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2004.06.11

インターミッション:おお、プロター

 いつもの日記ではなくて別の話題を。プラモマニアでバイク好きじゃないと分からない話です。

 6月1日の日記を書くにあたって「プロター」で検索をかけていたら、プロターが2003年にイタレリ(イタリア最大のプラモメーカー、向こうの田宮模型みたいな存在)と合併して消滅したことを知る。

 おお、プロター、なくなっちゃったんかー!

 私はプロターのモデルを組んだことはない。ストックを1つ持っているきりだ。それでもこのメーカーには深い尊敬の念を抱いてきた。ひとえに創業者のタルクィニオ・プロヴィーニへの尊敬である。

 詳しくはリンク先を見て欲しい。プロヴィーニは1950年代から60年代にかけてのイタリアン・バイク全盛期に、世界GPのライダーだった。

 彼のライダーとしてのハイライトは1963年のシーズンだ。弱小チームのモト・モリーニに移籍して250ccクラスに出場した彼を待ち受けていたのは、当時上り坂、絶好調のホンダワークスだった。ライバルのジム・レッドマンが駆るホンダのマシンは、4気筒DOHC、60馬力オーバーというモンスター。パワージャンキーにしてスピードジャンキーの本田宗一郎が、技術者らを叱咤激励ぶんなぐって作り上げたエンジンを搭載していた。対するモト・モリーニは単気筒27馬力(この数字は、後年モト・モリーニに刺激されてロードボンバーを製作して鈴鹿8時間耐久に出場した、島英彦氏が推定したものだったと記憶している。確か出典は島氏の著書「オートバイの科学」)。パワーが半分以下でしかない以上、勝負は最初から見えているように思えた。

 ところがいざGPが開幕するとプロヴィーニの乗るモト・モリーニはホンダと対等に戦った。エンジンが簡単なモト・モリーニは車体が軽いのでコーナーリングスピードがホンダよりも速かったのだ。そして何よりも、「鬼神」という形容がぴったりのプロヴィーニの走り!レッドマン/ホンダとプロヴィーニ/モト・モリーニは一歩も譲らず、世界チャンピオン決定は遂に最終戦の鈴鹿GPへともつれ込んだ。

 ここでプロヴィーニは破れた。彼の責任ではない。ホームグラウンドで万全のバックアップ体制を敷いたホンダに対して、モト・モリーニは極東の日本で不十分なサポートしかできなかったのである。

 が、この年、プロヴィーニは伝説の男となった。日本では「火の玉プロヴィーニ」と称され、本国では「一騎当千の騎士」と呼ばれたのである。

 その後、大事故を起こして引退したプロヴィーニは、自分が乗ってきたレーシングバイクのプラモデルを作るメーカーを興した。なんでも事故で入院中にバイクのプラモデルを作ってやみつきになったのだという。それがプロターだ。「プロヴィーニ・ルクィニオ」というわけ。

 熱いよなあ、男だよなあ、いい人生だよなあ、と思う。若いときはGPライダーとして世界を沸かせ、引退してからはプラモメーカーでまた世界の人々から愛されたのだから。

 プロターのモデルは部品の一つ一つをみるとけっこうダルだ。その意味では田宮のプラモのほうがずっと質は高い。しかし部品の造形や、さらには組み合わせていった時の姿形にえもいわれぬ雰囲気がある。作った人によると、手を入れれば入れるほど良い完成品になるのだそうだ。

 リンク先を見ると70歳を過ぎたプロヴィーニは引退し、息子さんが経営を継いでいたようだから、イタレリとの合併も時代の流れなのだろう。しかし、プロター、なくなっちゃったんか…なにか悲しい。

 実家に眠らせてあるストックの中には、プロター製の「ホンダRC166」がある。1960年代ホンダ最盛期のレーシングマシン。250cc6気筒という究極バイクだ。実車はツインリンクもてぎにあるホンダコレクションホールに展示されている。

 こんど茂木に行くことがあったら一杯写真を撮ってこよう。そしてこのプラモデルを組み立ててみよう。

2004.06.09

自転車のチェーンを掃除する

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6月1日

 翌2日からのお出かけに備えて、プレゼンテーション用資料を作成しなくてはいけないのだけれども、なかなかエンジンがかからない。今書いている本と同じく火星ネタなので、そのまま流用できるはずなのだが。本も進まずプレゼン資料も進まずで、えーいと掃除。

 掃除ばかりしている。

 気分転換に自転車に乗ろうとして、チェーンが汚れているのに気が付いてしまう。で、チェーンの掃除。横を見るともっと長いチェーンがついているリカンベントのチェーンも汚れている。こっちも掃除。結局プレゼン資料は、現地に持ち越しとなる。

 写真は私のリカンベント「BD-R」。LEADING EDGEの改装キットを、ドイツ製折りたたみ自転車「BD-1」に組み込んで3年前に自作した。キットとはいえ強度不足の部分も多く、プラモデラーにしか分からないたとえを使えば「プロターのバイクモデルみたいなキット」だった。結果、かなりの部品を金属加工で自作している。3年かけてあちこちを調整したり部品を交換したりで、やっときちんとしたセッティングがでたところ。これからが楽しい改造の時間である。うひょひょ。

 リカンベントというのは、前に足を投げ出して乗る自転車の一種。通常の自転車よりも前面投影面積を小さくできるので空気抵抗が小さく、高速走行が可能になる。とても面白い乗り物だ。

 私のBD-Rは、リカンベントという乗り物の特性を知るための技術試験機という位置づけである。これをいじり倒してから、フレームを起こしてオリジナルのリカンベントを作ってやろうと思っている。

伊福部昭90歳記念コンサートに行く

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5月31日

 午後、日経WinPC編集部へ。ここ3年ばかり同誌で連載を持っていたのだが、誌面刷新の関係で5月売り分で終了ということになった。自作パソコン誌はアスキーが参入してきて環境が悪化し、私が書くような分析的な記事を載せる余裕がなくなったのである。現在発売分はトヨタの「G-BOOK」を取材して記事にしたのだが、編集長から「トヨタから『間違った部分がある』と電話が来たよ」と言われてしまう。

 うわ、ショックだ。色々つきあわせていくと、どうも私が自動車業界のやり方に不慣れなために、結果として読者をミスリードする記述をしてしまったと分かる。連載の最後で訂正を出すというひどく情けないことになってしまった。

 フリーであるからある日突然連載を切られても文句を言う筋合いはない。それが嫌ならサラリーマンを続けていれば良かったのだから(もっともサラリーマンをしていても、ある日突然自分の勤めていたセクションがなくなるということはある。私はそんな経験をかつてした。さらにいうなら、今やサラリーマンなら一生安泰という時代でもない)。
 しかし、いきなり切られた連載の最後で、訂正を出すことになってしまったのは悔やまれる。自分の未熟さの現れ以外のなにものでもない。

 とにかく仕事をし続けないと。月例の収入が途絶えるのはやはり痛い。

 日経BPのある平河町でタクシーを拾い、サントリーホールへ。伊福部昭の卒寿記念コンサートである。何ヶ月も前から楽しみにしていたのだ。

●伊福部昭・卒寿を祝う
5月31日(月)19:00〜/サントリーホールにて

【演奏者】
指揮:本名徹次、東京混声合唱団、日本フィルハーモニー交響楽団

【曲目】
フィリピンに贈る祝典序曲(1944)
日本狂詩曲(1935)
SF交響ファンタジー第1番(1954/1983)
交響頌偈「釈迦」(1989)


 今回、わざとオーケストラの後ろ側の席を取った。指揮者と、打楽器奏者の動きを見るためだ。

 紛失していた楽譜が近年発見された「フィリピンに贈る祝典序曲」から始まって、伊福部21歳のデビュー作にして世界に「Ifukube」を知らしめた「日本狂詩曲」、東宝怪獣映画の音楽を編曲した「SF交響ファンタジー第1番」、そして仏教カンタータというべき「釈迦」という充実した演目だ。

 サントリーホールは八分の入りだったが、客層は老若男女すべてに散らばり、中には制服を着た女子高生の一団も。伊福部昭という不世出の作曲家が、いかに様々な人々に愛されているかを実感する。伊福部を愛しているという意味では演奏者も同様で、素晴らしい熱のこもった演奏だった。

 正しいことをやっているという実感は、必ずしも自分が正しいことを意味しない。しかし伊福部は自分を信じ、勝った。伊福部は12音技法から偶然性へと尖り続けた楽壇の中で、ひたすら自分の耳を信じ、音楽を書き続け、そして今、サントリーホールを熱狂させている。

 途中、客席の伊福部のところになんとゴジラが花束を持ってくる。拍手、拍手、拍手。

 すべての演目が終わった後は、オーケストラメンバーも聴衆も立ち上がってのスタンディングオベーション。足の弱っている伊福部老も立ち上がって応える。アンコールは、なんとなんと「タプカーラ交響曲」の最終楽章。普通はアンコールなどにはもってこない力こぶの入る音楽だ。おお、涙が止まらない。

 この日この場にいたことが幸福なことだったと思える、素晴らしいコンサートだった。

 写真は伊福部老に花束を渡して場外へ去っていくゴジラ。あわててデジカメで撮影したのでブレている。

2004.06.08

仕事と掃除をする

5月30日

 ひたすら仕事、そして部屋の掃除。掃除というのは逃避です、逃避。

政教分離を本屋で考える

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5月29日

 朝から慶應病院で定期検査。帰ってきてから、ひたすら仕事。夜、またも散らかりだした部屋の片づけを開始する。

 ご存じ慶應病院のある信濃町は、創価学会の本部がある。写真は駅前の本屋に並んでいた公明党のパンフレット。創価学会がいかに政教分離を主張しても、創価学会お膝元の本屋の創価学会コーナー(このコーナーがあること事態は場所を考えた商売であって責める筋合いのものではない)に、このようなパンフが平積みされていては、彼らの政教分離というのはどんなものなのか、考えざるを得ない。

 公明党に限ったことではなく、なぜ政党のパンフはこうセンスがないのだろう。いやセンスの良いパンフはポピュリズムにつながると考えれば、これでもいいのかも知れない。

 しかしこの目つきの悪い白馬は、どう解釈したものか。

父に付き添い、妹宅を訪問し、AZ-1を引き取る

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5月28日

 朝、実家から電話。父が通院日なのに首が痛くてたまらないと元気がないという。あわてて実家へ。病気が病気なので神経に来たかと思ったが、そういうわけではなさそうだ。付き添って一緒に病院に行く。

 病院では通常の内科の他に整形外科を受診。レントゲンの結果は異常なし。おそらくは寝違えたのだろう。「レントゲンで被曝した分だけ損だな」と父に言うと苦笑いしていた。「念のため」と医師が言うのでMRI検査を予約する。
 最近、父は体調を崩すとがたっと弱る。かつては農作業で鍛えた肉体を誇り「ヘラクレス」とあだ名されたというのに。そんな父を見るのはとても悲しい。

 午後、母と一緒に東京の妹夫婦の家へ。最近家を建てて引っ越したので、物見高いが遠慮深い兄は、母に付き従って家の見物に赴くのである。

 東京私鉄沿線の駅近くに、妹の新居はあった。共同建築タイプのマンションといえばいいのか。権利を買って自分のスペースは自由に設計できるというタイプのマンションだ。妹は体調が良さそうでなにより。一時は妊娠と仕事の疲労とでぼろぼろになっていたが、産休でうまいことリズムを取り戻した模様。

 4歳の甥は不在。保育園の遠足ということでお弁当を作ってもらい、喜び勇んで出かけていったという。不安を持たず好奇心が勝った4歳児というのは、この世で一番幸せな存在じゃないだろうか。見るものすべて新しいというのはなんと素晴らしいことだろう。

 1月に生まれた姪は、あーうーしながら寝返りをうつようになっている。父は最近、姪が小学校に入るまでは生きていたいなどと言う。「おじいちゃんという存在がいたということを覚えてもらわねばな」とのこと。父の生きる気力はひとえに、あうあうふにゃふにゃしている0歳児にかかっているのかもしれない。

 そのふにゃふにゃ0歳児を託児所に預けて、妹は6月1日から働くという。しっかり者の妹がやるという以上、止める理由はない。そんな母親を持ったということも、言ってみれば甥と姪の運命なのである。

 帰途、藤沢のディーラーに寄って、車検に出していたAZ-1を受け取る。交換した部品を検分。エンジンマウントの防振ゴムは、かちかちに劣化して一部ひびも入っていた。ゴム製の冷却水ダクトも見事に劣化していた。
 それよりもショックだったのは排気マニホールド。鋳物製の部品に見事にひびが入っている。「普通はこんなことは起きないのですが。以前のオーナーが全力走行で高温になった状態で蒸気洗車でもかけたんでしょうか。全く分かりません」とディーラーは言う。私に思い当たることといえば、一昨年の夏に台風で大降りの中央高速を全力走行したことぐらいだが、ディーラー曰く「その程度のことでエンジンルームには水は入らないはずです」。

 大事になる前に部品を交換できて良かった。確かに料金はかさんだものの、この手の自動車に乗る以上は覚悟していたことでもある。しかし近いうちに地方税も来るのだよなあ。そう考えるとつらい出費だ。

 実はまだ劣化しつつある部品が残っている。大きな開口部を持つガルウイングドアのパッキンと、ドアを支える4本のダンパー。このあたりは1年後を目処に交換することとする。

 久しぶりにハンドルを握って帰宅。エンジン音は確かに静かになったが、もともとエンジンがうるさい車種なので、「まあこんなものか」というところ。足回りのゴムも交換したのだが、これを実感するには箱根にでも持ち込まなくてはならないだろう。さて、いつ持ち込めるやら。

 写真はひびが入った排気マニホールド。

2004.06.04

「のぞみ」のハガキをチェックし続ける

5月27日

 本日も相模原でハガキのチェック。途中で資料室へと抜け出して、1970年代の科学衛星シンポジウムの資料をコピーする。

 広報の渡邊さんと話をする。「もうハガキの内容で泣きっぱなしですよ」というと、渡邊さん「そうなのよ。あのハガキのメッセージが載って飛んでいっているということはそれだけでもすごいことなのよね。その一点で『のぞみ』は特別な探査機だったのよ」と言う。

 ハガキからそれぞれの人のサインを切り取って並べていくのは大変だったとのこと。中には新幹線の車中でハガキを切った人もいたという。

「のぞみ」のハガキをチェックする

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5月26日

 朝から相模原の宇宙科学研究本部へ。火星探査機「のぞみ」打ち上げに合わせて募集された「あなたの名前を火星に」キャンペーンへの応募ハガキのチェック。

 この時は27万人からの応募があり、これらの人々の名前は探査機の金属プレートに縮小して焼き込み、バランスウエイトとして搭載された。

 最初は27万人分全部をチェックする心意気だったのだが、出てきた痰ボール箱の量に驚愕。しかも広報の渡邊さんによると「これで5万人ほどですよ」。

 めげる。これだけチェックするだけであきらめるすることにする。

 チェックを始めると、それぞれのハガキに記された人生模様の密度に涙流しっぱなしとなる。なかなか作業が進まない。

 途中、お世話になった的川泰宣先生のところにあいさつに顔を出す。先生の近刊「やんちゃな独創——糸川英夫伝」(日刊工業新聞社)を頂き、恐縮する。

 午後6時過ぎまで粘ったが半分少ししか進まない。明日も来ることにして帰宅する。神経はくたくた。そのまま寝てしまう。

 写真はハガキが入った段ボール箱。

茅ヶ崎に石井さんが来る

5月25日

 一日原稿。ネット古書店から次々に文献が到着し、せっせと読みこなす。

 夜、茅ヶ崎に朝日ソノラマの石井さんが来る。駅前の食堂で夕食をしつつ打ち合わせ。原稿を一部見せる。その後メールで、「この部分はもっともっと刈り込んだほうがよい」と指摘される。

 分かっているのだけれども止まらない。とにかく書ききらなくては。

本郷で悪だくみの相談をする

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5月24日

 午前中は原稿。ネット古書店を巡回し、ガリレオ・ガリレイ関連の文献を買い込む。
 午後からカイロプラクティック経由で本郷の東京大学は中須賀真一先生のところへ。野田篤司さん、笹本祐一さん、小林伸光さんなどと。6月初頭の学会で行う特別セッションの打ち合わせ。というか、まあ悪だくみの打ち合わせ。中須賀先生「いやー松浦さん、航空宇宙学会総会の発言は良かったよ。なんか僕が『お前またいらんこといったやろ』って責められちゃってさあ」とにこにこ。どうも、あの発言があっちこっちで波紋を呼んでいるらしい。

 いいのか。だんだん怖くなる。

 打ち合わせの後は、笹本夫人などと合流して本郷のちゃんこ鍋屋。ああでもない、こうでもないと話し合う。

 写真は帰途、茅ヶ崎のスナックの前に止まっていた自動車。そうか、演歌歌手ってのはこうやってどさ回りをするのか。

面接官を務める

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5月23日

 港区は芝で、面接。面接されるのではない。なぜかとある奨学金の面接官を務めることになったのである。いいのか、私のようなくわせ者が面接官をして。
 ともかく面接の形を整えて、えらそうに振る舞う。いいのか、そんなにえらそうにして。

 終了後、神保町に出て、久しぶりに「ボンディ」のチーズカレーを食べる。ある限りの火星に関する本を買い込む。

 写真は増上寺の地蔵様。

ホイヘンスとカッシーニについて書く

5月22日

 また原稿の一日。火星の話は、ホイヘンスとカッシーニのところまで進む。共に土星の観測で有名だが、火星観測についてもそれぞれ功績がある。

2004.06.03

講演をする

5月21日

 朝から少々ショックなことがあり、日本宇宙フォーラムに行って善後策を協議。私の感想は「これ以上どうすればいいのでしょうか」。自分の力不足で起きた事態を、伏して担当のMさんに収拾をお願いする。

 そのまま某社の勉強会。勉強しに行くのではない。講師で行くのだ。もちろん不安定な浮草稼業故、乞われればたいていのことはするが、いいのか、私ごとき食わせ者が講師で。

 以下は、講演の後で考えたことのメモ。この場で公開しておく。あくまでもメモなので書き込んである数値には推定が含まれるし、結論もない。

 現在の宇宙開発が抱える最大の問題点は、地球低軌道への輸送コストが、地上の経済活動とシームレスにするには高すぎるということだろう。スペースシャトルは最大で7人と29.5tほどのペイロードを打ち上げることができる。実際には重心位置やカーゴベイの容積の制限があるし、しかもオービターを再利用するスペースシャトルの場合、軌道傾斜角がケープ・カナヴェラルの緯度である28.5度以外の軌道に打ち上げると、打ち上げ能力がぐぐっと減少する(ちなみに使い捨てのロケットの場合、打ち上げ能力はシャトルほどには減らない。その理由は自分で考えてみよう)。そんなこんなで、国際宇宙ステーションへの打ち上げの場合、1回の打ち上げで、だいたい15t〜20tぐらいのペイロードを持って行っていたようだ(ようだ、というのは昨今のNASAプレスキットはテロの影響か情報がかなり限られてしまっているからである)。スペースシャトルは空虚重量70t、スラスター推進剤やら燃料電池用液体酸素や液体水素などを詰めて全備重量約100t、これにペイロードを加えて打ち上げ時重量約120tというのがスペースシャトルの実態である。
 で、打ち上げコストは2003年2月のコロンビア事故以前で約500億円だった。まだ飛行再開はしていないが、2005年度NASA予算案から推定すると、再開後の打ち上げコストは約800億円となる。こんなにコストが高騰する理由は、打ち上げ時に地上になにかあったときのために予備機を待機させるためらしい。
 
 同じ事をロシアの宇宙機でやるとどうなるか。3人乗りのソユーズ宇宙船は大体30億円らしい、ソユーズロケットは20億円なんだそうだ。6人を2機のソユーズで打ち上げるとして100億円。地球低軌道に20tが打ち上げられるプロトンが約100億円ぐらいらしい。つまり1人欠けるけれども、シャトルと同じ事をやる打ち上げコストは200億円。

 大ざっぱな比較だが、これだけでもスペースシャトルは引退して当然という構図が見えてくる。

 日本が同じ事をやるとどうなるだろうか。H-IIAは地球低軌道への打ち上げ能力は10tで、実績ベースの打ち上げコストはだいたい1機90億円。荷物だけなら20tを打ち上げるのに180億円。もっとも日本の場合、打ち上げ時に島を避けるために軌道をぐっと曲げたりするので、ISS軌道となるとおそらくはもっとペイロードは減るだろう。
 ちなみにISSへの貨物輸送用に開発するというH-IIA+は、ISS軌道へ17tを上げる能力を持ち、コストは120億円程度になるらしい。

 さて、ここで実績も何もないロケットを新たに開発して参入するとして、どの程度のコストを目指すべきなのだろうか。
 H-IIAを半額にするというだけではダメだろう。ロシアに勝つことが必要条件になる。何度か書いているが、「半世紀前に設計されたソユーズに負けるような宇宙輸送システムを作っちゃダメ」なのである。
 思い切ってソユーズの半額を目指すことにする。つまり地球低軌道に10tを打ち上げるコストは15億円ぐらい。
 これぐらいのコストにならないか、とプロに尋ねたことがある。「きつい、とてもきついなあ」というのが答えだった。が、実際のところどうなのだろうか。

 今まで、ゼロから徹底したコスト優先で設計された宇宙輸送システムは存在しないのだ。せいぜいがあのあやしげな「オトラグ」ぐらいではないだろうか。

 もう一つ問題がある。「打ち上げ能力10tのロケットを年2回打ち上げるのと、能力5tのロケットを年4回打ち上げるのはどっちがいいか」ということだ。年4回のほうが絶対にいい。ロケット生産から打ち上げまでのシステムが円滑に回り、作業者の熟練度が向上するからである。じゃあ、「1tのロケットを年10回だったら」「100kgのロケットを年100回だったら」。ロケットは基本的に大きくなるほど搭載ペイロード単位重量あたりのコストが下がる。が、だからといってむやみやたらとロケットを大型化すればいいというものではない。

 なによりも、一体そんなロケットでお客はどこにいるのか、という問題がある。新しい宇宙輸送システムは「既存の打ち上げ需要に合致する」というだけではだめだ。「新たな宇宙輸送の需要を喚起する」ものでなくてはならない。では新たな需要とな何だろう。お客さんが「そうだよ、俺が欲しかったのはこれなんだよ!」と内なる需要に気が付く、そんな需要とはいったいどんなものだろうか。

 私にはまだ分からない。しかし、ソニーのウォークマンが「歩きながら好みの音楽を聴く」という需要を作ったように、今、新たな需要を喚起するような宇宙輸送システムが必要なのである。

 「お客さんはどこ?」、これはメモなので結論はない。はっきりしているのは、お客さんを探さずにロケットの性能や価格をうんぬんしてはいけないということだ。

プレゼン資料を作る

5月20日

 割り込みがかかり、プレゼン用資料を作る。私はMacintosh用の「Keynote」というプレゼンテーションソフトを使っている。これで資料を作り、パワーポイントファイルで書き出して相手にメールで送る。

 MacOSXは10.3になってから完全に使い物になるようになった。システムダウンを起こすことはないし、動作速度もまあまあだ。4年以上昔のPowerBookで十分使える。ソフトも私にとっては必要十分なものがそろっている。WindowsはソニーのVAIO SRを持っているのだが、今のところ積極的に乗り換える気はない。最近色々と脆弱性が指摘されているものの、ウィルスの恐れがほとんどないというだけでも、大変気楽である。

ネット古書店で本を買う

5月19日

 1日中原稿を書く。火星で頭の中は一杯。おそろしいことに気が付く。岩波文庫で出ていたガリレオの「星界の報告」も「新天文対話」も絶版になっているのだ。なんてことだ。ネット古書店を検索しまくって注文をかける。

 ガリレオについて調べていてどんどんのめり込んでしまう。

さらなる出費が発生する

5月18日

 1日中原稿を書く。火星で頭の中は一杯。車検に出しているディーラーから電話、AZ-1はマニホールドが割れており、仕上がりが遅れるとのこと。だああ。

浄水器を交換する

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5月17日

 部屋を片づけていると、水道の蛇口につけていた浄水器の中に黒くカビが増殖していたのに気が付く。

 愕然とする。カビがはいっていたのは浄水フィルターの手前なので直接呑んでいたということはないが、それでもこの水で食器を洗っていたのかと考えると気分悪い。カビの状態を観察するに、どうやら排水口に増殖していた奴がフィルター交換の時の飛沫かなにかで入り込んだものらしい。排水口を清掃すると共に、4年ほど使用した浄水器を分解掃除する。ふと思いついて、洗面所に着けていた浄水器をばらすと、こっちはもっと状態が悪い。そこで掃除した浄水器を洗面所に回して、新たに浄水器を購入して台所に取り付けることにする。

 私が育った30年以上昔の東京・三鷹市は水道のほぼ全量が地下水だった。水道の水は旨く、私は水道の水をそのまま飲むのが当然と思って育った。いったい水道の水をそのまま飲めなくなったのはいつごろだろうか、と思い起こすと茅ヶ崎に引っ越してきて高校に通い出した頃だ。古文の教師に「ここの水道を飲んでいると腎臓に石ができるぜ」と言われたのをはっきり覚えている。覚えているということは奇異に感じたということだ。

 就職してから私は東京のど真ん中の住むこととなった。さすがに飲み水は買うようになったが、風呂などは水道水そのままだった。ある時、シャワーにフィルターを入れてびっくりした。1か月も立たないうちにフィルターが錆で真っ赤になり、ぐずぐずと崩れたのである。「健康被害」という言葉を実感した瞬間だった。
 その後、空気清浄機を入れると、これまた説明書きでは半年持つはずのフィルターが3か月で煤煙を吸って真っ黒になり、ダメになった。「いつまでも東京に住んでいてはいけないな」と考えた。

 現在、茅ヶ崎では同じ空気清浄機のフィルターが2年近くもつ。

 思い起こせば「公害」という言葉が叫ばれた1970年頃には、「水も空気もフィルターを通さなければならず、外出にはガスマスクが必要なディストピア像」というのがメディアに盛んに露出していた記憶がある。現在、我々は水道にフィルターをかけて、場合によっては飲料水を買い、空気清浄機を回して花粉の季節の外出にはマスクを付ける。あれから30年、大した苦痛もなしに、30年前に想像されたディストピアに生きているのである。
 昨今都心回帰ということで都心のマンションが人気だが、私は二度とあの環境に住む気はない。できればおいしい水が飲める場所、例えば箱根や静岡の三島あたりに住みたいところだが、情報を生業としている以上、今よりも東京から離れることはできない。

ゲラを見る

5月16日

 部屋を片づけていると、WInPC編集部から色々とゲラについて電話が入る。日曜日だが追い込みにかかっているようだ。原稿は早く出さないとな、と思う。火星の仕事に没頭する。

冨田先生の話を聴く

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5月15日

 東京で宇宙作家クラブ例会。今回の講師は冨田信之武蔵工業大学教授。「技術的雑感」という題で、色々と聞く。日本の技術は国産技術というが、材料や部品の規格といった基礎の基礎は結局アメリカ頼りになっているというような話。

 信頼性=(r+1)/(n+2) n:打ち上げ機数、r:成功機数

 という数式を教わる。単純に成功機数を打ち上げ機数で割るのではなくそれぞれ1と2を足すのがミソ。これは運用回数が少ない機械の信頼性を理論的に解析していくと出てくるのだそうだ。

 H-IIAは6機目で失敗したので、信頼性は(5+1)/(6+2)=75%。ここで改良を加えても10機目が失敗すると(8+1)/(10+2)=75%で、改良は意味がなかったということになる。今回改良を加えて20機目まで成功したとすると(19+1)/(20+2)=90.1%で、ここではじめて成功率9割以上になるという話。H-IIAの設計目標である95%の信頼性を超えるのは38機目ということになる。

 宇宙開発委員会でもこういうことを言えばいいのだ、と思う。

 例によってその後は懇親会で酒を飲み、深夜に帰宅。

くたばる

5月14日

 部屋の掃除をしたいが手に付かない。WinPCから「ゲラはまだか」というメールが入りようよう直して送る。編集長、申し訳ありません。

宇宙開発委員会を傍聴する

5月13日

 午後から下記の通りの宇宙開発委員会の特別部会を傍聴する。

第5回特別会合を下記の要領で開催いたします。

1. 日時 平成16年5月13日(木) 14:00〜16:00
2. 場所 文部科学省10階2・3会議室


3. 議題案
(1) JAXAにおける検討状況(その4)
(2) 民間における検討状況
(3) 欧州の体制について
(4) 報告書骨子案について
(5) その他

 官庁の会議というのは昨今結構傍聴できるようになっている。で、私は宇宙開発委員会の傍聴になるべく出かけるようにしているのだが、多くの場合、傍聴は拷問に近い。面白い会話には聴き手を巻き込む躍動が感じられるものだが、宇宙開発委員会の議論に躍動を感じることはまれである。

 「国民から税金を集めて官僚が配分する」というシステムの非効率さを実感したければ、一介の市民として霞ヶ関の公開会議に傍聴に入るのが一番である。学生諸君には社会学習に好適だ。

 とはいえ、この日はかなりまともな議論がなされていた。まともな意見が出てくるぐらいで喜んでいてはいけないのだが。

 基本的にはH-IIAの信頼性確率のための体制を話し合ったのだが。井口委員から「もっと根本のところから信頼性を上げる方法はないのか。技法を開発して21世紀の物作りに使えるようにしなければ」という発言がでる。「世間は厳しすぎるというのをいいわけにしてはいけない。むしろこの雰囲気を利用してより安全なシステムを作るぐらいの気でないと」とも。栗木委員「衛星でもロケットでも『使い続けるんだということ』を政府がどこかで言わないといけないだろう」、川崎委員「計画の継続性というのを考えなくてはいけない。準天頂衛星などは最初の3機の後はどうするかなど」。すべてまともな意見である。

 しかし、製造と開発のプライム化ということで何もかも三菱重工に押しつけてしまっていいのだろうか。そのことについて突っ込んだ意見はなかった。

 何よりも「今、アメリカから借りてきている気象衛星はとっくに設計寿命が尽きている。もしも秋の台風シーズンに気象衛星がないという状況になって大被害が出たら一体誰が責任を取るのか」ということは一切出てこない。日本だけではない。気象衛星はアジア地域が使う国際貢献衛星であり、もしも日本が衛星を切らしたことでそれらの国に被害が出たら、それだけで日本の威信は失墜するだろう。

 気象衛星の打ち上げには、日本の国際的な信用がかかっている。可能な限り早く打ち上げなければ、極端な話台風で死者が出る可能性だってあるのだ。

 今回は、山之内秀一郎JAXA理事長が出席していたが、ずっと黙っていた。最後で発言を求められ「提言はしたが実効性がなかったで終わってしまう可能性が高い。『みんなが忘れたらおしまい』ということにしたくない」と言う。明らかにいらだっているのが感じられる。

 簡単なのだ。日経ものつくり誌には書いたのだけれども、もうH-IIA6号機の事故原因も対策もはっきりしている。誰かが「俺が責任取る」といえばいいだけなのである。「俺が責任を取る。打ち上げろ」といえばいいだけなのだ。そして、言葉通りに振る舞えばいいだけの話なのだ。なのに。

 終了後、やはり傍聴に来ていた旧知のA氏と少々会話。彼は現在官庁に出向中。「私は11月の事故以来すべての会合を傍聴していますが、今日はまともでしたよ。前回なんて…」。ああ、とため息。

 その足で、日経WInPC編集部へ。また編集部にこもって原稿原稿。終電近くまで粘って原稿を提出、ゲラを持って帰る。

取材をし、原稿を書く

5月12日

 午後、赤坂の某出版社に顔を出して打ち合わせ。その後文部科学省に顔を出して宇宙開発委員会の資料をもらい、その場で13日の傍聴を申し込む。その足で日経WinPC編集部に顔を出して、そこでひたすら原稿。終わりまっしぇーん。

終日原稿を書く

5月11日

 一日原稿。他なにも言うことはなし。

マネジメントについて話し合う

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5月10日

 日経BP社出版局の紹介で、神奈川県は橋本にあるとあるコンサルティング会社へ。社長さんが「宇宙開発におけるマネジメントの問題点について聞いてみたい」ということで私に会ってみたいと考えたとのこと。橋本駅からの道に迷ってしまい大幅に遅刻してしまう。

 とりあえず色々情報交換など。「測位衛星は国家利権でしょう」というと、社長さんは初めて指摘されたという顔つきで「ああっ」と言う。

 そうか、普通の人はGPSが、アメリカの世界戦略の一環だということに気が付いていないのだな。なんで欧州がしゃかりきになって独自システムの「ガリレオ」を立ち上げ、ロシアがぼろぼろになった「グロナス」を手放さず、中国がまさにこそっと「北斗星」を打ち上げているということの意味を、もっときちんとあちこちで話さねばならんのだな、と思う。

 よく日本はアメリカの属国だというが、あれこれ取材をしていると、それは色々な意味で事実であることがわかってくる。

 日本はアメリカの属国であるというのは、掛け値なしの「事実」だ。

 それが証拠にアメリカは基本的に日本の内政に当たる問題に、実にあれこれとさりげなく圧力をかけてきており、日本側にはそれに応じて政策を変更するシステムができあがってしまっている。

 だからといって単純に「反米」を言い立てても無意味だ。これが実に難しいところで、日本は位置的に太平洋を挟んだ軍事と経済の大国で、しかもわがまま極まりないアメリカと、なにをどうやってもつきあって行かざるを得ない。
 アメリカが相手だけならば、パックスアメリカーナにどっぷりと浸かっていても問題はあまり生じなかったのだが、中国が大きく躍進しロシアの経済が復活しつつあるとなると、アメリカ属国状態では色々と不都合が出てくる。

 昨今中国の調査船が日本の領海にたびたび侵犯しているが、あれなどは「どうぜ属国だから踏みにじったれ」という中国の大国意識の発露だろう。中国は歴史的に国が栄えると侵略的になり、ふくれすぎて分裂して衰退するというパターンを繰り返している。中国経済の躍進は同時に中国が侵略的になるということなのだ。中国は、米軍がいなくなれば「沖縄は歴史的に両属だったから、中国固有の領土である」ぐらいのことは言い出しかねない。

 これまた、単純に「反中」と言い立てても無意味なので、そんな歴史意識を持つ中国と我々はつきあっていかなければならないのである。賢く立ち回る必要があるのだ。

 恐ろしいのは今の小泉総理も外務省も、そういったことに無関係の奇妙な論理、または無論理で動いているように思えることである。

 その後東京に出て、定例のカイロ。久しぶりに秋葉原に行き、出たばかりのPowerBookG4に触れてみる。個人的にさんざんパソコンに貢いだ経験から確立した「4倍の法則」というがある。「パソコンは処理速度4倍が買い換えのタイミング」というもの。その意味ではG4の1.5GHzになったPowerBookはそろそろ買い換えてもいい時期になってきている。
 ただ、私の用途では、まだまだG3 500MHzで十分使えるのだよなあ。

 写真は秋葉原・、万世橋からの風景。秋葉原では長い間空き地だった青果市場跡地に高層ビルの建設が急ピッチで進んでいる。

「太陽を盗んだ男」を観る

5月9日

 一日仕事。ところがBGVにと、以前購入したままパッケージも開けずに放置していた「太陽を盗んだ男」(1978年:長谷川和彦監督)をかけると、やあ、やっぱり面白い。思わず見入ってしまう。

 私は日本映画最高の一本は、黒澤明の「七人の侍」だと思っている。では、その次は、といえばこの「太陽を盗んだ男」だ。「幕末太陽伝」でも「豚と軍艦」でも「裸の島」でも「カリオストロの城」でもなくて「太陽を盗んだ男」なのだ。

 といっても、この映画を映画館で観たことはない。これまでに観たのは一度きり。確か1982年、大学の映画研究会が開催した上映会でだった。ほこりっぽい学生会館の一室で白いシーツに映し出された映像を息を詰めて観たのを思い出す。

 「七人の侍」と「太陽を盗んだ男」は色々な意味で対照的だ。ストーリーから撮影時のライティングに至るまですべてか完成され切っている「七人の侍」に対して、「太陽を盗んだ男」はすべてが未完成だ。ストーリーからカット割りから、沢田研二と菅原文太が演じるメインキャラクターの造形に至るまで、どこをとっても未完成なのだ。にもかかわらず全体として圧倒的な迫力があるという点に、この映画のすごさがある。東京中を走り回るカーチェイスからラスト、九段・科学技術館屋上での2人の決闘まで、「息をもつかせぬ面白さ」というのは「太陽を盗んだ男」のためにある言葉だとすら言える。

 本編を見た勢いで、メイキングも見てしまい、驚く。この映画、冒頭で皇居前広場にハイジャックされたバスがつっこむ。また、沢田研二演じる高校教師が女装して国会議事堂に入り込むシーンもある。首都高で派手なカーチェイスもやる。デパートの屋上から一万円札が大量に降ってくる場面もある。

 なんとこれらすべて、違法を承知で警察と駆け引きしつつ撮影したというのだ。まず警察に撮影すると話に行く。色々あって認可されない。それならば、と撮影を強行し、警察が何か言ってきたら、あらかじめ決めていたスタッフが「じゃ、俺行って来るわ」と出頭して留置されるということを繰り返したのだという。首都高のカーチェイスなどは、早朝に大型トラックを並べて徐行させ、一般車両に「通せんぼ」をして、前10kmほどをガラガラにして撮影したのだとか。

 いい根性しているじゃないか。

 今だったらとてもできないだろう。やった途端に新聞ネタとなり、製作中止を余儀なくされるのではないだろうか。

 33歳でこの映画をものした長谷川監督は、その後現在に至るまで沈黙し、次回作を完成させていない。メイキングではすでに60歳近い姿を見せているので体を壊したというような外的な理由からではないようだ。

 この点でも自殺未遂などを挟みつつも生涯にわたって映画を撮り続けた黒澤明と対照的である。

 未見の人は是非観て欲しい。損はしないから。今ならレンタルビデオで借りることができるのではないだろうか。

ミツバチを観察する

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5月8日

 一日仕事。昼過ぎ、窓を開けっ放しにしているとミツバチが一匹部屋の中に入ってくる。うまく誘導して追い出せないかといろいろやってみたが、開いた窓で片側に重なっている窓ガラスの間に入ってしまった。

 こうなるとたたきつぶした方が早い。ゆっくりとサッシを動かしてミツバチが出てきたところをティッシュで押さえる。哀れミツバチは絶命したが完全にはつぶれなかった。

 ここで、以前野尻抱介さんのところに遊びに行った時、ミツバチの標本を見せられたことを思い出した。ダニが寄生した標本である。ミツバチには寄生ダニが付くことがあってダニにやられた巣は蜂蜜の生産量がめっきり低下する。野尻さんのところで実体顕微鏡で見た標本には、胸毛の部分にびっしりとダニがついていた。それは気味の悪い代物であったが、同時にひどく興味をそそられるものでもあった。自分の預かり知らないところで生命は絡み合っているということがものすごく面白かったのである。

 私は実体顕微鏡を持ってはいないが、写真ポジを見るためのルーペは所有している。早速ミツバチの亡骸をルーペでしげしげと観察する。目当てのダニは付いていなかった。きわめて健康なミツバチである。胸毛の間からぽろりと花粉の塊が落ちる。このあたりだと、一体どのような花から花粉を集めているのだろうか。

 精妙な複眼や、引っ張ると取れる毒針や(ミツバチの毒針は刺した相手の皮膚に残り毒を送り込み続ける。刺したハチもその後死ぬ。文字通りの「蜂の一刺し」)、脚に生えている毛などをしげしげと観察する。もう少し倍率が高ければもっと色々面白かったろうが、写真用のルーペでは限界がある。

 ひとわたり観察して気分転換した後はまた仕事。

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