2008.04.24

書籍紹介:「中国動漫新人類」

 書評仕事で回ってきた本なのだけれども。あまりに面白かったのでここでも紹介する。中国における日本アニメ需要に実態を追った——だけの本と思っていたら、とんでもない。中国人のメンタリティの部分にまで降りていった本格的な分析書だった。

 テレビアニメというサブカルチャーが予想以上に大きな影響を中国の若年層に与え、それは権力構造を揺るがすまでになっているという内容だ。

 まず中国の大学生に対するフィールドワーク。男女問わず、ドラゴンボール、スラムダンク、セーラームーンなど、広範囲の日本漫画とアニメが若年層に巨大な影響を与えているのだという。

 続いて中国に置ける日本アニメ受容の歴史だ。最初は1981年の鉄腕アトム放映で、その後大量に放送されるようになる。ビデオCDによる海賊版、漫画本も海賊版が安く大量に出回るようになった。

 ターニングポイントは、1989年の天安門事件だった。中国指導部は、彼らからすればはっきりと思想性を読み取れるハリウッド映画を警戒しきびしく検閲するようになった。その一方で、開放経済政策で、国民に誰もが豊かになれる幻想を抱かせ、治安を維持しようとする。その中で、日本の漫画、アニメは「人畜無害」「この程度の子供だましに人民がうつつをぬかしてくれれば、好都合」ということで放置、黙認された。

 ところが中国政府は、例えば手塚治虫が鉄腕アトムに込めた深い思想を見過ごしていた。そう著者は指摘する。

 中国の子供達にとって「努力、友情、勝利」も「恋愛」も「自由」も、日本のアニメ、漫画の中で光り輝いているものだった。中国の若年層は、日本のアニメや漫画を通じて、民主主義を体感として学ぶことになった。

 同時に著者は海賊版の存在を積極的に評価する。海賊版が安く出回ることで、中国人民は貧困層にいたるまでが等しく日本のアニメ・漫画に触れることになった。海賊版のおかげで日本のコンテンツは中国で巨大な影響を持つことになった。

 同時に、安価な海賊版を買うことで、子供達は「自分がお金を出して自分の漫画、自分のアニメを買う」「自分で好きなものを選び取る」という資本主義の基礎を体で学んでいった。

 その一方で、著作権を厳しく管理したアメリカのコンテンツは、それ故に中国市場での影響力を失った。

 海賊版というのは、つまりヒットソングにおけるラジオでのへヴィ・ローテーションのような役割を果たしたということだ。

 話は江沢民による反日教育にも及ぶ。今の若い世代は反日教育で育っている。その一方で、日本アニメ・漫画は生活に浸透しており、彼らは2つのスタンダードを使い分けている。アニメもマンガも好き、でも日本の首相が靖国に参拝するのは許せない、というように。

 1989年の天安門事件以前、毛沢東から四人組に至るまでで中国社会のたがを締め付けていたのは「革命」だった。「反革命的」と烙印を押されると、それは社会的な、そしてかなりの場合、身体的な死をも意味した。こうなると人々はこぞって革命に奉仕する姿勢をみせ、他人を反革命的と告発することで自分は死から逃れようとする。それが中国政府への忠誠となり社会秩序をもたらした。

 天安門事件以降、毛沢東は死に四人組は失脚し、開放経済体制も始まっており、もはや「革命」はキーワードになり得なかった。その状況で社会を締め付けるために選ばれたキーワードが「反日」だった。根底には「抗日戦争を戦いぬいた共産党」という自己認識がある。このため中国人にとって「反日」は、共産党への忠誠と同義となる傾向があるのだという。

 今や中国政府は自らが行ってきた反日政策に縛られている。経済的には日本とうまくやらねばならない。しかし国民は反日教育の成果で、日本との宥和的政策を許さない。

 著者は今後、日本は戦略的に中国の若者を日本に招いて、漫画やアニメの分野での交流を進めるべきだと提言する。それもネットなどで反日的な活動をしている者こそを積極的に招くべきだ、と。反日青年達も、日本の漫画やアニメで育っているのだから、そこに理解の糸口がある。

——ううむ、なるほど。

 ただし調べてみると東京国際アニメフェア「中国アニメ産業事情」レポートという記事も出てくる。状況は急速に変化しつつあるようだ。何をするにしても「慎重に急ぐ」という難しい舵取りが必要になるようではある。

 著者の遠藤誉氏(筑波大学名誉教授)の略歴を見てびっくり。1941年に中国の長春(当時の新京、満州国の首都)に生まれ、帰国は1953年。
 長春に立てこもった国民党軍を共産党軍が包囲して長春市民に30万人の死者がでた、1948年の長春包囲戦を7歳にして生き延びた人だった。その体験を綴った「卡子(チャーズ) 出口なき大地 1948年満洲の夜と霧 」という著書(1984年読売新聞社刊、残念ながら絶版中)もある。

 こういう人が、サブカルチャーの領域で中国研究をやっているのか。すごい…これは「卡子(チャーズ)」も読まなくては。


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2007.09.22

パリの素敵なおじさまたち

おわびと訂正(2007.9.25)この記事で引用したaqqueさんのBlogの記事を、私は2007年のものと誤解していました。実際には2005年、前回のパリエアショーの時のものでした。この記事の趣旨には影響ないですが、一部言い回しが事実とは異なることになります。訂正し、お詫びいたします。コメント欄で指摘してくれた方、ありがとうございます(松浦)。


 パリ・エアショーには、日本からはいつも日本航空宇宙工業会がブースを出している。ところが、この展示がなんともやる気を感じさせない——という話は、2003年に私と一緒にパリ・エアショーを取材した笹本祐一さんが「宇宙へのパスポート3」の74ページに「やる気のない美術部が過去の遺産を寄せ集めて文化祭の体裁だけ整えました、な感じ。いや実際やる気ないんだろうし、閑散としてましたけど。」と書いている通りである。

 航空宇宙工業会の展示のみすぼらしさは、関係者も認識しているらしい。3年前に航空宇宙学会のパネルディスカッションに出席した時、 「パリエアショーでなにが恥ずかしいって、まったくやる気が感じられない航空宇宙工業会の展示が恥ずかしかった」と言うと、横でパネラーとして出席していた三菱重工の方が、吹き出し笑いをした、ということもあった。

 MRJがモックアップまで出展した今年パリ・エアショーで、日本航空宇宙工業会はどうだったのだろうか、と思っていたら、某氏からこんなページを教えてもらった。

 「フランスよもやま生活記 自由な生活を求めて」より。パリで生活する日本人女性aqqueさんのBlogである。

 2007年ではなく2005年でした。

 パリ・エアショーで、「日本*****という財団法人」の受付で働いたという話である。パリ・エアショーに日本の財団法人は出ていないので、これは間違いなく社団法人・日本航空宇宙工業会であろう。

 核心は パリ エアショー裏話1に書いてある。

みなさん、天下りの人たちだろうと思います。

*肩書きが同じ人が多すぎて、どういう位置づけかわかりません。
(副会長だけで3人、専務(vice president)だけで3人、部長も何人いるんだか・・・など)

*こちらが「おはようございます」と挨拶をしても、挨拶は返さない。

*名前を覚える気がない。(「女性の方たち」でひとくくり)

*陰でこそこそ悪口を言う。

*会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる。
→これって、フランスではあまり考えられないことなんですよ。
だからかもしれないけれど、わたしたち女性軍が人(地位)によって態度を変えないことに、彼らはまた腹が立っていたのかもしれません。

(中略)
  やっぱりいわゆる本当にエライ人たちというのは、人間的に非常にできた人たちが多いので、とても謙虚だと言うことがわかります。
中途半端にエライ人、既得権を最大限に利用する人たちだけが、横柄な態度をとるのかな、と感じました。

 ここで、日本航空宇宙工業会を離れて一般論をしよう。主題は終身雇用組織が、組織中の厄介者をどう処遇するか、である。

 会社組織と所属する人にも相性というものがある。会わない場合、その人は組織内で「使いづらい奴」「役に立たない奴」と判定される。その中には、有能なのだが性格に問題がある、とか、上司に恵まれず能力を発揮できずに腐っているという人もいる。もちろん、本当の困ったちゃんもいる。

 終身雇用の世界では、そんな彼らを組織外に放り出すことができない。

 ではどうするか。道は2つある。一つは子会社に押しつけること。もう一つは業界団体など、関連する外部団体に押し込むことである。

 前者の場合、子会社社長になって阿鼻叫喚の惨状に、などということもままある(大抵の場合「ヒトラー」とか「アミン」といった独裁者のあだ名が付く)。ただし、この場合はまだましな人材であることが多い。

 子会社は本社と利益共同体なので、あまりの惨状になると本体の経営に差し支える。このため、本当にどうしようもない奴と判定された者は、業界団体に出される場合が多い。

 送り出す側は、困ったちゃんがよろこんで業界団体に出て行くように腐心する。大抵は「業界団体から大所高所の見地で、業界を指導してもらいたい」などといって送り出すことになる。

 そして困った人の多くは洞察力と自省心に欠けているので、「そうか、俺は偉くなったんだ」と錯覚して、業界団体にやってくることになる。そうなると、「この人は本当に社会人なのか?」とびっくりするような横柄な態度を取ったり、稚拙なウソをついたり、相手に応じてころっと態度を変えるような素敵なおじさまの一丁上がり、ということになる。
 中には会社を離れて、うってかわって水を得た魚のごとく働き出す例もあるが、誰もがそうなるというわけではない。

 ちなみに私が過去の取材経験でぶつかった最悪の例。

 もう時効だろうから書くが、1997年に「H-IIロケット上昇」を書くとき、私は当時のロケットシステム社長にインタビューしようとした、別の席でお会いした時に本人の了解も取り付け、一応会社に話を通しておかなくてはな、と電話したら、まさに素敵なおじさまにぶつかってしまったのである。

 彼は名乗りもせず、鼻息も荒く私を断罪した。
「あなたは何者ですか。社長があなたのような人に会うわけがないじゃないですか。ダメです。お断りいたします。取り次ぎなんてとんでもない」
 いくら社長本人の了解を取っていると説明しても、ダメの一点張り。そのうちに、「あなたは何の権限があって社長に会おうというのですか」と言い出したので、こりゃダメだと思って電話を切った。
 「完全に、社長に会う人をコントロールするという権限に酔っているな」と思った。無能の人が、与えられた職務上の権限を自分の能力であると錯覚するのは、よくあることである。
 私は結局、社長のインタビューをあきらめた。

 ずっと後になって、ロケットシステムの重役に「こんなこともありました」と話したことがある。重役氏は、私が名前も知らない素敵なおじさまが誰であるかを一発で理解したようだった。
「彼は元の会社に返しました」
という返事が、即座に返ってきたのであった。

 もちろんそれがいかなる団体であっても、よく働く有能な人はいる。そういう人がいないと、そもそも組織は回らない。

 とりあえずaqqueさんのBlogから推察するに、日本大使館で開催されたMRJレセプションには、「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していたのだろう。

 正確には「今年のパリエアショーにおいても、MRJレセプションに「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していた可能性が高い」です。

 私は、MRJが心配である。

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2007.09.21

続・MRJ、大丈夫か?

 昨日の記事のコメント欄で、大石英司の代替空港でのMRJの記事、および記事の主題であるパリ日本大使館レセプション(三菱重工ニュース)へのリンクを教えてもらった。

 大使館でレセプションを開くのはいい。日本大使館でMRJのレセプションがあるということは、MRJ開発を日本政府が支援するということは暗黙に示す意味がある。その分MRJの本気の度合を海外に示すことになるわけだ。

 問題は、レセプションにどれだけユーザーであるエアライン関係者、そして重要なのは海外専門メディアの記者を呼んでいるかということだ。

各国エアラインの幹部など日米欧を中心とした航空宇宙産業関係者多数のほか、経済産業省から片瀬裕文製造産業局航空機武器宇宙産業課長が、また当社から西岡喬取締役会長が出席。総勢267人規模の盛会となった。

 というのだが。

 267人というのは、まあまあの規模だ。うち、エアラインとメディア関係者が何人ぐらいだったかが気になるところ。エアライン関係者の重要性は言うまでもないが、メディア関係者というのは説明が必要かもしれない。

 MRJは、いまだ海外では無名だ。その知名度を上げるには海外専門メディアへの露出を増やす必要がある。露出を増やすには重工首脳部がメディアと接触し、記事になるような発言をすることが必要。そして、メディアをまとめて相手にする場としては、このようなレセプションが最適なのだ。

 レセプションには西岡三菱重工会長が出席したということなので、西岡会長の回りに内外の航空専門メディアの記者が群がり、会長発言を記事にするというのが望ましい。重工首脳部としても、リップサービスでいいから、メディアが一本の記事にしやすいような発言を心がける必要がある。もちろん英語、ないしフランス語で発言するべきところだ。

 大石氏のレポートだと、どの程度メディアを呼んだか、かなりあやしいような気もする。これが内輪向けレセプションだったら、単なる大使館備蓄ワインの浪費以外の何物でもない。

 一見してひがみっぽくも読める大石氏の記事だが、もしも広報部なり工業会なりが作家の大石氏をメディアとして認識していなかったのだとしたら、それは思い違いだ。

 小説に登場するメカが、時としてその一般へのメカの印象すら決める(ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」におけるシトロエンDSのように)。だから当然、作家もレセプションの招待リストに入れておくのが、広報部の仕事だろう。

 このクラスのパーティだと、参加人数が数人増えたところでどうということはない。大石氏を参加させたことで、例えば氏の次回作にMRJが少しでも登場すれば、宣伝費として安いものである。

 そういう計算を、重工広報部ができていたかどうか。

 とりあえず、航空宇宙工業会から、パリに出張した者は皆出席したんだろうなあ、というところで次回に続きます。

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2007.09.20

MRJ、大丈夫か?

 三菱重工業が、YS-11以来の国産旅客機「MRJ(Mitsubishi Regional Jet)」の開発に乗り出そうとしていることは、多くの人がご存知のことと思う。

 開発にゴーサインはまだ出ていないが、今回三菱重工はかなり本気のようだ。やっと航空ニッポン復活となるのだろうか。

 私は、かなり危惧している。旅客機市場はそんなに甘い世界ではないというのもあるが、それ以上に三菱重工の営業に不安感を抱いている。

 私の漠然とした不安感を補強する記事を見つけたので紹介する・

 「航空の現代」という航空の世界では有名なホームページがある。作者の西川渉氏は、朝日航洋の代表取締役専務まで務めた、リージョナルエア、すなわち地域航空のプロ中のプロだ。

 その西川氏が今年7月2日付けで、<パリ航空ショー> 三菱リージョナルジェット という記事を公開している。今年のパリ航空ショーに、三菱重工はMRJのモックアップを出展した。西川氏は航空ショー会場で、モックアップ内部を見学しようとした、その時の記録である。以下少し長くなるが引用しよう。

 川崎重工の向こう側では三菱重工が計画中のリージョナル・ジェットMRJのキャビン・モックアップを展示していました。実物大のコクピットと胴体部分を模したもので、非常に立派です。ところが、内部を見せてほしいというと、断られたのです。今日からパブリックデーなので、機内に人をいれるとキリがないからという理由です。

 しかし今日はビジネスデーでもあるし、第一そんなに人が詰めかけているわけでもない。周囲には誰もいないじゃないかというと、特別な人以外は見せられないという。なんだか「馬の骨」呼ばわりされたみたいで、確かにそうには違いないが、やっぱりカチンときた。無論こちらは最初から名刺を出して名乗っているわけです。

 こんなに立派なモックアップをわざわざつくって、はるばると日本から持ってきて、おそらくは高い料金を払って会場に展示しているのでしょう。にもかかわらず、内部を見せるわけにはゆかぬとはどういうことか。展示の意味がないではないかと押し問答をしていると、三菱の若い社員に代わって年配の女性が出てきました。そして、こちらの話を聞くと、しばらくお待ちくださいと言って引っ込み、やがてデザイナーを名乗る人物が登場しました。いずれも日本人です。

(中略)

 こうした規制というのは警察や国家のやりたがることで、何かの秩序を保つには必要なことですが、人に見せるための展示をしながら見せないというのは、どう考えてもおかしい。どこかに秘密があるのなら最初から展示しなければいいわけで、三菱重工の妙にこわばった権威主義を感じさせられました。平たくいえば「もったいぶるな」ということです。

 パリにMRJモックアップを持っていったのは、三菱重工の経営判断だったのか、それとも営業サイドの意向だったのか、いずれにせよ、この対応はあまりにひどい。

 まず、出てきた「三菱の若い社員」が、西川氏の名前を知らなかったということが信じがたい怠慢だ。MRJは、ミツビシ・リージョナル・ジェットだ。Googleで「リージョナルジェット」と検索すると、トップに出てくるのは西川氏のホームページなのである!

 西川氏のページを少しでも読めば、「作者はこの分野に非常に深い見識を持っている」と分かり、「作者は誰だろう」と西川氏の名前で検索をかけるはずである。そうすれば氏の経歴も出てくるので、「なるほど、仕事上この人の名前は覚えておかなくては」と考えるのが自然だろう。

 それが「特別な人以外は見せられない」と対応をしたということは、「三菱の若い社員」が、自分の仕事についてネットで検索することもしなかったということを意味する。仕事に対する意欲が全く感じられない。

 それ以前に、なぜパリ航空ショーまでモックアップを持っていったのか、その意図は末端まで徹底していたのだろうか。

 より多くの人にMRJを知ってもらい、その性能とコストパフォーマンスを宣伝し、受注につなげるためだろう。パリ航空ショーは、飛行機が飛び回るただのお祭りではない。軍民を問わず世界各国の航空関係者が集まり、ついたてを立てたブースの中で様々な商談を行い、自らの優位をアピールし、ライバルをけ落とす宣伝すらする、熾烈な商売の場なのである。
 一般客に混じって、お忍びの各国関係者がいてもおかしくない、そういう場所なのだ。

 モックアップなど汚れても壊れてもいい。直せばすむのだから。もったいぶるよりも一人でも多くの人にモックアップを体験してもらい、意見を聞くと同時に、「三菱は本気で旅客機を開発するつもりだぞ」と思わせることが重要なのだ。

 それが、「特別な人以外は見せられない」とはどういうことだろうか。西川氏の体験は、ビジネスデーに起きている。一般客は入場しておらず、会場内は航空関係者と出展者、そして報道関係者が大部分だ。
 やってきた各国の報道関係者にも「特別な人以外は見せられない」と言ったのだろうか。

 もしそうなら、つれなくされた報道関係者は、自国に戻り、「ミツビシはモックアップも見せてくれなかったよ、ケチだな」と言って回ることになるだろう。それが、MRJの国際的なイメージにどれだけのダメージとなるか、想像できているだろうか。

 一般公開日はどうだったのだろう。特別でない一般客がいくら来ても「特別な人以外は見せられない」という対応だったのだろうか。
 それら特別でない人が、将来MRJが就航した暁には、乗客として乗ることに、思い至っていただろうか。その時、「自分はパリで初めてこの飛行機のモックアップにすわったんだぜ」と考えることが、どれだけ三菱のイメージを高めるか、考えはしなかったのだろうか。

 パリまでモックアップを持っていって、対応を間違って悪印象を振りまいて、どうするというのだろうか。

 2003年にパリ航空ショーに行った時に見た、中国のリージョナルジェット旅客機「CRJ」の展示を思い出す。ものすごい熱気で、「買って下さい、買って下さい」と迫ってくるようだった。もちろんモックアップも全日公開である。

 そんな奴とMRJは市場で戦うのだ。戦う前の宣伝で負けていてどうするというのだろう。

 西川氏は、続三菱リージョナルジェットという記事も書いている。

 テレビや新聞は三菱の宣伝文をなぞって、これが如何に素晴らしいプロジェクトであるかを喧伝するが、絵に描いた餅ではどうにもならない。パリ航空ショーの現場では「こんな遠いところまで、朝早くからようこそ来てくれました。どうぞ、ご覧下さい」といった姿勢は、広報の美辞麗句とは逆にどこにも見られなかった。

 そうした姿勢はむろん現場の問題ではなく、上層部の熱意の程を反映し、税金を投入する日本政府の考えを映し出したものであろう。そこには何とかして、この飛行機を売りたい、買って貰いたいという背水の気迫は少しもうかがえないのである。

 この西川氏の意見に、私も同意する。

 三菱重工は官需主体のメーカーだからだろうか、営業部門がどうにも鈍重な印象を受ける。
 経営に失敗し、会社を閉じたロケットシステムも、三菱重工から営業出身の社長が来ていた。だが、同社が、営業的に目が覚めるような活動をしたという記憶はない。

 私としても、MRJで三菱重工が久し振りに意欲を出していることは素直にうれしい。1962年のYS-11初飛行から45年、1983年の日本航空機製造の解散以降24年もの時を経て、また旅客機を日本で作ろうという動きが出てきたことは、大きな意味があると考えている。

 それでも、パリでのこの振る舞いを知ると、「本当に大丈夫か」と、暗澹たる気分になるのだ。

 これでは勝てる戦いにも負けてしまうだろう。技術で負けるのではない。営業の基本ができていないことで負けるのだ。

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2007.07.14

連絡:明日のネイキッドロフトは、天候に関係なく決行です

 先ほど連絡がありました。明日15日のネイキッドロフトのイベント「宇宙基本法を考える」は、台風4号の進路如何に関わらず、決行です。ロフト側曰く、「ウチは休んだことないんです」。

 私もまた、何がなんでも明日は東京に行かねばならなくなりました。

 台風が吹き荒れるどまんなかで、宇宙基本法を語るというのも、まあ、それはそれで面白いかと思います。

 というわけで気分は「台風クラブ」です。中学生のようにハイになって、あれこれ語ることにしましょうか。

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2007.07.11

宣伝: 7月15日(日曜日)、ネイキッドロフトのイベントに出演します

 7月15日(日曜日)、新宿・職安通りにあるネイキッドロフトのイベントに出演します。「ロケットまつり」とは大分趣が違う、政治やビジネスに踏み込んだ話になるはずです。


「宇宙基本法」を考える

 今年秋にも成立か?という「宇宙基本法」。宇宙の軍事利用に道を開くと言われたり、日本の宇宙産業の発展に不可欠と言われたりしているけれども、実際の所どんな法律なのか?その狙うところは?問題点はないのか?
 法案に反対の石附助教と、基本賛成だけれども色々問題点ありとする松浦がぶつかる、本音のバトルトーク。

【出演】石附澄夫(国立天文台電波研究部・助教)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)

7月15日(日曜日)
場所:ネイキッドロフト:東京都新宿区百人町1-5-1 百人町ビル1F 03-3205-1556
地図:いつものロフトプラスワンとは別の場所です。

OPEN18:00/START19:00
前売¥1,000(+1drinkから)
当日¥1,200(+1drinkから)
※前売券は電話予約のみで受付中!(1人につき2枚まで)
[予約・お問合せ]新宿ネイキッドロフト(03-3205-1556)

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2007.07.02

天下りと人間の尊厳を考える

 SAFTY JAPANこんな書評を書いた途端に、テレビでは例のイギリス人英語教師殺人事件を超能力者が透視するという2時間スペシャルをやったそうで……私は見ておりません。まず間違いなく透視結果は外れるでしょうから、録画した方は、事件解決時まで取っておきましょう。

 というのはともかく、同じSAFTY JAPANで、森永卓郎さんが「公務員法が成立、それでも天下りはなくならない」という記事を書いている。
 天下りの構造について、私から付け加えることはなにもない。今度の公務員法改正で、天下りはなくならないとする森永さんの意見にも賛成だ。

 ここでは、天下りする人の心理について、ちょっと書いておこう。

 私は、天下りした側もされる側も複数取材した経験を持っている。
 一つはっきり言えるのは、天下りされる側は誰一人として「ウエルカム天下り」なんて考えてはいない。引き取らないですむなら、なるべくそんなものは引き取りたくないと考えている。官の側が引き取らないとペナルティをつけてくるから、仕方なく引き取っているのである。

 某電機メーカーの偉い人から、愚痴を聞いたことがある。「元NASDA(もちろん旧宇宙開発事業団のことだ)で理事やった○○さんね、いい人だし、現役の時は僕も彼と一致団結して日本の宇宙開発をものにしようと官も民もなくがんばったものだよ。○○衛星は彼と協力したから実現したようなものなんだ。それでもウチの会社に天下って来たら、これがもう新聞読むことしかしないんだよ。彼一人に年間いくらかかっているか、とは考えないんだよねえ」

 大ざっぱな計算だが、天下りの年収が1000万円とすると、オフィススペースの維持や秘書を付ければその人件費、さらには交通費などで、年間ほぼ同額のコストがかかる。例えば重役待遇で年収2000万円の天下りを引き受けると、実際にかかるコストは4000万円というわけだ。
 企業は慈善事業ではない。年間4000万円で天下りを引き受けるということは、引き受けることによって年間4000万円以上の利益の出る仕事が官からもらえるということを期待するわけだ。

 「そんなことはない。使える有能な人材が来ることもあるのだろう。その場合は4000万円も利益が出なくても得と言うことになる」と考える人もいるだろうが、それは甘い。
 天下りは、基本的に下られる側に選択権はない。「そんな人要りません」とは言えないのだ。だから天下りを受け入れる側はもっとも堅い計算をする。つまり、天下りでやってくる者が全くの無能であっても損をしないところを狙うのだ。

 それでは、天下る側の心理はどうなのか。

 これが面白いところなのだが、必ず「みんな私によくしてくれて、私の周りで一致団結してくれた」などとと言うのだ。

 私は、中央官庁で事務次官やらなんやらを経験して、複数の天下り先を回った人にも、複数人インタビューしたことがある。そんな人たちに「天下り先ではどんな仕事をしましたか」と問うと、いくつかの事例が出てきて、例外なく「ここの人は『○○さん(ここに自分の名前が入る)のためだ』と、一肌脱いで頑張ってくれたんですよ」というような話になる。

 天下られる側からは、「ウエルカム」というような話は一切でない。「困ったもんだ」という話しか出てこない。これは「官→民」というパターンのみならず、「官→傘下の特殊法人や財団法人や独立行政法人」、あるいは「官傘下の法人→民」、というパターンでも一緒である。

 にも関わらず当人は、私が会った限り一人の例外もなく「ここでは私に良くしてくれて」と語ったのであった。

 いったいどういうことか、

 簡単な話であって、天下っている当人も自分が嫌われていることに、無意識のうちに気が付いているのだ。しかしそれを意識し、認めることは、プライドが許さない。だから「みんな私を信頼してくれて、よく頑張ってくれた」というように、自己欺瞞へと逃げ込むのだ。
 自己欺瞞に逃げ込んで夢の世界に生きる代償が、天下りの安定した地位と結構な額の退職金というわけである。

 天下られた側も、天下りの自己欺瞞を維持するのに苦心する。「やっぱり俺のこと嫌ってるんだろ」とウサギのようにおびえる天下りよりも、「良くしてくれるねえ」とにこにこしている奴のほうが、担ぐに当たってはずっとましだ。
 もちろん「ここでは嫌われた」と親官庁に報告され、天下りがこなくなり、その分仕事が減ったなどということは避けたい。「ええ夢みてもらって、次の天下りの椅子に気持ちよく送り出す」ほうが、仕事の面でも得というものである。


 私思うに、天下りという仕組みは二重の意味で人間の尊厳を踏みにじるシステムである。
 まず、天下られる側の「頑張って仕事をすれば自分の組織のトップになれる」という希望を打ち砕く。
 そして天下る側は、「本当は嫌われている」という実態におびえつつ「みんな良くしてくれる」という自己欺瞞に逃げ込まざるを得なくなる。これもまた、人間の尊厳のかけらもない悲惨な心理である。

 今現在、天下りの椅子に座っている人は、ここを読んでいるだろうか。
 私の取材経験から言えば、貴方はまず間違いなく周囲から蛇蝎のごとく嫌われています。周囲は、あなたと事を起こすと面倒だから、「はい、はい」と言っているだけです。
 もしも貴方が仕事のできる人ならば、「仕事はしっかりしているからまあいいか」と認められているだけです。決して好かれているわけではありません。「仕事はできるけどうっとうしいなあ」「あいつがいなけりゃこれだけ経費が浮くんだけどなあ」と思われています。

 いずれ、天下りを我が事として考えねばならない官庁の方は、ここを読んでいるだろうか。
 皆さんのかなりの部分(全員とは言いません)が優秀であることを私は知っています。中央官庁が決して高給ではないことも知っています。時として理不尽な働き方を強制されることも承知しています。事務次官経由以外の天下りは、事実上出世レースからの脱落であることも知っています。
 それでも、官庁生活の果てに「少しは楽をしないと」と天下りを望むことは、自己欺瞞に満ちた後半生を送ることであると指摘しておきます。だれもあなたを必要としていないのに、「自分は必要とされている」と考えて生活するのは、あなたにとって幸福なことでしょうか。収入のためには仕方ないことでしょうか。

 私は、天下りの根絶は、単に民間のためのみならず、今現在中央官庁で汗を流して働いている現役官僚達の、ごく原始的な人間の尊厳にとっても必須であると考えている。
 早いと四十代後半から天下りが始まる。多くは子どもが学費の一番かかる年齢にさしかかっており、家計の面から、秘書課の差し回す天下りを受け入れることとなる。
 つまり天下りを官僚のライフサイクルの面から見ると、人間の尊厳を差し出して収入を安定させる、一種の奴隷制なのだ。

 森永卓郎さんの記事の中で、片山虎之助自民党参院幹事長が「国家公務員には身分保証があるんだよ。そうした身分保証があるなかで、あえて辞めてもらうのだから、人材斡旋機関を設けて再就職の面倒を見てあげなければまずいだろう」と語ったと出ている。

 片山幹事長は、官による斡旋がそもそも人間の尊厳を損なう奴隷制であるとは、夢にも思っていないのだろう。

 最近は、私よりもずっと若い官僚に会うことも増えた。中には、キューブサットを初めとしたまさに「本番」の宇宙開発を経験して、なおも官僚の道を選んだ人もいる。
 私は、彼らが独立自尊で生きる、真に「国民のために働く人」となってくれればと願っている。人間としての実力を付け、秘書課が差し回す天下りの斡旋に「私は私で生きられますから」と言い切れる人になってくれればと、期待している。

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2007.03.31

道路交通法改正案を読む

 私が復帰したら、すぐにコメントが付いた。話題は、昨年来の自転車の歩道走行問題だ。

 この件に対する疋田智氏の反対運動を、「政治的意図に基づく陰謀」とする主張である。警察庁は終始一貫しているにもかかわらず、それに難癖を付けたというわけだ。

 私が更新を止めている間に、警察庁から、道路交通法改正案そのものが公開された。

・「道路交通法の一部を改正する法律案」について[H19.3.2 掲載]
 [条文] PDFファイル
 [新旧対照条文] PDFファイル

 問題となっている自転車の歩道走行について、改正案の具体的な条文は以下のようになっている。

第六十三条の四 普通自転車は、次に掲げるときは、第十七条第一項の規定にかかわらず、歩道通行することができる。ただし、警察官などが歩行者の安全を確保するため必要があると認めて当該歩道を通行してはならない旨を指示した時は、この限りでない。

 これに続いて、歩道走行の用件を「交通標識で指定されているとき」「児童、幼児などが運転しているとき」「車道または交通の状況にてらして自転車の安全が確保できないと認められるとき」と定めている。

 警察官が指示できるのは「歩道を降りて車道を走行すること」であり、「車道から歩道に乗る」ことではない。
 基本的に警察庁は「自転車は原則車道を走る」という基本に戻って自転車の交通安全を確保する方向に踏み出したといっていいだろう。

 ところで、昨年11月30日時点の「自転車の安全利用の促進に関する提言」で、警察庁はどのような態度を示していたかを思い出そう。

「自転車の安全利用の促進に関する提言」 [H18.11.30 掲載]

問題となっている提言4.2.4をもう一度読んでみよう。

上記の環境整備にあたっては、
○ 自転車道や車道における自転車の走行環境の整備状況に応じ、自転車歩道通行可の規制を解除すること
○ 自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること

など、個々の道路について交通環境の変化に応じた交通規制を実施するよう配慮する必要がある。

 これは一見平等な両論併記に見えるが、一つめの○は現行道路交通法の枠内で対処可能であり、これは新たな主張でもなんでもない。つまり法案の改正になんの影響も及ぼさない。
 問題は二つめの○にある。これは、現行道路交通法にない規定を作るということである。

 つまり、警察庁は昨年11月時点では、「自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること」という内容の条文の追加を考えていたことを意味する。

 それが、実際の改正案では「普通自転車は、次に掲げるときは、第十七条第一項の規定にかかわらず、歩道通行することができる。ただし、警察官などが歩行者の安全を確保するため必要があると認めて当該歩道を通行してはならない旨を指示した時は、この限りでない。」ということになった。

 提言がそのまま条文になるとすれば「ただし」以下は、「また、自転車が車道を通行することが特に危険な以下の場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずることができる」とならねばいけないはずなのだ。

 警察庁は、今年2月の記者会見で、「誤解に基づくパブリックコメントが多数集まった」とした。
 しかし昨年11月の「提言」と今年3月の「道路交通法法改正案」との間に存在する内容の変化は、警察庁が「自分たちは首尾一貫している」とする彼らの主張とはうらはらに、「誤解に基づくパブリックコメント」で、態度を変えたことを示している。

 私は、上記の事実を「警察庁は、当初自転車を歩道に上げることを考えていたが、パブリックコメントの結果で方針を転換し、自転車の原則車道走行に方針転換した」ことの証拠と考える。

 疋田氏の主張は、政治的意図を持つ陰謀でもなんでもなく、正鵠を射た的確なものだったということだ。

 この件を、今も「陰謀だ」と考えている人は、ここに示した警察庁ホームページにあるオリジナルの文章を読んだ上で、もう一度自分で考えてもらいたい。

 このことは何度書いても強調しすぎることはないだろう。オリジナルに当たり、きちんと読み込み、自分の頭で考えてみよう。


 さて、以下は蛇足。

 物書き商売をしていると色々なところから情報が入ってくるものだ。
 ニュースソースを秘匿しなければならないので「警察庁が態度を変えた確たる証拠」として、ネットに出すわけにはいかないのだが、私は信頼できる筋から「警察庁幹部が事前に自転車メーカーに対して、『自転車は主要道路で歩道に上げる』とはっきり言い切った」と聞いた。
 「これが証拠だ」と、提示できないので、とりあえずひとつの判断材料としてもらいたい。

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2007.02.17

公文書を読む

 種子島に来ている。

 ご存じの通り、H-IIAロケット12号機は2月16日に打ち上げ予定時刻直前に天候悪化で打ち上げ中止になってしまった。さあ、次の打ち上げまで島で仕事をしながら粘るか、あきらめて帰るか。思案のしどころである。

 前回書いた、自転車の車道通行禁止問題は、相当数のパブリックコメントが集まったそうで、そのせいかどうかは不明ながら警察庁は態度を変えた。基本的に自転車専用レーンの普及へと方針転換したのだ。詳細は疋田智氏のメルマガを読んでもらいたい。

 今回のことからもわかるように、国のやることに対して無力感を持たずに、きちんと意見を出すことは非常に重要だ。「はやぶさ2」予算についても、JAXA自身が折衝の過程でゼロにしたものが、文部科学省の力があったとはいえ、1/10だけでも復活したにあたって、私は、皆さんのメールが幾分かの力を発揮したのだろうと思う。


 ところで、自転車の件については、様々なコメントやトラックバックをもらった。その中には、今回疋田氏が提唱した運動に疑問を投げかけるものもあったし、そもそも自転車の将来性を疑問視するものもあった。

 私から見て目立ったのは、「そもそも警察庁の出した文面は、疋田氏が主張するように読めない。疋田氏は文面を歪曲して解釈している」というものだった。

 確かにそう読めるのだ。常識的には。

 だが、「常識的」というのがくせ者なのである。

 ちょうど良い機会なので、ここでまとめておこう。


 官僚の作文において、「常識的にどう読めるか」は意味を持たない。

1)常識をいっさい働かせずに、その文章の文脈と論理のみではどう読めるか
2)その文章の前にどのような文章が公式文書化されているかという脈絡

のみがすべてである。

 常識で色々補って読むと、官僚の思うつぼにはまってしまうのだ。

 私の見るところ、疋田氏は官僚の作文の読み方を理解した上で、今回の運動を起こしている。対して、「疋田氏は警察庁の文書を歪曲解釈している」と指摘する向きは、官僚作文の読み方を知らず、常識で読み解いてしまっているのである。


 今回、問題になった文章は以下の通り。

「道路交通法改正試案」に対する意見の募集について

 提案の趣旨は以下のpdfファイルにまとまっている。
「道路交通法改正試案」に対する意見の募集について

 問題の文面は、全部で19ページのファイル中、9ページ目に記載されている。



3 自転車利用者対策の推進

(1) 通行区分の明確化

現在、自転車は、車道通行が原則とされ、例外的に道路標識等で通行することが認められている場合に歩道を通行することができることとされていますが、必ずしもこれによらず、自転車の歩道通行が言わば無秩序になされている状況が見られます。

そこで、自転車の通行区分について、車道通行の原則を維持しつつ、道路標識等により普通自転車歩道通行可の規制がなされている場合のほか、児童(6歳以上13歳未満の者・幼児(6歳未満の者)が普通自転車を運転する場合、車道を通行する)ことが危険である場合等と、普通自転車が例外的に歩道を通行することができる場合の要件を法律で明確に定めることとします。

一方、歩道通行が認められる場合であっても、歩道における歩行者の安全を確保するため必要があると警察官等が判断した場合には、当該普通自転車の運転者に対して当該歩道を引き続き進行してはならない旨を指示することができる(指示に違反した場合には、処罰の対象となります)こととします。

 一般社会の常識でこの文章を読むならば、「車道通行の原則を維持しつつ」とあることから、「ああ、車道通行を維持するんだな」と読んでしまうことになる。疋田氏の呼びかけに対する批判者は、この文章を読み「いったいこれのどこが自転車の車道通行禁止と読めるのか」と言っているわけだ。

 では、この文面を「官僚作文の正しい読み方」で読み解くとどうなるか。


1.まず、「先行する文書との関連」を見てみよう

 今回の道路交通法改正にあたっては、先だって「自転車の安全利用の促進に関する提言」が出ており、それを受けての改正という形をとっている。

 有識者を集めて委員会を立ち上げ、委員会における議論をコントロールして都合の良い内容の提案を作り、「有識者の皆様がこういっているので、それに沿って法律を作ります」という形で法改正を進める――これは官僚の常套手段だ。覚えておいて損はない。


「自転車の安全利用の促進に関する提言」(平成18年11月30日)は、以下のリンクから読むことができる。

警察庁、安全・快適な交通の確保:提言などが掲載されているページ

 まず「要旨」を読んでみよう。該当する部分は2の(2)だ。

(2)歩行者の通行の安全確保に配慮し、歩道上での自転車の通行方法をより明確にすること、指定された自転車の通行部分には歩行者もできるだけ立ち入らないようにすることなど、特に歩道における自転車と歩行者の共存を図るための実効性のある具体的なルールを定める。
 また、幼児や児童を始め、自転車利用者に対し広くヘルメットの着用を促進する。

 「ほらみろ、ちゃんと自転車と歩行者を分離するという趣旨になっているじゃないか」と思うかもしれない。

 しかし、まずこれが「要旨」であることに注意しなくてはならない。官僚は、反発が予想される内容についてはわざと要旨には入れないことがある。逆に要旨に入っていないのに、提言全体では大きく扱われるトピックがあるなら、それは官僚がこっそり通したいとと考えている部分だ。

 そしてすでに、この要旨の部分で自転車を歩道にあげてしまおうという意図がちらりと見えている。「特に歩道における自転車と歩行者の共存を図る」という部分だ。車道通行を基本とした自転車専用レーンを目指すなら「特に車道における自転車と自動車の共存を図る」と書かねばならないはず。なぜ歩行者と自転車なのか?


 次に「概要」を読んでみよう。これは、要旨をビジュアルかつ箇条書きに展開したものだ。該当する部分は、2ページ目の「1 利用目的・利用主体に応じた自転車の通行空間の確保(自転車の通行空間の在り方)」という部分である。

○ 自転車の車道通行の原則を維持
 * 自転車は車両の一種であり、走行性能等を発揮するためには、車道(又は自転車道)に通行空間を求めるべき
○ 普通自転車歩道通行可の規制が行われている歩道のほか、要件を限定し自転車の歩道通行を認める(児童・幼児が運転する場合、車道通行が著しく危険な場合等)
 * 子供や高齢者の利用、買物目的の利用等では、車両としての迅速性等は必ずしも求めておらず、安全の観点からは歩道通行の必要性


 これを「ほらみろ、自転車の車道通行を維持と書いているじゃないか」と読んでしまうと、官僚の術にはまったことになる。

 このまとめは「原則はこうだが、原則とは別に特別な例を認めるべき」という論理の流れで書いてある。こういう場合は後段に重みがかかっており、また書き手の意図も後段にある。
 ジョージ・オーウェル「動物農場」のスローガンと一緒だ。「すべての動物は平等であるが、一部の動物はより平等である」という奴。

 つまり、ここで官僚が主張した意図は「普通自転車歩道通行可の規制が行われている歩道のほか、要件を限定し自転車の歩道通行を認める」というところにある。

 「普通自転車歩道通行可の規制」は、1978年の道路交通法改正で緊急避難的に認められた、現在の歩道通行可の歩道を指す。だから、この文章は、現在の歩道通行に加えて、さらに自転車の歩道通行を許す、という意味である。

「でも、『要件を限定し』と書いているじゃないか」と思う人もいるだろう。「これなら、むやみやたらに自転車を歩道にあげるようなことはしないはずだ」と。

 実は要件はまったく限定されていない。

 限定の中身について「車道通行が著しく危険な場合等」という」という条件が入っていることに注目してもらいたい。

 誰が「著しく危険」と判断するのだろうか。

 答えは警察である。そして警察が「著しく危険だ」と判断したことに関する事前のチェック機構は、現在の行政システムの中にはない。

 この部分は、警察が恣意的にすべての道路を「著しく危険」とすることで、自転車をすべて歩道に上げてしまうということを可能にしているのである。本当に危険かどうかは関係ない。警察が「著しく危険」と判断すれば、そこは危険ということになるのだ。

 この提言に従って道路交通法を改正すれば、警察は自転車をいつでも全面的に歩道に上げることができる。そのための法的な根拠を、フリーハンドで得られることになる。


 こういう文書の読み方に、とまどう人も多いだろう。「そこまでうがち読みしないといけないのか」と思うかもしれない。「常識で読んではいけないのか」と。

 しかし、官僚の作文は常識で読んではいけないのだ。その文書にかかれた文面がすべてであり、その文面の論理を追っていくことで矛盾が生じなければ、それは正しいということになるのである。

 官僚は文書の作成を仕事としており、文書作成のプロだ。彼らは、文書の文言を操作することで行政を動かしている。そのことを軽く見るべきではない。
 プロの文書である以上、官庁の文書はその一言一句に至るまでに意味を持たせている。それを読みとれるかどうかは、国政を左右する重大問題なのである。

 ここまでを理解した上で、「提言」の本文を読もう。関係する部分は17ページ以降の「第4 自転車の通行空間・通行方法の在り方について」という章である。すると、だ。 2/18記:該当ページ数を間違えていたので訂正しました。



 自転車は、現行道路交通法でも規定されているように、車両の一種であり、その走行性能を発揮し、通行の安全性とともに迅速性・快適性を確保するためには、その通行空間は、専用の通行空間である自転車道か、又は車道に求められるべきである。このような考え方は、諸外国においても例外がなく(資料6)、ルールはクリア・シンプルであることが望ましいことからすれば、自転車の通行空間は(自転車道が整備されている場合は別として)車道に一本化すべきという考え方もあり得る。

 しかしながら、我が国における自転車利用の多様性、とりわけ、子供や高齢者の利用、主婦等による買い物や子供の送迎目的の利用等身近な生活における移動手段として自転車が幅広く利用されており、これらの利用主体又は利用目的においては、自転車に車両としての迅速性等の機能を求めていない場合も多いことを考慮する必要がある。

「原則は車道歩行で、国際的にも車道一本化だ。でも日本では自転車に迅速性は求められていない」という、ねじれた論理を展開している。道路環境が悪いから、多くの自転車ユーザーは自転車に迅速性を求めるのを諦めているというのが正しい理解だろう。



 こうした我が国の事故実態や道路実態、更に今後の高齢化社会の進展等を考慮すると、我が国において自転車を一律に車道通行とすることは現実的ではなく、車道通行を原則としつつ、一定の場合に歩道での通行を認める現行制度の考え方を今後も基本的に維持することが適当と考えられる。

 1978年の道路交通法改正で、緊急避難的に認めた自転車の歩道通行を、法的裏付けのもとに恒久的なものにしようとはっきり言い切っている。「30年間ほったらかしで、実態として定着したから、このまま行こう」というわけである。緊急避難を30年間も放置した責任については一切触れていない。



 さらに、我が国の道路事情を考慮すると、歩道の幅員が狭く自転車歩道通行可の規制は行われていないが、車道における自動車の通行量が多く、自転車の車道通行が著しく危険である場合も少なからず見受けられる。また、歩道について、通勤・通学時間帯等は歩行者の通行量が多く自転車の通行は適さないが、その他の時間帯は通行に支障がないような状況も多いと考えられる。このような場合に幅員の広さにかかわらず交通規制を実施したり、細かく時間を区分した規制を行う方法も考えられるが、道路標識等の設置により普通自転車の歩道通行を可能とする現行制度では、ある程度画一的な規制とならざるを得ず、自転車利用者の多様性や時間帯等によって変化する交通実態に対応することは困難である。

 これらのことを考慮すると、幅員等の要件を満たし自転車歩道通行可の規制が行われている歩道以外の歩道であっても、児童・幼児が運転する場合や自動車交通量が多く自転車が車道を通行することが危険な場合などには、歩道通行を認めても差し支えないのではないかと考えられる。

 じわじわと、自転車の歩道走行を拡大する意図がはっきりと出た文章であるといっていいだろう。


 そして問題の提言4.2.4となる。

上記の環境整備にあたっては、
○ 自転車道や車道における自転車の走行環境の整備状況に応じ、自転車歩道通行可の規制を解除すること
自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること(注:強調は松浦による)
など、個々の道路について交通環境の変化に応じた交通規制を実施するよう配慮する必要がある。

 この文面だけを読むと公平な処置に見えるが、ここまでの文脈をたどってくると、論旨の中心は強調部分にあることがわかると思う。
 前段の「歩道通行可の解除」は、緊急避難処置の解除であり、「自転車は車道」という原則に戻すにすぎない。しかし、強調部分は、「自転車の車道通行禁止」という新たな立法を必要とする処置である。つまり、警察庁が目指しているのは「危険な道路での自転車の車道通行禁止」であり、危険はどうかは恣意的に判断できるようにするということだ、と読みとれるわけだ。

 「提言」の文脈をたどる限り、これ以外の読み方はない。

 同時に、常識で読んでいくと、このようには読めないことも事実である。

 繰り返すが「官僚の作文に常識は通用しない。文書が論理的にどう読めるかだけがすべて」である。



2.「提言」をふまえた上で、パブリックコメント用資料を読んでみよう

 さて、有識者委員会からの「提言」が出たので、次は「提言」の趣旨を生かした形の法改正ということになる。

 官僚は形式上「提言」の趣旨からはずれた法案作成はできない。これは重要なポイントだ。彼らに立法の権限はないのだ。

 提言の内容が上記の通りである以上、改正法案は提言の趣旨に沿って読み解かなくてはならない。

 実はパブリックコメントを求めるに当たっての資料には、改正法案そのものは掲載されていない。警察庁側の解説が掲載されているだけである。

 再度、その部分を掲載しよう。

3 自転車利用者対策の推進
(1) 通行区分の明確化
現在、自転車は、車道通行が原則とされ、例外的に道路標識等で通行することが認められている場合に歩道を通行することができることとされていますが、必ずしもこれによらず、自転車の歩道通行が言わば無秩序になされている状況が見られます。
そこで、自転車の通行区分について、車道通行の原則を維持しつつ、道路標識等により普通自転車歩道通行可の規制がなされている場合のほか、児童(6歳以上13歳未満の者・幼児(6歳未満の者)が普通自転車を運転する場合、車道を通行することが危険である場合等と、普通自転車が例外的に歩道を通行することができる場合の要件を法律で明確に定めることとします。
 一方、歩道通行が認められる場合であっても、歩道における歩行者の安全を確保するため必要があると警察官等が判断した場合には、当該普通自転車の運転者に対して当該歩道を引き続き進行してはならない旨を指示することができる(指示に違反した場合には、処罰の対象となります)こととします。

 この記事の冒頭で、この文章を読んだ時と、印象が全く異なるのではないだろうか。この文章は「提言」を踏まえた上で読み解かなくてはいけないのだ。

 つまり、だ。「提言」の趣旨は「児童(6歳以上13歳未満の者・幼児(6歳未満の者)が普通自転車を運転する場合、車道を通行することが危険である場合等」の「車道を通行することが危険である場合等」という形で極力目立たないように記述してあるのである。もちろん目立って欲しくないからこう記述してあるわけだ。
 目立って欲しくない理由は、これこそが本音だからなのである。

 また、「一方、歩道走行が認められる場合であっても、」という文章は、提言4.2.4の「自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること」を、まるっきりケースをひっくり返して記述していることがわかる。

 ここは「提言」の文面を踏まえた上で「一方車道走行が認められる場合であっても、車道における自動車の安全を確保するため必要があると警察官等が判断した場合には、当該普通自転車の運転者に対して当該車道を引き続き進行してはならない旨を指示することができる(指示に違反した場合には、処罰の対象になります)こととします」と読まねばならないのである。

「えーっ、そうなのかよっ」と驚いたのではないだろうか。「そんな無理な読み方でいいのか?」と。

 しかし論理的にも手続き的にもこれ以外の読み方はないのだ。常識は通用しないのである。


 実のところ、この道路交通法改正案の文書は、官僚の作文としても、かなり無理目のアクロバティックなことをやっている。それだけ、彼らの論拠が薄弱であり、なおかつ警察庁としては、その根拠薄弱な法改正を押し通さねばならない事情が存在したということを意味する。

 警察庁の事情がなにかは、知らない。天下りの椅子の誘惑かも知れないし、有力議員のごり押しかも知れないし、そのほかになにかあるのかも知れない。

 今回はっきりしているのは、その無理筋の改正案に対して、疋田氏の運動により反対のパブリックコメントが殺到し、警察庁が態度を変えざるを得なかったということである。



3.公文書を読み解くにはどうしたらいいか

 今回、疋田氏がこの問題に気がつき、運動を起こし得たのは、日頃からこの分野の行政をウォッチングして官僚の動向を把握していたからだろう。

 日頃のウォッチングはとても大切だ。法改正の議論の流れは、それこそ庁舎内の立ち話から生まれることだってある。

 今回のような文書が出てきたとき、背後に存在する意図を読み解く方法をまとめておく。

  • 日頃のウォッチングを欠かさない
  • 公文書の流れを理解し、先行する公文書にも目を通す
  • 官僚は文書のプロであり、彼らの起草する文書には一言一句であっても意味があるということを肝に銘じておく
  • 公文書に常識による読み解きはは存在しない。文面の論理に矛盾がないことだけが重要である。
  • 矛盾のなさについては、先行文書との整合性も要求される。


4.ネットの言論に潜むわな

 今回のことで気がついたのだが――ネットの言論では、「ソース」が重要だとされる。主張の根拠を示せというわけだ。

 ところが、ソースそのものは、「ソースの読み方」は教えてくれない。従って読み方は「常識」によることになる。

 それは、今までにない言論の場を作り出したわけだが、今回の官僚文書のように、常識とは全く異なる読み方を必要とする「ソース」にぶつかると、途端に「誤読」を起こしてしまうことになる。

 私としては、最低でも日本の官公庁が発行する公文書については、その読み方がネットの常識となればいいと思う。



5.よくある質問と答え

 ここまでを読んで、出てくるであろうFAQをまとめてみた。

Q:なんで官僚の作文に常識が通用しないなどということになるのでしょうか。文章は常識で読むのが当たり前なんじゃないでしょうか。

A:一言でいうと、官僚には文書しかないからです。官僚は、選挙で選ばれたわけではありません。実際にものを作っているわけでもありません。
 彼らにできること、許されていることは文書を作成することだけです。彼らが仕事を遂行する根拠は文書にしかないのです。ですから、「文書がどう読めるか」は彼らにとって死活問題です。それを「常識」というあいまいで、時代と共に変化するものに頼ってはおれません。だからこそ「論理的整合性」が最重要視されるのです。逆に言えば、官僚が行政においてフリーハンドを得たいならば、論理的にそのように読める公文書を作成するしかないのです。
 このほか「いかようにでも読める玉虫色の文面」というのも、同じ目的で使用されます。


Q:「有識者を集めて委員会を立ち上げ、委員会における議論をコントロールして都合の良い内容の提案を作る」なんてことが実際に可能なのでしょうか。有識者の意見をコントロールするなんてことができるとは思えません。

A:できます。一番簡単な手段は、「自分にとって都合の良い意見を持つ有識者ばかりを委員に任命する」というものです。「そもそも問題の所在を理解していなくて、なんでもかんでも官僚の言うとおりの意見を言う有識者を選ぶ」というやりかたもあります。

 言うことを聞かない委員ばかりが集まった場合も、議論をコントロールする手段は存在します。委員会の事務局は基本的に官僚が担当します。有識者の議論をいちいち全部聞いた上で「では、次回までにレジメを作成してきます」とします。議事録要旨などもこれに入ります。
 この、レジメや要旨の作成過程で、「常識で読むと委員の意見が記載されているように読めるが、論理を追うと官僚の意見になる」という文書を作成するのです。そのために、彼らは一言一句を精査します。その文書が次回の委員会で認められたらしめたもの。後で文句を言う委員に対しては「でも、この文書にはこう書いてあります。認めたのはあなたですよ」と返すわけです。
 委員会を分科会に分割し、分科会レベルでは不満続出を許して、上位委員会に意見を集約する課程で、徐々にガス抜きをしていうことをきかせるという技も存在します。

 最終的な手段としては、事務局が委員の意見を集約する形で、全く委員の意見を無視した文書を作成するという荒技もあります。当然委員会は荒れます。事務局トップに不満を抑えきる力量があるかどうかが、この技を成功させるポイントです。
 私が実際に見聞した中では、1988年から1989年にかけて宇宙開発委員会で審議された、宇宙開発政策大綱の審議が、まさにこのパターンでした。分科会レベルでは不満続出、本会でも民間委員から異論反論が次々に出たのですが、事務局は「そんなことをやる予算がない」の一点張りで押し切りました。


Q:ある文書を読み解くに当たって、先行する文書が重要なのはわかりました。でも、先行文書を調べるのはそんな簡単ではありませんよね。どうしたらいいでしょうか。

A:官公庁の仕事のパターンを押さえておくと、先行文書の探索がいくぶん楽になります。官僚は「自分がこうだからこうする」という形で仕事をすることが許されていません。たとえ「自分はこうしたい」