2008.11.21
少し占いについて書こう。それは、自分が過去、いかにトンデモや疑似科学に惹かれてきたかの告白でもある。
姓名判断に興味を持ったのは確か小学生五年の時、母方の祖母が持っていた野末陳平の姓名判断本を読んだからだった。
それは明快で、素晴らしいものに思えた。漢字の画数を数える。それらを足し合わせて、出てきた数が吉数か凶数かを調べ、それぞれの数字の象徴するものと考え合わせれば、人の運命が分かる。身も蓋もない「数字だけ」というところがずいぶんと気に入った。
その後、父方の祖母が持っていた別の本も読んだ。少々やり方が違い、もう少し複雑な計算をしていたが、基本は足し算だった。私は自分の名前を判定して喜んだりおたついたり、様々な人の名前を判定してはそれらの人々の人生を思った。
究極の名前を作ろうとしたのは確か中学の2年の時だったか。名前が良いとか悪いとかいうが、その実態はたかだか2ケタの足し算だ。それならばいくつかの条件を課して総当たりで調べていけば、「もっとも良い名前」を見つけることができるに違いない——そこまで組織的に考えたわけではないが、すべてが吉数で構成され、その他偶数奇数で判断する陰陽やら名字と名前の接続やら、とにかくすべてが最高の名前を作ってやろうとしたのだった。
確かに大した手間ではなかった。10日ほど熱中したら、すべてのパターンを尽くしてしまったと記憶している。が、「究極の良い名前」は存在しなかった。あちら立てればこちらが立たず。いくら除去しようとしても欠点は必ず入り込んできた。
姓名判断に対して、最初の疑念を抱いたのはその時だったかも知れない。が、そう考えるのは後から振り返ってのことであり、その時は単に「なんだ、最高の名前なんてないじゃん」で、飽きて放り出したのだった。
父方の祖母は、いわゆる気学が好きで、いつも手元に長く連なった易断用の暦を置き、会話には「あの人は三碧木星だから」というような言葉が出てくる人だった。その関連からちょっと四柱推命に興味を持ったこともある。が、その興味は続かず、次にのめり込んだのは占星術だった。高校を卒業して浪人生活を送っていたころのことである。
当時、割とマスコミに露出している科学者が占星術に根拠ありという内容の本を出していたと記憶している。確か糸川英夫の名前を冠した占星術の本もあったはずだ。
星の動きなら、二ケタの足し算よりは性格に人の運命を見通せるのかも——という期待もあったが、それよりも、当時のちょっと科学っぽい装いを被った占星術に惹かれたといったほうがいいだろう。色々な本を読んだ。
占星術の夢が破れたのは、多分大学に入った最初の年の学祭だったろう。電算機研究会がやっていたコンピューター星占いで、自分のホロスコープを出して貰った。
占星術では星と星の角度で吉凶を占う。角度が60度、120度なら吉、90度、180度なら凶。ところが自分のホロスコープにはそんな明快な角度などなかった。各惑星はてんでばらばらに散らばっているように見えた。ところが、コンピューターは、半角カタカナ(当時のパソコンはそれしか扱えなかったのである)でなにやら私の運命について、どこそこが良くて別のところが悪くて、と宣言していた。
具体的に星の位置を見せられた時、それまでさんざん読んでいた占星術の本へ期待が消えた。どこが60度やねん!どこが90度やねん!!角度のずれを許すっていったって、例えば70度は吉で80度は凶だというのか??
正確に書くならば、回心は突然訪れたのではなかった。占いに期待し、なおかつ生じる不審な事実が徐々に蓄積していき、気が付くと私は一切の占いを信じなくなっていたのだった。
はっきり言い切ろう。占いの類はキリスト教の奇跡から姓名判断、気学、占星術、手相に顔相に易に四柱推命にノストラダムス、果てはトルココーヒーのコーヒー占いから深夜テレビのエレクトーン占いに至るまで、一切当たらない。
正確には確率論的にしか的中しない。私たちが当たったケースを記憶し、外れたケースを忘れているだけだ。
この世はでたらめを言っても的中する確率が常に存在する。「明日飛行機が大事故を起こすぞ!」、そうかもしれない。そうでないかもしれない。言い続ければいつか当たる確率は上昇していく。全部確率論だ。
もちろん職業的な占い師は、はっきり白黒が付くような結果は出さない。常に解釈の余地があるようにして、収入の道を保護する。例え外れたことで追いつめられたとしても、過去何千年にも渡る占いの歴史は、外れた場合の言い逃れの論理を洗練させてきた。先人に習えば、いくらでも言い逃れることはできる。
例えば、易で言う「より深い易断」を知った時には、涙が出るほど笑ったものだ。易は陰陽四象八卦と2進法で運命を分類する。それぞれの二進数に意味が付与されるわけだが、時として「この場合はより深い読みをする」として、意味を全く逆に解釈することがあるのだ。つまり筮竹から引き出された二進数に意味はない。意味は占い師が与えるのである。なんというハンプティ・ダンプティ。
今も占い師という職業は成立しているから、占いに頼っている人は多いのだろう。民放テレビ局は朝の放送では大抵「今日の運勢」を放送している。あんなものは私が子供の頃はなかったのだが。
それを「バカが多いな」と切って捨てることはできない。そして未来への不安をまぎらす文化的な装置として占いをとらえると、それは決して悪いものではない。
だが、自分の人生行路を占いに依存するぐらいなら、数学の教科書を開いて確率論の勉強をしたほうが、よほど実用的だということは、頭に置いておくべきだと思う(特に賭け事において。期待値を理解すると馬券や宝くじを買うのがバカらしくなる)。
自分の恥ずかしい記憶を掘り起こしていくと、私が占いから脱するにあたっては堀晃さんのハードSF2編が道しるべとなってくれたことに思い至る。
一つは「アンドロメダ占星術」。占星術に実は重力が運命に与える影響という理論的基盤があったという話だ。人類は運命から逃れるべく、地球を脱出する。するとそこは太陽の重力が支配する空間だった。人類は太陽の重力を逃れ、恒星間空間に進出する。するとそこは銀河系の重力が運命を支配する空間だった。すると人類は——という規模がインフレーションを起こす壮大な短編である。
これを読んだ時、はっきり書くなら既存の占星術よりよほど信頼できるのじゃないかと思った。少なくともこの小説程度に論理の筋道が通っていなければ、それは占いとは言えないのではないか、と。
もう一つが「地球環」。異星人からの謎のメッセージを解読するには、というところから始めて、エネルギーのエントロピーと情報理論におけるエントロピーを巧みに混合して、「記号が存在するとして、その記号に意味を与えるのは誰か」というテーマを扱ったものだ。
だから、今、占いに頼らなければならないほど自分の未来に不安を感じている、特に若い人へのアドバイスがあるとすれば「ハードSFを読めばいいと思うよ」だ。自分の狭い経験に基づく我田引水の忠告だが、私の実感である。
石原藤夫、堀晃、谷甲州、山本弘、野尻抱介、林譲治、小林泰三、A・C・クラーク、ハル・クレメント、ラリイ・ニーブン、ロバート・フォワード、テッド・チャンなどなど。
実は「ハードSFを読もう」、というオチなのでした。
「アンドロメダ占星術」は、今やSFファンの間で幻の本と化している(結果、古本はすさまじい高値となっている)ハヤカワ文庫「梅田地下オデッセイ」(1981年)にしか収録されていない。「地球環」は2000年刊のハルキ文庫で読むことが出来る。新刊は売り切ったようだが、まだ古本も安い。傑作がぎっしりと詰まった一冊だ。読むべし。
堀晃の最高傑作というと、この「バビロニア・ウェーブ」になるのだろう。太陽系を離れた遙かな辺境宙域で、巨大なレーザービームの光束が発見される。人工物か自然のものかすら分からない光束から、やがて人類はエネルギーを取り出すことを覚え、未曾有の繁栄を謳歌することになるが、しかし…という壮大なストーリーだ。
こちらは昨年文庫で復刊した。これも今すぐ買って読むべき本だ。
追記:
なぜ、こんな話を書いたかというと、某科学者のblogのコメント欄に、占星術の擁護者が現れて物の見事にやっつけられているのを見て、過去を思い出したのであった。
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2008.01.17
12月の話だが、日経新聞の先輩Tさんと忘年会をした。科学技術報道の先輩なのだが、昨年、ひょんなことから2人ともクラシックファン、しかもショスタコーヴィチが好きということが判明し、「一度飲みますか」ということになった。
昨年11月から12月にかけて、記念碑的コンサートが開催された。指揮者の井上道義がショスタコーヴィチの交響曲、全15曲を8回の連続演奏会ですべて演奏したのだ。
・「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト」
私はこれにすべて通った。Tさんも仕事が許す限り通った。「いやあ、すばらしかったね」とワインを飲みつつ盛り上がる。
話は、テレビドラマやアニメで盛り上がっている「のだめカンタービレ」へと流れた。
「松浦さんねえ、クラシックの側から見た『のだめ』の功績って、ベートーベンの7番を一般に知らしめたことだと思わないか」
ここでいう7番というのは第7交響曲のこと。5番の「運命」、6番の「田園」に続く曲だが、前2曲のようなニックネームを持たない。
「そうですねえ。みんな『運命』も『田園』も一応知ってますけれど、その次の7番を聴いたことがある人は意外に少ないですね」
「良い曲なんだけどねえ」
「大傑作ですよ。あのリズムの取り方はベートーベンが書いたロックとかダンスミュージックとか、そうといってもいいでしょ」
「本当になあ」
と、Tさんが言う。
「みんな知っているものは知りたがるんだ。知っているのに聴きたがるんだ」
「そして知らないものは聴きたがらない。知りたがらない」と私。
「5番の『運命』はじゃじゃじゃじゃーんで知っていて、6番の『田園』はたーらーたーたーららたったーで知っている。でも次に7番があるなんてことを思いもしない」
「ちゃんと9番『合唱』があることは知っているのにね」
「そうなんだ」
「8番も知られてませんね。いい曲なんですけどね」
「他人事じゃないよなあ。僕らの仕事も同じだ。知っていることしか知りたがらない人たちに、知らないことを伝えて行かなくちゃならない」
2人でため息をつく
Tさんはずっと科学技術報道に携わってきた。私は今、宇宙分野で物を書いてどうやら生きている。「人間、知っていることしか知りたがらない」というのはまったくもって実感だ。
人間は本質的に保守的な生き物だ。知っていることを確認して安心することを好む。新しいことを知って楽しむ「好奇心」という属性も持っているが、どちらかといえば「知っていることだけを、知る」傾向の方が強い。
例えばベートーベンの第5交響曲、通称「運命」だが、冒頭の「ジャジャジャジャーン」は知っているとして、あの曇天から晴れ間がのぞくような第2楽章のメロディを思い出せる人はどれぐらいいるだろう。なかなか格好良い第3楽章のフーガは、あるいは第3楽章からトンネルのような暗い接続部を経て、昂然と鳴り出す晴れやかな第4楽章の冒頭はどうだろう。
知らないとしたらなぜ知らないのか。興味がないのか。「この道はどこに続いているんだろう」と同じような、「このメロディはどこにつながっていくのだろう」という好奇心がなぜ働かないのか。
そう、たとえ冒頭の「ジャジャジャジャーン」を知っていても、その続きに好奇心が働く人はわずかだ。曲の全体にベートーベンが込めた深い創意にたどり着く人は、「クラシックマニア」と呼ばれてしまう。
あるいは、「歓喜の歌」の第9交響曲。あのメロディは覚えているとして、では付点付きのリズムが力強い第1楽章冒頭はどうか。ティンパニのオクターブ跳躍が付点付き音符の3拍子で響く第2楽章は、あの天国的な平穏さに満ちた第3楽章は。あなたは覚えているだろうか。きちんと聴いているだろうか。
ひょっとして、「あのメロディが出てくるまで退屈でたまらん」とか言って、演奏会に行くと寝てはいないか。そして第4楽章のバリトンが「おお友よ」と歌い出すところで、「やあ、そろそろだ」と起き出して、すでに知っているメロディを聴いてはいないか。
「だってつまらなそうだから」という人もいる。そんな人でもベートーベンが楽聖と呼ばれる存在であることは学校で習っていたりする。
楽聖とまで呼ばれる男が全力を尽くして作った作品が面白いかつまらないか、試してみる。それだけの好奇心が働く人は、数少ない。
知られていないから、皆知りたがらない。だからますます知られない――クラシック音楽はいつもこんなマイナスのスパイラルと戦っている。
そして科学報道も。
知らないものを知りたがらない人々に、新しい物を知らしめる方法は存在する。マスメディアでヘヴィ・ローテーションをかけて、無意識のうちにその情報にふれている状態を作り出す。つまり、知らないものをいつのまにか「知っていること」に割り込ませてしまうのである。
音楽業界ではよく使われる手法だ。テレビドラマの主題歌タイアップというのもこの手法の一つである。ドラマを見ている人に、音楽を刷り込んでしまうわけである。
しかし、科学報道で同じ手法は使えない。結局、Tさんも私も延々と匍匐前進を続けるしかないのだろう。
「のだめ」でベートーベンの7番を初めて知った方は、ぜひともCDを買って7番の全曲を聴いてもらいたい。とても楽しい曲だから。あなたは、音楽を楽しむにあたっての、すばらしいチャンスを手に入れたのだ。
その上で、できれば同じベートーベンの8番とか(冒頭、弦楽器が「あーくたびれたー」と演奏を始める。本当だよ!)、あるいは最終楽章でファゴットが超絶技巧を発揮する4番など聴いてみてもらえれば… ちょっとばかりうれしいね。
ベートーベン7番だが、ここではベタにカラヤン・ベルリンフィルの1983年録音盤を推薦しておくことにする。クラシックファンはうるさ方が多くて、「カラヤンなんて流麗なだけで中身がない」という人も多いのだけれど、私はカラヤンの演奏をバカにしてはいけないと思う。
流麗に演奏するのは実のところとっても難しいのだ。最初に聴く人には、彼のような演奏のほうがなじみやすいのではないだろうか。
もう一枚、カラヤンと同時期に活躍したカール・ベームが壮年期に入れた録音を。この録音ではそうでもないのだけれど、晩年になるにつれてベームの演奏は、音楽の本質のみを取り出した、それこそ「音楽の骨格」としか言いようのないものになっていった。最後の来日時に演奏したチャイコフスキーの「悲壮」、私はNHKの放送でしか聴いていないけれど、あれはすごかった。本来ふくよかなはずのチャイコフスキーの音楽から、柔らかな表情が一切そぎ落とされ、ホネホネの厳しい、しかし音楽の本質だけが結晶したかのような響きだった。
一説によると、最晩年になって体が動かなくなり、どんどん不明確になっていったベームの指揮棒に、オケが必死になって合わせていった結果そんな音楽になってしまったそうなのだが、本当にそうなのか、私は知らない。
クラシック系の音楽は、知られていないが故に知られない、ということを実証した曲。ポーランドの作曲家ヘンリク・ミコワイ・グレツキの「交響曲3番・悲歌のシンフォニー」。1976年に作曲された。全3楽章で、ソプラノの独唱が付く。すべての楽章がゆっくりとしたテンポで、人生をおそう悲しみを歌う。第2楽章の歌詞は、ナチスの収容所の壁に残された犠牲者の言葉だ。巨大で、悲しく、最後に淡いなぐさめを感じさせる美しい曲である。
この地味な曲は、傑作ではあるがそのままでは忘れ去れて終わりだったろう。しかしイギリスのとある放送局が番組のテーマ曲として、第2楽章をヘヴィローテーションしたところ、欧州を中心に人気が爆発し、1980年代半ばには世界的な大ヒットとなった。ウィキペディアにも一項目が立っているほどだ。
そうだ、傑作はいつだって存在するし、聴かれるのを待っている。知っていることしか知りたがらない私たちの耳は、数多くの傑作を忘却の森の中に置き去りにしているのだろう。
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2007.10.02
現在、三沢に来ている。宇宙作家クラブメンバーによる閉鎖生態系実験設備を持つ環境科学研究所の見学のため。
昨日から研究所施設をあれこれと見せてもらい、今日は二週間の閉鎖実験を終了した研究者2名が施設から拍手と共に出てくるところに立ち会わせてもらった。
最初は宇宙向けの基礎研究として始まった閉鎖生態系研究だが、省庁統合を経て色々と悩みは深い様子。投資して準備していた実験が予算不足その他でできなくなっているという。
午後遅くから、三沢航空科学館に行く。ここには航研機をはじめ、奈良原二式、白戸式旭号と、日本航空の初期を飾る機体のレプリカが展示されている。
それはうれしいのだけれども、やはり展示の密度が不足している。博物館という者は、見学者を展示物の密度で圧倒しなければ意味がないのだ。
航空科学館という名前でわかるように、ここはサイエンスミュージアムもかねており、結果として展示の焦点がぼけてしまっている。航空博物館ならば、航空に絞り、これでもかと飛行機を展示して欲しいところ。屋外にはP-3C、F-104J、T-2などの自衛隊機が展示されているので、これらを屋内に持ち込み、はずしたエンジンと共に別に展示するだけで大分印象が変わるはずなのだけれども。
写真は、航研機。本物は敗戦のどさくさで、羽田の大鳥居あたりに埋められてしまったそうで、もちろんここにあるのはレプリカ。それでも、この歴史的機体を目の当たりにできるのはうれしい。
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2007.09.28
アマゾンからこんなメールが来た。
ご注文時に予定して おりました発送予定日となっておりますが、まだ下記の商品の調達が
できておりませ ん。
お待たせしており誠に申し訳ございませんが、継続して商品の調達を行いますので、今しばらく時間の猶予をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。これに伴い現時点において目処となる発送予定日に変更させていただいております。
(中略)
"初音ミク HATSUNE MIKU"
出遅れたかな。
さて、昨日の、「神の恩寵を私の説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか」という話の続き。
最近になって、4月のキャンパスで私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と叫んだ若者と同じ印象を受ける振る舞いを、ネットでよく見るようになった。
mixiには、「懐疑論者の集い-反擬似科学同盟」というコミュニティがある。ニセ科学をウォッチングするコミュニティだが、ニセ科学というか、トンデモの信奉者が入り込んできて論戦になることがある。「911テロはアメリカの自作自演である」とか。
もちろん論理的にはコミュニティに集う強者に論破されてしまうわけだが、彼らはほとんどの場合に自らが間違っていることを認めようとはしない。逆に「なんであなた方はこんなことが分からないのか」「こんなことも分からないようでは話にならない」「議論の相手にもならないのでさようなら」と、一方的な勝利宣言をして去っていく。
その発言が、どうにも私には「あなたなんか地獄に落ちますからね」という言葉と似ているように思えるのだ。
mixi以外では、大阪大学の菊池誠教授が、自らのkikulogで、911陰謀論、マイナスイオン、血液型制作診断といったトンデモの信奉者と激論を戦わせている。
ここでも、時折、ビリーバーによる「あなたなんか地獄に落ちますからね(私の勝ちだ)」的な発言をみることができる。
さて、怪しげな推論を組み立てることにしよう。以下は話半分に読んでもらいたい。
宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していくのか。それはなにか両方が、同じ現象に根ざしているからではないか。
もう一歩、怪しげな推論を進める。宗教もエセ科学も陰謀論も、人間の脳の同じ働きによって発現しているのではないか。
もっと怪しい話を考える。それはひょっとしてミームによる人間の脳のクラッキングの結果ではないか。つまり、人間の脳に実装された世界認識のシステムには、最初から宗教のようなミームが利用可能なバックドアが組み込まれているのではないか。
ドーキンスも「神は妄想である」
の中で、人間の認識の問題点について言及している。人間が世界を認知する仕組みは、人間の体のサイズに合わせ、人間が進化したサバンナという場所での生存に役立つように進化してきたの。だから、それ以外の世界、例えば極微の量子力学的現象や、光速に近い速度の相対論的現象などを直感的に理解するようにはできていない、というわけだ。
そこで、もう一歩、怪しい方向に進んで、「そんな穴だらけの世界認識のスキーマに、クラッキング可能なセキュリティホールがあったら」と考えてみる。
「人間はコンピュータ・ソフトウエアと違う」と言われそうだが、認知に関する現象には錯視の一部のように「魂」と言うものを持ち出さなくても、説明できるものが少なくない。とすれば、人間の世界認知システムを、ソフトウエアと考えてもいいのではないだろうか。
思うに、このセキュリティホールは、人間が社会を営む生物であるというところに起因しているのではないだろうか。
私たちには、社会を営む中で「周囲の人間に認められたい」といいう欲求が存在する。それはもちろん、認められることが生存に有利になるという理由から、進化してきたものだろう。
しかし、実際問題として多くの人は、能力以上に認められることなく、社会に埋没していく。
では「自分は特別であり、周囲に認められるべき存在である」と確信させてくれるミームが存在したらどうか。
「特別であるべき自分」という欲求と、「特別ではない自分」という実際とのギャップに、バックドアが存在する。そこを突いてミームが入り込む。人間は酸素不足や睡眠不足、薬物などで幻覚を起こすハードウエアであるということも、ミームは利用する。神秘体験というやつだ。こんな神秘体験をした自分は特別である、というようにミームは自己認識を歪め、誘導する。
ミームは集団に感染する。一人に感染しただけなら、ミームの創り出す「特別な自分」という認識は、現実の前に崩れるだろう。しかし集団に感染し、集団全体が「俺もお前も特別だよ」という幻覚を相互供給し合うなら、ミームは生存し続ける。
集団感染は、ミームが生き延びる前提条件である。だからミームに感染した者は、ミームを広げるべく布教活動を始める。それは、宗教でもエセ科学でも、トンデモでも、マルチ商法でも、同じである。
これらは、同じバックドアを利用するミームの変種なのである。
ああ、なんだか書いていて、妙な気分になってきたぞ。
でも、こんなことを思いつく俺ってすごいな。おお、息を止めると光が見えるぞ。わはは、我は解脱せり。ひれ伏せ!蛆虫めら!!(あれ?)
そう、これは、かなりの過程を積み重ねた与太話である。「宗教の勧誘、エセ科学や陰謀論のビリーバーが、なぜ同じような罵詈雑言で撤退していく」ということのみを根拠で、論理を積み上げただけ。
「人はひっかかりやすい生き物である」ということをごちゃごちゃ言ったに過ぎないような気もする。
にわか作りだから、崩れるのもまた早いな。
最後に、もう一つ妄想を積み重ねておくと、この手のミームの感染に対抗する免疫に相当するものがあるとするなら。それは「笑い」ではないかという気がする。
池乃めだかの「今日はこれくらいにしといたるわ!」——あれですね。凝り固まった認識をすっとほぐすわけです。
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2007.09.27
「『あなたは神を信じますか』って寄ってくる人をからかうと、おもしろいよ」
こういう、ろくでもないことを教えてくれたのは、高校の年若い生物の教師だった。
「僕も学生の時、よくやったんだよね。話させるだけ話させておいて、『神様なんていませんよ』ていうとむきになったりしてね」
しかしながら高校の頃は見知らぬ人をからかうには、自分は人見知りが過ぎた。
意識してこの手の人たちをからかうようになったのは、大学に入ってからだ。
大学という場所は、おおかたの宗教にとって信者の草刈り場だったのだろう。色々なのがいた。「あなたは神を信じますか」から始まって、「あなたの幸福を祈らせて下さい」とか、「手かざしをさせてください」とか。
そういえば「神ノ愛ヲ、信ジナサーイ」というモルモン教徒に行き当たったこともある。「どこから来たのか」と聞いたら、アイダホだと言っていた。
その手の人たちをからかうようになって、面白かったのは、最後の去り際だった。大体はからかわれると分かって、去っていく。その時、必ずといっていいほど、悪態を付くのだ。
「なんて酷い人だ」というような非難ではない。悪態だ。
4月、クラブの勧誘でいっぱいのキャンパス中庭で声をかけてきた若者は、特に印象に残っている。のらくらとこちらがはぐらかしていると、遂に怒り出し、「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言ったのだ。確か「なんでそんなことが分かるんですかあ?」と返したら、憤然たる態度で「絶対です!」と叫び、去っていったのだった。
確かに純な魂をもてあそんだ罪は、私にある。が、私は地獄への地図も、地獄の住所も知らない(だから、そういう態度でいたから彼は怒ったんだってば)。
確か大学の3年になったころだったか、「幻魔大戦」がアニメになり、原作の平井和正も小説を書き継いだことがあった。ところが、当時平井が「GLA」という新興宗教にはまっていたこともあり、書く小説がどんどん妙な方向にいってしまい、20冊も書き継いでもストーリーは全然進まない、ということになってしまった(平井はその後GLAから離れたそうだが、GLAは今も活動している)。
その頃、GLAの教祖である高橋佳子の著作を何冊か読んだことがある。文章が達者で、後で知った出口王仁三郎の「霊界物語」などに比べると格段に読みやすかった。これらは事実上平井がゴーストライターを務めたそうだ。
このあたり、本当は再読して確認してから書くべきなのだろうが——ここでは記憶を優先することする。
高橋佳子の著作(確か「真創世記」だったか、そんなタイトルだった)で強烈に覚えているのが、霊界で農家のおばあさんに会って会話する(霊界で農家ってどういうこと??)というところで、おばあさんの言葉が「だべ」だったか「だべさ」だったか、訛っているのだ。
霊界がどんなところかは知らないが、訛っているとはこれ如何に?霊界に加藤茶がいたら、やっぱりおまわりさんは「すんずれいしました!」とやっているのか??
キリスト教の典礼文がキリシタン弾圧の結果、オラショへと転訛したという事例もあるし、訛っていていかんということはないのだろうが、それでも光に満ちた清浄なる霊界に、いきなり俗世間っぽい訛りとはねえ、と、思ったものである。そりゃ、「霊界とはそういうものだ」と言われれば、「はいそうですか」としか答えようがないわけだが。
この本の中には、悪魔退散のシーンがあり、悪魔は、光の前にありとあらゆる罵詈雑言を吐きつつ退散するのであった。
いや、このシーンがあったのは平井版「幻魔大戦」だったかも知れない。だいぶ記憶があいまいになっている。
ともかく、大学生だった時に読んだ新興宗教がらみの本で、一番印象に残ったのが、「悪魔が罵詈雑言吐きつつ退散する」というシーンだったのである。なぜなら、私にはその悪魔が、私に向かって「あなたなんか地獄に落ちますからね」と言った若者と重なって見えたから。
神の恩寵を私に説こうとした若者が、なぜ悪魔のように去っていかねばならなかったのか(だから、からかったお前が悪いんだってば、という話はともかくとして)。
その後も宗教がらみで、罵詈雑言を見る機会が何度もあった。例えば、創価学会が日蓮正宗大石寺との確執の中で放った言論攻撃も、私には「まるで退散する悪魔の罵詈雑言」のように響いたものである。
神と悪魔が、罵詈雑言という、余り行儀良くないキーワードで結びつくなら、それはそもそも宗教という思考様式に致命的な欠陥があるためではないか——当時の私はこの程度まで考えて、そこで思考を止めた。
例えは悪いかもしれないが、吉本新喜劇の池乃めだか演じる、凄んでも凄んでも、すべて外して笑いをとったあげく、「今日はこれくらいにしといたるわ!」で締める——あれに近いものを感じたわけですな。
昨日のドーキンスの本で思い出した、そろそろ四半世紀も昔の記憶である。もちろんオウム真理教なんて連中が本物のテロをやらかす大分前の話だ。
以下は余談。
私が、その手の人たちをからかうのをやめたのは、大学最寄りの駅で、おそらく同じ大学に通っていたのであろう——女性から「あなたの幸福を祈らせて下さい」と声をかけられたからだった。
そーら、カモさんキター、しかも鍋と葱付きーっ、てな調子で、私はへらへらと相手をしたのだが、彼女はすべてを真剣に受け取って、「またお会いしましょう」といって去っていったのである。
む、勝手が違うぞ。
その後数回、彼女と会った。その都度、彼女は真剣な調子で「真理」を語り、私はへらへらと受け流した。何回目だったか、彼女は「私達の家に来ませんか。仲間の家があるんです」と言い出した。まあ、新興宗教が気の弱い学生を巻き込む時の常套手段である。
だが、その後の言葉が違った。「家ではみんなでご飯を食べるんです。みんなで一緒に食卓を囲むなんて、とても素晴らしいことって思いませんか」
私はこの言葉にショックを受けた。私の育った家庭は、円満にして満点というわけではなかったが、それでも家族が揃って食卓を囲むのは当たり前であった。私はそれを素晴らしいことと思っていなかった。家族の食卓は、当然あるべきものだった。
「一緒に食卓を囲む」ことを「幸福である」と語る彼女の背後に、なにか尋常ならざる不幸の気配を感じた。触れてはならぬものに触れてしまったという後悔が背筋を走り抜けた。
私は二度と彼女に会うことはなかった。そして、その手の人をからかうのもやめた。
私には神も悪魔もどうでもいい。彼女はその後幸福になったのだろうか。そちらのほうが気にかかる。
昨今、「神と悪魔」テーマなら、やはり「るくるく」だろう。悪魔の王女が貧乏学生のところに同居するという典型的落ち物パターンながら、込められた毒と哄笑が半端ではない(なにかとんでもない伏線を仕込んでいるようでもあるし)。実際問題として、天使がなぜか荒れ寺の小坊主になって、「やはうえさま、お元気ですか」と祈る、なんて発想は、あさりよしとお以外から出てきようがない。
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2007.09.22
おわびと訂正(2007.9.25):この記事で引用したaqqueさんのBlogの記事を、私は2007年のものと誤解していました。実際には2005年、前回のパリエアショーの時のものでした。この記事の趣旨には影響ないですが、一部言い回しが事実とは異なることになります。訂正し、お詫びいたします。コメント欄で指摘してくれた方、ありがとうございます(松浦)。
パリ・エアショーには、日本からはいつも日本航空宇宙工業会がブースを出している。ところが、この展示がなんともやる気を感じさせない——という話は、2003年に私と一緒にパリ・エアショーを取材した笹本祐一さんが「宇宙へのパスポート3」
の74ページに「やる気のない美術部が過去の遺産を寄せ集めて文化祭の体裁だけ整えました、な感じ。いや実際やる気ないんだろうし、閑散としてましたけど。」と書いている通りである。
航空宇宙工業会の展示のみすぼらしさは、関係者も認識しているらしい。3年前に航空宇宙学会のパネルディスカッションに出席した時、 「パリエアショーでなにが恥ずかしいって、まったくやる気が感じられない航空宇宙工業会の展示が恥ずかしかった」と言うと、横でパネラーとして出席していた三菱重工の方が、吹き出し笑いをした、ということもあった。
MRJがモックアップまで出展した今年パリ・エアショーで、日本航空宇宙工業会はどうだったのだろうか、と思っていたら、某氏からこんなページを教えてもらった。
「フランスよもやま生活記 自由な生活を求めて」より。パリで生活する日本人女性aqqueさんのBlogである。
2007年ではなく2005年でした。
パリ・エアショーで、「日本*****という財団法人」の受付で働いたという話である。パリ・エアショーに日本の財団法人は出ていないので、これは間違いなく社団法人・日本航空宇宙工業会であろう。
核心は パリ エアショー裏話1に書いてある。
みなさん、天下りの人たちだろうと思います。
*肩書きが同じ人が多すぎて、どういう位置づけかわかりません。
(副会長だけで3人、専務(vice president)だけで3人、部長も何人いるんだか・・・など)
*こちらが「おはようございます」と挨拶をしても、挨拶は返さない。
*名前を覚える気がない。(「女性の方たち」でひとくくり)
*陰でこそこそ悪口を言う。
*会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる。
→これって、フランスではあまり考えられないことなんですよ。
だからかもしれないけれど、わたしたち女性軍が人(地位)によって態度を変えないことに、彼らはまた腹が立っていたのかもしれません。
(中略)
やっぱりいわゆる本当にエライ人たちというのは、人間的に非常にできた人たちが多いので、とても謙虚だと言うことがわかります。
中途半端にエライ人、既得権を最大限に利用する人たちだけが、横柄な態度をとるのかな、と感じました。
ここで、日本航空宇宙工業会を離れて一般論をしよう。主題は終身雇用組織が、組織中の厄介者をどう処遇するか、である。
会社組織と所属する人にも相性というものがある。会わない場合、その人は組織内で「使いづらい奴」「役に立たない奴」と判定される。その中には、有能なのだが性格に問題がある、とか、上司に恵まれず能力を発揮できずに腐っているという人もいる。もちろん、本当の困ったちゃんもいる。
終身雇用の世界では、そんな彼らを組織外に放り出すことができない。
ではどうするか。道は2つある。一つは子会社に押しつけること。もう一つは業界団体など、関連する外部団体に押し込むことである。
前者の場合、子会社社長になって阿鼻叫喚の惨状に、などということもままある(大抵の場合「ヒトラー」とか「アミン」といった独裁者のあだ名が付く)。ただし、この場合はまだましな人材であることが多い。
子会社は本社と利益共同体なので、あまりの惨状になると本体の経営に差し支える。このため、本当にどうしようもない奴と判定された者は、業界団体に出される場合が多い。
送り出す側は、困ったちゃんがよろこんで業界団体に出て行くように腐心する。大抵は「業界団体から大所高所の見地で、業界を指導してもらいたい」などといって送り出すことになる。
そして困った人の多くは洞察力と自省心に欠けているので、「そうか、俺は偉くなったんだ」と錯覚して、業界団体にやってくることになる。そうなると、「この人は本当に社会人なのか?」とびっくりするような横柄な態度を取ったり、稚拙なウソをついたり、相手に応じてころっと態度を変えるような素敵なおじさまの一丁上がり、ということになる。
中には会社を離れて、うってかわって水を得た魚のごとく働き出す例もあるが、誰もがそうなるというわけではない。
ちなみに私が過去の取材経験でぶつかった最悪の例。
もう時効だろうから書くが、1997年に「H-IIロケット上昇」を書くとき、私は当時のロケットシステム社長にインタビューしようとした、別の席でお会いした時に本人の了解も取り付け、一応会社に話を通しておかなくてはな、と電話したら、まさに素敵なおじさまにぶつかってしまったのである。
彼は名乗りもせず、鼻息も荒く私を断罪した。
「あなたは何者ですか。社長があなたのような人に会うわけがないじゃないですか。ダメです。お断りいたします。取り次ぎなんてとんでもない」
いくら社長本人の了解を取っていると説明しても、ダメの一点張り。そのうちに、「あなたは何の権限があって社長に会おうというのですか」と言い出したので、こりゃダメだと思って電話を切った。
「完全に、社長に会う人をコントロールするという権限に酔っているな」と思った。無能の人が、与えられた職務上の権限を自分の能力であると錯覚するのは、よくあることである。
私は結局、社長のインタビューをあきらめた。
ずっと後になって、ロケットシステムの重役に「こんなこともありました」と話したことがある。重役氏は、私が名前も知らない素敵なおじさまが誰であるかを一発で理解したようだった。
「彼は元の会社に返しました」
という返事が、即座に返ってきたのであった。
もちろんそれがいかなる団体であっても、よく働く有能な人はいる。そういう人がいないと、そもそも組織は回らない。
とりあえずaqqueさんのBlogから推察するに、日本大使館で開催されたMRJレセプションには、「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していたのだろう。
正確には「今年のパリエアショーにおいても、MRJレセプションに「陰でこそこそ悪口を言」い、「会長がいると、とたんに腰が低くなって借りてきた猫みたいになるくせに、自分より地位が高い人がいなくなると、急に横柄になる」素敵なおじさまが複数出席していた可能性が高い」です。
私は、MRJが心配である。
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2007.06.20
うかうかしていると、ここの更新も簡単に一ヶ月も空いてしまう。
仕事しています。ええ、しておりますとも。
日経BPのSAFTY JAPANに書評欄を持っているのだが、そこに「水はなんにも知らないよ」の書評を書いた。以前こんな記事も書いているが、私としては「水からの伝言」のようなニセ科学には広がってもらいたくはないのだ。
あんなものを信じる人が増えると、行ける星にも行けなくなってしまうではないか。
どういうわけか、この書評は2ちゃんねる紹介サイトの痛いニュースに掲載されてしまった。ということは、2ちゃんねるのどこかで話題になったのだろう。
ちなみに書評では、話の流れ上割愛したのだが、ニセ科学系の人は、おたがいつながっていることが非常に多い。さらには、ディプロマ・ミルと呼ばれる、金で学位を出す大学(アメリカにはそういう商売がある)の学位を持っている、そして発行する主体が非常にあやしげな賞を受賞している、という共通点も存在する。
このあたりのニセ科学人脈と、あやしげな学位や賞については、菊池誠さんのkikulog中、このエントリについたコメントあたりを参照するといいだろう。
偶発ではあるが、同時期に前野[いろもの物理学者]昌弘さんの娘さんが通う学校で、水伝大戦が勃発している。
前野さんが描くところの「ごめんなさい以後気をつけます」でその場を逃れようとする先生に対する評価は、野尻抱介さんによる「あなたは間違い方まで間違っているので教員免許剥奪です」というものが一番適切だろう。
「信じ切っている人に、何を言っても無駄」という考えもある。だが、折に触れて「あれはインチキだよ」と言っておくことは決して無駄ではない——私はそのように考える。
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2007.03.31
私が復帰したら、すぐにコメントが付いた。話題は、昨年来の自転車の歩道走行問題だ。
この件に対する疋田智氏の反対運動を、「政治的意図に基づく陰謀」とする主張である。警察庁は終始一貫しているにもかかわらず、それに難癖を付けたというわけだ。
私が更新を止めている間に、警察庁から、道路交通法改正案そのものが公開された。
・「道路交通法の一部を改正する法律案」について[H19.3.2 掲載]
[条文] PDFファイル
[新旧対照条文] PDFファイル
問題となっている自転車の歩道走行について、改正案の具体的な条文は以下のようになっている。
第六十三条の四 普通自転車は、次に掲げるときは、第十七条第一項の規定にかかわらず、歩道通行することができる。ただし、警察官などが歩行者の安全を確保するため必要があると認めて当該歩道を通行してはならない旨を指示した時は、この限りでない。
これに続いて、歩道走行の用件を「交通標識で指定されているとき」「児童、幼児などが運転しているとき」「車道または交通の状況にてらして自転車の安全が確保できないと認められるとき」と定めている。
警察官が指示できるのは「歩道を降りて車道を走行すること」であり、「車道から歩道に乗る」ことではない。
基本的に警察庁は「自転車は原則車道を走る」という基本に戻って自転車の交通安全を確保する方向に踏み出したといっていいだろう。
ところで、昨年11月30日時点の「自転車の安全利用の促進に関する提言」で、警察庁はどのような態度を示していたかを思い出そう。
・「自転車の安全利用の促進に関する提言」 [H18.11.30 掲載]
問題となっている提言4.2.4をもう一度読んでみよう。
上記の環境整備にあたっては、
○ 自転車道や車道における自転車の走行環境の整備状況に応じ、自転車歩道通行可の規制を解除すること
○ 自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること
など、個々の道路について交通環境の変化に応じた交通規制を実施するよう配慮する必要がある。
これは一見平等な両論併記に見えるが、一つめの○は現行道路交通法の枠内で対処可能であり、これは新たな主張でもなんでもない。つまり法案の改正になんの影響も及ぼさない。
問題は二つめの○にある。これは、現行道路交通法にない規定を作るということである。
つまり、警察庁は昨年11月時点では、「自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること」という内容の条文の追加を考えていたことを意味する。
それが、実際の改正案では「普通自転車は、次に掲げるときは、第十七条第一項の規定にかかわらず、歩道通行することができる。ただし、警察官などが歩行者の安全を確保するため必要があると認めて当該歩道を通行してはならない旨を指示した時は、この限りでない。」ということになった。
提言がそのまま条文になるとすれば「ただし」以下は、「また、自転車が車道を通行することが特に危険な以下の場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずることができる」とならねばいけないはずなのだ。
警察庁は、今年2月の記者会見で、「誤解に基づくパブリックコメントが多数集まった」とした。
しかし昨年11月の「提言」と今年3月の「道路交通法法改正案」との間に存在する内容の変化は、警察庁が「自分たちは首尾一貫している」とする彼らの主張とはうらはらに、「誤解に基づくパブリックコメント」で、態度を変えたことを示している。
私は、上記の事実を「警察庁は、当初自転車を歩道に上げることを考えていたが、パブリックコメントの結果で方針を転換し、自転車の原則車道走行に方針転換した」ことの証拠と考える。
疋田氏の主張は、政治的意図を持つ陰謀でもなんでもなく、正鵠を射た的確なものだったということだ。
この件を、今も「陰謀だ」と考えている人は、ここに示した警察庁ホームページにあるオリジナルの文章を読んだ上で、もう一度自分で考えてもらいたい。
このことは何度書いても強調しすぎることはないだろう。オリジナルに当たり、きちんと読み込み、自分の頭で考えてみよう。
さて、以下は蛇足。
物書き商売をしていると色々なところから情報が入ってくるものだ。
ニュースソースを秘匿しなければならないので「警察庁が態度を変えた確たる証拠」として、ネットに出すわけにはいかないのだが、私は信頼できる筋から「警察庁幹部が事前に自転車メーカーに対して、『自転車は主要道路で歩道に上げる』とはっきり言い切った」と聞いた。
「これが証拠だ」と、提示できないので、とりあえずひとつの判断材料としてもらいたい。
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2007.03.30
一月以上空けてしまったが、生存しています。種子島で二週間つぶしたのが響いて、仕事、確定申告、仕事と片づけていました。
今を去ること30年以上前、私が中学生だった1970年代のある日、母から「セイゾンという雑誌を買ってきて頂戴」と言いつかったことがあった。
本屋に行った私は、「セイゾンという雑誌ありますか」と店員に尋ねた。出てきたのは、「生存」という右派系オピニオン雑誌だった。今だったらサンケイの「正論」あたりに相当する雑誌だったと記憶している。
はて、父ならともかくとして、母はこんな雑誌を読むつもりだったのだろうか。私は買わずにとって返し、「こんな雑誌でいいの」と尋ねた。
「違うわよ。セイゾンよセイゾン。分かってる?」それが分からないから尋ねているのだ。
「あのね、パリの左岸の特集をしているの」はあ?
「ああもう、セイゾンだったら。まったくしょうがないわねえ」だからそれが分からないんだってば。
真相が明らかになったのは、しばらくしてから「これがセイゾンよ」と母が実物を見せてくれた時だった。
それは「SAISON」という大判のファッション雑誌だった。
お母様、それはフランス語で季節を意味する「セゾン」ですよ。
と、突っ込みを入れられるようになったのは、大学の第二外国語でフランス語を勉強してからのことである。
くだらない話ではありますが、取りあえず「生きています」という証明として。
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2007.02.23
3回目のYマイナスゼロブリーフィングに出席してきた。
さすがに疲れがでてきた。今度延期になったらどうしよう。
種子島は晴れ、風は強いものの、見事な晴れ。プレスセンターでは「今日上げてくれよお」という声が出ている。
青い青い空だよ。雲のない空だよ。種子島は常夏だ~よ~
と、頭のねじもゆるみがち。ああ、疲れた。
実際、暖冬とは言え、冬の種子島でここまで暖かいのは初めてだ。
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2007.02.22
皆さんもご存じのように、H-IIAロケット12号機の打ち上げはずるずると延びている。15日の予定が16日になり、22日になり、現状では24日である。
それにつきあって島生活もそろそろ10日だ。仕事を持って歩ける職業なればこそのおつきあい。
しかし小刻みの延期は精神的につらい。20日の段階で24日といってくれれば、あきらめて20日中に帰ったのだが。
というわけで、あいた時間で島のあちこちを見て回っている。1991年以来、すでに種子島に来ること13回。めぼしいところはすべて見尽くしたので、わざと細い道に入ってみたりレンタサイクルで細かく走り回ったり。
これは西之表のこのあたりにあった看板。この王之山神社というのが、安徳天皇をまつった神社なのだという。
だいたい非業の死を遂げた人には「実は生きていて」という話がつきまとうが、安徳天皇にも生存伝説があるとは知らなかった。つまり、安徳天皇は御歳三歳にて壇ノ浦を泳ぎ渡り、九州を踏破して種子島に来たということになる。しかもその後硫黄島に渡ったとなると、これはもう「未来少年コナン」並の体力だ。硫黄島でターザンのように暮らす安徳帝というのも、想像してみるとなかなかおもしろい。
このあたり、古くは「海泊」という地名だったそうな。海は正確には海の下に「土」が付いた文字で、どう読むのかもよくわからない。なんでも漁師を意味する海士という言葉が一つの漢字となったものだとか。パソコンにも入っていない漢字だったので、この土地だけの文字ではないかと思う。
安徳天皇をまつった社はこのような状態だった。地元に社を維持する体力がもうないのだろうか。ずいぶんと荒れていた。おいたわしや安徳帝。
このあたりは古来、沖の馬毛島でトビウオ漁をしていた漁師が住んでいた土地だったという。港の正面に鳥居があり、そのまま社に続いている。漁師の神様である証拠に社は海を向いている。私の住む茅ヶ崎あたりでも、神社の社は例外なくその正面を海に向けている。
南種子町と中種子町の境付近にあるマングローブの林に入ってみた。砂地のそこここにカニがあけたと思われる穴があいていたのだが、残念ながらカニを見ることはできなかった。歩いていくと小さなカニがわらわらと一斉に逃げていくのを見たかったのだけれど。
以前、西表島でマングローブ林に入った時は、目の前一面小さなカニがいて、歩を進めるほどに足音に反応するのか、わらわらと穴に逃げ帰るのを見た。カニの地面が自分の進路に開けていくと言った雰囲気で、なかなか楽しかった。
これは観光名所の千倉の岩屋にある鳥居。一度くぐったらこっちがわにもどってこれなくなりそうな雰囲気。もちろんくぐって遊ぶ。
そこらへんにゲゲゲの鬼太郎かネズミ男かがいないかと思って見回してみたが、当然いるはずもない。
こうやって鳥居に石を積むのは何かの信仰なのだろうか。賽の河原の石積みと何か関係があるのか?っそもそも横の石碑にも石が積んであるのはなにか意味があるのだろうか。
岩屋そのものは、海の波が打ち寄せてはいってくる洞窟だった。岩屋の沖は潮の流れが速いので、うっかり泳ぐと流されそうになるそうだ。

そして、カニと戯れ損ねた私は、海岸でロケットの打ち上げを待って泣き濡れるのであった。
ああ、仕事をしなくては。明日は打ち上げ前日、のはず。
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2006.11.27
お約束通り、以下反省の弁を。
私はかなり激高しやすい性質であり、「怒っても解決にはつながらない」時に怒りをぶつける文章を書いてしまう傾向がある。これは以前より自覚している。
メディアの役割の一つに真実の暴露と、それによる現状の改善を期すというものがある。必要なのは事実の積み重ねであり、私が行わねばならないのは「事実の読み方の提示」だ。ところが時として、これが怒りを感じさせる文章となってしまう。
もちろん、きちんと書かねばならないことは、書かなければならない。情で事実を隠蔽するのはもっての他だ。それでも、むやみやたらと私が悲憤慷慨して、事態が改善されるものではないことは肝に銘じなくてはならない。
大切なのは「現状の改善」であり、個人的な怒りをぶつけることでも誰かを貶めることでもない。
以上、自省のための備忘録として。
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2006.08.17
12日はコミケット70の2日目。私は友人のILMA Expressで売り子。売れ行き盛況でコミケを楽しむ。メカ・ミリタリー系の知人達も、それぞれ成果を挙げた模様。
今回は沖さんズのおうやん氏が、愛知からクーペ360で参加。駐車場でかなりの注目を浴びていたようだ。午後2時頃、大雨が降ってきたので自動車を保護するために大急ぎで撤収していったそうな。彼らの「クーペ360マガジン」は今回で終刊とのこと。今後はウェブに活動の舞台を移すという。ごくろうさまでした。
風虎通信からは「宇宙の傑作機10 アポロ誘導コンピューター」(水城徹著)と「世界の競争自動車2 シャパラル2D/2F」(浜田一穂著)が出た。「アポロ誘導コンピューター」は、アポロ宇宙船を月に送り込んだ組込型コンピューターに関する本格的解説書。宇宙開発ファン必読。多分、またくだん書房で入手可能になると思います。ですよね、高橋さん。
「シャパラル2D/2F」は、1960年代に光芒を放った革新的レーシングカーの本。おお、シャパラルかっこエエ。
Yahoo!ムービーズのゲド戦記評は、星2つから星4つまでの様々な評価が出そろってきた。相変わらず、夜の一定の時間帯に内容のない星5つ評価が集中して投稿されてはいるが、自分なりの正直な評価を書き込む人が増えているようである。その結果の平均星2.3というのは、意外に正確な評価ではないかと思う。
最近の星5つは、関係者というよりも、無意味な書き込みで場を混乱させることで自己顕示欲を満足させたい困ったチャンという気がする。
映画「ゲド戦記」に対する原作者、アーシュラ・K・ル=グウィンのコメントが公開された。さっそくネット上には翻訳がアップされている。どなたの手によるものか、日本語で読めるのはとてもありがたい。
この手の文章は、1)誤解を防ぐための状況に関する説明、2)本音による意見表明、3)本音の厳しさを緩和するためのフォロー——というフォーマットで記述されるのが普通だ。そう考えると、原作者は映画「ゲド戦記」に対して激怒しているといって良いといいだろう。
ちなみに宮崎吾朗監督日記には、ル=グウィンの前で行った試写についての記述がある。
そのパーティーの最後のお別れの挨拶のとき、
自分からル=グウィンさんに映画の感想を求めました。
これだけはきちんと聞いておかなければと思ったからです。
彼女は短く答えてくれました。
「It is not my book.
It is your film.
It is a good film.」
と。
彼女としては、本当はたくさんおっしゃりたいことが
あったのではないかと思うのですが、
それでも温かい笑顔とともに下さった言葉です。
この短い言葉を素直に、
心から感謝して頂戴したいと、思ったのでした。
確かに英語によほど堪能でないと、相手が言葉に込めたニュアンスを読み取るのは難しいことだが、これはまた随分とナイーブに受け取ってしまったものだな、と思う。
その後、お盆の時期を、仕事をしつつ、小学校1年生の甥と遊んで過ごす。好奇心が勝ったエネルギーが有り余っている子供と、一緒に犬の散歩に行き、一緒に工作し、一緒にスイカを食べ、一緒に川で遊び、一緒に温泉に浸かり、一緒に新江ノ島水族館に行き、一緒にモノレールに乗る。
訳もなく腕を振り回してスキップをする甥と遊んでいると、自分の中で眠っていた感覚が蘇ってくる。
そうだった、俺も小学生の頃の夏休みはこうだったな。
ああっ、仕事が終わらない。
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2006.08.06
今年は広島に行ったこともあり、朝から広島の原爆の日式典をテレビで観ている。61年前の今日、午前8時15分、アインシュタインの手紙に始まり、アメリカが科学と財力の限りを尽くして完成させた原子爆弾が、トルーマン大統領の指示の元、ティベッツ機長率いるボーイングB29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって、広島に投下された。
かくして現出した地獄絵図の余波は、今も続いている。
式典の音楽や、広島市長のあいさつなど、色々感じるところはあれど、今日は私も黙祷する。
もちろん、「過ちを繰り返さないのは誰だ?」と考えつつ。
式典に関して一つだけ言うと、そろそろ誰か有能な作曲家が式典用の実用音楽としての鎮魂音楽をもう一度作曲すべき時期ではないだろうか。
コンサート用音楽としては、ペンデレツキの「広島の犠牲に捧げる哀歌」(これは作曲後に後から付けた題名で、曲と広島には内的関連は一切ないだそうだが)があり、大木正夫の「カンタータ 人間を返せ」「交響曲5番」があり、もっと若い世代では細川俊夫「ヒロシマ・レクイエム」があるが、どれも式典で使える音楽ではない。
真の式典用音楽の作曲は、己の主張を押し出せばいいコンサート用音楽よりもずっと難しい。そろそろ、今後100年200年のために、誰かが新たに曲を書いていい時期に来ていると思うのだが。
私見を述べるなら、2発の原爆投下について、アメリカ、特にトルーマン大統領は人道に関し、真っ黒の有罪であると思う。そこに至るまでの大日本帝国指導部の政策的な稚拙さと甘さもさりながら、爆弾一発の放射線と熱線で、赤ん坊から老人に至るまでの非戦闘員を10万人単位で焼き殺し、生き延びた人にその後60年以上も続く後遺症を残したということが、人道に対して有罪でないと考えるほうがおかしい。
免罪があるとするなら、原子爆弾がそれほどのものだと、完成するまで誰も、それこそ開発に携わった科学者らですら、思いもしなかったということの一点のみだろう。人間の想像力は悲しいほど限定されている。
ハリー・トルーマンという一人の人間の行為から学ぶことがあるとするなら、「自分が同じ立場に置かれたらどうするか」をよくよく考えることしかないだろう。
自分の国の若者は、今日も星条旗の下、太平洋の戦場で死につつある。なにやらソ連では先代の大統領が結んだ密約に基づいて、スターリンが戦後地図を睨んで兵を動かしそうな雰囲気だ。そして手中には決定的かつ最終的解決をもたらしてくれそうな強力な爆弾が2発。
この状況で、現在交戦中の敵国の一地方、見たこともない知らない土地に住む、人種も違う、赤ん坊から老人に至るまでの人々の日々の生活に、あなたなら思いを致すことができるだろうか。
それが、想像力を持つということなのだ。
広島と原爆を巡るCDを2枚紹介する。最初は芥川也寸志がただ一曲だけ残したオペラ「ヒロシマのオルフェ」。1960年に「暗い鏡」という題名で初演され、その後の改訂を経て1967年に「ヒロシマのオルフェ」という名前の決定版となった。
脚本は大江健三郎。顔にケロイドを持つ若者が、娼婦から不思議な鏡を受け取り、鏡に映る己の姿を通じて希望と絶望を経験するという象徴的なストーリーだ。
音楽は芥川特有の切れの良さと、表現主義的な暗さが見事にマッチした傑作である。
音楽では、全体のバランスを取るためにどこかに明るい部分があったほうが良いが、原爆を題材にすると、明るい曲調を埋め込むことが極端に難しくなる。芥川も非常に苦労したようで改訂にあたっては全曲中唯一明るい曲調の第3幕「未来の夢、春の花、光の子供達」を全面的に書き直している。
広島で被爆した詩人原民喜の詩に、林光が曲を付けた混声合唱曲「原爆小景」。1曲目の「水ヲ下サイ」は1958年に発表され、高い評価を受けたが、作曲者はその後をどうしても書き継ぐことができなかった。当初構想では、この後に「永遠のみどり」を書いて2曲で完結することになっていたが、どうしても書けなかったのだという。想像するに、林もまた芥川と同様に、明るい曲調を書きあぐねたのではないだろうか。
結局、14年後の1971年になってより激越な曲調の第2曲「日ノ暮レチカク」と第3曲「夜」が書き足され、最後の「永遠のみどり」を書いて全曲が完結したのは、実に第1曲から44年を経た2001年になってからのことだった。
林光へのインタビューによると、作曲にあたっては岩城宏之の要請があったそうだ。これもまた、岩城宏之という希代のキャラクターがあって、この世に生まれた曲なのである。
背筋を伸ばして聴くしかない、林光一世一代、一期一会の作だと思う。
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2006.06.10
旧聞だが、先月19、20日と広島に行った時の話。
20日は午前中から、広島平和記念公園にある、広島平和記念資料館へと行った。
不謹慎な書き方だが、期待していた。こうの史代「夕凪の街 桜の国」には、登場人物の一人がここの展示を見て気分が悪くなってしまうシーンがある。気分が悪くなるほど、原子爆弾というものの実態を突きつける展示をしているなら、それは見なくては。
結論から言うと、ダメダメだった。特に、新しく作られたという東館の展示が見事なぐらいに駄目。公共事業で作られたと思しき「ま、こんなもんでしょ」感溢れるぐだぐださに満ちていた。修学旅行の中学生と思しき一団と遭遇したし、団体観光らしい中国人やロシア人の集団とも行き違ったが、彼らに何かが伝わったかどうか。
博物館の要諦は、見物人に「ごめんなさい、もうしません」と泣き言を言わせるほどの展示品の密度にある。広島平和記念資料館東館の展示は、記述のイデオロギーがどうのこうの以前に、密度が低すぎる。
大英博物館の、向こうがかすむほどでかい展示室一面に詰まった鉱物結晶サンプルとか、パリの戦争博物館のいくら見ても見ても終わらない甲冑のコレクションとか、ドイツはイエナのカール・ツァイス博物館の、建物はちょっとしたアパート程度の広さしかないのに到底1日ですべても見ることが出来ない息が詰まるほどの高密度展示とか、そういったものを経験している身にとしては、東館展示は「怠慢」と書いた紙を貼って回りたいほどに密度が低い。
記念館に来る人は、もっとたくさんの事実を知りたいはずなのだ。壁面を写真パネルと解説で埋めるだけで、なにかが伝わるなどと思わないでほしい。
そして展示方法も下手だ。アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆開発を進言した手紙のコピーが展示されている。たかだか便せん数枚の手紙なのに、重ねてあって全文を読むことができない。こんなものは全部読ませ、全文を翻訳展示すべきだ。読めたところだけでも、アインシュタインは原爆が重くなりすぎるので、船に乗せて港湾攻撃に使うしかないと考えていたという、興味深い一節を知ることができた。
以前からあったという西館に移ると、展示はいくらか持ち直す。被災地から回収された遺品、破壊された建物の構造物などが展示され、ずっと原爆というものの実態を肌で感じることができる。
それでも、やはり展示の密度が低すぎる。記念館は相当数の収蔵品を持っているらしい。ならば、もっともっと詰めてぎちぎちに展示すべきなのだ。
常設展示にがっくりしつつ、地下の特設展示に回る。
結論から書くと、こちらのほうが壮絶だった。まず、被爆者が当時を思い出して後に書いた絵画、通称原爆絵画などと呼ばれるものの展示。素人の絵なので、絵画としては稚拙。中には本人も想定していなかったであろう方向に突き抜けちゃった絵もあって、最初は不謹慎に笑いながら見ていたのだが、だんだんそれどころではない異様な感覚に引き込まれていった。
絵に添えられた簡潔な言葉が、半端でなく強烈なのだ。これをなんと形容すればいいのか…淡々と生き地獄を俳句のように表現されてしまったと言えばいいのか…とにかく常設展示よりもはるかに迫真力に富む。このような事実に対面しては、もう泣くしかない。
明らかに、これらの絵画は西館の遺品展示の中に混合して常設展示すべきだ。
そして最大の収穫は企画展「宮武甫・松本榮一写真展 被爆直後のヒロシマを撮る」だった。被爆直後に広島に入った2人のカメラマンの撮影した生々しい写真の展示は、私の精神を打ちのめすに十分だった。現在、リンク先には一部の写真が掲載されているので、ぜひ見てもらいたい。
原水爆禁止運動は、世界の冷戦構造に翻弄され、社会主義国の核兵器を認めるかどうかで、社会党・総評系の原水禁と共産党系の原水協に分裂した。広島平和記念資料館の展示も、あのふざけたイデオロギーの対立に巻き込まれたのだろうか。
見学に当たっては、広島在住のまいなすさんに同行してもらった。本blogにもたびたび出演している双子の沖兄弟。その弟さんの方だ。
彼のお祖母さんは、原爆が落ちたときに宇品の方に住んでいた。沖の似島に救護所ができたので、市内からそれこそ火傷で皮膚が大きく垂れさがったような人々が大量に橋を渡って避難してきたのを目撃したという。なにしろ情報の流通が悪かった。桟橋のあっちから船が出る、こっちから出るとうわさが流れるたびに、この世のものとも思えぬ地獄絵図の人々が、桟橋をあっちにうろうろ、こっちにうろうろしたのだとか。
もちろん、似島の救護所に行ったところでろくな薬はなかったし、そもそも放射線障害について知識を持つ医師などいはしなかったのだ。
「ABCCって知ってますか?」
「知ってる。戦後になってアメリカが放射線障害のデータを集めるために作った設備だろ」
アメリカにすれば広島と長崎は、来る核戦争に備えるための核兵器の実験場だった。実験である以上データを集めなくてはならない、1947年、アメリカはABCC(原爆傷害調査委員会)を広島と長崎に設立した。何をやったかといえば、占領軍の立場を利用して市民を呼び出してはデータを取っていったのである。
治療ではない。調査したのだ。
「うちのばあちゃんも、ある日ABCCに呼び出されましてねえ」
「占領軍の呼び出しだから強制だわな」
「アメリカ人のお医者の前で、裸にされてあれこれ調べられたそうです。あんな恥ずかしいことはなかったって言うてましたわ」
記念館から出ると、空は見事な快晴だった。素晴らしく気持ちよい天気だ。萩原朔太郎など思い出してしまう。
私の大好きな五月
その五月が來ないうちに
もしかして死んでしまつたら
ほんの氣まぐれの心から
河へでも身を投げたら
もう死んでしまつたらどうしよう
私のすきな五月の來ないうちに
原爆ドームの方へと歩いていく。「エノラ・ゲイ」が爆撃にあたって目標にしたのは、川の上で三叉に分かれる相生橋だった。今も相生橋は三叉路になっている。
まいなすさんが、東の空を指さした。
「原爆ドームの少し先だから…あのあたりの空で、爆発したわけですな」
その日、一番衝撃的な言葉だった。
原爆関係の本は多数出版されている。私はそのすべてに目を通したわけではないので、自分が読んだ範囲からごく一部を紹介する。
比較的早い時期に、原爆開発をアメリカ側からまとめたノンフィクション。記述が古い部分もあるそうだが、今でも読む価値を持っていると思う。
原爆開発を知るにあたっては、オッペンハイマーを中心とした科学者だけではなく、国防総省の側からマンハッタン計画の総責任者を務めたレスリー・グローブスを見落としてはならないだろう。グローブスの回顧録は翻訳も出ていたのだけれど、現在絶版中。是非とも読みたいのだが。
ご存知リチャード・ファインマンの自伝。彼もまたマンハッタン計画に参加しており、本書には当時のロス・アラモスでの生活が出てくる。
特に、最初の原爆、「トリニティ」爆発実験の後、かなりの関係者が「とんでも無いものを作ってしまった」と後悔したらしい記述があるのに注目したい。「トリニティ」を目の当たりにした者は、その意味を理解できた。しかし、それを見なかった者にとって、原爆は「破壊力抜群の新兵器」というだけだった。破壊力は既存の爆薬の類推で想像できても、それで何が起こるかは想像の外だったのだ。もちろんトルーマン大統領にとっても、想像の外だったのだろう。
日本側の記録は多数出版されているが、私はそれらを取捨選択できるほど読んではいない。ここではamazonの「広島 原爆」によるキーワード検索だけを表示する。
そしてやはりこの本を。60年を経て、やっと出現した「悲惨を語る」とも「非道を糾弾する」とも異なる、静かな、原爆を巡る物語。
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2006.03.04
内之浦からの帰還以来、ネットにおける行動を控えて潜航している。原稿が…というのはいつも通りなのだが、それに加えて確定申告という化け物と戦闘しているため。
昨年の申告の時、うかうかと青色申告を選んでしまったので、慣れない青色申告の書類と、ああでもない、こうでもないと格闘しているのである。
なんとかして週明けにはすっきり税務署に書類をたたき込みたいところ。その後も原稿が…なので、まだまだ潜航は続くと思います。
しかし税金…なんとかならんもんかねえ。
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2006.02.21
というわけで、皆さんご存知の通り打ち上げは1日延期になった。現在大隅高山に戻ってきてこれを書いているが、外はまぶしいほどの快晴である。一体あの雨は何だったのだろう。
今日の午前0時から6時の天気予報は晴れで、降水確率は10%だった。ところが午前3時半にセンターに向かうと、途中はすごい霧で雨もぱらついている。
M-Vロケットのフェアリングは防音・断熱のためにコルクを使用している。(「日経ものつくり」の記事)大量の水を浴びると、コルクに水がしみこんで劣化してしまう。
だから霧の中、ロケットを出したということは、よほどのことがない限り打ち上げるということだろうと考えていた。
ところが今回の場合、ほとんどねらい澄ましたように局地的な雨雲が発生して内之浦のセンターに大雨を降らせた。降雨レーダーで雨雲の接近を察知した打ち上げ班は打ち上げを中止して大急ぎでロケットを組立棟内部に戻した。その直後、1分も立たないうちに大雨が降ってきたそうだ。
これが、大雨を浴びていたら、おそらく1日の延期では済まなかったろう。
今はとりあえず、快晴が明日の午前6時28分まで続くことを祈って、持ってきた仕事を宿ですることにする。
こういう場合、SAC取材陣では「出番がないまま撤退かよ!」というセリフが出てくるのだけれど…これもまあ、同世代以外に通じにくいかも。
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2006.02.20
19日はフェリーで鹿児島に戻り、内之浦に移動。当地で大阪からの2名が合流し、取材陣は合計6名となる。
本日昼、内之浦のセンター入口で受付をしていると、自動車で的川先生が通りかかる。「ラーメン食べに行くんですよ」。はい、松脇ですねと、後から我々も付いていく。松脇は笹本さんの「宇宙へのパスポート2」に出てくる。「大・中・小・めし」の潔いメニューしかないラーメン屋。豚骨あっさり味のとてもおいしい店だ。
店は混んでいた。いつもは山のように出てくる大根の漬け物も「こめんなさい。終わっちゃったんです」となし。スープがおしまいのようで「大」の注文も不可。それでも我々が入った直後に、売り切れとなったので、運が良かったと考えるべきだろう。
的川先生一行は、稲谷先生に若者、そして温厚な雰囲気のご老体の4人連れ。的川先生がご老体を紹介してくれる。「平尾先生です。『さきがけ』『すいせい』のプロマネです」。おお、平尾邦雄先生。日本初の惑星間探査機の開発と運用を指揮した大先生だ。平尾先生は「もう、あれから21年経ったんだねえ」と感慨深そうだった。
そんな大先生一行と並んで、我々6人もラーメンをすする。一ヶ月ぶりの松脇のラーメンは美味でありました。
「明日は打ち上げの本番じゃからな」といって、いつまでも打ち上げ前日、というのは、SAC取材陣で良く出るジョークだが。…まあ同世代以外に通じにくいかも。
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2006.02.18
午後2時現在、竹崎プレスセンターで打ち上げを待っている。打ち上げ準備作業は昨日来順調すぎるほど順調に進んでいる。
上空は午後1時過ぎまで見事に晴れていたのに、この1時間で、厚い雲に覆われてしまった。腹立たしいが、天気だけはどうにもならない。
願わくば、打ち上げの方向だけにでも雲が切れますように。
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2月18日土曜日午前1時48分現在、種子島宇宙センターのプレスセンターで、H-IIA9号機のロールアウトを待っている。先ほど、プレスツアーに参加する面子がバスで出発した。プレスツアーは1団体2名に制限されている。宇宙作家クラブとしては、初めて島に来た者と、写真など映像関係者を優先という基準でプレスツアーに参加している。
実際問題として、推進剤充填開始の前はセンター内をかなり自由に動ける。いくつ機体ロールアウトを見ることができるポイントがあるので、そこに行けば、プレスツアーに参加できなくとも、かなり満足のいく絵をみることができる。
午後11時34分時点でのGO/NO GO判断はGO。機体のロールアウトは午前2時30分からだ。空は快晴だが、月がほぼ南中しており、満天の星というわけではない。
ロケットは輸送手段であって、毎回感動したり「成功しますように」と祈るようでは駄目だ。軽トラックのようにさりげなく、当たり前に衛星を打ち上げなくてはならない。
とはいえ、それでも50m以上もあるロケットが巨大な機体組立棟から出てくる風景は胸が躍る。
これはどうしようもない。私は「サンダーバード」で育った世代である。
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2006.02.17
現在2月17日金曜日朝、鹿児島港のジェットフォイル乗り場にいる。18日のH-IIAロケット9号機打ち上げの取材のため。またも自動車を交代で運転しつつ、えっちらおっちらと一晩かけて東京から走ってきた。
以前は鹿児島まで来ると、「ああ、遠くまで来たもんだ」と思ったけれども、今回は前回1月に引き続き1ヶ月間隔。「また来た」と、ちょっと感慨も薄い。
うまく18日に上がれば、そのまま内之浦に回り、そのまま21日のM-Vロケット打ち上げを取材する。前回に引き続き、種子島、内之浦ダブルヘッダーだ。
問題は天候その他で予定が崩れた場合。
1)種子島で、上空を通過するM-Vロケットを見る
2)大隅半島から、種子島より昇るH-IIAロケットを見る
3)天気が悪くて何も見えない
さあ、どうなるか。
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2006.02.05
今週は雪の富山に仕事で行ってきた。帰ってくると茅ヶ崎も雪が降ったようだ。
駐車場の自動車、住宅の塀、店頭の日よけ——あちこちに雪が乗っている。それもさらさらの、一切水を含んでいない乾いた雪だ。こんな雪を茅ヶ崎で見るのは初めてだ。寒い。本当に寒いんだな。
道路のあちこちに雪が残って凍っている。
恥の記憶が蘇る。1980年も寒い冬だった。私は高校3年の大学受験生で、共通一次試験という奴を受けることになっていた。
試験当日、自宅の前の道路には大きな氷が張っていた。一緒に会場に行こうと、友人がやってきた。私は自宅前に自転車で出た。
突如、妄想が頭の中にわき上がった。氷の上を、自転車ですーと滑走したら面白いのではないか。試験前にちょうど良い景気づけじゃないか。
少し考えれば、自分の頭の中で「猿回路」が発動したことが分かったはずだ。だが、自分がバカなことをしているとは全然思わなかった。試験勉強でどこかが麻痺していたのだろう。きっとそうに決まっている。
私は少々勢いをつけてから、自転車を氷の上に乗り入れた。
当然滑りますわな。滑れば転びますわな。気が付くと私は転倒して、斜めになった路面を見ていた。友人がそれこそ凍り付いたような表情で私を見ていた。空気が冷たかったのは寒波のせいだけではなかったはずだ。
その年、私も、一緒に会場に行った友人も浪人した。もちろん勉強不足のせいだ。決して滑って転んだからではない。断じて…
数年後、「めぞん一刻」という漫画で、主人公の浪人生五代君が坂を滑り落ちるという場面を読んだ。
ありがちだ、と私は深くうなずいたのであった。
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2006.01.22
21日の午前中は宿でお仕事、午後から宇宙センターへ。Y-1ブリーフィングに出席する。そろそろ、はやぶさタッチダウン取材で知り合った報道関係者達が集まってきている。
夕刻、プレスセンターから撤収しようとして表に出ると、島に入って以来降り続いていた雨がやんでいた。自動車を南種子町方面に走らせていると、一瞬太陽の光が見えた。
夜、表に出ると星が見え始めている。これならば、23日の打ち上げも大丈夫そうだ。
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2006.01.21
19日朝のフェリー「プリンセスわかさ」で種子島に入った。海は荒れており、錦江湾から出るとフェリーは揺れる揺れる。気分は映画「Uボート」だ。フェリーのトイレに取っ手が付いている理由が初めて分かった、とは同行者全員の実感。
そのまま宇宙センターに直行する。海岸に面したプレスセンター付近は風雨が強い。道が海岸から飛んできた砂に覆われている。プレスセンターはほとんど空っぽ。「今回も技術説明で来ました」という旧知のAさんがいたので、現状を聞く。一般向けの展示をしている宇宙開発館には、今回打ち上げる衛星ALOS「だいち」の熱構造モデルが展示されていた。
河内温泉センターにつかってから港のある西之表に戻る。宿は西之表のなじみの民宿。センターからは遠いのだけれど使い勝手がいいので大抵はここに泊まっている。いつも通りおばちゃんと猫共が迎えてくれたが、おばちゃん、20日から23日まで九州の方で結婚式があるとかで留守にするという。「後は適当に使って下さい」。のんびりしたものだね。当面、宿は我々の貸別荘状態。信頼に応えるべく心して住まわねば。
夜は飲み屋に出てきびなごと焼酎で酔っぱらう。店主のおやじさんが、途中から飲みに参加。サーファー米の顛末とか、種子島における町村合併の状況とか、色々と聞く。
「娘が福岡でデザインの仕事をしようとしているんだがものになるだろうか」と、娘さんが高校の体育祭で描いたという立て看板の写真を見せられる。
才能はあると思う。でも、高校で一番描けるというレベルの奴は、美大にいけばごろごろしている。その連中との切磋琢磨の中で、色々な出会いがあって仕事につながっていくといいのだが…
デザインと写真の仕事をしている同行Mさんの意見ははっきりしていた。
「東京に出なければだめですよ」
…それはあるなあ。現実として。
20日も雨。センターに電話すると、早々に打ち上げは23日以降に延期とのこと。
午後3時から、センター内の一般向けツアーに参加する。以前我々が打ち上げ後数日粘って見学したH-II7号機を、現在は無料の一般向けセンター内ツアーで公開している。事前の予約が必要だが当日、宇宙開発館の受付で申し出ればOKだ。宇宙開発館には「見学人数2万人まであと264人(数字はうろおぼえ)」という表示が出ていた。
マイクロバスに十数人の見学者が乗ってツアー開始。打ち上げがない時はH-IIA射点の敷地内にも入るそうだが、今回は外から見るだけ。
大崎事務所棟の倉庫で、4年振りにH-II7号機と再開する。先行した8号機の事故で、結局打ち上げずに終わってしまった機体。組み合わせるはずだった固体ロケットブースターは、すでに推進剤の経年劣化を調べるための燃焼試験に回してしまったため、もう打ち上げられることは金輪際ない。そもそも、射点設備もH-IIA用に回収されてしまっている。
横にはH-IIの射点での燃焼試験「CFT」に使った第1段も置いてあった。
精緻な構造が、かえってわびしい気分をかきたてる。もうちょっときちんとした展示はできないものだろうか。
この日も温泉。そして西之表で、スーパーの総菜を買い込んで宴会。種子島はスーパーの総菜であってもおいしい。ビールを飲みつつ、仕事。
目覚めて21日、センターに電話すると23日打ち上げ決定とのこと。
さあ、本番だ。
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2006.01.18
18日夜現在、内之浦の隣、高山の温泉旅館にいる。
17日、種子島を目指して宇宙作家クラブの面々と東京を自動車で出発、18日早朝、鹿児島新港フェリーターミナルでフェリーを待っているところで、H-IIA8号機がトラブルを出して延期となったことを知った。
H-IIAのトラブルは長期の延期となる可能性があると考え、急遽内之浦のS-310-36号機打ち上げを取材することにした。午前10時半には内之浦に到着。午後1時の打ち上げを待ったのだけれども、こちらも雨のために打ち上げ中止に。
さらに、種子島からは20日にはリカバリー終了、21日以降に打ち上げ可能にという報道が入ってきた。これはまいった。もっと長期間の延期になると踏んでいたのだけれども。
明日の早朝、またフェリーターミナルに向かい、種子島に渡ることにする。
これで、どちらの打ち上げにも立ち会えなければ、大間抜けだ。昨年夏のM-V6号機、そしてスペースシャトル「ディスカバリー」と数えていくと3連続で振られたことになる。
なにをやっているのやら。とにかく、締め切り仕事を抱えているので、宿で仕事をすることにする。
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2006.01.07
そういえば、今年は戌年だったな、と思い出して。
松浦実家の犬二匹。物見高い性格で、表に郵便配達やら宅配便やらがやってくると、この調子である。
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2005.12.31
29日は、高校のクラス会。なぜか2年の時のクラスは仲が良く、卒業以来欠かすことなく年に一回集まっている。今年も旧友18名に先生が集まった。
私のテレビ出演を見た女性から「松浦君は早口過ぎ。これを読んだ方がいいと思うよ」と、「声優入門」という本を貰う。「発音は勉強すれば大きく変わるから」と。
勉強します。次のチャンスがいつあるかは分からないけれども。
本会、二次会と流れ、最後は終電を乗り過ごして先生とただ2人、魚民で語り合う。我々の担任だった頃は三十代前半だった先生も、来年で校長定年。
話題は、自然と10年前にこの世を去った一人の男の話となる。中学からの私の親友で、先生の碁敵だった男。彼はアマチュアではそこそこ打てた、らしい(私は囲碁のルールを知らない)。先生は奴を打ち負かそうと何度も挑んだが、勝てないまま、奴は足早に人生から退場してしまった。
しんみりと語る先生。「ヒカルの碁」ほど格好良くはないが、確かにそこには碁盤を挟んだ友情があったのだと思う。
迎えにきた先生の息子さんの自動車で、帰宅。
30日は仮眠もそこそこに早朝の電車で上京してコミックマーケットへ。遊び友達おかちん氏のブースで売り子をするため。
ここ数年、夏冬のコミケで売り子をしている。消費の中核となるまで成長したオタクの祭典をジャーナリストの視点で内側から見る——などと理由づけてみるものの、つまるところは面白いからだ。それはもちろん自分のオタクの血が騒ぐということもあるし、もう一つ、普段は眠っている商売人根性が騒ぐということもある。松浦家の祖先は、大阪で暦の製造・販売をしていた。京都の陰陽師が作る巻物にするほど長い暦を、教訓なんかが書いてあって毎日破り捨てる日めくりに仕立てたのは、私のご先祖様だったりする。
寝不足、酒の残る体で、さすがにコミケの売り子はきつかった。それでも、おかちん氏の漫画がぽんぽんと売れていくのは快い。
一つ悔いが。私を見つけた方から、サインを所望されたのだけれども、そこに私が書いた本がなかったのでサインを断ってしまったのである。寝不足の頭で「自分の書いたものではないのに、自分がサインを書くわけにはいかない」と考えたのだが、なんでも書けばよかったのだね。本を読んでくれる人があって、私の生活が成り立つわけで、まったくひどいことをしてしまった。
大変申し訳ありませんでした。多分次の夏コミでも売り子をしていると思いますので、覚えのある方は声をかけてください。
終了後、打ち上げ宴会に出席するが、半分は隅っこで寝ていた。さかなさんのホームページと「夕凪の街 桜の国」を紹介するで紹介したさかなさんにはじめて会う。おっとりとした愉快な方だった。
さかなさんはコミケ初参加。まいなすさんとの合同誌をコピーで100部作ったが(直前までホテルでホチキス止めしていたという)、あまり売れなかったとのこと。
コミケは巨大なイベントだ。参加者は、カタログで事前にチェックしたブースにしか行かない傾向がある。このような場では、無名と同人誌が売れないは、ほぼ同義である。
粘って出場回数を増やし、コミュニティでの知名度を上げていくしかない。さかなさんもまいなすさんも、面白い漫画を書く人なので、そのうち部数も出るようになるだろう。
31日は、実家にて年越し蕎麦。仕事が遅れているので仕事仕事。NHKも民放も見るに値しない番組ばかりやっている。とりあえずNHK教育、そしてケーブルのアニマックスでやっていた「機動戦士ガンダム・めぐりあい宇宙編」へ。
横で弟が酒を飲みつつ、ガンダムを見ている。およそアニメと縁遠い弟の質問がうるさい。
「シャアって一番偉いんじゃなかったの」
(シャアはジオン軍の士官じゃ!)
「なんかララアって、アダルトチルドレン風でうっとうしいよねえ」
(黙って観ろ!)
「えらそーなおばさんが出てきたんだけど誰?」
(キシリアだ!)
「なんでホワイトベースって子供が乗ってんの?戦場に子供を連れて行くのは非人道的じゃない?」
(ええい、説明するとそもそもホワイトベースは難民船になっちまったという経緯があってだなあ…いいから観ろ!)
「そういえば、アムロだって子供だよねえ」
(いいから観ろって!)
そんな弟も、ガンダム対ジオングで、ガンダムの頭が吹っ飛ばされるところでは「おおっ」と息をのんでいた。
かくして2005年が暮れていく。皆様、よいお年を。
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2005.12.29
年の瀬となり、一体昨年の自分はなにを考えていたのか、と昨年12月の記録を読み返してみる。と、今井紀明氏について書いていたのを思い出した。
イラク人質事件が2004年4月、その後今井氏は2冊の本を出し、10月からはイギリスに行った。
今、彼はどうしているのか、と検索をかけてみたら、この12月からblogを書いているのを発見した。
・今井紀明の日常と考え事
今月17日から始まったばかりだ。とりあえず全部読んでみる。
この19日から、ソウルに滞在。韓国人の彼女の家にいるのか。
彼のプライベートはともかくとして、結局、現在20歳の今井氏は、まだ頭の整理ができていないな、というのが私の判断だ。
このblog、タイトルが「今井紀明の日常と考え事」なので、考え感じたことをそのまま掲載しているのかも知れない。しかし、それにしても、他人に自分の思考や状況を伝えるには、あまりに文章が冗長だ。
思わず12月26日付の記事冒頭に朱を入れてしまう。
オリジナルは以下のとおり。
クリスマスも過ぎて2005年はもう終わろうとしている。今朝は身体が切れるように冷え込み僕の手は外にいる時間が長いほど痛みが激しくなってきている気がする。僕はいつものように韓国の英字新聞を買い、開いてみるともう今年一年をめぐる国内と国外のニュースを10個挙げた欄が2面に渡って写真つきで掲載されていた。
無駄が多い上に、係り結びの間違いまで混入している。ニューズレター誌で、さんざっぱらデスクにいじめられた経験を持つ私が直すとこうなる。
「2005年も終わろうとしている。今朝は身を切るように寒く、戸外にいるほどに手が痛む。いつものように英字新聞を買うと、今年一年の国内外10大ニュースを掲載していた。」
「ちんたら書いてんじゃねえぞ、オラァ」というデスクの声が耳の中に蘇るようだ。
ひょっとすると、本文は他人に読ませるというよりも備忘録として書いているのかもしれない。だとしても、blogを紹介するトップの文章は、他人に読まれることを前提に書かなくてはならない。それが以下の通りでは、かなり困ってしまう。
イラク人質事件から一年半以上が経ちました。批判の手紙と批判の手紙を書いた人と会いながら、いろいろ考えてきました。いろいろ批判されましたが、それは本当に正しい情報だったのか、それが僕だったのか、というのは疑問です。なので、僕はこのブログを開きました。もしよかったら見てください。左も右もいいんです。とりあえず、僕ら、努力して生きればいいじゃないですか。お互いにがんばりましょう。ということで、皆様、よろしくお願いします。
あえては書き直さないが、この文章も、意味はそのままでよりわかりやすく書き直せる。多分、半分以下の長さに削れるはずだ。
今井blogの文章に見る、冗長さとだらだら感は、彼の頭がきちんと整理できていない証拠だろう。おそらくイラクに渡航した段階では、彼はもっと未熟で、頭の整理もできていなかったのではないか。
頭がきちんと整理された20歳はまれだ、だから彼の頭が整理されていなくても批判するには及ばない。ただし、そのまま世間で通用するわけでもない。
どうも彼は、自分が真摯に行動すれば世間に通用すると感じているようだ。
真摯なだけでは、世間に物言うには足りない。真摯であることは必要条件だが十分条件ではない。なによりも日々の仕事の中で経験を積み、自分を鍛える必要がある。
勘違い20歳は世間に多い。彼は特別ではない。ごく普通の20歳だ(自分がどうだったかといえば…思い出したくもない!)。だが、今井氏は、イラク人質事件で世間の注目を集めてしまった。普通の20歳には許されるバカな行い(それは成長に必要な行為だったりもする)が、彼の場合思わぬ非難を引き起こす可能性がある。
彼の前途は多難だろうな、と思う。がんばってほしい。
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2005.12.05
ほぼ一ヶ月前の11月6日の話なのだが、はやぶさの影響で書けずにいたことを。
空気清浄機のフィルター交換時期のサインが点灯した。買い置きのフィルターと交換する。新しいフィルターは真っ白。一方、使い古しのフィルターは、主にディーゼルエンジンの煤煙だろう、真っ黒になっている。
それでも、このフィルターは2年以上使えた。
現在の空気清浄機を購入したのは、東京のど真ん中に住んでサラリーマンをしていた1998年のことだ。あまりの体調の悪さに、「これは空気が悪いからではないか」と考えたためだった。正直、空気清浄機は好きではなかった。1970年頃の公害問題が騒がしかった頃、「外出にガスマスクを付けねばならない」というようなディストピア的未来像に触れたせいである。自分がそんな未来に生きているとは認めたくなかったのだ。
ところが、導入してびっくり。説明書には「1年持つ」と書いてあるフィルターが、私の住んでいた場所では3ヶ月で真っ黒になったのである。「げ、こんな環境に住んでいたのか」という驚きは、翌々年、サラリーマンを辞める一つのきっかけにもなった。
考えてみれば、後にディーゼル車の煤煙機制に乗り出す石原慎太郎都知事の知事就任が1999年4月だ。1998年といえば、ディーゼル車の煤煙がもっともひどかった時期に当たる。
その後石原知事主導で、東京都周辺ではディーゼル排気ガス規制が実施された。今は、都心の空気もいくらかましになっているのではないだろうか。
もっともこの排ガス規制は思わぬ弊害ももたらした。主にジープを初めとした古いディーゼルエンジン搭載の四輪駆動車に乗っているマニア達が、自分の自動車に乗れなくなってしまったのだ。
イタリアでは古いフィアットを走行可能にするために、クラシックカーに関しては排ガス規制を緩めたりしている。だから、少々のマニア四駆ぐらいいいじゃないかと思うのだけれども、こういうところ、日本の行政は徹底的に無理解かつ怠慢である。
私の周囲でも、自動車を規制のない地方の実家で登録したり、涙をのんで愛車を買い換えるといった例が出た。
ともあれ、現在、茅ヶ崎の空気では、「1年で交換すること」というフィルターが2年は持つ。これはありがたいことだ。
できればフィルターがいくらでも持つぐらい、空気がきれいになって欲しいとも思う。産業社会到来以前はそれが当たり前だったのだから。
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2005.12.04
大阪の葬儀に、ロケットまつりに、羅須地人鉄道協会。さすがに疲れが出て、起きたら午後になっていた。
氷雨が降って寒い。たまらずホットカーペットを敷く。
この冬、ここまで一切の暖房装備なしに過ごしてきた。きっかけは夏の暑さだ。地球温暖化が進行するなら、せめてそこからなにか「こいつは良かったぜ」という成果を引き出すことはできないか。「地球温暖化よかった探し」だ。そこで、夏が暑いなら冬だって暖冬になるかも、と、暖房を使わない省エネルギー生活を目指したのだった。夏が暑いから冬も暖かくなる、とは限らないのだけれども。
結構できますね。暖房なしの生活。こまめに雨戸とカーテンを閉める。寝るときは掛け布団を一、二枚多くする。空気を抱き込むような緩い服を重ね着する。これだけでかなりしのげる。どうにもならないのは、原稿執筆時に手がかじかむことで、これはお湯でこまめに手を洗うことで対処した。
考えてみれば、自分が子供だった時分の冬の生活はこんなものだった。別にどうということはない。
しかし今日の寒さは、かなりのものだ。調べると最高気温9℃、最低気温5℃…なんだ、まだ氷点下にはなっていないのか。雨で湿度が上昇しているために、気温以上に寒さが響くようだ。
ともあれ、ホットカーペットを出して、さらにもう一つの防寒策、すなわちスポーツに出かける。しっかり運動をして、普段から体の血流量を上げておけば、これまた寒さ対策になる。
フィットネスクラブに行って久し振りに2kmほど泳ぐ。1日1時間の運動、というのを心がけているけれども、なかなか実行できないものだ。要は、地上にいてもミールに乗った気分で生活を組み立てろというだけの話なのだけれども。
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2005.12.03
朝からAZ-1を駆って、千葉は成田の
成田ゆめ牧場へ。ここでは、
羅須地人鉄道協会が、2フィートゲージの蒸気機関車を、自分たちで線路の敷設まで行い、運転している。次の次の本のための取材だ。滑川駅で編集のIさんをピックアップしてゆめ牧場へ。この日は、台湾の基隆炭坑から買い入れた蒸気機関車「6号機」がお客さんを乗せていた。製造されてから70年を経た古強者だ。
親子連れで牧場はにぎわっていた。蒸気機関車に乗って、にこにこしている子供達を見ると、それだけで「ああ、蒸気機関車っていいなあ」と思ってしまう。操縦席に入れて貰って、汽笛を鳴らしたり、石炭をくべてみたり。これは楽しかろう。
羅須地人鉄道協会というのもなかなかとてつもない団体だ。SLブームだった1970年代、SL写真集が売れてお金ができた鉄道マニア達が、お金を何に使うかと考え、本物の蒸気機関車を買ったところから始まる。そして30年、幾多の挫折を乗り越えて、蒸気機関車を自作し、運転し、整備し、線路を敷く場所を求めて線路を敷設し、保線を行い、ピットを自作し、そして今、成田ゆめ牧場で、日本で唯一の公開型保存鉄道を運用しているのである。
夜、座談会形式で会員の皆さんから話を伺う。
なぜ、子供が来ると、汽笛を鳴らさせたりするのか。一人の会員さんがこう言っていた。
「僕ら、子供の頃に駅とかにいってじっと蒸気機関車を見ていると、『おう、さわってみるか』と運転手さんが本物をさわらせてくれたりしたわけです。そういうところに自分の根があるので、ここに来る子供にもできるだけさわらせてあげたいなと。それは自分がしてもらったことを返すということだから」
「そうそう」と別の方から。
「いるんだよね。柵にしがみついて目をらんらんと見開いて機関車見ている子供」
「見れば分かるよね。明らかに他の子と違う」
「そういう子にはね、機関車に乗せて色々見せてあげるんだ」
いい話だ。
色々と話を聴き、夜8時過ぎに辞去。
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2005.12.02
午後遅くから新宿に出て、ロフトプラスワンに出演。会場に着くと、すでに林紀幸さんは来ていた。打ち合わせをするうちに垣見恒男さん到着、ロフトの斎藤さんが「あさりさんまだなんですけど、どうしよう。電話したほうがいいですよねえ」と言っている内にあさりよしとおさん到着。
今回の目玉は垣見さんの秘蔵資料だったのだけれど、この面白さがお客さんにうまく伝えられたかどうか。垣見さんが、次々に「この人はだれ、この人はこういう人で」と説明する。私は当時の人間関係をある程度調べていたから、ああなるほどなのだけれど、予備知識がないとつらかったかもしれない。
それでも、ロケットの直径が735mmのラムダになった時点で、当時の富士精密のロケット部門を率いていた戸田康明氏が「これ以上大きなものはよう作りません」と東大に申し入れていたというのは知らなかった。しかもその時、戸田氏の部下だった垣見さんが、密かに糸川博士と「次の次の世代の直径3mロケット」を検討していたのだ。そのLD-3という試案が、30年もの間、様々な人々の手を巡り巡って現在のM-V(直径2.5m)へと結実するのである。
林「なんでミューは直径1.4mになったか知っていますか。それは糸川先生が、ロケットの大きさに制限をかけられるとなったときに、1.4mだと言ったからなんですよ」
垣見「いや、そうじゃないんだ。僕は本当の理由を知っている」
林「え、そうなんですか」
垣見「1.4mというのは私が決めたんです」(会場大爆笑)
松浦「確か松尾先生なんかが計算していた試案では、直径1.2mで、それを糸川博士が1.4mにしろ、と押したとか」
垣見「そう、でも1.4と決めて計算したのは私です」
林「でもなんで1.4mだったんです?」
垣見「忘れちゃったよ、そんなこと」(再び会場大爆笑)
途中で、会場に来て貰っていた小野英男さんにも壇上に昇って貰う。日本電気で「おおすみ」以降の初期の科学衛星を作った人だ。実は数日前に私とメールのやり取りがあり、「来られますか」「行くよ」ということになってやってきた次第。
これで終わりと、締めの言葉を言おうとすると、林さんが「ちょっと待って」と、この日最大のサプライズをぽんと机の上に置いた。会場大騒ぎ。さらには終了後のあさりさんによる困ったDVD上映もあり、とりあえずはお客さんに満足してもらえた模様。良かった。
だが、今回一番意味があったのは、来場していた東海大学のロケットグループ学生と林さんや小野さんの間で、連絡が付いたことじゃないかと思う。退職したベテランは、現場のノウハウを豊富に持っている。文書にはなっていないが、それなしには物事を進められないという種類の智恵だ。そのようなノウハウが若い世代に伝えられるなら、それは素晴らしいことだ。今回すでに、休憩時間中に林さんが、東海大学の学生達に射場安全について解説していた。
これからロケットや衛星を作ろうと考えている学生さん、おられたら、とりあえずはロケット祭りにおいで下さい。我々の知る範囲なら、教えを請うべきベテランを紹介いたします。
ちょっとだけ打ち上げに出席し、終電で帰宅。明日は明日でまた朝からやることがあるのだった。
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2005.12.01
はやぶさは、まだまだ予断を許さない状況にある。ともあれ、当ページも臨戦態勢を解いて、いつものペースに戻していくこととしよう。
本日は29日にこの世を去った大阪の大叔父の葬儀。私の祖父の末弟で89歳の大往生だった。個人企業のオーナーで、死の直前まで出社していたので、出席者は仕事関連が多い。
親族はといえば、多くはかなりの高齢。一段落付いて、酒が入ると、「○○のおばあさんなあ、15歳で網元の家に嫁入りして、家が恋しくて毎日海岸で泣いていたそうな」などという、「赤とんぼ」も真っ青な話が出てきたりする。現在70歳過ぎの彼らが語る「おばあさん」だから、明治末期の話だろう。
近代とか現代とか言っても、「知っている人の知っている人」と二段階も遡れば、そこは「お里の便りも絶えはてた」の世界なのである。
亡くなった大叔父は、戦前より左翼思想に傾倒し、戦時中は徴兵されても戦闘を拒否。何があったか、おそらくはぼろぼろにぶん殴られて懲罰労働にでも就かされたか、中国奥地の病院で死ぬばかりになっていたのを、兄、つまり私の祖父が乗り込んでいって、これまた何をどうしたのか救出してきた、という逸話の持ち主だった。その祖父は敗戦後にシベリア送りで死に、大叔父は天寿を全うしたのだから、人生というのは本当に分からない。
戦後も筋金入りの共産党支持者で、個人企業を社長として切り盛りしつつ、一方で、まだ非合法活動をしていた共産党にかなりの資金を提供したという。共産社会が到来したら真っ先に切られる資本家なのに、共産党に協力するとはこれいかに、と閉口した親族が付けたあだ名が「共産趣味者」。それでも、温厚かつ人に篤い性格で、関西の親族のとりまとめ役的存在だった。
学生時代、四国旅行の途中に家に泊めて貰ったことがある。酒が入るほどに昔話をし始めた大叔父は、私の事を「なあ龍雄さん」と父の名前で呼び始めた。「ちゃいます。息子です」というと、「おお、すまんすまん」、ところが五分ほどするとまたも「なあ龍雄ちゃん」…それももう懐かしき思い出である。
葬儀に出るといつも、確かに人の品格というものはあるのだな、と実感する。日頃は隠していても本人の葬儀では隠せない。その人がよく生きてきたかがはっきりと現れてしまう。
大往生の人の葬儀は大抵の場合明るい。それでも今日の葬儀では、棺の中で小さくなった大叔父の顔に花を乗せる段になって、親族の女性一同、老若を問わず皆涙ぐんでいた。「おじちゃん、さよなら」と。
我が葬儀も、願わくばかくありますように。
のぞみとこだまを乗り継いで、夜遅く茅ヶ崎へ帰着。
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2005.11.11
漫画家のあさりよしとおさんからコメントを貰った。
————————————————————
はやぶさvsイトカワ
はやぶさは、4日のリハーサルでは予定通りの降下は果たせなかったものの、9日には再度の降下リハーサルを行ない、それなりの成果は上げたようだ。
http://www.jaxa.jp/press/2005/11/20051110_hayabusa_j.html
しかし、太陽を背にする戦法は良いとして、地面に影を落とすとは、はやぶさも迂闊である。
もしこのまま接近していたら、斬って落とされ、真っ二つにされていたかも知れない。
しかもこの時、ターゲットマーカーを一個分離していたのだが……
第2回目の降下点において、ターゲットマーカの分離を試み、正常に分離され…(中略)…また、同マーカは、小惑星表面には投下されませんでした。
イトカワに、かわされていたようである。
おそらくイトカワは、こう言いたかったに違いない
「正確な射撃だ、それ故予測しやすい!」
はやぶさとイトカワの戦いはさらに続く……。
次の戦いは12日!
かつてカッパロケットの頃は、河童がおならで空を飛ぶという新聞漫画が出たりもしていた。その手の話題が少ないな、と思ったので掲載した次第。
本日の臼田局からの運用は、明日のリハーサルに向けた準備。おそらく、明日のリハーサルに向けたコマンド列をはやぶさに向けて送信したはずである。
そのまま打ち合わせと仮眠を経て、今夜半から明日1日をかけた長いリハーサルが始まる。
「探査機運用は体力勝負と見つけたり」
photo by JAXA/ISAS
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2005.10.29
夕方から新宿へ。ロフトプラスワン「ロケット祭り」出演のため。
すでに垣見さん、林さんは到着していた。林さんはロフト気付でなにやら大きなつづらを送ってきている。
「先広げちゃおう。手伝ってくれる?」
というので、お客さんの前で中身を演台に並べていく…林さん、いいんですか。
大きなつづらのなかからは、オバケが一杯でてきて、おばーさんはびっくりしてしまいましたよ!
そこで始まったトークライブだけれども…書けない。まったくもって書けない話が次から次へ。林さんの突っ込みで、垣見さんが乗ってくれることよ。
「要らないボルトなら最初からつけるんじゃない」
「バカ穴の三菱、現物合わせの中島」
「あー、やっちゃったあ」
「若造が公差なんか分からないんですよ」
ぐらいが、まあ書いて良い限界か。あの場にいた皆さん、実にいい話を聴いたと思います。私も勉強になりました。
回数を重ねて、さすがに私も演題に突っ伏さなくなってきた。しかし実態はと言えば、ひたすらびっくりを押し隠して、話を聴いているのです。
次回は12月2日になりそうです。詳細は追ってお知らせします。
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2005.10.26
東京に出て二件ほど人と会う。頼ったり頼られたり、まあ世間は色々だ。
夜は秋田大学の秋山さん、そして東海大学のハイブリッドロケット研究グループの学生さん達と飲む。
東海大の学生達は。ロケット開発に必要な資金を企業回りをして集めているという。実にアグレッシブで頭が下がる。自分が学生の時何をしていたかを考えると、そうだなあ、バイクに乗ってフルート吹いてプラモ作って…社会的なことは何もしてなかったなあ。そんなダメ学生でも、まあこの程度の大人になれるというべきか、この程度にしかなれなかったというべきか。
キューブサットの学生達といい、ロケットを作り始めた東海大学(会ったことはないが北海道大学のロケット野郎達もきっとそうなのだろう)といい、皆、自分の学生時代よりもはるかに立派だ。いや彼らに限らず、宇宙にモチベーションを持って活動している学生さんたちは、皆素晴らしいと思う。よれよれの俺がでかい顔して彼らに偉そうにしゃべっていていいんかね、という気分になる。
大学レベルでハイブリッドロケットの開発が始まってから、日本の宇宙はJAXAの独占という状況が崩れつつある。これは面白い、ものすごく面白い。だいたい、「宇宙開発は国家の独占事業」だなどと誰が決めたのか。独占は大抵腐敗するものだ。
大学回りの動きが今後どのように進展するか——願わくばJAXAの足下を切り崩し、JAXAも必死にならなければならないような(もちろん妙な政治的動きはなしだ)、力を持った運動へと成長して欲しいと願う。
27日はロシアで、東大のキューブサット2号機が打ち上げられる。
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2005.10.21
原稿を書く。状況分析の原稿。基本は公開されたデータを解析して、新しい視点を提示することだ。公開データをつつき合わせたり、斜めに読んでみたり、表計算ソフトに入力して分析してみたり。
リヒャルト・ゾルゲがせっせとスターリンに送っていた情報のあらかたは、公開された情報の分析だったという話がある。諜報活動の主力は公開情報の分析であり、007的な非合法活動で得られる情報は全体の1/10以下なのだそうだ。
調査報道と言う奴も似たようなものだ。いや、自分がやっているのが調査報道に値するのかはあまり自信がないのだけれど。
こういう話を書いていると、ふつふつと情報収集衛星の悪口が書きたくなってしまって困る。このblogは人畜無害な身辺雑記に終始するつもりだったのに。
衛星という道具の特徴は何か。比較的短時間に全球的な地球のデータを取得できることだ。
国家戦略にとって重要な全地球的データとはどんなものか。いくらでもある。植生、気象、土地利用、オゾンの全球分布、降雨のリアルタイムデータ——すべて国家戦略の策定のために重要だ。
そのようなデータを得るにはどうしたらいいか。もちろん各種地球観測衛星をがんがん打ち上げ、迅速にデータを解析し、効果的に解析結果を利用する体制を構築すればいい。
で、情報収集衛星の目的は何か。朝鮮半島北部と、日本海のいくつかの特定設備の戦術的監視である。
アホかーっ。
事実だけ指摘しておこう。
全地球的戦略データの収集に向いた衛星という道具を、戦術情報を得るための高々度偵察機の代用にするのは、冷戦期の米ソの発想だ。
同じ金を使うなら、朝鮮半島を巡るヒューミント(人対人の007的情報収集のことだ)に突っ込めば、ずっと効果的に情報を集められたろう。
情報収集衛星が集めているような可視光高分解能データは、GISのような地図情報システム、店舗出店にあたっての商圏把握、都市計画といったむしろ民生面で有用だ。情報収集衛星の撮影データは、Google Mapのような仕組みで全面公開してこそ生きるのである。そうすれば物好き達が、専門家の分析しきれなかったデータも、喜んで分析してくれるだろう。タダで。
でもって結論。
情報の秘匿で国家の優位を保つのではなく、情報の公開と共有が、国家間の危機を回避する方向に働くような仕組みを模索するべきなのである。
書いてしまって自己嫌悪。不十分な煮詰めのままblogに書く話じゃないなあ。ごめんなさい。
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2005.10.20
本日は晴れ。素晴らしい秋晴れ。
出かけたいぞ遊びたいぞ。でも仕事がある。どうするか。昼飯を食いに出かけるのだ。それもバイクで。
AX-1のエンジンに火を入れ、湘南海岸を鎌倉へ。以前から目を付けていたインド料理屋で昼食とする。なかなかの味だった。
すっかり良い気分で走っていた帰り道、江ノ島付近で、二人乗りのビッグスクーターと並んだ。おうおう兄ちゃんやるじゃないか。後ろに乗っているのは彼女かい。太ももがまぶしいぜ。
太もも…?
後ろに乗っていた女性は、ミニスカート姿だった。
おい、その格好で乗せるな。いや、色っぽいとかじゃなくて、転倒したら大事な彼女の脚がずるむけになるぞ。イージーライドはいいのだけれど、スクーターはあくまでバイク。覚悟を持って乗る乗り物なのだ。
はやりものに飛びつく者すべてが阿呆ではない。が、はやりものに喜んで群がる連中の中には少なからぬ阿呆がいる。私の世代ではレーサーレプリカだった。どいつもこいつも皮ツナギを着て、峠道を腰を落としてすっ飛ばしていた。中には本当に速い奴もいたが、速いつもりになっているだけの奴も多く、けっこうな事故を起こしたものだ。
ちょっと前ならTW200だな。あれこれ取り外して、スカスカにして乗るのが流行した。どういうわけかタンクトップに半ズボンで乗るバカが多かった。服装までスカスカにするなよ。転べば痛い目に会うのは自分だ。
で、今はビッグスクーターだ。とりあえずまともな奴と阿呆を見分けるポイントはヘルメット。阿呆は原付用のお椀型ハーフヘルメットをかぶっている。それじゃ何かあった時に危ないぞ。
二人乗りがしやすいせいか、後ろに女の子を乗せている奴は多い。が、ミニスカートだけは止めたほうがいい。
TW200のあほんだらは、自分が痛い目に合うだけだった。ビッグスクーターの困ったチャンは、自分の彼女を危険にさらしている。どちらかというとスクーターの方が罪深いと思う。
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2005.10.19
中学生の時だった。小説を書こうとしたことがある。タイトルは「ナンセンス・ゲリラ」というもの…
そこっ、笑わないように。30年近く昔だ。まだ「ナンセンス」という言葉は死語になっていなかった。
——突然、奇妙な事件が続発する。タンカーがいつの間にか丘に上がったり、長谷の大仏が後ろ向きになっていたり、霞が関ビルに巨大なはてなマークがペイントされたり。警察はいたずら事件と判断して捜査を始めるが犯人は捕まらない。そのうち実行犯の何人かが検挙されるが、彼らは異口同音に「何となく」「面白そうだったから」という、共犯はと問いつめると「知らない人と一緒に」と答える。やがて、一連の事件に「ナンセンス・ゲリラ」という名前が付く——
こんなアイデアを思いつくにあたっては前史がある。小学生の時に見ていた「人造人間キカイダー」、私は、キカイダーが阿呆に見えて仕方なかったのだ。
毎回、敵の首領プロフェッサー・ギルは、ひょろろろーと妙な笛を吹く。良心回路が不完全なキカイダーはその度に苦しみ(ロボットが苦しむとはどういう事だ、というのはさておいて)、やっと敵の戦闘ロボットを倒すのだった。
「やっつける順番が逆だろう」と子供心に思った。笛の音が聞こえるということは、ギルも近くにいるということだ。だったら、先にギル(生身の人間だから、力はキカイダーの敵じゃない)をやっつけて、しかる後に戦闘ロボットをやっつけるべきじゃないか。
で、思いついたのだ。「悪の組織において最大の弱点は一人しかいない首領である」。もう一歩進んで「最強の悪の組織は、首領がいない悪の組織である」と。
ところが、そんな番組はいつまでたっても始まらない。で、中三の時に自分で書いてみようと思ったのだった。つまり「ナンセンス・ゲリラ」が、首領がいない、実行犯だけの組織だったのだ。戦闘員だけのショッカーというべきか。イー。
私はこの小説を書き上げることができなかった。というのは、大仏を動かすなんてことは、事前にかなりの打ち合わせが必要になる。実行犯相互が、「なんとなく」「顔も知らず」「知り合いでもない」状態で、事前打ち合わせをするにはどうしたらいいのか、どうしても思いつかなかったのだった。
私は嘘が下手だった。もしも「百匹目の猿」のような仕組みを思いついていたら、今頃は適当に論文趣旨を適当にねじ曲げて一般解説書を書くスーパー・ネイチャーな自然科学者か、中小企業経営者相手に嘘八百を付きまくる経営コンサルタントになっていただろう。
そして私には工学の才能もなかった。もしもあったら、パケット伝送による中心がないネットワークを考案して世界的な名声を得て、今頃は日経新聞に「私の履歴書」を執筆していたかも知れない(私が中学の時には、現在のインターネットの原型はとうの昔に出来ていたわけだが)。
何が言いたいか、といえば、2ちゃんねるのような匿名巨大掲示板は、まさに中学生の私が夢想したような運動体になっているな、ということだ。日韓共催のワールドカップの時、妙な報道をしたフジテレビに抗議して、2ちゃんねらー達が、テレビ番組に先駆けて江ノ島海岸を清掃してしまった時、この事に気が付いた。お互いに
顔も知らない匿名の個人が、事前に図ってその時だけの運動体を結成して、社会に影響を及ぼす——中学生の私はこれが書きたかったけれども、書けなかったのだった。
いや、気が付いたからどうということでもないのだけれど。子供がようよう書ききらなかった小説など、存在しないも同じだ。
で、今日の本題。知人から流れてきた面白い情報。
・まずこの画像
・で、この動画像
震源地はどうやら、2ちゃんねるらしい。つまらん討議の時は、こういうことをしたくなるのは良く分かるが、こうやってキャプチャーでその画像が津々浦々に流れてしまうのは、ネットならではだろう。ご愁傷様でした。
もうひとつ、のまねこ関連で。
・空耳じゃないマイアヒ
そうか、切ない恋の歌だったのか。
聴き手が空耳をして遊ぶのは、聴き手の勝手だろう。しかしクリエイター側の意向を汲んで音楽を売るべきレコード会社が、歌の内容を無視してはいかんだろう。空耳で売ろうとしたエイベックスは、やはりどこかおかしい。音楽産業として、何か大切なものが、すっぽり欠けていたという感じがする。
ま、2ちゃんねるからの情報で若気の至りを思い出してしまった、ということで。
ご多分に漏れず、私もハカイダーが大好きだった。いくらでも弾丸が出て来るハカイダーショットは、実に欲しかったな。銀玉鉄砲でも、装弾に限りがあるのがくやしくてねえ。
それ以上にカワサキのバイクも格好良かった。なにしろキカイダーが乗るサイドマシンは、1970年のモーターショーにカワサキが出展したメーカーワンオフのレーシング・ニーラーなのだ。しかも2ストトリプルのマッハ改造なのだよ。
その低い走行姿勢は、ホンダの市販バイク改造の仮面ライダーよりも、後に宇宙刑事シリーズでいやというほど出てきたスズキ製バイク改造のサイドカーよりも、ずっと見栄えがした。
サイドカースタントも素晴らしかった。なんでも後にカワサキのワークスライダーとして「ミスター・カワサキ」の称号を欲しいままにした清原明彦氏が担当していたのだという。ダートをニーラーで突っ走り、パッセンジャー側を大きく振り回してドリフトターンする姿は、本当に素晴らしかった。
話はどうであれ、バイクに関してはとても贅沢な特撮番組であったことは間違いない。
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2005.10.15
用意しているネタを先出しするで、ちょっと出した奴。小林伸光さんにはばれでしまったが、もうちょっと引っ張ることにして画像をさらに一枚出そう。先のマンガ絵と同一人物だ。
そしてこれらは、同じ書籍に掲載されている。つまりその書籍がネタというわけ。
この絵はかなり美化されているが、まあ誰か分からないわけじゃない。そう、その人物を巡る本なのです。
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2005.10.09
8日、夕方から山中湖へ。三河方面からバイクツーリングに来たおうやんさんを迎撃し、コテージで宴会。自動車技術者のおうやんさんから、ああだこうだと話を聴く。メッサーシュミットを初めとした、戦後の一時期、欧州で流行した屋根付きスクーター(カビネン・ローラー)の話など。
「ドイツは道が良かったからあんな小さなタイヤのクルマが実用的に走れたわけですね。日本は道が悪かったからカビネン・ローラーはものにならなかった。日本のモータリゼーションはスバル360まで待たねばならないわけです」
「スバル360のサスペンションは、確か日本の悪路を快適に走れることが目的でしたっけ」
「そうですね」
「最近、メッサーはレプリカも買えますけど」
「でもね、今はレプリカのほうが故障しなくていいかも知れないけれども、10年も経つとオリジナルのほうがパーツ流通がいいってことになるかもですよ。とにかくメッサーはパーツが手に入りますから」
うむむ、メッサーは欲しい。前から欲しいと思っているのだ。が、手に入れれば泥沼になるのは目に見えているので、控えている(金もないし)。大田区にコレクターズオートという専門店があって、かつては北澤さんという偉大な職人さんが一人で日本のメッサーの面倒を見ていた。北澤さんは数年前に天寿を全うされたとのことで、今、コレクターズオートはどうなっているのだろうか。
そういえば以前、野田さんや野尻さんと遊びに行った小美濃さんがメッサーのレストアをしていたはずだけれど、進んでいるだろうか。あ、ジェットエンジンなんか載せて遊んでる!さすがだなあ。
「日常的に脚に使いたいのですが」
「そいつは無理かもですよ」
そうか…。
バイクは刀を手に入れてから、もう欲しいものがなくなってしまった。強いて言えば後一台、日本車とは全く文化が異なる外車に乗ってみたいと思うぐらいだろうか。
が、クルマはけっこう気が多い。古い360カーが欲しいなと思うし、もちろん憧れはピンツガウアーだったりチンクだったり。いやというほど金があったら、坊ちゃん嬢ちゃんあこがれのカウンタックの飼い主になるのもいいか、などと考えるし、やはりロータスのクルマはセブンでもエランでもヨーロッパでも、一度は持ってみたいとも思う。
ま、縁があればいつかは手に入るでしょう。
翌日は石割の湯に入ってから帰宅。御殿場IC、箱根湯本駅前と渋滞に引っかかってずいぶんと時間を食う。夕暮れの国道134号で、突然目の前に救急車が割り込んできた。何事かと思えば、走り屋風のクルマ3台が絡んだ事故が起きていた。
クルマで遊べるのも命あったればこそ。気を引き締めて帰宅。
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2005.10.06
今日は、用意しているネタをちょっとスニークプレビューすることにする。
さあ、この絵は何でしょうか。なにやら時代がかっているし、なんとはなしに不穏当な雰囲気もある。ひょっとして戦争中にアメリカが配布した抗日ビラか!イエロー・モンキー死すべし!!
もちろんそうではなくて、もっと情けないものだ。近いうちにきちんと説明するので、乞うご期待(というわけでもないか)。
これがなんだか分かる人います?
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2005.10.02
のまねこ問題は、解決どころかますます炎上している。図ってやっているとしか思えないタイミングでエイベックス側が新たなトラブルを起こし、それがますます2ちゃんねる、ネットワーク側を刺激しているためだ。
詳しくは エイベックスのまネコ問題まとめサイト を見るといいだろう。当ページもリンクされてしまった。おかげで現在、アクセスが小爆発している。
この件に関して、2ちゃんねるに殺人予告が書き込まれ、エイベックスが警察に訴えた。ところが2ちゃんねるが公表した書き込みのIPアドレスはUSEN、つまりエイベックス筆頭株主の会社のものだった。
USENはプロバイダーなので、これをもってすぐにエイベックスの自作自演と決めつけるべきではない。警察は捜査権を持つので、いずれ真実が明らかになるだろう。
9月30日の書き込み以上に、私からエイベックスについて言えることはない。
しかし、音楽業界全般として考えると、今回の事件は古い体質とネットという新しいメディアが衝突した事件と捉えることができる。
ポピュラーミュージック業界は、ヒットすれば天国、しなければ地獄という状況の中、何年にも渡ってヒット至上の体質を育ててきた。ヒットするためには何をしてもいいというアウトロー体質だ。その中には剽窃も含まれる。過去にも洋楽からのパクリはあれこれ指摘されてきたが、一向に改まる風もない。
今回はその「パクリオッケー」な業界体質と、インターネット時代の「コモンズ(共有知的財産)」の概念とが衝突していると言えるのではないだろうか。今回の件をただの「吉牛と同じ2ちゃんねらーのマツリ」と思っていると、事の本質を見損なう気がする。
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2005.09.28
大阪行きやらなんやらで、少々無理がかかったのだろう。熱を出してしまった。
蒲柳の質というほどではないが、私がおせじにも頑丈とはいえない。年に1回から2回は風邪で熱を出す。調子を崩しやすいのだ。
熱を出すと、必ず水とガラスの夢を見る。何億年にも渡る造山運動を時間を縮めて見てみたり、一面ガラスの柱の中を飛んでみたり、自分が出た高校の体育館が水につかるのを呆然と眺めていたり、宮沢賢治の「貝の火」を様々な視点で体験したり、支離滅裂、まあ悪夢と言っていいだろう。
同じ透明でありながら水は流れ、ガラスは塊だ。一方で水は温度を下げれば氷となり、ガラスは温度を上げれば融ける。どうもそのようなことが、私の中で全く異なるこれら2つの物質を結びつけているらしい。
よくよく記憶を探っていくと、その根底には子供の頃、風邪を引くと水飴を食べさせて貰ったというような体験が眠っていたりする。水飴は水でもなくガラスでもないが、透明だ。
透明というキーワードに多様な物性がまとわりつき、私の悪夢が完成する。
なかなか熱が下がらないので病院に行く。とりあずは安静にして、一刻も早い回復を図ろう。
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2005.09.26
原稿が押している。少しでも書き進まねばならぬ。しかしここんところ休みなしだぞ。こんな生活でいいのか、後ろめたさを振り切って、1日大阪見物することにする。
本日は他のメンバーと別れて単独行動、ジュンク堂書店にて時間をつぶした後、ビジネス街の昼休み、昨日の先輩と昼食を食いがてら、色々と話す。
その足で、大阪港にある水族館「海遊館」へ向かう。以前から行きたかったのだけれども、なかなかチャンスがなかった。
地下鉄の大阪港駅から歩いて数分、青と赤に塗り分けられた特徴的な建物が見えてくる。入場料は2000円、ちょっと高いぞ。
と思ったのがあさはかだった。ここは入場料分以上の価値がある。縦に深い巨大な水槽をいくつも作り込み、その間を上から下へ螺旋状に見学通路を設定してある。魚類のみならず、ラッコやペンギン、イルカに至るまでを水上から水底に至るまで見せてしまおうという仕組みだ。
これが素晴らしい。様々な水深で実際に泳いでいる生き物を見ることができる。マンタがいる、ジンベエサメがいる、マンボウもいる。すっかり夢中になってしまった。
公立学校のお休みでもあったのだろうか。子供がずいぶんと多かった。どの子も走り回りはしゃぎ回り、興奮状態だ。若いカップルも多い。これまた興奮状態。マンタが悠々とガラスをかすめるたびに、きゃあきゃあ声を上げている。
おじいちゃんおばあちゃんも大興奮だ。「あー、あれ、あれ」「うわあ、すごいねー」と声を上げている。
順路を一番下まで降りてくると、そこは「日本海溝」と命名された水槽。薄暗い水槽の中で多数のカニがうっそうとはさみを振り回している。さらに進めばクラゲの展示。様々なクラゲがライトアップ水槽の中で光る。
カニやクラゲを見るといつも、「こいつらが知性を持っていたら、どんな身体感覚で世界をとらえるのだろうか」と思ってしまう。それはよほど人間の世界認識とは異なるものとなるだろう。
いつか我々は宇宙の彼方で異なる進化の過程を経た生命と出会うだろう(私は楽観的だ)。そしてその中には知性体も含まれているはずだ(これまた楽観的である)。
我々はどんな知性と出会うのか。いずれにせよ先入観だけは持ってはいけないな、と思うのだ。
ちょっと時間があったので、小川一水さんの「登っちゃいました」発言を思い出し、通天閣へ行くことにする。ポートライナー経由で昨日と同じく地下鉄の恵比須町へ。
初めて通天閣というものに登る。大阪の街並みが見事に一望できる。高さ91mということだが、ずっと高いような気がする。ビリケンさんは、残念ながら東京の物産展に出張中で、なぜか代わりに渋谷のハチ公が鎮座していた。
東の遠くにけぶる生駒の山々を見ていると、急に涙が出てくる。小松左京「果てしなき流れの果てに」を思い出したのだ。
数奇な時空の冒険を経て、記憶を失い、年老いた主人公の野々村(正確には野々村だけではないのだが、かなり複雑な経緯は読んで貰うしかない)は、これまた老婆となった恋人佐世子のところに戻ってくる。かつての恋人すら認識できぬ彼を、佐世子は優しく迎え入れる。
確かラストは生駒山系を眺めつつだったのではなかったのかな。老野々村が佐世子に向かって「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」と語り始めるのではなかったか。
なんだろうね、そのラストと、眼下に広がる大阪の街並みとが妙にシンクロして、センチメンタルな気分になってしまった。
茅ヶ崎に帰り着くと、アスファルトには雨の跡が残っていた。やっと秋になったか、と感じさせる風が吹いている。
写真は海遊館のタコクラゲ。
小松左京さんの代表作といえば「日本沈没」ということになるだろうが最高傑作となるとこちらを推す人も多いのではないだろうか。白亜紀から始まった物語は時間も空間も超え、宇宙の歴史全体を駆けめぐる。私としては「いいから読め。絶対読め」と自信を持って薦められる一冊。
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2005.09.25
25日は午後から、大阪へ。新大阪に着くとあさりさんと笹本さんから相次いで「大阪に着いたぞ」と連絡が入る。午後4時半過ぎに、会場の日本橋ジャングルに到着。サブカルチャーとオタク系グッズが渾然一体となった、東京にはない雰囲気の店の三階だった。今回の企画を担当したロフトのSさんが忙しく会場準備をしている。
すぐに小川一水さん到着。「昼前に大阪に来て、俺、通天閣に登っちゃいましたよ」。名古屋駅では小泉総理を見たそうな。
開始まで時間があるので、少々日本橋の電気街をうろつく。フィギュアやガレージキット、同人誌のオタク系ショップが派手に店を出しているのは秋葉原と同じ。しかし、その同人誌ショップが「いらっしゃい、いらっしゃい!」と派手に呼び込みをやっている。これは東京では考えられない。
ソースの匂いを無分別にまき散らしているキャベツ焼きの露店でちょっと腹ごしらえ。会場に戻り、ライブイベント開始。
だいたい会場のキャパシティ一杯のお客さんの前で、4人してしゃべりまくる。
ラスト近く、笹本さんがアメリカで買ってきたグッズのクイズ形式でお客さんに配る。ちなみに笹本さんが出した「SR-71偵察機はタイヤを何本装着しているか」に、あっさりと正解を出したのは、私の大学模型クラブの先輩です。後で挨拶したら、「そりゃ俺、1/48も1/72も作ったもんね」と笑っていた。
来場してくれた皆様、どうもありがとうございました。
しゃべりまくった高揚感と満足感を引きずって二次会。難波の瀟洒なお店でワインを飲みまくる。梅田に移動して朝までカラオケ。あさりさんの喉があんなに音域が広いとは思わなかった。夜も明けた頃に宿に戻って轟沈。
Sさんはその足で、始発新幹線にて東京に戻ったらしい。本当にお疲れ様でした。
写真は通天閣の根本。撮影したのは26日。
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2005.09.22
昨夕は、神保町の新世界菜館で友人達と会食。目的は、紹興酒。
日本では紹興酒と言い習わしているが、実は餅米を紅麹で発酵させた黄酒のこと。黄酒のうち浙江省の紹興市で作られたもののみを紹興酒と呼ぶ。
実は紹興酒、発酵に使う甕の上澄みや底によって大きく味が異なるのだという。そこらへんで買う瓶詰めは、ボトリングの際に一切合切を混ぜてしまっているのだそうだ。
新世界菜館は紹興酒を甕で仕入れてている。つまり、甕の上澄みや底の濃い部分など、さまざま紹興酒を味わうことができるのだ。一人が、ここで上澄みの紹興酒を飲み、その味に感激したと言うので、「そんなうまいものなら俺も」「俺も」ということで会食となった次第。
で、その上澄み部分の紹興酒の味だが、実に素晴らしかった。すっきりしたさわやかな味で、上質のブランデーを思わせる。これを普通は混ぜ合わせて出荷してしまうのか。なんともったいない。
とはいえ、食事が進むにつれて、舌のコンディションが、この淡麗な紹興酒を味わうには向かなくなるということで、出してくれるのは最初の一杯のみ。
だから味わって飲む。舌で転がすように飲む。
もちろん食事も最高。うまいうまい。
その後は、甕の底のほうの紹興酒が出てくる。これがまた食事に合う。ずっと味が濃く、深く、幾分は渋みすら感じさせる味わいが、脂の勝った食事と相まって、我々を至福に誘う。
文化だよなあ。
生命維持のために食事に要求されるのは、栄養のみだ。だが、人間は栄養の摂取のみに満足できず、多種多様な食文化を作り出した。文明は必ず食文化を育んだ。逆に食文化のあるところには必ず高い水準の文化が存在するといってもいいだろう(その意味では、アメリカは私にとって野蛮の園である!!)。
この紹興酒の飲み方一つをとっても、中国が尊敬すべき文化を育んできたことが身体の細胞ひとつひとつで実感できる。
うまい酒とうまい食事で話題が弾む。素晴らしい酔い心地で、気分良く帰宅。
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2005.09.21
この前のハリケーン「カトリーナ」に引き続き、アメリカ中部メキシコ湾岸にハリケーン「リタ」が接近しつつある。台風規模は着々と大きくなり、またしても最大級の「レベル5」に達した。
カトリーナの被害がはっきりした時に、「巨大台風で、アメリカ京都議定書へ復帰、と妄想する」という記事を書いた。その後調べてみると、確かに「台風の大型化は地球温暖化のせいだ」という意見があるものの、一方で「台風の大型化は長期気候変動のせいであり、温暖化とは関係ない」という声もまた強いらしい。
特に最後のニュースは「全米ハリケーンセンターの所長が議会で、ハリケーンの増加は地球温暖化が原因ではないと証言した」というもので非常に興味深い。
環境問題が話題になり、その規制が経済に影響を及ぼす場合、かならずこういう反論が出てくる。確かフロンガスを規制するかしないかで揉めた時は、確か「オゾン層破壊は皮膚ガンの発生率に影響しない」という論文が出ていたと記憶する。
もう少し、アメリカが積極的に考えてくれたらな、と私は思う。地球温暖化はハリケーン増加の原因ではないかも知れないが、二酸化炭素排出量を減らせば長期気候変動を積極的にコントロールでき、ハリケーン被害を減らせる——というように。前にも書いたが、二酸化炭素排出規制は、単なる環境保護ではなく、気候制御という巨大な夢につながっているのだ。
そうこうしているうちに、「リタ」はニューオリンズに再度大雨を降らせそうな状況になってきた。ひどいことにならないよう祈るしかない。
ところで、味噌漬け続報。
生鮭の切り身を付けてみた。うはははは、最高だ。ご飯が進むこと進むこと。あんまり食い過ぎるとまずいぐらいだ。
野菜を漬けるとおいしいという話も聞いたので、魚で一巡したら野菜でやってみるつもり。
9月23日追記
林譲治さんの指摘で、小松左京「極冠作戦」が、地球温暖化進行の過程を予言的に描いているのを思い出した。
大気中の二酸化炭素濃度上昇により海面が上昇するという指摘に対して、経済活動を優先しようとした体制側は、温暖化による海面上昇は起きないと主張する科学者をバックアップするのである。そうこうしているうちに手遅れになり、地球は温暖化して海面は上昇、広大な土地が海に飲み込まれてしまった——。
現在アメリカで起きているのは、この短編SFとまったく同じことなのかも知れない。
実際問題として、科学者として「正しいことを主張しろ」と言われても困惑するだけだろう。何が正しいかなどは、時間をかけて実証しなければわかりはしない。しかし、時間をかけている内に手遅れになりかねない問題だったらどうするか、どう振る舞うのが正しいのか。
とりあえず文学の側からの問題指摘は、そろそろ40年近く前になされているわけだ。これにどう答えるべきなのだろうか。
「極冠作戦」は現在この短編集に収録されている。収録作は以下の通り。
・物体O
・お召し
・終りなき負債
・自然の呼ぶ声
・彼方へ
・五月の晴れた日に
・石
・黴
・袋小路
・牙の時代
・静寂の通路
・極冠作戦
どれも作者三十代から四十代の、力が充ち満ちていた時代に書かれた名作揃いだ。読むべし。
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2005.09.20
本blogでは、宇宙関連であまりシビアな話題はかかないようにしているのだが、以下は例外として書く。
9月19日、米航空宇宙局(NASA)は、2018年に有人月探査に復帰するという計画を公表した。
・How We'll Get Back to the Moon
これは2004年1月にブッシュ大統領が発表した新宇宙政策に対応してNASAが具体案をまとめたものだ。中核となるスペースシャトル後継の新しい有人宇宙船「CEV」は、カプセル型宇宙船である。
(Photo by NASA)
2001年、私は宇宙開発事業団(当時:現在は宇宙航空研究開発機構)の野田篤司氏が主導した日本独自の有人宇宙船構想の検討作業に参加した。検討結果は、H-IIAロケットによる打ち上げを前提としたカプセル型宇宙船としてまとめられた。我々は、そのコンセプトを「ふじ」として命名した。
・「日本独自の有人宇宙船構想」(JAXA総合技術研究本部)
当時、宇宙関係者の間では、具体的な有人宇宙活動について語ることすら「人死にが出たら世間の糾弾を受けて日本の宇宙開発が停止する」という理由からタブー視されていた。我々の最初の目標はまず、タブーを破りフランクに日本独自の有人宇宙活動について語り合える環境を作ることとなった。
「ふじ」を巡る議論の中で、検討参加者は「スペースシャトルやスペースプレーンに代表される再利用型有翼宇宙船は、宇宙を飛ぶ飛行体として無駄が多い。特に完全再利用型は技術的に当面は実現できる見込みがない」という認識を共有した。
しかし当時の日本は、「20年後にスペースプレーンを開発して有人宇宙活動へ」というような議論が幅を効かせていた。スペースシャトルは1986年のチャレンジャー事故以降、まがりなりに安全運航を続けており、その安全性を改めて疑う者はほとんどいなかった。
我々は、様々な方面へ、「ふじ」コンセプトの説明した。併せて、将来をスペースプレーンに代表される有翼飛翔体に頼り、絞ってしまうことの危険性も説いた。しかし、2001年から2002年の段階では、耳を傾ける人はほとんどいなかった。
内閣府や文部科学省にも説明をした。
しかし反応は、まず「日本が有人活動をするなんてねえ」、次いで「それは失敗を嫌う日本人の国民性になじまないのではないか」「財政難の日本にそんなことをする余裕はないのではないか」「カプセル型宇宙船なんて時代遅れのことを今更やるなんて」などなど、冷たいものだった。
私たちは人間が先入観から抜け出すことの困難さを実感した。「彼らは外圧に弱いから、アメリカから何か来ないと自分の過ちを認めないんじゃないか」「そのうち、アメリカの新宇宙船がカプセル型ということになって、俺たちは『だから言ったのに』と言わなければならなくなるんじゃないか」などと話し合った。
私は一般へアピールする必要を感じて「われらの有人宇宙船」(裳華房)という一般向け解説書を執筆した。当時、宇宙関連の書籍はおよそ売り上げの見込みが立たないということで、一度決まった出版社が降りたりもした。出版してくれた裳華房にはひたすら感謝するしかない。
幸い、本書はささやかながら一定の部数を販売することができた。「宇宙ものは売れない」とする当時の出版界の固定観念に、いくらかは風穴を空けることはできたかも知れない。
本書は、仲間からのカンパを募り(みんな、どうもありがとう)、関連すると思われる政治家にも献本した。ほとんどはなしのつぶてで、一部は印刷だったり秘書代筆だったりの礼状が届いて、それで終わりだった。我々としては、献本に対する礼などどうでも良くて、秘書なり本人なりに読んで貰いたかったのだが。
「なるほど、政治が利権とはこれか」と私は感じた。政治家には利権にありつきたい者が、様々な情報を持ち込んでいるのだ。そんなものにいちいち耳を傾けていたらやっていられない。どんな情報を送付したところで、その大部分はノイズとして自動的に処理されるのだろう。
2003年2月、スペースシャトル「コロンビア」の悲劇的な事故が起きた。2004年1月、アメリカは新宇宙政策でスペースシャトルの2010年引退と、国際宇宙ステーション(ISS)の2010年完成と、2016年運用終了を打ち出した。
2010年までにスペースシャトルが、ISSを当初規模で完成させることができる回数のフライトを行うことは、すでに絶望的となっている。2010年完成とは、「できたところまでで『完成』と宣言する」ということに他ならないだろう。
その完成形態に「きぼう」が付いているかどうかはかなりあやしい。アメリカの有人宇宙技術を学ぶとして、1985年から検討が始まった宇宙ステーション日本モジュール「きぼう」は、すでに完成にしているにもかかわらず打ち上げのメドは立っていない。
他の国に頼って学ぶという姿勢ではいけない。たとえ時間がかかっても、自分で技術を手にに入れるという姿勢でなければ——私はそう訴え続けてきた。
世間の慣性は巨大だが、それでも事実の積み重ねは、世間に認識の変化を迫らざるを得ない。コロンビアが墜ち、中国がカプセル型宇宙船で有人飛行を行い、アメリカが君子豹変と形容できるほどの方針転換を行い、そして今、アメリカの新宇宙船がカプセル型であることが明白になった。
「だから言ったのに」
多分私たちは、そう言っても構わない立場に立ったのだろう。
が、その言葉のなんとむなしいことか。我が身にしみるのは何もできなかった無力さである。
「ふじ」構想は、とりあえず有人宇宙活動に関するタブーを破ることには成功したと思う。しかしそれだけでは、有人宇宙活動に向けた動きには足りない。
そして、現在、より切実な問題が姿を現しつつある。
「ふじ」以降の議論では、打ち上げロケットも問題になった。「ふじ」は単純にH-IIAロケットで打ち上げることにしていたが、その後H-IIA6号機が事故を起こして、情報収集衛星2機の打ち上げに失敗した。
有人打ち上げに最適なロケットはどのようなものかと検討していくうちに、我々にはスペースシャトルが世界中にもたらした巨大な害悪が見えてきた。その議論の一部が拙著「スペースシャトルの落日」に繋がった。そして、シャトルの毒は確実に日本のロケットにも回っていることに、私は気が付いた。
今や、H-IIA、GX、M-Vというロケットラインナップを根本から考え直さなければならないのだ。1994年のH-II1号機打ち上げ成功で希望と共に始まったH-IIシリーズの運用が、あれから11年——それこそアポロ計画開始から11号着陸までと同等以上の時間だ——も経つのになぜもたついているのか。なぜGXはずるずると遅れ続けているのか。なぜM-Vは安くならないのか。
すべては、技術的も組織的にも産業構造的にも、まっさらな状態で、先入観なしにもう一度日本のロケットのありようを再検討する時期に来ているというサインなのだ。「すでにLE-7があるからそれを利用して」だとか「三菱重工と石川島播磨重工の仕事の切り分けがあるから」だとか「今までの実績があるから」「来年の受注ベースは」といった思惑を一切廃して、ゼロからロケットを考え直す時期なのである。今の技術を使って、目的に最適なロケットをゼロから考え直すべきなのだ。
いたずらに過去や、既存の官需に拘泥し、既得権益ベースで議論を進めれば、大して多くもない官需もあっさりなくなるだろう。
ずいぶんと、とんでもないところに来た、と思う。が、私は常に希望を持っている。何度でも書こう。見上げればそこにはいつだって宇宙があるのだから。
あらためてこの本を宣伝しておく。有人宇宙船に関する基本的な問題は一応網羅している。すでに残部がごく少なくなっており、増刷のメドは立っていない。特に、私のところに「なんでアメリカはシャトルみたいなのをやめてアポロみたいな宇宙船に戻っちゃったんでしょうか」と質問してきたマスコミ関係者は必読、と言っておこう。
こちらの本も載せておく。スペースシャトルが何であったかについては、もっと多くの人が認識を共有する必要があると思う。その一助になれば、ということで。
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2005.09.18
本日は父の一周忌。母と兄弟で三島の菩提寺に赴く。
来るのは数少ない親族(なにしろ父は一人っ子だっった)と、足が達者な父の友人達のみ。ささやかなものだ。それでもトラブルが発生した。9月の連休、しかも快晴で東名高速は大渋滞。まず、自動車で来た妹夫婦が遅刻、同じく自動車を孫に運転させて来た大叔母は遂に間に合わなかった。
ともあれ本堂に読経の声は流れ、墓所には父の戒名を記した卒塔婆が一枚増えた。雲一つ無い空からは、本当に9月かといいたいほどの強い太陽が照りつける。
次いで場所を移して昼食をとる。三島広小路の桜やで鰻重。少々ビールも入れて、父の友人達から父の子供の頃のエピソードや、家族には見せなかった面などを聴く。彼らは皆、満州国の首都だった新京(現在の長春)で育った。「満州国の首都計画」
という本に詳しいが、新京は当時最先端の都市計画で作られた街だった。「下水道は当たり前で育ったから、引き上げてから『内地には下水道がない』って驚いた」というような発言も出てくる。
彼らの通った小学校は、満州鉄道が経営していた学校で、後に日本の文部省が乗り込んできた。
「文部省がやってきて全部おかしくなったな」
「そうだったな。優秀な先生は全部辞めさせられたしな」
「内地のやり方を持ってきて根こそぎにしちまった」
巨大な国策会社である満州鉄道を民間企業というにはちと無理があるが、官が主導権を取ろうとしてろくでもない結果になるのは古今東西よくあることらしい。
私の祖父は、満州国の官僚を養成するための大同学院という学校の先生をしていた。
友人のYさん曰く「小学校の時に松浦が、巨大な戦艦の図面を見せてくれてな。後で考えればそれは大和だったんだ。戦後聞いてみたら松浦は『あれは少年倶楽部についていた図面だ』って言うんだよ。嘘付けって」
「『少年倶楽部』なら新戦艦高千穂だよなあ」
「だいたい戦時中俺らは大和なんてものがあることを知らなかったよ。あんなもの作っていたなんて知ったのは戦後の話だ」
「そう。しかも見間違えるはずもない、三連砲塔の図面だったんだよ。ありゃ、きっと松浦のお父さんが、どこかで入手したものだったんだろうな」
「大同学院の先生ともなりゃ、特務機関とも付き合いがあったろうしなあ」
これが事実なら、日本帝国海軍の防諜の実態も、中央を離れて満州まで行くと、学校の先生が大和の図面を入手できる程度だったらしい。しかもその図面を小学生だった父が持ち出していたわけだ。父のことだから、自慢をずいぶんしたんじゃないだろうか。まるでスネ夫だ(思い違いの可能性もあるようだ。追記を参照のこと)。
昨今、「東京裁判は勝者の横暴だ」とする議論が勢力を得ている。インターネットでは割と目立つ論調だ。しかし実際に満州で育った父の友人達の視点は辛辣だった。
「確かに日本は満州で色々やったけどなあ。多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」
「俺もそう思う。東京裁判はでたらめだとかなんとかいうけれどもさ、関東軍が勝ったら何をしたか、って考えると東京裁判どころじゃない悪いことをしたろうなあ」
関東軍は満州に配置された日本陸軍の方面軍だ。
「新京でペストが出たことがあったろ。で、石井部隊が出動して街を封鎖した」
この話は生前の父から聞いたことがある。石井部隊は「悪魔の飽食」で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。本来の仕事は防疫だった。
「あれ、今にして思えばノモンハンやらなんやらで失点続きだった関東軍が目をそらすために仕組んだ謀略だったような気もするなあ」
と、とにかく関東軍は評判が悪い。
「満州は惜しかったね」
「ああ、惜しかった。色々な可能性があったのに」
「関東軍が全部つぶしたね」
「そうだな、あんなに横暴じゃダメだよ」
というような会話が続く。
「何しろ居留民保護が目的の軍なのに、8月9日にソ連が侵攻してきたら逃げたんだからな」
関東軍が逃げたということについては諸説ある。が、軍とは言い難いほどに混乱していたことは間違いない。そして当時実際に満州に住んでいた彼らにとっては、「関東軍が逃げた」というのが実感だったのだ。
鰻重を食べつつ、様々な話を聞いた。昼からのビールで気持ちよく酔い、義弟の運転する自動車で帰宅する。
写真は、父のアルバムから出てきた写真。昭和23年頃、旧制高校時代の父(左)と友人。バンカラを気取っている風だが、今の目で見ると「夜露死苦」とかなんとか文字を入れたくなる雰囲気ではある。
追記:「新戦艦高千穂」で検索すると、大阪国際児童文学館のページが見つかった。同ページによると平田晋作の「新戦艦高千穂」には、艦体図が付属していた。また表紙を見る限り作中の戦艦高千穂は三連砲塔のようだ。これはひょっとするとYさんの勘違いで、父が言ったように「少年倶楽部」の付録を見せただけかも知れない。
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2005.09.17
訃報を聞く。父方の祖母の友人であるTさん。享年101歳、寝込んでから5日目の大往生だったという。
大阪に、梅花女子大学という学校がある。かつては梅花女学校という名前だった。祖母とTさんは、そこの寄宿舎で知り合った。
祖母は曾祖母の離婚に伴い、家から離されて寄宿生になったのだという。一方のTさんは家が貧しく、寄宿生として学ぶ一方、学校の購買で働いていたそうだ。それぞれに不幸を抱えた女学生の出会いは、その後90年近い交遊となった。関西に育った二人は、まさか最晩年を湘南海岸で十数kmしか離れずに過ごすことになるとは思っていなかったろう。
孫である私は、27歳の時に働きすぎで倒れたことからTさんと縁ができた。自律神経失調で、左半身が動かなくなってしまったのだ。三ヶ月の休職でとりあえず体は動くようになったものの、しびれは残ったままだった。この手の病気に、西洋医学は全く無力だった。首周りのレントゲンを撮り「異常はないですね」と言い、精神安定剤を処方するだけだった。
その時、祖母が「Tさんは手かざしができる」と言い出したのだ。
半信半疑だったが、他に方法があるわけでもない。私はしばらくTさんの家に通って、手かざしを受けることとなった。
その時点で、すでに80台半ばになっていたが、Tさんはやさしい声で話す、とても魅力的なおばあさんだった。私の首筋に手をあて「一体あなた、何をやったらこんなに疲れを溜められるの」と驚いた。
手かざしの効果があったかは分からない。ただTさんの手はとても温かく、手かざしを受けた後は気持ちが落ち着いた。手かざしの最中、Tさんは何度もあくびをし、終わると盛大に鼻水をかんだ。「あんたの体の悪いものが、こうやって私を通じて出て行くの」ということだった。
手かざしを受けつつ、私はTさんと色々な話をした。実に明晰な頭脳の持ち主だった。私が仕事の話をすれば的確な質問を投げてきた。思い出話をすれば、そこには深い含蓄がにじみ出てきた。何度となく「あんたは色々な人や物に支えられて生きているのだから、感謝の心を忘れてはいかんのよ」と言われた。陳腐な内容だと思ったが、Tさんのやわらかな声で言われると、そんなものかという気になった。
Tさんはとある新興宗教を信じており、手かざしは信仰の中で授かったのだと言っていた。実はその教祖にも引き合わされたのだけれど、こちらは私から見ると全くもって評価に値しない人物だった。教祖は「周囲に感謝しなければいけません」と言った。私は内心「けっ」と毒づいた。同じ内容の言葉でも、誰が話すかによって正反対に受け取られるということを、私は学んだ。
あの頃は祖母、Tさん、そしてもう一人の梅花の同級生が近くに住んでおり、皆、年齢以上に元気だった。時々3人は集まってはおしゃべりを楽しんでいた。何度か、並んで歩く3人を見たことがある。湘南海岸の小路を、横に並んで小さな老婆三人がとことこと歩く。なぜかその姿は、女子高生を連想させ、ひどくかわいく見えた。
Tさんのところには半年ほど通ったろうか。ある日、私の首筋に手をあてたTさんが「あら、もうなんにもないわ」と言って、手かざしは終わった。「さあ、ここから後はあんた次第よ」といってTさんは手を離した。その時点では体のしびれは残っていたが、その後数年で自然としびれは消えていった。
あの力は一体何だったのだろうか。同時に鍼治療に通っていたので何が効いたのかははっきりしない。ずっと後に、脳波多点計測設備を持つ大学の研究室を知り、Tさんに被験者になってもらおうとしたことがある。
「あらまあ」、Tさんはころころと笑った。「はずかしいわあ。やめといて」。そう言われれば引き下がるしかなかった。
最後に会ったのは2年半前、祖母をTさんの入った老人ホームに連れていった時だ。歩けなくなったTさんは車椅子に乗っていた。記憶というものは新しいほうから抜けていくらしい。もう私を見ても誰だか分からなかった。
それでも祖母と会うと、Tさんは喜んだ。話す声と内容にはほとんど衰えを感じさせなかった。「もう歩けなくなったから、昔の楽しかったことを思い出して過ごしているの」と言った。
祖母は耳が遠くなっていたので、Tさんと祖母の会話は通じているような通じていないような、なんとも言い難いものだった。それでも、90年近くを友人として過ごした二人は、満足しているようだった。
その姿を見ながら、私は「二人が会うのはこれが最後になるだろう」と思った。その通りになった。面会の4ヶ月後、私の祖母は99年4ヶ月の人生を終えた。
人格者という存在は、未熟者に自省を促すようだ。Tさんの訃報を聞き、私は最後の手かざしの日の言葉を思い出している。
「さあ、ここから後はあんた次第よ」
一世紀を超える人生の中で、つらいことも悲しいことも多かったろうに、Tさんはなぜあんなににこにこしておれたのだろうか。自分はこれから、いくぶんでもTさんのように生きることができるのか。
今は、重荷を下ろしたTさんに「ごくろうさま」と言うことしかない。Tおばあさん、私は一緒に過ごす時間を幾分かもてて、大変幸運だったと思います。ゆっくりお休みください。
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2005.09.14
バイクの調子が悪い。
当たり前だ。鹿児島だアメリカだ、シャトルだ原稿だ、とバイクに乗らないでいるうちに、台風14号が来て雨をかぶったからである。
とりあえずエンジンをかける。AX-1はかなり手こずったがエンジンスタート、ブレーキがきいきいと鳴くので少し乗ってやると、本調子に戻った。だが、どうもパワーが低下している気がする。ひょっとするとエアフィルターが寿命かも知れない。前に買えたのは1万kmほど前だから、あり得る話だ。
問題は刀である。台風で水が入ったかゴミがはいったか、アクセルが戻らなくなってしまった。グリスアップのためにアクセルケーブルを取り出そうとすると、なんとネジの位置が悪くてドライバーがカウルと干渉してしまう。おいおい、カウルを外さねばならんのかよ。
こっちはもう一件トラブルを抱えている。左サイドカバーにあるチョークを引くためのノブが、きちんと途中で止まらなくなっているのだ。以前はずれた時になにか部品を紛失してしまったらしい。だましだまし使ってきたが、ついにノブがとれてしまった。開けてみるとノブの回転軸にヒビが入っている。これはもう部品を交換するしかない。
時間があればメンテマニュアルと首っ引きで修理するのも楽しい。しかし忙しいし面倒だ、ということでなじみのバイク屋に刀を放り込んでくる。
ああ、長距離ツーリングに行きたい。死ぬほど走って「もう走れねえ」と道ばたに寝ころびたい。適当な場所でテントを張って、インスタントラーメンで焼酎を傾けつつ、星を眺めたい。
と、ここで我に返る。以前そろえたツーリング装備は、軒並み寿命が来ている。買い直さなければならない。金がかかるな。金を手に入れるには仕事するしかない。シャトル関連の仕事の収入は、アメリカ取材の旅費と眼鏡で消えてしまった。もうない。
…仕事しよ。
写真は、3年半前にホイールを18インチに換装した時に撮影した刀。現状、これよりも大分サビが進んでいる。いずれエンジンを降ろしてフレームは再塗装だろう。いくらかかるか…仕事しよ。
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2005.09.12
衆議院選挙の結果が出た。自由民主党大勝、民主党惨敗。自民党と公明党で議席の2/3を押さえる結果となった。、最終確定投票率は小選挙区が67.51%、比例代表が67.46%。小選挙区比例代表並立制となってから最高の投票率となった。
多くの人が投票し、選んだ結果だ。この勢力地図で、今後何を起こるかを我々はきちんと見ていかなければならない。そして次の選挙の時に、与党が歴史的大勝の結果、どのように日本を導いたかを考慮して投票しよう。
私としては、「郵政民営化は行わねばならない、が、自民党が勝ちすぎるのは好ましくない」というスタンスだった。だから、自民党大勝に失望している。が、これが国民の審判だ。では、これから次の選挙までに、これほどの議席を得た与党が何をするか、きちんと見て、評価しなければならないと考えている。
今回きちんと投票した皆さん、自分の選択が今度どのような結果をもたらすかをきちんと見据えて評価を下し、次も投票しましょう。今回も投票しなかった方は、次こそきちんと投票してください。政治家を単に「阿呆だ」と言うことはできない。選挙がある以上、その資質は国民の資質の反映である。
まず、僕らが賢くならなければいけないのだ。
10年振りに眼鏡を新調した。6月に友人達と渓谷に入ってたき火をした時、川の中で転んで、眼鏡のレンズに傷を付けてしまった。レンズ交換の歳に眼鏡屋のカルテを見ると、眼鏡を作ってから10年も経っている。そろそろ新調するか、と考えた。
この10年使ってきた眼鏡は大きく重い高屈折率ガラスのレンズを使っていた。視野が広く、傷が付きにくい、徹底したヘビーデューティ仕様だ。そこで次の眼鏡はそこそこの視野、そこそこの傷つきにくさの代わりに、徹底した軽さを追求することにした。
結果、やや小さめのハードコートを施したプラスチックレンズを選択した。フレームは前と同じチタン製だ。
本日出来上がってきた眼鏡は、思惑通りに非常に軽い。頭が軽くなった気分がする。
この眼鏡ほどに軽やかに、原稿も進めばいいのだけれども。
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2005.09.09
最近「先生」と呼ばれることが増えている。
先生、なんだそりゃ。
早い話がテレビ局。スペースシャトル関連で7月から8月にかけてテレビ局に赴くことが多かったが、必ず先生と呼ばれた。「やめてくれ」と再三頼んだところ、本音がでた。「先生と呼んでおくと問題が少ないんですよ」。中には先生と呼ばないと機嫌の悪い出演者もいるという。
つまり「先生」と呼ばれたい少数の人への対策として、全員をとりあえず「先生」と呼んでおくわけだ。
「先生と呼ばれるほどにバカじゃなし」という言葉が、適用できるケースと言えようか。まあ構わないけれども。
先生を字義通り「先に生まれた」と考えるなら、そろそろ私は世間において先に生まれたほうに入る歳になった。が、「教師」という意味なら、むしろ私は様々なことから学んできたほうであり、何かを教えたということは、まああまりない。真に先生だった時期は、大学の頃に家庭教師のバイトをしてきた時だけだろう。
情報は世界を流通している。送り手になることもあり、受け手になることもある。それだけだ。私の職業は情報の収集と分配であり、それが「先生」と呼ばれるものなのか、実のところ良く分からない。
状況により「先生」と呼ばれる機会があるなら、せめて名実伴うようにしなくては、ね。
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2005.09.06
台風14号が九州を縦断。大変な被害が出ている。一方で空っぽになっていた高知の早明浦ダムは一気に満水になったとのこと。台風は災厄であると同時に恵みでもある。
で、一ついいたいのだが、「ニュース番組でテレビ記者らが現地に行って『すごい雨と風です』とか叫ぶ理由は何?」。
私がニュースに望むのは、正確な情報と的確な分析だ。放送局の就職試験に合格しただけで、別に見目麗しいわけでもないテレビ記者が、演技含みで「すごい雨と風です」と叫ぶのを見たいわけではない。
2つの点で邪魔だ。まず、ニュースという演技が入るべきではない番組で、記者らがカメラの前で多分に演技含みでしゃべっていること。もう一つは、そうやってカメラの前で彼らがしゃべることによって、何一つとして伝達する情報が増えているわけではないことだ。台風の被害を伝達するだけなら、現地映像とスタジオからのアナウンスだけで必要十分なのである。
ただ一つ、現場中継には意味がある。現場に記者という人がいて、現場の状況に応じて声のニュアンスをコントロールすることで(演技、それも下手な演技含みであるが)、視聴者が「ああ、現地は大変なんだ」と感情移入することができるということだ。
しかし当方としては、別にテレビによって情動を揺り動かされなくても構わない。いや、ニュース番組が情動を揺り動かすのはかえって迷惑である。当方の判断を狂わせる可能性があるから。
もうひとつ、現地に行った報道記者達の、明らかにテレビの向こう側の視聴者を意識した演技が、見るに堪えないということもある。確かにカメラを意識すれば、誰しもある程度演技せざるを得ない。特に「出演は○秒」と限られ、その時間内で言うべき事をすべて言わなければならないとなればなおさらだ(自分もテレビに出て痛感した。そんなことを日常的に行っているという意味ではテレビ局の報道記者達は尊敬に値する)。
しかし、では記者個人の蓄積や見識が画面で生かされているかと言えばノーだ。むしろ、視聴者の情動を動かすことを目的にするなら、記者は白紙のアホたれであるほうが望ましくすらある。この場合の記者の役割は、バラエティ番組において視聴者の印象を操作するために演技するコメンテーター役のタレント(多くは若手お笑い系だ)とまったく同じだ。
テレビは、動画像によって事実を直接伝えることができるメディアとして出発した。しかし放送開始から半世紀を超えた現在、むしろテレビは事実を伝えるのが不得手で、情動を動かすのに適したメディアとなっている。
実は結論はない。
テレビは実態として電波の許認可による利権ビジネスであり、その利権に気が付き、徹底的に利用したのが史上最年少で郵政大臣となった田中角栄だった。電波利権の周囲には、CMやらなんやらの利権がまとわりつき、テレビ周辺の産業を発達させてきたのである。そろそろ、そんなどろどろの産業構造が崩れかけているのかな、と思うだけである。
余談だがCM飛ばし対策協議へ、DVDレコーダー普及で広告主協(nikkeibp.jp)というような記事を見ると、正直なところ「おうおう、テクノロジーの進展で利権が崩れはじめとるわい」としか思わない。もちろん私は、CMスキップで困る側には同情しない。現状のテレビCMは、その程度のものが電波が有限であることに起因する利権に乗ってきただけだから。
かつてのCNNに相当する、ネット時代に適応したニュース専門メディアが欲しいな、と思う。事実だけを徹底的に伝達するメディアが。ここ数年のアルジャジーラが果たした世界史的な役割を考えると(アルジャジーラにはアラブ世界から世界を見るという偏りがあったわけだが、カタールの放送局というだけで、そのことは明示されていた)、世界にはそのような事実に徹したメディアが必要だと思えるのだ。
蛇足というか付記:シマゲジこと島桂次が現状を知ったらどう考えただろうね。
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2005.09.02
夕方だ。腹が減った。
冷蔵庫をかき回すと、昨日炊いたご飯と卵がある。む、納豆がない。仕方ない。ご飯を温めて卵を落として食べるとするか。
なんだその貧しい夕食は、などと思うなかれ。いい年齢の独身者がかき込む日常的食事はそんなものだ。
が、今日は精神的に少々余裕がある。一手間かけようかという気になる。冷蔵庫をさらに漁ると、まずニンニクがひとかけら。それから一昨日のスープに使った残りのキャベツとタマネギ、油揚げが一枚。
そこでガーリック炒飯を作ることにする。
フライパンにオリーブオイルを適当にいれ、少し暖まったら刻んだニンニクを落とす。あまり温度を上げずに低い温度でじわじわとニンニクの風味を油に移す。そこに刻んだキャベツ、タマネギと油揚げを入れる。本当はベーコンがあればいいのだけれど、まあタンパク質と油という点では肉も油揚げも似たようなものだ(と、自分を納得させる)。
タマネギに火が通ったところでブラックペッパーを振る。その上からご飯を入れて強火で炒める。
醤油を惜しみなく使って味を付ける。醤油の水分を飛ばすためにしばし炒めるのがコツだ。最後に卵を一つ割り入れる。一気にかき回して米粒の表面に半熟の卵がコーティングされた状態になったら火を止める。卵を入れてから炒めすぎず、半熟のとろみを残す。最後にまたブラックペッパーを振れば、あり合わせのガーリック炒飯のできあがりだ。
冷凍グリンピースでもあればよかったんだけどな。黒ごまがあれば、最後に振りかけるのもいい。
味は醤油とブラックペッパーの加減で決まる。「健康のためには薄味」などと考えずに、ややきつめの味をつけたほうがおいしい。
料理の味は、素材とレシピに加えて、作り手の精神状態にも左右される。
肉代わりの油揚げが入った奇妙なガーリック炒飯は、とてもおいしく食べられた。よしよし、このコンディションを維持しないとな。
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2005.08.13
ああ、大変だった。
7月始めからの行動は以下の通り。
7月1日から8日。内之浦に行く。M-Vロケット6号機の打ち上げは取材できず、撤退。
7月11日から20日、アメリカ取材。スペースシャトルSTS-114の打ち上げ取材はできず、撤退。
7月26日から8月10日。スペースシャトル「ディスカバリー」が打ち上げられた。急に忙しくなり、あちこちのマスコミに露出することになる。テレビ局の拘束及び、新聞の座談会というものを初めて経験する。
いやもう、主観的には無茶苦茶な日々だった。
以下は告知です。
明日というか今日ですね、8月13日はコミックマーケット68(東京ビッグサイト)に売り子で出ます。後輩のブースでして、ネコ耳戦車の本などを売っております。
・西よ-27a 「ILMA EXPRESS」
もう一つお知らせ。私が時折寄稿している風虎通信からは、「宇宙の傑作機8 ヴォストーク宇宙船」江藤巌著が発行されます。私は未見ですが、間違いなく、日本でもっとも詳しいヴォストーク宇宙船に関する本になっているはずです。
・西ら-26b「風虎通信 」
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2005.05.30
5月29日の日曜日、弟と釣りに行く。釣り船は片瀬江ノ島のKさんの船。父が所属していた釣りの会のイベントだ。1982年、生粋の漁師であるKさんの周囲に釣り好きが集まって、毎月釣りをして宴会をする会が結成された。父は創立時からの会員として、人生のほぼ三分の一で毎月の釣りと宴会を楽しむことができた。現在は、父に代わって弟が会員となっている。
獲物はキス。午前8時に江ノ島から出航し、ほどなく釣り場に到着。「さあ、今日はどんどん釣ってね」というK船長のかけ声と共に釣りが始まる。餌のイソメを釣り針に付けて、浅い海底にいるキスを狙う。あらためて観察するとイソメという生物もなかなか面白い。そのまま針に付けると大きすぎるので途中でちぎる。生きたイソメをちぎるので、手はイソメの分泌物と中身でべたべただが、それもまた楽しいので気にしない。検索をかけると、おお、イソメを食べた勇者もいるではないか。
弟は竿さばきも堂に入ったもので、次々にキスが上がってくる。私はといえば、「まあぼちぼちでんな」の状態。操舵席からはK船長の容赦ない叱責が降ってくる。「○○さーん、それじゃ釣れないよー。何やってんのー」「ダメダメ、そんなことやってちゃ他の人に迷惑だよー」などなど。
午後1時半、釣りを終えて船は沖に向かう。父の散骨である。「骨の一部は相模湾へ」というのが釣りを愛した父の願いであり、K船長に相談したところ、願いを聞き入れてくれたのだ。そのために納骨の時にほんの小さなひとかけらを散骨のために取り分けておいた。
とはいえ散骨のやり方を当方は知らず、おたおたしていたら、K船長がすべて準備していてくれた。「儀式だからね。やり方があるんだよ」。漁師なりの儀式があるらしい。言葉もない。
「以前散骨について文章を書いたことがあってね、それを読んで松浦さんもやって欲しいっていったんだろう」
「そうですね」
「お父さんはいくつだった?」
「享年76歳です」
「じゃあ水深76mのところに行こう」
烏帽子岩を望む茅ヶ崎沖に、K船長は船を進める。
「いいかい、『山を立てる』って言うんだ」と、K船長はかすかに見える地上目標を結ぶ線の交点へと船を進める。
「今はGPSもあるけれど、こうやって覚えておけばまたここに来ることができるからね」
空は晴れ、波はやや高い。無類の晴れ男を自認していた父にふさわしい。遠くに大山、霞の彼方にはかすかに富士山も見える。
船長が船縁からまず塩を、そして酒をまく。私がペーパータオルに包んだ父の骨ひとかけらを、弟が菊の花を海に落とす。白く小さな包みはゆらゆらと沈んでいく。
父の釣り仲間達が、菊の花をひとつずつ海に流す。そして酒を回し飲み。残った酒は海にまく。
K船長が叫ぶ。
「景気よく、ぱあっと!酒好きな人だったんだから!」
こうして父の一部は相模湾の大気と海洋の循環に還った。
K船長、釣り仲間の皆さん、ありがとうございました。
港に戻ってからは恒例の船上飲み会。潮風にさらされて心ゆくまで飲む。
写真は相模湾の海と空。この風景の中に融けていったのだから、父も満足であろう。
ちなみに散骨は、かつて違法行為と思われていた時期もあったが、1991年に「法の規制外」という見解が出て一般化した。以下のリンクを参考のこと。
・散骨の実施について
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2005.05.28
世田谷の砧にあるNHK放送技術研究所の一般公開に行く。ここ数年、タイミングが合わず行けなかったが、今後の放送技術の動向を知るためには是非とも押さえておきたい研究所だ。1992年の公開で、ISDNならぬISDBという名称で公開されたデジタル放送は、非常に衝撃的だった。それまでNHKは帯域圧縮にMUSEを使ったアナログ伝送のハイビジョンを推進していたが、ISDBの公開あたりから徐々にデジタルへと軸足を移していったのである。
NHKが技術や企画で何かをやる場合には、必ずここの一般公開に前兆が出てくる。
以前、5年ほど前に来た時よりもずっと活気がある。新しくなった建物の3フロアを使った展示は、非常に見やすく、説明も丁寧になっていた。若い研究者が以前よりも目立つ。ここ数年、積極的に若手を採用してきたのだろうか。
かつてのISDBのような、「これで世界は一変するぞ」と思わせるような大ネタはなかった。が、それでも目を奪うに十分な展示が並んでいた。
今年の目玉は、既存のデジタルHDTVを遙かに超えた7680×4320ドット、秒60フレームの「スーパーハイビジョン」と、2006年春からサービスが始まる携帯端末向け地上デジタル放送ということになるだろうか。
「スーパーハイビジョン」は、4分のデモンストレーション映像を見た。既存の1080iの映像を「確かにNTSCよりはきれいだが、圧倒的な差は感じない」と評価している私だが、これはすごい。大相撲の映像が流れたが、比喩もお世辞も抜きで本当にそこに力士がいるかのような臨場感だ。ここまでやれば、視覚は完全にだますことができるということか。
質問したところ、ビットレートは非圧縮で20Gbps、4分のデモ映像ファイルは1テラバイトとのこと。ただしハードディスクの帯域が足りないので、現在のシステムでは50台ものハードディスクを並列動作させているそうだ。
家庭への伝送は、21GHz帯を使った衛星放送を考えているとのこと。実用化時期はと聞くと「20年とか30年は先でしょう」だそうだ。
携帯端末向け地上デジタル放送は、AVC/H.264というコーデックで128bpsのデジタル放送を行い、携帯電話などの端末にデジタルテレビ放送を送り込むというもの。試作品をずらっと並べて来場者がさわれるようになっていた。
128bpsの画像は予想以上にきれいだが、驚くというほどではない。むしろデータ放送で、様々な文字情報も端末に送り込めるというところが重要ではないかという気がする。正直、これを使って屋外でスポーツ番組やらドラマやらを見る気にはならないが、間違いなく災害時の情報伝達に役立つだろう。
その他では、音声合成の進歩が印象的だった。イントネーションも発音ももはや人間の生の声との区別がつかない。来年秋頃に気象通報と株式市況を合成音声化するという。
やはり研究所公開には足を運ばねばいけないな、と思いつつ帰宅。
写真は、地上デジタル放送を受信中の携帯電話。
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2005.05.24
Amazonのアフィリエイトの表示を色々いじくっているのだが、なかなか自分の思い通りの表示にならない。当方としてはCDのジャケットをそれなりの大きさで表示したいだけなのだが、どうしてもうまくいかない。どうやったものか。
いっそ面倒なアフィリエイトなど切ってしまいたいが、かつてbk1を手伝っていた時に、個人ページの書影掲載を認めるかどうかであれこれ議論があったのを見ているし、自分も著作で食っているのでなるべくトラブルが起きないやり方で掲載したいところだ。
もう一つ、自分が紹介したいCDに限ってAmazonにジャケットが掲載されていないことに気が付く。あるいは扱ってすらいないこともある。要は自分がそれほどマイナーな音楽を愛好しているということなのだが、でも、そんなに日本の作曲家が作曲したコンサート用音楽がマイナーでいいのだろうか。これは重大な問題なので、別途書くことにする。
本日はかつての同僚Mさんの家によって、娘のNASAちゃんにお目通り。Mさんは、私が記者をしていた時に同じ部署に転職してきた。ワイルド系美人で(と書いておこう)、スピードジャンキー。学生時代はスピードスキーでならし、転職前に務めていた某重工にはボアアップしたラリー仕様の「スタリオン」で通勤していた。「スタリオン」が日本車唯一の200馬力オーバーだった時代の話だ。
その時毎日ぶち抜いていたバイクに乗っていたのが、現在のご主人である。で、娘の名前はNASA。男の子だったらNASDAになったかどうかは微妙であろう。
現在小学校2年のNASAちゃんはかわいい盛り。どうやら、同僚の独身中年らがせっせとNASAちゃんに貢いでいる様子で、「おじちゃんからもらった鉛筆削り」が出てきた。ええんかいな。
「これ、食べて」とチョコレートをくれたのにちょっと感激する。自分もダメ独身中年だ…。
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2005.05.20
地元出身の野口聡一飛行士のスペースシャトル搭乗があと2ヶ月を切った。本日市役所に行ってきたので、野口飛行士を巡る風景など。まずは市役所の垂れ幕。
市役所内部の展示。写真が切れてしまったが「日本人5人目の宇宙飛行士 野口聡一さんを応援しよう」とある。秋山さんの立場は…
展示に付属していた謎のキャラクター。語尾が「チガ」というのはベタだ。
追記:
「チガザウルス」というそうだ。
うわっ、「チガソング」に「チガダンス」なんてものもいつの間にか決まっているじゃないか。
市の広報誌も野口さん。申し訳ない、うっかり鍋敷きに使ってしまったので紙がふやけている。「えぼし岩」というのは、サザンオールスターズも「えぼしーいわもーみえてきたー」と歌っている茅ヶ崎海岸沖合の岩礁。
もちろんSTS-114は成功するだろう。再開1号を失敗するほどNASAはヘボではないし、宇宙飛行士という職種は徹底的な訓練を受けるからだ。
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2005.05.14

本の最終校正について。
本は印刷用の原版ができた時点で最後の校正を行う。この段階で直しを入れると原版作り直しになるのでコストがかかる。あくまで確認用で直しは一切行うべきではないのだが、人間の性か、最終校正に至って初めて見つかるミスは少なくない。
朱を入れる原版のコピーは出版社によって様々だ。それぞれの会社が歴史の中で培ってきた仕事の手順がそのまま反映されていると言っていい。ごく普通のコピーのところもあるし最新仕様のDTP出力を出してくるところもあるし、青焼きで出てくるところもある。方式の新旧云々よりも、出てくるコピーから、それぞれの会社のワークフローが見えてくることが面白い。
ところで、しばらく潜航していたら、ココログの画像アップロードの手順が変わっていた。フローティングで、画像クリックで拡大画像を別ウインドウ表示というのが標準になっている。私のように320×240画素の画像を中央寄せで出すのにはどうしたらいいのだろうか。現在は手で「center」タグを売っているのだが、確かこのタグは使わないほうがよかったはず。「img」タグのどこかに中央寄せ指定ができるオプションがあると思うのだが…
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2005.03.31
潜航している。何をしているのかといえば原稿を書いているので、生活リズムは崩れるし、運動不足で太るし、頭はくたくたになるし、目はしょぼしょぼだ。原稿を書くことは仕事であり、仕事があることはありがたいことだ。しかも嫌いな原稿を嫌々書いているわけではない。なんと幸せなことか。
車検から刀が戻ってくる。やはりキャブレターが完全に詰まっていたとのこと。
バイクに乗りたい。伊豆スカイラインを一気に走って天城温泉あたりに入ってきたい。
本が読みたい。読みたいノンフィクションが山積みになっている。
映画が見たい。このままいくと「ハウルの動く城」は、「ナウシカ」以来初めて劇場で見なかった宮崎アニメになりそうだ。周囲では「終戦のローレライ」が話題になっているが、果たして行くことができるかどうか。
しかし、どうしていつもこうすべてがぎりぎりになっていくのだろうか。不思議だ、と首をかしげつつ、原稿を書くのであった。ああ、あと少し。あと少しですってば。
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2005.03.16
まず、親指シフトの報告。練習の結果、キーがどこにあるかで迷うことは無くなった。入力はまだローマ字のほうが速い。手と腕の腱の使い方が違うらしく少々腱がつったかのような感覚がある。
良い副作用として、携帯電話の平仮名入力が速くなった。頭の中で文章が平仮名で流れるようになったためらしい。つまりローマ字入力ではローマ字でイメージしていたらしいことに気が付いた。
悪い副作用としてはローマ字入力との指の混乱が始まった。主に変換キーだ。たたたと一気に入力して、変換キーを押すと間違いだったというのは、リズムを崩すことおびただしい。練習時間の配分など考え直す必要があるだろう。両方の入力方法を使えるようになるのが目的だからだ。
まあ思考の速度での入力を目指して、練習を続けるのである。
12日土曜日は、高校時代の友人Fが来る。共通の友人で早くに死んでしまったUの墓参り。その後二人で痛飲する。13日日曜日は午後3時から丸の内で打ち合わせ。といってもばりはりのビジネス話ではなく、むしろマニア系の仕事。楽しい。
14日月曜日は、車検に出すために刀のエンジンに久し振りに火を入れる…何をどうやってもかからない。手に負えないと判断してなじみのバイク屋に連絡する。去年はあれこれあってちっとも乗れなかったからなあ。15日火曜日は1日仕事。16日水曜日はバイク屋が刀を取りに来る。「あっちこっちが痛んできてるね」と言われてがっくりする。バイクは乗ってこそ華。バイクに乗らないバイク乗りは人間のクズである…。
先日やってきたAさんの「が、台湾の正確な歴史的経緯を国民に教えず、都合の良いことしか教えていないものだから、本音を出したら国民が収まらない。」という発言が気になっている。一体どんなことを教えているのだろう。中国の歴史教科書はどんなものかと思って調べたら、こんな本があった。
「韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する—歪曲された対日関係史 」勝岡寛次著 小学館文庫
amazon、bk1
検索をかけてみると著者は、「新しい教科書を作る会」賛同者に名を連ねており、保守系の論客のようだ。
できればよけいな注釈なしの、向こうの教科書の直訳本が欲しいところ。竹島問題にしても向こうの教科書でどんなことを教えているかを、まずは基礎知識として知っておかなければならないだろう。「新しい教科書を作る会」の歴史教科書は私も読んだが、「これも偏っているなあ」という印象だった。我々の世代のオタク用語を使えば「とさかもたわばもかたよっている」だ。
冷戦時代、ソ連の歴史教科書が西側に翻訳されたことがあって、読んでみたら「赤軍の英雄的突撃」だらけだったということがあったのだが…
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2005.03.12
8日中に確定申告をすませるべく書類作成に集中するも、時間切れで外出。久しぶりのカイロプラクティックにつづいて竹橋で打ち合わせ。さらに永田町に行き日経BP、やっとオフになって飯田橋の「主水」へ。いつものメンバーで午後11時過ぎまで飲み食いする。
9日はなんとか書類をそろえて税務署へ。今年は国税庁の書類作成機能を利用した。これは確かに便利だ。字が下手な私にとってきれいな印字で書類が出てくるだけでもありがたい。今年の申告を終えての感想は「もっと稼がねばいかんなあ」。
ふと思いついて青色申告の申請をする。何事もやってみなければわからない。来年の申告シーズンにまた大変な目に遭うのかも知れないが、それもまたよし。
父の申告について相談するが、必要かどうかは年金の源泉徴収票がないと分からないとのこと。帰宅してから探すと10月分までしか支給されなかった年金の源泉徴収票が出てくる。少し悲しくなる。
10日は再度税務署へ。父の年金については申告不要であることが判明。
ふと思い立ってその足で藤沢駅前丸井地下にあるカレーショップ 「シュクリア」へ。70倍までの辛口カレーを作ってくれるB級グルメの店。高校時代に40倍カレーをひいこらしながら食べて以来だからほぼ四半世紀振り。10倍ポークを食べる。次は70倍に挑戦してみようか。
東京に出て朝日ソノラマで打ち合わせ。さあ、ゲラだゲラだ。大手町経由で浜松町。上京した佐々木譲さんの迎撃宴会。久し振りにあったSさんに「太ったね」と言われる。家にこもって原稿書きに徹していたからなあ。お開きの後は編集者の雪風☆中尉さんと東京駅近くで二次会。話題は「どうやって本を売るか」。
ところでこの冬の間中、どうも体調が悪かったのだが、原因が判明した。電気カーペットを付けっぱなしで寝ていたために慢性的に脱水症状を起こしていたのだ。せっせと水分を摂取して腎臓をいたわることにする。
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2005.02.04
なにやら高校生っぽい書き込みがやってきたので、思わず自分の高校時代を思い出してしまった。
私は神奈川の県立高校の出身だ。江ノ電で通学するその高校は、自由といい加減が校風だった。海岸に面した南斜面に建つ校舎は、窓からは太陽輝く海が見え、環境は最高だった。学校に向かう坂は通称「ボケ坂」と呼ばれ、「どんな秀才もボケ坂を上って3年間潮風に吹かれれば浪人する」とか言われていた。
高校の3年間、私には楽しい思い出ばかりが残っている。毎日通学するのが楽しかった。私も含めた生徒らは3年間、のびのびと遊び、部活をし、文化祭やら体育祭やら合唱祭(というイベントがあったのだ)やらに熱中し、十代の時間を楽しんだ。
先生の質が高かったとは思わない。良い先生もいたし悪い先生もいた。そもそも私の時の校長は、「まあこれでこの人、人生上がりかな」と生意気高校生にも思わせる無気力な人だった。
名物先生もいた。倫理社会の先生などは、授業では教科書を放り出してかつて自分が担任した「名物生徒」の話ばかりしていた。教師としては授業放棄だ。とんでもない無責任である。が、生徒の我々はその先生を敬愛していた。なにしろ落第なしの楽勝先生だったし、「名物生徒」の話たるや、倫理社会の教科書よりもはるかにおもしろかったからだ。
そう、高校の授業なんてのは聞き流すのが適当であろう、と独断を交えて言い切ってしまおう(現役の先生の皆さん、ごめんなさい。でも実感です)。
高校レベルで本当の勉強をしようと思えば本人の意志が不可欠だ。とにかく必要最低限を教え込む小中学校の授業と、自分で学ばねばならない大学の授業の狭間で、高校の授業はひどく奇妙なポジションにある。そこには大学受験というバイアスまで加わっている。
だが、基本的に高校レベルに至れば、勉強は自分のために自分でするものへと移行するべきだろう。
あるいは「3年をかけて自分で勉強をするという行為を学ぶ」のが高校というシステムの機能なのかも知れない。
勉強で追いまくられた記憶もないし、成績で差別されたこともない。遅刻したからといってぶん殴られたこともないし(だいたいあの当時は学校に門がなかったのである!)、理不尽な理由で正座させられたこともない。
あったのは、「まあ君らそろそろ大人だから」という生暖かい信頼の感覚だけだった。多分、あの時の先生達からすれば、トラブルは多々あれども我々生徒は「みんなええ子や」だったんだろう。それはとっても幸福なことだったに違いない。
後に、「究極超人あ〜る」(ゆうきまさみ)というマンガで、こういう学校は少ないものの、全国あちこちにあるらしいことを知った。あのマンガを読んだことがある方は、「海岸の南向き斜面に建っている春風高校」を思い浮かべて欲しい。それが私の過ごした四半世紀前の母校であった。
————————
自身が幸福な高校生活を過ごしただけに、私は基本的に管理教育には反対だ。が、自由はまた自律あってこそでもある。自律できないバカにとって、自由は渡してはならない禁断の果実であるのだ。
「そういうあんたは高校の時自律できていたのか」と問われるなら、答えは「うーん、できてなかったかもなあ」だ。今にして思えば我々が享受していた自由とは、先生やら家庭やらに生ぬるく管理された「偽りの自由」だったとも言える。が、そもそもろくな人生経験もない高校生に扱える自由はどうしても生ぬるいものになるだろう。
つまり自分は高校生という年齢に最適な程度の自由を与えられて育ったのだった。あらためて「お前ら、我々に見つかるようなところで酒を飲むんじゃない!」という先生の叱責は、実に含蓄に富むものであったな、と思う次第だ。
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2005.01.17
本日、阪神淡路大震災から10年。地上波のテレビチャンネルは関連番組で埋まる。
「阪神淡路大震災の時、あなたは何をしていたか?」
私は東京にいて働いていた。朝起きてテレビをつけたら、信じられない光景が写っていた。なにしろ疲労していたのでようようやっとこ出社したが、いま一つ現実感がなかった。出社した時点で確か死者数は数人と報道されていたと覚えている。「そんなもので済むはずがない。絶対に1000人を超える」と思ったが、まさか6000人以上が死亡する大災害だとは考えもしなかった。
あの時あなたは何をしていたか、というのは同時代を共有していることの確認行為だろう。かつてニフティのFSPACEでサブシスをしていた時にはチャレンジャー事故が起きた1月末が来るたびに、「あなたはあのとき何をしていたか」というお題で書き込みを募った。アメリカでは「ケネディ大統領が暗殺された時、あなたは何をしていたか」という問いが繰り返されるそうだ。
それは同時に、「ああ自分はこんなに生きてしまったか」と自分の年齢を確認することでもあるのだろう。
本日風邪気味。延々と続けている仕事に先が見え始める。薬を飲んだので眠い。よって短く、思ったことだけを。おやすみなさい。
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2005.01.16
「ホイヘンス」のタイタン着陸の興奮も冷めやらず、あれこれ考えていると妙な単語が浮かび上がってきた。
「ホイヘンスまんじゅう」
自分の無意識をごそごそとまさぐると、どうやら「これだけのイベントなんだから便乗商売があって当たり前」という感覚が、こんな単語を作り出したらしい。少々情けない。
まあ「アポロチョコ」だってあるのだからなんでもありだよなあ。「ホイヘンスどらやき」、「タイタンサブレー」、「カッシーニしゅうまい」とか。
そこでまた連想が働いて思い出す。そうだ、かつて「月面せんべい」というのがあった。直径30cmもあろうかという巨大な堅焼き醤油せんべいで、表面に月面のクレーターが焼き込んであるというものだった。
月面せんべいを発見したのはもう15年も昔、私が航空宇宙業界ニューズレター誌で働いていた頃だ。JR東京駅構内の売店に売っていたのである。
「いったいなんだこれは?」
職業的な興味もあって、売り子さんに質問してみた。分かった事実は以下の通り。
- アポロ11号の頃に売り出したもの。その後ずっと売っている。
- クレーターは焼き型でつけている。本物の月の地図ときちんと合わせてある。
もっとも、あの時点ですでにアポロの月着陸から21年。焼き型がだいぶ痛んでいたのか、クレーターは「本当に月面か」と思うほどおぼろになっていた。
買って食えばよかったのだろうが、いまいち食欲が湧かずに結局そのままとなった。その後しばらく月面せんべいは売っていたが、いつの間にか姿を消し、今は東京駅に行っても買うことはできない。
食っときゃよかったなあ。
しかし(と、ここでまじめな話にするのだ)、これは宇宙開発の根本的問題の現れではないだろうか。アポロからこっち、一番便乗ものが出やすい食品分野で便乗商品が出ないというのは、それだけ停滞しているということではないか。
うん、やっぱりあの月面せんべい、買って食っておくべきだったな
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2005.01.09
8日は、宇宙開発史HPの新年会だったが連絡行き違いで場所が伝わらず、行くことができなかった。主催の桜木さんが連絡にフリーメールのアドレスをつかったところ、現在試行錯誤中の迷惑メールフィルタがはじいてしまったらしい。
まあ、原稿が遅れているので「こういうこともあるさ」と原稿書き。桜木さん、申し訳ありませんでした。
で、ちょっとうるさいおじさんになってぶつぶつ文句をば。
その1
駅から帰宅する途中に一件のコンビニエンス・ストアがある。ここ、入店すると店主夫婦とおぼしきおじさんとおばさん、それにバイトもひっくるめて「いらっしゃいませ、こんばんわー!」とでっかい声で挨拶してくるのだ。それも入店する客一人一人に丁寧に、である。「いらっしゃいませ、こんばんわー」も繰り返せば「イラシャイアセ、コバワー」と聞こえる。
うっとうしい。実にうっとうしい。コンビニというのは必要な時にしか声をかけない、ドライなところがよかったのではないか。
声をかけるのはいい。機械的に声をかけられるのはうっとうしいだけだ。
どうも店主夫婦は、これがサービスだと思っているらしい。いつ気が付くかと思ってみているのだが、一向に気が付く風もない。うっとうしいなら行かなければいいのだが、何しろ道すがらなのでついつい寄ってしまうのだ。で「イラシャアセコバワー」と攻撃を受けて、精神にダメージを食らうのである。
その2
昨年の半ばぐらいから夕暮れになると、駅前に居酒屋のバイト君が立つようになった。駅を出て帰宅する人波にでっかい声で怒鳴り続けるのである。「居酒屋○○でーす。チューハイ、ビール、安くなってまーす」。無視されても無視されても怒鳴り続けるのだ。
うっとうしい。実にうっとうしい。
思わず思い出してしまったのが、オウム真理教最盛期に秋葉原の路上で傍若無人な呼び込みをやっていたマハポーシャ(オウムのパソコン販売部門)の連中のことだ。「チョーチョーチョーチョー、超激安、チョーゲキヤース、マハボーシャチョーゲキヤース」と延々とわめいていた。そういえば「DOS/Vマン」とかいう、アリイのバチモンキャラクタープラモのような着ぐるみを着て宣伝していたこともあったな。
「イラシャイマセ」コンビニ、居酒屋の呼び込み、マハポーシャ、これらの共通点は、「声をかける」というコミュニケーションの手段を過激に使いつつ、実はコミュニケーションをとろうとしていないという点だ。「自分は声を上げている」という行為に自己満足しているだけなのである。それが証拠に正常なコミュニケーションは、声かけの後にすぐ双方向へと移行するが、彼らのは常に一方通行なのである。それも暴力的に。
居酒屋も「早く無駄だということに気が付かんかな」と思っていたが、一向に止める気配もない。最近は「早くつぶれないかな」と内心で呪っている私がいるのだった。
全くの余談だが、1994年頃、隣の編集部の記者がショップブランドパソコンの記事を書くに当たって「あそこもショップだろ」とマハポーシャに取材に行ったことがあった。素晴らしき哉記者魂。
なんでも「うちのパソコンはヴィシヌ回路(記憶は定かではないがそんな名前だった)が付いているので速いのです」とかなんとか説明されたそうな。なんだそりゃ。
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2005.01.06
実家に詰めて一日原稿。書いては犬をからかって遊び、また書いて食って。運動不足だ。
昇天したPowerBookG3に代わって、父が使っていたiBookG4を使い始める。
ネットをうろちょろしていて、年末から年始にかけて発生した騒ぎを知る。記者歴6年という人物が、自分のblogに「イラク人質事件の三人が自己責任を問われるのは、スマトラ沖地震の津波に巻き込まれた人が自己責任であるというようなものだ」と書いて、ネットのあちこちから総攻撃され、いわゆる「マツリ」状態になった(鈴木慎一さんの日記1月4日の記述から色々たどることができる)。
そもそもの震源地となった自称記者氏の、およそメディア関係者とも思えない稚拙な対応に驚く。いくら匿名の批判コメントが殺到したからって、投稿者のIPアドレスをさらしたり、コメント欄を閉鎖するのはまずいだろう。主張の正当性以前の問題だ。
一方で「自分もしっかりしなければ」と思う。自分もメディアで食っている以上、不用意な一言で転落する可能性は常にある。「明日は我が身」。
もう一つ感想。「いったいいつから左翼言論や市民運動の言論は、かくも脆弱になってしまったのだろうか」。今回の自称記者氏のような人物ばかりではないと思うが、ネットで「プロ市民」「サヨ」といった言葉で軽蔑のニュアンスをもって語られてることが多いのはどうしたことか。
ネットというメディアが本質的に抱える問題?ソ連崩壊以降の左翼勢力の弱体化?そもそも左翼言論がその程度のものだった?日本が右傾化している?
だが考えて欲しい。
ネット、特に匿名の世界は雰囲気で雪崩のような動きが起こる怖い世界だ。しかし、しっかりとした論拠を押さえて、まともな議論を展開していけば、「敵も多いが味方も多い」という状況には持っていけるはずだ。
なぜそうはならないのだろうか。
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2005.01.04
一日原稿。夕方から母を連れて湯河原の温泉へ。父があれほどやりたい放題だったのも、母あってこそ。ごくろうさまでした。
帰路、自動車の中で母と父についてあれこれ話していて、ふっと思い出した。確か私が小学校の低学年だった時だったか、出張で新幹線や飛行機に乗れる父がうらやましくて仕方なかった。
私は電車に乗れば先頭に飛んでいって、運転席越しに前を食い入るように見つめるタイプの子供だった。だから新幹線(もちろん当時は東海道新幹線しかない)も飛行機もあこがれであり、乗りたくて仕方なかったのだ。
自分も乗りたいぞ、お父さん不公平だ。そういう私に父は答えた。「大人になればいくらでも乗れるさ」。続けて「でも大人になってから乗っても、全然うれしくないけどな」。
いや、全く至言でありましたな父よ。仕事で乗る新幹線や飛行機のなんとつまらないことか。
今やその言葉をかみしめております。
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2005.01.01
2005年が始まった。
宇宙開発という分野は、かつて、整然とした未来年表の元に進んでいた時期があった。そこには宇宙開発委員会の長期ビジョン懇談会の構想があり、宇宙開発政策大綱があり、年度ごとの宇宙開発計画があり、と、一見美しく矛盾のない政策システムが動いていた。
取材を始めた1988年頃、「1998年打ち上げ予定の地球観測衛星」の予想図を見て、くらくらしたものだ。10年も未来のことを我が事として想像できなかったのだ(ちなみにくらくらきた未来の衛星は、後に「みどり2」として2002年に打ち上げられ、2003年秋に無惨な最後を迎えた)。
それがついに2005年だ。自分は応分に歳を取り、スプートニクからアポロ11号よりも長い時間が経ち、その間年間1000億円以上の予算=税金を投入して、日本国は宇宙分野で何を得たのだろうか。
せめて前に進んだという実感を持って、この年を終わりたいではないか。行動しよう。
などと年頭から力んでばかりでも仕方ないので、ぐだぐだと身辺雑記を。
29日は高校のクラス会。なぜか2年生の時のクラス会が25年に渡って続いているというもので、つまり高校2年の1年間は、それほどまでに楽しかったのだ。当時は若く独身だった担任の先生も、今は3人の子供を育て上げた校長先生となり、「あと1年3ヶ月で定年だあ」と叫んでいた。
火付け…いやいや、「焚き火」でしたな、が、大好きな先生のために、定年後に場所を確保して一大焚き火大会をやるという話もあるので、そろそろ話でも動かそうか。先生は巨大焚き火をしたい一心で某新興宗教に入信しかけたという逸話の持ち主なので、教え子が組織する焚き火もそれ相応の規模にしないと。
30日は、コミケ2日目。おかちんさんの「ILMA Express」で売り子。午前8時集合の予定が寝坊して遅刻し、ディーラー入場のタイムリミットである午前9時ぎりぎりに、入場口でチケットをぱっと受け渡して入場。思わず頭をよぎったのは、原爆の時限装置が「007」で停止する「007ゴールドフィンガー」だった。
一般入場なら間違っても朝からは行かないであろうイベントだが、売るとなれば別。物を売るというのは原始的な楽しみがあるので、時折コミケで売り子をさせて貰っている。そっち方面に広がった知り合いと会い、それぞれの新刊を読む楽しみもあるし、仕事的な興味ではオタク状況の定点観測という意味合いもある。会う人ごとに「原稿大丈夫ですか」「ここにいていいんですか」と言われるのは、まあ自業自得というもの。
午前10時の会場からしばらくの間、西館には人が流れて来なかった。「今年は出足がゆっくりだなあ」などと話しているうちに昼過ぎからどんどんお客さんがやってくる。やって来た人が「東館はすごいことになってますよ」という。一気に入場したお客さんが、東館に配置された18禁系サークルに引っかかって大渋滞を引き起こしたらしい。東館がうまい具合に人の流れに対してダンパーとして作用したようで、メカ・ミリの配置された西館は大混雑になることなく、ゆったりと楽しむことができた。
終了後、メカ・ミリ系サークルの飲み会に顔を出す。ついにアバルトを買ってしまった沖兄弟などから、ここに書けないような話を聞く。沖兄弟は互いに「今日は自分でしゃべらずに他人の話を聞くはずだろ」と牽制しつつしゃべることしゃべること。最後に「松浦さんと『ハウルの動く城』で語り合うはずだったのに」、いや、沖さんズも私もまだ「ハウル」を観ていないのです。
31日はPowerBook臨終に振り回される。雪の中を実家に行くと、妹が甥と姪を連れて帰ってきていた。甥に踏んづけられ、姪に鼻水をつけられ、彼らのおもちゃに徹して過ごす。夜は、年末にオーロラ見物にフィンランドまで行ったKI-CHIさんから貰ったアルコール分60%のウォッカをなめつつ、アニマックスで「攻殻機動隊SAC」などを。面白いけれど、気が付くとイシカワが個人情報までがしがしハッキングしている社会というのは、少なくとも私は住みたくない。
新年、目を覚ますと犬共が私の布団に乗って丸まっていた。姪がぎゃーと泣く声が聞こえる。
2005年の原稿書きと、資料調べが始まる。数日すれば取材が始まる予定だ。
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2004.12.31
2004年が終わる。
今年の後半、私は軍神の星を巡る話を書き続け、いまなお書き終わることなく、その間に父を見送った。
自分の身辺と世界を同等に見立てるのは不遜だが、世界では天候不順が続き、イラクもアフガニスタンも治まらず、中越地震が起き、スマトラ沖で世界最大級の地震とそれに伴う津波が発生した。
この年の瀬に至り、もうたくさんだと思っていたところに、立て続けにだめ押しがやってきた。
ひとつに29日、高校のクラス会に出席し、私が所属していた合唱部の部長をやった娘(といっても、自分と同じ40過ぎだったわけだが)が8月に病死していたことを知った。委細は分からなかったが、まだ死ぬ年齢ではない。
彼女とは特に親しかったわけではなく、部活上のつきあいがあったに過ぎない。私は「音楽をする」ということに自意識過剰な思い入れがあり、それが「高校の部活をする」という意向の彼女とはぶつかっていたものだ。卒業以来25年もの間に、確か2回しか会っていないし、その2回もろくに話したわけではない。
それでも、一緒にハーモニーを作り(いや、あれは和音などという代物ではなかったが)歌ったという感覚は身のうちに残っている。確か野球部の誰だったかを好きだったらしき彼女が、夕暮れの江ノ電の駅頭で「おめーよお」とかなんとかくっちゃべりつつゲハゲハ笑いながら帰っていく野球部の連中を、赤くなった頬を押さえつつ見送っていたのを思い出せる。
死ぬのに理由などいらない。分かってはいるのだが、それでも「なんと理不尽なことか」という感情は消すことができない。
ふたつに本日夕刻、実家の隣家に住んでいたご老体がこの世を去った。長く患い、退院してきた矢先だった。独居老人が自宅で倒れて死ぬのは、手続き上変死扱いになるとのことで、警察が入った。
何を悪いことしたわけでもない。真面目に生きてきた終末が、独居というだけで検死で締めくくられるとはなんとつらいことか。
そして、生物ではなくましてや人でもないのだが。この大晦日、会社を辞めたときに購入し、使い倒してきたPowerBookG3(2000年モデルがついに壊れた。7月のクラッシュを受けてバックアップ対策をとってあったので、原稿への被害は避けられた。
覚悟を持って会社を辞めた時に「仕事の道具に」と思い入れを持って購入し、以来どこに行くにも持って歩いたパソコンだ。2個バッテリーを搭載すると実時間で10時間近く稼働するという特性を生かし、酷使というのも愚かなほど使ってきた。そろそろ買い換え時ということは分かっていたが、それでも予備機のVAIOとは比べ物にならない程良いキータッチと洗練された使い勝手で、私の仕事の環境として十分以上に機能し続けてきた。私に取ってなくてはならない道具だった。
キーボードのトップはすり減り、梨地仕上げだったパームレストはてかてかになっている。ボディには亀裂が走り、もう持ち歩きは無理になっていたが、それでもぎりぎりまで原稿執筆に使用した。
正月は私の誕生日であり、あと数時間で私は43歳になる。2004年が私の傍をタナトスが通り過ぎていった年であるなら、2005年はエロスに縁のある年であって欲しいものだ。
そして陳腐な言葉だが、「地には平和を!」。
皆様も良いお年を。
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2004.12.27
blogをほったらかしてなにをしているかといえば、もちろん原稿を書いているのである。年末年始一切関係なし。もともと他人様が何をしていようと気にしない性質なので、別に年末年始に休めなくとも不満はない。自分のペースで自分のしたい仕事ができるのは幸せだ。
忙しいので、簡単なメモをアップして、生存証明とする。
- スマトラ島沖の大地震:第一報の情報源が、米地質調査所(USGS)であったことに驚く。アメリカの世界支配の網は緻密だ。
世界支配にはまずなによりも世界を知ることが重要で、そこには「地球を知る」ということも含まれる。GPSや気象衛星については拙著で触れた通り。地球観測衛星についても言うまでもない。
それだけではなく、地球科学も地誌学も農業科学も生命科学も、およそ地球上の存在、あるいは地球そのものを対象とする科学は、国家システムから見れば、すべて世界支配の有力な道具となる。昨今、日本近海に出没する中国の調査船も、その文脈で読み解けば理解できる。中国はアメリカのように「世界」を支配したいのだ(文字通りの「中華」だ)。そのために自然科学が必要なのである。
日本という国家の、自然科学全般に対する投資の不足は、実のところ第二次世界大戦後の日本がアメリカの軍事的庇護の元、「平和国家」として経済成長を遂げたことの反映なのかも知れない。
それにしても心配なのはモルジブだ。ただでさえ地球温暖化による水没が心配される島々に、津波がどんな被害を与えたのか、想像するだに恐ろしい。
- リーマン予想:書評仕事もあって、「リーマン博士の大予想」(amazon、bk1)、「素数に憑かれた人たち」(amazon、bk1)を読む。面白い。ゼータ関数とはこういうもので、このようにして素数定理と結びついていたのか。
中でもレオンハルト・オイラーの業績に瞑目する。ゼータ関数が素数に関係した無限積と等しいというのは、これはもう現実に存在するセンス・オブ・ワンダーではないか。e のπi乗が-1に等しいというオイラーの公式を知った時以来の衝撃だった(いや、複素数学の留数定理以来かな)。
リーマン予想に取り組む数学者に興味があれば「リーマン博士の大予想」、リーマン予想そのものを分かった気分になりたければ「素数に憑かれた人たち」がおすすめだ。
- デルタ4ヘビー打ち上げ:昨年からずるずると延期を続けていたボーイング社の新型大型ロケット、「デルタ4ヘビー」の1号機が12月21日に打ち上げられた。日本国内メディアでは「成功」としか報じられていないが、実はペイロードを予定よりも低い軌道にしか投入できなかった。ボーイング社は「成功だ」とコメントしているが、私の見るところこれは失敗だ。予定の時刻に予定の軌道にペイロードを投入できなければ、ロケットは役に立たない。
それよりも心配なのは実は「デルタ4ヘビー」は失敗作ではないかということ。昨年来の延期は数ヶ月単位で延びるというもので、どうも構造的な問題があるのではないかと思わせる。
設計を見ても、そもそも第1段から液体水素・液体酸素を使うというのは合理的ではないし、だいたいコアを3本束ねたブースター構成は、どれか1基のエンジンが失火すれば打ち上げは失敗する。失敗確率はぐっと上がるし、しかも3基のエンジンはフェールセーフになっていない。「駄目な双発機」だ。
この「デルタ4ヘビー」をボーイング社は、ブッシュ大統領の新宇宙構想に売り込もうとしている。この技術を敷衍していけば「サターンV」クラスの大型ロケットも作れますなどとアピールしているのだ(ボーイング社のデルタホームページ内、「delta IV→TECHINICAL SUMMARY」を参考のこと)。
もしもこのロケットが新宇宙構想の主力ロケットになったら(官需企業ボーイング社の保護という観点からすると可能性は十分にある)、スペースシャトルの二の舞になる可能性があるように思う。
- 共栄堂のカレーと焼きリンゴ:先日、東京に出た際に神保町の共栄堂によってポークカレーと焼きリンゴを食べる。ここの焼きリンゴを食べると、ああ冬だなあという気分になる。確か5年ぶり。
隣を見ていると「ライス中盛り」と注文し、山のようなご飯が運ばれてきていた。そうか、そういう注文方法があるのか。今度やってみよう。
- ジャック・イベール「祝典序曲」:ここしばらく原稿書きの際のヘビー・ローテーション。イベールは「交響詩・寄港地」「フルート協奏曲」が有名だけれども、私はこの「祝典序曲」をイベールの最高傑作だと思う。フランス流の良く鳴るオーケストレーションとドイツ風の堅牢な楽曲構成が結合し、融合しているのだ。ティンパニに導かれる短い前奏に続いて、いきなり低弦から始まるフガート、中間部の金管によるコラール、終結部の盛り上がり——どこをとっても完璧。
ちなみにこの曲、昭和15年の紀元2600年記念に日本政府が世界中の作曲家に委嘱したオーケストラ曲の1曲。委嘱されたのはリヒャルト・シュトラウス(ドイツ)、ヴェレッシュ(ハンガリー)、ピッツェッティ(イタリア)、イベール(フランス)、そしてベンジャミン・ブリテン(イギリス)。
いちばんのトンデモさんはシュトラウスで、「ド・ミ・ソ」で鳴る銅鑼を使う「皇紀2600年祝典音楽」を作曲してきた。東洋にはそのようなものがあると誤解したらしい。そんなものがあるはずがなく、初演の時は似た音程の銅鑼を日本中探し回ったとか。
一番の困ったちゃんはブリテン。なにを思ったか亡き父に捧げる「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」を送ってきた。祝典に鎮魂とは何事か、と日本政府はこの曲を突き返した。曲自体はブリテン初期の傑作というあたりも凶悪である。
そういった周囲とは関係なしに、イベールの曲はいかにも祝典らしい派手さの中に厳粛な雰囲気もあって、私は大好きだ。ちなみにナクソスから佐渡裕指揮・ラムルー交響楽団のCD(amazon)が出ているので簡単に入手できる。聴くべし。
追記:おお、解説ページがあるではないか。こっちのほうがよっぽど詳しいので、興味のある方はどうぞ。
今年は喪中だ。そもそも私は記者生活最後の2年を郵政省に通い、その内部のあまりのドロドロさにあきれて以後可能な限り郵便局を儲けさせてなるものかと、年賀状を出すのを止めてしまった。
インターネットがあたりまえの社会インフラになった今、少なくとも私にとって年賀状を出す意味はすでにない。不要な物に力を注ぐぐらいならもっと有意義に自分のエネルギーを使いたい。ましてそれが、あのでろんでろんの旧郵政省——今は日本郵政公社だがどうせ大して変わってはいないだろう——を儲けさせるとなれば、論外だ。
というわけで、このblogはまだ当分続きます。年賀状代わりに世間一般に向かって日々情報を書き散らしていると思って頂ければ幸いです。
さあ、仕事に戻ろう。
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2004.12.10
柄にもなく書いてしまうのである。
横田めぐみさんの遺骨として返還された骨が、他人のものだったことが判明し、世論が激高している。新聞の社説にすら経済制裁という言葉が踊るようになった。
経済制裁というが、対北朝鮮政策が外交であり、戦争は外交の延長であるということを考えるなら、敵対的外交は戦争と隣り合っている。とするならば戦争状態でなくとも、クラウゼヴィッツが書くように常に「どこに落とすか」を考えて行動しなければならない。「経済制裁だ!」「北朝鮮に正義の鉄槌を。バンザーイ」ではいけない。
何しろ我々の国は63年ほど前に、「真珠湾攻撃だ!」「鬼畜米英に正義の鉄槌を。神州不滅。バンザーイ!」という国民的な雰囲気になってしまった前科がある。その結果何が起きたかを考えれば、今回こそはもっと賢く立ち回るべきだろう。
我々は雌狐のように賢く立ち回る必要がある。
日本の対北朝鮮外交の目的は何か。
一に拉致被害者の完全奪還だ。
これはいうまでもない。報道を見ていると、北朝鮮は日本どころか韓国、タイあたりからも一般人を拉致しているようだ。ここらへんの国と共同歩調は取れないだろうか。日本以上の人数が拉致されているという韓国の対応が、人道からすれば非常に生ぬるいことが気になる。まさか「同胞の北朝鮮なら誘拐してもいい」などと韓国政府が考えているとは思いたくないが。
二に、北朝鮮国内の人的損害を最小限にとどめつつ、現北朝鮮政権のカルト性を毒抜きし、外交と経済の両面で国際社会に復帰させることだ。
一番良いのは北朝鮮内部で自発的な政権交代が起こることだが、これは望み薄だろう。北朝鮮国内の暴力革命がこれに続くがおそらくは難民問題を産み出す。
最悪はアメリカ軍かロシア軍か中国軍か知らないが、外国の軍隊が北朝鮮に侵攻して占領することだ。そうなると、北朝鮮はカンボジアどころではない惨状を呈することになるのではないか。
目的を達するにあたって、北朝鮮が戦争を起こすというような暴発を起こさないようにしなくてはならない。63年前に我々の国が暴発するにあたって、前提条件としてABCD包囲網という「経済制裁」を食らっていたことを思い出すべきだろう。国が経済制裁を発動するにあたっては、なによりも「結果への見通し」が大事だ。経済制裁を発動するならば、何か北朝鮮の暴発を防ぐパワーバランス的な「かけ金」をかける必要がある。
最終的には北朝鮮地域に、世界経済に組み込まれた経済活動が可能な統治形態を確立することである。
ここではあえてマキャベリズムの立場を取り、日本にすれば朝鮮半島が統一されないほうがいいということを指摘しておこう(人非人と言うなかれ。思考の上ではすべてのモラルをいったん停止したほうがリアルに未来を洞察できる。なぜなら過去の歴史において、権力者や経済の都合は、ほぼ確実にモラルよりも優先されてきたから)。
南北の人的、経済的交流が自由になりさえするならば、半島は政治的に分断されていたほうが日本の対中国政策上は都合がいい。南北が政治的に統一されたら、新国家はあっというまに中国の影響圏に入り、日本は半島経由で中国の脅威に圧迫されることなるだろう。なにしろ朝鮮半島における儒教の影響は絶大で、中華を尊しとして東夷を蔑む心性はそう簡単に消えるものではない。
と、偉そうに書いてみても、私に思いつくのは「公的には経済制裁には至らないが、事実上経済制裁と同じ状態を作り出す」ということぐらいだ。そうすれば日本側が切ることができる外交カードが増える。
民間の力で事実上の経済制裁状態を作り出すということだが、ではどうするかといえば私には「あさりを食わない。松茸を食わない。ウニを食わない。パチンコをしない」ぐらいしか思いつかない。で、私はこのうち「あさりを食う」ぐらいしか該当しない。しかも「最後にあさりを食ったのっていつだっけ」ってなもんだ。あ、パスタのウニクリームソースは時々食うな。あれ、値段からして北朝鮮産ウニという可能性があるかも。
北朝鮮拉致問題は「太平洋を挟んでアメリカ、西の大陸に中国という、それぞれに勝手な大国に地理的にも経済的にも挟まれた日本が、今後どのようにして国際社会の中で地歩を確保し、繁栄していくか」という大問題とリンクしている。
拉致被害者を取り戻すのは第一歩だ、。しかし、それですべての問題が解決するわけではない。
北朝鮮というカルト国家を無毒化するというだけで、すべてが解決するわけではない。
うう、仕事が進まない。火星探査機打ち上げまで、あと1ヶ月…(「前に『打ち上げまで後少し』と書いていたではないか」というあなた、あの時は後少しと考えていたのであります…)
編集のIさん、amazonやbk1で予約してくれた皆様、申し訳ありません。ああっ、もう少しだけ、筆が速ければっ。
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2004.12.03
9月頭に父が入院して以来の疲労が一気に出た。体が全く動かず、一日寝床で眠り続けてしまった。
予兆はあった。数日前から食事後やたらと眠くなり、横になったら4時間も寝てしまったとか、電車で乗り過ごしをやってしまうとか。「ああまずいな」という感覚はあったのだが、いろいろせっぱ詰まっており、きちんと休めなかったのだ。
早い話、原稿だ。数日休めばリフレッシュされて効率が上がることが分かっていても、締め切りがあるとどうしようもない。その締め切りで仕事を受けたのは自分で、中には大幅に破っても待ってくれているところもある。要は自分の覚悟一つでしかない。
ここしばらく長めの記事をアップしていたのには、「blogで勢いをつけてなんとか本業の原稿もはかどらせねば」という意図があったのだが、もうその状況は過ぎてしまったようだ。少し更新頻度と量の双方が減ると思います。
願わくば 、すべての仕事を水準以上のレベルで完遂できますように。もちろん、全力を出し切ることは言を待たない。
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2004.12.01
最初に言っておく。バッシングをするつもりはない。事件発生時より私が感じた違和感を、十分に時間が経ち、それなりに冷静に判断できるようになった、と感じたので記述することにする。
今年4月に発生したイラク人質事件、人質となった3人の中で一番若かった今井紀明氏のことだ。
郡山総一郎氏と高遠菜穂子氏について、私はなにもいうことはない。成人と認められた年齢の人物が危険を承知してイラクに行こうとしたのだ。基本的に止める理由はないし、何かあったとしても本人の行動の結果を本人が受け取るに過ぎない。
日本国は彼らを救う義務があるが、日本国の首脳部及び外務省が法人保護についていかほどの実力を持つかをも含めて、本人が事前に最悪の事態を想定して考慮し、準備しておくべきことであろう。
ところが事件発生当時18歳だった今井紀明氏に関しては話は別だ。彼は「未成年」だったのである。
事件が発生した時、当然私は三人の名前で検索をかけたのだが、以下のページがずっと気になっていた。
・MOS(media of student) (ID:16338)
今井氏がイラク行きの前に発行していたメールマガジンである。発行部数は105。2003年10月27日から12月5日までの40日間に12号を発行し、そのまま止まっている。最終号にはNo.32とあるので、メールマガジンになる前に、なんらかの形式で20号を発行しているようだ。
各種報道によると、このメールマガジンが途絶した時分から今井氏は、イラク行きを考えるようになったらしい。
私は、解放された彼が帰国して以来、いつこのメールマガジンを再開するかを注目してきた。小なりとはいえども100を超える購読者を持つメディアだ。彼はメディアの主催者兼執筆者として、105人の購読者に己の行動をきちんと説明する責任がある。それはその他マスメディアに露出し、自分が原稿を書いたからといってそれでいいだろうというものではない。自らが主催するメディア、しかもいつ途絶してもいい身辺雑記を書いているのではなく、社会的な主張を持つメディアなのだ。105人の読者に対する説明責任は決して軽くはないし、こうやってオープンなwebページも存在する以上、ネット全般への説明という意味合いも出てくる。
それは「ぼくがイラクに行った理由」(amazon)という本を書いたというだけで免責になるようなものではない。彼はメールマガジンの主催者なのだ。主催者には主催者の責任がある。
なんらかの説明をした上で、メールマガジンを閉じるなら閉じるべく公告するのがジャーナリストとして、いや、社会人として最低限のマナーであろう。
しかし、2004年11月29日現在、メールマガジンは再開することなく一年近く放置されている。終巻のお知らせすらない。
私がこのメールマガジンの発行間隔と放置から連想するのは、小学生の壁新聞だ。学級会で出そうかとわっと盛り上がり、二号三号四号と一気に作ったものの、やがて飽きて次の遊びを見つけた子供達は集まらなくなり、自然に途絶する。
子供ならば、このような行いは許される。そうやって色々体験することで子供は育つのだ。一方で、子供には親権の及ばないイラクに行くことは許されない。
つまりこのメールマガジンの放置からは、2003年秋から2004年春にかけて、18歳の今井紀明氏が、「子供の感覚」のままメールマガジンを発行し、放置し、イラクに行ったということが読みとれるのである。
当時の今井氏は20歳を迎えてはいない。従ってその行為に責任を問うことはできない(18歳にもなって「一応の」大人としての行動が取れないというのも恥ずかしいことではあるが、ここでは問わない)。問題は彼の周囲の大人が彼に対して「子供がイラクに行くものではない」と制止できなかったというところにある。この問題が今井氏と、郡山、高遠両氏を隔てる部分だ。
子供が一人でイラクに渡航できるはずもなく(特に旅費は熱意だけではどうにもならない)、おそらくは「行って来い」と無責任に背中を押した大人がいるはずだ。彼の渡航に関して真の原因は、この無責任な大人にある。
ここから先は色々報道されているが、基本的にプライバシーも関係してくると思うので、直接取材をしていない私としては言及を避けることにする。
いったい彼は、なぜイラクに行ったのだろう。そして周囲の先輩達はなぜそんな行動を看過したのだろう。
早い話、取材とは技術であり、訓練によって身につけるものだ。そして訓練なくして現地に飛び込んだとしても、見ている事物を解釈し損ねるだけだ。「見たけど見ていないのと同じ」ということになるのである。それでは行くだけ無駄というものである。
一個人の経験を一般的に敷衍することはできないが、私の場合、国内において一応取材できているなと実感できるようになるまで、就職から2年がかかった。
もちろん才能があればこの下積み期間は短縮可能であろうが、それでも技術を学ばねばならないという事情は変わらない。まして海外取材となると国内に倍する労苦をさばく必要があるし、戦場に近い危険地域の取材ともなれば、必要な技術は一朝一夕に身に付くものではない。
温泉で、まずぬるい湯につかり、少しずつ熱い湯釜に移っていくように、ひとつひとつステップを踏んで、覚えていかなければならない。そういうステップを経ずに戦場取材に飛び込むのは、いきなり熱い湯釜に飛び込むようなものだ。
もちろん「あっちゃっちゃあっ」と叫ぶだけで済む事もあり得るし、そこで積んだ経験を元に大成することもあり得るだろう(若き日のアンドレ・マルローは恋人を連れて家出し、カンボジアに遺跡発掘に行った。あげく盗掘容疑で捕まり有罪判決を受けて本国に送還されている。確か19歳だったはず)。
が、たとえ大やけどを負っても、誰も同情はしない。
仮定の話として、もしもイラク渡航前の今井氏が私に相談をしていたとするなら、たかだか国内の産業記者をいくばくかやった経験のあるだけの私であっても、彼を怒鳴りつけていただろう。
その上で「劣化ウランに興味があるならば、まずアメリカに行って来い」とアドバイスしたと思う。
劣化ウラン弾を巡る問題は、イラクという現地を見ただけでは事の半分以下を押さえたに過ぎない。まずは劣化ウラン弾を製造、備蓄しているアメリカの論理や態度、雰囲気といったものを実感しなければ問題を捉えられないはずである。そして2003年から2004年にかけての世界情勢において、アメリカへの渡航はイラク渡航よりもはるかに容易だった
どうしても必要な取材ならば、まず容易なところから取材を始め、その過程で自分を鍛えつつイラク入りを狙うべきだった、と私は思うのである。
こんな簡単なことが、なぜ今井氏周囲の大人には分からなかったのか、私はいぶかしく思う。
今井氏が支援者に向けたあいさつによると、彼はこの10月からイギリスに渡ったそうだ。このあいさつに、イラク渡航の理由であった「劣化ウラン弾」は一言も出てこない。彼は自分のテーマを「僕のテーマは「人間の表現」です。」と書いている。
子供ならば、興味の対象を次々に変えることは許されるし、また成長にとって望ましいことでもある。が、ジャーナリストにとって、対象に向ける執念も重要な資質であることを、彼は理解しているのだろうか。彼の周囲の大人は教えなかったのであろうか。
#この件に関しては、単なる罵倒や中傷のコメントは控えてください。当方の思い違いの指摘や、この問題に対する理解を深めるような建設的なコメントを歓迎いたします。
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2004.11.27
本日、無事に父の追悼会を終えることができた。
多くの友人達が集まってくれた。それは父が多くの友誼を結んできたということでもあり、同時に友達よりも早く死んだということでもある。うれしいと同時に悲しくもある。
一人の友がスピーチでこういった。
「我々の年齢の平均余命はあと6年半だそうだ。ということはあと6年も経てばまた会えるから、松浦、その時は楽しくやろう」
本日集まってくれた皆様、本当にありがとうございました。
事前の準備に加え、慣れない司会などをやって疲労困憊。本日はもう寝ます。
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2004.11.26
本日、テレビをつけっぱなしにして原稿を書いていて、不覚にも泣いてしまった。
テレビでは、中越地震でひどい被害を受けた山古志村の様子を流していた。画面に、やっと村に戻ってきて倒壊した家の前にたった農家の方が写り、こう言ったのだ。
「また元気が出てきました。ここにもう一度家を建てて、牛舎を建てて、家族と牛を飼って暮らします」
ここで、ぶわっと涙が出てきてしまった。一体これからどれほどの苦難があるかも知れないのに、こう言うのか。こう言い切るのか。
と、同じ感情を映画で味わったことを思い出した。どの映画だったか…そうだ、「風と共に去りぬ」だ。ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラが、荒れ果てた故郷に戻り、土をつかんで「二度と飢えない!(Never hungry again!)」と誓うシーンだ。
精神は死んでいない。
被災しなかった地域にいて、ひいこら原稿を書いている自分には、これ以上なにも言うことはできない。
原稿に詰まり、深夜コンビニに出かける。大して金額を確かめもせず541円だと思いこんで、レジで1041円を出す。考え事をしつつ釣り銭を受け取り、店の外に出て、初めて自分が500円玉ではなく100円と10円の塊を握っているのに気が付く。しめて490円なり。
551円だったらしい。だったら気付よ店員、機械的な対応してるんじゃないよ、と憤慨しかけて思い至る。自分も機械的に釣り銭を受け取って外にでてきてしまっていたのだった。
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2004.11.25
一昨日書いた「独占を再考する」にかなり手厳しいコメントが付いた。
基本的に、私の態度は私の書く文章で証し続けていくしかないと思うのだが、このようなことを書いた私の動機を「悲しい」と書かれてしまったことに一言。
私は14年、途中2年間大学院に出たので実質12年間、日経BP社(入社時は日経マグロウヒル社)に記者として勤務した。その過程で、一般の人が見ることがないであろう現場を色々見てきた。もちろん産業記者であり、事件記者ではなかったのでたかが知れているのだが、それでも「俺、歴史の生成する過程を見てるんじゃないだろうか」と思うことは多々あったのである。
最近、そういう体験は、メモでもいいからまとめて公開するべきなんじゃないか、そう思うようになった。
というのは、特に企業を引退した方や官僚OBといった人たちに会うと、「なんでそんなこと黙ってたんだ!」と言いたくなるようなことを聞く事があるのだ。本人にすれば当たり前だし、守秘義務もあるしでずっと黙っていたのだけれども、それが公知の事実になっていれば、様々な決断も違うようになっていたんじゃないかというようなことが意外に多い。
こりゃ、自分の乏しい体験もともかく書いておいたほうがいいな、と思うようになったところで、たまたま「巨大独占」を読み、ADSLのことを思い出したのだった。それぐらい、インターネット協会総会におけるNTT糾弾は印象に残っていたのである。
で、ここに書いた次第だ。
なにしろこのblogは「日々感じる『揚力』と『抗力』についてアップします」という場所なのだ。
ところで、森山さんの日記に
プロデューサーとディレクターを混同しているようなところもあったし。
ということで、調べてみたらディレクターのお仕事というページを見つけた。同HPにはプロデューサーのお仕事という文章もある。
なるほど。番組の方向付けを行い、予算をはじめとした番組枠を管理するのがプロデューサー、その下で各回の番組を作るのがディレクターなのだな。
というわけでNHKの現状について本を紹介するの「プロデューサー」を一カ所「ディレクター」に直しておきました。
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2004.11.23
森山和道さんが、彼のWeb日記11月21日の記述で、私が書いた「独占について考える」についてコメントしている。
要約すると「ソフトバンクが本当の意味でブロードバンド時代をもたらしたのは事実だが、ADSL導入にあたって、NTTと激しく戦ったのは東京めたりっく通信をはじめとしたADSL業者たちだ。また、日本で最初にADSLを研究したのはNTT光ネットワークシステム研究所で、NTTもまた一枚岩ではなかった」という内容である。
その通りだ。ただ、私はそれら初期のADSL事業者の戦いは、NTT、もっと言えばNTT経営戦略部門が設定した予定調和へと吸収されてしまったと見ている。そういった従来の日本型予定調和では、ADSLの低下価格化は進まなかったろう。それを破り、価格低下をもたらしたのはソフトバンクだったのである。
もっと書けば、「NTTのえげつなさに対抗して時代のフェーズを進めるには、NTTと同等以上のえげつなさをもつソフトバンクのえぐみが必要だった」ということではないだろうか。
本当はきちんと調べて書くべきことなのだが、当時の取材などの状況をメモ代わりにまとめておくことにしよう。
あくまでもメモであり、認識の誤りや事実関係の誤認も含んでいる可能性があることを承知の上、以下を読み進めて欲しい。
日本でADSL有効性が広く認識されたのは1997年9月から始まった伊那xDSL利用実験からだった。この実験は当時のインターネット関係者達がボランティアで集まり、企画したものだった。が、当時取材した限りでは、NTTはこの実験を陰に日向に妨害しようとしてたふしがある。まず、実験の前提となる電話回線を絶対に貸そうとはしなかった。「混信が発生し、通常の通信業務に支障を来す」というのがその理由である。実は当時混信の可能性が指摘されていたのは、さほど普及していなかったINS64との間であり、通常の電話信号との混信は問題ないとされていた。
当時の貧弱なINSの利用状況からすれば、NTTには実験に協力する余地が十分にあったはずだが、そうはならなかった。
この時期のNTTの内部事情は知らない。私は、まだ経営企画の根幹にまでADSLの存在はきちんと知られておらず、現場レベルで「膨大な投資をしてきたINSを無にしかねない実験は妨害するに如かず」という論理が働いたのではないだろうかと想像する。
結果、伊那の実験はNTTの回線ではなく、農水省の回線を使って行われた。これまた実に驚くべき縦割り行政の一例なのだが、伊那では「農村電話」という農水省の補助で作られた緊急連絡用の電話網が存在したのだ。当時すでに農村電話は廃止の方向にあり、農水省は農村電話に代わってケーブルテレビに補助金を付けていたが、伊那ではこの農村電話の配線がそのまま残っていたのだった。
しかも農村電話は、ADSLに向いていた。NTTの家庭電話回線、通称「ラストワンマイル」は、戦後の物資困窮時に敷設された。このため、配線直径がアメリカ規格の0.5mmより細かったのである。うろ覚えなのだが0.4mmだったと思う(余談だが細くすればその分銅資源が節約でき、早く全国に電話網を敷設できるという計算は、典型的な学校秀才の思考法であるように思える)。その分インピーダンスが高く、周波数の高いADSL信号を通すには不利だった。一方農村電話は、日本が高度経済成長を始めてから敷設されたので、インピーダンスの低い太い信号線を使っていたのである。
伊那の成果はインターネット事業者に、とてつもない技術革新がすぐそこまで来ていることを実感させた。なにしろNTTのINSは従来のメタルラインでは64Kbps、最大でも128Kbpsの通信速度しかない。1.5Mbpsを出したければ光回線にしなければならない。ところがADSLなら、そのままで1.5Mbpsのサービスが可能で、将来の技術革新によってはそれ以上、光に迫る速度を従来のメタル回線で出すことができるのだ。
伊那の実験を受けた翌1998年初夏の日本インターネット協会総会(7月16日でした。いしどうさん、ありがとうございます)は、壮絶なNTTバッシングの場と化した。なにしろ事業者達は、NTTの実験非協力でいらだっており、それに伊那での素晴らしい成果が加わって、ラストワンマイルを解放しないNTTに対する怒りが煮えたぎっていたのだ。ところが、総会に招待されたNTTはどういう口実を付けたか知らないが代表が欠席したのだった。
どかーん、だ。その場にいた私があっけにとられるほどの勢いで、強烈なNTT批判が次々に飛び出し、しかもNTTを擁護する意見はどこからも出なかった。
それに対するNTTの反応だが、しぶしぶという感じで、確か98年秋から公衆回線を使ったADSL通信実験を開始した。が、これがなんとも煮え切らない実験で、モニターを公募したものの、そのモニター応募者にもいつ実験が始まるのかよく分からないという状況だった。いくら取材をかけても実験をやってるんだかやっていないんだかよく分からない状況で、実験がいつ始まったのか。いつ終わったのかすらよく分からないという奇妙なものだった。
今にして思えば、あの公開実験は見せ玉で、NTTは裏でADSLの実力と将来性を必死になって探っていたのだろう。彼らにとって実験用の回線の手当など造作もないことだから。その上で、自らが損をしない、しかも自らの市場支配力を損なわない形でADSLを取り込むための経営指針を策定していたのだろう。
同時期、NTTは例の「64たす64で128」というコマーシャルで一般家庭向けインターネット接続にINS64を「フレッツISDN」という名前で徹底的に売り込み始める。すでに技術的には1.5Mbps以上の速度を既存回線のまま提供できることが見えていたのに、なぜ急にINS64を売りだしたのか。
なにしろINS64は、それまであまりに敷居が高かった。そもそも、申込用紙は一般消費者には理解できないNTT専用の通信用語で埋め尽くされていたのだ。
そんな用紙の殿様商売で売っていたINS64を申込用紙の改訂を行ってまで大々的に売り出した理由は、一つしか考えられない。
ADSLなど知らない一般消費者から、INSの投資を少しでも回収するためである。
この時、うっかりINS64を申し込んでしまった人たちは、後でADSLへの乗り換え時に回線をアナログに戻すという面倒な手順を踏むことになった。NTTは、アナログへ戻す手続きを、当初「同じ電話番号のままでは出来ない」と突っぱね、やがて世間の非難を浴びて同番移行サービスを提供するようになった。これもまた計算済みの時間稼ぎだったのではないだろうか。
今の時点で1990年代末から2000年代初頭にかけてのNTTのADSL対策を振り返ると、以下のような方針だったように見える。
1)まず、詭弁でも構わないからああでもないこうでもないと理屈を展開して時間を稼ぐ。時間をかせいで巨大独占事業体であるNTTが、ラストワンマイルを独占しているというメリットをフルに生かせる体制を整える。
2)その間に、ADSLが普及すれば用済みになるINSを売りまくり、少しでも投資を回収する。
3)ADSL事業者に対しては、1)局舎のADSLモデム設置場所を貸すための手続きを引き延ばす、2)ラストワンマイルの回線使用料を高止まりさせる――で経営を圧迫する。最終的には廃業に追い込むか、資本注入で傘下におさめる。多様な事業者がサービスを提供しているように見せつつ、実はすべてNTT関連企業という体制を作る。
これは独占事業体が利益を最大にすることを目的としたもっとも合理的な行動だ。だが、一般消費者の利益を最大にする行動ではない。
森山さんの指摘する東京めたりっく通信を始めとした、初期のベンチャー的事業者は、結局NTTのシナリオ通りに解体され、吸収されてしまった。そして、「ADSLもやっぱりNTT東日本と西日本のフレッツADSLだね」という雰囲気ができてきたところに、ソフトバンクが参入したのだった。
以上、メモ代わりに書いてみた。記憶に頼って書いているので、事実関係に誤認がある可能性がある。間違いを見つけた人は、コメントないしトラックバックで指摘していただければと思う。
こういう話は、本当はずっとネットをウォッチしていたINTERNET Watchあたりの関係者がきちんとまとめておくべき話だと思う。私がこの分野を専門として取材していたのは1998年と1999年の2年間だけ。後は自宅にADSLを入れるタイミングを狙ってあれこれ情報を収集していただけだから、とてもその任には耐えない。
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2004.11.21
172ページの一気編集2回徹夜はきつい。へろへろのまま起き、へろへろと飯を食い、へろへろへろと出かけていく。行く先は同人誌即売会コミティア70。デジカメ用コンバーターレンズを売る約束をしているしきしまさんが出ているのだ。夏に渡す予定だったのにうまく都合が付かずにずるずるとここまでひっぱってしまったのだった。
デジカメ用品は製品のサイクルが早い。時期をはずすと無意味となる。早めに渡さねば、と出かけた次第。
東京ビッグサイトではサイクルショーもやっている。観ていきたいがそんなパワーはなし。コミティアのとなりでは、なにやら18禁ゲームのイベントらしきものをやっている。好奇心がもたげるが、そんな体力は残っていない。へろへろへろへろとコミティア会場に崩れ込んで、しきしまさんにレンズを渡し、精算。
ちょっと会場を歩くと、当blogの第一発見者である粟岳高弘さんが出ているのを発見。挨拶する。なるほど、いかにもエッジの立った漫画を書きそうな人だな、という怜悧な印象。最新刊を買うと粟岳さん、「宇宙、全然出てないんです」としきりに恐縮する。でも、別に私がいつもいつも宇宙物を読んでいるわけではないですよ。
終了後、しきしまさん、おかちんさんと丸の内のオアゾで食事をし、少し話すが、ダメだ。全然力がでない。書かねばならない原稿が頭にひっかかって、会話も回らない。本日は大学の模型クラブOB会もあるのだが、とてもではないが出席して現役連中とさわぐパワーはない。
早々に帰宅。この一文を書いて、さあ、また火星探査機だ。
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2004.11.20
亡父が書いた原稿を、昨日掲載した通り、もう一本公開する。
「北京の景観を見て、絶対君主制を考える」という文章だ。北京の景観から説き始め、中国という国の成立を考えていくという内容だ。
この文章は1998年の3月に書かれている。
父は、中国首脳部では、朱鎔基首相を高く評価し、その一方で江沢民国家主席を「あいつはバカだ」と言ってはばからなかった。2004年9月に江沢民は国家主席を引退すると発表した。死の床についていた父は、苦しい息で「あんなバカヤロウはさっさと辞めるべきだったんだ。ざまあみろだ。辞めるのが遅すぎたよ」と毒づいた。
父はそういう人だった。
いつも通り「続きを読む」以降に掲載するので、読みたい方だけクリックして、読んでください。
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今回、父の追悼文集を作るにあたって大阪にあるプリントオンデマンドの印刷会社を使ったのだが、仕事の素早いことよ、中一日で試し刷りを送ってきた。
時間が逼迫しているのですぐに朱を入れて返送する。合わせてこちらに残っているデータファイルにも校正を反映させて送信。宅配便会社とADSLによる高速通信回線があればこそだ。
こうなってくると印刷会社などはわざわざ家賃の高い東京にいる理由はない。電話を多用するサービス窓口を請け負う会社が、賃金の安い沖縄にコールセンターを作ったという話を聞いたのは。もう5年近く昔だったはずだが、ますますその傾向は進行しているのではないだろうか。
国家安全保障という面でも分散は好ましい。新潟の地震災害を目の当たりにして、自宅の防災を考えている人は多いだろうが、もしも今、東京をあの地震が襲ったら、国家機能は麻痺する(うるさく既得権益にしがみつく中央官庁が全滅すれば、地方分権にちょうどいいという話はさておく)。国家システムは適度に分散していたほうが、打たれ強くなるのだ。
そう考えていくと、ヤマト運輸を率いて郵政省と戦った小倉会長は、実に尊敬すべき愛国者ということになる。で、うだうだと利権にしがみついた郵政省の郵便屋共はどいつもこいつも日本の国のためにならない国賊だ、と。
ホントかよ。でも、論理から言えばそうなる。
同様の論理的帰結として、孫正義率いるソフトバンクグループは、実に愛国的ではないかという結論が導かれる。そして、日本へのADSL導入にうだうだと抵抗したNTTグループは国賊の集まりだと。
ホントかよ。
でもそうなるのだ。「ヤフーBBでーす」のかけ声もさわやかに、老若男女の区別無くモデムを押し売りし、個人情報だだ漏れはおろか、孫会長自らスパムメールと見まごうメールを全ユーザーに送った、そんなソフトバンクグループだが、ことADSLの普及と低価格化という一点では、日本の通信事情を良くするのに大きく貢献した。
政府がe-Japanとかなんとかいってせっせと投資しているが、日本のIT事情を良くしたのは決して日本政府じゃない。既得権益にぎゃんぎゃんかみついたソフトバンクグループと、こりゃいかんと押っ取り刀で立ち上がったライバル事業者のおかげだ。
だから私は、昨今の携帯電話の利用周波数帯を巡るソフトバンクグループと、その他のグループの綱引きを興味深く見守っている。NTTドコモは完全に既得権益にあぐらをかきたくって仕方ないのが見え見えだ。au-KDDIも、DDI発足当時の意気は薄れ、むしろNTT以上のでろでろ独占事業体だった(なにせ国際通信を独占していたものなあ)KDDの体質が強く出てしまっているようだ。
これは是非、かませ犬ソフトバンクにかみついて貰い、奴らの尻の肉ぐらい削り取って貰わねばならぬ。いやいや、すねの骨一本ぐらい持っていってもいいかもしれない。
だが、たとえソフトバンクが携帯電話事業に参入するにしても、私が利用することは決してないだろう。独占をうち破るためとあらば多少の不便は忍ぶ決意ではあるが、個人情報をだだ漏れにされたらたまらない。
ちなみに私は東京デジタルフォン時代からの、ボーダフォンユーザーである。
愛国者とか国賊とか、本当は軽々しく使うべきではない言葉だ。しかし、こういうどきつい言葉を投げつけないと、自分がなにをしているか理解できない連中が存在することも事実である、
お前だ、お前!、INS64のサービスが始まったとき、申し込みに行ったら(パソコン雑誌で記事を書いたのだ)「アイエスディーエヌってなんですかあ。うち、そんなサービスやってないんですけど」と抜かしたNTT九段局の窓口おやじ!。あの時は他の選択肢が無かったから、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで契約してやったんだぞ。
お前、OCNエコノミーが始まったときにやはり申し込みに行ったら(これまた記事のためだった)「おーしーえぬってなんですかあ。うち、そんなサービスやってないんですけど」と言ったよな。あの時はすでに日本テレコムのODNが立ち上がっていたので、即刻日本テレコムに電話したのであった(ちなみに日本テレコムの営業さんは迅速に対応してくれた。そのテレコムも今やソフトバンクの傘下だ。ああ)。
独占の弊害かくの如し。難は雲霞のごとく多々あれど、それでも私はソフトバンクに期待しているのである。使わないけれども。
本日の課題図書。
「巨大独占 NTTの宿罪」町田 徹 (著) 新潮社 1680円
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2004.11.19
原稿執筆の合間をぬって、27日の父を偲ぶ会に配布する冊子の編集作業を行った。父が北京滞在時に書いていた文章をまとめたものだ。
執筆中の火星探査機の話が第一部を書き終えたので、第二部を書き出す前に、ととりかかった。ところが、いざ作業を始めると予想以上に大変なことがわかった。
文章の量が半端ではないのだ。色々整理したが、A4版2段組全172ページというものになった。
印刷所のスケジュールはまったなし状態だ。結局、仮眠を挟んで2日連続の徹夜という強行軍で、どうやら入稿することができた。とはいえ、プリントオンデマンド印刷のデータ入稿なので、まだまだトラブルが出る可能性もある。実際、入稿に当たってはフォント周りのトラブルが発生した。
やれやれだ。
父への供養を兼ねて、ここで硬軟2本の原稿を公開することにする。最初に柔らかい方、「心に染みる北京の朝食」を掲載する。大学教授として北京に滞在していた父が、おいしい朝食を求めて四苦八苦する話だ。
例によって「続きを読む」以降に掲載しておく。読みたい方だけクリックして、読んでみて欲しい。
火星探査機本の執筆はやっと第二部に移行した。あと少しで 1998年7月4日の打ち上げである。
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2004.11.15
イベントが終われば日常が待っているのであり、つまりは遅れている原稿をせっせと書き続けるのだ。
テレビを付けっぱなしにしていると、フジテレビが、季節はずれの心霊写真の番組を流している。
以前観たディスカバリーチャンネルの番組を思い出す。写真フィルム世界最大手のコダックが、心霊写真を収集しているという話だ。彼らにしてみれば化学反応の結果である写真に、霊が写るというのは、二重の意味で解明しなければならない問題だ。もしもそんなものが本当に写るならマーケティングに影響するし、すべてが間違いならば風評被害を阻止しなくてはならない。
長年にわたりコダックは大量の心霊写真を収集し、分析してきた。結論はこうだ。「一枚を除いて、心霊写真とされた写真のすべては科学的に説明がつくものだった」。画面に例外とされた一枚が映し出される。「この写真だけは、説明が付かない。この写真が正しいなら霊は存在する」、「が、しかしよく見て欲しい。この霊とされる女性には影が映っている」
霊に存在して貰わなければ視聴率が取れないフジテレビと、科学的に正しい懐疑主義の視点で写真を分析するコダックとどちらが正しいか――このことを判断するのがメディアリテラシーだ。
私からのコメント「恥ずかしいな、フジテレビ」。
籠もっていると話題が乏しくなってくる。テレビであれこれ書くとは、独居老人並みだ。
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2004.11.12
書き続けている火星探査機の話は、ようやく1997年末の27万人署名のところまでたどりつく。もう少しで第一部が書き終わり、やっと本番の「恐るべき旅路」へと進む。
本日は久しぶりに東京に出る。原稿が遅れに遅れているので、東海道線の中でも書き続ける。
笹本祐一さん、小林伸光さんなどと新宿で打ち合わせ。用件は明日のロケットまつりの打ち合わせなど。原稿はこれこれこのような状態だよ、と笹本さんにいうと「あんたそりゃ最終的に1000枚、場合によっちゃ1200枚の大作になるな」といわれる。「だらだら書いているんだろ」とも。
いや、そんなはずはないんだがなあ。
例えば自動車について書くとき、タイヤは通常4つであるとか、ハンドルは右側座席だが、国によっては左側座席につくなどということを書く必要はない。皆知っているからだ。
火星探査機はそうはいかない。三軸安定とスピン安定といってすぐに分かるのは本当にごく一部の人だけで、多くの人に火星探査機という機械をイメージしてもらうには丁寧に説明しなくてはいけない。しかも丁寧すぎてもいけない。簡潔でない文章はそもそも読まれないからだ。
一見へんてこに見える衛星や探査機の形状が、実はぎりぎりに引き絞られた機能追求の結果であることを、読む人に納得してもらわなくてはならない。
ってなことを言っても、まあ言い訳でしかない。長過ぎる本は読まれないので、読みやすい範囲になんとかしておさめなくてはならない。
その後3人で少々酒を飲む。なぜ女子学生は本来水兵の服だったセーラー服を着ることになったのだろうかだとか、車田正美「リングにかけろ」のばかばかしいまでの面白さだとか。オタクな話題の間に挟まるのは、アメリカの選挙のことと、中国のこと。実は今は、アメリカ、イスラエル、日本の三国同盟の時代じゃないかとか、結局はキリスト教原理主義とイスラム教原理主義がぶつかっているじゃないかとか。小林さんが「今の世界情勢は、少し前に話したらトンデモ扱いされたんじゃないですか」と言う。
帰りの電車の中でも原稿を書く。頭の中ではここ数日エンドレスで聞いている「ひょっこりひょうたん島」の歌がぐるぐる。
今日が駄目なら明日にしましょ、明日が駄目なら明後日にしましょ。
いかんいかん。それでは駄目だってば!
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2004.11.04
11月3日は、少々早いが父の四十九日法要。お寺から坊さんに来て貰い、自宅にて母と我ら兄弟のみの質素な法要を執り行った。およそ虚飾を呼びうるものすべてにあかんべえを食らわすタイプだった父には、これ以外のやりかたを思いつかない。
面白いもので、このような伝統的プロセスを踏むことで、確かに父が自分の側に帰ってきたということを実感する。正確には遺伝子を受け継ぐ自分の裡に、父と共通の部分を再発見するということなのだろうが、悪い気分ではない。
キリストの復活を、「人々の心の中に、キリストの人となりが強く蘇ること」と解説したのは遠藤周作だったが、凡人たる父と、凡人たる私の間でもミニ復活があったとも言えるのかも知れない。
義弟の自動車で、駅まで坊さんを迎え、送る。道すがら話すことは
「晴れてるなあ」
「晴れてますねえ」
「あー、バイクで箱根行きてえ」
「ボクだってクルマで箱根でも走りたいですよ」
「たまらんなあ」
「ですねえ」
ああっ、快晴!
夜は横浜に出て、天文ガイド新年号のためにJAXA/ISASの矢野創さんと対談の収録。矢野さんは「『はやぶさ』の運用当番とシンポジウムを生き延びまして」といって現れる、。「はやぶさ」の運用は、それこそサバイバルというしかない過酷なものなのだそうだ。
天ガのカメラマンである大田原さんに、矢野さんと並んだ写真を撮られる。矢野さんは、「世界で一番まつげの長い惑星科学研究者」の称号を持つ美男子なので、並ぶと私は明らかに煤ける。が、それもまたよし。終了後、天文ガイドの秋元編集長も交えて会食し、飲む。
帰途、桜木町へと歩く途中で矢野さんが言う。
「ランドマークタワーの高さが300mぐらいあるんですが、『はやぶさ』の向かう小惑星イトカワの短径がちょうど300mぐらいなんです」
矢野さんが、夜空に屹立する横浜ランドマークタワーを指さす。
「あの高さが短径で、長径が600mほど。つまり、横にランドマークタワー2つぶんぐらいの大きさがあるんですよ」そして「大体の大きさが思い浮かぶでしょ」。
見える。確かに見える。ランドマークタワーの背後に、タワーと同じほどの大きさで横にその2倍の大きさがある岩塊が浮かんでいるのをありありと思い浮かべることができるじゃないか。
そこに、あの大きさの小惑星探査機「はやぶさ」がとりつくとなると…うわあ、ぞくぞくする。
「惑星も衛星も、その大きさを実感するには大きすぎるけれど、イトカワは僕らの生活実感で想像できるぐらいの大きさなんです。そんな世界に探査機が向かうのは『はやぶさ』が初めてなんですよ」
適切な比喩は人間のイマジネーションを大きく飛躍させることができる。確かに私の酔眼にも見えた。ランドマークタワーの背後に浮かぶ岩塊に、小惑星探査機「はやぶさ」が接近していくのが。
背筋を走る戦慄とも予感とも付かないぞくぞくは、子供の頃に見た森永チョコべーのCMの衝撃と似ていた(同年代しか分かりませんね)。
すっかりいい気分で帰宅すると、ブッシュ再選のニュースが待っていた。
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2004.10.25
踏んだり蹴ったりとはこのことか。10月23日土曜日、実家に空き巣が入った。
午前中、母が1時間ほど家を空けたところ、アルミサッシのガラスを割り、クレセント錠を外して侵入、現金や母の宝飾品など、けっこうな額を盗んでいったのである。
冷静になって考えると、父がいなくなって、実家が空き巣にとって狙いやすい状況となったのだろう。実家にはかつて、祖母、父母、そして我々兄弟3人が住んでいて、母は最近にしては大家族といえる三世代を切り盛りしていた。それが、我々は独立し、祖母が大往生を遂げ、父が死に、今や母一人なのである。小さな家だが、6人がひしめきあっていた場所に、たった一人だ。
父の葬儀が終わって一月も経っていない。伴侶を失い動揺している母のところに、追い打ちをかけるようにやってくるとは。犯人に対する憎悪を押さえきれない。
幸いなことに、通帳、カード類は無事、なによりも宝飾類の中でも父が母のために買ったものは無事だった。母が少しずつ自力で買い集めたものとは別にしまってあったのである。
母が不安がるので、当分は実家に詰めている可能性が高い。なにより実家のセキュリティ強度を上げるべく、あれこれ装備しなくてはならない。システム・エンジニアをしている弟に、監視カメラでも作らせようか。浮いている旧式パソコンもあることだし。
当面の間、仕事などで私に連絡をくれる人は、電子メールまたは携帯電話にお願いします。
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