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2016.11.18

「この世界の片隅に」は大変な傑作だ

 11月12日に劇場公開となった映画<「この世界の片隅に」(監督・脚本:片渕須直、原作:こうの史代)を観てきた。
 傑作、それもとびきりの傑作だ。願わくば多くの人に映画館で観てほしい。

 物語の枠組みは、そんなに特異なものではない。昭和の初めに広島・江波で海苔養殖を営む家に生まれた主人公・すずが、昭和18年に呉へと嫁入りし、戦時下を生きていくというもの。NHK朝ドラであってもおかしくはない。アニメーションとしての絵柄も、原作の引き継いで、ほわっとしていてとがったところがない(原作も素晴らしいです。必読)。

  

 
 この映画の凄みは、その絵柄で淡々と、しかし徹底的な調査と考証に基づいて、戦時下の広島から呉にかけての生活を、街並みから音から空気感までを含めて描写していくところにある。
 冒頭の昭和8年、おつかいを言いつかった幼いすずが、広島・中島本町の船着き場で、壁に荷物を押しつけて背負うシーンで、もう私は画面から目を離せなくなってしまった。続いて描かれる中島本町の様子!——現在の平和公園があるあたり、原爆で跡形もなく消えた風景なのだ。

 戦争をしているといっても、人は生活をやめるわけにはいかない。働くし、笑うし、諍いを起こすし、御飯も食べる。季節になれば虫は空を飛ぶ。鳥もやって来る。
 そんな日常と、その日常の中に入り込んで来る戦争を、本作はいきり立つでもなくことさらに怒りを込めるでもなく、ひたすらリアルな実感をもって描き込んでいく。ごく普通の日常と、異常事態であるはずの戦争が、当たり前に併置され、淡々と描写されていく。
 観る者は「ああ、あるよね」と思って画面にのめり込んでいくうちに、昭和18年から敗戦後の21年にかけて、彼ら広島・呉の人々が感じた絶望と悲しみ、ささやかな希望を追体験することになる。

 笑えるし、美しいし、少々エロいところもある。その上で、日常の中に入り込んでくる戦争の描写はこの上なく恐ろしい。

 とにかく、すべてのシーンが「生きている」ことを実感させるように設計されている。そのことが同時に死を描くことにもつながる。呉は軍港だ。戦艦大和も艦上で多くの水兵が作業をする姿で登場する。映画を観る者は、後にあの多くの水兵達は大和轟沈で死んだのだ、と知る。

 異常が日常になっていく様子も描かれる。度重なる空襲警報に、ついに登場人物達は「また空襲警報かよ、面倒臭い」というような心底うんざりした表情をする。「怖い」のではなく「うんざり」で「面倒臭い」なのだ。
 つらくても悲しくても痛くても、一方で笑う時も暖かい時もあって、すずは死なねばならなかった人をも心に抱えて、生きていく。

 すずを演じるのん(本名:能年玲奈……というか、生まれた時から使っている本名を仕事に使わせないとした事務所ってのはどんな非常識な神経をしているのか。関係者は全員両足の小指を思いきり箪笥の角にぶつけるがよい!)は、見事なはまり役。自分が観た範囲内でここまで綺麗に役にはまった声は、「カリオストロの城(クラリス)」「風の谷のナウシカ(ナウシカ)」の島本須美以来だ。




 「この世界の片隅で」と似た感触の作品を探すと、自分は欧州戦線最悪の空襲だったドレスデン爆撃を扱った映画「スローターハウス5」(1972年、監督:ジョージ・ロイ・ヒル、原作:カート・ヴォネガット・ジュニア)、そして小説だが筒井康隆「馬の首風雲録」(1969)に思い当たる。どちらも、戦争だからといきり立ち、怒りをぶつけるのではなく笑いと不条理と、淡々とした描写で、生きるということそのものを描いていく。

  

 これら1960年代末から70年代にかけての2作品は、共にSFという枠組みを使って一度戦争体験を突き放すという手法を使っている。スローターハウス5で、主人公ビリー・ピルグリムは、自分の人生の時間を行き来する能力を手に入れ、作品はビリーの主観のままに時間軸を自由に前後する。それどころか、ビリーはトラマファマドール人という宇宙人に拉致され、彼らの動物園で見世物にされるという経験までする(そこで同じく拉致されたポルノ女優とねんごろになり、子どもまでできる)。

  

 体験を突き放す姿勢は「馬の首風雲録」ではより一層徹底していて、地球をはるか離れた馬の首星雲の向こう側にある犬型宇宙人の星で展開する、犬型宇宙人(というか、読者から観たら擬人化された犬そのもの)と地球人との戦争を描いていく。のらくろの猛犬連隊が、ベトナム戦争の米軍と戦っているような印象だ。
 さらに筒井康隆は、ベルトルト・ブレヒトの戯曲「肝っ玉おっ母とその子どもたち 」を底本として話を展開していく。17世紀ドイツの三十年戦争を舞台に、軍隊に付き従い、兵隊に物を売る商売をする肝っ玉おっ母が、ひとりひとり息子を戦争で失っていくというブレヒトが組んだストーリーを、そのまま擬人化された犬の「戦争婆さん」とその4人の息子に置き換えているのだ。
 SFとブレヒトの戯曲を使って二重に戦争を突き放しているわけである。


 強烈な体験は、痛みを伴って心に残る。痛み以外の記憶は、痛みに覆い隠される。だから体験者は「痛かった記憶」を中核にすえて体験を語る。同時にあった生活——「痛くなかった部分」は、なかなか語ることができない。時として、反戦映画が「うっとうしい」と忌避される理由だ。

 ヴォネガットは、欧州戦線に参戦し、バルジの戦いで捕虜となり、ドレスデン爆撃を体験した。1934年生まれの筒井康隆も、戦場は知らないまでも戦争を身を以て知る世代だ。彼らが1970年頃に、痛くない部分——格好いい戦争、勇ましい戦争、愚かな戦争、笑える戦争、戦争と共にある日常——を含めて戦争を語ろうとした時、どうしてもSFその他の仕掛けを使って、戦争を一度突き放す必要があったのだろう。

 「この世界の片隅に」は、SFという仕掛けを使うことなく、淡々と「あの時そこであったこと」を描いていく。
 戦後70年という時を経てはじめて可能な作業だったのだろう。また、その作業を完遂するにあたっては、1960年生まれの戦無世代で、緻密な航空史研究家という顔も持つ片渕須直という人がどうしても必要だったのだろう。

 為すべきことを、為すべき人がした映画だ。幸い観客動員は好調とのことで、上映館数も増えるそうだ。

 観に行きましょう。





おまけ:この映画、宮崎駿監督の「風立ちぬ」とも並列に語ることができると思う。色々な意味で対照的なので。

 二郎と菜穂子、周作とすずの関係とか。
 「動きに淫している」といってもいいほどすべてがぬめぬめと動く「風立ちぬ」と動きをあくまで体感のリアリティに寄せていく「この世界の片隅に」とか。
 一番肝心な部分をラストにカプロニが語る「君の10年はどうだった」というセリフひとつに集約した「風立ちぬ」と、肝心な部分を全て描き切った「この世界の片隅に」とか……。

 なんでも、スタジオジブリで宮崎監督の軍事知識に対抗できたのは片渕監督だけだったそうで、この前のNHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」と合わせて考えるに、今頃宮崎監督が「片渕やめろ!俺より面白い映画を作るんじゃねぇ!!」と転げ回っていると面白いな、と……宮崎監督の新作があるという2019年を期待しましょう。
 

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2015.10.03

TSUTAYA管理の海老名市立中央図書館を観察してきた

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 久しぶりにブログを更新する。

 本日2015年10月3日、海老名市立中央図書館に行ってみた。佐賀県武雄市の図書館に続いて、レンタルチェーンのTSUTAYAが指定管理者となり管理を行う2つめの図書館で、この10/1にTSUTAYA管理下で稼働し始めた。
 武雄市の図書館は不明瞭な選書や、貴重資料の破棄など色々な問題が噴出している。
 私は仕事がら近隣の複数の図書館を頻繁に利用しているので、TSUTAYA問題は他人事ではない。図書館が図書館として機能しなくなったならば、私にとって死活問題である。このため指定管理者としてのTSUTAYAにはどの程度の能力があるのかには大変興味があり、2時間半ほど滞在して可能な限り観察してきた。

 私の結論を先に書くと、海老名市立中央図書館で見たものは、図書館の形をした図書館ではないものであった。手塚治虫が「マグマ大使」で描いた“人間モドキ”が人間ではないように、そこにあるのは図書館ではない“図書館モドキ”である。
 ひとつ、午後9時まで開館しているという美点があるが、それも図書館が図書館として機能していればこそ意味があることだ。

 海老名市立図書館は4階建て。1階が“売り”であるスターバックスとTSUTAYA書店、地下階(おそらくはかつての閉架式書庫)が文芸、2階と3階がその他の書籍で、4階が児童書という構成になっている。玄関入ったところの一等地をTSUTAYAの商業スペースが占めており、本来もっとも入りやすい場所にあるべき児童書が4階というあたりに、TSUTAYAの図書館に対する姿勢がはっきりと出ているように思える。
 また図書販売と図書館のスペースは床の色を変えるなどして画然と分けるべきが別れていない。4Fの児童書のところにも販売スペースがあり、ここも視覚的に販売と図書館が分離していない。子どもはかなり戸惑うだろう。
 ただし、児童書コーナーは棚も机も低く、子どもに合わせてある。以前から建物の設計がそうなっていたのか、それともTSUTAYAが意図してそうしたのかは不明である。


 この図書館最大の問題は、欲しい情報に行き着くのが通常の公立図書館と比べて難しいということだ。図書館本来の機能が損なわれているのである。
 まず、本は通常の日本十進分類表(NDC)ではなく独自の分類で配列されている。これがかなりいい加減で、どの本がどこにあるか分かり難い。
 NDCはなかなか良く出来た分類で、これに従っている限りどこの図書館にいってもどのあたりにどんな本があるか見当が付くものだが、海老名市立図書館では全く見当がつかない。分類は「旅行・暮らし・趣味」「料理」「建築」などのキーワードで行われているが、どうも分類は内容を見ずにタイトルで機械的に行っているらしく、本が変な棚に分類されているのを多々発見した。

 こうなると、目的の本を探すには検索機を使うことになる。が、これがまた色々問題含み。
 検索機は本棚に埋め込んだタッチパネル形式のもの。まず、トップメニューに、図書館蔵書と1階のTSUTAYA書店の在庫の検索が同じ大きさで表示されている(ここは“本屋も附属する図書館”であり“図書館の附属する本屋”ではないはずだが)。
 そこで蔵書を検索すると、「どこにその本があるよ」というディスプレイ表示が出るが、この表示がわかりにくい。
 検索機には印刷機能があるので、感熱紙のプリントアウトを出して、本を探すことになる。ところがこれもまた非常にわかりにくい。

Ebina_sheet 左は、検索機のプリントアウト。例に取ったのは、拙著の「コダワリ人のおもちゃ箱」(エクスナレッジ刊)だ。まず、印刷された館内地図が分かり難い。NDC分類だと本の番号がわかればそれを頼りに書棚を探し、番号順にたどることで本を見付けられるが、独自分類を行っているので通常の手段が使えない。
 プリントアウトには本棚の番号が記載されているので、これを頼りに場所を探すことになる。ところが、これで分かるのは棚の位置だけで、「棚の中のどの位置に本があるか」は片っ端から見ていかなければならない。
 やっと探し当てた「コダワリ人のおもちゃ箱」は、パソコンの棚にあった。この本は趣味を追求して突き抜けてしまった人々を訪ね歩いたノンフィクションなのだが、なぜかパソコンの棚に入っていたわけである。
 プリントアウトには拙著がNDC分類で504(技術・工学の論文集. 評論集. 講演集)に分類されていることがはっきり記してある。内部的にはNDC分類も記録してあるらしい。

 どうも、本の整理方法はTSUTAYA書店のものをそのまま流用しているのではないかと思われる。おそらく最大限に本を売るために作り上げた書店用の整理手段を、そのまま機能が異なる図書館に適用してしまったのではなかろうか。

 図書館は必要とする情報を、すぐに引き出せることが第一である。この機能を持っていない以上、TSUTAYAが管理する海老名市立図書館は、図書館ではない。“図書館モドキ”と形容する所以だ。


 その他、すでに色々指摘されている選書を初めとして、問題は数多い。以下、図書館内の観察しつつ書いたメモを整理して掲載する。

  • なぜか旅行ガイドブック類が多い。大量の「地球の歩き方」があったが、同じ地域が3冊も4冊もあり、しかも年次がばらばら。例えばアメリカ版では2011年版が入っていてた。以下、中国も2011年版、スイスは2009年版があった。一年違うと役に立たないものだし、資料的価値があるとしても、これは地方図書館が限られた書架スペースを使って収蔵すべきものではない。

  • すでに指摘がある通り、IT・パソコンの棚は死屍累々。Windows98、Me、XPの解説書などが収蔵されている。以下確認できた限りで、Mac OS7.6やMacOSX 10.1、Word2000、Office2003、Photoshop5.0 /6.0の解説書など。一番古い本は、と思ってざっと見ていくと1997年のフリーウエア解説書や、よくわかるThe CARD for Windows95 などという本もあった。
     これらは、TSUTAYAが管理者として入る以前からあったのかも知れないが、リニューアルで選書・破棄できたはず。以前からあったならTSUTAYAは管理者として適切な選書ができていないし、TSUTAYAが新規に海老名市に購入させたものならば、図書館にどのような本を収蔵すべきかのポリシーがまるでなっていないということになる。

  • 資格試験類のHow Toものの棚に1994年及び1998年版「資格の取り方」があった。「資格試験ガイドブック2002年度版」も。イミダスはなぜか2007年度版のみがあった(現在イミダスは紙の出版を終了してネット上へと移行している)。

  • 本の並び。なぜか殺人関連のノンフィクションと戦記ものが並びになっている。気象・地学と天文学の棚が全く別の場所にある。日本動物誌(日本に住む動物の一覧)と、アイザック・アシモフの選集とUFO関連図書が同じ「エコロジー」の棚に並んでいる。時計関連は技術ものもまとめてファッションの棚にある。

  • 地下の文芸関連の書棚で、全集はほとんどが手の届かない高い棚に置かれている(以前は閉架にあったものか?)。下から見上げると一番上の棚は本の題名も読みにくい。開架になっている意味なし。

 現在の公立図書館に様々な問題があることは知っているし、TSUTAYAがその問題に対する解決策としてこのような図書館運営を提案したことも理解できる。が、私が今日見たものは図書館のふりをした図書館ではないものだ。
 一番恐ろしいのは、このような図書館モドキが普及し、人々が「これが図書館だ」と思い込んでしまい、本来の図書館を忘れてしまうことだ。その時、本来の図書館は「こんな辛気くさい場所は図書館ではない」と一般からの攻撃の対象になるだろう。

 私は図書館には図書館の機能を求める。本が欲しければ本屋に行くし、コーヒーが飲みたければスターバックスに行く。本を買うため、コーヒーを飲むために図書館には行かない。
 図書館は長い歴史の中で培われ、知の集積場所としての機能を洗練させてきた。TSUTAYAのこの事業の担当者はそのことを知らないのか、知ろうとしないのか、図書館ではないものを図書館であるとして、図書館の運営に悩む地方自治体に売り込もうとしている。

 かつて拙著「電子書籍についての15の考察~次世代にいかに情報を引き継ぐべきか」の中で、電子書籍時代に図書館はどうあるべきかという問題を論じた。まさか現実において「電子書籍とどう向き合うか」という問題以前のところで、「コーヒーショップとしての図書館モドキ」が出現するとは思ってもいなかった。

参考リンク
海老名市立図書館に行ってみた

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2012.08.19

「自転車2.0」と「自転車3.0」

 新著「のりもの進化論」が発売されました。一部の方にはもうお手にとって頂けましたことと思います。

 残念ながら私の本はいつも部数が少ないのでなかなか実書店でぱっと見付けることがむずかしい。しかも、すぱっと既存の分類に収まる話を書いているわけではないので、本屋のどの棚に行けばあるのか迷うこともあるだろう。そういう方はネット通販が便利だ。

 今回の主題。「のりもの進化論」では「自転車2.0」と「自転車3.0」という新しい概念を提示したが、それってどんなものなのか。

 本文中は以下のように定義した。

  • 自転車2.0:以下の特徴を持つ人力の乗り物
    • 徹底した走行抵抗の軽減
    • 可能な限りの軽量化
    • 洗練された制御系を持つ電動アシスト
  • 自転車3.0:自転車2.0をソーシャル化したもの

 既存の電動アシスト自転車に似てはいるが、自転車形状にはこだわっていない。極端な話、電動ローラースケートでもいいし、足漕ぎボートがベースでもいい。また、基本的に現在の電動アシスト自転車にかかっている出力規制は無視している。「洗練された制御系」というのは、その時々の状況に合わせて最適なアシストを提供するという意味だ。本体附属のセンサーで運転者の体温や脈拍に応じて最適なアシスト、場合によってはオートマによる最適なギア比提供を行うことも考え得る。
 自転車3.0のソーシャル化というのは、ネットによって提供される様々な情報を駆使して、運転者に最適な移動を提供するという意味だ。カーナビのようなナビゲーションを手始めに、雨を避けたり、向かい風を受けにくい道を選んで走ったり、坂の多い経路、少ない経路を選べたり、暑い日は日陰になる区間が長い経路を示したり、ということだ。

 そんな乗り物が、ありうるのか。ありうるとしたらどんなものになるか、そのような乗り物を社会が受け入れるには社会インフラの側はどのように変化する必要があるか、法制度はどうあるべきか、といったことを本書では考察してみた。

 キーワードとして「アリストテレス号」と「ニュートン号」という仮想の乗り物を想定し、考えを進めている。

 この考え方が正しいのかどうか、私としては多くの人に考えてもらいたいと思っている。


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2012.08.17

宣伝:8/18に新著「のりもの進化論」(太田出版)が発売されます

Norimono

 立て続けですが、こちらは単著です。以前ワイヤードビジョンに掲載した連載「松浦晋也のモビリティビジョン」(連載時の記事はリンク先で読めます)を下敷きにして大幅改稿した、「人間にとって、社会にとって、移動とは何か?よりよいモビリティとは?」を考察する一冊です。元々は、乗り物について気楽に書いていくという趣旨だったのですが、だんだんモビリティと社会、モビリティと法律、地震や津波のような大規模災害とモビリティ——とテーマが拡がり、本書の最後では都市の空間デザインや、社会全体のエネルギー消費とモビリティというところにまで踏み込むことになってしまいました。

内容紹介
リカンベント、ベロモビール、電動一輪車、HSST、ツボグルマ……科学ジャーナリストとして活躍する著者が送る、乗って、見て、考える 体験的のりもの考 !

【目次】


  • 序章
  • 第1章 自転車進化論
    自転車の有用性を再考する/ハードウェアとしての自転車/「乗る」と「持ち運ぶ」の狭間で/自転車と社会制度/人力が持つ大きなモビリティの可能性
  • 第2章 アリストテレス号からニュートン号へ
    Human Powered Vehicleの可能性/来るべき「自転車2.0」/「自転車2.0」を可能にする社会
  • インターリュード 目的に対する最適デザインとユーザーの慣れについて
  • 第3章 自動車を巡る基本的な構図
    自動車と道路は不可分、ではそのコストを払うのは誰?/大きくなる自転車/「ツボグルマ」の理想と現実/自動車を小さくするために/電気自動車の将来性と、その社会的費用
  • 第4章 新たな利便は創出されたか
    たそがれ未来のモノレール/いいモノレール、悪いモノレール/間違いの根本にある顧客不在/便利な公共交通機関を手に入れるために
  • 第5章 住みたくなる街のモビリティ
    甦る路面電車/悩ましきコミュニティバス/よりよく動く、よりよく住む、よりよく生きる/「幻想吉祥寺」の都市計画/ミニマムエネルギー、マキシマムモビリティ
    あとがき

 本書の中で提案している「自転車2.0」「自転車3.0」という新しい移動手段の概念については、同時期の別連載「人と技術と情報の界面を探る」(PC Online)でも考察しています(連載時の原稿は無料登録をすれば読めます)。
 このPC Onlineの連載も、大幅改稿の上で電子ブック「格安自転車を使うことで失われる3つの感覚〜自転車2.0への提言 」に収録してあります。併せて読んで頂ければと思います。

 連載時には“次の自転車”として、ティム・オライリーを真似て「自転車2.0」という言葉を使ったのですが、今回本書を執筆中に「さらにその先があり得る」と気がついて、新たに「自転車3.0」という言葉を使った次第です。
 このあたりは、自分が各種自転車やリカンベントに乗っていなかったら気がつくことはなかったでしょう。「実際に乗ってみる」ことはとても重要です。

 ともあれローラースケートやスケートボードから、自転車に電動アシスト自転車、「自転車2.0」に「自転車3.0」、自動車、鉄道、モノレール、新交通システム、路面電車などなど、「移動する道具」とその未来について横断的に色々考えてみたよ、という本です。

 読んで頂ければ幸いです。

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2010.06.28

pixivに投稿されたはやぶさたち

 「はやぶさ」は日本で本格的なネット普及が始まった後の2003年打ち上げということもあり、ネットで一般が盛り上がり、熱狂した最初の探査機となった。2005年11月の小惑星イトカワへの着陸の時には、有名になった「おつかいできた」を初めとして様々なイラストがネットで公開されたことは記憶に新しい。

 pixivというサイトがある。プロ、アマを問わずイラストレーターやマンガ家が集まって、自作を公開する場だ。登録制で、大きなイラストを見るためには登録を行う必要があるが、縮小された画像ファイルで絵の概要を見ることは、登録なしでもできる。

 ここではやぶさと検索すると、なんと985件も見つかる。毎日数枚ずつ登録は増えており、数日中に1000件に到達するだろう。この中には鉄道の「はやぶさ」(ブルートレインや新幹線)も入っているのだが、かなりの部分は小惑星探査機の「はやぶさ」だ。
 小惑星探査機はやぶさでの登録は43件。「はやぶさ」「小惑星探査機はやぶさ」で重なって登録してあるイラストもある。このあたりはかなり緩い。

 もちろんというべきか、「おつかいできた」も作者の手によって登録されている。

 やはりというか、擬人化したイラストが多い。男の子女の子、子供からグラマーまで、さまざまな「はやぶさタン」が描かれている。

 私が気に入ったのはこの一枚。


 帰還時のはやぶさの輝きが、適度に様式化され、その下を老若男女が走っていく。童画風でもあるし、モスクワの宇宙飛行士記念博物館外壁のレリーフを思い起こさせもする。確かにはやぶさは、こんなミッションだったなと思うのだ。

P1030410 モスクワの宇宙飛行士記念博物館。てっぺんにロケットの造形を載せたモニュメントで根本部分が記念博物館になっている。

P1030404
外壁のレリーフ。右から、科学者が計算し、技術者が設計し、労働者が建造し、そして宇宙飛行士が搭乗して飛び立つ、という内容になっている。

 気に入ったので、自分のパソコンの壁紙に設定してみた。

 ちなみにpixivを、川口淳一郎で検索してみると…愛されているのが、探査機のみではないことが分かる。


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2009.07.20

コンサート:101年目からの松平頼則 II

 7月16日木曜日、表題のコンサートに行ってきた。去年のコンサート「101年目からの松平頼則 I」に続くもの。いやもうなんというか、とにかく面白かった。

 松平頼則(まつだいら・よりつね、1907-2001)については、去年の演奏会についての記事で書いた通り。20世紀初頭に生まれ、文字通り“松平的”としか形容のしようのないオンリーワンの音楽を精力的に書き続け、94歳の天寿を全うした作曲家だ。私の尊敬する作曲家の一人である。

 昨年から音楽評論家の石塚潤一氏が、この「101年目からの松平頼則」という音楽会のシリーズを立ち上げた。今回はその第2回目。松平の作風は1951〜52年前後を境に、フランス風の和声を駆使した新古典的なものから、雅楽と12音技法を結合した前衛的なものに2分することができる。今回のコンサートは前期からの室内楽3曲、後期から独奏曲と大規模室内楽を各1曲というもの。



101年目からの松平頼則 II
日本音楽史上の奇蹟・松平頼則再び 〜大編成室内楽作品を交えて〜

2009年7月16日(木) 19:15 開演 (18:45 開場)
杉並公会堂 小ホール (荻窪駅北口徒歩7分)
全席自由:前売り3000円、当日3500円

主催:<101年目からの松平頼則>実行委員会
後援:上野学園大学
協賛:<東京の夏>音楽祭 SONIC ARTS
助成:財団法人 野村国際文化財団 財団法人 ローム ミュージック ファンデーション

プログラム


  • 「セロ(チェロ)・ソナタ」(1942/47)
    多井智紀(vc)、萩森英明(pf)

  • 「フルート・バスーン・ピアノのためのトリオ」(1950)
    木ノ脇道元(fl)、塚原里江(fg)、井上郷子(pf)

  • 「弦楽4重奏曲第1番」(1949)
    甲斐史子(vn)、亀井庸州(vn)、生野正樹(va)、多井智紀(vc)

  • 「3つの律旋法によるピアノのための即興曲」(「律旋法によるピアノのための3つの調子」)(1987/91)
    井上郷子(pf)

  • 「雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ」(1982)
    木ノ脇道元(fl)、宮村和宏(ob)、中秀仁(cl)、塚原里江(fg)、川崎翔子(pf)、甲斐史子(vn)、亀井庸州(vn)、生野正樹(va)、多井智紀(vc)、溝入敬三(cb)、石川星太郎(cond)

 今回のコンサートの曲目解説はこちらで読むことができる

 松平は、戦後すぐから清瀬保二などの仲間と共に新作曲派協会という作曲家の団体を組織し、その演奏会で、次々に室内楽を発表していく。
 新作曲派協会というのは、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次といった、音楽学校(現在の東響芸大)とは無関係に自学自習で作曲家になったメンバーが集まって結成した作曲家グループ。後に若き日の武満徹も親友の鈴木博義と共に加入している。武満のデビュー作「2つのレント」は新作曲派協会第7回作品発表会(1950年12月)で、初演されている。

 今回のコンサートで演奏された、「チェロソナタ」「トリオ」「弦楽四重奏曲1番」という新古典的な作風の3曲は、すべて新作曲派協会演奏会で初演されたもの。

 チェロソナタは(新作曲派協会第1回作品展で初演)は、昨年の第1回で演奏された「フリュートとピアノのためのソナチネ」と同様の、瑞々しさを感じさせる曲。とはいえ、初演時に作曲者は40歳になっている。松平特有の増4度音程で調性をあいまいにされた和音の使用が目立ち始めている。

 フルート・バスーン・ピアノのためのトリオ(新作曲派協会第6回作品展で初演)は、フランス流の流麗な和声と自己主張とを完璧に折り合いを付けて作品に仕上げている。大変に洒脱な曲で、あえて影響というならばフランシス・プーランクに似ていると言えないでもない。

 そして、この日一番面白かったのが、弦楽四重奏曲1番(新作曲派協会第4回発表会で初演)。曲目解説では「ラヴェルの弦楽4重奏曲という鋳型の中に自分の表現を流し込もうとした」と書いているが、まさにその通り。モーリス・ラヴェルの弦楽四重奏曲と同じ4楽章構成というのみならず、音楽のかなり細かいところまでがラヴェルに対する換骨奪胎になっている。特に第1楽章と第4楽章は、細かいフレーズの繰り返しや、緩急の付け方とか、主和音への持って行き方とかで、ふわっとラヴェルの曲そっくりの雰囲気が流れたりするのだ。ビートルズに対するラトルズというか、マイケル・ジャクソンに対するアル・ヤンコビックというか。

 それは、一面では単なる真似やパロディになってしまう危険性もある行き方だが、結果としてこの時期の松平の個性が、ラヴェルの陰影を伴って現れるというか、なんとも形容のし難い絶妙のハイブリッドとして立ち現れる曲となっている。
 第2楽章は、4人の奏者が違う調性で多声音楽を展開する、多分にダリウス・ミヨーの影響を感じさせるもの。雅楽の越天楽を主題とし、ポルタメントを多用する第3楽章は、後の彼の雅楽と前衛技法との結合を予告するかのような、非常に面白い音楽に仕上がっている。

 ちょっと残念だったのは、演奏の4人が今回のためにアンサンブルを組んだメンバーであったこと。常設でカルテットを組んでいるメンバーだったら、もっと相互に緊密な演奏をしてくれたろう。

 ここからは、松平が前衛的技法を採用して、より抽象的な作風へと転じていってからの2曲。

 「3つの律旋法によるピアノのための即興曲」は、昨年のコンサートで演奏された「呂旋法によるピアノのための3つの調子」と対になる作品とのこと。「呂旋法によるピアノのための3つの調子」が、前衛の極北のような厳しい響きだったのに対して、こちらは、アクセントや長音で強調される音を追っていくと、無調的な十二音の響きの中から雅楽の旋律が立ち上ってくる。

 最後の「雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ」は、私としては始めて聴く松平の大規模室内楽。舞台中央にピアノ、右側に弦楽五重奏。左側に左端からフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットと並ぶ。
 曲は雅楽「輪鼓褌脱」による。序奏と12の変奏曲、終曲という構成。各セクションごとに編成が変わる。ある部分は右側の弦楽五重奏のみ、ある部分はピアノと左側の木管のみ。フルートとクラリネットのみになったり、オーボエとファゴット、弦楽のみになったりと変化していく。

 複雑な連符でぽんぽんと音が大きな音程で跳躍する様は、極めて現代音楽的だが、結果として出てくる音楽は、雅楽的で、かつ松平的としかいいようのない個性的なものになっている。音楽を貫くすべての時間、全ての瞬間に濁りがなく、透明な水晶のような印象を与える。本当に素晴らしい。

 作曲者が94歳の長寿を全うしてから8年、生誕から数えれば102年になるにも関わらず、彼の音楽の一般における受容は進んでいるとはいえない。

 松平頼則という人は、それこそ歴史が始まって以来誰も思い描かなかったであろう“松平的”としか形容のしようがない音楽をエネルギッシュに量産し、そして天寿を全うした。

 こういう人は、もっと評価され、尊敬されてしかるべきだと強く思う。願わくばこの「101年目からの松平頼則」のコンサートが、「III」「IV」「V」と続かんことを。


 最後に、前回のコンサートの記事でも掲載した、松平頼則関連の資料を。

 まず石塚潤一氏の文章。

 残念ながら、この1年間で、松平の作品は1枚もCDが出ていない。今回も松平の音楽の入門用の紹介するのは、ナクソスの「日本作曲家選輯」に収録されたこの1枚ということになる。
 松平にとって音楽作法の転回点になった「ピアノとオーケストラのための主題と変奏」、そして雅楽と十二音技法を結びつけた代表作の「右舞」「左舞」が収録されている。
 「主題と変奏」はフランス風の和声を駆使した美しい音楽から、尖った前衛的音楽へと傾斜していく過程の曲。第5変奏では「越天楽」のメロディがブギウギのリズムで演奏される。越天楽からフランス風の優美な和声、ブギウギから十二音技法までというごちゃごちゃさ加減がなんとも面白い曲。実は指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが演奏した、唯一の邦人作曲家の作品でもある。
 「右舞」「左舞」「ダンス・サクレとダンス・フィナル」は十二音技法の厳しい音が続く曲だが、音楽の基本形状が雅楽なので、前衛音楽という意識を持たずに気楽に聴くことができる。

 ナクソスは、音楽のネット販売にも積極的であり、このアルバムもiTunes Music Storeで購入することができる。

Matsudaira Bugaku Dance Suite:iTMSへのリンク
 こちらは900円とCDよりも安いし、試聴することもできる。

 今回、帰宅後に手元の蔵書「日本の作曲家たち」(秋山邦晴著・音楽之友社1978年)の松平頼則の章を読み直した。すると、秋山が「今の自分には、新古典期の松平の曲に触れようもないが」としつつ、「ピアノとオルケストルの為の変奏曲」(1939年)に対する早坂文雄の批評を引用していた。

 30年前の作曲者70歳の時点では、武満・湯浅譲二などの盟友だった秋山にして、松平の前半生の作品を聴くことすら敵わなかったのだ。

 私は昨年4月、オーケストラ・ニッポニカの演奏会で、この曲の実演を聴くことができた(ちなみにCDは、かつてフォンテックから芥川也寸志指揮、新交響楽団の演奏が出ていた。現在は残念ながら入手できない)。

 そして、去年と今年の石塚氏によるコンサート!

 ほんの少しずつではあるけれども、松平頼則と彼の音楽を巡る状況は良くなって来つつあるのかも知れない。

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2009.06.23

訂正:MMDオリジナル振り付けについて

 訂正です。

 前回「MMDから新しいダンスの振り付けが生まれ、「踊ってみた」というビデオがアップされる状況になっていない。」と書いたが、これは事実誤認だった。

 コメント欄でcocoonPさんから指摘され、確認したのだが、まず「MMDから新しいダンスの振り付けが生まれ」という部分は、オリジナルの振り付けがかなりの数、投稿されている。MMD振り付けというタグが、オリジナルの振り付けを探す鍵だった。

 「『踊ってみた』というビデオがアップされる状況」については、まだきちんと探せてはいないのだが、いくつかMMDで発表された振り付けを実際に踊った例を確認した。

 私の事実誤認である。

 何が間抜けって、MMD杯の動画をチェックしている時に、この動画もちゃんと観ていたのだ。

 ところがLove and Joy関連の動画を追っかけているうちにすっかり記憶から抜け落ちしてしまっていたのであった。我ながら全くもって情けない。

 cocoonPさんのコメントには、「実際にモーションを作っているMMD界隈の仲間たちが、あなたのこのエントリを見て悲しんだり怒ったりしている」とあるが、もしもそのような方がおられるなら、大変申し訳ありませんでした。

 なぜこういうことになったかを考えてみるに、「音を扱う音楽=ミクオリジナル曲と、体の動きを扱う振り付け=MMDによるオリジナル舞踏との間に、なにか人間の側の情報処理の仕組みに大きな違いがあるのではないか」ということを考えていたからだろう。

 ラマチャンドランによる幻肢痛の治療に見るように、「自分で、自分の体を『これは自分のものである』と認識するメカニズム」は、なかなか一筋縄ではいかないものだ。新たな振り付けの創造にあたっては、そこに「自己の肉体を自己として認識する仕組み」が大きく影響しているのだろう。

 ボーカロイドは、「歌う」という行為を仮想化してパソコン上で(ある程度の精度で、ではあるが)再現することに成功し、その結果ボーカロイドによるオリジナル曲がアップされ、さらに「歌ってみた」という形で現実の歌声に遡上するという現象が起きた。

 では、MMDは「踊る」という行為を仮想化してパソコン上で再現することに成功しているのか。その結果オリジナルの振り付けがアップされ、さらに「踊ってみた」という形で現実の舞踏に遡上しているのか?

 そこで、「人体における歌声と舞踏との自己認識が異なるなら、現象として違うことが起きているのではないか」というのが、私の作業仮説だったのだ。ところが、Love and Joy関連の動画を追っかけているうちに、「違っているに違いない」という先入観に陥ってしまったようである。
 そこには、自分がMMDをいじったときに手こずった経験も投影されているようだ。実際、自分でやってみるとミクが思っていたように動いてくれなくて、ずいぶんと苦労した。

 ただ、ここまで短時間でざっと見ただけなのだが、確かにMMDによる投稿は、ボーカロイド曲の投稿に比べて数が少ない。そして「歌ってみた」と「踊ってみた」を比べると、「踊ってみた」はずっと少ない。

どのタグで比較するかによるのだが——
2009年6月24日時点で、


  • 初音ミク:50,319件
  • MikuMikuDance:5,544件
  • 歌ってみた:128,738件
  • 踊ってみた:16,209件
  • ミクオリジナル曲:1,036件
  • MMD:221件

 だいたい規模として、1/10から1/5程度と判断していいようだ。大まかに言って「桁が違う」わけである。

 これが、cocoonPさんの指摘したような敷居の高さのせいなのか、それとも私が考えていたような「人間の自己認識の仕組みの違い」のせいなのかは、現状ではなんともいえない。そもそも「自己認識の仕組みが違うから敷居が高くなる」のかもしれないし——これ以上は、別の切り口のデータが必要になるだろう。例えば、ミクを使ってDAWで作曲している時と、MMDで新しい動きを考えている時にそれぞれ脳波の多点計測をするとか。

 「歌と踊り」とまとめられることも多いし、実際これらは切り離しがたいものではあるのだが、このような差異が存在する。それもニコニコ動画ではっきりと見えてくる。その差が、私にとって面白かったのだけれど、でも、先入観で事実を誤っては話にならない。反省しきりだ。

 罪滅ぼしの意味も込めて、ラジPによるオリジナルの振り付けをいくつか紹介する。これは手練れの作品だ。なかなかMMDでこうは動かせない。



 ラマチャンドランが、自らの研究を一般向けに解説した本。人間の脳が、自分や世界をどのようにして認識しているかを、彼は独創的な数々の実験を通じて明らかにしてきた。ものすごく面白く、かつエキサイティングである。読んでない人は是非とも読むべき名著だと思う。

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2009.06.15

アイマスMadふたたび

 前回ニコ動のアイマスMadを紹介したのはいつだっけ、と調べてみると、昨年の大晦日だった。

 というわけで以下はこの5ヶ月半ほどの間に見つけてブックマークしておいたアイマスMadを紹介する。


 フェリーニPの作品。この半年ほどで一番気に入ったアイマスMadである。キャラクター達とロイ・リキテンスタインのポップ・アートの組み合わせが意表を突く面白さを生み出している。音楽の選択もぴったりだ。


 同じくフェリーニPによる、同じ「ドゥーピータイム」を使った作品。キャラクターらによるファッションショーという趣向で、これまたなかなか。


 「im@sclassic」からは、まずmoguPの作品。繊細で美しい映像だ。冨田勲の「月の光」でアイマスキャラのひとり、水瀬伊織が幻想的に踊る。


 我が道を行くカルミナPの新作は、なんと三善晃の吹奏楽曲だった。複雑なリズムの曲に、三色の衣裳をコーディネートしたセンスが光る。


 つかさPの作品。これもなんでこの程度の再生数に留まっているのか良く分からない傑作。1980年代のミュージックビデオを思わせるストーリーを伴う映像だ。


 同じくつかさPのこれまた素晴らしく切れの良い映像だ。再生数が伸びているのは「 音m@s撫子ロック祭」というイベント合わせの作品だかららしいが、それとは関係なく大変優れた演出だと思う。


 もう一本、「 音m@s撫子ロック祭」の参加作品から。wacわくPの作品。同じ曲を使っても、これだけ異なる映像に仕上がるという例。シルエットを使ってほどよく抽象化された美を展開する。


 ナオキPによるこの作品は、大分以前に投稿されアイマスMadの世界では傑作と評価されていたそうだが、私は最近まで知らなかった。スローモーションを多用する独特の映像美学の持ち主だ。

 色々とアイマスMadを漁って思うのだが、投稿された作品の質と再生数はある程度関係するものの、基本的には別らしい。「なんでこんなに素晴らしい作品が」と思うものが、再生数が伸びていなかったりする。
 再生数は話題になったかどうかのバロメーターなのだろう。つまり話題になってわっと再生が伸びるということと、作品として優れているかどうかは、あまり強く相関していない。

 これは大変にもったいない話だ。ニコニコ動画は「みんなが見ているものを見る」のではなく、「優れたものを自分で探す」という態度でいれば、非常に素晴らしい作品に出会える場所なのだから。



 最後にネタ動画を。「家具の音楽」として有名なサティの「ヴェクサシオン」に、実にそれっぽい動画をつけたもの。さあ、これを840回繰り返して聞いてみよう。私はイヤだけれども。

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2008.12.31

アイマスMadに魅せられて

 昨日NHKで高専ロボコン全国大会を見た。
 NHKの腐敗もここまできたか。

 鹿児島高専が「篤姫」ネタで来たからといって、それに10分以上の時間を割き、あまつさえ本編の映像まで流すとは。ここはいくら「宣伝になる!」と算盤を弾いたとしても、さらりと流すのが公共放送の矜持だろう。

 そして、ゲストが全員邪魔。私は高専生と彼らの作ったロボットとその戦いが見たいのであって、稲垣吾郎がマスタ・スレーブに驚く様を見たいのではない。全試合バージョンを、新年1月2日の午前10時15分〜午前11時44分でBS-2で放送するとのこと。ゲストの出演を切れば、全試合を地上波で放送できたろうに。

 年末に紅白歌合戦などを見るよりもニコニコ動画で過ごした方が数等ましというものだろう(結局それかい)。以下、というわけで、初音ミクを離れて「アイマスMad」の話。

 ニコニコ動画の三大勢力は、初音ミク以下のボーカロイドに「アイドルマスター」、そして「東方」なんだそうだ。東方というのは、一連の「東方●●」という名前の同人シューティングゲームで、その音楽が格好良いということで追従者を生み、一連の「東方系」と呼ばれる音楽ジャンルを形成したらしい。「…らしい」というのは、私はあまり東方系の音楽がピンとこないので、きちんと聴いていないのだ。

 そして「アイドルマスター(THE IDOLM@STER:通称“アイマス[im@s]”)」はナムコ(現バンダイナムコ)の開発したゲームで現在はXBOX360用に販売されている。音楽プロデューサーになって女の子キャラクターを一流アイドルに育てるという育成ゲーム。
 特筆すべきは、3Dグラフィックスで踊る女の子達が、いわゆる「不気味の谷」をうまい具合にごまかして、それっぽく、かわいく見えること。そこで、ゲームマシンからの画像をパソコンでキャプチャーして、あれこれ加工して別の意味を与えた「Madビデオ」がニコニコ動画に氾濫し、現在に至るというわけだ。

 この「アイマスMad」達、もちろん玉石混淆なのだが、選んでみていくとアマチュアとは思えないほどの高品位の映像作品が見つかったりもする。私の場合は、「im@sclassic」というタグを見つけたことが、この世界に踏み込むきっかけだった。


 「im@sclassic」タグから、このカルミナPの作品を見つけたのだった。正直、独自の美意識を貫徹した出来映えにびっくりした。ラヴェルの「クープランの墓」から他の5曲ではなく「トッカータ」を選んだ選曲眼から始まり、ビデオ編集で独自の映像美を生み出しているところとか、後半の音楽の使い方など、どこから見てもこれはパロティ系のMadというよりも“作品”と呼ぶに相応しい。
 

 カルミナPの名前の由来は、初期にカール・オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」の曲を使った作品をまとめて投稿していたことらしい。この作品も、なんとも表現に困る面白さがある。朗々と歌い上げるフィッシャー=ディースカウの声が、かくもぴったりと踊る女の子達の映像がはまるとは。


 カルミナPの場合、選曲も渋いというか、「よくこれを選ぶ!」と感嘆することが多い。これもそうでバルトークのバレエ音楽「中国の不思議な役人」(Wikipedia)を使っている。このバレエが、どんな筋かを知った上でこのビデオを見ると、音楽と映像との落差にくらくら来る。


 これまた無茶苦茶渋い選曲。そして音楽と映像が見事にマッチしている。

 カルミナPの作品で味をしめた私は、せっせとアイマスMadを発掘することになったのだった。もちろん再生数はあてにならない。信じるは己の感性と勘のみだ。自分が面白いと思うものを、タグや本人説明などのちょっとした手がかりで探し始めたのである。


 ごく普通のアイマスMadは好きな音楽に合わせてお気に入りのキャラクターの踊る映像を組み合わせるというもの。これは正統派の作品だと思うが、ビデオ映像の作り込みが半端ではない。「世の中にはセンスのある人がいるんだなあ」と、感嘆しつつ「俺にはできねえ」と自分の卑小さにがっくりくる動画ではある。


 うはは、こんなものまであるとは。なんだか子供の頃に戻って「シャボン玉ホリデー」を白黒テレビで観ている気分になってくる。オリジナルの映画は筋としては大して面白くなかったが、空撮まで使った大がかりな映像と、ラストの円谷英二が指揮したという大爆発シーンが印象的だった。
 この森江春策Pは、どうやら推理作家の芦辺拓氏らしい。50歳を過ぎてアイマスMad作成でニコニコ動画生活とは、なんとも若々しい。


 いやもう、この堂々たるレトロっぷりは素晴らしいの一言に尽きる。


 もうひとつレトロ路線で。画用紙に柔らかめの鉛筆で書かれたと思しきイラストに独自の味わいがある。アストロPはレトロ一辺倒というわけではないのだけれど、妙な雰囲気のある作品を次々に投稿している。


 同じくアストロPの作品。ストラヴィンスキーの「春の祭典」。大混乱を引き起こした1913年の初演時に、ニジンスキーが付けた振り付けの再現映像と組み合わせるとは…良い意味であきれてしまう。


 一方で、これだからなあ。掛け値なしで、紅白歌合戦よりも面白いと思うぞ。


 コンロン・ナンカロウの一発アイデアの傑作「習作21番」にその通りの映像をつけた作品。
 これはちょっと説明の必要があるだろう。コンロン・ナンカロウは20世紀アメリカの作曲家だが、共産主義者だったことが災いし、アメリカを出てメキシコに住まざるを得なくなった。メキシコに住み着いた時、彼の手元にあったのは、ロール紙に空けた穴の通りに演奏する自動ピアノだけだった。
 ところが彼はそれを逆手にとって、「人間ではとても演奏できない、自動ピアノでしか演奏できない音楽」を作り始める。「習作21番」はその代表作。基本的に上声下声の2声部から成るポリフォニーなのだけれど、上声部と下声部のテンポが異なっている。上声部は無茶苦茶な速さから徐々に徐々にテンポがゆっくりになっていき、下声部はゆっくりとしたテンポから徐々に速くなっていく。曲の真ん中で2つのテンポは交差し、最後で上声部はゆっくりに、下声部は滅茶苦茶に速いテンポとなって終わる。
 アイドルマスターには亜美と真美という一卵性双生児のキャラクターが出てくるが、この作品は、2人のダンスをそれぞれ、スローモーションから高速再生に、逆に高速再生からスローモーションにと加工して、「習作21番」と組み合わせているというわけ。
 確かに「習作21番」を知っていれば、割と思いつきやすいアイデアだとは思うけれども、それにしても本当にやってしまうとは…

 というわけで当blogの2008年は(NHKのロボコン番組より面白い)ニコニコ動画とアイドルマスターで終わるのだった。

 皆様、良いお年を。2009年も引き続き当blogをよろしくお願いいたします。

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2008.11.01

超(手短)バッハ入門(偏りあり)

 ちょっと反省する。

 いきなり「フーガの技法」を薦めたのは敷居が高かったか、と。

 思い出せば自分のバッハ体験も、ごく当たり前に中学時代に聴いた「G線上のアリア」と「メヌエット」から始まっている。

 「G線上のアリア」は管弦楽組曲3番の第2曲「エア」に基づいている。なぜそれが「G線上のアリア」と呼ばれるようになったかは、G線上のアリアの知識を読んでもらいたい。実際、クラシック関係は熱心な方が詳細なホームページを作成している。
 著作権もとっくの昔に存在しない曲なので、MIDIファイルも多数ネット上に存在している。例えばこのオルゴール編曲とか。

 とても良い曲。いきなり「フーガの技法」を聴くよりも、まずはここから始めた方がいいのかも。

 「メヌエット」は、バッハが2番目の妻アンナのために書いた曲集「アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」に収録された小品。こちらは「ラヴァーズ・コンチェルト」という題でポピュラー編曲が出たことで一気に一般化した。詳細はこちらを読むこと。
 もちろん、クラシックマニアとしては「どこがコンチェルト(協奏曲)やねん!」と突っ込みを入れねばならない。

 その次に、「トッカータとフーガニ短調」に引っかからなかったのが、自分の幸運だったのかも知れない。この曲はオリジナルはオルガン曲だが、指揮者のレオポルド・ストコフスキーが、派手なオーケストラ編曲を施してあちこちで演奏し、さらにディズニーのアニメーション映画「ファンタジア」に採用されることで、一気に人々の間で広がった。
 日本では「トッカータ」冒頭部分が、劇的な変化が起きる場合の劇伴として使われ、今や多くの人が嘉門達夫の「鼻から牛乳」の「鼻から牛乳」というフレーズのあの音楽ね、と記憶しているという状態となっている。

 が、思うにこの曲、バッハの代表作とは言い難い。トッカータは派手だががっちりとした構成を好むバッハ本来のありようではないし、続くフーガ(ちゃんとここまで聴いたことのある人、どれぐらいいる?)は、正直なところバッハが書いた数々のフーガの中では凡庸の類に入る。

 「ちゃらり〜、鼻から牛乳〜」で、バッハ体験が終わってしまっている人は、大変不幸であると思うのだ。

 私の場合は、「G線上のアリア」と「メヌエット」の次がブランデンブルク協奏曲3番だった。中学3年の夏、FMで放送されたのをたまたまエアチェックしてハマッた。何回聞き直したか分からないほど聴いた。詳細は、こちらを読むこと。バッハが公私ともに充実していた時代の傑作である。全部で6曲あるが、中でも3番と5番は名曲の名に値する。

 高校に入ると、フルートを習いだし、そこで演奏者としてバッハの楽譜に接することになった。最初が管弦楽組曲2番、次がバッハの真作か疑わしいニ短調のフルートソナタ。こっちは真筆間違いない変ロ長調のフルートソナタと続き、ロ短調のフルートソナタと出会った。

 これは本当にショックだった。その旋律は後の時代のモーツアルトよりもハイドンよりもベートーベンよりも半音階的であり、モダンかつ陰影に富んでいた。その複雑かつ繊細な旋律が、バッハ一流の対位法によって重なり合い、絡み合いながら音楽が形作られていく。大澤さんがコメント欄で「バッハはアバンギャルドだ」と書いているけれども、まさに同じことを実感した。「どうしてこんな半音階を十分に含んだ曲を書けたのか、俺には書けないよ!」ってな感じである(当時すでに自分で作曲への試みを始めていた。今思えば無駄なことを…)。

 その後ああでもないこうでもないとバッハの半音階的な曲を漁るきっかけとなった。「インベンションとシンフォニア」のへ短調のシンフォニアとか。

 ネットとはありがたい場所であり、探せばちゃんとMIDIやらMP3のファイルが存在する。私がノックアウトされたロ短調のフルートソナタの第1楽章はこれだ。

 ちなみにへ短調のシンフォニアはこちら。グレン・グールドは「インヴェンションとシンフォニア」を独自の解釈で曲順を入れ替えて録音しているが、最後にこの曲を持ってきている。これは私からすれば、まったくもって正しい解釈に思える。

 で、同時期にNHK-FMの「現代の音楽」を聴き始めていたわけだが、そのテーマ音楽がウェーベルン編曲の「6声のリチェルカーレ」だったわけだね。

 これです、これ。(音が鳴ります。注意のこと)「は・つ・ね・み〜く〜」

 これはまた、色々と語り始めたたら止まらない曲なので、またいずれ機会があったら。

 この世には確かに、「聴かないと人生損する」という音楽が存在する。その一つは間違いなくバッハの音楽であり、それにティーンエイジャーの時に接することができた私は、随分と幸せだったのだ、と。
 まあ、思いこみかも知れないが、この年齢まで生きてきての実感でもあるのです。

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