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2004.04.14

三重に行き、「のぞみ」打ち上げの取材をする

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4月13日 曇りのち晴れて夕方からまた曇り。

 朝の8時から出かける。小田原経由で新幹線で名古屋へ。さらに在来線に乗って約2時間、午後1時過ぎに三重県は二見浦に着くと、駅には林紀幸さんが迎えにきていた。お元気そうでなにより。自動車で林さんの自宅へ。

 林さんは、「日本で一番たくさんロケットを打ち上げた男」だ。笹本祐一さんが「宇宙のパスポート2」(bk1amazon)で「ロケットの神様」として紹介しているからご存じの人もいるかもしれない。スプートニク1号が打ち上げられた翌年の1958年に18歳で技官として東京大学糸川研究室に就職。以来、定年になるまでの42年間に打ち上げたロケットの数は430機という、現場たたき上げの人である。現在は故郷の三重県は二見浦で、歴史的建造物(明治初期に皇族を迎えるために建てられた)の「賓日館」で事務局長をしておられる。

 今回は、1998年7月4日に打ち上げられた火星探査機「のぞみ」の打ち上げ準備作業が具体的にどのようにして進められたかを聞くためにおうかがいした。林さんのお宅で資料をひっくり返しつつ、話を聞く。

 多くの人々にとってロケットというのは、テレビで見る打ち上げ前後のせいぜい30秒程度のものでしかない。しかし実際には、ロケットは工場で作られ、発射基地に運ばれ、組み立てられ、そして最後に発射されるものなのである。その過程では色々なことが起こる。小さなミスであっても重なれば重大な事故につながる。一つ一つ問題をつぶして、しかも期限内に仕事を完成させなくてはならない。

 私は機械関係の記者として働く過程で、「現場ほどおもしろいものはない」ということを学んだ。ロケット打ち上げ第一線に42年という林さんの話がおもしろくないはずがない。

 その林さんが言う。
「H-IIAの事故調査ね、あんなふうに集まって資料を見ながら会議をしたって本当のことはきっとわからないよ」
「現場に出ないとわからないと」
「そう。ノズルが事故原因だということになっているけれど、たとえば現場でノズルを誰かがうっかりけっとばしちゃっていて、そのことを黙っていたとしたら、これは書類ではわからない。現場に行って現場の人と話をしないとね」

 重い発言である。

 賓日館は、現在観光客を受け入れて一般公開されている。林さんの車で賓日館へ。本日は休館なのだが、事務局長権限で見学させてもらう。一見地味な建物でありながら、天井や欄間など細かいところが異様なまでに凝った作り。日本の職人仕事の精華だ。鳥羽に出て、ホテルの喫茶店でまた話し込む。

 帰りは鳥羽駅からまた名古屋へ。どうせなら小田原に止まる「ひかり」に乗りたいなあと思いつつ、ちょうどやってきた「こだま」でだらだらと小田原まで2時間かけて帰る。

 写真は私(左)と林さん(右)。

オヤジ宴会に出席する

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 4月12日 晴れ。

 夜を徹して仕事を続け、一通り仕上がったのは午後3時過ぎだった。こういうことをやっていると確実に体がよれよれになっていくのが自覚できる。
 かなわんなあと思いつつ、まだまだ仕事は続くのである。

 定例のカイロクプラクティクに行くと、「ここまでひどい状態なのは珍しいね」といわれる。

 そのまま夜は麹町の沖縄料理屋へ。東京工科大学の山際和久教授の博士号取得を祝う会。正確に書こう、山際元デスクを囲むオヤジどもの会(「どうせそう書くんだろ」と言ったHさん、リクエストにお答えしてそう書きました)。

 山際さんは、私が就職したときの最初のボスだった。本人曰く、「就職んときにお前を採用したのは俺だかんな。お前が書いた入社試験の作文はひどいもんだったけどさ」。私の今の仕事の原点となった日経エアロスペースの初代編集長で、その後日経本社に戻って科学部デスクや福井支局長を務めてから大学教授へと転身した。その山際さんが、傾斜機能材料の研究で博士号を取得したというので、当時山際デスクの薫陶(酒付き)を受けたメンバーが集まったのである。

 久しぶりに会った山際さんは白髪が増えていただけでお変わりなく大酒のみであった。「もっと濃いのよこせ!」と泡盛40度のストレートをがばがば召し上がる。

 集まったのは皆、かつて私の書いた原稿に朱を入れたことのある先輩ばかり。皆偉くなって部長とかいう肩書きがついていたりする。無位無冠なのは私だけ。

 でもって話題はオヤジ。徹底的にオヤジ。折良く(?)手鏡を女子高生のスカートの下に差し入れてとっつかまった早稲田大学教授の話題から、仕事に人事に社内政治に収入の話。かろうじてゴルフと健康の話がない程度。「松浦、こういう話嫌いだろ」とFさんもといF部長が話をふってくる。はい、嫌いです。

 他のメンツだと、私は席を立つであろう話題だが、このメンバーであるなら致し方なし。というよりも、自分も積極的に一オヤジとなって会話に加わるのである。なるほどマクルーハンのいう「メディアはコンテンツである」というのは事実だ。

 仕事が押しているので、一足先に辞去して帰宅。明日は三重に行かなくてはならない。

 写真は、泡盛にご満悦の山際教授。「お前、写真なんか載せるんじゃないぞ」と命令されたのだけれども、検索をかけてみると大学のページで顔を出しているではないですか。しかもgoogleイメージ検索でも一発ですよ。これなら公人ですね、と掲載することにする。博士号取得、おめでとうございます。

二日酔いで苦しむ

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4月11日 とってもいい天気。

 昨日飲み過ぎた結果、あうあうの二日酔い状態。何しろ矢野さん、最後の三次会までつきあって、どうやって宇宙関係のアウトリーチを実現するかを熱意を込めて話していた。こういう話題につきあわなくてどうするってなもんで、こっちは話を聞きつつがばがばと焼酎を飲んでいたのである。二日酔いにもなろうというもの。

 なんにせよまずい。仕事が立て込んでいるのだ。午後からよろよろと起き出して、トマトジュースなどをがばがば飲んで仕事を始めるが、ぜんぜんはかどらない。

 外はいい天気。絶好のバイク日和。箱根に行きたいと思いつつ、はかどらない仕事を投げ出して、布団を敷いて寝てしまう。

 夜、ごそごそと起き出す。睡眠は足りているが体内時計のリズムは無茶苦茶。体によくないよなあとおもいつつ、夜を徹して仕事仕事。

 写真は二日酔いの原因となった昨日の懇親会。楽しかった。飲み過ぎたのは自分の責任。

「はやぶさ」の話を聞く

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4月10日 晴れて暖かい

 午後から東京で宇宙作家クラブ例会。講師はJAXA/ISASの矢野創さんで、昨年打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」の運用と、今後の日本の固体惑星探査の展望について話を聞く。

 「はやぶさ」は昨年5月9日に内之浦から打ち上げられ、現在小惑星「イトカワ」に向かっている途中。地球に併走するように太陽を一周し、今年の5月19日に地球をスイングバイして「イトカワ」に向かう軌道に乗る。一見無駄に思える太陽一周だが、この間「はやぶさ」はイオンエンジンを噴射して加速している。長い道のりは加速のために必要なのだ。

 惑星間空間でのイオンエンジンの運用は、アメリカの「ディープスペースワン」が行ったことがあるが、1年以上の長期間運用は「はやぶさ」が初めてである。というよりも、「はやぶさ」の計画概要が公開されてから、なんでも世界で一番が大好きなアメリカが急遽開発して打ち上げたのが「ディープスペースワン」なのだ。ちなみに小惑星エロスを探査したアメリカの「シューメーカー・ニア」探査機は、「はやぶさ」が小惑星にタッチダウンするということを知った上で、ミッションの最後にエロスへハードランディングした。これで「世界で初めて小惑星に人工物を送り込んだのはアメリカ」ということになった。

 大人げないともいうが、2年ほどの短期間で探査機を開発して打ち上げてしまうアメリカの底力はすごいのである。

 ロケット関係者は打ち上がってしまえば、仕事は終わる。しかし探査機の担当はそこからが本番となる。5月9日の打ち上げ後、矢野さんたちは、内之浦で午後9時から午前3時まで最初の運用を行い、次の日も午後9時から午前3時、ちょっと仮眠して次の日は鹿児島から東京に戻り、またその夜は相模原の運用センターから午後9時から午前3時、と運用を続け、7月まで続いた様々な機器のチェックを行う初期運用段階では、「毎週7日勤務」が続いたそうだ。定常運用になってからやっと週6日勤務とのこと。「労基法ってなに?」の世界である。

 いろいろおもしろい話を聞く。

  • 「はやぶざ」には4基のイオンエンジンが搭載されている。製造誤差やなんやらでその性能は完全に等しくはない。チェックはまず1基ずつ行い、次に2基ずつのペアで実施、さらには3基ずつで噴射させて、最終的にもっとも成績がよかった3基を使って本番の噴射に入った。残る1基は予備。

  • 通常のロケットエンジンと比べるとはるかに推力が小さいイオンエンジンだが、長時間噴射することで最終的にはずっと高い到達速度を得ることができる。ところがこれは噴射が続いている間、毎日毎日軌道決定をしなければならないということで、運用の手間は、軌道計算できちんと天空のどのあたりにいるかがわかる通常の探査機どころじゃない。「確かに探査機は効率がよくなるんですが、その分地上は重労働になるんで、僕らは『仕事一定の法則』といってます」と矢野さん。

  • そのイオンエンジンだが、高電圧をつかうので機器に悪影響を及ぼすかもしれない放電が起こりそうになると自動的に停止する仕組みがついている。放電を起こす原因は、探査機の表面に吸着されていた気体。太陽にあぶられると気体が出てきて放電が起こりやすくなるのだ。これがなかなか一筋縄ではいかず、一度放出された気体がまた探査機表面に吸着されたり、探査機の姿勢を変えると太陽光が当たる面が変わって気体がでてきたりと、色々思ってもいなかったことが起きる。

     イオンエンジンは一度停止したら地上から復帰させなくてはならない。ところが、惑星間空間を航行している「はやぶさ」は日本からの可視時間はだいたい8時間、一日のうち16時間は地上との通信なしで自動運用されている。つまり、もしも地上からの運用が終わった直後にエンジンが停止したら、16時間も噴射ができないわけだ。それは軌道決定に影響を与えるし、なによりも地球スイングバイまでに十分な加速が得られなければ、目標である「イトカワ」にたどり着けなくなる。幸いにして4月10日現在ですでに十分な加速が得られているとのこと。

  • 「はやぶさ」もその他の日本の探査機と同様に貧乏設計である。どの辺が貧乏かといえば、地球に向ければ高速通信ができるハイゲインアンテナ(探査機の「上」についているパラボラアンテナ)の向きを変えて地球に向けるステアリング機構がついていない。アンテナを地球に向けるためには探査機全体の姿勢を変えなくてはいけない。惑星間空間を航行している時はイオンエンジンの噴射方向と太陽電池パドルへの太陽光の入射が優先されるので、通信は感度の低いミディアムゲインアンテナか、さらに低感度だけれども探査機の姿勢と関係なく通信できるローゲインアンテナで行わなくてはならない。

     となるとなにが起こるか。通信速度ががくんと低下する。最低だと8bps。1秒に8ビットという通信速度だ。それで惑星探査機を運用するのである。

    「8bpsの通信での運用って、『おお、やったぜ』という達成感があるんですよね。でも我に返ると『なんでこんなことしなくちゃならないんだ』って気分になる」

     通信速度が上がるとそれだけで探査機の運用は格段に楽になるとのこと。それはそうだ、夜の9時から午前3時なんて運用が、それこそ30分以下ですんでしまうのだから。ちなみにアメリカが現在火星表面で運用している無人探査車「オポチュニティ」「スピリット」は、256kbpsで通信する能力がある。話にならないほどの実力差だ。

     「これにはアンテナの大きさだけではなくてプロトコルの効率とか変調方式とかいろいろな積み上げが影響しています。通信方式の改良は焦眉の急です。でもどうも次の惑星探査機PLANET-C(金星探査機)までは今のままいきそうで」

 笑ってしまえるほど悲しい状況で、矢野さんたちは身を削って、それでも目標は世界一なのである。

 懇親会は高速道路ガード下の台湾料理屋、現地を確認せずに電話で予約を入れていってみたら、屋外に机を並べた屋台風の店だった。料理はなかなかうまい。矢野さんを囲んでいろいろ楽しく飲み食いする。その後、二次会三次会と流れて、最後は終電で帰宅。うっかり平塚まで乗り過ごしてタクシーをつかうはめとは相成った。

2004.04.11

呆然と過ごす

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 4月9日 今日も暖かい。

 なにもない一日。仕事をしなければいけないのだが、はかどらない。呆然と過ごす。

 サラリーマン時代はウィークデイと休日がはっきりしていたが、フリーになってからは区分はあいまいになった。ウィークデイでも遊ぶときは遊ぶし、休日でも働く時は働く。野尻抱介さんのページにある「作家になってよかったと思うことは、毎日が日曜日だということです。そのかわり、真の日曜日はどこかへいってしまいました。」というのはまこともって至言だなあと思う。

 夕方、買い物のために外出すると、海岸特有の潮を含んだなま暖かい空気にはほんのかすかな花の香り、見上げると南中過ぎの木星が輝く。20年近く前に読んだ少女マンガ、吉野朔実の「少年は荒野をめざす」のワンシーンを思い出す。主人公の狩野都が「生きていて良かったと思う時がくるのだろうか」と夜空を見上げて涙ぐむところ。

 1980年代の少女漫画最盛期、オタク青年の例に漏れず私もせっせと少女漫画を読んでいた。ずいぶんたくさん読んだはずだが、記憶は時に押し流されて、印象が残っているのは萩尾望都、清原なつの、そして吉野朔実ぐらいだ。この3人の作品は心の底に沈み、かなり深い部分で私に影響を与えている。

 では私が忘れてしまった諸作品が無価値なのかといえばそんなことはない。それらの作品は、当時リアルタイムで読んでいた少女達に様々な夢を与えていたのだから。

 写真は茅ヶ崎海岸にあるモニュメント。茅ヶ崎の「C」をかたどっており、真正面に経つと中央に烏帽子岩が見える趣向。

沖兄弟、アバルトを買う

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 4月8日 晴れて気分が良い。

 午後から高井戸に出て黒田泰弘さんからの聞き取り。これでほぼ作業は終わったはず。1975年までの話を聞き終えることができた。

 恐るべきニュース。自動車仲間の沖兄弟が、アバルト・レコルトモンツァ・ザカートを購入した。

 フィアットのリアエンジン、リア駆動の大衆車をアバルトがチューンナップし、ザカートのデザインしたボディを乗せた車。1960年代の名車のひとつである。沖兄弟は一卵性双生児でマツダR360クーペをそれぞれ1台ずつ所有している、カーマニアの間では知られた存在。その上、アバルト、しかもザカートかよ!

 いいなあ、いいなあ!私はアバルト・ザカートのような小さくて格好良い自動車が好きである。正直、最近の日本車は全然欲しくないが、あの時代の小粋な小さなスポーツカーには物欲を刺激される。うらやましい。

 もっともリンク先を見れば分かるように購入した車両はけっこうなボロ。これからゆっくりと直していくのだろう。直す過程をも楽しむとするならば、それもまたうらやましいことである。

 写真は2003年のニューイヤーミーティングに出ていた「アバルト・レコルトモンツァ・ザカート」。沖兄弟がここまできれいに車を仕上げるのはいつになるだろう。ゆっくりまとう。そしていつか乗せてもらおう。しかし、格好良い自動車だ。ほれぼれする。

2004.04.09

男3人、寿司を食う

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4月7日 夜は少し雨が降り肌寒かったが、午前中から晴れて暖かくなる。

 午前一杯かけて筑波宇宙センターへとでかける。東京駅からのJRバスは、4軸8車輪二階建て84人乗りの「メガライナー」という大型車両だった。航空機並みの座席とサービス設備でなかなか快適。もっとたくさんこの車両を導入すればいいのに、とも思うが、2005年に秋葉原と筑波を結ぶ常磐新線「つくばエクスプレス」、通称「オタク電車」が開通すればそちらに客は流れるだろう。

 午後一番から、筑波宇宙センターで柴藤羊二さんに会う。このところ問題意識を持っている「スペースシャトルとは何だったのか」ということに対して、1980年当時に現場にいた柴藤さんからうかがう。他、あれこれと話題は飛びまくる。
 辞去する際に、「そういえば最初に会ったのは1989年のスーパー301の時だったね」という話になる。私は航空宇宙業界ニューズレターの記者として、柴藤さんにお会いしたのだった。柴藤さんは次期通信衛星CS-4の必要性を力説していた。結果としてスーパー301はアメリカの思惑通りになりCS-4もBS-4も消え、日本の衛星産業は衰退した。まさにおごれる日本の敗退だったが、同時にそこには「衛星なんてアメリカから安く買ってくればいいじゃないか」と考えたNTTとNHKの意志があったことも忘れてはいけない。

 センターの厚生棟で、仕事を一瞬抜けてきた野田組の面々と野田篤司さんに会う。野田さんが個人的に開発中のダメダメ(?)ソフトウエアを見せてもらう。昨日、航空宇宙学会で、「パリエアショーでの航空宇宙工業会の恥ずかしい展示」という話をしたよ、と野田さんに言ったらば、野田さん「そうなんだよ。ファーンボローでも同じだったんだ。しかも俺の場合そこに『野田様こちらに寄ったら連絡して下さい』って恥ずかしい張り紙まであったんだよ!!」。

 東京に戻り、時間があったので日経BP出版局編集部に寄る。どうやら「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」は、ぼつぼつ売れ続けているようでうれしい限り。担当編集のIさんは、早速FOMAのP900iを入手していた。Iさんは自動車はシトロエンだわ、自宅には凝ったオーディオが入っているわ、カメラはハッセルブラッド一式だわという大変な趣味人である。「ビオゴンはいいね、ツァイスが生んだレンズの極みだね」などマニアな話題で盛り上がる。

 その足で門前仲町に出て待ち合わせ、すぐに出会うことができた。「さすらいの食い倒ラー」山本謙治さんと脚本家・翻訳家で「SF物書き」の堺三保さん。懸案だった特上の寿司を食いに行くのだ。

 山本さん、などともったいぶっても仕方がない。やまけんと呼ぶことにしよう。私は14年間サラリーマンをしたが、うち2年は会社から神奈川県藤沢市にある慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの大学院メディア・政策研究科に出た。当時藤沢キャンパスはできたばかりで、どいつもこいつも個性の強い学生ばかりが集まっていた。所属した研究室には、小柄ながら分厚い胸板と太い腕を持ち、やたらと声のでかい威勢のいい男がいた。やまけんだった。

 やまけんは行動力の塊だった。新入生として藤沢にやってくると、さっさと学長室に出かけていって「空き地を畑に使っていいですか」と交渉したのだそうだ。土地の使用許可をとったやまけんは、土を掘り起こして畑を作り、仲間を募って「八百藤」という農業サークルを立ち上げ、無農薬栽培の野菜を作った。そして学園祭がある毎に収穫を料理したり配布したりしたのである。さらに彼は、インターネットと農産物流通に興味を持ち、その題材で懸賞論文を書いて賞金をせしめ、大学院に進学した。その後証券会社系シンクタンクを経由して農産物流通会社に就職し、日本中を歩き回ってうまいものを食い倒し、そして現在はこんなblogを開設しているのである。と、思って見てみたら、あ、またうまそうなもの食ってやがる。腹立つなあもう。

 ことの始まりは体調を崩して減量真っ最中だった堺さんに、かなりの悪意を持って「こんなホームページがありますぜ」とやまけんのページを教えたことだった。私としては堺さんが歯ぎしりしてもだえ苦しむところを見たかったのだが、あにはからんや、堺さんはやまけんページをすっかり気に入ってしまい、やまけんとあれこれ食い物の情報を交換するようになり、あまつさえ二人で寿司を食いにいくまでになってしまったのだ。

 そんなことをこの意地悪魔法使い松浦が許すだろうかいや許さない。「俺も寿司食いたい」というわけで、やまけん御用達の寿司屋、門前仲町の「匠」に出かけることになったのだ。

 実はやまけんに会うのは学校卒業以来7年ぶり、久しぶりのやまけんはあいかわらず威勢が良かったが、7年の職業生活で確固たる食のプロになっていた。やまけんからは著書の「実践農産物トレーサビリティ」をもらい、私からは「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」を贈る。

 で、肝心の寿司といえば——うまいっ。他なにもいうことはありませんです。ネタもいいし米もいい、さらには醤油にまで神経が行き届いており一貫一貫がこまやかな手さばきで絶妙の強さで握られている。若い大将の真剣な態度が伝わってくる美味だ。漬けまぐろ、富山の白エビ、バフンウニ、塩で食う穴子、昆布〆鯛、ミル貝の肝、ホタルイカ——どれもこれも一級品ではないか。

 そうか、今東京には最高の食材が最高の状態で運ばれてきているのだな。目利きと努力を惜しまなければ、それをこうやって提供することもできるのだな。

 やまけんはと言えば、「俺腹減ってるからシャリ二倍ね」と言って、小ぶりのハンバーガーぐらいある寿司をぱっぱと食っている。

「松浦さん、純米酒の熱燗いこうぜ」
「純米酒は冷やで飲むのが基本では」
「なにいってんの。最高の純米酒は熱燗さ。知らないなーぁ」
と、三重の「るみ子の酒」を熱燗に。おお、確かに。冷酒とは全く異なるふくよかな味が口の中に広がる。
「熱燗にすると米の味がふわっと出るわけよ。素晴らしいのはそれが寿司のシャリの味を殺さないで引き立て合う事ね。最高でしょ」

 はい、まいりました。

 やまけんは、近く会社を興して独立するという。堺さんも生活を大きく変えるべく動き出すとのこと。負けてはおれないなあと強く思う。

 しかし堺さんが、これほどきちんと食を考えている人とは知らなかった。「何言ってんですか。そもそも体調を崩したのも、ローストビーフやら豚角煮やらを自炊していたからで」そりゃ体調も崩しますわな。
 いや、SF関係者の間では、堺さんといえば「スターウォーズボトルキャップを集めるために毎日ペプシがぶ飲み」とか「カロリーメイトで命をつないでいる」とかそんな話ばっかだったもので、典型的なオタク食の人かと思っていました。失礼しました。

 やまけんの隣には、たまたま彼のblog常連のKappaさんという女性が座っていた。金融トレーディングで働いているという。やまけんはといえば、
「貯金預けるにはどうしたらいいのかな」
「20億以下じゃダメね。20億稼いだらいらっしゃい」
「おう、そんだけ稼ぐとしたら3ヶ月かな」
 こういう奴だ。

 Kappaさんからは、「よろしければつきあいませんか」と、生わさびを入れた焼酎を一杯おごってもらう。おお、これも美味。つんとせずにわさびのほのかな甘みが味わえる。「チューブ入りわさびでやっちゃダメですよ」。ははっ、しかと承りました。

 かくしてとても楽しいひとときを過ごさせてもらった。やまけん、堺さん、「匠」の大将、Kappaさん、ありがとうございました。

 写真は「匠」のカウンターにて、左からやまけん、私、堺さん。

航空宇宙学会のパネルディスカッションに出席する

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4月6日、今日も晴れて暖かい。

 朝から大手町の文部科学省に行き、宇宙開発委員会調査部会を傍聴する。現在、H-IIAロケット6号機失敗と、火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入失敗を審議しており、私にとっては可能なかぎり傍聴しなくてはならない状況。

 H-IIAについては、事故原因となった固体ロケットブースター(SRB-A)の海底からの回収を諦めたという報告。この日各マスコミは「回収を断念」と報じていたが、そもそも回収する必要があったのだろうか。この日の調査部会でも東工大の小林教授が「噴射で高温になったノズルの複合材が海面着水の衝撃と急冷の熱ショックに耐えて残っているとは考えにくい」というような発言をしていた。まとめの段階であえてこのように発言するのだから、その前の事故原因ではかなり激しく「引き上げの必要があるかどうか」という議論が交わされたのであろう。

 井口委員長は、「慎重に」を繰り返していたが、それでいいのだろうか。一体何のための慎重さ?

 今もっとも考えるべきは、アメリカから借りている気象衛星「GOES-9」が寿命が切れていつこわれてもおかしくない衛星だということではないだろうか。「原因がどうのこうの」と完璧を期するよりも、覚悟を決めて可能な限り早く次の気象衛星、というか運輸多目的衛星「MTSAT-1R」を打ち上げるべきではないだろうか。だいたい、何度も私は指摘しているが、「MTSAT-1R」はよく言えば野心的、悪く言えば無理した設計の衛星であり、軌道上できちんと動くかどうかまだわからないのである。現在三菱電機が製造中の「MTSAT-2」も含めて、なんとしても静止軌道からの気象観測を絶やさないように、とれるだけの手段を取っておくべきなのではないだろうか。そう努めることこそが、真に国民に対して責任を取るということではないだろうか。

 実は前回内閣府に顔を出した時に、審議官に「羮に懲りて膾を吹いていませんか」と質問した。返事は「個人的にはそう思います」というものだった。

 休み時間に委員として出席していた五代富文さんと少し話をする。久しぶりだ。病気をしていたと聞いていたが、元気がでてきたようでなによりである。

 委員会の後半は、「のぞみ」の詳細について。ほんとうに惑星探査機の成功失敗は、ほんの少しのことで決まるのだな。

 時間があったので、初めて新丸ビルの中を歩いてみる。旧丸ビルにはインテルの東京事務所があって、パソコン雑誌時代に何回か取材で入った。あの昭和初期を思わせる建築は嫌いではなかったけれども、新丸ビルもなかなかいい建築だ。六本木ヒルズの事故を受けて回転扉は止まっていた。

 午後は、東京大学本郷キャンパスで開催されている航空宇宙学会総会へ。なんの因果か知らないがパネルディスカッションのパネラーとして呼ばれているのである。

 ISASの稲谷芳文先生からメールが来た時には正直びびった。ISAS関係者にこの話をすると、「稲谷先生って強面なんですよ。学生には厳しいです。記念写真の説明で人物の輪郭をとってこの人は誰だってしめすイラストを付けることがあるでしょ。稲谷先生のところだけ頬に縦傷とアイパッチが書き込まれていたことがあるんです」とのこと。

 おそるおそる会場の山上会館に行って稲谷先生に挨拶すると、「もうびしびしいってください。最初に旧NASDAとNALから解説がありますが、それについていいたいことをいってくださってけっこうです」。本当に言いたいこといっていいんでしょうか。いいんですね。

 というわけで、始まったパネルディスカッションでは、「結婚には三つの袋というものが」という話…ではなく「研究開発では、頭と手と足が動いている必要がある。考えること作ること、色々な人にあってコネクションを作ることだ。過去数十年に渡って航空宇宙分野は頭ばかりで、手と足が動いていなかった」という話をする。「短距離離着陸機の飛鳥以降、旧航空宇宙技術研究所(NAL)は20年間、毎年200億円の予算を使いつつ何一つとして実験機を飛ばしてはいない。ラジコンでいいから毎年実験機を飛ばすべきだ」とも。

 「パリエアショーでなにが恥ずかしいって、まったくやる気が感じられない航空宇宙工業会の展示が恥ずかしかった」と言うと、横でパネラーとして出席していた三菱重工の方が、吹き出し笑いをした。そうか、誰もが感じていたことなのか。
 なにしろちょっと先では、リージョナルジェットを開発している中国が売る気まんまんの営業活動を展開しているのに、航空宇宙工業会の展示ブースでは、ババ引いて出張を押しつけられたとおぼしき説明要員が、つまらなそうにコーヒーを飲んでいたのだ。私思うに、日本が旅客機を作れないのは、単にやる気がないだけだ。いろいろ理由はあると思うけれど、決定的に足りないのはやる気だと思う。

 最後は、「今日は私の後ろに立たないで下さい」と締めくくった。

 私のような部外者から厳しい意見を期待するというのは、航空宇宙の世界がよくよく行き詰まっているということの現れなんだろう。その後の懇親会では、私がこの分野を取材し始めた頃に、もう宇宙開発委員会の委員だったような老大家の皆さんから、「君のいうことはもっともだ。後ろから刺したりしないよ」ばんばん、と背中を叩かれる。その横では中須賀先生が「松浦さん言うじゃん」とにこにこ。ああもうなにがなんだか。

 お開き後は旧知の旧NALの皆さんから「君はそういうが」と引っ張られて酒場へ。酒でどろどろの議論をして気が付くと東海道線の車中。ああもうなにがなんだか。

 写真は東京大学本郷キャンパスの三四郎池。江戸が出来る前の風景はこんなものだったんだろうと思わせる静かな場所。

他人の文章の間違いを直す

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 うわ、これを書いているのは4月9日。余り怠けるとこの手の日記は回復不能になる。簡単でもいいから書かなくては。

 4月5日は、午前から東京へ。どんどん暖かくなっている。この夏に考えている海外取材のための打ち合わせ。本当に行けるかどうかは、相手次第。

 帰ってきてまた仕事仕事。汗ばむほどの陽気だが日常はつや消し迷彩色で潜行。ところがとある雑誌のヴィジュアル系ページの仕事の校正が出てきて愕然。文章よりも画像を優先する仕事の場合、私が文章を提出してからデザイナーが画像の配置を行う。このため文章量が足りないということが時々起こるのだが、その場合に編集部なりデザイナーなりが文章を追加することがままある。

 私は記者出身で、自分の文章に手を入れられてもあまり気にならない。結果としてきちんとした内容が読者に伝わればいいのだ。

 ところが今回は、デザイナーが書き加えた文章が間違いだらけだった。あわてて編集者に連絡して校正のぎりぎり期限を確認して直しに入る。結構な量でうんざりする。こういう場合は自分が全部書き直したほうが本当は早いのだ。仮眠を挟んでひたすら校正し、直していく。
「このまま出版したら雑誌の恥だから、絶対に直してくれ」と注釈を付けて直しをメール送付したら、もう朝になっていた。そのまま取材に出かけるのである。だああ。

 写真は近所の家の庭に咲くソメイヨシノ。なかなか見事な枝っぷりだが、家を建て替える関係で今年限りで切り倒されるとのこと。家人も惜しいと思っているようで先だっての週末は椅子と机を用意してまで道行く人に公開していた。

2004.04.05

「宇宙塵」に拙文が掲載される

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 4月4日は雨も降り肌寒い一日。部屋の掃除と整理とあれこれ買い出し。

 数日前に柴野拓美さんから届いた包みを開けると、SF同人誌「宇宙塵」の最新号(198号)だった。私は「コロリョフ最晩年の家を訪ねる」という一文を寄稿している。メインは野尻抱介さんの短編「沈黙のフライバイ」、そして1977年に行われた小松左京・柴野拓美対談の採録(目次)。

 昨年6月にモスクワに行った際に、ソ連宇宙開発の父にしてアメリカが恐れた「設計主任」、セルゲイ・コロリョフが最晩年を過ごした家を訪れた。掲載と相成ったのは、その時のことを書いた文章である。

 とてもうれしい。日本SFの先駆者であり翻訳者でもある柴野さんが主宰する「宇宙塵」は日本最古にしてもっとも長く続いているSF同人誌だ。過去に数々の傑作を掲載し、数多の才能を発掘してきた。そこに文章を載せることができたこと、そして「沈黙のフライバイ」というファースト・コンタクトテーマの傑作と並んで掲載されたことが素直にうれしい。

 実際、SFというのは思考を合理的な形で解放する有力な手段だと思う。この「合理的な解放」というところがとても大切だ。ドラッグから宗教に至るまで、精神を解放する手段を人間は色々開発してきたけれど、あくまで合理的に解放してくれるのはSFだけだろう。

 コアなSF関係者からは「SFを手段としてしか見ていないのか」とか「SFは人間の非合理性をも取り込むことができる」とか色々といわれそうだけれども、でも私にとってSFはなによりも、すぐに固まりたがる自分の思考を柔軟にしてくれる道具であり、同時に読書の楽しみの大きな部分を占める文学形式でもある。

 久しぶりにミルクティーが飲みたくなり、低温殺菌牛乳を買ってきてフォーションの紅茶をいれる。私はコーヒーより紅茶、レモンティーよりもミルクティーが好きだ。ミルクと茶葉がそろわないとおいしいミルクティーにはならない。同時にベルギーのブラックチョコレート(茅ヶ崎くんだりであっさり入手できるのだからずいぶん便利になったものだ)などもちょいとかじって午後の一時を気分良く過ごす。ああスノッブ。

 写真は「宇宙塵」最新号の表紙。恥ずかしいのでちょっと小さく。

2004.04.04

古久屋のラーメンを食べる

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 4月3日は、Kさんに送られて町田から帰還。お邪魔しました。

 前夜の深酒をすこしずつ抜きつつ帰る。晴れて暖かい。藤沢に出て、ダイヤモンドビル地下の中華料理屋「古久屋」でラーメン。490円也という値段で分かるように決して「めちゃうまい」という味ではないが、浪人の頃よく食べていた「青春の味」だ。あれから四半世紀近く経つけれども同じ味というのはうれしい限り。

 青春の味といえばもう一つ、藤沢市青少年会館食堂の、まったくやる気なし盛りばかりがすばらしいケチャップ味のチキンライス、というのもあった。もちろんチキンなどほとんど入っていない。
 高校を出て浪人した連中でぐだぐだと集まって青少年会館でピンポン、でもってこのケチャップぎとぎとのチキンライスを食うというパターンだった。確か230円だったかな。100円足して大盛りを頼むと食いきれないほどの量の「ケチャップライス」が出てきた。ぐええ、思い出すだけで胸焼けが。

 あのぼろかった青少年会館もなくなってしまい、もうチキンライスは食べられない。別に惜しくはないけれども、しかしどうしてこうしょうもない味が記憶に残るのだろうか。

 スポーツクラブに行き、泳がずにサウナにだけ入って酒を抜く。後は部屋の片づけ、私は部屋がきれいでないと仕事が出来ないタチなのだ。ちらかっていないと思っていたけれどかなり大変。「主婦の仕事は永遠のその場しのぎ」という言葉を実感する。

 写真は藤沢駅のホームから見た飛行機雲。ロケットの噴煙、飛行機雲——気持ちを空の彼方にもっていってくれるものは何でも大好きだ。

2004.04.03

携帯電話の進歩にびっくりする

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 4月2日の朝は雨っぽかった。自動車で父を病院に送る。帰途、ガソリンスタンドで自動車の簡単な整備。車内を掃除してタイヤ空気圧を調整する。大分圧力が下がっていた。あぶないあぶない。

 午後からはすばらしい陽気。春だよなあと思いつつ、水道橋のKDDIへ、日経WinPCの連載のための取材。カメラマンのOさん、編集長のIさんと一緒。最近の携帯電話の恐るべき進歩にびっくりする。これを高校生が使っているのかと思うと、なんともいえない気分になる。

 昔話をするのは年を取った証拠だというが、自分が子供の頃は家に電話のない友達というのが実際にいた。電話は電電公社の黒電話で。ダイヤルは回すものだった。子供が電話で友達を遊びに誘うと、「子供らしくない」といわれたものだ。子供は玄関先で「あそぼー」と叫ぶものだった。

 フィンガー5の「恋のダイヤル6700」などは、テクノロジーの発達により、今の青少年には理解できなくなっているのではないだろうか(でも調べてみるとこの歌、ちゃんと着メロリストには入っていた)。あの歌ではダイヤルは「回す」ものだし、だいたいなんであんなに女の子のところに電話するのがどきどきするかといえば、親が出てきたらどうしよう、ということだものな。携帯電話なら、親が出てくるというのはまずない。

 帰途、I編集長と、テクノロジーの進歩について話し合う。I編集長曰く「たしか1993年の5月だったかな、ジョージ・ギルダーのインタビューをしたんだ。ギルダーは『今アメリカではネットワークが大きな影響を持ち始めていて、ルーターが重要になっているんだ』といったんだけど、僕なんか『ルーターって何?』だったんだよね」。私にもそんな経験が山ほどある。

 20年前の1984年がどんな時代だったか考える。私は人より2年遅れた大学3年生だった。

 1984年。

 もちろん携帯電話はない。インターネットもない。パソコン通信草創期だ。そのパソコンはといえばPC-9801F(8086、8MHz)だった。ADSLに押されてあっという間に衰退したNTTのINS64すらまだだ。NTTの三鷹実験は1985年だった。大型テレビもまだだ。28インチ以上のテレビ普及は1986年である。家庭用ビデオは普及しはじめたばかりで、VHSとベータががっぷりよつだった。

 こと技術という一点に限ってみても、20年前に今の状況を予想することはできなかった。つまり20年後も予測不可能である。「20年後にあれができるこれができる」と語る者がいたとしても、それは信頼すべきではないだろう。

 夜、町田に出てNIFTY-Serve時代からの友人Kさんと一席。「面白い人を紹介します」ということで一緒にやってきたNさんは、なんと日大航空出身だった。なぜか最近日大航空出身者と会う事が多い。飛行機の話でどーんと盛り上がり、終電を逃してKさんの家に泊まることになる。

 写真は、水道橋と飯田橋の間にあるKDDI本社前。かつてのJR貨物の飯田町駅だった場所はきれいな高層ビジネスビルが建ち並ぶオフィス街となっていた。

アクセスが大爆発する

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 4月1日、エイプリルフール。野尻ボードには皆さんよりすぐりの嘘を投稿している。

 なにかがぷちんと切れてしまったので仕事を放棄。こういうときは休むほうがいい。海岸を散歩してスポーツクラブで1400mほど泳ぐ。

 なんとこのページのアクセスが大爆発。どうなっているんだ?とアクセスログからたどってみると、「自動車ニュース・コラム」というメールマガジンに、三菱ふそうの問題を書いた日の日記がリンクされていた。しかも知人2人から「このメルマガに引用されていたよ」とのメールも届いた。

 自動車というのは社会に大きな影響を与えていて、多くの人が関心を持っているんだな。と実感する。私の更新するページが今までに経験したアクセス記録は、SpaceServerを運営していた時に、南米ギアナから「アリアン5」ロケット1号機の打ち上げを中継した時だった。打ち上げ後40秒でロケットが爆発し、アクセスが殺到したのだ。しかし今回のアクセス数はそれ以上だった。この8年間にネット利用人口が激増しているとはいえ、やはり自動車はロケットよりも社会にとって重要なのだ。

 自動車ニュース・コラムから来た皆様、いつまで続くかも分からぬ吹けば飛ぶようなページですがよろしくお願いします。

 写真は近所を走っていた「smart crossblade」、ダイムラー・クライスラーが日本に入れているコンパクトカー「smart」を、徹底した遊びバージョンに仕立てた車。実に軽快そうで見ていて楽しい。ホームページを見ると日本での販売数は34台とのこと。

2004.04.02

文科省で資料を受け取る

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 31日は午後から文部科学省へ。宇宙開発委員会の討議資料を受け取る。

 長年霞ヶ関にあった文部科学省は、現在庁舎の建て替えにともなって丸の内の旧三菱重工本社ビルに入っている。三菱重工はといえば、新幹線駅開業に伴って大規模開発が行われた品川に移転した。

 宇宙開発委員会は基本的に誰でも傍聴できるので、興味のある時は努めて出るようにしている。このところ聞いておくべき会合が続いているのだか、なかなか都合が付かずに傍聴できないでいる。

 旧宇宙開発事業団(NASDA)関係の資料は、委員会当日にJAXAホームページにアップされるのでさほど不便を感じないのだが、旧宇宙科学研究所(ISAS)関係は事務の都合かアップされていない。そこで宇宙開発委員会・調査部会で審議中の火星探査機「のぞみ」の火星投入軌道失敗についての資料を受け取りに行ったわけである。
 宇宙政策課で資料を受け取り、応対してくれた若い官僚と名刺を交換しようとすると「いえ、私は明日付で異動しますので」。そうか31日か、と思うよりも早く口が滑ってしまう。「だから官庁ってのは!」。

 霞ヶ関官庁は平均2年、短ければ1年以下で次々と配属部署が代わる。「癒着を防ぐため」とか「さまざまな仕事をこなせるジェネラリスト育成のため」とか表向きの理由はいくつかある。が、実態としてはそうやってどんどん人事を回していくなかで、人材が淘汰されて次々に天下りの形で放出され、最後に同期でただ1人の事務次官が残るという仕組みである。

 取材する側からするとこれは本当に悩ましいシステムだ。ある程度気心が知れるようになったころに相手がいなくなってしまい、また人間関係を構築しなくてはならない。「それが癒着だろ」とつっこみが入りそうだが、でも人間的な信頼関係なしに情報がやり取りされたりされなかったりする方が、実際には恐ろしい。行き違いが発生するし、ニュアンスも伝わらないからである。

 にしても、失言でした。私は官庁の2年人事ローテーションは好ましくないと考えているが、個々の官僚がそれに喜んで従っているというわけではない。応対してくれた彼は気分を害したのではなかろうか。

 ここ、見ていますでしょうか。あやまります。ごめんなさい。

 しかし、あの過酷な人事システムを長年横から見ていると、淘汰されてしまう方の人材にさまざまな美質を見てしまうのも事実である。事務次官となる者が、必ずしも同期のなかでもっとも優秀というわけでもない。

 私が宇宙関係の記者として、せっせと霞ヶ関をご用聞きのごとく歩き回って取材していたのは、1988年から1992年の4年間だ。もう12年も昔の話になった。行った官庁は、科学技術庁をはじめとして、通産省、郵政省、文部省、運輸省、外務省、気象庁であった。最初に科技庁の庁舎に入った時は、そのどよんとした雰囲気にびっくりしたものだが、そのうちに科技庁は霞ヶ関ではかなりまともなのだと分かってきた。

 それぞれの職場の雰囲気を当時の私の独断で採点するなら、最悪は外務省で、同率首位で文部省だった。この2つの官庁は、私の主観からすれば呼吸をするのもつらいぐらいに雰囲気がよどんでいた。

 私の主観などどうでもいいことだが、この2つの官庁はその後かなり恥ずかしいスキャンダルを起こしている(文部省はリクルート事件で事務次官逮捕、外務省は公金詐取による裏金作り)。

 その後、麹町に回る。かつて私のボスだったNさんから「お前の本を読んで、会いたいといっている人がいる」ということで、紹介されたのはNさんのラジコングライダー仲間の方だった。飛行機マニア3人で大いに盛り上がる。

 写真は東京駅前にある東京中央郵便局のポスト。「郵便は世界を結ぶ」とあるが、もはや「郵便は世界のネットが使えない人を結ぶ」としなければならないだろう。私は、すでに郵便事業は使命を終えており、郵便局を廃止してその分をネット整備に投資すべきと考えている。

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