インターミッション:おお、プロター
いつもの日記ではなくて別の話題を。プラモマニアでバイク好きじゃないと分からない話です。
6月1日の日記を書くにあたって「プロター」で検索をかけていたら、プロターが2003年にイタレリ(イタリア最大のプラモメーカー、向こうの田宮模型みたいな存在)と合併して消滅したことを知る。
おお、プロター、なくなっちゃったんかー!
私はプロターのモデルを組んだことはない。ストックを1つ持っているきりだ。それでもこのメーカーには深い尊敬の念を抱いてきた。ひとえに創業者のタルクィニオ・プロヴィーニへの尊敬である。
詳しくはリンク先を見て欲しい。プロヴィーニは1950年代から60年代にかけてのイタリアン・バイク全盛期に、世界GPのライダーだった。
彼のライダーとしてのハイライトは1963年のシーズンだ。弱小チームのモト・モリーニに移籍して250ccクラスに出場した彼を待ち受けていたのは、当時上り坂、絶好調のホンダワークスだった。ライバルのジム・レッドマンが駆るホンダのマシンは、4気筒DOHC、60馬力オーバーというモンスター。パワージャンキーにしてスピードジャンキーの本田宗一郎が、技術者らを叱咤激励ぶんなぐって作り上げたエンジンを搭載していた。対するモト・モリーニは単気筒27馬力(この数字は、後年モト・モリーニに刺激されてロードボンバーを製作して鈴鹿8時間耐久に出場した、島英彦氏が推定したものだったと記憶している。確か出典は島氏の著書「オートバイの科学」)。パワーが半分以下でしかない以上、勝負は最初から見えているように思えた。
ところがいざGPが開幕するとプロヴィーニの乗るモト・モリーニはホンダと対等に戦った。エンジンが簡単なモト・モリーニは車体が軽いのでコーナーリングスピードがホンダよりも速かったのだ。そして何よりも、「鬼神」という形容がぴったりのプロヴィーニの走り!レッドマン/ホンダとプロヴィーニ/モト・モリーニは一歩も譲らず、世界チャンピオン決定は遂に最終戦の鈴鹿GPへともつれ込んだ。
ここでプロヴィーニは破れた。彼の責任ではない。ホームグラウンドで万全のバックアップ体制を敷いたホンダに対して、モト・モリーニは極東の日本で不十分なサポートしかできなかったのである。
が、この年、プロヴィーニは伝説の男となった。日本では「火の玉プロヴィーニ」と称され、本国では「一騎当千の騎士」と呼ばれたのである。
その後、大事故を起こして引退したプロヴィーニは、自分が乗ってきたレーシングバイクのプラモデルを作るメーカーを興した。なんでも事故で入院中にバイクのプラモデルを作ってやみつきになったのだという。それがプロターだ。「プロヴィーニ・タルクィニオ」というわけ。
熱いよなあ、男だよなあ、いい人生だよなあ、と思う。若いときはGPライダーとして世界を沸かせ、引退してからはプラモメーカーでまた世界の人々から愛されたのだから。
プロターのモデルは部品の一つ一つをみるとけっこうダルだ。その意味では田宮のプラモのほうがずっと質は高い。しかし部品の造形や、さらには組み合わせていった時の姿形にえもいわれぬ雰囲気がある。作った人によると、手を入れれば入れるほど良い完成品になるのだそうだ。
リンク先を見ると70歳を過ぎたプロヴィーニは引退し、息子さんが経営を継いでいたようだから、イタレリとの合併も時代の流れなのだろう。しかし、プロター、なくなっちゃったんか…なにか悲しい。
実家に眠らせてあるストックの中には、プロター製の「ホンダRC166」がある。1960年代ホンダ最盛期のレーシングマシン。250cc6気筒という究極バイクだ。実車はツインリンクもてぎにあるホンダコレクションホールに展示されている。
こんど茂木に行くことがあったら一杯写真を撮ってこよう。そしてこのプラモデルを組み立ててみよう。