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2004.05.09

資料をコピーする

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5月7日

 一日仕事。午後は借りている資料のコピーでつぶれる。学生の頃、試験の資料はコピーをとって安心してそれでおしまいだったが、仕事の資料はそうはいかない。コピーしたものをすべて読んで、脈絡を見つけて筋道の通った原稿に仕上げて行かなくてはならない。うんざりする作業だが、資料の間をつなぐロジックの道筋が見えてくるのは快感でもある。

 理論と実践ということを考えていてふと思いつく。カール・マルクスは大英図書館で勉強しつつ「資本論」を執筆したが、労働の現場ではなく図書館からの発想であったことが、後の共産主義諸国の失敗の遠因にあったのではないだろうか。労働の現場とは離れて労働を論じようとしたことがマルクスの失敗の原因だったのではないだろうか(あくまで思いつきで、きちんと検証した話ではありません。念のため)。

 写真は3年前にロンドンに行ったときに見学した大英図書館の書見台。折りたたみの構造は素晴らしく考え抜かれており、機能面でも大判の本を読むのに非常に便利にできている。マルクスは本の内容と自分の思考におぼれ、この書見台の構造や、この構造たどり着くまでに木工職人がどのように頭を使ったかにまで考えが及ばなかったのではないか、というのが私の感想。まあ、この書見台をマルクスが使ったという証拠はないのだけれども。

2004.05.08

iTunesをいじる

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5月6日

 連休の暴飲暴食がたたったか胃が重い。午前中、医者に行くと「ガスター」を処方される。実は昨年夏に冷たいお茶の飲み過ぎで胃を荒らしたことがあり、その後時折胃が重くなるという症状が出ていた。このことを医師に話すと「この薬を飲みきって直らないようならピロリ菌感染を考えた方がいいかも知れません。その場合は除菌が必要ですね」と言われる。
「ピロリ菌に感染する機会があったとは思えないんですが」
「いや、ピロリ菌そのものはどこにでもいるんですよ。おそらく昔の日本人なら100%保菌していたんじゃないですか」

 体質の問題だと思われていた胃炎や胃潰瘍が、実はピロリ菌によるものと分かったのは20年ほど前、2000年からは除菌治療が保険で認められるようになった(武田製薬のこのあたりを参照のこと)。必要とあらば検査と治療を受けなくてはならないだろう。

 MacOSXのQuickTimeが6.5.1にアップグレードし、iTunesとiPodで音質劣化を起こさない「Apple ロスレスエンコーダ」というコーデックが使えるようになった。試しにピアノ曲をリッピングしてみると確かにCDそのものの音質が得られてファイルサイズは約半分になる。

 ご存じの通りMP3にせよAACにせよWMAにせよ、人間の耳では聞こえない音を削るというやりかたで情報量を削減してファイルサイズを約1/10にまで圧縮している。それはそれで便利なのだが、私が好む室内楽やピアノ曲だと、わずかな雰囲気の変化が気になってしまう。どうせならCDそのものの音をリッピングしたいのである。情報を削らないロスレス圧縮だと理論的にLZH法が圧縮の限界となるので、ファイルサイズは半分程度にしかならない。が、それでも原音通りというのはけっこう魅力だ。

 こうなるとiPodが欲しくなる。「自分の持っているCDをすべてそのまま持ち歩きたい」というのがここ数年の私の希望なのである。今、一番容量の大きいiPodは40GB。ロスレス圧縮で大体ファイルサイズが半分になるとして、CD130枚程度。すべての音楽CDが容量ぎりぎりまで使っているわけではないので、実際には150枚以上のCDの音声をリッピングできるだろう。

 で、問題は私が300枚以上のCDを持っているということである。素直にコーデックとしてMP3かAACを使えばいい話ではあるのだが。そこで実際色々なコーデックで変換してみると、MP3の128kbpsだとピアノの高音域がダメになるもののAACの320kbpsならほとんど問題はない。

 ただでさえ出費がかさむというのにまた新たな物欲が。

2004.05.06

思わぬ出費が判明する

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5月5日

 仕事をしていると、自動車を車検に出したディーラーから電話。「お言いつけのありましたゴム類の交換なのですが…」。なななな、なんと!

 私の自動車は10年物のAZ-1。「セラ」と並び、日本車で2車種だけ(だと思ったが…)のガルウイングのクルマである。

 自動車の免許を取得したのは21歳の時だった。学生時代の一時期、友人のお父上から譲り受けた78年式だったかの三菱ギャランに乗っていたが、すぐに手放してしまった。バイクに夢中だった私には、自動車が生ぬるく思えたのである。ひとつにはクルマとの巡り合わせの不幸もあったのだろう。少なくともあのギャランは、私にとってバイク以上の面白さを感じさせる乗り物ではなかった。その後ずっと自動車に関してはペーパードライバーを通してきた。

 「これはどうにもならないな」と思ったのは種子島の取材を始めてからだ。レンタバイクなどというものはなく、ペーパードライバーの私は種子島でレンタカーを使い、運転を覚えなおした。それでも自分で自動車を買うつもりはなかった。

 それがころっと変わったのは3年前の春、知人の所有する古い2ストエンジンのジムニー「SJ10」を運転したことがきっかけだった。SJ10は、笑ってしまうくらいに愉快かつ爽快な自動車だった。私は目の鱗が落ちるような感動を味わった。「自動車ってこんなに面白いんだ!」。

 自分が自動車を運転するならば、少なくともバイク並に面白い自動車でなくてはならない。面白いという点では馬力がある必要はない。大きくて重い自動車は興ざめだ。あくまでも軽やかに走る小さく素早い自動車でなくてはならない。ほどなく狙いは3車種に絞られた。ABCである。「AZ-1」「ビート」「カプチーノ」、バブル期に各メーカーがこぞって出した軽スポーツカーだ。「ロータスエラン」とか考えないでもなかったが、金もなかったし、何より自分の運転技量を自分で信用していなかった。

 そこで、会社から大学に出ていた頃、キャンパスに1台のAZ-1がいたことを思い出した。学生も自動車で通ってくる環境で、キャンパス周辺には自動車があふれていたが、その中でもAZ-1は独特の存在感を放射していた。他のどのクルマにもない、愉快さのオーラがAZ-1を包んでいた。そのことを思い出した時、「とりあえずこのクルマに試乗してみたいな」と軽い気持ちで考えたのである。

 それからしばらくの紆余曲折があって、私はAZ-1のオーナーになった。AZ-1は思った通りの愉快な、走るのが楽しいクルマだった。多くの人は自動車に実用性を求めるが、実は楽しいということはそれと同等ぐらいに、いや自分にとっては同等以上に重要だ。楽しくない自動車では、自分は乗らなくなってしまうからである。AZ-1は自分にとって乗り続ける価値があるだけの楽しいクルマだった。

 が、さすがに製造から10年が経った私のAZ-1は、あちこちがよれているのが分かるようになった。そこで今回の車検に合わせてゴムブッシュの類を一斉に交換しようとしたのである。

 ディーラーからの電話は、予想以上の代金がかかるという電話だった。マニホールドのひとつはガスケットが抜けかけており、交換の必要があるという。一番の問題はエンジンマウントのゴムを交換するためにはエンジンを全部降ろす必要があるということで、それでかなりの整備料金がかかるということだった。

 夜、ディーラーに行って現車を前に相談する。まあ仕方なし。実は金がないわけではない。ビルシュタインのダンパーかブレンボのブレーキを入れようかと考えて貯金していた分をはき出せばいいのだ。しかしビル足…いやいや、ブッシュ類がしっかりしていなければビルシュタインを入れても意味はないだろう。思い切って言う。「交換して下さい」。

 さあ大変だ。予定外の出費だ。稼がなくっちゃ。稼がなくっちゃ。

 写真は2年前の秋、長野県・臼田にある惑星間通信用64mパラボラアンテナ前の我がAZ-1。

○×△□を食べる

5月4日

 一日集中して仕事。夕方、弟から電話。「今実家にいる。大量にカサゴを釣ったぞ。○×△□を作ったので食いにこい」。今日は釣りに行ったらしい。○×△□はどうやらイタリアの料理らしいが、食い気で負けている兄の頭の中を固有名詞はすり抜けていってしまった。

 実家に行って夕食は○×△□。なにやら油っこくしょっぱいスープにカサゴが浮いている。カサゴは美味だがスープはなんともならない。典型的な男の料理だった。

 釣ったカサゴの写真を見せてもらう。30cmほどの大きなカサゴが、これまた大きく口を開けて絶命している。「おいしい死体」というフレーズが頭に浮かぶ。

 しかしアレですな。大きく開いたカサゴの口は、のぞき込むと歯が2列に生えていたりして、ラヴクラフトが描くところのクトゥルー神話の古き神々そのもの。これにタコやイカが加われば完璧だ。きっとラヴクラフトは魚介類が嫌いだったに違いない。西川魯介描くところの「だごん様」なども、煮付けにすれば美味かも。

 写真をもらいそこねたので今日は写真はなし。
 

再起動する

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5月3日

 朝起きると雨、ホテルではたぼうと別れ、雨合羽を着てまた東名を東へ。途中、KATANA乗りの聖地由比で敬礼をし(キリンが飛んだところです。訳が分からない人は東本昌平「キリン」の4巻を読むこと)、ひたすら東へ。途中大した渋滞にも出会わず、昼過ぎには茅ヶ崎に帰着した。

 はたぼうとの痛飲と桜エビで気持ちが完全に切り替わっている。懸案となっていた部屋の掃除をてきぱきと終わらせる。これでまた、仕事に取り組める体制ができた。やはり人間、遊ぶことは必要なのだ。働いてばかりいるとdull boyになってジャック・ニコルソンがやってくるぞ(訳がわからない人は映画「シャイニング」を観て下さい)。

 ついでに車検が近くなっていた自動車をディーラーに放り込んでくる。

 夜は仕事。本格的再起動である。

 写真は、台所に放置していたネギにでてきたネギ坊主。野菜の生命力には驚かされる。あまりに美しいので写真に撮った次第。
 

静岡で桜エビを食い倒れる

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5月2日

 渋滞を避けるために、午前6時半に、AX-1に乗って自宅を出る。湘南大橋を渡って国道129号、厚木インターから東名高速に乗って一路静岡へ。渋滞覚悟だったがするすると進む。これなら大丈夫と富士川SAで1時間ほど昼寝。午前10時半に静岡インター出口で、はたぼうさんと合流。

 はたぼうさんは大学の後輩だ。日頃は「松浦先輩!」「なんだ、はたぼう(もちろん実名で呼んでいるわけだ)」という間柄なので、以下はたぼうと書かせていただく。

 私は大学で模型クラブというところに所属していた。プラモデルマニアの集まりででろでろとプラモデルを作っていたわけだ。そこに入ってきたのがはたぼうだった。彼は1年ほどで辞めてしまったのだが、その後も我々の交友は続いた。共に放浪癖があり、妙にウマがあったのである。
 私はバイクで休みのたびに日本のあちこちをうろうろしていたが、彼は私以上に活動的だった。自転車で日本を走り回り、台湾を走り、銀輪部隊よろしくマレー半島を走り、オーストラリアを走り回った。
 私は成績が悪く、就職の時に「出版社に行きたい」といったら就職担当の先生から「お前のためにしてやれることはない。一刻も早く会社回りをしろ」と言われたが、彼は成績が良く、学校推薦で自動車会社にエンジニアとして就職した。現在は名古屋方面で働いている。
 その後、はたぼうはバイクに乗り始めた。そして、年に数回、お互いの中間地点の静岡あたりで落ち合って一緒にツーリングをしているのである。

 今回の目的地は、安倍川の源流に近い山梨との県境に近い梅ヶ島温泉。昼前についたが、最初に入湯を予定していた「黄金の湯」という浴場は観光客で一杯。入るのを諦めて梅ヶ島温泉街へと向かう。

 まずは昼食。いかにも観光地な食堂で山菜蕎麦を注文する。手際悪くもたもたと注文を取っているので、「これは駅蕎麦みたいなのがでてくるかもな」と話していると、意外に本物の蕎麦でおいしかった。一緒に注文したイワナの塩焼きも新鮮で美味。
 その食堂に湯治場が付属していた。定員7名と張り紙がしてあったので混んでいるかと聞くと「今おひとりさんだけですよ」。これはいいかも知れないと、ここで温泉に浸かる。小さいけれども露天風呂もある清潔な浴場。当たりだったかも知れないと喜んでいると、後から入ってきた親子連れが「『黄金の湯』よりきれいだねー」と話している。単純硫黄泉の透明な湯に心ゆくまで浸かる。

 出てから周囲を見回して、湯を送るパイプ配管を発見。ここの湯がきれいだった理由が分かった。源泉に一番近いのである。店の人に聞くと「ここから下の温泉街にパイプで湯を持って行っているんですが末端では湯温が下がるので追いだきをすることもある」とのこと。

 そのままのんびりと休んでから、静岡に戻ってホテルにチェックイン。フロントで「桜エビを食いたい」というと、「えび金」という店を紹介される。予約電話まで入れてもらっていざ店へ。

 場所はちょっと目立たない雑居ビルの2階。我々が着いた時は店は空っぽだったが程なく満席になる。桜エビは駿河湾の味覚。さあ、桜エビを食い尽くすのだ。まずは生と唐揚げと釜揚げ。

 うまい!生エビはほんのり甘く。唐揚げは香ばしく、釜揚げは肉の歯ごたえが良い。桜エビこそ天が与えた駿河湾の自然の恵み。もう止まりません。各種桜エビ料理を次々に注文して焼酎を飲みまくる。

 話題ははたぼうの職業柄、自動車のことが多くなる。

 前から気になっていたことを聞く。昨今大流行の3列シート7人乗りの最後部座席は安全なのか。
 さすがに、はたぼうは言葉を選びつつ慎重に答える。
「前輪と後輪の軸の間は丈夫に作ってあるんで大丈夫です。でも、そこからはみ出してオーバーハングに座席を作るとなると安全性の確保のためにオーバーハング部を大きく補強することになります」
 つまり着座ポイントがオーバーハング部に入る3列シートは2列シートと比べて難しいんだろう。
「確か、3列目でシートベルトを締めていなかった子供が衝突で放り出されて死んだという事故があったな」
「シートベルトは後ろの席であっても締めるべきです」
「でも、実際には後部座席に行くほど安全意識がいい加減になる」
「こわいところですよね」
「なあ、そこまでして3列にしたって、走っているクルマに乗っている乗員の平均は確か1.5だか6人だったよな。3列の設計にしても、その3列が生きる局面はごく少ないわけだ。ならば2列の設計のほうが使われ方を考慮すれば合理的なのでは。3列シートにすれば車体も大きくなるから取り回しは難しくなるし、重くなって燃費にも影響するだろ」
「でもね、市場は3列7人乗りを欲しがっているんですよ」
「売れ方からしてそうなんだろうな。いったい普通の日本人は何を考えているんだろう」

 私の本職のほうで聞き捨てならない話を聞く。
「最近の新入社員は、クルマにカーナビが着いていないと混乱しちゃうんですよ。『カーナビもないのに目的地にどういったらいいか分からない』って」
 これは恐ろしい。カーナビはアメリカの国防総省が開発・運用しているGPSという衛星システムを利用している。GPSは本来軍用に開発されたものだ。一応、日米間では1998年に「小渕・クリントン合意」というのがあって、今後の継続利用が確認されているのだけれども、アメリカが大統領選挙の度にがらっと方針を変えることはご存じの通り。

 アメリカが「おまえんとこにGPS使わせてやらない」と言ったら、それだけで昨今の若者は道に迷ってしまうのである。これは「自立した国家」だの「普通の国家」といった議論以前の問題だ。測位衛星に関する国家的戦略の不在は、以前からあれこれ指摘していたが、事態はここまで進行していたとは。

 そんなこんな会話をしつつ看板まで居座って、桜エビを食いまくる。最後は桜エビのかき揚げ茶付けで締め、ホテルに戻って沈没。

 写真は、はたぼう氏のZZR-250(手前)と私のAX-1(奥)。梅ヶ島温泉にて。

注記:少々書きすぎた点もあり、公開後修正しました。ネットは難しいです。

ゆっくりと一日を過ごす

5月1日

 昨日書いた「えぼし」は、グルメマップなどに出ている茅ヶ崎の有名店だ。ただし料理そのものの味は言うほどではない。というのは、本来茅ヶ崎地上がりの魚を食べさせる店だったのだけれども、商売がうまくいって店を増やしたために地上がりだけでは追いつかなくなって小田原やら三崎やらで上がった魚を出すようになったからである。こうなると、東京の店と大して変わらない。

 とはいえメニューをきちんと見ていくと茅ヶ崎地上がりの魚を使った料理もある。これは掛け値なしでおいしい。

 ちなみに茅ヶ崎本店には駐車場があって、結構な人数が自動車で来店している。一体何人が飲酒運転で帰っているのかと考えると、かなり恐ろしい。これは「えぼし」の責任ではない。我々のモラルの問題である。

 大した二日酔いにもならずに起き出して、4歳の甥と遊んだりして、ひさしぶりにだらだらと時間を過ごす。甥はよくしゃべるようになってうるさいぐらい。午後4時過ぎに妹一家が帰ると、空気に穴が空いたようなさびしさが残る。自宅に戻って、仕事の続きを続ける。

ちょっとだけ休みらしい日を過ごす

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4月30日

 まだまだ続くあれを片づけ、これを片づけ——で、ぶちっと来る。世間はゴールデンウィークだというのになぜ自分はこんなことをやっているのか。で、午後4時過ぎから自転車で出かける。目指すは逗子の弟の家。先日自動車で送った時、「自動車だと楽ちんだねえ」と抜かしていたのを思い出したのだ。仕事で疲れている彼はおそらく寝ているであろう。よーし、では悪い兄が自転車で襲撃して「自転車でも楽ちんだねえ」とからかってやろうではないか。

 茅ヶ崎から逗子まで約18Kmぐらい。最寄りの駅までしか自転車に乗らないという人には長距離かもしれないが、実のところ自転車にきちんと乗れば大したことはない。裏道をへらへらと走って1時間半で到着。しかし弟は留守だった。

 考えてみればあの忙しい男がきちんとゴールデンウィークを休めるはずもなく、暦通りに出勤していたのである。腹が立つので玄関に「兄参上」と落書き…というようなことはせずに、玄関前で記念写真を撮って退散。

 帰ってくると留守電に妹から連絡。今茅ヶ崎の実家に来ているという。「えぼし」にいるからおいでとのこと。行くと妹夫妻に甥に姪、そして母が魚料理をつついていた。妹夫妻は、1月に生まれた姪のお宮参りで寒川神社に行って来たという。

 12歳年下の妹を一言で形容すると「しっかり者」。上の兄2人がぐつぐつ煮え煮えで独身のままそろそろ腐ろうかという状態であるのを尻目に、大学で出会った義弟とさっさと結婚し、ちゃっちゃと2人の子供を産み、あまつさえ共働きの利点を生かして都内に家まで建てた。お見事としか言いようがない。

 3か月になった姪は、大分目鼻立ちがはっきりしてきた。彼女のやわらかいほっぺたをつついていると、自分が古道具になった気分になる。2004年生まれだ。21世紀に生まれ21世紀を生きる命なのだ。

 その後は実家で義弟と酒盛り。彼は電子マネー関連の職場で働いており、実弟と同様、ひどくお疲れの様子。これだけの例で即断はできないが、電子マネーやネットワーク関連が大忙しということは、つまりこの10年間の日本の不況というのは、技術や社会の変化についていけない職種、そして変化に弱い人々の右往左往が引き起こしたのではないだろうか、と思う。

 義弟は、私よりハンサムで私よりずっと背が高く私よりも性格的に優しい。ただし、私にも勝てるものがあってそれは酒量である。お互いの仕事の話や、生活の話をしつつ義弟の撃沈に成功。勝利の凱歌を上げつつ自分も轟沈。

 写真は姪の足。かわいいねえ、本当に。

遊び仲間とステーキを食べる

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4月29日

 ゴールデン・ウィーク初日だが、私は仕事。メールの片づけに部屋の整理に、発送しなければならない手紙に、払わなければならない公共料金に、洗濯しなければならない洗濯物。さすがに布団も干したいしシーツも洗いたい。あーもう。

 時折「仕事の鬼」というような人を見かけることがある。私の経験からいえば、そのほとんどは生きていくために必要不可欠なメンテナンスを家族、多くは奥さんに押しつけているということである。残るごく一部は、自分の生活の要求水準を極端に下げられるということ。

 夜、遊び仲間と会うために出かける。連休初日で道が混んでいるであろうと考え、バイクはKATANAではなく、取り回しのいいAX-1を選択。横浜新道から第三京浜に抜けて環八出口すぐのステーキハウス「エル・アミーゴ」へ。特に渋滞に引っかかることもなく1時間ちょっとで到着すると、すでにおりじゃさんは着いていた。しばらくしておかちんさん登場。他数名仲間がいるのだけれども本日は3人のみ。「29日はにくの日」とかで3割引となったステーキをがつがつと食べる。

 彼らは、私よりも6〜7歳年下。とある私立大学付属高校の漫研の先輩後輩だ。ふとしたきっかけで知り合い、なぜか年長の私も仲間に入れてもらった。

 おりじゃさんにせよ、おかちんさんにせよ、今日は来ていない他の仲間にせよ、皆驚くほど遊ぶのが上手だ。ちょっとしたことを面白がって知恵を出し合い、とても面白い遊びに変えていく。以前、「なんで君ら、そんなに遊ぶのが上手なんだ」と聞いたら「だって僕ら、人生の一番楽しい時期に一番ヒマがあったんですよ」という返事が返ってきた。大学へ内部進学できるから、大学受験のない高校は天国だったというのである。そこで培われた遊びの精神が今も続いているわけだ。

 それぞれ就職して家庭を持った今も、時間を見つけては集まり、見事な純度で遊び続けている。遊ぶのにも才能はいるし、熟練も必要だ。そして遊びの達人になるということは、仕事一筋で生きるということと同じぐらい重要である。

 彼らがもっとも嫌うのは、「金を巻き上げられたあげくもてあそばれる」遊び。例えばディズニーランドに行くといったことだ。彼らの遊びは常に自発的でアクティブである。金を払って口を開けていれば与えられる娯楽は、すでに遊びではない。

 「エル・アミーゴ」は、彼らの青春の聖地らしい。ここのステーキはさほどおいしいとも思わないが、「あの時あいつが一番でかいステーキを食った」というような青春の思い出が染みついた味なのである。それは最高の調味料と言えるだろう。

 その後ファミレスに場所を変えて、えんえんとしゃべりつづける。社会ネタ、オタクなネタ、プライベートネタなどなど。午後11時も過ぎようかというところで解散。

 だいぶ気分転換になった。ふたりともありがとう。

 写真は、おかちんさん愛用のジムニー。色が黒いもので夜は闇夜に烏で輪郭すらよく分からない。ボンネットに出た錆が使い込んでいることを伺わせる。学生時代から17年も乗り続けているとのこと。

宇宙開発関係者との飲み会に出席する

4月28日

 自分の気力が衰えているかどうかは、朝、布団がたためるかどうかで判断できる。力がでないと「まあいいや」で布団を敷いたまま朝食を食べて、また布団に倒れ込んでしまうのだ。とはいえ、そう寝てばかりいるわけにもいかない。先日の仕事の修羅場にかまけて、たまりにたまっていたメールの返事を片づけていく。

 夜、東京で某宇宙開発関係者と飲み会。皆鬱屈しているのか多弁だ。主に聞き役に回る。
 ただ鬱屈して、アルコールで発散するだけでは事態は改善しない。それをまとめ、実効的な方策を立て、実行しないと。

 「日本の宇宙開発にはヴィジョンがない」というなら、自分らでヴィジョンを提示できなければいけないのだと自戒を込めて肝に銘じる。言いっぱなしの責任とらずはジャーナリズムの宿痾だから。

仕事に復帰する

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4月27日

 相変わらず体力的には問題あり。うまく気力のエンジンがかかってくれない。定例のカイロプラクティックの後、日経WinPC編集部へ。先日のトヨタ取材をどう原稿にまとめるかで打ち合わせ。たった一件の用事だったが激しく消耗する。

 日経パソコン編集部に寄って、昨日送った原稿のゲラをチェックする。DTPのおかげで1日でゲラになるようになった。私が就職した18年前は、記者が書いた手書き原稿に対して制作担当デスクが文字数を数えつつ写植屋への指示を赤ペンを書き入れていたことを思うと今昔の感がある。

 夜、日経エアロスペース時代の先輩Kさんから電話。知る人ぞ知る、「アリアン4」ロケットの爆発を目の前で見たことがある人。あれこれ情報を交換する。

 写真は、カイロプラクティックに行く途中で見かけた、イタリア製折りたたみ自転車「ストラーダ」。三角形のフレームがおしゃれである。こいつのスフェリカル・ジョイントを採用した折りたたみ兼ステアリング機構は芸術的といってもいい。実用性はといえばかなり疑問だが、イタリアならではの美しいデザインだと思う。
 間違っても「その機構を採用するとどれだけコストが上がるのか」「そのデザインでどれだけ売り上げが伸びるか数字を出せ」とかいいたがる上司がいる日本では出てこないであろうデザインだ。

久しぶりにツーリングする

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4月26日

 弟と温泉に行ったことがきっかけになったのだろう。妙にうずうずする。何とか午前10時に起き出して、ちらかるだけひっちらかった部屋の片づけを始めるが落ち着かない。午後2時過ぎ、ついに衝動が勤勉に打ち勝ち、1100KATANAに乗って出かける。おそらくは昨年の秋以来のツーリング。

 西湘バイパスから箱根ターンパイクを駆け上がり、伊豆スカイラインへ。その勢いで走り続けて下田あたりで刺身でも食うか、と思っていたが、玄岳で、空にパラグライダーが飛んでいるのに気が付く。おや、玄岳のあたりもうずいぶん長い間パラグライダーは飛んでいなかったはずだ。

 適度の風に恵まれて、空高くで浮いているパラグライダーを見ているうちにこれまたうずうずしてくる。途中山伏峠でちょっと降りて、パラグライダースクールの「パラフィールド」へ。何を隠そう、私はもう12年以上ここに通っており、グライダーも置いているのだ。問題はここ2年ばかり行っていないということだが。だああ。

 やはり玄岳で飛んでいたのはここのメンバーだった。パラフィールドは東風の時しか飛べない。そこで昨年末から西風の時は玄岳で飛ぶようにしているというのである。そういうことならフライトの確率も上がろうというものだ。また通おうと思い、年間パスを購入してしまう。ついでに滞納していた倉庫料を払い、倉庫にあるはずの自分のグライダーを探すが見つからない。どうもあまり長いこと放置していたので妙なとことにしまい込まれたらしい。「探しておいてくれ」と強く言い置いて、また伊豆スカイラインを走る。

 結局修善寺で温泉に入る。この日は働いているであろう弟には悪いが2日連続の温泉。そのまま三島に向かって日暮れの道を熱海に抜け、午後8時過ぎに帰還。走行距離は215km。ああ、楽しい楽しい。

 帰ると、日経パソコンより書評原稿を送れというメールが入っていた。そうだ、連休前というのを忘れていた。あわてて原稿を書いて送信し、ぐったり。


 自分の中で何かスイッチが完全に入ったという感覚がある。

 走れ、飛べ。しかしその前に部屋を片づけないと。

 写真は玄岳にて。恒例のKATANAです。

2004.05.05

弟と温泉に行く

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4月25日

 またもでろんでろんに消耗して寝ていると、弟から電話。「温泉に行こう。クルマを出してくれ」。そうか、サラリーマンである弟からこんな電話が入るということは日曜日か。曜日の感覚がぐちゃぐちゃになっている。

 天気もいいし自分も温泉で少しゆっくりしたい。そう思って承知する。

 2歳年下の弟は、大学が哲学科卒でなぜか現在はネットワークエンジニア。独身で現在は逗子に住んでいる。

 子供の頃から色々な意味で、私と弟は対照的だった。はしっこくて模型工作が好きだった私に対して、弟はおっとりしていて釣りが好きだった。食べるのが不器用で煮魚の身をきれいに食べられなかった私に対して、弟はおいしいものが大好きで煮魚をきれいに食べることができた。母親の目を盗んで間食をする時も、私は冷蔵庫の一番手前に入っているものをつまみ食いするだけだったが、弟はなぜか冷蔵庫の奥から、いちばんおいしいものを見つけることができた。

 彼は大学卒業後、しばらくの間公務員をしていたが「あんな腐った環境ではやってられない」と退職し、なにがどうなったのか、いつのまにかネットワーク関連の技術を身につけて現在は、色々と社会問題を起こしている某ネットワーク会社で働いている。

 久しぶりに会う弟は疲れ切っていた。「仕事がねえ、とにかくきつくてねえ」と元気がない。ところがこっちは久しぶりに自動車のハンドルを握ると、おおなんか血がたぎるではないか。箱根湯本あたりの温泉で満足してしまっていいのか。いやよくない。

 西湘バイパスを走りつつ「湯河原に行くぞ」というと弟は「どこでもいいよ」といって寝てしまった。さあ湯河原だ。といっても、真鶴道路経由で行くのは芸がない。

 で、箱根ターンパイクに入る。一気に駆け上がり、大観山から湯河原へと降りていく。おお、楽しい楽しい。

 日帰りの湯に入ると、日曜日なのに湯船は我々だけ。他の客が来ることもなく、こんなのでいいのだろうか。ともあれとろんとした湯に1時間以上浸かり、日常の垢を洗い落とす。「ああ、これで連休まで持つかなあ」と弟。

 色々と彼のいる回線業者の世界の話を聞く。
「例えばアスレチックジムにブロードバンド回線を売ろうってことになるだろ。そうすると「アスレチックBB」とかなんとかいって企画書を書くわけさ。中身はまあ推して知るべしでねえ」
「つまり内容がないと?」
 パソコンの世界もインターネット接続業者の世界も、かなりのインチキ商売が横行していたのは知っている。しかし今もそんな状態とは知らなかった。

 帰りもまた、箱根へと駆け上がり、箱根ターンパイクを下る。エンジンブレーキを駆使していかにしてブレーキを踏まずに下るかに挑戦。おお、楽しい楽しい。

 帰りも弟はぐうぐう寝ていた。サラリーマン時代末期の自分を見るような気がする。

 実家にて42歳と40歳の兄弟が、70歳の母が作った夕食をもそもそと食べる。情けないことこの上なし。そのまま弟を逗子の自宅まで送る。彼は釣りに便利という理由から、逗子に住んでいる。初めて弟の家に入る。感想はといえば、「だからあれこれ買い込むのはやめろってのに」。

 写真は入浴場の玄関。自動ドアに取っ手をつけて電源を切っていた。とってもいいところで気に入っているのだけれども、次に来る時まで大丈夫だろうか。心配だ。


2004.05.01

宇宙旅行協会の設立総会に出席する

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4月24日

 昨日の取材で体力の余裕がまたなくなってしまった。じり貧状態で部屋を片づける。とりあえずほぼ三週間ぶりに部屋に掃除機をかけることができた。

 「その程度がどうしたというのか。男おいどんは、押入のパンツにキノコが生えておったぞ」と言われそうだが、この茅ヶ崎に仮寓する毒男一匹、清潔にしていないと仕事の効率があがらないのである。

 といいつつも、部屋の片づけもそこそこに東京へ。外苑前の機械振興会館で開かれた宇宙旅行協会の設立総会に参加する(スペースレフの記事)。この組織は年若い技術者の五月女剛さんが設立したもの。五月女さんは、東工大卒業後川崎重工勤務を経て現在はアメリカで働いている。そこで宇宙観光旅行を目指す運動に触れて日本でも同様の運動を起こそうとして、今回NPOを設立したのである。

 スペースシャトルの運航が停止し、国際宇宙ステーションの維持がソユーズロケットとソユーズ宇宙船に依存している状態で、「宇宙旅行」とはこれいかに、と思う人も多いかもしれない(何も感じない人はもっと多いかもしれない。悲しい現実だ)。しかし「宇宙観光旅行」は宇宙輸送システムに対する現実的な需要として期待されている。

 誰だって宇宙に行ってみたいでしょ。ならば後は値段次第だ。行きたいのなら行動しようというわけである。

 アメリカのスペースツーリズムソサエティの代表のジョン・スペンサー氏の講演から始まり、以下1990年代にロケット協会が中心になって検討された観光用有人宇宙船「観光丸」構想の中心だった磯崎弘毅氏、JAXAで再利用型実験機の研究をしている稲谷芳文先生、そして経済学の観点から宇宙観光のための技術開発をと説いてきたパトリック・コリンズ氏と講演が続く。

 コリンズさんの講演が過激、「私は日本人じゃないからはっきり言います」と流ちょうな日本語で、「日本が有人開発をやるなんてまだまだ」という井口雅一宇宙開発委員会委員長の発言を名指しで批判、今年の6月に宮崎で開催されるISTSという学会で宇宙観光旅行のセッションを削った戸田勧実行委員長(現JAXA理事)をこれまた名指しで批判。

 「今まで全世界で宇宙開発に100兆円ものお金が使われました。日本もこれまでに4兆円を投資しています。でも、今一番便利に使えるロケットは1950年代に一番最初に開発されたソユーズロケットで、現役で運用している有人宇宙船は30年以上前に開発されたソユーズ宇宙船。これの意味するところは、日本も含めた世界各国の宇宙機関は過去何十年も莫大なお金を使うだけで何もしてこなかったということです」

 うわ、そこまで言うか、という発言だが、こと宇宙輸送システムに関する限りは全く同感だ。2001年のデニス・チトー氏が行った世界初の宇宙観光旅行で使われたのはソユーズロケットとソユーズ宇宙船だった。宇宙商業化時代を開くとして華々しく登場したはずのスペースシャトルではなかった。

 これから出現するロケットは、どれもソユーズより安くてソユーズより安全でなければいけないはずなのだ。JAXAの次期基幹ロケットはそうできるだろうか。できないなら、それこそそんなロケットは作るだけ無駄だとすら言える。

 終了後の懇親パーティのあいさつをしたのは冨田信之・武蔵工業大学教授だった。以前私の書いた「H-IIロケット上昇」に「メモ魔」として登場いただいた方だ。なんと五月女さんは、冨田先生が東工大で教えていた時の教え子だとのこと。

 パーティでは色々な方に声を掛けられ、名刺を交換する。若い人たちと話をするのは楽しい。

 パーティ終了後、先だって宇宙作家クラブで講義をしてもらった矢野夫妻と、飲み屋へ。豆腐料理と芋焼酎で「この宇宙開発の閉塞状況をどうするか」というような話題で話し続ける。矢野さんも私も鹿児島通いで覚えた芋焼酎のお湯割りをがばがばと呑み、話題はあちこちにゆらゆら。「都立西高のおそるべき宇宙人脈」とか。

 写真は懇親パーティでの冨田先生(中央)と五月女氏(左)

名古屋に出張する

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4月23日

 午後から名古屋へ。取材が午後5時からなのが助かる。早めにでて、またもこだまでえっちらおっちらと名古屋に向かう。

 名古屋駅新幹線ホームでは、恒例のきしめんを食べる。いつの頃からか、名古屋駅新幹線ホームで降りる時には、必ずきしめんを食べる習慣ができてしまった。新幹線ホームには上り下り合わせて4つのきしめん立ち食いスタンドがある。それぞれ味が違うのだそうだが、まだ全部を意識して食べ比べてはいない。


 名古屋駅に隣接するタワーでトヨタ取材。前回のKDDIに引き続き非常におもしろかった。私のような仕事をしている人種には取材をするということは生命線である。インプットなくしてアウトプットなし。

 写真は名古屋駅新幹線ホーム下り線の大阪よりにあるきしめんスタンドのきつねきしめん。
 「名古屋駅で降りたらきしめん。これは法律だ!」

突如取材が入る

4月22日

 やっと体調も回復軌道に。たまっていたメールの返事を出して整理していると、日経WinPCの編集長から電話。頼んでいたトヨタの取材が、明日名古屋で入ったが大丈夫かとのこと。

 ええ、ここで出張したらまた消耗してしまいますよー。と抗議しかけたが、このタイミングを逃したら連休明けになると言われて取材を承諾。名古屋行きが決定する。

 まいったな。

床屋に行く

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4月21日

 いい天気だが体調は最悪。昼過ぎに起き出して近所の床屋へ散髪および情報収集に行く。

 床屋政談という言葉があるけれども、私のいきつけの床屋は床屋オタク談。今の場所に引っ越してきた時から、なにやらあやしい床屋があるとは気が付いていた。何しろ窓に飾ってあるのがタイガー戦車や戦艦大和のプラモデルで、店の外には不動になったベスパのスクーターがディスプレイしてあるのだ。

 観察してみると、客筋も相当楽しそうで、表にコークボトルのコルベットが止まっていたり、ロータスエランが止まっていたり。

 特殊な感性かもしれないが、エランで散髪に行くって、なんかすごく粋でいいなあと思いませんか。

 直接、そこに通うようになったのは、カメラがきっかけだった。床屋なのに商店街が時々開催するフリーマーケットに、カメラと釣り道具を出していて、うっかりオリンパス・ペンを買ってしまったのである。

 話してみるとおやじさんは生粋の茅ヶ崎っ子で、しかもカメラだけではなくバイクのコレクターでもあった。かつてホンダが出していた、元祖オフロードバイクというべきCL72というバイクを集めていたのだ。店の奥にはCL72が何台もあり、うち2台はナンバーを取得して走行可能になっていた。

 プラモデル、カメラ、それにバイクとくれば通わないわけには行かないではないか。私はその床屋の常連になった。

 地元の人だけあって、茅ヶ崎の情報に詳しい。商店街ののどこがどうなったといった話や、どこにおもしろいバイク屋があるなどということを、散髪のたびに教えてもらっている。CR110というかつてホンダが少量生産した芸術品のようなレーシングバイクは、コレクターが2人茅ヶ崎にいて、生産量の大部分は茅ヶ崎にある、なんてことも。

 床屋でのマニアなひとときで頭髪もさっぱりさせ、その足でスポーツクラブのサウナへ。帰宅してまた倒れ込む。ぐうぐう。

 写真は、商店街に張ってあったポスター。でも私は若大将よりも田中邦衛演ずる青大将のほうが好き。

1日4件の用事をこなして、また消耗する

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4月20日

 つらい、疲れた、といっても、世間が私に合わせてくれるわけではない。というわけで午前中からアリアンスペース社の記者会見へ。同社のル・ガル会長来日に合わせたもの。会場に行くと、笹本祐一さんと江藤巌さんが来ていた。

 今年の世界の打ち上げ需要は衛星が15から20機。5年前は世界で45から50機と言っていたのだから、この業界の冷え込みっぷりも理解できる。その中でアリアンスペースは一昨年までの赤字を脱して2003年度は黒字に復帰する予定とのこと。しかしそれも昨年秋に、ESAがアリアン支援プログラムを決定して財政援助をしたからこそだろう。
 衛星の種類はかつての通信衛星から、今後はHDTV(早い話が衛星ハイビジョン)用の衛星へと変わりつつある。今後打ち上げる衛星の4割以上はHDTV用放送衛星になるだろうとのこと。

 記者会見が終わると、立食パーティ。東京事務所のローランツ氏と高松さんにあいさつする。ローランツさん「やあ、元気ですか。もうこっちは大変ですよ大変。うちだっていつ撤退したっておかしくない」。
 高松さんはといえば「松浦さん、あの本出して結構な収入になったでしょ」
 「いやいや、今年今年前半の生活がたちいくかという程度です。アリアンはやっと赤字から脱却と言ってましたけど」
 「こっちも今年前半がたちいくかどうかですよ」
 商業打ち上げの雄アリアンですら、現状これだ。ましてH-IIAがどうかといえば考えるまでもない。商業打ち上げとかなんとか言っている場合ではないのだ。

 午後一で日本テレビへ。宇宙開発で報道番組を作るので、話を聞きたいというので、知っている限りのことを話す。次の用事が押してしまったので、タクシーチケットを出してもらって、次は六本木のエクスナレッジへ。WinPCでやった連載「コダワリ人のおもちゃ箱」の単行本化で打ち合わせ。相当量を書き足すことになる。楽はできないようにできている。

 これが終わった時点で、午後5時過ぎ、へろへろの体をなだめつつ、銀座のライオン別館へ。笹本さんが7月刊行の「エリアル読本」のためにイラストの鈴木雅久さんと対談しており、編集の石井さんが同席していると聞いたため。石井さんと打ち合わせの必要があったのだ。

 石井さんは朝日ソノラマの笹本さん担当の編集者。大変なベテランである。石井さんとの初対面の時、笹本さんに「石井さんってどういう人?」と聞いたら「夢枕獏と菊池秀行と笹本祐一を発掘した編集者だぞ」と例によって簡潔にして直截な答えが返ってきた。要するに名編集者ということの笹本流表現だった。

 私の次の大仕事はその石井さんとすることになる。火星探査の本だ。

 編集者の能力は、本の出来に直接関わる。個人としては著作権をもたない彼らの仕事が、世に出る本の善し悪しを決めるといっても過言ではない。石井さんと仕事ができるというのは、私にとって喜びでもある。
 ライオンに行くと、笹本さんと鈴木さんはパソコンを広げて、それぞれネットから拾ってきた画像やら動画像やらの見せ合いをしていた。しかもEthernetクロスケーブルでつないでファイルの交換までしている。飲み屋でなにやってんだか。

 鈴木さんは初対面、絵柄から小柄な人かと想像していたのだけれども、実はかなり背の高い大柄な方でした。

 石井さんと打ち合わせの後、ビールで歓談。私の本は、笹本さんの「エリアル読本」と共に7月刊行ということになるようだ。石井さんの、「原稿、お願いしますよ」という言葉が耳の奥に突き刺さる。

 1日に4件もの用事をこなすと、やや回復しつつあった体力がまた底をつく。帰宅して昏倒。ぐうぐう。

 写真はビールを飲みつつパソコンで動画を鑑賞する鈴木氏(左)と笹本氏(右)

ひたすら寝続ける

4月19日

 生きるための最低限のメンテナンスもできずに寝る。

 1月に「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」を書いたときもこんな状態になったが、今回のように小さな仕事が連続するほうが実のところ激しく消耗する。仕事には意志のすりあわせが不可欠だが、小さい仕事が連続すると、様々な意志のすりあわせを並行して行うことになる。これがつらい。

 仕事だからつらいといって逃げるわけにはいかない。でもここまで消耗すると回復もまた容易ではない。ぐうぐう。

ひたすら寝る

4月18日

 晴れた日曜日だというのに生きるための最低限のメンテナンスもできず、ひたすら寝る。WinPCからゲラのpdfファイルが来たので、それをよろよろと直す。

 また寝る。

 仕事にせよ遊びにせよ、精力をつぎ込めば消耗する。消耗がひどいと回復のために必要なエネルギーも使ってしまう。そうなると悲惨であって、ある程度回復するまでひとくつらい思いをする。今回がまさにそうだ。

ぶったおれて洗足池に行けず

4月17日

 朝からよろよろと起き出して、原稿の修正にかかるが、心身ともによれよれになっていて、全然はかどらない。午後になんとか原稿を送信して、そのままぶっ倒れる。

 本日は、洗足池例会があったのだけれども欠席。

またも編集部に詰めて原稿を書く

4月16日
 またも早朝から起き出して、今度は日経inPCで連載している「産業の握り飯」用の原稿を書き始める。これまた途中で編集部にメールして、午後は東京に。

 小松左京さんの事務所「イオ」にお邪魔して日本惑星協会との打ち合わせ。秘書の乙部さんから来た話だったので、乙部さんが立ち会うだけかと思っていたら、我らが大ボスの小松さんも上京しておられた。

 小松さんと同席したことのある人は誰でも知っているが、とにかく話がどんどん脱線して飛ぶ。困ったことに脱線する内容が無茶苦茶おもしろいので拝聴せざるを得ない。今回も「宇宙開発のアウトリーチをどうするか」という話題が、「昔、星さんから聞いたジョークやけどな」と、とんでもない方に飛んでいく。星新一氏の語ったジョークとあれば、こちらは聞かざるを得ないし、またそれがおもしろいのだ。

 途中で、高斎正さんが、「小松っちゃんいるね」と顔を出す。

 帰途は、高斎さんと同道する。高斎さんはベントレーの新車発表会に出た帰り。「明日からツインリンクもてぎのインディーカー選手権に行って来る」とのこと。江藤巌さんなどは今日から行っているはず。

 「知り合いにアバルト・レコルトモンツァ・ザカートを買ったのがいまして」と話すと、高斎さん「それはすごいマニアだなあ。もう僕はそんなことできないなあ」とおっしゃる。というわけで、沖兄弟、あなた方は高斎正さん認定のマニアとなりました。レストアに精進してください。金がなくなった沖兄のほうは「毎日モヤシ炒めを食べている」と掲示板に書いていたし、心配はないと思いますが(別の面では心配か。体壊さないでくださいね)。

 トヨタ副社長がやったという恥ずかしい話など聞く。F1参戦にあたって、トヨタは往年のレースカー「トヨタ7」を欧州で公開したのだが、その時ドライバーズシートには、トヨタの副社長が座っていて、観客からそっぽを向かれたとか。
 これ、どこが恥ずかしいのかわからない人もいるかもしれないが、「堀越二郎(零戦の主任設計技師)でも坂井三郎(零戦で戦ったエースパイロット)でもない、現役の三菱重工の副社長が得々と零戦について語る」と置き換えれば、その恥ずかしさは理解できるだろう(MHI関係者のみなさん、妙なたとえで申し訳ない)。

 あれほどしっかりした技術を持っていて、あれほどのシェアを持つ堂々たる会社なのに、トヨタの振る舞いにはどこか「三河の蛸壺経営」と言われた時代の、どんくささが残っている。どういうわけなのだろうか。そういえばトヨタのイメージリーダーといえばいまなお40年昔の「トヨタ2000GT」と「ヨタ8」こと「トヨタ800スポーツ」だ。イメージリーダー不在となにか関係あるのだろうか。

 その足でWinPC編集部へ。缶詰になって原稿を書き続ける。午後11時過ぎに一応書き上げ、編集長に。いくつか修正指示がでるが大した量ではないので、「明日直しをよこせよ」と解放される。帰宅は終電一つ前。ぐああ。

編集部に詰めて原稿を書く

4月15日
 午前6時から起き出して原稿。午前中に書けたところまでを編集部にメールして東京へ。

 以前からの約束であった会食に出席する。

 その足で日経ものづくり編集部へ。パソコンを借りて、編集部で原稿を書き続ける。自分が以前勤務していた会社で、以前と同じようにせっぱ詰まって原稿を書いていると、あまりにあざといデジャヴにくらくらする。ここ数年の私の生活って何だったんでしょう、ってなものだ。

 なんとか原稿を仕上げて図の指示を出し、帰宅したのは深夜だった。で、まだまだ次の原稿が待っているのである。

 一日煮詰まる。

注記:この日からしばらく、多忙のために写真がなくなります。この記事を投稿している今日は5/1。やれやれ。

4月14日

 原稿を書くために一日空けていたのだけれども、こういう時に限ってどうしても書き出すことができない。ごろごろしたり、資料を読んだり、頭のなかでああでもないこうでもないと考えるもののどうにもならない。

 部屋は汚れているが、これを片づけだしたらおそらくは3日はかかる(そう、前回片づけてからの短期間でこのざまだ)。

 能率の上がらない環境で能率を上げることができずに悶々とする。

 ええい仕方がないと早寝。明日は早起きして原稿をかくことにする。

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