の友社1978)から,若き日の三善の写真を。まさに貴公子。

Prince

 たくさんの曲をありがとうございました。

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2013.06.26

ペンデレツキの交響曲1番

Penderecki01

 前の記事でちょっと書いた、ペンデレツキの「交響曲1番」のレコードを棚から引っぱりだしてみた。このレコードが出た時点で、ペンデレツキはまだ2番を作曲していないので、アルバムジャケットは単に「Symphony」となっている。
 確か買ったのは高校1年(1977年)の6月か7月だったはず。透明感あふれる青を基調としたジャケットに惹かれて購入したのだった。もちろんその前に、中学の図書室にあった音楽之友社の「世界名曲全集」でクシシトフ・ペンデレツキの名前は「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1959-1960)の作曲者として知っていた。本当は「広島…」を聴いてみたかったのだけれど、「広島…」より後の作品だし、何しろ「交響曲」だし、と中味を試聴することなく買った。

 ポーランドは第二次世界大戦後、政治面では社会主義リアリズムを標榜するソ連の影響下にありながら、音楽面では前衛的手法を駆使する作曲家を輩出した。彼らはまとめて「ポーランド楽派」と呼ばれたが、ペンデレツキは、ヴィトルト・ルトスワフスキと共にその代表格。トーンクラスターをを駆使したマッシブな音響の音楽を展開して有名になった。
 トーンクラスター(Tone Cluster)というのは、手のひらでピアノの鍵盤を叩いたような半音ないし全音が詰まった音の固まりの事。楽譜に書くと音符がぶどうの房(Cluster)のようになることから、このように呼ばれる。音楽史的には効果音的使い方はルネサンス期から散見されるそうだが、ペンデレツキは、楽譜に黒く塗りつぶした帯をかき込むという記譜法を考案して、1960年代から1970年代にかけて、「クラスターだけで出来た音楽」の可能性を追求した。

 実際の音はこんな感じ(広島の犠牲者に寄せる哀歌)。






 あまり聴きやすいとは言えない。

 その集大成とも言えるのがこの「交響曲1番」。だから、現代音楽に興味を持って間もない高校生に理解できるような代物ではなく、「ペンデレツキの交響曲は訳分からない」「訳分からないレコードに大枚突っ込んじゃった」という記憶のみが残ったのだった。当時LPレコードは2000円以上したから、1枚買うのも大変な決心が必要だったのである。
 それが、35年以上を経て、デジタル化で「なんと面白い曲だ」となるのだから、人生分からないものだ(そんな大げさな話でもないが)。

Penderecki02
 ジャケット裏の解説は佐野光司氏。ペンデレツキのヒゲが黒い!(Wikipediaにあるように、今は真っ白。過ぎ去った時間を考えれば当たり前)。

 この交響曲を書いた後、ペンデレツキの作風は大きく変化し、ロマン派に近い柔らかい響きが主調となる。次の交響曲2番「クリスマス」(1979)は、「きよしこの夜」の引用を含む宗教的雰囲気の濃い曲だ。NHK FMで2番を聴いた時には、1番とのあまりの違いにびっくりした。その後ペンデレツキは現在までに8曲の交響曲を作曲している。

Chiyamalogo
 ちなみに、このレコードはかつて茅ヶ崎にあったレコード店「CHIYAMA」で購入した。サザンオールスターズの桑田佳祐が高校生の頃に通い詰めていたことで伝説となった店だ。サザンの「MY LITTLE HOMETOWN」には「夕方CHIYAMAに集合!」という一節がある。当時CHIYAMAは、茅ヶ崎駅近くの、これまた今はなくなった大踏切の近くに店を構えていた。
 店主さんは、かなりの趣味人で、さほど大きくない店に小さいながらきちんと現代音楽の棚を作ってくれていた。随分色々なレコードを買ったものだ。そのCHIYAMAも東日本大震災後の2011年夏に閉店した。

 ともあれ、音楽が必死になって求めなければ聴けなかった頃の話である。

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2013.06.24

USBアンプを導入する

Usbdac1_2 すべてのCDをパソコンに取り込んでからはや5年——と切り出しておいて全くの余談、この記事を読んで思いだしたが、自分は1990年頃から昨今流行のデジタルノマドの概念をもてあそんでいたのだった。俺、偉い!…が、流行にできなかったあたりは全然偉くない。

 今はiPodはほとんど使っていない。そもそも出先で音楽を聴く習慣がなく、結局根付かなかったためだ。現在はメインマシンのMacBook Proに外部スピーカーを接続して音楽を聴いている。

 話を元に戻して……その後2つばかり変化があった。まず、音楽再生プレーヤーを導入した。iTunesはOS組み込みのQuickTimeコンポーネントを使って音声を再生している。オールデジタルなだけに音が悪いわけではない。しかし、オーディオマニアがそれに満足するはずはなく、QuickTimeからデータを横取りして独自のアルゴリズムで音声データを処理してアナログ部に流す独自プレーヤーソフトが存在する。
 最初に知ったのはBitPerfectだった。これは衝撃的だった。たった850円のソフトを入れるだけで音質がぐっと良くなるのだ。データ処理でこれだけ音が変わるのかと感激し、あれこれ設定パラメーターをいじり、しばらくはそれで満足していた。
 第二のショックは、Audirvana Plusを知ったことだ。BitPerfectがクリアで地味な音を出すのに対して、Audirvana Plusはメリハリが効いた立体感のある音を出す。現在、MacOS XではAudirvana Plusがオーディオマニアにとってデフォルトの再生ソフトとなっているそうだが、それもうなずける音の良さだ。
 かくして、BitPerfectとAudirvana Plusを使い分けるようになったが、一つ問題が発生した。これらのソフトは、iTunesと連動してiTunesの管理する音声ファイルデータをQuickTimeから横取りする形で処理する。つまり、音楽を聴いている時にはネットの動画像のような再生処理にQuickTimeを使っている作業はできないのだ。音楽を聴いていて、ではちょっとYoutubeを見るかと思っても、まずBitPerfectをdisableにするか、Audirvana Plusを終了するかしかなかった。

閑話休題
 USBアンプというものがあって、これを使うとMacBook Pro内臓のアナログ回路よりもずっと良い音が出るということは知識として知っていた。その威力を知ったのは、知人がSONY PHA-1の試聴をさせてくれた時だ、PHA-1は持ち歩き可能な、携帯音楽プレーヤ向けのUSBアンプだが、使って見て文字通りひっくり返った。音の抜けがぐんと良くなるのだ。オーディオの世界はオカルトじみた話がいっぱいある。が、ことUSBアンプに関しては一応理屈は通っている。デジタル信号をアナログ信号に変換する際、様々なタスクが並行で走っているパソコンではタイミングがずれることがある。しかし変換作業専門のUSBアンプならば、そのようなことはない——と。
 なんとか自分の再生環境にUSBアンプを導入したいものだと思って機会をうかがった。デジタル機器だから、値段に比例して音が良くなるというものでもない。とすれば、まず一番安いUSBアンプを導入して、音がどう変わるかを楽しむのがいいだろう。
 この5月、チャンスが訪れた。ステレオサウンド誌「DigiFi No.10」が、USB DAC付デジタルヘッドフォンアンプを付録に付けて発売されたのだ。価格は3300円。雑誌付録ということを考えればUSBアンプの原価は数百円だろう。自分が求める一番安いUSBアンプとして丁度良さそうだ。USBバスパワー駆動なので電源も不要だ。こっちもきちんとデジタルオーディオの知識を蓄積しているわけではないから雑誌の記事も無駄にはならない。  というわけで発売と同時に、買い求め、あれこれ使ってみたのである。ちなみに、私の再生環境は、もう四半世紀も前に買い求めたローランドのDTM用モニターMA-12を使っている。素晴らしく音が良いわけではないが、シンセ生演奏を考慮した2系統入力と癖のない内臓アンプ、2系統独立のボリュームを持つなかなか使いやすいモニターだ。

 結論から言うと、USBアンプを使った場合、パソコン内蔵アナログ音声出力と比べると音がシャープになる。鳴っている個々の音がはっきり分離して聞こえるようになる。が、全体として音質が劇的に向上するわけではない。再生ソフトを取り替えた時のほうが、音質向上は著しかった。
 ただしUSBアンプを使うと音の立体感が劇的に向上する。オーケストラなら各楽器のセクションの定位だけではなく、その楽器の何番が演奏しているかすら聞き分けられそうなぐらいなまで、空間方向の音の分離が良くなる。様々な音源を聴いてみたが、やはりというかオーケストラ曲での効果が大きい。3300円の投資で、ここまで音が良くなるのだから、良い買い物をしたと思う。
 USBアンプを通して聴いていると、音響系というか、複雑で派手に音が響く曲が非常に面白く聴ける。
 個人的にはクシシトフ・ペンデレツキの「交響曲1番」が面白く聴けたのが衝撃だった。いずれ詳しく書くかも知れないが、過去記事の「音楽の記憶をたどる」でまとめた中学三年生の頃、この曲のアナログレコードを一大決心をしてジャケット買いしたあげく、全然理解できなくて絶望したことがあるのだ。その後、CD時代になってから、同じ録音のCDを苦い記憶の記念として買ったものの、そのままほったらかしにしていたのだった。なにしろ、「広島の犠牲に寄せる哀歌」あたりから始まったペンデレツキのクラスターばりばり音群作法が頂点に達した作品だから、中学生が頭を抱えるのも無理はなかったのだけれど。
 それが、かつてのアナログレコードでは考えられないシャープな音質で聴くと、けっこう面白いのだ。「ああ、この曲をきちんと理解するには、いい音で聴かねばならなかったのだ。アナログレコードではそれだけの良い音を再生できなかった(できたのかも知れないが、少なくとも自分の使える再生環境では無理だった)のだ」と思った次第。
 オーケストラ曲や、多数の楽器が絡み合う大規模室内楽(ベルクの「室内協奏曲」とか、シェーンベルクの「室内交響曲1番」とか)は、もはやUSBアンプなしでは聴く気にならないほどだ。ピアノ曲も悪くない。おもわずソラブジの「オプス・クラヴィチェンバリスティクム」(オグドン演奏)を通して聴いてしまった(4時間近くかかるのに!)。
 ロック系も、音に気を遣っている曲は、かなり気分良く聴ける。ピンクフロイドの「原子心母」など。
 残念ながらあまり変化を感じないのが、最近のビートの効いたアニソン。マスタリングの時にコンプレッサーを効かせて音圧をぎりぎり上に張り付かせているからだろう。それでも、バックのシンセが、はっきり分離して聞こえてくるのは気分がいい。

Usbdac2_2 もうひとつ、USBアンプを入れたことで動画再生との両立も解決した。Audirvana Plusの出力をUSBアンプに設定、QuickTimeの出力を内臓オーディオ出力に設定し、モニターのMA-12の2系統入力にそれぞれつなぐのだ。出力デバイスの取り合いが解決し、音楽を聴いて原稿を書いている時に、ちょっと調べ物ををして動画を再生ということが可能になった。
 この雑誌付録のUSBアンプ、基板むき出しでケースがない。雑誌ではケースが通信販売になっていて、結構な価格が付いている。「そうか、そういうビジネスか」「そもそもオーディオ製品の原価ってそういうものか」と思いつつ、結局あまりに綺麗で捨てるに捨てられずにとってあったiPhone3GSのケースを使うことにした、縦方向が余るが横幅サイズはぴったりだ。
 安いだけあって、再生出来るのはCDクオリティの音声ファイルまでだが、当面はこのまま使うつもり。いずれ、ハイビットレートの音楽ファイルを聴きたくなったら、買い換える予定である。

注記:USBアンプ、と書いたが、実際の機能はデジタル/アナログ変換なので、USB DAC(Digital/Analog Converter)と呼称するほうがより正確だろう。ただし最近の製品は増幅機能も付いてUSBアンプ、USBポータブルアンプと呼ぶものも多い(付録基板も然り)。というわけでここではUSBアンプと記述した。

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2013.04.28

佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶ

 先だってのNHKドキュメンタリーに合わせるかのように、CDショップにはコロンビアが配布した佐村河内守のポスターが張り出されるようになった。こんなページもできている。交響曲1番のコンサートは追加公演決定というクラッシックの世界で異例の盛況となっているそうだ。クラシック系作曲家の集中プロモーションとしては大成功したと言えるだろう。

 Twitterで書いたけれど、この交響曲の意味は、古い後期ロマン派のイディオムでコンサート全体を使うような巨大な交響曲を書いても、本気で一心に取り組めば現代の聴衆の心に届く可能性があるのを示したところにある。
 もちろんリスクは大きい。そんなことをすればそもそも演奏する機会を得るのが至難になる。誰が知らない聴いたこともない作曲家の80分もある新曲を聴くために何千円かを払うか(私のような物好きは払うかも知れないが)。
 「ドーリアン」初演のすっからかんの東京文化会館大ホールを知っている者としては、よくまあ(収入的に)危ない橋を渡って、渡りきったなあとしか言うほかはない。もちろん作曲者にはそうしなければならない強迫観念に近い内面的理由があったのだろうし、内面の声に従った結果が、いくつかの条件が重なって現状となったのだろう。
 しかもこれは出発点であって、この先作曲者本人は作品を持って「自分が本物である」と証し続けねばならない。聴衆の望む方向と作曲者の望む方向が乖離することだってあるだろうし、どんどん作品が長くなっていって、ついには誰も聴かなくなる可能性もあるだろう(ソラブジのように!!)。茨の道は続くのだ。

 ロートル現代曲ファンとして、ここでは「佐村河内の曲で、日本人の手による交響曲が存在し、しかも聴いて面白い」と知った人向けに、次にこの曲を聴いたらいいよ、と示そう。明治以来の積み重ねで、日本人の曲でも面白いものはいっぱいあるのだから。
 以下、佐村河内守「交響曲1番」の次に聴いてみたい邦人の手による交響曲を紹介する。もちろんセレクションは私の独断と偏見であり、タイトルになんらかの形で「交響曲」と入っていることを前提条件とした。CDは演奏が良く、手に入りやすいものをこれまた独断で選んで掲載している(そもそも録音が一種類しかない曲も多いが)。

 「佐村河内の交響曲1番は素晴らしい」と思ったあなた。あなたは今や、過去100年以上に渡って我らが同胞が積み上げてきた傑作の森の入り口に立っているのです。



その1 定評ある名曲を聴きたい

矢代秋雄:交響曲
 矢代秋雄(1929〜1976)は、戦後日本第一世代で、黛敏郎と共にその傑出した才能を生前から認められた巨星である。ただし47歳の若さで夭折したこともあり作品数が極端に少ない。十代の頃はそれこそ一日ピアノ曲一曲というようなペースで作品を書いていたそうだが、乱作を諭されて本人曰く「鯛の目の肉を集めてカマボコを作る」ように推敲に推敲を重ねるようになった。数少ない作品はその全てが傑作であり、日本を代表する作品となり得ている。
 矢代が残した唯一の交響曲は1958年の作。スケルツォとアダージョを挟む4楽章制という、古典的な交響曲の形式を忠実に守りつつ、斬新なリズムと和声が全体を彩る。特に2楽章スケルツォの特徴的なリズム(獅子文六「箱根山」の太鼓の描写から着想されたそうだ)が有名だが、第1楽章や第3楽章の神秘的な響きや、第4楽章の大胆なオーケストレーションも魅力的だ。第1楽章に出現するモチーフが全体に統一感を与えている。


伊福部昭:タプカーラ交響曲
 矢代より一つ上の世代の伊福部昭(1914〜2006)の手による唯一の交響曲。一般には「ゴジラ」「ラドン」などの東宝怪獣映画の映画音楽で有名だが、映画音楽、コンサート用音楽を問わず一生を通じて作り出す音楽がぶれることなく一貫していたという点で希有の存在だった。どれを聴いても、どこを切っても伊福部昭。しかしそのたたずまいは単なるマンネリズムではなく、深く血脈に根ざした安定感に溢れている。
 タプカーラ交響曲は1954年作、現在は1979年の改訂版が演奏されている。古典的交響曲と異なりスケルツォのない3楽章の構成をしている。タプカーラとはアイヌ語で「立って踊る」の意。その名の通り、1楽章と3楽章はパワフルで律動的なタテノリの音楽——いや、タテノリなんて軽く言ってはいけないのだろう。静かに心に沁みる第2楽章とも合わせて、深い深い伝統の奥底から天空の果てに至るまでを垂直に貫く傑作である。


黛敏郎:涅槃交響曲
 黛敏郎(1929〜1997)は一般に「題名のない音楽会」司会の右翼の人、として記憶されているようだが、冗談じゃない。矢代と並んで戦後の日本の音楽を牽引した大スターだった。矢代がアカデミズムの領域に留まったのに対して、サンバ、マンボ、ジャズ、ルンバから前衛にいたるまでなんでもござれ、交響曲やオペラなどシリアスなコンサート音楽や「天地創造」(ハリウッド進出で坂本龍一に先駆けること21年!)のような映画音楽、結婚式のための「ウェディングシンフォニー」なんて実用音楽も書くし、晩年は新興宗教向け式典音楽も書いた。なんでもできるし、なにを書いても一定以上の水準をあっさりクリアする希有の天才だった。
 その黛畢生の傑作がこの涅槃交響曲(1958)。梵鐘の音響を解析してオーケストラで再現するというアイデアから始まって、全6楽章の壮大な仏教音楽を作り上げてしまった。もっとも聴くにあたっては仏教がどうのこうのととらわれず、壮大な音響の伽藍を楽しむほうがいいかも知れない。「とにかく聴け」というべき作品。黛にはもう一曲「曼荼羅交響曲」(1960)という作品がある。こちらも必聴。


芥川也寸志:エローラ交響曲
 いわゆる4楽章の交響曲の形式を全く踏襲していない交響曲。芥川也寸志(1925〜1989)は、若い時に国交のないソビエトに単身入り込むなど行動派の作曲家だったが、1958年に作曲されたこの曲は、インドのエローラ石窟を訪れた時の印象に基づいている。
全体は初演版は20、現行版は16の「♂」と「♀」の記号の付いた短い楽章で構成されており、♂と♀の断片を交互に演奏していく。初演時は、このルールを守る限り、どんな順番で演奏してもOKという指定だったそうだが、現在は固定された順番で演奏されている。短いモチーフが絡み合い、最後に巨大な岩盤をくりぬいたエローラ石窟を思わせる壮大なクライマックスを構成する。


松村禎三:交響曲1番
 一生を通じて東洋的な生命力に溢れた音楽を追究した松村禎三(1929〜2007)。その半世紀以上の作曲の軌跡における最初の爆発というべき作品。5年以上の歳月をかけて作曲し、1965年に初演された。演奏時間25分ほどの小振りの曲だが、圧倒的かつ巨大な印象を残す。冒頭、木管楽器の細かな音符の繰り返しが積み重なって、マッシブな音響となり、そこに金管や打楽器が加わってどかんと大爆発を起こす様から、無限に続くがごときぬめぬめとした旋律が疾走するラストに至るまで、一瞬たりと気を抜くことができない高密度の作品。この曲をきっかけに、松村は「管弦楽のための前奏曲」(1967)、ピアノ協奏曲第1番(1973)、同2番(1978)と、傑作を生みだしていくこととなった。




その2 佐村河内「交響曲1番」みたいなのを聴きたい

諸井三郎:交響曲3番
 曲の持つ精神的内容では、もっとも佐村河内作品に近いかもしれない。この曲については以前こういう記事を書いた。諸井三郎(1903〜1977)が、太平洋戦争も敗色濃厚となった1944年、自らの死を覚悟しつつ作曲した大作。第1楽章 静かなる序曲〜精神の誕生とその発展、第2楽章 諧謔について、第3楽章 死についての諸観念——というそれぞれに表題を持つ3つの楽章から成る。ドイツに音楽を学んだ諸井らしく、重厚な後期ロマン派の系譜に連なる響きから、生と永遠を希求する感情が立ち上る。


吉松隆:交響曲5番
 時代思潮がどうであれ、己のやりたい音楽をオーケストラを使って書くという点で、佐村河内作品に近い曲。ただし吉松隆(1953〜)は、シベリウスとプログレロックに根を持ち、ロマン派的なところはない。その音楽は真摯さとポップさとキッチュさが、奇妙に混合し、疾走する。精神的には佐村河内からもっとも遠いと言えるかも。2001年作曲の5番は作曲者によれば「ベートーベンの運命と同じく、ジャジャジャジャーンで始まりハ長調主和音で終わる」というコンセプトのもとに書かれたファウスト交響曲。ファウストたる自分、誘惑するメフィストフェレス、愛するグレートヒェンという3つの主題が50分近い演奏時間を通じて絡み合う。最終楽章は、これまた作曲者曰く「ビートルズのヘイ・ジュード」。恍惚の極みの旋律が延々と繰り返され、一瞬愛する者を回想し、ドミソの和音になだれ込む。


原博:交響曲
 時代思潮と関係なく書きたい曲を書くという意味では、この曲も同じだが、原博(1933〜2002)の場合、範とすべきは佐村河内のようなロマン主義でも、吉松のようなシベリウスとプログレでもなく、さらに古い古典派音楽だった。とはいえ、以前にも紹介記事を書いたが、単なる古典派を模した曲ではなく、古典的な端正な形式感の中にきちんと現代性を織り込んでいる。
 佐村河内作品と同様に重々しく内面的な第1楽章から始まるが、最後に重厚なコラールで救済をうたう佐村河内作品に対して、原の第4楽章はあくまで快調にアレグロでラストまで走り抜ける。リズミカルな快速走行が一瞬悲しみに陰るところで、秩父音頭が引用されるのが印象的。




その3 せっかく邦人作品を聴くのだから、いわゆる西洋の名曲とは毛色の違う交響曲を聴いてみたい

山田耕筰:交響曲「かちどきと平和」
 日本人の手による最初の交響曲(1912年作曲)。西洋の音楽を急速に学んだ日本人が、20世紀初めの段階で、どの程度自家薬籠中のものにしていたかを示す指標のような作品。聴き所は、山田耕筰26歳の若々しくも瑞々しい感性だろう。後年、山田は「長唄交響曲」という長唄にそのまんまオーケストラの伴奏を付けるという曲を3曲も発表しており、そちらも同じナクソスのCDで聴くことができる。


橋本國彦:交響曲1番
 太平洋戦争中、中学生の矢代秋雄と黛敏郎が師事していた先生が、橋本國彦(1904〜1949)だった。戦前・戦中の音楽界の大スターで、オーケストラ曲から歌謡曲の作曲に至るまで幅広い分野で活躍した。交響曲1番(1940)は、皇紀2600年奉祝曲のひとつとして作曲、初演された。堂々たる構成と優雅な旋律美が特徴で、大澤壽人の交響曲2番(1934)や、諸井三郎の交響曲2番(1938)などと共に、山田耕筰から30年を経ずして、日本人作曲家の到達した水準を示す曲といえる。第2楽章が琉球風の音階に基づいた旋律を繰り返すラヴェル「ボレロ」風の音楽であるところが面白い。戦後は、戦争中の体制協力が災いし、半蟄居状態のまま44歳にして病没する。今一度、その作品の発掘と評価が必要な作曲家の一人である。


三木稔:急の曲——2つの世界のための交響曲
 三木稔(1930〜2011)は、日本音楽集団の創設に参加し、邦楽器と西洋楽器の世界を股に掛けて活躍した作曲家。「急の曲」(1981)は、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団からの委嘱で作曲された。「2つの世界のための交響曲」という副題の通り、通常の3管編成のオーケストラと日本音楽集団の邦楽オーケストラというべき編成の邦楽器群が、あるいは拮抗しあるいは調和して華やかな音楽を繰り広げる。三木には「序の曲」(1969)、「破の曲」(1974)という作品もあり、作曲者はまとめて「鳳凰三連」と題している。




その4 番外編:交響曲というにはちょっと違う……しかし面白い

伊福部昭:ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲
 1941年、伊福部26歳の若さ一杯、元気いっぱいの野心作。戦争で楽譜が消失したと思われていたが、1997年にNHK交響楽団の倉庫でパート譜が発見されて復活した。タイトルこそ協奏風交響曲だが、実体はピアノ協奏曲に近い。作曲者の若さが全面的に爆発する音楽だ。戦後、この曲が失われたものと判断した伊福部は、使用したモチーフを再度つかって2曲を作曲する。タプカーラ交響曲(1954/1979)と、「ピアノと管弦楽のためのリトミカオスティナータ」(1961)である。この曲の土俗的側面がタプカーラ交響曲に、メカニカルでリズミカルな側面がリトミカオスティナータにと分割されたといってもいいのかもしれない。同じCDに収録されている「 ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲 」も傑作。特に「巨大な悲しみが行進する」と評される第2楽章は涙なしに聴けない。


松下眞一:シンフォニア・サンガ
 松下眞一(1922〜1990)は、数学者であり物理学者でありその一方で前衛的技法を駆使する作曲家でもあった。キャリアの後半は仏教に傾倒し、仏典に基づくカンタータなどを作曲している。シンフォニア・サンガ(1974)は、彼の第6交響曲に相当する作品。サンガとは「僧伽(そうぎゃ)」、すなわち仏教修行者の集団を意味する。その名の通り純粋な器楽曲としての交響曲ではなく、独唱、合唱、邦楽器なども交えて、釈迦とその周囲の人々を扱った一大カンタータといえる作品。ただし、黛敏郎とは異なり、響きに仏教っぽいところはまったくない。むしろ前衛の時代を通じて身につけたのであろう、全天に星が飛び散るかのような華麗なオーケストラの響きが詰まっている。そんな美しい音響と、サンスクリット語の異国的な響きの絡み合いが楽しい作品である。


柴田南雄;交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」
 柴田南雄(1916〜1996)は、一般的には作曲家としてよりもNHK-FMの解説者としての顔のほうが知られているかも知れない。祖父、父ともに化学者で東京帝国大学の教授という裕福な家庭に生まれ(自伝を読むと、そのおぼっちゃん振りに腹が立ってくるほど!)、本人も植物学を専攻するが諸井三郎に音楽を学び、作曲の道へ進んだ。作風は叙情的なものから、前衛へと転じ、合唱曲「追分節考」(1973)から様々な素材を知的に組み合わせるコラージュ的なものへと変化した。
 交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」(1975)は、第3期を代表する大作。鴨長明の「方丈記」をテキストに、昭和初年から作曲時の昭和50年までの時代の流れが、様々な引用によって重ね合わされる。同時に、古典派からロマン派、現代へと楽章が進む毎に音楽の時代様式が下って現代的で複雑なテクスチュアになるという——言ってみれば「交響曲で追う交響曲の歴史」のような趣向も凝らされている。演劇的要素も含み、昭和という時代を多面的に回顧するシアターピース的な作品。

 このようなセレクションをすると、おそらくは團伊玖磨(交響曲を6曲作曲した)はどうした、とか、別宮貞雄(同5曲)は入らないのか、あるいは最近リバイバル著しい大澤壽人(同3曲)はとか色々異論はでるだろう。池辺晋一郎(同8曲)は。一柳慧(同8曲)は、という人もいるだろう。
 もちろん分かっているけれども、ここでは佐村河内の曲の次に聴く一曲ということで割愛した。
 色々な意見がネットに載るほうが面白いので、是非とも異論のある方は自分のセレクションを公開してほしい。

 ちなみに、こういうページも存在している。

かたより交響曲道(日本人):なかなかすごいページで、邦人の手による交響曲をほぼ完全に網羅しているかも。



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2013.04.01

33年目の「ドーリアン」

 ちょっとエンジンがかかってしまったので続けて更新。

 3月20日、吉松隆 還暦コンサート《鳥の響展》に行ってきた。


吉松 隆 還暦コンサート≪鳥の響展≫
2013年03月20日(水・祝) 15時開演 東京オペラシティ コンサートホール

出演者
吉松 隆 Takashi Yoshimatsu (作曲 / Composer)
藤岡 幸夫 Sachio Fujioka (指揮 / Conductor)
舘野 泉 Izumi Tateno (ピアノ / Piano)
須川 展也 Nobuya Sugawa (サックス / Saxophone)
田部 京子 Kyoko Tabe (ピアノ / Piano)
吉村 七重 Nanae Yoshimura (二十絃 / Koto)
福川 伸陽 Nobuaki Fukukawa (ホルン / Horn)
長谷川 陽子 Yoko Hasegawa (チェロ / Cello)
小川 典子 Noriko Ogawa (ピアノ / Piano)
東京フィルハーモニー交響楽団 Tokyo Philharmonic Orchestra

第1部 (第1部の曲順は未定)
プレイアデス舞曲集より
(ピアノ:田部京子)

ランダムバード変奏曲より(1985)
(ピアノ:田部京子/小川典子)

夢色モビールより(1993)
(チェロ:長谷川陽子)

タピオラ幻景より(2004)
(ピアノ:舘野泉)

スパイラルバード組曲より(2011)
(ホルン:福川伸陽)

夢詠み(2012)
(チェロ:長谷川陽子/二十絃:吉村七重)


第2部
鳥は静かに・・・(1998)
…静謐を湛える鳥たちへの鎮魂歌。透明な夢の詩情

サイバーバード協奏曲(1994)
…天空を翔け大地を疾走する超絶のコンチェルト降臨
(サックス:須川展也、ピアノ:小柳美奈子、パーカッション:小林洋二郎)

ドーリアン(1979)
…幻のデビュー作復活!青春のシンフォニックロック


第3部
「平清盛」組曲(2012)
…NHK大河ドラマ「平清盛」を彩る壮大な平安交響絵巻

タルカス(2010)[原作:キース・エマーソン&グレッグ・レイク]
…プログレッシヴ・ロックの名曲オーケストラ版、ついに再演!

 NHK大河ドラマ「平清盛」の音楽ですっかりメジャーになった吉松隆だが、私は極初期から注目して彼の曲目当てにコンサートに通っていた。今回の目的は33年振りの再演となる「ドーリアン」を聴くこと。。実は私は、1980年の「ドーリアン」初演。つまり吉松隆のオーケストラ曲デビューを東京文化会館大ホールで聴いているのである。おそらくは作曲者以外は数人しかいないだろう、「ドーリアンを実演で2度聴いたリスナー」になるべく、コンサートに赴いた次第。
 コンサートそのものは「堪能した」の一言に尽きる。特に、当代随一の美音の持ち主である田部京子と近現代の曲を積極的に取り上げる小川典子による「ランダムバード変奏曲」は、素晴らしい演奏だった。

 1980年のドーリアン初演は以下のようなものだった。

現代日本のオーケストラ音楽 第4回演奏会 <委嘱作品と第2回作曲賞入選作>

Yoshimatsu1委嘱作品
小倉朗 チェロ協奏曲

第2回作曲賞入選作品
高橋裕 シンフォニア・リトルジカ
吉松隆 ドーリアン

招待作品
入野義朗 ヴァンドゥルンゲン(転)

指揮 秋山和慶
チェロ 岩崎洸 
尺八 横山勝也・岩本由和
東京交響楽団

主催:日本交響楽振興財団

1980年6月21日 午後2時〜 東京文化会館大ホール


 当時私は高校を卒業したばかりで、浪人中だった。予備校通いで東京までの定期が手に入ったのをいいことに、勉強もせずにせっせとコンサート通いしていた。上野の東京文化会館大ホールは、客が入らずにほとんど空っぽで、オーケストラの音がとてもよく響いていた。空っぽのコンサートホールは、かくも音を良く響かせるのかと、私は感じ入った。

 このコンサート、今にして思えば空っぽだった客席と反比例するかのようなエポックメイキングなコンサートだった。

Yoshimatsu2 まず吉松隆が、オーケストラ曲デビュー。シベリウスとプログレロックに根を持ち「現代音楽撲滅」を叫ぶ吉松のデビューは、日本音楽史にとってけっこう大きな転換点だったのではないだろうか。
 ドーリアンについては作曲者本人が語るのを聞いたことがある。「これはイエスとかELPをオーケストラで模写する試みだったんですよ。でも、評論家にはストラヴィンスキーを思わせるとか言われた。イエスもELPもロックでストラヴィンスキーを模写したわけで、それを再度オーケストラで模写したわけですから、ストラヴィンスキーと言われても仕方ないんですが」と言っていた。

 2曲目の高橋裕は、音大の先生をしつつ仏教音楽を着々と発表する人生を歩んでいる。普通の作曲家の人生と言えないことはない(本当のところは分からないけれども)。
 が、残る2曲は壮絶。
 まず入野義朗。この日、本当は「交響曲 あめつちのことば」という邦楽器とオーケストラの新作が初演されるはずだった。しかし作曲者体調不良で作曲が間に合わず、急遽同じ邦楽器・オーケストラの編成ということで「二本の尺八とオーケストラのための転」が演奏された。
 実はこの時、入野は体調が悪いどころではなく、末期の床についていた。2日後の6月23日に死去。享年59歳。絶筆となった「あめつちのことば」は、冒頭20小節ほどが残っており、この断片は後に黛敏郎が「題名のない音楽会」で演奏した。

 そして小倉朗の「チェロ協奏曲」。この曲が、戦前・戦中・戦後を反骨の作曲家として生き抜いてきた小倉朗にとって人生最後の作品となった。小倉はその後10年を生きたが、体調を崩したために作曲をやめてしまい、絵ばかりを描いて晩年を過ごした。その間、作曲はわずかに旧作の「フルート。ヴァイオリン、ピアノのためのコンポジション」の改訂を行ったのみである。

 まさに世代交代の節目となったコンサートだったのである。

 この時聴いたドーリアンは、まず巨大音量で私の耳を圧倒した。叩きまくる打楽器は、時にケチャのリズムになり、祭太鼓となり、「こんなのありか?!」と感じた当惑は、ラストの全オーケストラが高々と協和音をフォルテッシモで引き延ばし、打撃音で曲が終わると同時に「この手があったかっ」という喝采に変わった。印象はあいさつに出て来た肥満の巨軀にベレー帽という作曲者本人を見て、さらに強まった、
 私は吉松隆という名前を意識に刻み込み、その名前が出てくるコンサートに意識的に通うようになったのだった。

 1980年6月21日のコンサートでは、私は東京文化会館の3階中央の最前列で聴いた。だから今回も東京オペラシティ、タケミツメモリアルホール3F中央最前列の席を取った。学生800円だったチケットはA席7000円となっていたが、その価格差こそはメジャーになるということの意味なのだろう。
 33年前のドーリアンの演奏は、疾走するという形容が相応しかった。秋山和慶は高いバトンテクニックで分析的に演奏を組み立てるタイプの指揮者だが、この時の演奏ではオーケストラを追い立てるようにして、アレグロというよりもプレストで10分間の曲をまとめ上げていた。
 今回の演奏で、藤岡幸夫は、よりゆっくりとしたテンポで、ストラヴィンスキー的な変拍子の構造が聴く者にはっきり分かるような知的で分析的な演奏を行っていた。作曲者が若い時のどしゃめしゃな曲なのだから、もっとノリと勢いで演奏してもいいのにと思ったが、これもまたありだろう。次に演奏する指揮者が、また違った解釈を聴かせてくれればいい。

 1980年の演奏はNHK-FMで放送されたので、エアチェックした音源が手元に残っている。今回のコンサートも近くFMで放送され、CDにもなるらしい。まとめて33年の時を経た2つのドーリアンを聴き比べることができるようになるわけだ。今から楽しみである。

 還暦を機に綴った作曲家の自伝。例によってシニカルで苦いユーモアを秘めた語り口で来し方を振り返っている。東由多加が主催するミュージカル劇団、東京キッドブラザースのニューヨーク公演「SHIRO」の音楽を担当するくだりがとても興味深いのだが、よっぽど大変な経験だったらしく、「胃に穴が空いた」と記してさらっと流しているのが印象的。1970年代後半から80年代にかけて、東京キッドブラザーズの人気はものすごかった。その渦中に巻き込まれ、振りまわされた話は、別途どこかで詳細を記録してほしいなと思う。

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2013.03.31

NHKの残念な音楽ドキュメンタリー

 本日午後9時からNHKスペシャル|魂の旋律〜音を失った作曲家〜という放送があったのだが……知っている人ほど、口ごもるような内容だった。ただ一つ、作曲者の新作「レクイエム」をたっぷり時間を取って流したことだけを除いて。
 どういうわけか、NHKにとって作曲家ドキュメンタリーは鬼門のようで、かつては晩年の松平頼則を老残の作曲家扱いしたドキュメンタリーを製作して、作曲家の怒りを買ったりもしている(Wikipedia 松平頼則の項を参照のこと)。

 NHKは昨年秋には吉田隆子に関して、大変問題の多い番組を流している。以下は、昨年末のコミケで発表した文章を若干修正したものである。

忘れ去られたことにされた女流作曲家 (吉田隆子「ヴァイオリンソナタ・ニ調」)

 2012年9月2日、NHKの「ETV特集」で「吉田隆子を知っていますか〜戦争・音楽・女性〜」という番組が放送された。戦中戦後にはじけんばかりの才能を発揮しつつも左翼運動に関わり投獄され、十分に力を発揮することなく病死した作曲家・吉田隆子(1910〜1956)を主題としたドキュメンタリーだ。
 ネットを検索すると、この番組には概ね好意的な感想が記されている。「知らなかった」「こんな人がいたんですね」などなど。吉田隆子という作曲家の存在を知らなかった人たちが、吉田隆子を知るきっかけになった――それはいいとして。

 番組はこう始まる。
「忘れ去られた曲がある。ヴァイオリンソナタ・ニ調。作曲したのは吉田隆子。大正、昭和の激動の時代を生き抜き、その後、歴史に埋もれた。」
 ここまでで、もうダウトだ。
 忘れ去られた曲があるだと? 試しにアマゾンのミュージックで「吉田隆子」と検索してみよう。CDが3枚出てくる。

「歌、太陽のように・・・明治・大正・昭和に凛々しく生きた日本の女性作曲家たち」2009年発売。ソプラノ歌手の奈良ゆみが、日本人女性作曲家の歌曲を歌ったアルバムだ。吉田隆子の曲は、「ポンチポンチの皿廻し」「鍬」「お百度詣」「君死にたまふことなかれ」と4曲入っている。

 「荒井 英治 昭和のヴァイオリン・ソナタ選」2002年発売。ヴァイオリニストの荒井英治が、戦前戦中の日本人作曲家によるヴァイオリンソナタを録音したCD。吉田隆子の「ヴァイオリンソナタ・ニ調」が収録されている。

「Oriental」2011年発売。ヴァイオリニストの松野迅によるオムニバスアルバム。吉田隆子の「ヴァイオリンソナタ・ニ調」とヴァイオリン演奏による「君死にたまふことなかれ」が収録されている。



 アマゾンで出てくる曲の一体どこが「忘れ去られた曲」だって?しかも2種類も録音が出ているじゃないか。

 それだけではない。実は「ヴァイオリンソナタ・ニ調」の楽譜は、音楽の世界社(東京都練馬区向山3-21-11 FAX 03-3926-4389)という楽譜出版社から1999年に出版されており、2012年末現在も購入することができる。音楽の世界社の楽譜は、全国のヤマハが注文を受け付けている。これのどこが幻だというのか。
 番組を見ていくと、どうやらこの番組は「忘れ去られた女流作曲家を初めて発掘する」という意図で構成されていることが分かってくる。ナレーションは「長く忘れ去られた作曲家、吉田隆子」と「忘れ去られていた」ことを強調する。
 NHKの意図は明らかだ。そうしたほうがセンセーショナルに視聴者に訴えかけるので、そのように捏造したのである。実際には知る人が少ないだけであって、吉田隆子は忘れ去られていない。もっというならば、番組のディレクトターやらプロデューサーやらが知らなかっただけなのだ。
 それがはっきり分かるのが、番組終わり近くの「ヴァイオリンソナタ・ニ調」を紹介する部分だ。ナレーションは語る。「この曲は昭和30年に初演されたものの、その後忘れ去られ、幻の曲と言われてきた。今回、東京音楽大学の協力を得て再演を試みた。」

 いや、だからアマゾンでCDが買えるんだってば。

 現在、吉田隆子が忘れ去られることなく、CDが出ているには理由がある。一時期、吉田隆子について音楽を習った経験を持つ音楽評論家の小宮多美江さんが、粘り強く資料を集め、評伝をまとめ、楽譜を出版してきたからだ。音楽の世界社から出ている楽譜は、小宮さんとその周辺の人々の尽力によって世に出たものである。
 あきれたことに番組は、その小宮さんにもきちんとインタビューしている。81歳の小宮さんはきっと熱を込めてカメラの前で吉田隆子のことを語ったのだろう。ところが使われているのは、彼女が組織した団体「楽団創生」に関する部分のみだ。出演はわずか50秒程度である。
 実はもっと裏がある。この手の安易なテレビドキュメンタリーには、往々にしてネタ本が存在する。多分あるだろうと思ったら果たして存在した。



 「作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して」(辻浩美著・2011年12月、教育史資料出版会刊行)である。
 この本を入手して、私はびっくりした。評伝かと思ったら、この本は吉田隆子に関する生の資料を整理してまとめたものだったのだ。番組に出てくる病床日記がそのまま収録されているし、番組中で分析されている彼女の最初の作品「カノーネ」の楽譜も掲載されている。それどころか、CDが附属していて、そこには「ヴァイオリンソナタ・ニ調」が収録されていたのだ。

 明らかにNHKは知っていて、なおかつ「忘れられた作曲家・吉田隆子」という偽りのレッテルを貼って紹介したのだろう。

 NHKというマスにアクセスできる媒体が、吉田隆子を扱った番組を製作するのはとても良いことだ。今まで吉田隆子の音楽を知らなかった人が、その豊かな音楽に触れることは素晴らしいことである。
 でも、だからといって、彼女に「忘れ去られた作曲家」という事実と異なるレッテルを張って良いのか。そのやり口は卑劣であるし、番組を見る人に失礼だ。なによりもここまで長年にわたって努力してきた小宮多美江さんとその周辺の人々に対する侮辱である。

 そういったNHKの蛮行は別として、吉田隆子の音楽はもっと広く聴かれるべき、質の高いものだ。明治43年に陸軍軍人の娘として生まれた彼女は、恵まれた環境の中で大正時代の自由な空気を吸って伸び伸びと育った。作曲を志し、やがて左翼運動にも没頭し、戦争に向かって転げ落ちていく世相の中、何度も投獄され、体を壊した。戦争中をほとんど寝たきりで過ごし、戦後活動を再開するものの、獄中で破壊された健康は元に戻らず、46歳で病死した。
 だから、作品は決して多くない。18曲の歌曲、10曲の室内楽曲、そして力を入れていた演劇や人形劇のための音楽…。
 小宮多美江さんを中心とした音楽批評家グループ「クリティーク80」が著した評伝「吉田隆子」(1992年音楽の世界社刊行)には、伊福部昭が序文を寄せている。

 未だ女性が作曲をするなどほとんど思いもよらぬ時代に「内容に於いては新しい現実を反映し、形式に於いては民族的伝統の上に立つ」と宣言し、また事実、社会性とイデオロギーを重視した彼女の実作活動は、当時の一般的な音楽潮流とは一線を画するものであった。
 彼女は私より四歳年上であったが、ムソルグスキーを極めて高く評価し、また、民族的伝統を重視する点で見解が似ていたせいもあってか、よく話し合ったものであった。 (伊福部昭 序文 「吉田隆子」より) 

 もしも、クラシック音楽に興味を持つならば、「ヴァイオリンソナタ・ニ調」を是非聴いてほしい。まごうことなき傑作だ。荒々しさと優美さが何の矛盾もなく同居した、曇りのない一直線の音楽である。

 NHK番組の質の低下は、ずいぶんと前から感じていたが、これではETV特集も、もう信用できないな。これからはパソコンを膝の上において、検索しつつ見ないと危なくて仕方ない。


 今回の佐村河内守を紹介したNHKスペシャルは、私の「検索しつつ見ないと危なくて仕方ない」という印象を強化しただけだったのは、大変残念である。

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2011.11.12

尾崎宗吉の音楽を聴く

 夜の歌 尾崎宗吉作品集成
 1. 小弦楽四重奏曲(1935)
 2. 幻想曲とフーガ(1936)
 3. 初夏小品(1936)[作詩:大木惇夫]
 4. チェロ・ソナタ(1937)
 5. ヴァイオリン・ソナタ第2番(1938)
 6. ヴァイオリン・ソナタ第3番(1939)
 7. 夜の歌(1943)
 演奏:モルゴーア・クァルテット他

 アマゾンから届いたので聴いた。これはすごい。戦前の日本に、こんなに良い曲を書ける作曲家がいたのか。

 尾崎宗吉(1915-1945)は昭和20年に30歳で中国大陸にて戦病死した作曲家。小倉朗など関係者の回想を読むと、必ず「才能抜群」として登場する。LP時代に極少部数で作品集が一回出ていたようだが、作品が一枚のCDにまとまって、市販されるのは多分これが初めて。

 こちらに尾崎に関する詳細な解説がある。
夭逝の作曲家/尾崎宗吉

 これほどの作品を書ける男が、わずか30歳で戦病死しなくてはならなかったなんて…かわいそうだし惜しいし、くやしいし、とにかくなんといっていいかわからない。残した音楽が素晴らしいほどに、死の無念さが胸に迫る、

 尾崎は1915年、浜名湖に浮かぶ弁天島で旅館を営む夫婦の六男として生まれた。子供の頃から木琴を好み、音楽を志して上野の音楽学校(現東京芸大)を受験するが、音楽の成績ではなく健康診断で尿タンパクが出たというだけで受験に失敗(尿タンパクは激しい運動後には健康人でも出るものだ)。
 このことが彼の人生を決めてしまう。当時、上野の音楽学校の学生には徴兵猶予があったのである。
 上野に代わって東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進学し、小倉朗と知り合い、親友となる。当ブログでも取り上げた諸井三郎に師事し、やがてめきめきと頭角を現し始めた。その前に立ちはだかったのが徴兵だった。尾崎は兵隊として中国大陸の戦線を転々とすることになる。。

 尾崎の創作は19歳の小弦楽四重奏曲から始まり、28歳の夜の歌で終わる。20代の10年は、そのうち5年を兵隊として戦地で過ごし、30歳でこの世を去った。作曲にあてることのできた時間は5年に過ぎない。
 その間に、彼は恐ろしいほどの進歩を示した。稚拙と瑞々しさの同居の裡に才能のきらめきを見せる小弦楽四重奏曲から、プロコフィエフやバルトークすら連想させるヴァイオリン・ソナタ第3番まで、わずか4年だ。彼の音楽ははつらつとしたリズムと無駄のない構成が際立っている。初期の作品は淡い五音音階の音感で日本調を感じさせもするが、やがて自由自在に半音階を使いこなしていくようになった。
 徴兵が年限になって戦地から帰ってきた時に書いた絶筆、夜の歌は他に比較する対象がないほどに透みきっている。同じく戦地から帰ってきている間に書いたヴァイオリンソナタ4番の楽譜が行方不明になっているのが惜しい。

 彼の死因は戦地で患った虫垂炎だった。交通不便の地であったため、病院への搬送が遅れ、手術の甲斐無くこの世を去ったのである。今ならなんということもなく直る病気だ。ひょっとしたら抗生物質の服用のみで、助かったかもしれない。

 哀しく、美しく澄み切った夜の歌の後に、一体どんな音楽があったのか、あり得たのか。彼の頭の中では、数多の音が現実化されるのを待っていたはずなのに、今やすべては想像するしかない。それどころか、彼が残した楽譜もそのかなりの部分が紛失して行方不明になっている。このCDには、現存する作品のほぼ全部(オーケストラのための田園曲以外)が入っている。これだけしか残らなかった、というべきなのか、これだけでも残って良かったというべきなのか。

以下、友人であった小倉朗の自伝「北風と太陽」(1974)に登場する尾崎。

 尾崎はその音楽学校に僕より少し遅れて入ってきた。いかつい青年――第一印象はまあそういったものだった。弁天島の生まれで、僕より数ヶ月上。強い近視の眼鏡の中で目が小さく見え、堅く結んだ口元は芯の強さを示したが、笑うと目尻が下がって子供のような可愛らしい顔になった。

(中略)
 たちまち意気投合して、親友兼ライバルとなり、僕が学校を飛び出してからもこのつき合いは深まる一方で、彼の下宿と僕の家との行き来は頻繁。一緒に音楽会にいき、レコードをきき、勉強を競い,討論し、やがて木琴の名手と知ると僕のピアノの伴奏で,僕等が名付けた「サバリアン・ラプソディー」——つまり気分本位のごまかし演奏——をやって涙のこぼれるくらいの大笑いをした。
 彼は着実に学校を卒業し、卒業するとすぐ作曲家連盟の主催する試演会で「小絃楽四重奏曲」を発表して一躍注目を浴びる、僕はその曲に旋律の発明力とリズムの自発性を見て、手強い相手に出会ったことを思い知る。
 その後、彼は立てつづけに作品を書いた。その筆の早さを僕が危ぶむと、「とんでもない。まだ完成を求めるなんていう年頃じゃないよ」と笑った。尾崎はそうして遠い未来を睨んでいたのである。けれども中国で始まっていた戦争が彼をひきずり出す。徴兵検査が終るとまもなく、佐倉の鉄道隊に入り、ある朝、朝靄をついて営門を出て、銃を担い、隊列の中から目だけで僕に笑って中支に向かった。
 幸い、そのときは帰ってきた。しかし戦争については「愚劣!ひどいもんだ!」というだけで、後は何も語ろうとはしなかった。そして、戦争の疲れから脱けきらないうちにまた召集される。出発の直前、彼の家を尋ねた。がらりと玄関をあけると、玄関先でこっちを向いてチェロを弾いていた。そのチェロを弾く姿が彼の最後の姿となった。――死んだのは太平洋戦争も間もなく終わろうとするころのことである。

 尾崎に関する唯一の文献。古書店経由で入手できるようなのでリンクを掲載する。20年前の出版だが、当時存命だった関係者——小倉朗、柴田南雄、井上頼豊、安部幸明などは、全員がこの20年の間にこの世を去った。おそらく生前の尾崎を知る人はもうほとんど残っていないのだろう。

 人は死んで去っていく。作曲家は後に楽譜という形で音楽を残す。楽譜は音楽そのものではない。楽譜を音楽にするためには演奏しなくてはならない。

 もっと彼の作品が演奏されますように。そう願う。


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2011.11.03

山田一雄作品を聴いてきた

 久しぶりにブログを書くことにする。10月30日の日曜日、下記のコンサートに行った。

オーケストラ・ニッポニカ 第20回演奏会・山田一雄没後20周年記念/交響作品展 2011年10月30日(日) 14:30開演予定(14:00開場予定) 紀尾井ホール(東京・四ッ谷)/全席指定 3,000円 山田和男/ 大管絃楽の為の小交響詩「若者のうたへる歌」 (1937) 交響組曲「呪縛」(1940)* もう直き春になるだらう (1938) 城左門詩* 日本の歌 (1944/1959) 深尾須磨子詩* おほむたから 作品20 (1944) 大管絃楽の為の交響的「木曾」 作品12 (1939)

ソプラノ 山田英津子*
指揮 田中良和
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ

 山田和男(途中で改名して一雄、1912〜1991)の作品を集めたコンサートだ。

山田一雄の世界

 ヤマカズさんは、指揮者として何回も実演を聴いたものだ。頭の後ろのほうにだけ残った白髪を長く伸ばし、髪振り乱し汗飛び散らせ、飛び上がって指揮をする姿はありありと思い出せる。指揮棒から紡ぎ出される音楽は、いつも完璧ではなく、時として野暮ったさも感じさせた(当時は、あの流麗極まりない音楽を紡ぎ出す小澤征爾が、当たり前のように日本のオケの定期演奏会を振っていた)が、なによりも熱くエネルギッシュで、いったんエンジンがかかるとどこまでも高揚していった。

 作曲家としての顔もあることは、高校時代に著書「指揮の技法」を読んで知った。自作の譜例を掲載していたのだ。いや、顔があるどころではない、山田和男は戦前戦中を通じて、たいへん精力的に活動した作曲家だった。1950年頃から活動の軸足を指揮に移して作曲を止めてしまったので、ちょうど私が音楽に興味を持ち始めた時期は、作曲家としての側面が忘れ去られていた(ピエール・ブーレーズと似ているが、ブーレーズは完全に作曲を止めることはなかった)。ここ数年、代表作の「交響的木曾」が何回か演奏され、近くナクソスからCDが出るという噂もある(是非出て欲しい!)。

 ヤマカズさんはグスタフ・マーラーの影響を色濃く受けた人だった。戦前に日本にやってきたマーラーの直弟子、クラウス・プリングスハイムから直接作曲と指揮の指導を受けている。マーラーの孫弟子というわけだ。最初の「若者のうたへる歌」は、24歳の時の作品。濃厚なマーラーの影響が、五音音階的な旋律と混ざり合い、かつどこかショスタコーヴィチの交響曲、それも3番あたりを思わせる無限変奏的構成で展開していく。なにより瑞々しい。私は白髪の姿しか知らない作曲者の、若い瑞々しさが音楽に溢れている。
 「呪縛」は貝谷とも子バレエ団の為に書いた異国情緒溢れるバレエ音楽から抜粋した組曲。途中ソプラノ独唱が入り、意味不明(おそらくは異国語を想定したでたらめ、ハナモゲラ語じゃないかと思う)の歌詞を歌うのが面白い。
 ソプラノの山田英津子は、作曲者の娘さんだ。ヤマカズさんは、再婚でずいぶん歳を取ってから娘に恵まれた。私が高校生の頃「音楽の友」誌でまだ小さな娘さんと並んだ写真を見た記憶がある。
 あの写真の娘さんが、この人か…日本語の的確な発音と、ベルカント唱法の響きを効果的に使い分けるソプラノ歌手となっていた。実に良い声だと感じ入って、帰ってきてから検索をかけたら冬樹蛉さんのこのページがひっかかった。私の知人では随一の声フェチの冬樹さんが、ここまで入れ込むというのは大したものだ。

 ところで、パンフレットによると、チャイコフスキーの「白鳥の湖」日本初公演は貝谷とも子バレエ団によるが、オーケストラ譜が入手できず。ピアノ譜からヤマカズさんが独自にオーケストレーションを施して演奏したんだそうだ。当時の例としては他に、近衛秀麿版「展覧会の絵」なんてのもあるそうな。
 これは聴いてみたいな。楽譜は残ってないだろうか。

 「もう直き春になるだらう」は代表作のひとつ。素直な歌詞に素直な音楽が付き、繊細なオーケストレーションが可憐に響く。
 一方、休憩を挟んでの「日本の歌」は、「うましくに、ひのもと」と歌う日本賛美の歌詞に、マーラーを思わせる堅固・緻密なオーケストレーションを施した、まさに「マーラーの交響曲の一部」みたいな曲。
 パンフの記述によると、作曲者本人はこの曲にかなりの愛着があり、戦後も改作を続けて1959年に決定稿を演奏しているのだそうだ。あるいはこの曲こそは詩だけではなく音楽も含めて本人の「日本観」の吐露なのかも知れない。

 「おほむたから」はこの日最大の聴きもの。戦局急を告げる1944年に作曲され、一見戦意高揚を思わせる題が付いたオーケストラ曲ながら(「おほむたから」は天皇にとっての大いなる宝、つまり臣民を意味する)、マーラーの第5交響曲の第1楽章を換骨奪胎した構成をしており、極めて悲劇的な色彩が強い。近年になって音楽評論家の片山杜秀氏がこの事実を指摘したことから一気に注目されるようになった。


 徹底した引用と換骨奪胎という表現手法の面では、ルチアーノ・ベリオのシンフォニア(1969年)第3楽章(こちらはマーラーの第2交響曲「復活」の第3楽章を骨組みとしてありとあらゆる引用をコラージュしていった)に25年先駆け、自由に物言えぬ環境での暗喩による音楽の表現という意味ではショスタコーヴィチとほぼ同時期ということになる。
 もう冒頭から、マーラー5番からの換骨奪胎はありあり、ビートルズのパロディのラトルズを聴いているような雰囲気。そして、オリジナルの悲劇的雰囲気は拡大再生産されている。
 ここまで沈痛な雰囲気の曲でも、「おほむたから」とそれっぽい題を付ければ堂々演奏できたのだな。まあ1944年の段階で元ネタとなったマーラー5番を知っていた者のほうが少なかったのは間違いない。
 そういえば、ショスタコーヴィチ交響曲連続演奏会の時のトークで指揮者の井上道義氏が「昭和20年の空襲が続く中、日比谷公会堂では三日に一回の割合でクラシックのコンサートをしていたんですよ」と話をしていたのを思い出した。

 最後の大管絃楽の為の交響的「木曾」は文句なしの傑作。木曽節をはじめとした民謡が気持ちよく鳴りまくる。私はこの曲を実演で聴くのは2回目だけれど(前回もニッポニカの演奏だった )、外山雄三の「オーケストラのためのラプソディ」あたりと並んで、オーケストラが気持ちよく鳴らす日本民謡の曲としてもっと演奏されていいと思う。
 …と書いたら、こちらに「外山雄三のラプソディは、交響的木曾に触発されて書いたもの」という記述があった。これはびっくり。

 会場で、立派な装丁のヤマカズさんの演奏記録を500円というお値打ち価格で売っていたので入手。折田義正さんというお医者さんにしてヤマカズさんの大ファンが、編集したものだ。
 1991年7月21日の新交響楽団コンサートが最後の舞台。翌月の8月13日に79歳で急逝。最後まで現役だったんだな。もっともっと演奏したかったのだろう。

 ちなみに、「おほむたから」は来年2012年2月3日の東京ニューシティ管弦楽団第80回定期演奏会で、元ネタのマーラー第5交響曲と共に演奏される予定だ。興味のある方はどうぞ。



 指揮者としての山田一雄はあまり録音を残さなかったが、近年ライブ録音がいくつもCD化されている。こちらは、1978年2月12日に神奈川件の藤沢市民会館で演奏したマーラーの交響曲8番「千人の交響曲」のライブ録音。

 高校2年生の私はこの時、二階席の最前列にいた。木管が五管に拡大された四管編成オーケストラに合唱団、独唱と多数の演奏者を乗せるため、ステージは大きく客席側に張り出していて、張り出しの上で指揮する山田の姿は、二階席からは手すりの間を見え隠れしていた。山田は、例によって飛び上がり、伸び上がり、身をかがめて渾身の指揮をした。感極まって飛び上がる山田の後頭部が、手すりの間から飛び出してきたのを、私はありありと思い出せる。

 演奏も録音も決して最高ではない。特に第一部は雑駁でさえある。しかし第二部に入るとどんどん音楽は高揚していく。最後の「神秘の合唱」はまさに超絶的名演と言えるだろう。



 前にも紹介したけれども、この諸井三郎追悼演奏会のライブ録音はまさに名演。山田は多数の邦人作品を初演した。岩城宏之の先輩的存在でもあった。




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2011.06.30

ニコ動に新曲アップ

 少々前になるが、ニコニコ動画にオリジナル曲を1曲アップロードした。2年振りになる。

 こんな曲を書いていたのは29歳から31歳にかけてだから、過去の妄念を供養する行為とも言える。あと1曲残っているので、これもなるべく早くアップロードできるようにしたい。2年というのは間が空きすぎだ。

 ともあれ、面白い時代になったものだ。私が書いて本棚に放り込んでいた曲など存在しないも同然だった。演奏するにしても、演奏者を集めるような伝手も持っていない。「人がいない森の奥で木が倒れたとして、その時の音は存在したと言えるのか」という古い設問と同じだ。「存在しているとしても、存在していないも同然」ということである。
 それでも、ミクに歌わせてニコニコ動画にアップすれば、立派に社会的な存在になる。数は少なくとも聞く人がいて、わずかなりとも感想が帰ってくる。ニコ動に置いておくだけで、聞く人は増えていく。「いつか大ブレイクするかも」という虫の良い夢を見ることもできる。
  いつかどこかに届くことを期待して、瓶に詰めた手紙を流すようなものだ。流す場所が海や川ではなく、ネットというわけである。

 今回、DAWにLOGIC Expressを導入した。すると、これまでのGaragebandよりもぐっと音が良くなったのには驚いた。細かい調整も利くので、これまできちんとやっていなかったマスタリングのまねごとにも踏み込んでみた。声はメインボーカルがミクで、コーラスにルカを使っている。

 ニコ動の動画像をココログに貼れるようになったこともあるし、以下、過去に投稿した作品を貼って宣伝しておく。妙で不格好な曲ばかりだがご寛恕頂きたく思う。

 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。(宮沢賢治「注文の多い料理店」序)
 これは、音楽に魅せられたあげく、うっかり曲を書こうなどと思ってしまった人、すべての真情だろう。
 誰もが宮沢賢治になれるわけではないけれども。

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