2008.01.15

つくばりんりんロードを走る

 昨年末に発作的に青春18切符を購入した。1万1500円で5枚綴り。1日2300円で、どこまでも普通列車に乗れる「地上の銀河鉄道切符」だ。「カムパネルラ、僕たちはどこまでも行けるよね。鈍行だけど」

 ところが18切符の期限があと一週間というのに5日分のチケットをまだ1日しか使っていないではないか!

 どこかに行こうとあれこれ調べているうちに、土浦から岩瀬まで、茨城県道501号桜川土浦自転車道線、愛称「つくばりんりんロード」という自転車専用道があるのを思い出した。かつての関東鉄道筑波線が廃線となり、跡が自転車専用道になっている。全長約40km、Frogで走るにはちょうど良い距離だ。

 子供の頃の記憶が蘇る。母方の祖父母は土浦に住んでいた。そして祖母の故郷は、筑波線沿線の雨引だった。筑波線には何回か乗っている。

 よし、Frogを輪行して行って来よう。というわけで13日日曜日に走ってきました。

Start 自転車道路の始点。

Map こんなコースです。筑波山を回り込み、雨引観音をかすめて岩瀬へ。

Road 走り出してから気が付いた。西高東低の冬型気圧配置ではないか。つまり風は西から東に吹く。西に向かって走るということは向かい風だ。しまった、岩瀬から走るべきだったと思うも後の祭り。強い向かい風の中、軽いギアでひたすら脚を回して進む。

 風景はもう北関東の冬そのもの。空はあくまで澄んで、寒くて風が強くて、道はまっすぐ続いている。道路が遠近法そのものでまっすぐ地平線に消えているという風景を、東京の近場で楽しめるのだ。

 季節の良い時期は、自転車で一杯になるという道も、誰も来ない。道を独り占めというのはなかなか気分がよい。脚はつらいが。

Tower 空に伸びる鉄塔のなんと魅惑的なことよ。鉄塔武蔵野線の世界だ。

Kazari どんと焼きの準備らしい。

Minseisinnpoh 沿線には加波山事件の加波山がある。なにやら自由民権運動のにおいのする看板を発見。民声新報で検索すると色々出てくるが、これはたぶん小地方紙じゃないかなと思う。

Platform 筑波線のホームが、自転車用の休憩所となって残っている。横を走ると自分が列車になったような気がする。気分は「どですかでん」の六ちゃんだ。頭の中で武満徹のテーマ音楽を鳴らして、「どですかでん、どですかでん」と声に出して走ってみる。すると、近所の子供が「わーい、バカー」とはやし立てて追っかけてくる…ということはない。

Rail 廃線になって20年経つのに、まだこうやって線路が残っているところもある。

Ruin いい感じの廃墟。

Amabiki 母方の祖母の故郷、雨引。祖母は、大地主の六人兄弟の末っ子として生まれ、何一つ不自由せずに育った人だった。子供の頃はこのあたりの野山を思うがままに駆け回っていたそうだ。
 生前、色々と聞いた田舎の地主末っ子のワイルドライフ。
「カエルを捕ってもって帰っとな、女中さんがカエルの皮をプリっと剥いて醤油で焼いてくれるんだ。あれはおいしかったな」とか。
「アオダイショウふんずかまえっと、しっぽもって振り回して頭を石にぶつけて殺すのさ」(これも食ったんだろうなあ)とか。
「虫下し飲んだら、山で遊んでたらお尻の穴から長いのが出てきちまってよ、虫ぶらさげたまんま泣きながら山を走って降りて、家で取ってもらった」とか。
 その他サンショウウオも捕ってきて焼いて食べたとか。

Amabikikannnon1 せっかくなので、雨引観音に詣でる。急な坂を自転車を引いて登る。

 大学に入った年の春、「おまえのために取ってきた学業成就のお札を雨引さんに返すから来い」といわれ、祖母と二人で雨引観音に詣でた。筑波線で土浦から確か一時間以上かかったはず。
 祖母はぜいぜいしながら「雨引さん」への坂を登っていた。そのあと、祖母の長兄が継いだ実家に寄ったが、その長兄との会話が、生粋の茨城弁。もう何を話しているのかさっぱりわからなかった。
「ああ、楽しかった。年に一回。また来年来るさ」と祖母はにこにこしていたが、直後に急逝。雨引観音詣では祖母との最後の思い出となった。

Amabikikannon2 感傷的な記憶が残る雨引観音だが、お札を買おうとすると、キティちゃんの刺繍の付いた恋愛成就のお守りがなどというものが売っていた。なにか間違っている。なんだかがっくりしてしまい、買わずに下山する。

Sunset 雨引観音から見る日没。この、北関東のなにもなさというのは決して嫌いではない。

Iwasest 日没少しすぎに水戸線の岩瀬駅に到着。きちんと計ってはいないが、走行距離は雨引観音への寄り道を含めて46kmぐらいか。
 東北本線に出て湘南新宿ライナーで帰るつもりだったが、なにやら人身事故があったということなので常磐線経由に変更。

Dentyu 途中、土浦駅で買った。我が心の菓子「吉原殿中」。水戸名物なのだが、土浦でも売っている。子供の頃、大好きでたまらなかったお菓子。

 本日現在で、青春18切符はあと2日分残っている。期限は今週末。さあどうしよう。


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2005.09.26

大阪を見物する

takokurage

 原稿が押している。少しでも書き進まねばならぬ。しかしここんところ休みなしだぞ。こんな生活でいいのか、後ろめたさを振り切って、1日大阪見物することにする。

 本日は他のメンバーと別れて単独行動、ジュンク堂書店にて時間をつぶした後、ビジネス街の昼休み、昨日の先輩と昼食を食いがてら、色々と話す。
 その足で、大阪港にある水族館「海遊館」へ向かう。以前から行きたかったのだけれども、なかなかチャンスがなかった。
 地下鉄の大阪港駅から歩いて数分、青と赤に塗り分けられた特徴的な建物が見えてくる。入場料は2000円、ちょっと高いぞ。

 と思ったのがあさはかだった。ここは入場料分以上の価値がある。縦に深い巨大な水槽をいくつも作り込み、その間を上から下へ螺旋状に見学通路を設定してある。魚類のみならず、ラッコやペンギン、イルカに至るまでを水上から水底に至るまで見せてしまおうという仕組みだ。

 これが素晴らしい。様々な水深で実際に泳いでいる生き物を見ることができる。マンタがいる、ジンベエサメがいる、マンボウもいる。すっかり夢中になってしまった。

 公立学校のお休みでもあったのだろうか。子供がずいぶんと多かった。どの子も走り回りはしゃぎ回り、興奮状態だ。若いカップルも多い。これまた興奮状態。マンタが悠々とガラスをかすめるたびに、きゃあきゃあ声を上げている。
 おじいちゃんおばあちゃんも大興奮だ。「あー、あれ、あれ」「うわあ、すごいねー」と声を上げている。

 順路を一番下まで降りてくると、そこは「日本海溝」と命名された水槽。薄暗い水槽の中で多数のカニがうっそうとはさみを振り回している。さらに進めばクラゲの展示。様々なクラゲがライトアップ水槽の中で光る。

 カニやクラゲを見るといつも、「こいつらが知性を持っていたら、どんな身体感覚で世界をとらえるのだろうか」と思ってしまう。それはよほど人間の世界認識とは異なるものとなるだろう。
 いつか我々は宇宙の彼方で異なる進化の過程を経た生命と出会うだろう(私は楽観的だ)。そしてその中には知性体も含まれているはずだ(これまた楽観的である)。
 我々はどんな知性と出会うのか。いずれにせよ先入観だけは持ってはいけないな、と思うのだ。

 ちょっと時間があったので、小川一水さんの「登っちゃいました」発言を思い出し、通天閣へ行くことにする。ポートライナー経由で昨日と同じく地下鉄の恵比須町へ。
 初めて通天閣というものに登る。大阪の街並みが見事に一望できる。高さ91mということだが、ずっと高いような気がする。ビリケンさんは、残念ながら東京の物産展に出張中で、なぜか代わりに渋谷のハチ公が鎮座していた。
 東の遠くにけぶる生駒の山々を見ていると、急に涙が出てくる。小松左京「果てしなき流れの果てに」を思い出したのだ。
 数奇な時空の冒険を経て、記憶を失い、年老いた主人公の野々村(正確には野々村だけではないのだが、かなり複雑な経緯は読んで貰うしかない)は、これまた老婆となった恋人佐世子のところに戻ってくる。かつての恋人すら認識できぬ彼を、佐世子は優しく迎え入れる。
 確かラストは生駒山系を眺めつつだったのではなかったのかな。老野々村が佐世子に向かって「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」と語り始めるのではなかったか。
 なんだろうね、そのラストと、眼下に広がる大阪の街並みとが妙にシンクロして、センチメンタルな気分になってしまった。

 茅ヶ崎に帰り着くと、アスファルトには雨の跡が残っていた。やっと秋になったか、と感じさせる風が吹いている。

 写真は海遊館のタコクラゲ。

 小松左京さんの代表作といえば「日本沈没」ということになるだろうが最高傑作となるとこちらを推す人も多いのではないだろうか。白亜紀から始まった物語は時間も空間も超え、宇宙の歴史全体を駆けめぐる。私としては「いいから読め。絶対読め」と自信を持って薦められる一冊。

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2005.09.19

モトラの写真を掲載する

motora83

 古い写真が出てきたので掲載する。学生時代に私が最初に乗ったバイク、ホンダ・モトラだ。1983年7月から8月にかけて九州を一周し、屋久島まで行った時の写真。確か途中、浜松の路上で撮影した一枚である。

 「1982年、風が追い抜いていった」で書いたような経緯で買ったバイクだ。こいつで北海道も九州も走った。スーパーカブゆずりのエンジンの、カタログ上のパワーは4.5馬力。サブミッション付き3×2速リターンミッションと遠心クラッチの組み合わせだった。箱根を登るにはいい加減低いギア比の二速に落とさねばならず、しかも登り切る途中で熱だれを起こしてパワーが落ちた。
 サブミッションはほとんど役に立たなかった。もともとパワーが無かったのでローギアードにして力で押し切るようにオフロードを走ることができなかったのだ。リアサスは車高調整機能付きだったが、これも基本的には役立たずだった。そもそも積んだ荷物でシビアに走りが変わるというようなバイクではなかった。
 燃費は良かった。通常は60km/l程度で、北海道を走った時は80km/lまで伸びた。燃料タンク容量は3.5lしかなかったが、一回の給油で十分1日走ることができた。1982年当時、ガソリンはリッター150円しており、節約のためにガソリンスタンドは休日休業だった。北海道ではさらにガソリンは高く、リッター180円もしていたが、高燃費のせいで別に高いとは感じなかった。

 実際このバイクで走った旅はどれも強烈に印象に残っている。

 仙台まで一気走りした時は、いい加減走り疲れた福島付近で「仙台まで162km」という標識を見た。「お、これで仙台が射程距離に入ったぞ」と、うれしかった。
 佐賀では雷雲に追いかけられて走った。バックミラーに稲妻が光るのが映る、雨が降り始めて飛び込んだ喫茶店で、カレーを注文すると、なぜか山のようにキャベツの入った味噌汁が付いてきた。
 根室では夜、持参したラジオを聴いて過ごした。別に北方領土が近いからではないだろうが、なぜかモスクワ放送の日本語放送がよく入った。「日本の皆さん、これからかける曲は何でしょうか。局名が分かった方は答えを書いてはがきをお送り下さい。景品を進呈します」というアナウンスの次ぎに流れてきたのは「さくら、さくら」だった。思わず脱力した。何しろ冷戦まっただ中だったから、「こいつに返事を書いたら、KGBからスカウトでも来るのだろうか」と夢想した。
 知床では台風にぶつかり2日ほどウトロのユースホステルに閉じこめられた。何人かのライダーと「今日は客が少ないぞ、ラッキー」というのが口癖のヘルパーの作る飯を食って、マンガを読んで過ごした。

 屋久島では、山中のトロッコ鉄道の路線にモトラで突っ込んだ。釘かなにかでパンクし、その場はタイヤ修理剤でしのいだ。撤退することにして海岸に出てきたものの、そこで再度パンク。ずっしりと重くなったモトラを押して、工具のありそうなところを探して歩いた。通りがかった地元の小学生がずいぶんと親切に、バイク屋を探してくれた。
 バイク屋を見つけてパンクを修理後、安房(あんぼう)という町で食堂に入った。ところが店のおばさんは、メニューにあるものは材料がないから何も作れないという。これなら作れると言って出てきたのがゴーヤの炒飯だった。当時は害虫のウリミバエがまだいたので、本土へのウリ類の出荷は厳重に規制されていた。ゴーヤという苦いウリを、その時初めて食べた。
 
 今となってはこれほどまでに思い出深いバイクだが、当時の私の憧れは「クラッチのついたハイパワーバイク」だった。2年ほど乗って、私はモトラを売ってVT250Fに乗り換えた。

 また乗りたい気もするけれど、妙に人気が出て、値段が高騰しているのが気にくわない。まあ、縁があるならば、またモトラに乗ることもあるだろう。無理することはない。

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2005.09.18

一周忌に満州の話を聴く

father

 本日は父の一周忌。母と兄弟で三島の菩提寺に赴く。

 来るのは数少ない親族(なにしろ父は一人っ子だっった)と、足が達者な父の友人達のみ。ささやかなものだ。それでもトラブルが発生した。9月の連休、しかも快晴で東名高速は大渋滞。まず、自動車で来た妹夫婦が遅刻、同じく自動車を孫に運転させて来た大叔母は遂に間に合わなかった。

 ともあれ本堂に読経の声は流れ、墓所には父の戒名を記した卒塔婆が一枚増えた。雲一つ無い空からは、本当に9月かといいたいほどの強い太陽が照りつける。

 次いで場所を移して昼食をとる。三島広小路の桜やで鰻重。少々ビールも入れて、父の友人達から父の子供の頃のエピソードや、家族には見せなかった面などを聴く。彼らは皆、満州国の首都だった新京(現在の長春)で育った。「満州国の首都計画」という本に詳しいが、新京は当時最先端の都市計画で作られた街だった。「下水道は当たり前で育ったから、引き上げてから『内地には下水道がない』って驚いた」というような発言も出てくる。

 彼らの通った小学校は、満州鉄道が経営していた学校で、後に日本の文部省が乗り込んできた。
「文部省がやってきて全部おかしくなったな」
「そうだったな。優秀な先生は全部辞めさせられたしな」
「内地のやり方を持ってきて根こそぎにしちまった」
 巨大な国策会社である満州鉄道を民間企業というにはちと無理があるが、官が主導権を取ろうとしてろくでもない結果になるのは古今東西よくあることらしい。

 私の祖父は、満州国の官僚を養成するための大同学院という学校の先生をしていた。
 友人のYさん曰く「小学校の時に松浦が、巨大な戦艦の図面を見せてくれてな。後で考えればそれは大和だったんだ。戦後聞いてみたら松浦は『あれは少年倶楽部についていた図面だ』って言うんだよ。嘘付けって」
「『少年倶楽部』なら新戦艦高千穂だよなあ」
「だいたい戦時中俺らは大和なんてものがあることを知らなかったよ。あんなもの作っていたなんて知ったのは戦後の話だ」
「そう。しかも見間違えるはずもない、三連砲塔の図面だったんだよ。ありゃ、きっと松浦のお父さんが、どこかで入手したものだったんだろうな」
「大同学院の先生ともなりゃ、特務機関とも付き合いがあったろうしなあ」
 これが事実なら、日本帝国海軍の防諜の実態も、中央を離れて満州まで行くと、学校の先生が大和の図面を入手できる程度だったらしい。しかもその図面を小学生だった父が持ち出していたわけだ。父のことだから、自慢をずいぶんしたんじゃないだろうか。まるでスネ夫だ(思い違いの可能性もあるようだ。追記を参照のこと)。

 昨今、「東京裁判は勝者の横暴だ」とする議論が勢力を得ている。インターネットでは割と目立つ論調だ。しかし実際に満州で育った父の友人達の視点は辛辣だった。
「確かに日本は満州で色々やったけどなあ。多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」
「俺もそう思う。東京裁判はでたらめだとかなんとかいうけれどもさ、関東軍が勝ったら何をしたか、って考えると東京裁判どころじゃない悪いことをしたろうなあ」
 関東軍は満州に配置された日本陸軍の方面軍だ。
「新京でペストが出たことがあったろ。で、石井部隊が出動して街を封鎖した」
 この話は生前の父から聞いたことがある。石井部隊は「悪魔の飽食」で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。本来の仕事は防疫だった。
「あれ、今にして思えばノモンハンやらなんやらで失点続きだった関東軍が目をそらすために仕組んだ謀略だったような気もするなあ」
と、とにかく関東軍は評判が悪い。

「満州は惜しかったね」
「ああ、惜しかった。色々な可能性があったのに」
「関東軍が全部つぶしたね」
「そうだな、あんなに横暴じゃダメだよ」
というような会話が続く。
「何しろ居留民保護が目的の軍なのに、8月9日にソ連が侵攻してきたら逃げたんだからな」
 関東軍が逃げたということについては諸説ある。が、軍とは言い難いほどに混乱していたことは間違いない。そして当時実際に満州に住んでいた彼らにとっては、「関東軍が逃げた」というのが実感だったのだ。

 鰻重を食べつつ、様々な話を聞いた。昼からのビールで気持ちよく酔い、義弟の運転する自動車で帰宅する。

 写真は、父のアルバムから出てきた写真。昭和23年頃、旧制高校時代の父(左)と友人。バンカラを気取っている風だが、今の目で見ると「夜露死苦」とかなんとか文字を入れたくなる雰囲気ではある。


追記:「新戦艦高千穂」で検索すると、大阪国際児童文学館のページが見つかった。同ページによると平田晋作の「新戦艦高千穂」には、艦体図が付属していた。また表紙を見る限り作中の戦艦高千穂は三連砲塔のようだ。これはひょっとするとYさんの勘違いで、父が言ったように「少年倶楽部」の付録を見せただけかも知れない。

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2005.08.25

1982年、風が追い抜いていった

 外は台風11号の風雨が吹き荒れている。こういう日は屋内で色々なことを思い出す。

 過去、あちこちで話したことなのだが、23年を経て未だ記憶鮮明な出来事だ。記録のため、当blogにも書き留めておくことにする。

 私が原付の免許を取ったのは1982年、20歳の時だった。免許証には「昭和57年6月11日」とある。「夏休みに北海道に行きたい。でもローカル線の駅で何時間も待つのはイヤだ」というだけの理由で免許を取得したのだった。
 早速原付を物色し、これまた「荷物がいっぱい積める」という安直な理由で発売直後のホンダ・モトラを近所のバイク屋に注文した。今も覚えている、納車は6月13日だった。ホンダのホームページによると、「モトラ」の発表は6月9日で発売は10日だ。まさに発売直後にさっと買ったのだな。

 7月8月と、私は猿のラッキョウむきのようにモトラに乗りまくった。乗ってみて、バイクの魅力に気が付いたのだ。8月末の時点で、走行距離は3000kmを越えていた。

 1982年9月4日、私は北海道に向かって出発した。4日かけて国道4号を北上し(途中、仙台の友人のところで二泊滞在し、遊んだ)、7日夜に青森から苫小牧行きのフェリーに乗り、8日の早朝、北海道に上陸した。
 それから10日ほど、私は道東を中心に走り回った。帰宅した時、走行距離は5500kmを超えていた。

 確かあれは、紋別から国道273号で層雲峡に向い、糠平湖、然別湖経由で上士幌を通り、弟子屈へと向かった日の事だ。旅程を思い出せば、9月15日だったはずである。当時273号は途中から林道のような細い未舗装の山道で、カーブを抜けるたびにリスが驚いて逃げていった。層雲峡から先は、深々と砂利を敷き詰めた走りにくい路面で、砂利には2本、ダンプカーが付けた轍が刻まれていた。
 その日の行程が思っていたより長く、予定よりも遅れていた。273号と39号との分岐を過ぎた峠の下り道だったと思う(今、地図を見ると、その部分にはトンネルが開通している)。下りの砂利路面を、私は轍にタイヤを取られながら下った。速度メーターが50km/hを指しており、「こんなに出して大丈夫か」と思ったのを覚えている。
 突如、フロントキャリアに積んでいた荷物が落ちて前輪にひっかかった。荷物を留めていたゴムバンドが振動ではずれてしまったのだ。私はモトラもろとも大きく回転して路面に叩きつけられた。
 気が付くと自分の足の上に、モトラが乗りかかっていた。「ひょっとして折れたか」と、骨折を覚悟した。が、動かすと足はなんの異常もなく動いた。

 私は、自分がダンプの作った轍にすっぽりとはまりこんでいるのに気が付いた。モトラはちょうど轍と直角に倒れ込んでいた。つまりモトラはちょうど轍にかけた橋のようになり、私はすっぽりその下に収まって無事だったのだった。よろよろとモトラを引き起こした私の横を、ダンプがもうもうと土煙を上げて通り過ぎていった。

 「トムとジェリー」のような間抜けさだ。砂利が幸いし、私はケガ一つしなかった。ただ、モトラの左ステップが大きく曲がっただけだった。

 初めての大転倒はかなりのショックだった。そのまま走るのを止めたかったが、人気のない山中で夜を迎えるのも嫌だ。私は曲がったステップのモトラにまたがり、また走り出した。国道241号を、オンネトーへの右折を無視してひたすら走り続ける。

 夕暮れ近くの阿寒湖手前のワインディング、と記憶しているのだけれども、今、地図を見ると、そんなところにワインディングはない。私の記憶違いか、道が改良されたのだろう。突如、風が追い抜いていった。

 風が追い抜いていった——としか形容のしようがない。それは女性ライダーが乗ったホンダCB250RS-Zだった。長い髪をヘルメットからなびかせ、赤と黒に白のアクセントの入ったライディングスーツの背中をひらめかせると、彼女はややお尻を落としたハングオン気味のライディングで、右カーブを単気筒のエンジン音も高らかに駆け抜けていった。

 背筋の伸びた、ほれぼれするような美しいライディングだった。いまでもその背中をまざまざと思い出すことができる。

 1982年当時、まだ女性ライダーは珍しかった。こっちが原付でひいこらしながら未舗装国道を一日中走り、あまつさえ大転倒すら経験した果てに見た女性ライダーの背中とお尻は、もちろん色っぽくもあったし、それ以上に「バイクって、あんなに格好良く乗れるんだ」という驚きを持って記憶に焼き付いた。

 数ヶ月後、私はバイク雑誌(「モーターサイクリスト」誌だったはずだ)を見て、その女性ライダーの正体を知った。堀ひろ子さんだった。雑誌に、彼女の手によるCB250-RS-Z北海道ツーリングの記事が載っており、その日程と自分の旅程が、阿寒湖でクロスしていたのだ。そして記事に付属した彼女の写真は、まさにあのスーツを着ていた。
 検索をかけてみると——おお、このスーツだ。「ひろこの」オリジナルだったのか。

 堀ひろ子という名前を、尊敬と郷愁を持って思い出せるのは、今や40歳以上のバイク乗りだけだろう。彼女は女性モータージャーナリストの草分けで、ロードレースに参戦し、さらには日本人女性として初めてサハラ砂漠をバイクで横断した。1982年頃は、「ひろこの」というショップを経営して、オリジナル商品も販売していた。要するに当時のバイク雑誌の紅一点で、バイク野郎憧れの「オネーサマ」だった。
 今、調べてみると堀さんは1949年生まれで1982年当時は33歳、そりゃ20歳の当方からみれば、とてつもなく色っぽく格好良く見えたわけだ。

 残念なことに彼女は、1985年にこの世を去った。自殺だったと聞くが詳細は知らない。激烈に生きる人特有の、余人にうかがい知れぬ悩みがあったのかと、想像するのみだ。

 あれから23年、私もずいぶんとあちこちを走り回り、様々な女性ライダーともすれ違ったが、あれほど格好良いライディングはついぞ見たことはない。美の神がアホたれ大学生に見せた一瞬の幻だったと言われても、私は信じるだろう。

 「バイクに乗れば風になれる」というような気取った物言いは大嫌いだ。それでも、あの日の記憶を、私は「風が追い抜いていった」としか形容しようがない。

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2004.11.20

父の原稿を公開する(その2)

 亡父が書いた原稿を、昨日掲載した通り、もう一本公開する。

「北京の景観を見て、絶対君主制を考える」という文章だ。北京の景観から説き始め、中国という国の成立を考えていくという内容だ。

 この文章は1998年の3月に書かれている。

 父は、中国首脳部では、朱鎔基首相を高く評価し、その一方で江沢民国家主席を「あいつはバカだ」と言ってはばからなかった。2004年9月に江沢民は国家主席を引退すると発表した。死の床についていた父は、苦しい息で「あんなバカヤロウはさっさと辞めるべきだったんだ。ざまあみろだ。辞めるのが遅すぎたよ」と毒づいた。

 父はそういう人だった。


 いつも通り「続きを読む」以降に掲載するので、読みたい方だけクリックして、読んでください。

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2004.05.06

久しぶりにツーリングする

kurodake.jpg

4月26日

 弟と温泉に行ったことがきっかけになったのだろう。妙にうずうずする。何とか午前10時に起き出して、ちらかるだけひっちらかった部屋の片づけを始めるが落ち着かない。午後2時過ぎ、ついに衝動が勤勉に打ち勝ち、1100KATANAに乗って出かける。おそらくは昨年の秋以来のツーリング。

 西湘バイパスから箱根ターンパイクを駆け上がり、伊豆スカイラインへ。その勢いで走り続けて下田あたりで刺身でも食うか、と思っていたが、玄岳で、空にパラグライダーが飛んでいるのに気が付く。おや、玄岳のあたりもうずいぶん長い間パラグライダーは飛んでいなかったはずだ。

 適度の風に恵まれて、空高くで浮いているパラグライダーを見ているうちにこれまたうずうずしてくる。途中山伏峠でちょっと降りて、パラグライダースクールの「パラフィールド」へ。何を隠そう、私はもう12年以上ここに通っており、グライダーも置いているのだ。問題はここ2年ばかり行っていないということだが。だああ。

 やはり玄岳で飛んでいたのはここのメンバーだった。パラフィールドは東風の時しか飛べない。そこで昨年末から西風の時は玄岳で飛ぶようにしているというのである。そういうことならフライトの確率も上がろうというものだ。また通おうと思い、年間パスを購入してしまう。ついでに滞納していた倉庫料を払い、倉庫にあるはずの自分のグライダーを探すが見つからない。どうもあまり長いこと放置していたので妙なとことにしまい込まれたらしい。「探しておいてくれ」と強く言い置いて、また伊豆スカイラインを走る。

 結局修善寺で温泉に入る。この日は働いているであろう弟には悪いが2日連続の温泉。そのまま三島に向かって日暮れの道を熱海に抜け、午後8時過ぎに帰還。走行距離は215km。ああ、楽しい楽しい。

 帰ると、日経パソコンより書評原稿を送れというメールが入っていた。そうだ、連休前というのを忘れていた。あわてて原稿を書いて送信し、ぐったり。


 自分の中で何かスイッチが完全に入ったという感覚がある。

 走れ、飛べ。しかしその前に部屋を片づけないと。

 写真は玄岳にて。恒例のKATANAです。

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