158 posts categorized "日記・コラム・つぶやき"

2016.01.13

東峰神社に行ってきた

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 久しぶりに刀を引き出すと、バッテリーがあがっていた。補水して充電。エンジンも無事掛かったので、思い立って東峰神社に行ってきた。
 東峰神社ですぐに分かる方は、飛行機マニアだろう。場所はここ。

 そう、成田国際空港のど真ん中である。

 こうなるにあたっては、あまりに皮肉な運命の経緯が存在する。

 まず、伊藤音次郎(1891〜1971)という名前を記憶に留めてほしい。日本民間航空の先覚者で、伊藤飛行機研究所を設立し、大洋から昭和初期にかけて数々の航空機を世に送り出した。
 が、やがて時代は戦争へと傾斜し、1945年の敗戦を迎える。やってきた進駐軍は、航空機研究の一切合切を禁止した。伊藤は54歳にして、全身全霊をかけてきた航空機への夢のすべてを失ったのである。
 戦後、かれは千葉県成田に開拓農家として入植した。その時、彼は伊藤飛行機研究所の敷地に建立した航空神社という神社の神様を、そのまま自分の開拓地へと遷座した。航空神社は東峰神社と名前をかえ、開拓地の神様となった。
 が、なんということか、1966年になって成田の地に国際空港を建設する話が動き出す。伊藤の開墾した土地はまさに予定地の真ん中にあった。彼は、精魂込めた開拓地を一番最初に売却する。前半生を航空機に賭けた彼には、それ以外の選択肢はなかったのだろう。
 しかし、成田の空港建設は、激烈な反対運動が起きて難航する。そして、かつては航空神社であった東峰神社は、反対派にとって空港反対運動の象徴となってしまったのだ。

 かくして成田国際空港B滑走路南端に、東峰神社は残ることとなった。神社へのアクセスは両側を高い塀で囲われた道を通らねばならない。さらには常時、警備が配置されており、訪れる者が職務質問を受けることもあるという。

 このことを知ってから、私にとって東峰神社は一度は行っておかねばならない場所となった。

 横浜新道から、首都高湾岸線、そして東関東自動車道と走れば、わりと短時間で、東峰神社へはアクセスできる。快調に刀の走りを楽しみつつ、午後2時前に到着。

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 塀、しかも上にはなにかの仕掛け(おそらくは対人センサー)を取り付けられた塀に覆われた神社のたたずまいに声を失う。

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 神社の鳥居内からアクセス道路方向をのぞむパノラマ画像。 たまたま来ていた地元の人によると、奥に駐車する軽自動車(人が乗ったまま降りてこなかった)が公安さんだそうで、ここに来る車両はすべてナンバーを記録されるとのこと。「公安といっても人次第で、穏やかに話しかけてくる人もいれば、むっつりと何を聞いても答えない人もいる」とのこと。

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 東峰神社の石碑(神社の名称は東峰だが、石碑は東峯となっている)の裏には、今も航空神社の文字が残る。建屋は伊藤音次郎が遷座した当時のままなのだろうか。小さな神社だ。

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 私は、いずれこの神社は空港施設内、もっとも人通りの多いところに移して、同時に伊藤など日本民間航空のパイオニア達を顕彰する施設を併設すべきと考えているが、実地に来て、これはこれでいいのかも、と思った。何しろ上をどんどん飛行機が通過する。伊藤の魂が地上にあるなら、案外このロケーションを喜ぶかも知れない。

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 なにより、成田国際空港を運営する成田国際空港株式会社が、この神社を大切にするかどうか、あまり確信が持てない。反対派も高齢化しているということなので、いつの日かこの場所は空港の敷地となるのだろう。が、その時に政府100%出資という“堅い”会社が、このような過去のいきさつを柔らかくそっと尊重してくれるかどうか、全く自信が持てない。
 ならば、ずっとこのまま、神社は頭上をかすめる飛行機を眺める場所であってよいのではないか……そうはいかないであろうことは承知しているが。

 機会があれば、この小さな神社に寄ってみてほしい。ここには、時代に翻弄された空へのあこがれと飛行機への夢が眠っている。

 神社に寄った後は、航空科学博物館へ。「博物館展示は、見る者が“もういいです、勘弁してください”と言うほど高密度である必要がある」と私は思っているが、その基準からすると悲しいぐらいに薄味の博物館。この敷地一杯の建物が欲しい、そこにがんがん飛行機を集めまくって、これでもかとばかりに展示しても……それでもスミソニアン航空宇宙博物館にはかなわないのだろう。そういう規模。

 もしも戦争がなくて、伊藤音次郎らの民間航空勃興の努力が実を結んでいたら、日本はもっと飛行機に寛容な社会になっていたのだろう。当たり前にあちこちに小さな飛行場があって、簡単に飛行機の免許が取得できる社会になっていたのだろう。そうなっていたら、この博物館ももっと大規模なものになっていたのかも知れない。

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 航空科学博物館から見る、夕日に反映して降りてくる飛行機は、素晴らしかった。
 帰りはちょっと寄り道をして首都高経由で東名高速を走る。海老名ジャンクションから圏央道へ抜けて、無事帰着。刀は高速道路が楽しいバイクである。

民間航空草創期の若き息吹と、皮肉なる運命:裳華房メールマガジン連載「松浦晋也の"読書ノート"
 以前書いた、伊藤音次郎を巡る小説「空気の階段を登れ」を紹介した文章。

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2016.01.01

あけましておめでとうございますと、年末の災難からの復帰

2016年元旦である。あけましておめでとうございます。

 新年早々、景気の悪い話を書く。

 12月始め、財布を落とした。詳細は省くが、不幸な偶然が3つばかり重なったところに不注意をしてしまった結果である。警察にも届けたが出てこなかった。キャッシュカードや免許証、保険証から、買い物の優待券に至るまで一切合切を財布に入れていたので大痛手である。

 で、本題。カード類を取り戻すにはどれぐらい時間がかかるのか。色々面白かったので以下に報告する。

1)なにをもって自分を自分と証明するか
 本人確認には通常保険証や免許証がよく使われるが、両方まとめて紛失したので使えない。ここで途方に暮れてもおかしくなかったが、幸いなことにパスポートを取得していた。パスポートを使って、次々と取り戻すことが可能になった。そうでなければ、本人確認の時点でかなり面倒なことになっただろう。

教訓その1:海外に行くつもりがなくても、パスポートは取得しておけ。

2)健康保険証
 私は国民健康保険だが、パスポートを持って市役所に行くと、即日再交付してくれた。大変対応が早い。すばらしいことである。

3)運転免許証
 運転免許試験場に行かなければ再交付はできない。が、行きさえすれば数時間かかるが即日交付となる。ここでも本人確認のためのパスポートは必須。その他3cm×2,4cnの上半身写真が1枚と再交付手数料3500円が必要である。当方はサラリーマンではないのですぐに行くことができたが、サラリーマンなど勤務時間に拘束される職種だとかなり面倒なことになるだろう。紛失の場合は警察に届け出をしてあることが再交付の条件となるようだ(紛失届けの届け出番号を書かされた)。
 私は、前回の更新においてぎりぎりのところで青ラインだったので、現在はゴールド免許の資格となるはずである。再交付でゴールド免許になることを期待したが、青のままだった。残念である。が、ゴールド欲しさに再交付をする可能性を考えるといたしかたないところなのだろう(それ以前に、あの恣意的な取り締まりで、ゴールドとそれ以外を区別するという交通取り締まりのやり方に、私は反対なのだけれど)。

4)JR東日本のSuica
 駅のみどりの窓口ですぐに機能を停止することが可能。チャージ金額もひろった誰かが使っていなければ、そのまま戻ってくる。再発行手数料は510円。別途新カードデポジット料500円がかかって、合計1010円がかかる。なぜか即日再交付ではなく、翌日以降再度窓口に行っての再交付だった。

5)キャッシュカード
 悪用を防ぐために、すぐに銀行の指定番号へ電話をして停止し、窓口に行って新カードに切り替える必要がある。窓口では通帳・印鑑と本人確認書類が必要。すぐに電話をして停止して、免許証再発行後で集中的に事務手続きをした。通帳と印鑑で引き出しは可能なので、その場で当座の生活資金を引き出した。
 もっとも対応が良かったのは——良かったのだから実名を書こう——三井住友銀行で、窓口にで即日再交付だった。もうひとつの銀行と郵貯は共に窓口に行って手続きをしても「一週間から10日後に自宅に郵送」ということで、実際一週間後に届いた。再交付手数料はどこも1000円前後(1030円のところと、1080円のところがあった。この差は何?)。

6)クレジットカード
 どこも電話一つで機能停止を再発行をしてくれる。手数料も不要。ただし「一週間から10日後に自宅に郵送」となる。
 ひとつだけ、再発行の電話番号に連絡を入れると、機械音声で「カード番号を入力せよ」と要求してくるカード会社があった。紛失して手元にないカードの番号なんて覚えているはずがない。カードがなければ、カード再発行ができないというのは理不尽だ。
 色々考えた末に、新規受付窓口に電話した。ここなら絶対にオペレーター対応してくれるだろうと考えたのである。事実、すぐにオペレーターが出て、事情を話すとすみやかに手続きをしてくれた。
 機械音声の案内はいただけないが、この会社が対応は一番速く、連絡後3日で新しいクレジットカードが届いた。

教訓その2:なんらかの形でカード番号はメモをして保管しておくべきである。どこにカード番号を保管しておくかは悩ましい問題ではあるが。

7)クレジットカード機能付きキャッシュカード
 1枚持っていたのだが、これは「再発行まで3週間かかる」と言われてしまった。一番使うカードなので大弱り。実際届いたのはみそかの30日。手続きからきっかり3週間かかった。

教訓その3:紛失時のリカバリーを考えると、キャッシュカードにクレジット機能を合わせるべきではない。カード枚数が減るのは魅力なのだが、銀行のセールストークにのって複数の機能を1枚のカードに合わせると、再発行時に時間がかかり、痛い目にあう可能性がある。

 ほか、行きつけのスポーツクラブの会員証や、あちこちの図書館の利用者証などをぼちぼちと取り戻しつつある。

 まったくもって災難だったが、なにもかもを財布に突っ込んでいた自分のセキュリティ管理を見直すきっかけになったと思うべきなのだろう。ただし、財布とすべてのカードが新品になったのは少々気分が良い(もちろん、痩せ我慢である)。

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2011.07.21

石碑建立

 2年前の夏、この世を去った木村雅文さんの石碑が故郷である広島県福山市の菩提寺に建立されたとの報を聞く。
 
星を愛し、星となる:NEC航空宇宙システム人事ブログ

 没後、小惑星の一つが「Masafumi」と命名されたことは聞いていた。石碑だなんてKIMさん、えらい出世じゃないかとつぶやき、つぶやいたことで悲しくなる。そんな偉くなりかたって、全くもってしょうもないよなあ。もう君は星の巷を自由に飛び回っているのだものなあ。でも、地上にいる僕らには君のよすがが必要なんだ。

 はやぶさがイトカワですばらしい冒険を繰り広げた末、行方不明になってしまった2005年12月、いつも通り町田の飲み屋で会ったKIMさんは、かなり強い調子で言ったのだった。「はやぶさはすごい。本当にすごいよ。松浦さん、これは書かなくっちゃ駄目だよ」。自分はKIMさんの勢いの気圧されて「やるよ、やるとも」と答えた(と、記憶には残っているが実際はもっとうにゃうにゃした、煮え切らない返事だったはずだ)。

 小惑星16853Masafumiは、火星と木星の軌道の間、小惑星帯を巡っている(君はもう星になって太陽系を大航海しているのかい)。いつの日か、そこに探査機が到達することを夢見て。

 「はやぶさはすごい。本当にすごいよ。松浦さん、これは書かなくっちゃ駄目だよ」
 私はまだそのときの約束を完全には果たしていない。果たした暁には墓参に行かなくては。

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2011.06.30

この一年ばかりの仕事のまとめ

 去年から一杯働いているなという実感がある。はやぶさ2関連で頑張って毎日更新をした後、ばったり更新が途絶えたのも、とでもじゃないが忙しくてたまらなかったからだ。

 その間を埋めるようにしてTwitterを使っている。この一年ほどはこちらではなく、Twitterがメインページといってもいい状況だった。140文字という文章量制限は、気軽に書いて公開するという点ではよくできている。

 以下、この一年ほどの間にやってきた仕事の一部を紹介することにする。

 去年の3月に出た本なので一年以上前になるのだけれど、JAXA産業連携センターが作ったムック。書名で分かるようにメインコントラクターから中小企業に至るまでの日本宇宙産業を概観できる内容になっている。写真を担当した清水健カメラマンが凄腕で、美しい写真がふんだんに使われている。が、なによりもこの本の目玉は、日本の主な宇宙関連メーカーの一覧表が付いているところだろう。日本にはとんでもないところに高い技術を持った小さな会社がある。
 私はライターとしてけっこうな量の記事を書いている。記名記事として「宇宙産業が歩んだ半世紀」「世界の宇宙産業」の項目も執筆した。


 上記ムックの第二弾。第一弾が宇宙関連産業なら、こちらは宇宙実験、地球観測、衛星測位など宇宙利用産業を概観している。「宇宙兄弟」の作者である小山宙哉さんのインタビューも入ってお得な一冊。
 前回に引き続いてのライター仕事の他、記名記事として「ニュービジネスを創生したGPS衛星」と、綴じ込み別冊の「ドキュメントはやぶさ」を執筆した。「宇宙利用のムックなのになぜはやぶさが」というのはいいっこなし。編集の時点では、はやぶさ抜きの宇宙ムックなど考えられないほどのはやぶさブームが起きていたのだった。もちろん目玉は私の記事ではなく、はやぶさを作り上げた全企業リストである。


 ブルーバックスならではのはやぶさの使った技術に関する解説書。おそらく現時点におけるはやぶさの技術について一番まとまった一般向け書籍になっている。私は編集協力として参加。




 はやぶさ帰還とあかつき/イカロス打ち上げに合わせたNECの広告企画。私はインタビューを担当。こんなページも





 そしてこの、初めての子供のための本。実は私としては「H-IIロケット上昇」(1997年)「スペースシャトルの落日」(2005年)に次ぐ、3冊目のハードカバーだったりする。お子様の夏休みの読書に是非是非…






 iPhone/iPad向けの電子ブックの日経BPストアからも1冊出している。

 というわけで、電子ブックに関する本を電子ブックで出版するというなかなかメタな試み。Android版も出すという話を聞いているが、まだ出ていないようだ。

 肝心の内容については、深川岳志氏が、PC Onlineの「iPadで読む今週のお薦めコンテンツ」で紹介してくれている。

 「電子書籍に関する15の考察」は、出版界という狭い世界を相手にした本ではない。電子書籍という存在をもっと広く、大きなものとして捉えており、読後感は爽快だ。「電子書籍なんて……」と暗い顔で呟いている人に読んでほしい。価格は350円と破格の安さだが、さらに無料のLite版が用意されている。Lite版では「はじめに」「第1章」「第2章」を読むことができる。立ち読みの分量としては十分だろう。

 過分な言葉、どうもありがとうございます。

 しかし、まず「日経BPストア」というアプリをダウンロードし、そのアプリへのアドオンとして電子ブックデータを買うという煩雑さはなんとかならないだろうか。

 近日中にもう一冊、自転車ネタの電子ブックが出る予定。




 この他にもいろいろ書いているので、随分と仕事したなあという印象ではある。いや、まだ足りないのかもしれない、と反省。

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2010.06.16

はやぶさ2に向けて

 ただいまアリススプリングスの宿にいる。はやぶさ再突入帰還カプセルの余韻にひたったまま、15日はアリススプリングス郊外にあるヘンブリー・クレーターを見に行ってきた。約5000年前に落ちた隕石によってできたクレーターだが、衝突直前に割れたことで大小10数個のクレーター群を形成している。雨のたびに土砂が流れ込み、内部には樹木が生い茂り、鳥とバッタの楽園になっていた。

 日本では、はやぶさ2推進のためのネット署名が始まっている。こういう動きが自発的かつ既存の関係者(自分も含めて)以外のところから出てくるのはいいことだと思う。
 管首相が、はやぶさ2予算に含みを持たせた発言を参議院でしたそうだが、それも一般が盛り上がったればこそだろう。一般が声をあげることはとても大切だ。私も一国民として署名をした。

 これで「はやぶさ2」がつぶれるようなことがあったら、JAXAは国と国民の両方から信頼を失うことになるんじゃないだろうか。

 そして、こちらのパブリックコメントの締め切りも迫ってきている。

「「月探査に関する懇談会 報告書(案)」に対する意見、及び「ロボット月探査の計画の愛称」の募集について 」 6月17日木曜日必着。 t

 宇宙開発戦略本部に意見をもの申すチャンスだ。「見当はずれのことを言ってしまうのではないか」「自分が意見を出したところで事態は変わらない」などと考えず、どんどん意見を出そう。
 私の見方は週刊ダイヤモンドに書いた通り。「アメリカについていくつもりで懇談会作ったはいいけれど、アメリカが有人月探査をやらないって言ったのに、自分だけ月に行こうとして、もはや存在しないアメリカの計画に付き従おうとするのは滑稽だ」というもの。
 月の科学探査には意味がある。これは間違いない。しかし、月の資源とか将来の宇宙開発の拠点とか言われると???となってしまう。

 はやぶさが示したのは、国民がきちんと興味を持てばそれを国もJAXAも無視できないということだった。
 まずは声を上げることからだ。

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2010.06.13

オカエリナサイ――南オーストラリア・ク-バーペディにて

 どたばたしているうちに2ヶ月も更新を空けてしまった。

 今、オーストラリアの南、クーバーペディに来ている。あと22時間ほどとなった小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還を取材するためだ。JAXAの回収隊及びマスメディア関係者が、再突入カプセルが着地するウーメラ実験場の南側のグレンダンボという街にいるが、私は反対側のクーパーペディに陣取った。 こちらにもJAXAの光学観測班が待機しているとのこと。発光する再突入カプセルを観測して、着地点を推定するためだ。

 ついにここまで来たのか。
 2005年の小惑星イトカワへのタッチダウンとその後の通信喪失、翌年の劇的としか形容しようのない復帰と、満身創痍の機体による帰還飛行。ここまでたどりついただけでも、本当に良くやったと言わねばならない。

 「はやぶさ」に関する情報流通も着陸があった2005年に比べればぐっと良くなった。今回は私ががんばらなくとも様々な情報が広く公開され、多くの人々に届くだろう。私は、私にしかできないことがあれば、その都度このブログとTwitter(@ShinyaMatsuura)に書き込んでいくことにする。現地はかならずしも通信状況が良くないので、情報が遅れることもあるだろうがご容赦願いたい。

 この後何があっても、私はバンザイをするだろう。再突入が失敗したって許す、カプセルに何も入っていなくても許す(私が許したからどうだ、というのはとりあえず突っ込まないで欲しい)。それは失敗ではない。始まりが終わっただけだ。まだまだやること、やれることはいっぱいある。

 いまから心しておくことがある。「はやぶさ」を忘れてはならない。これをきっかけに日本を「はやぶさ2」をはじめとした様々な探査機をどんどん太陽系の各所に飛ばせる国にしていこう。そのためには「はやぶさ」を忘れてはならない。

 実は私たちはかなり忘れやすい。

 前例がある。1912年、白瀬矗に率いられた日本初の南極探検隊は、アムンゼンとスコットが南極点到達を競ったのと同時に南極を踏破した。経験不足もあって彼らの足跡は南極大陸のごく一部にとどまった。それでも白瀬隊の探検は、「日本がフロンティアに出ていった」最初期の行為となった。
 白瀬隊の資金はかなりの部分が民間からの募金でまかなわれた。当時、メディアも国民も白瀬の構想をこぞって応援したのである。しかし、白瀬が帰国し、歓呼の声で迎えられ、その後しばらくして起きたのは忘却だった。

 白瀬は南極探検にあたって少なからぬ借金をしていた。しかし借金が消えぬ間に、白瀬隊への一般からの支援は消え、きれいさっぱり白瀬は忘れ去られた。
 帰国後の白瀬は、南極で撮影した映画フィルムを抱えて講演をしては借金を返済するという生活を20年以上に渡って続けざるを得なかった。本来ならば何らかの形で継続的に南極探査を実施すべきところを、第二次世界大戦後、永田武・西堀栄三郎らが学術調査としての南極調査を再開するまで、日本の南極探査は途絶えた。

 はやぶさは世界初の壮挙を成し遂げつつある。それは終わりではなく始まりだ。より深く太陽系を理解するためにより様々な場所へ、より遠くへ。


 今、「はやぶさ」の後継機「はやぶさ2」は、開発が開始できるかぎりぎりのところにある。当初2010年を予定していた打ち上げは、奇妙なことに引き延ばされるだけ引き延ばされ、現状では2014年である。

 小惑星には様々な種類がある。「はやぶさ」が赴いた小惑星イトカワは、岩石主体のS型小惑星だった。このほか、炭素主体のC型、金属主体のM型、その他反射光のスペクトルの違いでP型、E型、B型などに分類される。S型を探査したので、次にC型を狙うわけだ。

 「はやぶさ2」の航行能力で到達できるC型小惑星は、この1999JU3しかない。

 小惑星に限らず、太陽系の他の星への打ち上げのチャンスは、地球との位置関係によってかなり限定される。
 「はやぶさ2」の目的地であるC型小惑星1999JU3へは、2014年の打ち上げチャンスを逃せば、次は2020年代となる。つまり、2014年打ち上げを逃せば、事実上の「はやぶさ2」は中止になる。
 2014年打ち上げのためには、2011年度に数十億円規模の予算が付き、開発がスタートすることが必須である。「はやぶさ2」は、ほぼ「はやぶさ」同型機とはいえ、一品物の機体を制作するのに打ち上げまで4年という時間はもはや限界にちかい短さだ。

 技術も人も、続けることによってのみ維持発展する。今年は、「はやぶさ」の成果を日本が「はやぶさ2により」継承発展させることができるかどうかがはっきりすることになる。

 まず私たちが見守るべきは、「はやぶさ2」を巡る予算の状況だろう。

 しかし「はやぶさ2」も終わりではない。
 その先には、枯渇彗星核を狙うより大型の探査機「はやぶさマーク2」があり、現在順調に航行を続けるソーラー電力セイル試験機「イカロス」の技術と「はやぶさ」のイオンエンジンが合体した、木星及びトロヤ群小惑星観測を目指す「ソーラー電力セイル探査機」構想が存在する。私たちの知識は少なく、太陽系は広大だ。

 明日、はやぶさはマイナス5等の明るい流星となって南オーストラリア上空に輝くことになる。私は消えゆくはやぶさの光に「日本が継続的に太陽系全域を探査できる国となるように」と願うつもりだ。

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2010.03.03

船長の船出

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 2月28日、小菅文雄さんが亡くなられた。享年73歳。物書く漁師。江ノ島は片瀬で、60年近くも相模湾の沿岸漁業に携わってきた生粋の海の人。

 チリの地震による津波を心配し、船を見に港に出たところで心筋梗塞を起こしたという。こんな形で津波の影響が身辺に及ぶとは言葉もない。つい一週間前に、釣りの新年の宴席でお会いしてきたばかりだった。ほろ酔い機嫌で「最近どうしてんの、仕事してる? 北朝鮮のロケットってどうよ」と話しかけてきた。その時は、まだまだお元気だろうなと思ったのだけれども。


 自分のブログを検索したら、小菅さんについて触れている記事が2本あった。

 それぞれの記事に登場するKさんとは、小菅さんのことである。

 以前、小川一水さんが「漁を取材したい」と言った時に、小菅さんを紹介したことがあった。小川さんが小菅さんの漁船に同乗した時の記録。取材成果は「群青神殿」に反映された。


 3月3日の葬儀では、小川さんの弔電も読み上げられた。

 小菅さんは、片瀬の漁師の家に生まれ、中学を卒業してすぐに漁師となった。石原裕次郎や加山雄三が青春を謳歌していた同じ湘南の海で、同年配の小菅さんは毎日漁に出て、働いていたのである。
 小菅さんがただの漁師でなかったのは、文章が書くのが好きだったことだ。漁師という職業は、過酷な自然を相手とするせいか刹那的なところがあって。文章を書いたり記録を取る気風に乏しい。
 しかし、小菅さんはせっせと文章を書き続け、世間で認められるようになった。おそらく、まとまった文章を発表する唯一の漁師ではなかったろうか。

1936年、神奈川県藤沢市の代々続く漁師の家に生まれる。若い頃より家業の漁業に専念していたが、40歳代で初めての小説「海鳴」を執筆、1981年の「第8回野性時代新人文学賞」(角川書店)の最終候補作品に選ばれる。以後、漁師のかたわら創作活動を続け、1988 年、小説「五郎の海」が「KAZI海洋文学賞」(舵社)を受賞。幼い頃より親しんできた湘南片瀬の海と町をこよなく愛し、現在は伊勢エビ漁を中心にした漁師稼業と文筆業にいそしむ日々。持ち船は文成丸といい、藤沢・鎌倉に暮らす文学仲間たちと、釣りと酒を楽しみ文学を語る会「文成丸釣飲会」を主宰。著書に『五郎の海』(ペンネーム:小菅太雄、舵社刊、1996年)。 http://www.minatonohito.jp/books/b065.html より
 長年書きためていたエッセイ集を出版し、NHKラジオの「ラジオ深夜便」にも出演し、まだまだ海も文章もやる気十分だった。

 湘南藤沢あたりの文士らの釣り好きと小菅さんが語らって、釣飲会という釣りの会を結成したのは1970年代後半だったか。父が参加して私も釣飲会にしばしば連れて行かれるようになり、船を出す小菅さんとの面識ができた。

 笑顔が素晴らしい、素朴と素直と稚気を凝縮したような方だった。一方で船の上では、けっこう厳しかった。釣れないでいると「怠けてちゃだめだよー。魚は絶対いる場所に連れて来ているからね。松浦の兄ちゃん、あんたの腕が悪いんだからね」と拡声器で怒鳴られた。
 自動車マニアでもあった。外車に乗るというのがポリシーでいつもボロボロの外車に乗っていた。一度だけ、ポルシェ924に乗せてもらったことがある。床がサビて大穴があいていて、アスファルトが見えていた、「缶でも潰して敷いておかなくっちゃな」と意にも介していなかった。

 釣りの知人達は、小菅さんのことを「船長さん」と呼んでいた。小菅さんの風貌と小さな漁船は常に一体だった。

 知り合って30年近く(そして私も初めて会った時の小菅さんの年齢を超えた)、私にとっての相模湾とは、すなわち小菅船長のいる海となっていた。

 朝晩に海岸を散歩する時も、机の前で「ああ、締め切りから逃げて海に行きたい」と思う時も、思い浮かぶ相模湾とは、そのどこかで小菅船長が漁船を走らせている海なのだった。どこにいるかは知らないが、必ずどこかにいる、晴れの日も雨の日も、湾のどこかをコンコンとエンジンの音を響かせて走っている、そんな確信がいつの間にか自分の中に根付いていたのだった。

 船長、さよならはいいません。あなたの新たな海路が平安でありますように。

 生前に出た小菅さん唯一の小説。名義はペンネームの「小菅太雄」となっている。「いや、文雄というのはどこか弱そうだからさ、太雄ってしたんだよね」と言っていた。小説としては荒削りなのだけれど、本書で読むべきはストーリーではなく、自らの経験に裏打ちされた圧倒的な海の描写だ。紙面から飛沫が飛んでくるような臨場感に溢れている。

 釣飲会の会報に「片瀬今昔」と題して小菅さんが長年書きためてきたエッセイからの選集。漁師とはどのような職業か、どのように物事を見て生きているのか、かつての江ノ島あたりの漁はどのようなものだったか、進駐軍が上陸してきた日の思い出、小菅さんのお父上が語った関東大震災の時の相模湾——すべてが具体的に描かれている。

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2009.11.01

旧車會珍車會には鉄槌を

 いつか盛大にdisってやろうと思っていたら、捕まってしまったよ。

40歳暴走族リーダー逮捕=関東最大規模組織−神奈川県警(時事通信)

 乗用車やバイク約70台を連ねて暴走行為をしたとして、神奈川県警交通捜査課は31日、道交法違反(共同危険行為)容疑で、関東最大規模の暴走族組織「全日本レーシング連盟」リーダーの無職伊藤健志容疑者(40)=横浜市鶴見区潮田町=を逮捕した。
 同課は、これまでに同容疑で同連盟メンバー19人を逮捕。最高齢は41歳だった。伊藤容疑者らは、暴走族OBらが旧型オートバイなどを改造して集団走行する「旧車会」と呼ばれるグループだという。

 去年の春、東京湾フェリーで房総半島に渡ってツーリングをした時のこと。千葉県側、金谷のフェリーターミナルでフェリーを待っていたら、そこに盛大な爆音をまき散らし、数十台の“族仕様”バイクの集団がやってきた。ナンバーを見ると横浜が主だった。もう「湘南爆走族」から出てきたような上向いたロケットカウルのバイクにファッション。う゛ぁんう゛ぁんふかして蛇行運転。その数30台ぐらい。

 なんだなんだ、 房総半島のどこかにタイムトンネルが開いて、バックトゥザ80sにでもなっているのか?

 ぞろぞろと、湘南爆走族ファッションの連中が降りてくる。ドカヘルをはずして白マスクを取ると、全員三十過ぎのおっさんフェイス。

 びっくりしたなんてもんじゃない。族なんてもんは十代のバカガキがやるもんじゃなかったのか。こいつらは何者だ?
 というわけでバイク関係の知人やらバイク屋経由で少し調べたのであった。

 連中の正体は旧車會というオヤジ暴走族だった。かつて暴走族だったオヤジ共が、またぞろ同じ格好して同じことをしていたのである。

 以下、一般に暴走族と呼ばれている連中の事を、ネットの呼称に従い「珍走団」と記述する。同様に旧車會は「珍車會」と書く。だいたい、「旧」の旧字体は「舊」なのに、「旧車會」などと名乗っている時点でおつむの程度は知れようというものだ。彼らには「珍」の文字がふさわしい。

 調べた結果は以下の通り。


  • 暴走族珍走団あがりの30歳以上が、過去を懐かしみ「旧車會」と名乗って、暴走行為珍走行為を行っている。
  • その手の連中は全国にけっこういるらしい。「旧車會」で検索をかけるとけっこうな数のホームページがひっかかる。しかもレディースまでいる(見たくない…)。YouTubeに自らの暴走行為珍走行為をアップしていたりもする。
  • まっとうなオールトタイマーなバイクの愛好家の集まりは、主に「旧車会」を名乗っている。一方、珍な連中は「旧車會」
  • 彼らは自分たちの行為を暴走行為ではないと主張している。その根拠は「制限速度を守っているから」。実際走っているのを見ると、そんなに飛ばしているということはない。しかし、制限速度を守っていれば、他はなにをやってもいいというのは、中二病だ。中年にして中二病…
  • バイクは、GT380やら、KH250/400やら、CB400やら、要するに彼らが現役の暴走族珍走団だった頃のバイクにそのまま乗っている。しかも天を突くロケットカウルに白のシートといった、いわゆる珍仕様。
  • あきれたことに珍仕様の中古車を扱うショップも存在する。そこにいくと、例えばぴかぴかの珍仕様のGT380が100万円もの高値で売買されているとのこと。
  • つまり、旧車會珍車會とは、大人の財力でかつての暴走族珍走団バイクを購入し、いい歳して暴走行為珍走行為にふける大人の集まりである。
  • 路上で観察するに、湘南海岸近辺には横浜ナンバーと小田原ナンバーの旧車會珍車會が出没している。どうも神奈川県内に2〜3、あるいはそれ以上の数の団体が存在する模様。

 大人の財力で、中学生みたいなことをしている——これほどまでに情けない、惨めなバカというのもちょっと他には考えられない。

 が、彼らの何が一番惨めかといえば、「ガキんときにバカだった奴は、大人になっても結局バカで、賢くはなれないよ」という実例を、子供達の前に晒して回っていることだと思う。

 ちなみに、今でも湘南海岸にはガキの暴走族珍走団がいる。数は減ったし、かつてのように数十台も連ねて走ることはないが、それでも珍なバイクに乗り、道交法無視で走っている連中はしょっちゅう見かける。

 十代の子供が、中二病であったりバカであったりするのは一面では仕方ないことだ。そんな彼らの心の中には、「大人になったらまともになるんだ」的な希望があったりする。尾崎豊の「15の夜」で、バイク盗んで走り出しちゃう15歳のおバカちゃんが、「彼女ときっと将来さ」とか、いかにも中二な夢を見ている——あれだ。

 旧車會珍車會の行いは、そんな十代の暴走族珍走団の連中の心にある希望を、こなごなに打ち砕くものであるといえるだろう。バカはいくつになってもバカなんだよーん、お前らは大人になっても賢くはなれないんだよーん。ほーら実例がここに。う゛ぁんう゛ぁん。

 そう考えると、横浜ナンバーの旧車會珍車會ご一行様が東京湾フェリーでわざわざ千葉まで行って、暴走行為珍走行為をしていたのも、「地元だと嫁と子供の手前、外聞が悪いから」じゃないかと勘ぐりたくもなる。

 今回捕まったのは、横浜の旧車會珍車會の連中だそうだ。神奈川県警としてはもっと徹底的に仕事をして欲しい。その上で法の許す限りの厳罰が、彼らに科せられることを願う。

 彼らは自身がバカで、周囲に迷惑をかけるだけではない。かつての彼らと同様の、愛すべきバカガキ共の希望をも踏みつぶして回っているのだ。もちろん中二病の希望に根拠などないのだが、それでもどんな子供であっても、子供には希望が必要なのだ。

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2009.09.27

Twitterを使う

 うかうかしていると、すぐに更新が一ヶ月以上途切れてしまう。

 9月11日のH-IIB試験1号機/HTV試験機の打ち上げの取材で種子島に行ったり、なんだかんだとどたばたしていた。

 今回の種子島取材で、初めて本格的にTwitterを使ってみた。「ミニブログ」などといわれるが、1回の投稿を140文字に制限したblogとチャットの中間ぐらいのサービスだ。私の発言はこちらで読むことができる。

 少し前から当blogの左上に青色の視覚が表示してあるが、これはTwitterのブログパーツだ。私の最新の書き込みを読むことができるようにしてある。ここしばらくは、当blogを放っておいてTwitterであれこれ発言しつつ試行錯誤してみていた。

 メディア・ジャーナリストの津田大介氏が、Twitterでイベントのリアルタイム中継を行い、その後Twitter利用の中継が「tsudaる」などと命名されたのは、ネットユーザーならとっくにご存知だろう。


 種子島Twitter中継は、自分としては「津田大介のすなる“tsudaる”を自分もせむとて」といったところ。前提として、ある程度の容量の回線でネットとつながっている必要があるが、今回の打ち上げから種子島宇宙センターのプレスセンターにおいて、無線LANが使えるようになった。環境は整ったのだから、まずは試してみるのが正しい態度だろう。

 実際やってみると、「tsudaる」は大して難しくなかった。耳から入る言葉を整理してパソコンに入力することができれば(これは慣れ次第でできるようになる)、今までの記者会見と変わりはない。

 面白かったのは、どんどん流していく途中で、「こういう質問をしてくれ」というリクエストが来たりすること。これは、今までならばありえなかった、Twitterならではの特徴だろう。もちろん、リクエストに応えてもいいし、別に無視したって構わない。

 Twitterの特徴は、そのべとつかない適度に距離感を置いたコミュニケーションだと思う。Twitterはmixiのように「友人」「友人の友人」といった、実際の対人関係を持ち込まない。面白い人がいれば、勝手にフォローするだけ。「承認する/しない」といったウエットな要素は排除されている。

 フォローした相手の発言に対して何かをいいたければ、リプライをかける。相手には「どこのだれがどんなリプライをかけたか」はすぐにわかる仕組みになっている。その一方で、リプライに応答する義務はない。返事したければするし、無視ししてもいい。

 140文字という情報の制限は、簡潔な物言いを強制する。「ああでもない」「こうでもない」というねちねちとした文章は、あっさりと文字数制限に引っかかって投稿不可能になる。結果、言いたいことをギリギリまでけずった簡素なやり取りが実現する。もちろん、面倒になれば議論を打ち切るのも勝手。

 緊密さと同時に、泥沼にならないような適度な距離感を保つというコミュニケーションの設計法が、Twitterを、今現在、もっとも注目されるネットサービスに押し上げている——というのが、実際に使ってみての私の印象だ。

 便利なので、当面はblogと併用していこうと思っている。

 しかし、このblogにmixiにTwitter——少々、戦線を拡げ過ぎのような気もするな。身は一つ、頭も一つ、キーを叩く指も10本と変わりないので、ここの更新が滞ったら、「またTwiiterにうつつを抜かしているぞ」ぐらいに思って下さい。

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2009.08.24

さようなら、KIMさん

 木村雅文さんが8月11日、この世を去った。享年50歳。22日に葬儀があり、私も参列してきた。

 日本の宇宙開発は貴重な人材を、私はかけがえのない友人を失った。

 木村さんは、日本電気航空宇宙システム(NAS)の技術者で、軌道設計の専門家だった。1985年のハレー彗星探査機「さきがけ」「すいせい」に始まり、スイングバイ技術試験衛星「ひてん」(1990)、日米共同の磁気圏観測衛星Geotail(1992)、火星探査機「のぞみ」(1998)、小惑星探査機「はやぶさ」(2003)などなど、宇宙科学研究所(現宇宙科学研究本部)が実施した、ほぼすべての衛星・探査機の軌道計画立案に参加してきた。

 もっとも分かりやすい部分で代表させるならば、「軌道の魔術師」川口淳一郎教授が立案する軌道計画に対して、数値計算による裏付けを与えてきたのが木村さんであり、木村さんが育てたNASの技術者達だった。宇宙の彼方で緊急の事態が起きたとき、川口教授の指揮下、昼夜を分かたぬ突貫作業で救出のための新たな軌道を計算し、妥当性を検証し、最終的にまとめ上げたのが木村さん達だった。
 彼らは、川口教授が描いたデッサンを、物理法則にかなう一本の優雅な線に仕上げたのだった。

 「ひてん」の華麗なスイングバイ軌道も、地球脱出時にトラブルを起こした「のぞみ」を救うためのアクロバティックな軌道も、イオンエンジンを噴射し続け、刻一刻と軌道要素が変化し続ける「はやぶさ」の軌道も――すべて木村さんとその仲間達の緻密な計算によって現実のものとなったのである。

 私にとって、木村さんはパソコン通信のハンドルネームKIMさんだった。インターネット以前の1990年頃、パソコン通信Nifty-SERVEのスペースフォーラム(FSPACE)で、私は「宇宙開発の部屋」の管理人をしていた。KIMさんは常連の一人だった。あの頃、「宇宙開発の部屋」は、素人、マニア、本職が入り乱れる一種独特の言語空間だったが、彼はそこに常に的確な内容の文章を書き込んでいた。オフ会で本人と会い、本職であると知った。
 うまが合った我々は、時折連絡を取っては町田の街を飲み歩くようになった。お互いの仕事の内容について差し支えない範囲内で話し合い、現在を憂い未来を語る。そんなつき合いだった。町田の飲み屋での交遊はインターネットの時代になり、FSPACEに集った者らが四散した後も続いた。
 彼は常に節度を持って酒を飲んだ。飲み過ぎで終電を逃した私が彼の家に泊まったこともあった。気が付くとなぜか自宅にいることもあった、前後不覚になった私を、彼が送ったらしかった。

 全く持って私はKIMさんの世話になりっぱなしで、ダメな飲み友達だった。

 しかもこのダメ友は、しっかりと交友から元を取った。2002年の半ば頃だったか、「もう話してもいいだろうけれど、1998年ののぞみの地球脱出の時は本当に大変で大変で」と話してくれた。「これは書ける!」と私は直感し、その直感は後に「恐るべき旅路」となった。執筆時も彼は節度を保ちつつ、様々な資料を提供してくれた。「私はメーカーの人間でチームで動いています。宇宙研の先生達と違って、私一人でなにかができたわけじゃない。だから私のことは書いちゃダメですよ」という言葉と共に。

 しかし、私はすでに彼の果たした役割を知っていた。あくまで事実に即しつつ、彼の仕事の邪魔にならず、なおかつ彼の立ち位置と役割が分かる書き方を色々と考え、私は「恐るべき旅路」の掉尾を飾る「最後の勇者達」の部分に、一度だけ、彼の名前を書き込んだ。

 KIMさんは「恐るべき旅路」の出版を喜んでくれた…と思う。内心「コノヤロー余計なこと書きやがって」と思っていたのだとしても、少なくとも顔色には出さなかった。
 2005年初夏、私たちは町田で出版記念の祝杯を挙げ、間近となった「はやぶさ」のイトカワ探査に思いを馳せた。

 月探査機「かぐや」で、彼は軌道ではなくハイゲインアンテナによる高速データ通信システムを担当した。「おかしいでしょう。みんな『木村さんは軌道担当じゃないの』って聞くんですよ。人の使い方、間違ってるよね」といいつつも、彼は熱意を持って仕事にあたった。通信システムは開発時に色々なトラブルを出したが、打ち上げ後はノートラブルで順調にデータを送信してきた。
 KIMさんは、すべての任務を達成して月面に落下するかぐやから、最後の瞬間までデータが途切れることなく送信されてくるかということを懸念していた。かぐやの月面落下は6月11日早朝と決まった。それなのに。

 彼はは6月4日に病に倒れた。すぐに集中治療室入りとなり、治療のため意識レベルを下げる処置が続いた。そのまま闘病2ヶ月。

 かぐやが最後の最後までデータを送ってきたことをついぞ知ることなく、忽然と君は旅立ってしまった。

 ああ、KIMさん、俺は本当に悲しいよ。かぐやのミッションが終わったら乾杯するはずだったろ。「はやぶさ」の帰還だって見るはずだったよな。自分が結婚し、家庭を持った後は口癖のように「松浦さんも結婚しないと長生きできないよ」と言っていたじゃないか。長生きして、もっともっとたくさんの華麗な軌道を太陽系空間に描くんじゃなかったのかよ。

 今は宇宙へと飛翔した君の魂の旅路が安からんことを祈る。そして今後とも、様々な探査機が、君の後を追って宇宙に様々な軌道を描いていくのであろう。

さようなら、KIMさん。



 この本を、著者の私がこのようなエントリにおいて「読んでくれ」と書くのは、ひどく恥知らずな事なのかも知れない。それでも私は、「この本を読んでください」と言いたい。すでに読んだ人には「読み返してください」とお願いしたい。そして、私が書かなかった部分に木村雅文さんという有能で謙虚な技術者がいたことに、ほんの少しだけ思いを馳せてもらえれば、と強く願う。


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