2008.04.25

宣伝:4月28日月曜日、ロフトプラスワンのイベントに出演します

 「やりましょうか」というプロデューサー斎藤さんの一言で決まりました。

 先般、地球を離れて旅立ったA・C・クラークについて、百戦錬磨のSF成分全開の面子が語り倒します。多分私は聴き手に回ることになるでしょう。

宇宙作家クラブpresents
「アーサー・C・クラークを語る」
『2001年宇宙の旅』など数多くの作品で知られ、2008年3月19日に多くの人に惜しまれながら永眠したSF作家の巨匠、アーサー・C・クラークを追悼し、その多大な偉業を振り返る。

【出演】江藤巌(航空宇宙評論家)、金子隆一(サイエンス・ライター)、鹿野司(サイエンス・ライター)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)、他

4月28日月曜日
Open 18:30 /Start 19:30
¥1000(飲食別)当日券のみ

場所:ロフトプラスワン(新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2 03-3205-6864、地図)

参考記事:いずれ星の世界へ

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2008.04.24

書籍紹介:「中国動漫新人類」

 書評仕事で回ってきた本なのだけれども。あまりに面白かったのでここでも紹介する。中国における日本アニメ需要に実態を追った——だけの本と思っていたら、とんでもない。中国人のメンタリティの部分にまで降りていった本格的な分析書だった。

 テレビアニメというサブカルチャーが予想以上に大きな影響を中国の若年層に与え、それは権力構造を揺るがすまでになっているという内容だ。

 まず中国の大学生に対するフィールドワーク。男女問わず、ドラゴンボール、スラムダンク、セーラームーンなど、広範囲の日本漫画とアニメが若年層に巨大な影響を与えているのだという。

 続いて中国に置ける日本アニメ受容の歴史だ。最初は1981年の鉄腕アトム放映で、その後大量に放送されるようになる。ビデオCDによる海賊版、漫画本も海賊版が安く大量に出回るようになった。

 ターニングポイントは、1989年の天安門事件だった。中国指導部は、彼らからすればはっきりと思想性を読み取れるハリウッド映画を警戒しきびしく検閲するようになった。その一方で、開放経済政策で、国民に誰もが豊かになれる幻想を抱かせ、治安を維持しようとする。その中で、日本の漫画、アニメは「人畜無害」「この程度の子供だましに人民がうつつをぬかしてくれれば、好都合」ということで放置、黙認された。

 ところが中国政府は、例えば手塚治虫が鉄腕アトムに込めた深い思想を見過ごしていた。そう著者は指摘する。

 中国の子供達にとって「努力、友情、勝利」も「恋愛」も「自由」も、日本のアニメ、漫画の中で光り輝いているものだった。中国の若年層は、日本のアニメや漫画を通じて、民主主義を体感として学ぶことになった。

 同時に著者は海賊版の存在を積極的に評価する。海賊版が安く出回ることで、中国人民は貧困層にいたるまでが等しく日本のアニメ・漫画に触れることになった。海賊版のおかげで日本のコンテンツは中国で巨大な影響を持つことになった。

 同時に、安価な海賊版を買うことで、子供達は「自分がお金を出して自分の漫画、自分のアニメを買う」「自分で好きなものを選び取る」という資本主義の基礎を体で学んでいった。

 その一方で、著作権を厳しく管理したアメリカのコンテンツは、それ故に中国市場での影響力を失った。

 海賊版というのは、つまりヒットソングにおけるラジオでのへヴィ・ローテーションのような役割を果たしたということだ。

 話は江沢民による反日教育にも及ぶ。今の若い世代は反日教育で育っている。その一方で、日本アニメ・漫画は生活に浸透しており、彼らは2つのスタンダードを使い分けている。アニメもマンガも好き、でも日本の首相が靖国に参拝するのは許せない、というように。

 1989年の天安門事件以前、毛沢東から四人組に至るまでで中国社会のたがを締め付けていたのは「革命」だった。「反革命的」と烙印を押されると、それは社会的な、そしてかなりの場合、身体的な死をも意味した。こうなると人々はこぞって革命に奉仕する姿勢をみせ、他人を反革命的と告発することで自分は死から逃れようとする。それが中国政府への忠誠となり社会秩序をもたらした。

 天安門事件以降、毛沢東は死に四人組は失脚し、開放経済体制も始まっており、もはや「革命」はキーワードになり得なかった。その状況で社会を締め付けるために選ばれたキーワードが「反日」だった。根底には「抗日戦争を戦いぬいた共産党」という自己認識がある。このため中国人にとって「反日」は、共産党への忠誠と同義となる傾向があるのだという。

 今や中国政府は自らが行ってきた反日政策に縛られている。経済的には日本とうまくやらねばならない。しかし国民は反日教育の成果で、日本との宥和的政策を許さない。

 著者は今後、日本は戦略的に中国の若者を日本に招いて、漫画やアニメの分野での交流を進めるべきだと提言する。それもネットなどで反日的な活動をしている者こそを積極的に招くべきだ、と。反日青年達も、日本の漫画やアニメで育っているのだから、そこに理解の糸口がある。

——ううむ、なるほど。

 ただし調べてみると東京国際アニメフェア「中国アニメ産業事情」レポートという記事も出てくる。状況は急速に変化しつつあるようだ。何をするにしても「慎重に急ぐ」という難しい舵取りが必要になるようではある。

 著者の遠藤誉氏(筑波大学名誉教授)の略歴を見てびっくり。1941年に中国の長春(当時の新京、満州国の首都)に生まれ、帰国は1953年。
 長春に立てこもった国民党軍を共産党軍が包囲して長春市民に30万人の死者がでた、1948年の長春包囲戦を7歳にして生き延びた人だった。その体験を綴った「卡子(チャーズ) 出口なき大地 1948年満洲の夜と霧 」という著書(1984年読売新聞社刊、残念ながら絶版中)もある。

 こういう人が、サブカルチャーの領域で中国研究をやっているのか。すごい…これは「卡子(チャーズ)」も読まなくては。


| | Comments (1) | TrackBack (0)

2008.04.08

書籍紹介:「日本の『食』は安すぎる」(山本謙治著)

 やまけんの新著が出た。本人blogによれば売り上げ好調のようで、すでに再重版までかかったという。私のとやまけんの関係は、以前書いた通り

 本書の主張は単純だ。「安全で、おいしい食にはそれ相応の生産コストがかかる」——これだけである。やまけんはこの事実を消費者に突きつける。「安くて安全でうまい食を求めるなんて、それは虫がよいというものだ」。そう、安い食事には、かならず安さを実現するための裏があるのである。

 彼は、自ら農業を実践し、社会に出てからは日本全国の食料生産の現場を巡り、その上でこう考えるようになったのだろう。本書の大部分が、彼が巡った生産現場のレポートであり、どの現場の状況からも、安さを求める消費者からの圧力に応じようとして応じかねている苦悩が見えてくる。

 私も以前こんなことを書いているし、この主張には完全に同意する。

 これは想像力の問題だろう。

 地場のナマのほうれん草よりも安い冷凍ほうれん草には、それなりの裏があるに決まっている。ほうれん草を茹で、切りそろえ、冷凍し、パックするコストはどこに行っているのか——素材のほうれん草へとしわ寄せされているわけだ。

 かつて400円以上した牛丼を200円台で提供しようとすれば、それなりのコストダウンがあると想像するのは難しくない。

 ファストフードのハンバーガーのパティに、どれだけのコストがかけられているのか。自分で牛肉を買って作るハンバーグと比べれば、いくら、大量仕入れによるスケールメリットがあるとしても何かの仕掛けがあると思わざるを得ない。

 彼は問いかける。「おいしさも安全もタダではありえないのですよ」と。

 私には、その深層にはもっと大きな構図があるような気もする。

 牛丼が値下げ競争を始めたたしか1999年頃だったか、大学時代との友人と飲んでいた時のことだ。飲み屋のテレビでは、値下げした牛丼のニュースが流れていた。街頭インタビューを受けたサラリーマンが「やっぱり安いのはいいですね」などと答えている。

「こいつはバカか!」不意に友人が毒づいた。
「物価が下がるということは、次に賃金引き下げが起きるということだ。これは経済学の常識だよ。この男…」と、画面を指さし「自分の給料が下がることを喜んでいるんだ。バカだ、こいつ」

 彼は続けた。「これから、こういう連中の給料がどんどん下がっていく時代が来るんだ」

 経済学部出身の友人の毒舌を、私は「そんなもんか」と聞き流してしまったのだけれども、その後友人が予言した通りの時代となった。正規雇用は臨時雇用へと崩壊し、さらには法の網をかいくぐる偽装雇用まで発生、賃金は低下した。

 賃金が低下しても人は食べて行かなくてはならない。低賃金に陥った人々の食生活を、やまけんが憤る「生産者にしわ寄せを持っていく」格安の食品が支えていたのではないだろうか。

 一昨年から昨年にかけてキヤノンやら松下やらの偽装雇用が発覚した(この件に関して、私はこんな書評を書いている)。つまるところこれらの企業は、第一次産業からの収奪の上に収益を上げたということになるのではないだろうか。

 ここしばらくやまけんは、「食い倒ラー」として名前を売っていたけれど、この本でやっと本来の——私にはこっちが本来の顔だと思える——真摯に日本の食を考え、現状を訴える行動者としての側面をあらわにした。

 そうだ、やまけん、語れ。本当は僕らはどんなものを食べるべきなのか、どんな食生活が豊かな食生活なのか、未来に向けてどんな食文化を保持していくべきなのかを。


| | Comments (5) | TrackBack (1)

2008.04.07

書籍紹介:「音盤考現学」(片山杜秀著)

 音楽評論家の片山杜秀氏の本「音盤考現学」が出た。主に明治以降、日本人が西洋音楽と格闘し、作り上げてきた音楽について縦横無尽に語っている。

 本日読了。これが無類に面白かった。

 コンテンツが社会においてコンテンツとして機能するためには、「そのようなコンテンツが存在する」ということをある程度の数の人が知っていなくてはならない。
 知られていない情報は存在しないのと同然だ。J-POPの存在を知らない人は、そもそもJ-POPを聴こうとはしないし、「誰か他の歌手」と聴き進むこともない。

 この点でクラシック音楽はその他の音楽に比べて決定的に不利である。まず一曲一曲が長い。音楽の理解には繰り返し聴くことが必須だが、一曲が長いと自ずと繰り返しの回数は減る(マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」の冒頭は、映画「エクソシスト」のテーマ音楽となったので誰でも知っているだろう。では、あの素晴らしい「アンド・チューブラー・ベルズ!」というナレーションと共に高揚する第一部のラストはどうだろうか)。

 多くの人々に耳に音楽を届けるためには、テレビ・ラジオのような放送メディアでのヘビー・ローテーションが有効だが、曲が長ければローテーションの回数も減る。もちろん放送メディアは商業メディアであって、番組の枠を超えるような長い曲をそうそうかけることはできない。
 繰り返しができないから、ヘビー・ローテーションがかからない。ヘビー・ローテーションがかからないから、ますます知られない。知られないから、ヘビー・ローテーションにはならない。じり貧だ。

 ましてや邦人のクラシック系の曲となると状況は絶望的である。伊福部昭の音楽が人口に膾炙するまでに、ゴジラをはじめとした多数の映画音楽、そして30年近い時間が必要だった。

 従って、この分野は音楽評論家の役割が非常に大きくなる。単に演奏がいいとか悪いとかではない。その曲の魅力を的確にえぐり出し、知識のパースペクティブの中に曲を位置付け、読者を「この曲を聴いてみないか」と誘惑する、メフィストフェレスのような評論家が。

 片山氏の文章は、読者に対して「ほーら、これは面白いよ、聴いてごらん」と誘惑する力が非常に強い。その力の一部は、彼自身が邦人作曲家の音楽が大好きだという熱意にある。なにしろナクソスの「日本作曲家選輯」では、目が爆発するほど小さな活字にもかかわらず、CDケースが破裂するようなぶ厚いブックレットが必要になる、長大な解説を毎回書いているのだ。

 しかし、それ以上に重要なことは、彼が蓄積した膨大な知識だ。一つ一つはトリビアとしか思えない知識を組み合わせ、あっと思わせる構図を描いてみせるのである。

 團伊玖磨のオペラ「ひかりごけ」に刻印された三島由紀夫の姿を読み解いてみたり、東宝映画「大阪城物語」に伊福部昭がつけた音楽から、明治のお雇い外国人ルルーが作曲した「分列行進曲」を読み取り、その上で日本近代史において「分列行進曲」が表象したイメージを語り…あるいは社会主義リアリズムと戦前の大日本帝国が作ろうとした「国民詩曲」を並べて、その中に外山雄三を位置付けてみたり——片山氏の筆は縦横無尽に飛び回る。そして気が付けば「おおお、この曲が聴いてみたい」と思わされているのだ。

 思い出せば、私が邦人作品を聴き始めた30年以上昔、何人もの優れたメフィストフェレス的評論家が筆を振るっていた。

 札幌で同級生だった伊福部昭を作曲の道に引き込んだ“特大のメフィストフェレス”三浦淳史は、まだまだ現役で記事を書いていた。武満徹を語らせてはピカイチの秋山邦晴も元気だった。船山隆と武田明倫は新進の評論家だったし、ラジオをつければ柴田南雄がとつとつとしゃべっていた。私は彼らの文章を読み、ラジオ解説を聴き、NHK-FMの「現代の音楽」をエアチェックした。

 その後、しばらくの間、メフィストフェレス的評論家の系譜が絶えていた(そういえば秋山邦晴の訃報を、私は種子島でH-IIロケット4号機を見送った日に聞いたのだった)。

 さあ、片山杜秀という久し振りに出現した“特大のメフィストフェレス”の語りを読んで、「うう、この曲が聴いてみたい」と身もだえしてみよう。私がせっせと音楽を聴き進めていた30年前に比べれば、状況は大分良い。大抵の曲は、アマゾンでクリック一発。アマゾンになくとも、ほぼ間違いなくTower RecordやHMVには在庫がある。ものによってはiTunes Music Storeで見つかるだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2008.03.22

書籍紹介:小林泰三「天体の回転について」「モザイク事件帳」

 書評の仕事をやっていてうれしいのは、どんどん読むべき本が送られてくることだ。一方でつらいのは、読みたい本を読む前に書評候補の本を読まねばならないこと、その結果読みたい本を読む時間をとれなくなってしまうことだ。

 色々と本を贈呈されることもあるのだけれど、どうしても書評仕事が優先してしまい、なかなか読む時間を作れないということが多い。

 申し訳ないので、今後本を贈呈された場合、読んでなくてもどんどんここで紹介していくことにした。まずは、最近続けて出版された小林泰三さんの本を2冊紹介する。

 「あの小林泰三が」「こんな萌え系表紙で」「地動説を主張したコペルニクスの著作と同じ題名の本を出した」——これだけで著者の性格の悪さは分かろうというもの。「僕って抒情派ですから、こういうものを書いちゃうんですよね」といってぐふふと笑う顔が目に浮かぶ。内容は「海を見る人」と同じ論理性を重視したハードSFのようだ。ああ、早く読みたい。

 などと読まずに言っていたら、きっと肩すかしを食わされるのだろうな。

 小林さんについては冬樹蛉さんが、小林泰三は、その明晰な論理性とクールなルックスに反して、根が“いちびり”なのだと、見事な分析を行っている。私からこれに付け加えることはない。いつぞやの牛祭り(分からん人には分からんでしょうが、そういうことがあったのです)における見事なマタドールっぷりは、彼の頭の良さと脱倫理性(反倫理ではないところに注意)、そしていちびりを余すところなく示していたと思う。

 そういえば、冬樹さんが作ったデビルマンの替え歌で「小林君」というのもあったな。「オバケのQ太郎」(最初のアニメ化の時の主題歌)の替え歌もあって、確かこんなんだった(作者は田中哲弥さんだったか)。



ぐ・ふ・ふー

こばやーし君

ぼーくは小林泰三

あたまーのてっぺんに

手が三本、手が三本



 いやいや、こんなことばかり書いてはいけない。ハードSF愛好家としては、同年代で野尻抱介林譲治小林泰三と3人の作家が活躍していることは、とてもうれしく、ありがたいことだと思っている。

 基本的に小林さんはハードSFの人だと思うのだけれど、その強固な論理性は当然のごとくミステリーにも発揮される。こちらはミステリー短編集。アマゾンの書評を読むと、マッドサイエンティストに記憶障害の探偵、超天才殺人者といった面子が探偵役を務めるらしい。「密室・殺人」では、空前絶後のとんでもない探偵を登場させた彼のことだから、この本でも色々とひねりの効いたことをやっているのだろう。


 やはり、読んでいない本を紹介するのは難しい。はやいところ仕事を片づけて、小林さんの本を読まないと。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.03.19

いずれ星の世界へ

  1. 高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
  2. 可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
  3. 充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。

      ——クラークの3法則——

 アーサー・C・クラークの訃報を聞く。享年90歳。小松左京と並んで自分に非常に大きな影響を与えた作家。

 いつのころからか、この人は死なないのではないかと思いこんでいた。そのうちしっぽが生えて2つに裂けて、オーバーロードと化すんじゃないかと。

 確か、2020年だったか40年だったかに、自分が月面であれこれしているというドキュメンタリーも書いていたはず。


 クラークとの出会いは小学5年生の夏休み。母方の祖父母の家に叔父が残していた銀背のハヤカワSFシリーズの「SFマガジンベストNo.1」に収録されていた。

 「太陽系最後の日」。クラークが作家デビューを飾った短編だ。

 太陽が膨張して最後の日を迎えた地球を探検する異星人達。地球人を捜すがどこにもいない。地球人はどこだ、灼熱の太陽から逃れて地下に潜ってしまったのか。
 そして地球人を捜し回る彼らが見た驚愕のラスト。

 処女作には作家のすべてが現れるというが、「太陽系最後の日」にも後のクラークを特徴付けるすべてがはいっている。正確な物理学的描写、壮大なヴィジョン、切れの良いアイデア、宇宙へのあこがれ、そして底抜けの楽天主義。

 叔父の残した「SFマガジン」バックナンバーで「木星第五衛星」を読んだのも同じ夏だったはずだ(今調べたら1964年10月号だった。東京オリンピックの頃の号だ)。こちらも私を深く魅了したが、そこで描かれた軌道運動を理解したのは大分後のことだった。

 本格的にクラークの作品を読み始めたのは、中学に入ってからだ。創元推理文庫の「地球幼年期の終わり」は何度読み返したかわからない。SFマガジンで「宇宙のランデブー」の連載が始まったのは中学2年の時だ。市立図書館に入っていたSFマガジンで毎回興奮しつつ読んだ。そこからはもうなんでもありだ。大学に入ってからはクラークの本とあればなんでも買って読んだ。

 人によって、薦める作品は違うだろう。「地球幼年期の終わり」もいいし、「都市と星」も「渇きの砂」も、「海底牧場」も「宇宙島に行く少年」もいい。

 でも私は彼が1970年代に発表した3つの長編が、一番印象に残っている。

「宇宙のランデブー」「地球帝国」そして「楽園の泉」。

 三重のエアロック。幼なじみとのペントミノの思い出。聖地に飛び来る蝶——読んでいない人にはなんのことかと思われるかもしれないが、ああ、思い出すと涙が出てくるではないか。

 彼ぐらいになると、彼の肉体が彼なのか、彼の残した情報が彼自身なのか判然としなくなる。

 だから、いかなる弔辞も無用なのだろう。クラークという名のミームはこれからも世間を巡る。

 そしていずれ星の世界へも。

 冬樹蛉さんによると、SFには茶筒SFというサブジャンルが存在するそうだが、その元祖。「圧倒的に巨大な未知がただそこにあるというだけで読者を魅了してしまう類のSF」というのが定義である。

 本作品の“茶筒”とは、はるか宇宙から太陽系目指して飛んでくる異星人の宇宙船のこと。円筒形をしているのだ。

 やってきた巨大茶筒宇宙船に、人類は探検隊を送り込む。どうやって中に入るか、内部はどうなっているのか、異星人とは接触できるのか——スリリングな状況とはうらはらに、ストーリーは淡々と進む。それがどういうわけか面白い。無茶苦茶面白い。

 後にクラークはジェントリー・リーとの合作で続編を3編書くがそちらは大して面白くなかった。「宇宙のランデブー」は、これ一冊で十分である。

 え?「地球帝国」は絶版なの?!なんてことだ。

 遙かな未来、土星の衛星タイタンの権力者が行う地球旅行を淡々と追っていくという一見単純な物語だが、しみじみと面白い、クラークらしさに溢れる作品。

 「軌道エレベーターを建設する」、ただそれだけの作品なのだけれど、この面白さをどう形容すればいいのだろう。

 軌道エレベーターとは地上と静止軌道を結ぶ長大な「宇宙と地上を結ぶエレベーター」のこと。途方もない巨大建築物だが、原理的には建設可能であることが検証されている。クラークは一人の技術者が人生をかけて軌道エレベーターを建設する様を淡々と描いていく。

 同時期、チャールズ・シェフィールドが同じく軌道エレベーターの建設をテーマとした「星ぼしに架ける橋」(ハヤカワSF文庫)を出版した。ストーリーとしてはこちらのほうが起伏に富んでいるのだけれど、面白さも完成度も圧倒的に「楽園の泉」のほうが上だと思う。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2008.03.18

書籍紹介「747 ジャンボをつくった男 」

 ボーイング747“ジャンボジェット”——民間航空を根底から変えたこの傑作機の開発をボーイング社で指揮した男、ジョー・サッターの自伝が翻訳された。私は、巻末の解説を担当させてもらった。

 いやもうなんというか、「素晴らしき哉飛行機が大好きな男の子の一生」と形容できる本だ。シアトル近郊に生まれ、新興企業だったボーイング社の新型機が次々に初飛行するのを眺めて育ち、長じてはボーイング社に入社してついには747の開発を指揮するのだから、飛行機が好きな人にとってはうらやましいとしかいいようのない人生である。


 サッターの自伝がインサイダーの証言だとすると、こちらは外部のノンフィクション作家による747開発ストーリー。現在絶版状態のようだが、アマゾンにはかなりの数の中古が出ているので紹介する。
 この本も傑作だ。2冊まとめて読むと、747という機体がどのような経緯で生まれたかを、より客観的に理解することができる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2008.03.03

伊福部の「管絃楽法」、復刊!

 音楽好きには大ニュース。長らく絶版だった伊福部昭「管絃楽法」が復刊された。

音楽之友社HPの紹介

 作曲においてオーケストラの各楽器にどのような音を担わせるかという作業をオーケストレーションという。オーケストレーションにあたっては、それぞれの楽器の音域から始まって、音域毎の音色の特徴、発音原理や運指などから来る限界、さらには複数の楽器を組み合わせたときに得られる効果などを熟知している必要がある。

 そのようなオーケストレーションに必要な知識をすべてまとめた教科書的な本が、この「管絃楽法」だ。

 自らも魔法のようなオーケストレーションの腕前を持つ伊福部が、第二次世界大戦中、二十代の頃にから構想し、戦後執筆を開始。最初の判は1958年に出版され、15年後の1968年の改訂時にこれを「上巻」として、新たに下巻を加えて完成したという、とてつもなく時間を掛けた大著である。

 オーケストレーションの教科書は、古くはベルリオーズやリムスキー・コルサコフのものから、近代ではウォルター・ピストンのものなど各種ある。伊福部の「管絃楽法」は、それらの中にあっても、最高峰と評価される名著なのだ。

 今回の復刊にあたっては、著者自身が死の直前まで校訂し、その後伊福部門下が作業を引き継いだとのこと。上下二巻だったものを一冊にまとめると共に、内容をが一部追加されている。

 「専門的な教科書を紹介してどうする」と言われそうだが、私は買う。高い本だがそれでも買う。長年捜して、これまで手に入らなかった本だから。

 作曲家になりたくて勝手な音符を書き散らしていた高校生の頃、この本が読みたかったのだ。結局手には入らず、私は全音のポケットスコアに入っていた諸井三郎による薄っぺらい「スコアリーディング」に載っていた各楽器の音域表を頼りに、オーケストラの曲を書こうとしたものだ。もちろんものになるはずもなく、あの頃書いた音楽まがいの楽譜は後で全部棄ててしまった。

 大学に入ってからも、この本は見つからず、代わりにウォルター・ピストンの本を買った。だからといって、自由自在に作曲ができるようになるわけではなくて、結局私は理工学部を出て記者になり、今は皆さんがご存知の通りである。

 それが今になって、この本が買えるようになるなんて…複雑な気分ではあるが、なんと幸せなことだろうか。

 音大作曲科の学生なら買うべし、伊福部ファンなら買うべし。そして——

 ニコニコ動画あたりに初音ミクで投稿していて、なおかついつかはシンセの代わりに本物のオーケストラをがーんと鳴らしてみたいという野望を持っている人は買うべし。覚悟を決めて買うべし。そして、伊福部が書き残した技術を、知と情の両面で喰らい、咀嚼嚥下すべし。


 
 伊福部の技術が、「管絃楽法」に詰まっているとするなら、伊福部の精神はこの「音楽入門」に凝縮されている。本来はクラシック音楽初心者のため平易な入門書として企画された本だが、出来上がってみれば伊福部の音楽芸術に対する態度がはっきりと現れた本になった。1951年初版なので、まさに「管絃楽法」を執筆している最中に書かれた本である。
 「2万5200円なんて高い本、しかも音大生用教科書なんて買えるか!」という人はこちらの本を読もう。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2008.01.03

「マリアの月」

 年末年始、いつもならばSFとノンフィクションばかりを読んでいる私だが、珍しくハードボイルドを読んだ。これがなかなか面白かった。

 以下、アマゾンの宣伝文句をやや書き直しての紹介だ。


 将来を期待されながら、ある事件がきっかけで精神的に絵筆がとれなくなってしまった洋画家の本庄敦史は、知的障害者更生施設「ユーカリ園」で美術の指導をすることになる。
 そこで彼は22歳の河合真理亜と出会う。真理亜は少女時代に頭部を打ったことによる精神発達遅滞のため「ユーカリ園」で暮らしていた。

 敦史はすぐに、言葉を持たない真理亜が驚異的な才能の持ち主であることに気が付く。彼女は、頭部打撲の後遺症で言葉を失ったのと引き替えに、高度な直観像記憶能力「カメラ・アイ」を獲得していたのだ。真理亜の絵は評判となり、彼女は「美しくあどけない奇跡」として成功への道を歩み始める。

 しかし、彼女が描いた一枚の絵が、2人の運命を変えていく。それはただの絵画ではなかった。彼女が幼少時に目撃した殺人事件、しかも時効を目前に控えた殺人事件の「目撃証言」そのものだったのである。

 敵は単なる殺人者ではなかった。政治の中枢にまで食い込んだ巨悪の組織だった。真理亜の存在を知った組織は、彼女にじわじわと迫ってくる。合法的に、あくまで合法的に彼女を圧殺するために。殺人事件の背後にある、より巨大な犯罪を隠蔽するために。

 物語はラスト、華やかなパーティの場へと収束していく。真理亜の絵筆は真実をえぐり出すことができるのか。それとも組織が真理亜を絡め取り、すべてを闇に葬り去るのか。そして敦史は、真理亜を連れて、光溢れる創作の場に復帰することができるのか。



 「マリアの月」の作者である三上洸氏は、私にとっては「大学のクラブで後輩の、本名K君」である。

 私は大学時代、プラモデラーが集う「模型クラブ」なるクラブに所属していた、K君は、私が卒業した年に入ってきたのだった。つまり彼と同時期に在学したことはない。
 モデラーも大学生レベルとなると、とんでもない腕前の者がいる。歴代の腕達者は、「ゴッドハンド」「ゴールドフィンガー」などと呼ばれたものだが、K君もその流れを組む一人だった。

 分かる人にしか分からない言い方をすれば、彼はあのタウロ1/35のA7Vを完璧な精度で美しく組み上げてきた。分からない人向けに言い直すならば、およそ不完全でどうしようもないプラモデル・キットを完璧な美しさで完成させるだけの腕前を持っていた。

 しかし彼の才能はプラモデルだけのためにのみあるわけではなかった。

 私が彼に注目したのは、クラブの部誌に寄稿したA7Vの制作記事の文章が、素晴らしく良かったからだ。一読すれば、難物キットA7Vを自分が作っているように感じることができた。大学生の部誌の文章は、どれもこれもぐしゃぐしゃなのが普通だが、彼の文章は当時から素人離れした読みやすさと表現力を持っていた。

「こいつ、ただ者ではないな」と思ったものだが、その当時はあくまで予感に留まっていた。

 卒業してからしばらく音信がなかった彼が、突如「期待の新星・三上洸」として私の眼前に現れたのは2002年秋のことだった。「アリスの夜」で、光文社の「日本ミステリー文学新人賞」を受賞。

 授賞式は盛会だった。背広を着た彼は、照れくさそうに壇上に立っていた。挨拶は、文章ではひねた表現を多用する彼にしてはストレートな「頑張ります」調のものだった。
 同時開催の日本ミステリー文学大賞は都筑道夫氏が受賞した。この時の都筑氏のあいさつは、ユーモア溢れる素晴らしいものだったが、それは私にとって、子どもの時からさんざん御世話になった老作家との一期一会となった。

 しかし、その後の彼の行路は順調だったとは言い難い。「アリスの夜」は幼女売春というショッキングなテーマで、ひたすら暗さのみが目立つストーリーを読んでいくと最後にほのかな明るさが見えるというものだった。緻密な構成と達意の文章力は魅力的だったが、読み通すのがつらいという評価も受けた。
 本人にも反省があったのか、第2作「ハード・ヒート」は、緻密な構成はそのままにルパン三世のような軽妙な探偵物に仕上がっていた。ところが、これはあまり受けなかったようだ。そのまま彼はしばらく沈黙した。

 「現時点の自分のすべてを突っ込んで書きました」と、本人から連絡があったのは昨年の晩秋のことだった。そして、私の手元に「マリアの月」が届いた。

 以下、やや内容に触れるのでフォントカラーで隠蔽しました。読みたい方はテキストを選択・反転表示してくだい。(1/6記)

 彼は、ハードボイルドの定型を決して外さない。過去に傷を持つ男がいる。男が「自分が救わねばならない」と思い定める女がいる。そして敵がいる。絶望的なまでに強大な敵だ。
 男は決して英雄ではない。時におびえ、時に逃げ、時に哀願し、それでも筋は曲げない。

 しかし、同時に彼の書く小説は、ハードボイルドという枠の限界を試すかのように、様々な方向に拡張されている。

 「アリスの夜」で、主人公は借金と薬物中毒に絡め取られてヤクザの下働きとなった情けない中年だった。そんな人物が、組織の飼う9歳の幼女売春婦「アリス」と出会ったことで、彼女を当たり前の子どもに戻すため、絶望的な逃避行を決行する。物語の1/3で逃避行が始まると、後はノンストップだ。読者は吹き荒れる暴力の嵐に翻弄され、結末まで運ばれる。

 逆に「マリアの月」では、前半2/3を使って、じっくりと真理亜と敦史を初めとした関係者の抱える因縁を描いていく。かつての殺人事件を追う新聞記者、敦史に淡い恋心を抱く療法士、余命いくばくもない身で敦史の将来を気遣う彼の師匠、ユーカリ園の理事長、派手な政策で人目を集めて国政進出を狙う女性市長。そして、口当たりの良いキャッチフレーズで善意を集めて食い物にするNGOと、そのトップを務める権力欲の塊のような青年。

 と、同時に前半では、「絵画を描くということが、人間にとってどういう意味を持つのか」が執拗に描写される。真理亜は言葉を持たない。その感情は彼女の絵筆からあふれ出る絵画で判断するしかない。作者は、文字メディアである小説で、言葉を持たない者の思考を絵画経由で描き出すというアクロバティックな業に挑戦し、しかも成功している。
 それを補足するのが、敦史と彼の師匠との間で交わされる芸術談義だ。彼らが交わす会話の中に現れる「ゴヤの“黒の絵画”のような、それを描いてしまったら画家は終わる、というモチーフ」は、ラストへの重要な伏線となる。

 物語前半は、真理亜が巨大なフレスコ画を描くシーンでクライマックスとなる。フレスコ画は一人では描けない。多くの画工が協力して下地を作ることで、初めて絵師が筆を振るうことが可能になる。真理亜と共に敦史に絵を習ったユーカリ園の入園者達が、画工を務める。このシーンは感動的だ。

 後半1/3は、一気のジェットコースター的展開となる。前半でじわじわと真理亜の身辺に迫っていた巨悪は、一気に真理亜を取り込み、利用しようとする。激しいアクションを含むいくつものストーリーが同時に進行し、やがてただ一つの焦点「真理亜の手元に、彼女自身が描いた一枚のスケッチを届けることができるか」に収斂していく。

 驚いたことに、すべてが終わった後のエピローグで、ストーリーはさらに展開する。それはSF的といえるかもしれない。最後の一ページを読み終えると、本書がハードボイルド小説というのみならず、絵画と言語を巡る論考でもあったことがわかる仕組みになっているのだ。

 多分本書で一番意見が分かれるのは、「敵」の設定だと思う。まあなんというか、現代日本に巣くうありとあらゆるうさんくさいものが一体になった設定を、「いくらなんでもやりすぎだ」と感じるか「よくやった!」と思うかで、本書の受け止め方が変わるだろう。その実行部隊のヘッドである「一矢」を、ねちねちと気色悪く描くその筆致といったら、なかなかたまらないものがある。
 映画化するとしたらキムタクだな。演技開眼とかなんとかいって、この怪物的な悪役をやらせたらぴったりはまりそうだ。沢田研二が「魔界転生」で演じた天草四郎以上のショックかも。

 ともあれ、作者と個人的付き合いのある私としては、やはり一言いわねばならないだろう。

 三上センセー、いやさK君、よく書いたね。確かに本気の文章を読ませてもらったよ。

| | Comments (5) | TrackBack (1)

2007.12.23

宣伝:新著「昭和のロケット屋さん」が12月19日に発売されました

Rocket300of
おはなし:垣見恒男、林紀幸
ききて:あさりよしとお、笹本祐一、松浦晋也
amazon bk1

エクスナレッジ刊 1890円(税込)


 お待たせいたしました。新宿・歌舞伎町のロフトプラスワンで開催しているトークライブ「ロケットまつり」の内容をまとめた本ができました。

 日本宇宙開発創世記、若くしてペンシルロケットの設計に従事し、ミューロケットまでの基本ラインを設計した垣見恒男さん、内之浦からのロケット打ち上げに、ロケット班長として従事し、定年までに上げたロケット5万発…ではなく400機超の林紀幸さんのおふたりから、ロケット開発の現場で起きる、あんなことやこんなことを聞き出した記録です。聴き手は、あさりよしとお、笹本祐一、そして私です。

 お値段はソフトカバーにしてはやや高め、なのですが、実は初期のロケットの映像を収録したDVDが附属しています。東京大学が制作したペンシルロケットの記録映画、そしておそらく本邦初公開の内之浦におけるカッパロケットの事故映像です。

 我々は、打ち上げのたびに現場に出かけて行ってはいるものの、結局のところ傍観者です。現場で実物に関わっているわけではありません。「延期かよ、つまらんなあ」とか言いつつ、こっちが酒を飲んでいる間も、関係者はトラブルシューティングに必死になっているのです。

 本当の現場を知っている垣見さん、林さんの話の面白いのなんのって、「うわ、こんなことやっていたんだ」というとんでもない話続出の一冊です。

 希望だけが大きくて、実力が追いつかなくて、それでも意気軒昂と宇宙を目指していた初期宇宙開発の記録です。

 この本が売れますと、続編への希望がつながります。今、ロケットまつりでは、垣見さん林さんに加えて、さらにゲストも増え、ますますとんでもない話が飛び出してきている状況です。続編に向けて、是非ともお買いあげ頂ければと思います。

 まとめて宣伝してしまいましょう。火星探査機「のぞみ」の苦闘を描いた「恐るべき旅路」が、版元の朝日ソノラマの清算に伴って、朝日新聞社から再発売されました。誤字脱字などを修正してあります。
 こちらもよろしくお願いいたします。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.27

「NASAを築いた人と技術 巨大システム開発の技術文化」

 「NASAを築いた人と技術」(佐藤靖著、東京大学出版会)を読み終えた。NASAのパートはだいぶ前に読んでいたのだけれども、最後の日本の歴史を書いた章をしばらく放置していた次第。

 これは宇宙開発の歴史をきちんとまとめた、大変に意味のある本だ。歴史学の手法と資料評価の視点をもって、いままであまり知られることがなかったアポロ計画を初めとしたアメリカの宇宙計画の内幕を描いている。

 アポロ計画はあれほどまでに巨大でセンセーショナルであったが、誰が計画をどのように主導したか、意外なぐらいに知られていない。一番有名なのはフォン・ブラウンだが、彼はマーシャル宇宙飛行センターに集まった技術者を率いて、サターンVロケットの開発をまとめ上げたのであり、アポロ宇宙船や月着陸船には関与していない。
 映画「ライトスタッフ」以降、各宇宙飛行士には光があたるようにもなり、少しマニアックに宇宙関係を調べている人ならば、宇宙飛行士の選抜に当たったオリジナル・セブンのひとりであるディーク・スレイトンあたりを手がかりに、2代目NASA長官のジェイムズ・ウェッブや飛行運用本部長のクリス・クラフトといった人名にたどり着いているだろう。

 では、誰がどんなことをして、それが組織的にどんな意味があって、アポロ計画が進行したのか。本書はその疑問に答えてくれる。

 特に、組織文化についてはかなりの紙幅を費やしており、NASAの各セクションの組織文化が、アポロ計画の基本構想やハードウエア、ソフトウエアの構成にどんな影響を与えたかを、順を追ってきちんとまとめてある。
 日本から見ていると一枚岩に見えるNASAという組織が、各フィールドセンターごとに大きく異なる組織文化を持っているということ、さらにマニュアル第一主義に思われがちなアメリカの組織が、意外なぐらいに属人的な要素を抱えていることなど、興味深い知見が一杯に詰め込まれている。

 第5章では、日本の宇宙科学研究所と宇宙開発事業団の組織文化について、考察を行っている。特に宇宙研の属人的文化への考察はかなり納得できる。

 高価だがそれだけの価値がある本だ。宇宙開発に興味があるなら必読。できれば手元に置いておくべきであろう。

 著者の佐藤さんは、この本を、NASAのヒストリーアーカイブを駆使することで書き上げたそうだ。
 次の目標は日本の宇宙開発に関してこのような著作をまとめることなのだそうだが、NASAがきちんとヒストリアンをおいて、自らの歴史の一次資料を収拾し、保存しているのに対して、日本はそのような組織体制がないので難しいと言っていた。

 是非とも日本の宇宙開発についても、この本のような歴史学的にきちんとした手法と視点をもった本を書いてもらいたいと思う。過去をきちんとまとめておかないと同じ間違いを犯す可能性が増える。日本の宇宙開発が、間違いを繰り返さずに進むために、佐藤さんのような仕事はとても重要だ。

 ずっと以前のことだが、某霞が関OBから「君の仕事は稗史(はいし)だね」と言われたことがある。

 稗史——辞書を引くと「民間の言い伝え。小説風に書いた歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。」と出てくる。古代中国に、民間の人々から聞き取りを行って文書にまとめる稗官という役職があった。彼らが民間の側から綴った歴史が稗史である。
 稗史には対立概念として「正史」という言葉がある。国家が編纂する正式の歴史という意味だ。

 これらは相互に補う概念である。正史と稗史の両方なくして歴史は把握できない。と、同時に正史から稗史への差別感覚も存在する。

 その霞が関OBは、「日本ロケット物語」(大澤弘之監修、誠文堂新光社)が正史であるという感覚でいた。元科学技術庁事務次官で宇宙開発事業団の理事長をも務めた大澤氏のまとめたものだから正史というわけだ。

 ところが、「日本ロケット物語」は、以前三田出版会から出ていた版と現行の誠文堂新光社版には内容的な差がある。この件について、私はNASDAのOBから「●●さんが、色々書き直してしまってかえって事実から離れてしまった」ということも聞いている。要は、執筆者内にも異なる思惑があったということだろう。

 私が書くものが稗史であることに異論はない。むしろ積極的にそうありたいと思う。ただし「日本ロケット物語」が正史というのには異論がある。貴重な資料であることは間違いないが、関係者が自分に都合良く書く可能性を考えると正史と呼ぶのはためらわれる。

 佐藤さんのように、歴史学の手法を身につけた者がまとめる歴史こそが、正史であろう。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2007.10.08

「ローバー、火星を駆ける」

 早川書房から「ローバー、火星を駆ける 僕らがスピリットとオポチュニティに託した夢」(スティーブ・スクワイヤーズ著 桃井緑美子訳)が出た。私は、解説を書かせてもらった。

 これはとても面白いノンフィクションだ。

 2004年に火星に着陸した2機のマーズ・エクスポラレーション・ローバー、「スピリット」「オポチュニティ」の開発経緯を当事者自らがまとめた本だ。プロローグに「しかしその前に、2機の探査機がケープカナベラルにあること自体がちょっとした奇跡だった」とある。
 まったくその通りで、著者らが探査機実現のためにくぐらねばならなかった労苦は並大抵ではない。2年ごとにぽんぽん探査機を打ち上げているアメリカだから、研究者達は苦労していないだろう——などと考えたら大間違いで、コンセプトをまとめ、ひたすら提案書類を書き、ワシントンの官僚組織に却下され、またコンセプトを練り直し、膨大な提案書類を書き、また却下、を繰り返す。

 その過程で挫折する者も出るし、載せることが不可能になる観測センサーもある。できると思ったことができなくなることもあるし、楽観視していたところが、容易ならざる困難を秘めていたことが分かることもある。

 アメリカならではの苦労もある。日本だと開発が進んで打ち上げ作業に入った探査機の打ち上げが中止になることはまずない。一方アメリカでは、打ち上げ直前まで中止の可能性が残る。
 2003年の打ち上げではスペースシャトル「コロンビア」空中分解事故の余波を受け、NASAの官僚組織は「失敗の可能性が少しでも確認できるなら、打ち上げない」という態度を取った。そして、最後の最後まで「これって大丈夫なのか」という微妙な未確認部分が残り、著者らは「絶対大丈夫」の証拠を提出するために奔走するのだ。

 それでもアメリカの研究者は恵まれている。提案が却下されれば次のチャンスを目指すことができるから。日本では、次のチャンスを10年以上待たなくてはならない。

 宇宙に興味がある人は必読だ。決してアメリカが、万全の体制で太陽系探査を進めているわけではないことが分かるし、にもかかわらず確かにアメリカの底力というものが存在することも理解できる。

 本当に、科学者にきちんと太陽系全域の探査に必要な資金を回せる体制を作りたいと思う。アメリカは有人月探査を言いだし、日本も尻馬に乗る雰囲気となっているが、「本当に月が行くべき場所か」はまだ分かってはいない。月は単に「距離が一番近い星」というだけだ。

 そして惑星科学者達に聞くと、例外なく「学問的興味はともかく、月って行ってもあまり面白い星じゃないですよ」という。地殻変動も水もないから、元素の濃縮過程が存在せず、鉱床の存在が期待できない。ヘリウム3は、そもそも核融合が重水素よりもずっと難しい。極地の水といっても、本当に氷の形で存在しているか分からない(氷じゃないのではないかという人は多い。これは「かぐや」が確認するだろう)。


 我々がどこに向かうべきかは、月に人が行く前に、無人探査で月を含めた太陽系全域を調べてから決めるべきことなのだ。
 莫大なお金をかけて月に行ったはいいが、「はずれでした」ではお話にならないのだから。


 同時期に早川から出たということで、息抜きにまとめて買うのも一興かと。coco's blogで掲載している、SFやら純文学やらホラーやら、それぞれにビブリオマニアな女の子達の日常を描いた4コママンガだ。SFに耽溺したことのある人なら、「あ〜、あるある」と膝を打つことうけあい。

 私としては、主要なキャラクター5人のうち3人のデザインが「眼鏡につり目で身なりに構わない系」と、かぶっていることに爆笑してしまった。確かに「京都SFフェスティバル」あたりでは、このタイプを見かけるなあ、と。そして彼女たちは話してみると、とてもクレバーでチャーミングなのであった。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

2007.09.26

神と戦うドーキンス

 書評という仕事をしていると、自分の楽しみとしての読書がなかなか難しくなってしまう。そんな中、電車の中で読み進めていたドーキンスの「神は妄想である—宗教との決別」を読み終えた。

 日本で「無神論者です」といっても、「へえ、そうですか」で終わるけれども、キリスト教圏では無神論者というと、「悪魔の手先」と思われるほどである。キリスト教圏にせよイスラム教圏にせよ、宗教は人々の思考をがっちりと規定している。

 そんな中、ドーキンスは、多くの人々が薄々、あるいは無意識に感じていた事を、この本ではっきりと言ってのけた。「何をどう考えていっても、神などというものがこの世を見守っていると信じる合理的理由はない」「宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはない」。

 特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うのである。

 言われてみればその通りだ。例えば、「キリスト教によって平和がもたらされた歴史的事例」をあなたは思い出せるだろうか。私はすぐには思い浮かばない(なんかあったっけかなあ…マザー・テレサのような個人的努力ぐらいしか心当たりがない)。
 逆に「キリスト教などというものがあったばかりに発生した悲惨な事例」なら、十字軍、インカ帝国滅亡とそれに続くスペインによる現地民の扱い、ドイツ農民戦争、スペインの異端審問などなど、いくらでも思い出せる。

 宗教の否定という点では、「宗教は阿片である」としたマルキシズムを思い起こす。が、結局共産主義という新しい宗教を作っただけに終わったマルキシズムと比べると、ドーキンスの態度はより柔軟で、科学的方法論に忠実である。

 彼は、激することなく平静に、「そもそも神がいるとする合理的理由はどこにあるのか」を追求していく。彼の論理は、過去何度となく繰り返された神学関係者との論争で鍛えられているのだろう。冷静で、隙がなく、破綻もしていない上に、容赦ない。神の存在を主張する意見をひとつずつとりあげ、確実に論破していく。宗教関係者が「要するに信じたいのだから信じるんだ。別にいいじゃないか」というトートロジーに陥るところまで、詰め将棋のように一手ずつ包囲網を縮めていく。

 本の後半に入るとドーキンスは、宗教に帰依することにより、いかに人間性がゆがめられ、生きていく上での不利益を被るかという事例を、これでもか、これでもかと列挙していく。この辺り、彼もヒートアップしているという印象だ。

「宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されねばならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。」(p.448)

 いや、まったくその通り。

 本書が描くキリスト教圏におけるキリスト教のありようを読んでいくと、アメリカという国が滅ぶならば、イスラム教原理主義との戦いで滅ぶのではなく、内部に抱えたキリスト教が振りまく無知蒙昧のために滅ぶのではないかと思えてくる。

 先だって死去した、テレビ宣教師ジェリー・ファルウェルのテレビ伝道におけるデタラメっぷりは一部知っていたけれども、彼のようなテレビ宣教師が他にもいくらでもいるとは知らなかった。

 ジェリー・ファルウェルについては、町山智浩氏のTBSラジオ「コラムの花道」5月22日(Podcast)あたりを参考にしてもらいたい。

 ちなみにドーキンスは、宗教が生み出してきた文化や芸術を否定はしていない。宗教の否定とは別に、それらの文化を理解し、観賞することは可能だと、生真面目に説明していく。その通りだと思う。

 本書を書くのは、大変勇気のいることだったろう。それでもドーキンスのような世界第一線級の知性が、このような本を書いた理由の一つに、欧米社会でのキリスト教原理主義の台頭、911テロに始まるイスラム教原理主義との対決のエスカレートがあるのだろう。
 本書には、テロを起こす殉教者の心理も分析されている。

 宗教というやくたいもないものが、世界を壊そうとしている——その危機感こそが、本書執筆の原動力だったのだろう。

 こんな書評を最近書いたせいもあるのだろうけれど、「宗教とは、溺れる者がつかむ藁」という気がしている。つかんだ者は、「やれうれしや、つかんだぞ」と思っているし、思ったことによって心の持ち方は安定するが、事態が改善するわけではない。

 生きることが一大事業だった時代には、心が安定するだけでも意味があったのかも知れない。が、これだけ科学技術が進歩し、平均寿命も延びたとなると、藁をつかんだまま沈んでいくことの弊害のほうが、遙かに大きくなっている——という