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ネットで読める松浦の記事

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2022.04.02

ブログの蜘蛛の巣を払った

3年ちょい放置していた。当ブログの蜘蛛の巣を除去した。
 溜まっていたコメントを処理。コメント欄は当方が許可したもののみ公開の設定にしてある。案の定スパムが溜まっていたので一括消去した。
 デザインは、可能な限り簡潔なものにしてみた。もう少しいじるかも知れない。

 ここのところずっとTwitterに頼っていた。140文字言いっぱなしが気楽だというのもあるが、それ以上に介護の心理的負担が大きくて長文のブログを書く気にならなかったというのが大きい。2014年に始まった認知症の母の介護は、8年を経た今も続いている。が、何度もの「もうダメかも」をくぐり抜け、ここ数ヶ月は安定した状態が続いている。おかげで当方の心理的負担も今は少々軽くなっている。
 いつまた母の状態は悪化するかも知れないが、それでも少しずつ気力が戻って来たので、ブログのメンテナンスをした次第。

 合わせてPIXIV FANBOXに有料ページを作ってみた。怪しい趣味関連はこっちに書くつもり。


    ・PIXIV FANBOX 松浦晋也

 

 


 ここの更新を再開するかどうかは自分にも分からない。書けることがあって、書く気力が残っているなら書こうかな、という程度。やはり介護はものすごくハードだったし、今もハードだ。

2018.12.10

八谷さんのOpenSky(通称メーヴェ)

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12月8日土曜日、八谷和彦さんのOpenSkyの機体「M-02J」……といっても誰もそうは呼ばない、通称「メーヴェ」が、年内最後の飛行を行うというので野田市の関宿滑空場に赴く。
 2回の見事な飛行。ここまでもってきた八谷さんの苦労はある程度知っているので、気軽には言えないのだが、「もの凄く八谷さんがうらやましくなる」。自分も自分で飛行機を作って自分が乗って飛びたい、と強烈に思う。

 2004年に初めて八谷さんにお会いした時、彼はこのプロジェクトを始めたばかりで「これをやってから、次に個人で作るロケットというのをアートとしてやりたいんです」と語っていた。

 その時の自分のブログ
https://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2004/09/post_1.html

 その時の八谷さんのブログ
http://d.hatena.ne.jp/hachiya/20040908

 それから14年。ロケットのほうが先行して、なつのロケット団からISTへと進みベンチャー企業として活動している。このメーヴェもだいぶ時間がかかったが、これだけ綺麗に飛ぶところまできた。

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 ここまでに、八谷さんの会社ペットワークスは少なからぬ資金をこの機体に投資しているわけだし、こうやって計画を破綻なく維持し、試験飛行を継続するにあたっては、八谷さんの高いプロデューサーとしての能力が物言ったのは間違いない。

が、理解した上でそれでも、次に必要なのは、八谷さんをみて、うらやましいと思って、真似でもいいから自分の飛行機を自分で作りだすフォロワーだと思う。

 タイムマシンというアイデアの発明者はウエルズだが、それを真似してタイムマシン小説を書いた真似っこ野郎がいて、はじめて、タイムマシンものというジャンルができあがった。八谷さんのオリジナリティだけでは、大きな流れは作れない。当たり前に「自分の飛行機は自分で作る」社会に持って行くには、後を追っかける者が必要だ。

 後を追う者が、ばかすか設計を航空局に持ち込んで、航空局の仕事が破綻するぐらいのことが必要なのだ。

 飛行機って、その能力さえ身につければ自分で設計できるし、作れるし、自分が乗って飛べるんだよ——この当たり前のことを、社会に根付かせたい。
 ほんとうに欲しいもの、ほんとうに新しいものは、どこにも売っていない。売っていないから自分で作るんだよ。

 飛行機に限ったことじゃない。自転車だってバイクだって自動車だって、ロケットだって有人宇宙船だって——乗り物はみんなそうなのだ。自分で作れるし自分で乗れるのだ。

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2017.02.11

「この世界の片隅に」からはじまる読書ガイド5冊

 映画「この世界の片隅に」がヒットを続けている。しかも様々な賞を総なめだ。

 自分は大変幸いなことに、公開後の割と早い時期に片渕須直監督のインタビューという仕事をすることができた。インタビューを手配したY中さんに感謝である。

 私は、「この世界の片隅に」は単なる映画の傑作ではなく、文化史的な事件だと思っている。
 決して誇張ではない。この映画により、私達は70年昔の戦争を、今と地続きの“そこにあった/そこにある現実”として改めて認識しなおすことになったのだから。
 もうあの戦争が、「いつかどこかであった、自分とは関係のない、知らない戦争」に戻ることはない。あの戦争は「すずさんが体験した、すずさんがそこに暮らしていた時と場所」として私達のなかに刻まれた。
 映画の公開が続く限り、そしてロードショー公開が終わっても、ディスクが発売されたり、あるいはテレビで放送されるたびに、私達は、かつての「今と地続きのあの時、あの場所」として昭和18年から昭和21年にかけての広島・呉を思い起こすことになるだろう。何度でも、何度でも、思い出すだろう。
 すずさんの生きる“世界の片隅”は、世界のすべての“片隅”へとあまねくつながっている。どの片隅にも誰かがいて、なにかをしていて、それら全てが寄り集まることで社会とか歴史とかが形成されていく——自分にとって「この世界の片隅に」はそう思わせる映画だった。
 非常に高密度に情報が詰め込まれた映画なので、何度観ても発見があり、しかもさりげないシーンが画面の外側の事象を反映している。

 以下、そんな映画の画面の外にある/あった世界についての読書ガイドを掲載する。なるべく基礎的な本に絞って5冊、プラスさらに読み進めることができる本で構成した(一部本でないものも入っている)。
 お勧めの本は以下の通り。

    
 まだ映画を観ていない方は、是非観てください。その上でこのページを読んでもらえたら幸いです。  以下の本文中で、幾分映画の内容に触れるので、未見の方のためにここで記事を分割します。

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2016.11.18

「この世界の片隅に」は大変な傑作だ

 11月12日に劇場公開となった映画<「この世界の片隅に」(監督・脚本:片渕須直、原作:こうの史代)を観てきた。
 傑作、それもとびきりの傑作だ。願わくば多くの人に映画館で観てほしい。

 物語の枠組みは、そんなに特異なものではない。昭和の初めに広島・江波で海苔養殖を営む家に生まれた主人公・すずが、昭和18年に呉へと嫁入りし、戦時下を生きていくというもの。NHK朝ドラであってもおかしくはない。アニメーションとしての絵柄も、原作の引き継いで、ほわっとしていてとがったところがない(原作も素晴らしいです。必読)。

  

 
 この映画の凄みは、その絵柄で淡々と、しかし徹底的な調査と考証に基づいて、戦時下の広島から呉にかけての生活を、街並みから音から空気感までを含めて描写していくところにある。
 冒頭の昭和8年、おつかいを言いつかった幼いすずが、広島・中島本町の船着き場で、壁に荷物を押しつけて背負うシーンで、もう私は画面から目を離せなくなってしまった。続いて描かれる中島本町の様子!——現在の平和公園があるあたり、原爆で跡形もなく消えた風景なのだ。

 戦争をしているといっても、人は生活をやめるわけにはいかない。働くし、笑うし、諍いを起こすし、御飯も食べる。季節になれば虫は空を飛ぶ。鳥もやって来る。
 そんな日常と、その日常の中に入り込んで来る戦争を、本作はいきり立つでもなくことさらに怒りを込めるでもなく、ひたすらリアルな実感をもって描き込んでいく。ごく普通の日常と、異常事態であるはずの戦争が、当たり前に併置され、淡々と描写されていく。
 観る者は「ああ、あるよね」と思って画面にのめり込んでいくうちに、昭和18年から敗戦後の21年にかけて、彼ら広島・呉の人々が感じた絶望と悲しみ、ささやかな希望を追体験することになる。

 笑えるし、美しいし、少々エロいところもある。その上で、日常の中に入り込んでくる戦争の描写はこの上なく恐ろしい。

 とにかく、すべてのシーンが「生きている」ことを実感させるように設計されている。そのことが同時に死を描くことにもつながる。呉は軍港だ。戦艦大和も艦上で多くの水兵が作業をする姿で登場する。映画を観る者は、後にあの多くの水兵達は大和轟沈で死んだのだ、と知る。

 異常が日常になっていく様子も描かれる。度重なる空襲警報に、ついに登場人物達は「また空襲警報かよ、面倒臭い」というような心底うんざりした表情をする。「怖い」のではなく「うんざり」で「面倒臭い」なのだ。
 つらくても悲しくても痛くても、一方で笑う時も暖かい時もあって、すずは死なねばならなかった人をも心に抱えて、生きていく。

 すずを演じるのん(本名:能年玲奈……というか、生まれた時から使っている本名を仕事に使わせないとした事務所ってのはどんな非常識な神経をしているのか。関係者は全員両足の小指を思いきり箪笥の角にぶつけるがよい!)は、見事なはまり役。自分が観た範囲内でここまで綺麗に役にはまった声は、「カリオストロの城(クラリス)」「風の谷のナウシカ(ナウシカ)」の島本須美以来だ。




 「この世界の片隅で」と似た感触の作品を探すと、自分は欧州戦線最悪の空襲だったドレスデン爆撃を扱った映画「スローターハウス5」(1972年、監督:ジョージ・ロイ・ヒル、原作:カート・ヴォネガット・ジュニア)、そして小説だが筒井康隆「馬の首風雲録」(1969)に思い当たる。どちらも、戦争だからといきり立ち、怒りをぶつけるのではなく笑いと不条理と、淡々とした描写で、生きるということそのものを描いていく。

  

 これら1960年代末から70年代にかけての2作品は、共にSFという枠組みを使って一度戦争体験を突き放すという手法を使っている。スローターハウス5で、主人公ビリー・ピルグリムは、自分の人生の時間を行き来する能力を手に入れ、作品はビリーの主観のままに時間軸を自由に前後する。それどころか、ビリーはトラマファマドール人という宇宙人に拉致され、彼らの動物園で見世物にされるという経験までする(そこで同じく拉致されたポルノ女優とねんごろになり、子どもまでできる)。

  

 体験を突き放す姿勢は「馬の首風雲録」ではより一層徹底していて、地球をはるか離れた馬の首星雲の向こう側にある犬型宇宙人の星で展開する、犬型宇宙人(というか、読者から観たら擬人化された犬そのもの)と地球人との戦争を描いていく。のらくろの猛犬連隊が、ベトナム戦争の米軍と戦っているような印象だ。
 さらに筒井康隆は、ベルトルト・ブレヒトの戯曲「肝っ玉おっ母とその子どもたち 」を底本として話を展開していく。17世紀ドイツの三十年戦争を舞台に、軍隊に付き従い、兵隊に物を売る商売をする肝っ玉おっ母が、ひとりひとり息子を戦争で失っていくというブレヒトが組んだストーリーを、そのまま擬人化された犬の「戦争婆さん」とその4人の息子に置き換えているのだ。
 SFとブレヒトの戯曲を使って二重に戦争を突き放しているわけである。


 強烈な体験は、痛みを伴って心に残る。痛み以外の記憶は、痛みに覆い隠される。だから体験者は「痛かった記憶」を中核にすえて体験を語る。同時にあった生活——「痛くなかった部分」は、なかなか語ることができない。時として、反戦映画が「うっとうしい」と忌避される理由だ。

 ヴォネガットは、欧州戦線に参戦し、バルジの戦いで捕虜となり、ドレスデン爆撃を体験した。1934年生まれの筒井康隆も、戦場は知らないまでも戦争を身を以て知る世代だ。彼らが1970年頃に、痛くない部分——格好いい戦争、勇ましい戦争、愚かな戦争、笑える戦争、戦争と共にある日常——を含めて戦争を語ろうとした時、どうしてもSFその他の仕掛けを使って、戦争を一度突き放す必要があったのだろう。

 「この世界の片隅に」は、SFという仕掛けを使うことなく、淡々と「あの時そこであったこと」を描いていく。
 戦後70年という時を経てはじめて可能な作業だったのだろう。また、その作業を完遂するにあたっては、1960年生まれの戦無世代で、緻密な航空史研究家という顔も持つ片渕須直という人がどうしても必要だったのだろう。

 為すべきことを、為すべき人がした映画だ。幸い観客動員は好調とのことで、上映館数も増えるそうだ。

 観に行きましょう。





おまけ:この映画、宮崎駿監督の「風立ちぬ」とも並列に語ることができると思う。色々な意味で対照的なので。

 二郎と菜穂子、周作とすずの関係とか。
 「動きに淫している」といってもいいほどすべてがぬめぬめと動く「風立ちぬ」と動きをあくまで体感のリアリティに寄せていく「この世界の片隅に」とか。
 一番肝心な部分をラストにカプロニが語る「君の10年はどうだった」というセリフひとつに集約した「風立ちぬ」と、肝心な部分を全て描き切った「この世界の片隅に」とか……。

 なんでも、スタジオジブリで宮崎監督の軍事知識に対抗できたのは片渕監督だけだったそうで、この前のNHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」と合わせて考えるに、今頃宮崎監督が「片渕やめろ!俺より面白い映画を作るんじゃねぇ!!」と転げ回っていると面白いな、と……宮崎監督の新作があるという2019年を期待しましょう。
 

2016.01.13

東峰神社に行ってきた

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 久しぶりに刀を引き出すと、バッテリーがあがっていた。補水して充電。エンジンも無事掛かったので、思い立って東峰神社に行ってきた。
 東峰神社ですぐに分かる方は、飛行機マニアだろう。場所はここ。

 そう、成田国際空港のど真ん中である。

 こうなるにあたっては、あまりに皮肉な運命の経緯が存在する。

 まず、伊藤音次郎(1891〜1971)という名前を記憶に留めてほしい。日本民間航空の先覚者で、伊藤飛行機研究所を設立し、大洋から昭和初期にかけて数々の航空機を世に送り出した。
 が、やがて時代は戦争へと傾斜し、1945年の敗戦を迎える。やってきた進駐軍は、航空機研究の一切合切を禁止した。伊藤は54歳にして、全身全霊をかけてきた航空機への夢のすべてを失ったのである。
 戦後、かれは千葉県成田に開拓農家として入植した。その時、彼は伊藤飛行機研究所の敷地に建立した航空神社という神社の神様を、そのまま自分の開拓地へと遷座した。航空神社は東峰神社と名前をかえ、開拓地の神様となった。
 が、なんということか、1966年になって成田の地に国際空港を建設する話が動き出す。伊藤の開墾した土地はまさに予定地の真ん中にあった。彼は、精魂込めた開拓地を一番最初に売却する。前半生を航空機に賭けた彼には、それ以外の選択肢はなかったのだろう。
 しかし、成田の空港建設は、激烈な反対運動が起きて難航する。そして、かつては航空神社であった東峰神社は、反対派にとって空港反対運動の象徴となってしまったのだ。

 かくして成田国際空港B滑走路南端に、東峰神社は残ることとなった。神社へのアクセスは両側を高い塀で囲われた道を通らねばならない。さらには常時、警備が配置されており、訪れる者が職務質問を受けることもあるという。

 このことを知ってから、私にとって東峰神社は一度は行っておかねばならない場所となった。

 横浜新道から、首都高湾岸線、そして東関東自動車道と走れば、わりと短時間で、東峰神社へはアクセスできる。快調に刀の走りを楽しみつつ、午後2時前に到着。

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 塀、しかも上にはなにかの仕掛け(おそらくは対人センサー)を取り付けられた塀に覆われた神社のたたずまいに声を失う。

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 神社の鳥居内からアクセス道路方向をのぞむパノラマ画像。 たまたま来ていた地元の人によると、奥に駐車する軽自動車(人が乗ったまま降りてこなかった)が公安さんだそうで、ここに来る車両はすべてナンバーを記録されるとのこと。「公安といっても人次第で、穏やかに話しかけてくる人もいれば、むっつりと何を聞いても答えない人もいる」とのこと。

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 東峰神社の石碑(神社の名称は東峰だが、石碑は東峯となっている)の裏には、今も航空神社の文字が残る。建屋は伊藤音次郎が遷座した当時のままなのだろうか。小さな神社だ。

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 私は、いずれこの神社は空港施設内、もっとも人通りの多いところに移して、同時に伊藤など日本民間航空のパイオニア達を顕彰する施設を併設すべきと考えているが、実地に来て、これはこれでいいのかも、と思った。何しろ上をどんどん飛行機が通過する。伊藤の魂が地上にあるなら、案外このロケーションを喜ぶかも知れない。

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 なにより、成田国際空港を運営する成田国際空港株式会社が、この神社を大切にするかどうか、あまり確信が持てない。反対派も高齢化しているということなので、いつの日かこの場所は空港の敷地となるのだろう。が、その時に政府100%出資という“堅い”会社が、このような過去のいきさつを柔らかくそっと尊重してくれるかどうか、全く自信が持てない。
 ならば、ずっとこのまま、神社は頭上をかすめる飛行機を眺める場所であってよいのではないか……そうはいかないであろうことは承知しているが。

 機会があれば、この小さな神社に寄ってみてほしい。ここには、時代に翻弄された空へのあこがれと飛行機への夢が眠っている。

 神社に寄った後は、航空科学博物館へ。「博物館展示は、見る者が“もういいです、勘弁してください”と言うほど高密度である必要がある」と私は思っているが、その基準からすると悲しいぐらいに薄味の博物館。この敷地一杯の建物が欲しい、そこにがんがん飛行機を集めまくって、これでもかとばかりに展示しても……それでもスミソニアン航空宇宙博物館にはかなわないのだろう。そういう規模。

 もしも戦争がなくて、伊藤音次郎らの民間航空勃興の努力が実を結んでいたら、日本はもっと飛行機に寛容な社会になっていたのだろう。当たり前にあちこちに小さな飛行場があって、簡単に飛行機の免許が取得できる社会になっていたのだろう。そうなっていたら、この博物館ももっと大規模なものになっていたのかも知れない。

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 航空科学博物館から見る、夕日に反映して降りてくる飛行機は、素晴らしかった。
 帰りはちょっと寄り道をして首都高経由で東名高速を走る。海老名ジャンクションから圏央道へ抜けて、無事帰着。刀は高速道路が楽しいバイクである。

民間航空草創期の若き息吹と、皮肉なる運命:裳華房メールマガジン連載「松浦晋也の"読書ノート"
 以前書いた、伊藤音次郎を巡る小説「空気の階段を登れ」を紹介した文章。

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