Web検索


Twitter

ネットで読める松浦の記事

My Photo

« February 2004 | Main | April 2004 »

2004.03.31

KATANAに乗る

katanas.jpg

 30日、朝からまくりが入り、あうあう原稿を書いていると昼過ぎに電話が。「農協ですがスズキの二輪の共済が今日で切れます」。

 そうだった!、我が愛車「スズキGSX-1100S刀」にかけた任意保険は3月末で更新であった。「継続の場合は本日午後4時までにおいでください」と電話は言う。行かねば。

 外は雨っぽい雲がたれ込め、風も強い。

 だが、心で何かがはじける。「バイクに乗ろう!」。

 そうだ、ここ一ヶ月ほど、せっせとエンジンをかけて潤滑油を十分になじませていたのはこの日のためではないか。幸い気温は高く寒くはない。たかが保険の更新だが、刀に乗っていこう。

 原稿をすっぽかして身支度をし、バイクブーツを履いて外へ出ると、音もなくバイクブーツの底が抜けた。ぺらんぺらんと足の裏にかろうじてぶらさがっている。そうだよな、このブーツも刀を買ったときに同時に使い始めたものだからもう9年だ。この際だ、買い換えよう。

 久しぶりに刀にまたがりエンジンを掛けると、何かが自分の内側で動き出す。冷静さと高揚感との両方が訪れるような、バイク特有の感覚だ。

 これだよ。

 バイクに乗り始めたのは20歳の時だった。「夏休みに北海道に行きたい。でも自転車は面倒だし、鉄道の旅は待つのがだるい」、それだけの理由で原付の免許を取り、6月に原付を買って、9月には北海道を走っていた。
 実にいい加減な理由で乗ったバイクだが、自分の人生の有り様を一変させる魅力があった。こと私に関しては「2種類の人生がある。バイクに乗る人生と乗らない人生だ」といっても過言ではない。

 今は自動車も運転する身だが、魂が高揚するのは自動車ではなく、バイクだ。どうしようもなくバイクである。この不安定で危険な乗り物に乗らなかったら、今の自分は今あるようにはならなかったろうと思う。

 これだよ、これだよ!とつぶやきつつ、ごくごく近所の農協へ。金がなかった学生時代に、掛け金が安いという理由だけで選択した農協の共済だ。その後20年以上、無事故で継続し続けているので保険金はとても安い。あっさり更新。雨が降ってきたがそのままかまわず、国道一号沿いのウメダモータースへ。バイクブーツを新調する。

 海岸に回ってガソリンスタンドで給油し、タイヤの空気圧をチェックしてエアを補給。帰ってくると午後4時過ぎで、そのままメンテナンスに入る。といってもひたすら車体の汚れを落として、からからになっていたチェーンにグリースを塗るだけ。でも、これだけやっておけば、いつだってバイクに乗れる。

 鼻の奥に残るグリースの臭いと共に、今年のバイクシーズンが始まる。

 午後4時半ごろから大雨。刀のメンテを終えて部屋に戻ると、まくりのメールが。ひえええ、とまた原稿。


 そういえば以前、筑波宇宙センターのシンポジウムの後、東大の学生達と話していた時のこと、野田司令が「君らバイクの免許持ってる?」と聴いた。

「バイクの免許を持っていないから親離れできていないとはいわないよ。でも、バイクの免許を持っているということはママに反抗して自分の意志を通したことがあるということだ。大体母親って人種は子供がバイクに乗るといったら『あぶない』とかいって反対するからね」と野田司令。

 その場にいた中年共、つまり野田司令、笹本祐一さん、私は皆免許を持っていた。笹本、松浦は限定解除をも持っていた。ところがそこにいた東大の学生達は誰一人としてバイクの免許を持っていなかったのであった。

 自分の時はどうだったろうか、と思い出してみる。確か何も親に相談せずに免許を取り、自分のバイトで稼いだ金で最初の原付を買った。母は渋い顔をして確かに「あぶないから自動車にしなさい」と言った。事を決めたのは父の一言である。「要するにバイクってのは鉄の馬だろ、男が馬ぐらい乗りこなせなくてどうする」。父は子供の頃に乗馬をしていた。

 バイクは何一つ言い訳のできない乗り物だ。事故を起こせばそれが自分の責任だろうが他人のせいだろうが苦痛はすべて自分がかぶることになる。あくまで冷静でなければ乗ってはいけない。

 だが、その冷静さを必要とする乗り物は、とてつもない高揚感をももたらす。さえた頭に熱い魂、それがバイクの魅力だ。

 写真は、ウメダモータースの駐車場でたまたま並んだ二台の刀。手前が私の1995年モデル。刀は1981年発売で、1987年で一度生産を終了している。市場の要求に応えて1995年に再発売。私のは最初の再生産モデルで、大分あちこちに手が入っている。さびもでて結構ボロだ。
 奥はノーマルの2000年最終生産型。フレーム補強入り、ブレーキ強化、それまでチューブ入り(!!)だったタイヤがチューブレスタイヤに、丁寧な塗装、などなどあちこちが改良されている(なんだかんだ言っても刀のデビューは1980年のケルンショー。基本は4半世紀昔のバイクなのだ)。これができるのなら、再生産の最初からやって欲しかったな、スズキ。

2004.03.30

古巣の会社に打ち合わせに行く

sinbashi.jpg

 29日になってやっと体力が回復。また締め切りと戦う日々が始まるのである。

 午後、定例のカイロプラクティク、その後日経BP社へ。私の古巣であり、私にとっての鍛錬の場であり、14年間サラリーマン生活を送ったところであり、今も仕事をもらっている会社だ。

 出版局で打ち合わせ。日経パソコン編集部に行って担当さんの引き継ぎ、そして日経WinPCで連載中の「産業の握り飯」の打ち合わせ。他にも行かなければならないところがあるのだけども、ここで時間切れ。

 その後、日経パソコン編集部にいた頃の後輩のO君と食事。当時一緒に働いた人たちのあれこれ。
 
 会社を辞める時に、「つまり下請けになるわけだな」といった人がいた。まあそうだ。正社員としての地位を捨てて、なおかつ自分の出た会社から仕事をもらって文章を書いているのだから。失ったものは安定した収入と社会的信用と、勤め切った場合の退職金である。

 得たのは自分が書きたいと思う題材を取材し、書く自由だ。記者時代は「なんで俺、こんなものを書いているんだろう」と思うことが多々あったが、今の私は少なくとも書きたくない記事を嫌々書いているということはない。もちろん自由は責任と表裏一体で、未来は常に不定で不安定だ。

 だがよく考えれば、不定でない未来などどこにあるというのだろう。そう思い切ってしまえば、今の状況はそう悪くはない。

 私にとって日経BPは実にありがたい場所だった。給料をくれつつ記者として鍛えてくれた。嫌なことも山ほどあったが、それはどの職場でも同じだろう。今もそこで知り合った人たちと仕事ができることを幸福に思う。

 写真は新橋駅地下に新設された携帯電話利用のコインロッカー。こうやってひとつひとつ新しい技術は生活に浸透していく。そして気が付くと生活はがらりと変化しているのだ。

2004.03.29

ひたすら眠る

 28日は起きたら午後5時。風呂と食事という生きるための最低限のメンテナンス作業を行い、また寝る。こういう日は引用でごまかすことにする。

宝石の限りない
眠りのように

——西脇順三郎「宝石の眠り」より

 西脇順三郎の詩は大好きだ。今は代表作「旅人かへらず」も入手可能になってるので、よろしければ読んでみて欲しい。SFファンには、田中芳樹氏の「銀河英雄伝説」第8巻で「魔術師、還らず」として本歌取りされていることで有名かも。

おやすみなさい。

人前で話をする

terakin.jpg

 承前で、27日は午前4時からプレゼン用の資料を作り始める。もちろん、ついに当日となってしまった「Starry Starry Project Act2. みんなの宇宙開発」で使うためのもので、ことわざに曰く、「ドロナワ」。

 なんとか文字だけのそっけないプレゼン資料を作り上げて午前10時半過ぎに会場へ。空は久しぶりに晴れて暖かかく、それにつられたか東海道線もゆりかもめも結構な人出。電車の中で眠れるかと思ったが座れず、全然眠れなかった。事前に70人の会場に30人しか来ませーんという主催の安藤さんからの悲鳴メールが入っていたが、それ以上は来ているようだ、最終的には42人が集まったとのこと。学生さんが多いという。話者としてはなかなか話しがいのある集まりになった。

 午前中、「スペースシャトルとはなにだったのか」という題で40分ほどしゃべる。2004年1月にブッシュ大統領が発表した新宇宙政策で、スペースシャトルは2010年に引退することになった。しかしスペースシャトルは、例えば「ありがとうデゴイチ」だとか「さよならYS-11」などと同じように、無邪気に「さよなら、スペースシャトル、これまでありがとう」とは言えない複雑な問題を抱えている。

 私は、スペースシャトルという存在は過去20年以上に渡って宇宙開発の停滞する原因となったのではないかと考えつつある。まだそう考えるようになったばかりで、今まさに色々な資料を読み込んでいるところだ。今回の講演は、何かを説明するというよりも自分の考えを整理する意味合いのほうが強かったかも知れない。会場で聴いてくれた方々に、うまく理解できるように話せただろうか。

 午後はパネルディスカッションのパネラーとなってまた前へ。川島レイさんが、「現在1万人を切った宇宙開発関係者を100万人にしよう。100万人が宇宙開発への関心を表明すれば社会的な力になる」という話をする。賛成。ただ、方法論として「バーチャルな宇宙コミュニティをネットに作る」というのだけでは弱いと思う。現実の宇宙を肌で感じるような機会を作らないと。

 やはりパネラーとして登壇した的川泰宣先生が、徹底的に率直に語るのには驚く。「宇宙三機関統合はなにひとつとしていいことがなかった」、そこまで言いますか的川先生。「世阿弥曰く、男時(おどき)と女時(めどき)あり。男時は攻めの時ですが、女時は自らの芸を磨くべき時だそうです。今の宇宙開発は女時です。こういう時こそ世阿弥の言うように自らの能力を磨かないといけない」という言葉に深く同感する。

 そうだ、また必ず男時は巡ってくるのだから。

 その後、寺薗さんの興味深い発表など色々あったのだが、もう眠くて眠くて沈没してしまう。申し訳ない。安藤さん、ご苦労さまでした。

 終了後、エクスナレッジの編集者Iさんと打ち合わせ。大平貴之さんの「プラネタリウムを作りました」を担当した方。

 帰ってばったりと寝る。

 写真はパネルディスカッションにて。マイクハンドリングで会場を走り回るテラキンさんこと寺薗淳也さん

2004.03.27

糸川英夫について話を聴く

kanazawa.jpg

 うううう、眠い。ただいま27日午後8時30分。とりあえず26日に何をしていたかを書いておく。おお書き出しにデジャブが。

 そうだった。そのまま徹夜で原稿を書き続けたのである。夜が明けて気温もあがり、晴れはしないけれどもこれならバイクに乗れるなという陽気となるが、乗っている時間がない。

 昼過ぎまで書き続け、書き上がったところまでを送信し、身支度をして東京・恵比寿へ。金澤磐夫氏に会う。昭和28年、糸川英夫がロケット研究を始めようとした時に東大生産技術研究所の糸川研究室から担当企業の富士精密に入社して、メーカー側からのロケット開発に携わった方である。

 氏がロケットを担当したのは3年ほどだった。自動車開発に転じて、富士精密がプリンス自動車と名前を変えてからは、もはや伝説といってもいいだろう名車「スカイライン」の開発に参加した。その後大学教授になり、さらには自ら企業を興し、成功した。氏の事務所で、糸川英夫に関する話を聞き写真を撮影する。

 最近私は、糸川英夫という人は数学の天才でも工学の天才でもなく、マーケティングの天才だったのではないかと考えている。その話をすると金澤さんは「そうですね。『お客さん』というキーワードを考えると先生のやってきたことが整理できますね」といってくれる。

 事務所をひっきりなしに人が訪れる中、貴重な時間を割いてくれての2時間だった。

 帰宅して、眠気を押さえつつ原稿。書き終えてからちょいと仮眠して、27日は午前4時に無理矢理起き出す。まだまだやらねばならないことがある。

 ああ眠い。

 写真は私と金澤さん。

2004.03.26

内閣府の記者ブリーフィングに出席する

 うう、眠い。ただいま26日午後7時30分。とりあえず25日に何をしていたかを書いておく。

 といっても原稿原稿原稿。まくりが入っていたが、夕方6時半から霞ヶ関は内閣府へ。総合科学技術会議・宇宙開発利用専門調査会の記者ブリーフィングに出席する。

 現在総合科学技術会議は、日本の宇宙政策の長期方針の見直しを行っている。この前の長期方針は2002年6月に策定されたもので、例の「今後10年独自の有人活動を行わない」としたものだ。これが制定された時に、我々仲間内では「どうせ10年も持たないぞ」と話し合ったものだが、案の定というか「おじいちゃん、だからいったでしょ」というか、今年1月のブッシュ米大統領の新宇宙政策であっさりひっくり返り、見直しが必要になってしまった。ただし内閣府は「これは長期方針のブラッシュアップである」という態度を取っている。が、どっちにせよここでドラスティックにやり方を変えないと、日本の宇宙開発の未来は暗いだろう。

 そのために現在、宇宙開発利用専門調査会は各方面からヒアリングを行っており、25日は宇宙輸送系に関するヒアリングがあった。ヒアリングそのものは非公開だが後で記者向けブリーフィングがあるという。内閣府に電話を入れてみると、記者クラブ限定ではなくフリーランスでも出席可能というので行ってみたのである。

 当日のヒアリング資料が配付され、審議官から説明がある。記事を書く予定なので簡単に私の感想を記すと、「だめだこりゃ」(故いかりや長介に敬意を表して)。世界の状況はどこをとってみても、大きな方向転換を迫るサインばかりなのに、ヒアリングする側も説明する側もまだまだ過去の建前の上に乗ったままである。そうこうしているうちにもっともっと追い詰められるのは明白に思えるのだが。

 ブリーフィング後、読売新聞論説委員の知野さんと話し込む。

 その足で、市ヶ谷に出て裳華房のKさんと会う。「われらの有人宇宙船」担当編集者だが今日の用事は別件。そのまま2人で飯田橋に出て「主水」で飲む。宇宙開発やSFの話など。まあ、この日は女将さんに「すんませんすんません」とあやまるために行ったのであります。なにを私がやらかしたかは秘密。

 終電一つ前で帰宅すると、さらにまくりが入っている。うわあ、原稿書かなくっちゃ書かなくっちゃで26日に続くのでありました。もちろん写真はありません。

2004.03.25

三菱ふそうのリコールについて考える

 掃除、洗濯、調理、そして仕事仕事。雨が降るがそうひどく寒くはない。つや消しの日常だが、それでも楽しいことはある。本日は買い物の時に、いつもは買わない食材を思い切って色々と買う。今晩何を食べようかと考えつつ、色とりどりの食材の山の中をさまようのは楽しいことだ。今日の買い物のメインは、まるまると太った鰯の一夜干しにスモークサーモンと唐辛子せんべい、そして香辛料色々。スモークサーモンはタマネギと合わせてマリネにしよう。

 本L/Dではこれまで意図的に世間に流布するニュースへの言及を避けてきた。世間に向かって何かを語るということは、商業メディアに乗るにせよネットで自分のリスクで発信するにせよ、責任が伴う。少し力を抜きたかったというのと、自分では何も分かっちゃいないことを「キター」に代表される2ちゃんねる用語を使い、斜に構えて言及する日記系ページが多いのにうんざりしていたためである。

 少なくとも私はプロなので、真正面から語れないなら黙るべきだろう。

 でも、これだけは書こうと思う。ネタ元も明かせないし、信憑性もあやしいが、私としては妥当に思えることなので。

 以下くれぐれも「信憑性は?である」と思って読んで欲しい。

 三菱ふそうの欠陥ハブ問題である。本日、正式にリコールが決定した。問題は三菱ふそうが、三菱自動車から分離する前から起きているので、これは三菱自動車の問題である。

 トラックからはずれたタイヤが母子を直撃し、母親が死亡したという痛ましい事故を起こした問題だ。残された子供の事を考えると泣けてくる。横をさっきまで一緒に歩いていたお母さんが死んでしまったなどという体験をした子供に、一体何を言えばいいのだろう。

 なぜ三菱自動車ともあろう会社が、このような事態に立ち至ったのだろうか。


 10年以上前の話だ。私は機械技術雑誌から記者としての職歴を始めたが、当時は航空宇宙関係のニューズレターに勤務していた。同じく機械技術雑誌出身の先輩と宇宙関係のニュースを追っかけていた。
 ある日先輩とサラリーマンならおなじみの「困った上司」の話をしていたら、先輩がこういったのである。

「以前、機械技術雑誌編集部でな、『いままでに会った経営者の中で誰が一番バカか』という話になってな」
「はあ」
「もう全員賛成のダントツのトップで一番バカとなったのが、三菱自動車の○×副社長だった。いやひどいひどい、インタビューしても何いってんだか分からないんだよなー」

 記者というのは度し難い意地悪な人種だ。相手が偉かろうとそうでなかろうと、インタビューの時は相手の人間性を見透かそうとする。はあはあと話を聞いておいて、後で「あいつバカだよなー」ということなど朝飯前だ。
 しかも何千人もの人に会ってきた記者の人間観察眼はかなり正確である。
 
 その記者の中でも「ダントツのトップでバカ」と言われるとはどんな奴なのだ。○×というのは。

 当時はそう感じただけだった。

 その時○×副社長は、四駆ブームに乗って売れまくった「パジェロ」の勢いで社長になっていた。さらにはその後会長にもなった。まさにハブ事故が起きていた時期である。

——————

 ここからは私の推測になる。

 無能な副社長が、たまたま起きたブームにで伸びた業績により社長になった。無能な社長となった彼はたまたま社長になったにも関わらず、それが自分の能力だと勘違いする。調子に乗った彼は、見当違いの施策を次々に打ち出す。会社自体が勢いに乗っているので彼の見当違いが決定的な失策につながることもないが、末端のやる気は減退する。

 彼の無意識の部分は、自分の無能さを自覚しているので常に不安だ。不愉快な事実を進言する者は、彼の無意識を刺激するので遠ざけられる。結果として耳に快いことだけを進言する茶坊主体質の社員だけが昇進するようになる。経営のトップ、少なくとも部長以上は茶坊主体質の者で占められるようになる。

 やがて無能な社長は無能な会長になって、いらぬ院政を敷くようになる。昇進した茶坊主軍団は、ミニ無能社長となって、ますます下からの耳の痛い進言を遠ざけるようになる。ついには、末端も諦めてしまい、企業にとって耳の痛い情報を上にあげずに現場で握りつぶすようになる。リコール情報も、あぶないトラックのハブも「なかったこと」になる。

 そして、子供の目の前で、母親が死ぬという事態に立ち至る。

——————

 私自身は○×氏に会ったことはない。以上は、10年以上昔の私の記憶から引き出した憶測に過ぎない。しかし、記者という人種を身をもって知っている私には、私も在籍したことのある編集部の記者達が衆議一決したという○×氏への評価を無視することはできない。

 そして10年以上リコールを認めなかった三菱自動車の態度には、単なる○×氏の責任だけではなく、自己保身に長けた茶坊主軍団の存在を感じざるを得ない。「俺のせいじゃない、俺のせいじゃない。俺にも生活があるんだ」と言い続ける茶坊主社員らの存在を、だ。


 ○×氏は存命である。どこかのメディアが、彼に肉薄しないだろうか。

 無能であるということはそれだけでは罪ではない。社会的に責任のある地位についた時でも無能は罪ではない。しかし、有能な他者に任せることなく「俺が俺が」で肥大した自我を満足させようとするなら、社会的に責任ある地位にある者の無能は罪となる。

 それは例えば、幼児の目前で母親を殺害する——そのような殺人に相当する罪なのである。

 本日は写真はなし。こんな話を書いたので、写真を載せる気分になれませんです。

2004.03.24

宣伝:3/27にお台場で講演します

 宣伝です。今週末の3/27土曜日、市民団体の宇宙市民リーグが主催するシンポジウム、シンポジウム「みんなの宇宙開発」で、「スペースシャトルとは何だったのか」という題目で話をします。場所は東京・お台場の日本科学未来館の第二会議室です。

 参加希望の方はvoice@scile.netにメールを送って下さい。

 Starry Starry Project Act2.  「みんなの宇宙開発」プログラム

日時:平成16年3月27日(土) 10:30-16:50
場所:日本科学未来館 第二会議室 /入場無料


10:30-10:35 開会挨拶 SCiLe主宰 安藤恵美子

10:35-11:30 基調講演 「市民参加型の宇宙政策をめざして」
筑波大学講師 鈴木一人

11:30-11:35 休憩

11:35-12:15 特別講演 「スペースシャトルとはなにだったのか」
ノンフィクション・ライター 松浦晋也
12:15-13:00 昼食休憩 


13:00-15:00 みんなで語ろう!スペース・コロキアム
今できることは何? 宇宙コミュニティの世界を広げるために」
コーディネータ: JAXA  寺薗淳也
JAXA執行役:的川泰宣 UNISEC事務局長:川島レイ 筑波大学講師:鈴木一人
ノンフィクション・ライター:松浦晋也 アートフロントギャラリー:山中勉
YAC横浜分団リーダー:藤島徹 宇宙未来.com 平井大輔・SCiLe  安藤恵美子

15:00-15:10 休憩 

15:10-15:30 講演「もう一つの宇宙
〜一般市民が、宇宙(星)に託したメッセージ〜」
アートフロントギャラリー 山中勉

15:30-15:50 講演「月・宇宙探査がひらく、宇宙世代育成への夢」
JAXA月探査情報ステーション 寺薗淳也

15:50-16:00 休憩

16:00-16:20講演「日本宇宙少年団(YAC)活動を通じて」
YAC横浜分団リーダ 藤島徹

16:20-16:40講演「一般市民が参加する準軌道宇宙旅行に向けて」
宇宙未来.com 平井大輔

16:40-16:50閉会挨拶にかえて
「市民参加型宇宙開発の可能性」SCiLe主宰 安藤恵美子
閉会

 ああっ、まだしゃべるための資料が出来てないよ!!

アクセスが爆発する

energya.jpg

 昨夜、サイエンスライターの森山和道さんのホームページから当ページがリンクされたため、本日23日はアクセスが爆発。昨日の10倍近い人がこのページを見てくれた。さすがは科学技術ニュース系ポータルの大手である森山さんのページ。その効果は抜群だった。

 森山日記経由でここを初めて見た皆様、よろしく御願いいたします。こんなページですが、ぼちぼちと肩の力を入れずに更新していく所存ですので。

 当ページは、「まあいつまで続くか分からないし、来てもらってもコンテンツが少ないと申し訳ないし」ということで、あまり積極的に宣伝してこなかった。コンテンツがたまるにしたがって少しずつ知り合いに折りあるごとに「こんなページをやってるよ」と知らせてきた。今回森山さんに知らせたら、「リンクいいですか」ということだったので「いいよ」と返事した次第。

 しかしblogerか…

 私もまた、1年ほど前だったか伊藤穣一さんが「これからはblogだぜ」と言い出した時に、「なーにまたアメリカからはやりもの持ってきてぬかしておるか」という印象を持った一人である。かつてパソコン雑誌の編集記者をしている時に、アメリカから新しい物を持ってきて日本との情報時差を使って商売している連中を山ほど見た。ソフトバンクの孫正義氏などは、記者会見で堂々と「アメリカで起きた波は時差を持って日本でも必ず起きます。だからアメリカで起きた波を日本に持ってきて投資すればビジネスになります」と言っていた。

 そういう意味では、「わーいblogだー」と調子に乗った連中とか、「コレはコミュニケーションを変えるメディアで」とかしたり顔で解説していた連中には、今もあまり良い印象を持っていない。だから、こんなページを続けるようになった今も、「ブロガー」と呼ばれることには抵抗感がある。

 ただ、これはSpaceServerを必死になって更新していた時からだが、「ネットに蓄積していく情報を、蓄積するその時点で整理されたものになるようなソフトウエアが欲しい」と痛切に感じていたのも事実である。実はバックエンドにデータベースを持つ仕組みを自分で作ろうとしたこともあるのだが挫折した。なにしろ私は全くプログラミングに暗いのである。

 私思うに、blogの最大の特徴は、投稿した記事が投稿したその時点でラベル付けされ整理されるということだろう。しかも整理された情報がよく考えられた画面の中にきちんと表示される。この「入力即整理」と「整頓された見やすい画面表示」が私にとってのblogの意味である。コメントは、まあ便利かな、という程度。そしてトラックバック機能はよく分からない。通常のハイパーリンクではいけないのか?と思ってしまう。名前が違う以上異なる意味があるのだろうが。

 ネットには即時性と同時に、時を超えて何年も前の情報を瞬時に引き出すこともできるという通時性という特徴もある。通時性という特徴を生かすためには日々蓄積する情報を整理して格納することが不可欠だ。

 それがあるからこそ、私は今こうやってblogを使ってへらへらと日記まがいの更新をしているのでありました。

 曇り空で寒いのは相変わらずだが、昨日ほどではない。本日から次の仕事。夜、泳ぎに行く。思い切って泳ぐ距離を1300mにしてみる。が、ああ、飯がうまい、で食い過ぎて元の木阿弥。

 写真はここんところにやにやしながら見ているロシアンCD-ROMの内容のほんの一部(NPOモルニヤ社CD-ROMより引用)。上は「gk-175」という翼を持つ完全再利用型エネルギヤ、下は「ヴァルカン」という超エネルギヤ級スーパーブースター。「そんなもん作ってどうするんだ」とか「何に使うんだ」とかつっこみどころは色々あれど、これだけのものを構想したロシア人というのは実際大したものだと思う。

 「やっても無駄だ」と考えた瞬間、どんなに容易なことも出来なくなる。先入観を捨てて白紙の状態から考えるのは大切なことだ。

2004.03.23

「シュウベルト」を観る

shubert.jpg

 冬に戻ってしまったかと思えるほどの寒さ。雨も降っている。ロシアからのCD-ROMを見つつ、次の仕事の準備。ああっ、ゲラも返さなくっちゃ。

 そんなところに大学の後輩のN君からビデオテープが届く。中身は自主制作映画「シュウベルト」(佐藤懐智監督)。十数年前に作られ、あちこちの賞を取った快作、いや怪作。N君は大学の模型クラブの後輩だが、現在は映像関係の仕事をしている。2年ほど前に会った時に「佐藤監督なら知り合いです」という話になり、「『シュウベルト』みたいんだが」といったらば、今になってビデオが送られてきた次第。

 テレビの殺人事件物などでよく撲殺の道具に使われるシューベルト像。そのことにヒントを得てシューベルト像で殴り合うスポーツが考案された——という設定で展開する徹底したナンセンスというか笑うしかない作品。そうか、こんな映画であったか。笑い転げる。N君に感謝。

 しかも「シュウベルト」といいつつ、音楽はベートーベンを使っているしフランツ・シューベルトのファンが見たら怒るかもなあ。「未完成交響楽」と続けて見たならなおさら味わい深いかも。

 ところでこの「シュウベルト」には、とある不幸な事件をきっかけに有名になり、大変偉くなってしまった女性が出演しております。十数年前のその女性は映画の中でとてもかわいい笑顔を見せておりました。

2004.03.22

ロシアからCD-ROMが届く

buran.jpg

 21日は部屋を片づけて机を片づけて、次の仕事の準備。仕事中心で生活が回っていることは間違いないが、サラリーマン時代とは違い、少なくとも嫌な仕事はしていない。それでなんとか生きていけるのだからありがたやありがたや。

 午後、郵便局に着払い便を取りに行く。昨日届いていたのだが不在のため回収されていたもの。来たぞ来たぞ、ロシアからCD-ROMが届いたのだ。

 「ブラン」といって何人の方が覚えているだろうか。1988年11月15日、ソ連はソ連版スペースシャトル「ブラン」を無人で打ち上げた。ブランとは吹雪の意味。地球を2周したブランは無事に地球に帰還した。アメリカに続いてソ連もスペースシャトルを運航か、と思われたがその後2度と打ち上げられることなく、1992年に計画は財政難により凍結という名の中止に追い込まれた。

 ブランを製造したモルニア公社は、ロシアになってから民間企業となった。そのホームページで「ブランCD-ROM3枚組、通信販売可」と書いてあるのを見つけたのが発端である。

 これはそそる、そそられる。でもロシアとどう連絡をつけてどう送金すればいいのか。トラブルがあった場合はどうやって対応すればいいのか。

 こういう時は同好の士で団結するに限る。私はCGイラストレーターで、一緒に情報収集衛星のCGを作ったりしている宮地直人さんの掲示板に「こんなものありますぜ」と書き込んだ。すると宮地さんが「じゃあ仲間を募って取り寄せましょうか」と言ってくれたのである。その後あれこれあったが、本日になって日本での配送を引き受けてくれたくだん書房からCD-ROMが届いたというわけ。

 くだん書房はご主人が宮地さんの友人で、「貸本漫画専門古書店」という表の顔の他に、ハードで強面な宇宙開発関係書籍の古本屋という裏の顔も持つ(宮地さんが強要したといううわさもないわけではない、持つべきは悪き友)。

 宮地さん、くだん書房さん、ありがとうございます。

 しかしインターネットでこんなものの存在が分かって、取り寄せられるようになったのだからいい時代になったものだ。1988年頃、ソ連からの研究者が日本で講演すると、かならずソ連大使館の書記官がくっついてきて取材しようとすると遮られたものだった。何人か代替わりしたものの、どいつもこいつも日本語が達者で無愛想な書記官は、記者連中の間で「ありゃKGBの送り込んだ産業スパイ」だ、と言われていた。そのころ交換したロシアン・スパイたちの名刺は、たぶん今も持っている。

 まだ内容は見ていない。だからこのロシアからのCD-ROMに「愛が込められているか」どうかはまだ分かりません。

2004.03.21

若者らの宴会に呼ばれる

young.jpg

 20日はよろよろと起きるとすでに昼過ぎ。小雨が降って寒い寒い。例によって締め切りで荒れた部屋を片づけているうちに時間だ、というので新宿へ。若者達の宴会に招かれているのだ。

 旧宇宙開発事業団は毎年夏に筑波宇宙センターで、主に学生を対象としたサマースクールを開いていた( 多分JAXAになった今年も開催されるはず)。昨年夏にそのサマースクールを受講した若者達が同期会を開くのでよろしければおいで下さいとさそわれたのだ。ゲストということになるかな。看護関係の仕事をしながらサイエンス・ライターを目指すAさんが幹事となって声をかけてくれた。ありがたいことなのでお受けした次第。

 場所は新宿住友ビル51階「颱風小姐(シャオチエ・タイフォン)」という絶景の中華料理屋。集まったのは下は18歳からの主に学生の皆さん11名。本にサインをしたり相互に自己紹介をしたりでなごやかに会は始まった。

 一人が自己紹介で言う。「2061年に次にハレー彗星が来るとき、僕は80歳なんですが、ぜひとも宇宙からハレー彗星を見たいと思っています。そうなるように努力したいと思います」。はっとする。そうだ、ここに集まっている彼らは、私が見ることがないであろう未来を見ることができるのだ。

 ハレー彗星は前回の近日点通過後、確か木星軌道を過ぎたあたりで2つに割れるのが観察されているので、2061年に巨大彗星のまま戻ってくるかどうかは分からない。しかし、大切なのはやがて帰ってくるハレー彗星を宇宙で見ようと思い、努力することだ。

 飲み食いしつつ、質問に答える。就職を控えている人が多いらしく、どのようにして宇宙関係を取材するようになったかという当方の職歴、メーカーはどんなところか、官庁はどんなところか、どうすれば宇宙関係の仕事に就けるかというような話が多い。一人、「自分は宇宙開発を進めるために商社に行きたい」という者がいる。現在の日本の商社は、海外から宇宙関係のサービスや商品を持ってきて国内で販売することしかしていない。しかし確かに商社が中心になって資金を調達し、新たな宇宙サービスを日本で開発するというのはありだ。面白い発想だ。

 色々話したが、果たして彼らのこれからにいくらかでも役に立ったろうか。うっかりお説教モードでしゃべくってはいなかったろうか。ともあれ、楽しく、当方も色々と刺激を受けた会でした。誘ってくれた皆さん、ありがとうございます。

 掲載したのは記念写真。とりあえず中央右でふんぞりかえっているオヤジはまあどうでもいいとして、彼らの未来が明るいものであらんことを。もちろん私も努力します。

2004.03.19

徹夜で原稿を間に合わせる

ronron.jpg

 ただいま19日の午後4時過ぎ。昨日から、ほぼ完徹で日経WinPC向け原稿を書き続け、先だってやっとゲラチェックを終了した。月末発行の雑誌の入稿日ぎりぎりまで原稿を引っ張ってしまったのは初めて。担当のHさんからは、「来月はこんなわけにはいきませんぜ。10日過ぎには原稿を出してください」と言われてしまう。だから確定申告が確定申告がったら、といっても仕方がないのであって、スケジュール管理の失敗だといわれればそれまで。I編集長、Hさん、ごめんなさい。

 私はめったなことでは徹夜はしないのだが、つくづく健康に悪いなあとするたびに思う。なにより食事は不規則になる。カナダの天才にして奇人ピアニスト、グレン・グールドはホテル住まいで昼夜逆転の生活を長年続けた。食事は一日一回で、真夜中に豪華なディナーをルームサービスで取るのが常だったという。彼は50歳の誕生日直後に脳溢血で死去した。私はグールドほどの才能はないので、せめてもちっと長く生きたいものだと思う。

 私がグールドの知り合いだったらぶんなぐってでも生活習慣を変えさせたかも知れない。あなた、グールド75歳のゴールドベルク変奏曲とか聴きたかったとは思いませんか?だが、その奇矯にして不規則な生活を好む性格もコミで彼の才能が成立しているとしたら、健康で規則正しい生活をするグールドはすでにグールドではないのかも知れない。難しいところだ。

 まだ見なければならないゲラがあったり、書かなければならない原稿があったり、人前でしゃべる準備をしなくてはならなかったり、色々あるのですが、まずは酒を飲んで寝ます。おやすみなさい(だから酒は止めろってば)。

 写真は実家で飼っているもう一匹のシーズー犬の「龍龍(ロンロン)」。去勢雄3歳。雄犬を2匹飼うとケンカするというので去勢されてしまった哀れな奴。ヤンヤンはまだ思慮というものがあって、こっちの機嫌をうかがって行動するのだが、ロンロンは正真正銘のバカ。なにがあってもちぎれんばかりにしっぽ振って突進してくるし、やたらとなめたがるし、「やるな」といっても理解せずに何度もやるし、うっかりものを落とすと噛み噛みしてぼろぼろにしてしまうし、降りられもしない階段を上っては落っこちて悲鳴を上げたりする。そのバカさ加減がかわいいかわいい(やっぱりシーズー犬のかわいい遺伝子にヤられている)。

2004.03.18

寮歌のCDをリッピングする

yanyan.jpg

 また日にちが空いてしまった。3/16、3/17、そしてこれを書いている3/18と仕事仕事仕事という状態で面白いことはなかったのである。緊急の仕事は2件になったが1件が新たに発生して現在3件。特に明日19日の朝までの仕事が1件。がんばらねば。

 昼前に実家の父から電話。「あのなあ、あの音の出る円盤、これを鳴らしたいんだが機械がなくてなあ」。それはCDのことですかお父様。

 というわけで昼過ぎに小雨と風をついて実家へ。父はiBookG4を使っているので、CDなどiTunesで鳴らせばどうってことない。「ほほう、こういうことが出来るのか。すごいもんだなあ。俺はもう古い20世紀の人間だなあ」と父は感心する。これでDVDを見せたらどう思うやら。「パソコンで聴けるならば、色々欲しいんだよ。テレサ・テンとかな」。当年76歳の父は、テレサ・テンのファンなのである。

 ついでにリッピングしていつでも聴けるようにしておく。

 CDは父が卒業した岡山の旧制第六高等学校の寮歌集だった。半世紀以上昔になくなった学校の、大時代的的なメロディを喜ばしげに口ずさみ、父が言う。「俺の葬式にはこれをかけてくれ」。しかと聞き届ける。

 写真は実家で二匹飼っているシーズー犬の一匹、名前は「陽陽(ヤンヤン)」、雄5歳。北清事変で紫禁城に乱入した列強の兵士は、ちんくしゃの奇妙な顔をした犬を発見した。それがシーズー犬で、この犬種は清の宮廷で愛玩用に作られたのである。まったくもって愛されるためだけに生まれてきた連中で、それ以外は能なし。しかしかわいいかわいい(すでに、シーズー犬のかわいい遺伝子にヤられている)。

2004.03.15

確定申告をする

sinkoku.jpg

 1日間を空けてしまった。税金のせいである。本日15日、締め切り当日に確定申告を提出した。ここ数日の様子は以下の通り。

 13日は一日原稿。王立科学博物館第二期のための文章をせっせと書き続ける。予定では13日中に終わらせて14日は確定申告の書類を作成する予定だった。ところがこの原稿がなかなか終わらない。結局14日すべての原稿が仕上がったのが14日夕方で、そこから領収書の整理だ。

 領収書はきちんと整理してあるのでさほど手間はかからないだろうと思っていたら、おお、税務署が送ってきた書類に今までとは違う書類が付いているではないか。文筆業専用とかいう用紙には、出版した書名とか初版印税だとかを記入する欄があって、しかも内容的にはその他の通常書類と完全にかぶっている。

 おのれ、これは収入形態の統計を取るためのものだなつまらん手間かけさせやがってと思うものの、なにしろ昨年は印税の仕事もしているので書き込まないわけにはいかない。あれこれやって、最終的な税額を確定した時にはすでに午前7時となっていた。

 午前中仮眠をして税務署へ。特設の窓口にには、いつも通りたくさんのぎりぎりまで嫌なことをしない人たちが並んでいている。へ?、いつも通り??
 そうです。私は毎年最終日にやっとこ書類を提出している「ぎりぎりまで嫌なことをしない人」の一人なのです。さっさと書類を提出して「来年まで絶対こねーぞ」と捨てぜりふを吐いて税務署を後にする。

 たくさん税金を払えるようになりたいなあ。いや、つまり税金をがばがば払えるぐらいのお金持ちになりたいということである。確か英国の人頭税の時だったかな、逆累進で金持ち優遇だという批判に対して当時のサッチャー首相が言った言葉、「では皆さんお金持ちになって税金を払わなくても済むようになってください」という言葉を思い出す。

 しかし、現行の税制は煩雑すぎる。

 私のような個人事業主は、毎年少なくとも1日は税金でつぶさざるを得ないわけだ。1/365、つまり0.27%。個人事業主は確定申告によってそれだけ経済活動の足を引っ張られているということである。経済成長率が0.1%違うというのはとても大変なことだ。煩雑な税制は巡り巡って日本の経済活動の足を引っ張っているのである。

 そこに張り付く、税理士のような職業が成立しなくなる程度に簡素な税制が望ましいのではないだろうか。とするなら直接税を全部廃止して、消費税20%というのも悪くないな、と思う。現在だってなんだかんだで収入の半分を税金やら保険に持って行かれているのだから。

 午後、その足で定例のカイロプラクティック。仕事の電話が携帯に色々と入ってくる。現在、至急に仕上げなければならない原稿が5件。大変ではあるが、仕事があるのは幸福なことだ。

2004.03.13

シンポジウムで話をする

XI.jpg

 この日記は大体翌日に更新しているので、13日付の本日は12日の話。

 朝からJR横浜線の淵野辺駅へ、歩いて15分で宇宙科学研究本部、かつての宇宙科学研究所である。「システム計画研究会」というシンポジウムで笹本祐一さんと共に話をするのだ。

 わあ、宇宙開発の素人二人が日本の宇宙科学の中枢で一体何をやらかすのやら——と思うかも知れないが、このシンポジウムの別名は「宇宙研の新春放談会」ともいい、様々なしがらみや先入観から離れて宇宙科学や宇宙開発の有り様を話し合うという会合だ。
 プログラムは以下の通り。

第22回システム計画研究会 テーマ:若者たちの宇宙計画 日時:平成15年3月12日(金) 場所:宇宙科学研究本部本館2階大会議場

09:50
あいさつ       鶴田浩一郎(JAXA宇宙科学研究本部)

10:00〜12:00    <司会:佐々木進(JAXA宇宙科学研究本部)>
科学の魅力と宇宙開発の未来  高橋忠幸(JAXA宇宙科学研究本部)
一エンジニアの視点      山川宏(JAXA宇宙科学研究本部)
日本に有人宇宙活動を育てよう 野田篤司(JAXA総合技術研究本部)
孤立しないために       金山秀樹(CSPジャパン)


13:00〜16:00    <司会:的川泰宣(JAXA宇宙科学研究本部)>
宇宙新時代の惑星探査      岡田達明(JAXA宇宙科学研究本部)
僕たちの求める宇宙開発      笹本祐一(宇宙作家クラブ)
停滞を乗り越えて—1980-90年代分析から未来を展望する
                 松浦晋也(宇宙作家クラブ)
分野をこえた若手の交流      竹内伸介(JAXA宇宙科学研究本部)
宇宙輸送システムの未来      沖田耕一(JAXA宇宙基幹システム本部)
大学における超小型衛星による新しい宇宙開発への挑戦
                 中須賀真一(東京大学)

若人に贈る惑星間旅行の展望    川口淳一郎(JAXA宇宙科学研究本部)
16:00〜17:30      全体討論
(17:30〜懇親会)

 「若者たちの宇宙計画」というところ、引っかかりませんか。そう、なんで40歳を過ぎた私や笹本さんや野田司令が出てくるのか。幹事の的川先生にいわせると「40代後半までは若者だよ」なのだが、でもねえ。この分野、それなりの経験が必要だということと、若者に主導権を与えずに下働きさせてきたということの相乗効果だろうか。

 本音を語る会という趣旨だが、例年以上に本音が出た会だった。宇宙開発はそのほとんどすべてが国の予算で行われているということもあり、建前の縛りがきつい。なにしろ建前を崩したら予算が取れなくなってしまう。

 ところが今回は建前に終始する発表はなく、どれも本音でありかつ真摯だった。ISAS関係者の口から「M-Vは科学衛星打ち上げに最適なロケットではない」なんてことが聞かれたのは初めてじゃないだろうか。今までは分かっていても絶対に言わなかった。

これはとてもいいこと。現在の宇宙開発の窮状は、建前に固執して現実に目を向けなかったことが一因だと思うのだ。まず現状、誰が何を考えているかを率直にぶつけあうことで少しでも未来が見えてくればと思う。

 宇宙作家クラブから笹本さんと私ということで、まず笹本さんが話す。笹本さんの「普通の人が宇宙開発の望むのは、宇宙の構造が分かったとかいうようなものではなく、まず自分か自分の知っている人がそこにいる、あるいは行けるということと、そしてハッブル宇宙望遠鏡が送ってくるようなきれいな画像だ」という話は、けっこうインパクトがあったんじゃないだろうか。

 で、私は、スペースシャトルの起こしたバブルとその後遺症から話を起こして、まあ色々。HOPE企画者の一人で、計画凍結に立ち至るまで色々と努力をしていた柴藤羊二さんが来ている前で、「HOPEは少なくとも20年ひっぱるべきではなかった」とやってしまう。申し訳ありません。

 糸川英夫博士のペンシルロケットを例にとって、「商売の感覚を持ち込め」、「小さくしょぼく頻度は高く」などという話もする。

 終わった後、的川先生から「笹本さんはほわっとした話を、松浦さんはいつも通りきびしい指摘をしました」とのコメントを受けてはっとする。私は割とストレートに考えていることをテンション高く語ってしまうくせがある。しかし何かを主張する目的は、相手の心に主張を届けることであって、テンションを上げて自分が満足してしまうことではない。反省。

 自分たちの出番が終わった後、糸川博士について触れたからだろう。「糸川商会の生き残りです」と前所長の松尾弘毅先生から挨拶され、恐縮してしまう。大学院生だった40年前に、日本初の衛星打ち上げに向けたロケット性能計算をやった3人のうちのお一人だ。糸川博士の思い出を少し聞く。「いやまあ、バカをバカということをためらわない人でしたね」。

 それぞれの講演が長引き、全体討論はなしになってそのまま懇親会へ。色々な人と話をする。あまり飲めないはずの野田司令がめずらしくビールを飲んでテンションを上げ、ISASの矢野創さんと大きな声で話をするのを目撃し、この組み合わせがタッグを組んだらすごいことするだろうななどと朦朧と考える。

 矢野さんからISASの次のミッションに向けた動きを少々聞く。頼まれ事一件を承知。小杉健郎先生から太陽観測衛星「ようこう」打ち上げ時のトラブルなどについて聞く。こういう話、めちゃくちゃ面白い。なんとかしてきちんとまとめられないものか。

 帰途は東大の中須賀真一先生と同道。昨年6月に1kgの超小型衛星を作って打ち上げた東大と東工大の学生のメンタリティの違いについてなど。「東大ってのはね、受験に文系科目もあって要は科目を絞りきれなかった奴が来るんです。東工大はすっぱり絞った学生が行く。物を作るという点では東工大の学生はすごいです」。いえいえ、野田司令は東大の学生をほめていましたよ。いずれにせよ学生で衛星を開発し、打ち上げた経験を持つ彼らが次の世代の宇宙開発を担うのだろう。もう一度10代からやり直してその中に混ざりたいと思うけれども、気が付くと我が身は人生もう半分は生きたか、の42歳なのであった。

 的川先生、やっぱり若者と言うからにはせめて35歳以下にしませんか。


 写真は、中須賀先生の研究室で開発した1kgの超小型衛星「XI」の地上試験モデル。太陽電池が張ってないだけで後は実際に宇宙を飛んでいる衛星と同じだ。

2004.03.12

ラジオに出演する

joqr.jpg


 午後2時に、四谷のJOQR文化放送へ。「吉田照美のやる気MANMAN」というラジオ番組の「午後2時の興味津々」というコーナーに出演するためである。「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」を読んでの出演依頼。過去、北海道ラジオに電話で3分ほど出演したことがあるが、20分近い出演は初めて。いったいラジオに出るというのはどんなものなのか興味津々である。

 受付で来意を告げると放送作家のKさんが出迎えてくれて2階のスタジオ横の待合室へ。そこで事前の打ち合わせをして、あらかじめファクシミリで受け取っていた放送台本に少し修正が入る。放送台本といっても、ここでパーソナリティがこのような質問をするということが書いてある割と簡単なもので、私自身のしゃべるセリフまで書いてあるというものではない。過去に受けたテレビ取材では、「こうしゃべってください」と取材もせずに台本を作ってきた局もあった。それに比べればずいぶんとまともだ。

 本番直前のCMの時間にスタジオ内へ。スタジオは外に開けた窓を持つ、想像していたよりもずっと明るい部屋だった。黒と緑を基調にした落ち着いた内装で、中央にパーソナリティらが座る変形机がある。机にはマイクが仕込んである。ここでパーソナリティの吉田照美さんと小俣雅子さんに初めて会う。

 2人とも見事なプロフェッショナルだった。初めてラジオに出る私を上手に誘導して、話を引き出してくれた。最初は少々緊張したものの、後半はそれなりにしゃべることができた、いやまあできたと思うんだけれどもどうかな。

 プロの仕事はとても気持ちがいい。なかなかいい気分で四谷駅へ、仕事の打ち合わせをひとつこなして帰宅。で、また原稿原稿。全部書いたつもりが、一本書き忘れていたことが判明してがっくり。

 写真は、文化放送の玄関。

2004.03.11

ひたすら原稿を書く

 晴れて暖かい。バイクに乗りたい。自転車に乗りたい。けれども一日原稿。「王立科学博物館」の原稿がようやく目処がつきはじめる。

 写真もなし。ううう、ここの書き込みも短く短く。

2004.03.10

新聞の取材を受ける

curry2.jpg

 晴れてやっと暖かくなってきた。今日も書き物。

 午後、「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」を読んで連絡してきた朝日新聞の記者から取材を受ける。やってきたKさんはわりと年配の方で、聞くと最近まで19年も整理部内勤で久しぶりに取材に出たという。大丈夫かなと思いつつ、話してみるときちんと本の内容を理解してくれていた。安心して、かなり飛ばして話をする。

 過去何年にも渡って内之浦や種子島の取材で、惨状としかいいようのな大手マスコミの取材態度を見てきた。もう繰り返すのもいやなので詳細は笹本祐一さんの「宇宙へのパスポート」、「宇宙へのパスポート2」を読んで欲しいのだが、事前の勉強もせず、予算とか責任問題とかの自分の分かる部分だけで記事やニュース番組を構成して流す連中があまりにも多い。

 大手メディアだからといって信用できるわけではない。今まで見てきた限りでは大手新聞社や大手放送局など、ダメ記者は組織の大小とは関係なくやってくる。最悪の例はNHKの「リレー君」だろう。種子島の記者会見で「リレーって何ですか」と質問したのだ。基礎的な電気回路の部品であるリレーを知らずに、会社の金で種子島まで来てニュースを垂れ流すことの意味を少しは考えて欲しい。実に恐ろしい。

 最初は、「この馬鹿者共が」と怒っていたのだが、怒ったからといって問題が解決するわけではない。最近は、こっちが取材される機会も増えてきたので、私のところに来る記者には可能な限りきちんと説明をしようと努めている。私一人ができることは限られているが、こっちの言うことを理解して取材する記者が増えれば、それは宇宙開発を、ひいては科学技術を普通の人たちに認知してもらうための力となるだろうと考えてのことだ。インターネット時代は後戻りすることなく進んでいるが、マスメディアの影響力はまだまだ大きい。

 今回の取材は、いつどのような形で記事になるかも分からない、いわゆる「暇ネタ」取材だった。載れば宣伝になるからうれしいが、載らなくともKさんがこちらの話をきちんと理解してくれれば、それだけでも意味があるだろう。

 夜、またもキノコとシーフードのカレー。今回はエビを使って、煮る時にシナモンも入れてみた。また、水の代わりに無塩野菜ジュースを使ってみる。ここまでやると焦げ付きやすくなるので、鍋をかき回しつづけなくてはならなかった。味は大分追い詰められたと思うので、そのうちレシピでも公開するかな。

2004.03.09

久しぶりに泳ぐ

 ひたすら王立科学博物館第二期の原稿。やっと筆が動き出す。急がないと。確定申告が待っている。

 夜、久しぶりにスポーツクラブに行って1kmばかり泳ぐ。1月に「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」を書き上げてから風邪を引いてしまい、いまいち抜けていなかったのでこれまで自粛していたが、どうもまた胴回りが増えているようなので本日から水泳を再開する。

 泳ぎは下手だが泳ぐのは好きだ。とりあえず水の中で手足を動かして頭の中で今の仕事のことを考えていると、そのうちに雑念が消えていく。気が付くと原稿のつかえが消えて書き進められるようになっているので、おそらくは水泳中の頭脳は一種の瞑想状態で無意識の部分で集中思考しているのだろう。

 三十代の前半は、週に1、2回、2kmずつ泳いでいたが、サラリーマン仕事の疲労が週末を埋めるに従って泳がなくなってしまった。現在は週に2、3回、1kmずつ泳ぐよう努めている(そう、あくまで努めている、だ)。どっちがいいのか、よく分からないが、とりあえず現在の泳ぎ方だと筋肉が付かないことだけは分かっている。

 一日仕事をしていたので、本日の写真はなし。

2004.03.07

飛行機の達人を訪問する

propo.jpg

 数日前、野尻抱介さんから「中年模型飛行機クラブ?の人に」とメールが送られてきた。小美濃芳喜さんのところにいって模型飛行機や人力飛行機の話を聞きませんか、というお誘いだった。

 うおあっ、行きます、行きますとも!

 私が中学の頃、日大が開発した人力飛行機「ストーク」が2000mを超える当時の世界記録を出した。ストークを開発した「日大のお兄さん達」は模型飛行機少年だった私のアイドルであった。その中心人物が小美濃さんだった。

 というわけで本日は東京近郊の小美濃邸へ。同行したのは野尻さん他、野田司令こと野田篤司さん、そして牧野淳一郎さんという中年模型飛行機クラブの面々だ。

 自宅の前に、「目印に」とメッサーシュミットのノーズ部品が置いてあって、いきなりヤられる。メッサーシュミットだぜ、あれが欲しくならない男の子はどうかしているといっていいぐらいあこがれの車のパーツだぜ。小美濃さんが、「このエンジンは5回ばかり組み直しました」と、イギリスのスポーツカー「MGミジェット」のボンネットを開ける。一同「おおー」。そのまま玄関先で凝固してしまう。

 そうして始まった小美濃さんの話の面白いことといったらもうすごいのなんの。人力飛行機を作っていた頃の話。当時日大に集まっていたそうそうたる先生達の話——木村秀政、佐貫亦男、堀越二郎などなど。模型飛行機の話、自動車の話、自転車の話。ヨットの話。風洞の話。
 小美濃さんは高校時代、調布飛行場で試験をしていた日大の人力飛行機を見に行って「ちょっと手伝ってみないか」でそのまま人力飛行機開発にのめり込んでいったのだという。「リネット」から始まる人力飛行機の主翼桁の構造の話や、設計思想の全く異なるポール・マクレディの「ゴッサマー・コンドル」にしてやられた話、イギリス製のロケットエンジンや、自分で作ったパルスジェットエンジン、1965年ぐらいのアメリカ製プロポなどなど。時間はあっという間に過ぎる。

 「子供にどうやって物を作らせるか」という話でも盛り上がる。私が子供の頃は男の子という生き物はデフォルトで工作をするものと決まっていたが、最近はゲーム機やらカードゲームやらでそうではないらしい。そんなんではあかんではないか、ではどうしたらいいのか。そういうことについても小美濃さんは考え、色々と実行していた。

 ずっと私が考え込んでいた自転車の構造について、「そういうことをやってるんじゃ教えてあげましょう」とあっさりと解がでてきたのにはびっくり。はるか以前に私の考えていた問題と同じ問題にぶつかり、解決していたのだった。

 帰途、期せずして顔を見合わせ、「負けたね」とうなづき合う。小美濃さんの何がすごいってサラリーマン生活をしながら、さまざまな人たちと力を合わせて色々楽しく物を作り、遊び続けたということだろう。

 ああ。模型飛行機に夢中だった小学校から中学校にかけての感覚がよみがえる。もう一度あんな新鮮な時間を生きたいと思う。

 写真は1965年頃の4チャンネル・アナログプロポ(ラジコン装置)。アメリカ製でその名も「オービット」という。2チャンネルを電圧で制御、2チャンネルの送信のデューティー比で1チャンネル、さらに2チャンネルの切り替え周波数の変化でさらに1チャンネルと、2チャンネル分の帯域で4チャンネルの情報を送信する仕組み。操作系は一般的に使われているダブルスティックではなく、飛行機に特化したシングルスティックだ。基板がガラスエポキシだったり、コンデンサーにいかにも高品位のものを使っていたりと、丁寧に作られていることが分かる逸品だった。

洗足池を散策する

senzokuike.jpg

 午前中は原稿に掃除。そろそろ机の上が荒れてくる。次から次に参照する資料をしまわずに放置するからだ。ぎりぎり行き詰まって掃除。そしてまた原稿。

 それにしてもソ連が2番目に開発した有人宇宙機「ボスホート」は面白い。開発期間7ヶ月という急ごしらえの宇宙船で、色々ダメば部分が多いのだが、その中に後の「ソユーズ」宇宙船に繋がる光る設計や、今から見てもすごいと思わせる部分が奇妙にいびつな形ではめ込まれている。

 午後から洗足池に出て定例会合。事前に少々時間があったので洗足池の周辺を散策。たしか光瀬龍「夕映え作戦」の舞台はこのあたりだったよなあ、と1970年代に小学生だった者にしかわからないことを思いつつ、池の鴨などを撮影。

 三々五々メンバーが集まり会場に移動する途中、「松浦さん、二輪駆動自転車といい、どうしてそう最適化されていないものが好きなの?本(国産ロケットはなぜ墜ちるのか)では理系の教養不足とか書いていたけれど実は文系なんじゃないの」と言われる。その通り。工学部機械工学科を出て、エンジニアにはならずに文章書いて稼いでいるのだから、いってみれば理系と文系の間を行き来しているどっちつかずのこうもりなのだ。自覚しております。

 午後一杯激しく討論する。

2004.03.06

カレーを作る

curry.jpg

 朝から自動車を出し、父に付き添って病院に。前回のCTスキャンの結果を聞く。その後江ノ島に回りKさんに届け物。最後に父を市役所で降ろして、と半日お使い。午後は資料調べで図書館。

 父が病にとりつかれて5年、最初の大手術から4年半。CT画像はあまりかんばしくないが、もう家族としては可能な限り普通の生活が続けられるように努めるしかない。かつては良く食い良く飲み、たばこを盛大に吹かし「アブラギッシュ」という形容がぴったりだった父が、自動車の乗降にも不自由する様を見ると心が痛む。

 夜は今年に入って数度目のカレーを自炊。といっても普通のカレーではなく、シーフードとキノコのカレーだ。このところこの組み合わせが気に入ってしまい、色々なレシピを試している。まずタマネギみじん切りを炒めて、トマト缶と合わせて水を足す。キノコはエリンギと椎茸以外スーパーで売っているものを全部。なめこ、しめじ、マイタケ、ヒラタケ、マッシュルームなどなど。とにかく大量に入れる。

 ジャガイモとニンジン、冷凍シーフードを加えて弱火で煮ていく。鍋が大きければざく切りの茄子を入れてもいい。月桂樹の葉を忘れずに。火が通ると、キノコ類からとろみが溶け出してくる。このとろみがいいのだ。

 今回は煮詰める過程でターメリックをたっぷり入れてみた。ニンジンに火が通ったところでカレールウを入れ、最後にガラムマサラとチャツネを入れて味を調える。チャツネはなかなかいいものがなくて困っている。市販のチャツネは昔の給食のイチゴジャムみたいに、水飴で増量されているような味で気に入らないのだ。果物をスパイスで煮詰めればいいらしいので自分で作ろうかしらん。

 まあまあの味。野菜の味を生かしつつスパイスが効いた味にするには、もう少し試行錯誤が必要だろう。

 で、なにせ独身男が鍋一杯のカレーを作るわけですから、これを3日ばかりかけて食うのでした。

2004.03.05

バイクで温泉に行く

PICT0029.jpg

 うんうんうなりながら原稿。午後4時過ぎから、久しぶりにAX-1を引き出して箱根に向かう。目的は温泉。もう温泉にでもつかって一回リセットしないとやってられない。ところが出発した途端に太陽が出ているのに、にわか雨。そして寒い寒い。

 久しぶりにバイクに乗ると、自分が下手になっているのが自覚出来るので、おとなしい走りで西湘バイパスを西へ。この西湘バイパス、湘南海岸あたりで「砂混じりの茅ヶ崎」な青春を送ってバイクに乗り出した者にとってはまさに「母なる道」だ。料金所を過ぎたらアクセル全開、でもって西湘パーキングエリアを過ぎたあたりからの直線で最高速にトライ、というのが定番だった(やっちゃいけないことだが、私もやった。当時乗っていたVT250Fだと140km/hがせいぜいだった)。でもって、そのまま殺伐とした気持ちで箱根に突っ込んでいって、転けたりするわけだ(当然私もやった。VTはカウルがゆがんでしまった)。

 温泉はこれまた定番の天山露天風呂。いつのまにやら1000円だったはずの入湯料が1200円に上がっていたが、靴箱と脱衣所ロッカーが無料になっていたので実質値上げは50円。まあいいか、ということで露天風呂に1時間ほどつかる。なんかやたらとお湯が効いてしまい、出てからしばし休憩所で寝てしまった。

 せっかく体を暖めてもなにせバイクだから、帰りでまた冷えてしまう。帰りの料金所で徴収のおばさんに、「冷えるわねえ」と声をかけられる。
 帰ってからはまた原稿原稿。今週中に終わらさないと確定申告があぶない。

 今日はデジカメを持っていかなかったので、写真はアマゾンから届いた中国の有人宇宙飛行関係の書籍。まとめて4冊オーム社から出た。出たのはいいのだけれども翻訳が機械翻訳を使ったのかとも思える劣悪さで、これを読まねばならんのかと思うとがっくりする。「土星ロケット」ってなんだよ!(答え:アポロ計画で使ったサターンロケットです)。

2004.03.04

デジカメでしかできないことを考える

FZ1.jpg

 原稿の一日。夕方歯医者に行く。やっと欠けていた奥歯が埋まる。書評原稿が締め切りになっていることを忘れ、催促のメールであわてて書いて送信する。

 特記すべきこともないので、今日の写真はこの1年ほど使ってきたカメラについてを。パナソニックの12倍ズームデジカメ「DMC-FZ1」だ。ファームウエアアップデートをかけてあり、機能は「FZ2」相当になっている。

 見ての通り、ワイドコンバーター(レイノックスの「HD-7000Pro」)とテレコンバーター(オリンパスの「TCON-17」)を入れている。取り付けのために55mm口径のブタバラアダプターも購入した。

 もちろん画質はそれなりだし、画素数は200万画素でしかない。また、オートフォーカスはもっと速いほうがいい。しかし、たったこれだけの大きさの装備で35mmフィルム換算で24.5mmから714mmまでの焦点距離をカバーでき、しかも手ブレ防止機能で手持ち撮影が可能というのは、デジカメならではだろう。今後1年ぐらいはこの組み合わせで取材していくつもりだ。

 ちなみに「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」の表紙は、このカメラで撮影したH-IIAロケット6号機である。

2004.03.02

大先達の話を聞く

tokyu.jpg

午後、永福町へ。当地に住む宇宙開発の大先達、黒田泰弘さんにインタビュー。こちらのためのインタビューだが、当方が忙しかったり黒田さんが体調を崩されたりで延び延びになっていた。そろそろ片を付けようということで、本日は午後一杯話を聞く。今年で84歳になられるはず。

 黒田さんは、NASDAが最初に開発した衛星打ち上げ用ロケット「N-I」の、開発ヘッドを務めた人だ。陸軍の軍人だった黒田さんは、戦後航空研究が禁止され、多くの日本の航空人が飛行機を諦めた時、なんと米軍立川基地で飛行機整備の仕事に潜り込んだ。そしてチャンスをつかみ、航空が禁止されている日本からアメリカへ、航空研究の名目で留学してしまう。

 そこで黒田さんは、ロケットと出会った。

 「ロケットエンジンの噴射炎を見て、人生が変わった」という。帰国後、なんとしても日本でロケット開発を立ち上げようと粘りに粘り、ついにアメリカからの技術供与によるN-Iの開発にたどり着く。

 黒田さんの話には、私にとっては歴史的な人物が何人も出てくる。戦後、米軍に雇われて製図作業をしていた堀越二郎(ゼロ戦設計者)、「もう日本の飛行機なんてダメだよ」としょんぼりしていた木村秀政(航研機やA-26長距離機の設計者)——なかでも印象深いのは久保富夫(百式司令部偵察機の設計者)の話だ。

 帰国後、黒田さんはロケット開発を立ち上げようとして三菱重工に就職する。しかし、航空自衛隊向けのF-86戦闘機のライセンス生産が始まる時期で、「飛行機だ!」と沸き立っていた三菱に黒田さんの話を聞く人はいなかった。黒田さんは戦中の名設計者だった久保富夫にロケット開発を訴える。昼休み、テニスをしながら久保は言ったそうだ。「黒田君、もう日本で飛行機は無理だ。これからは自動車の時代だよ」。

 その言葉通り、久保氏は三菱自動車へと転じて後に社長を務める。久保時代の三菱自動車は「コルト」を初めとした今もファンがいる名車を次々に開発することとなった。

 ロケットに向かう人がいて、飛行機に執着する人もいて、自動車へ希望をつなぐ人がいる。これが歴史だ。今日、私は歴史の言葉を聞いてきたのだった。

 帰途、渋谷を通る。東急文化会館はもうなくなっていた。13歳まで三鷹台に住んでいた私にとって、渋谷の五島プラネタリウムは好奇心を満たすこの上なく楽しい場所だった。数年前、プラネタリウムが閉館した時はとても悲しい思いをしたものだ。しかし、今や東急文化会館そのものが取り壊されてしまい、屋上の半球ドームもない。残っているのは連絡通路に張られた写真のパネルだけだ。これもいずれなくなるのだろう。

デジカメを買う

dimage.jpg

 起きて原稿、午後にカイロプラクティク、そしてまた原稿。夜はカレーなんぞを煮込みつつまた原稿。

 ついに買ってしまった、デジカメ。コニカミノルタの「DiMAGE Xg」である。以前から小さくて常時携帯できるデジカメが欲しく、色々と物色していたのだ。これまでさんざんカメラ屋の売り場前で「買うた止めた音頭」を踊ったのだけれど、このようなblogを始めてみるとやはり小さなカメラが欲しいということで、ついに購入してしまった次第。

 ちなみに、「買うた止めた音頭を踊る」というのは、確か模型雑誌「モデルグラフィックス」から広がった言葉。店頭で買おうか買うまいかさんざん迷う様のことだ。言い出したのはライターの松本州平さんだったと記憶している。

 私は、デジカメはフィルムのカメラの代替品ではなく、「デジタルならでは」、「デジタルでしかできない」という設計をするべきだと考えている。日常持ち歩くカメラとして考えるなら、それは「起動が速く」、「シャッターのタイムラグが可能な限り小さく」、「オートフォーカスが高速で」、「小さく軽く電池の持ちが良く」、「丈夫であり携帯時に存在感がなく」、「撮影の際もカメラとしての存在感を持たないもの」——という条件を満たすものとなる。つまりは可能な限り「目」に近いカメラが理想なのだ。

 もちろんこれらがすべて現状の製品で満足されるわけではなく、一番近いものとして、この「DIMAGE Xg」を選んだ次第。

 このカメラ、なにがいいって、起動してもレンズが前にせり出さないのだ。このため、「おお、これから写真を撮るのか」という大仰さが一切なく、目の延長として自然にシャッターを切ることができる。起動は速いし、シャッターラグも小さい。ただしオートフォーカスは決して速くない。まあ、それでも以前使っていたカメラに比べれば速い。

 このカメラが現役なのはせいぜい2年だろう。2年経てば技術進歩で、カメラの性能が上がっているだろうから買い換えだ。コストパフォーマンスは、2年間で何枚写真を撮れるかということにかかってくる。

 実際に撮影してどうかというような話はまたいずれ。

2004.03.01

コウイカを食べる

kouika.jpg

 終日原稿。煮詰まっているので部屋はどんどんきれいになる。洗濯物を片づけて、本棚のほこりも払って、でも原稿が進まない。

 夕刻、実家から電話。「船長さんからコウイカをもらったからいらっしゃい」と母。自転車で10分のところにある実家へ出かけて夕食。40歳過ぎの独身男、実に情けない。

 「船長さん」とは父の友人で、片瀬江ノ島で漁師をしているKさんのこと。60歳を過ぎた今も船に乗り漁に出ている。実は雑誌「舵」の海洋文学賞を取ったことがあるセミプロ作家でもある。父曰く「長塚節のような農民作家というのは時々いるんだが、漁民作家はいないのだ。板子一枚下は地獄で宵越しの金は持たないというメンタリティだと、そもそも文章なんか書く気にならないのだな。Kさんは珍しい例外だよ」。時折とれたての魚を持ってきてくれるという実に貴重な、父にとっての「物くるる友」である。私も、Kさんにお願いして、作家の小川一水さんを船に乗せてもらったことがある。

 ちなみにKさんの小説は、現在「五郎の海」(小菅太雄名義)が入手可能だ。圧倒的な海の描写がすばらしい一冊である。

 とれたてのコウイカのうまいことといったら、筆舌に尽くしがたい。これがあるから海の近くはいい。

« February 2004 | Main | April 2004 »