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2004.10.01

父死す

 9月27日、父がこの世を去った。死因は大腸ガンの肺転移。享年76歳だった。本日告別式を済ませ、骨となった父を実家に迎えて、この文章を書いている。本人の遺志を尊重し、通夜も告別式も自宅に最小限の親しい人を集めて済ませた。、

 この一ヶ月、家族全員で入院して日一日と弱りゆく父を毎日見舞い、看護してきた。父の死を予感しつつ日々を過ごすことは耐え難いほどの苦痛であったが、終わった今、看護できるかぎりのことをしておいて良かったと思う。

 少し父について書きたいが、トップページでは気恥ずかしい。「続きを読む」以降にいくばくかの文章を入れておくので、読みたい人だけクリックして読んで欲しい。

 この場には以下の一文だけを書いておくことにする。

 お父さん、私はあなたの息子であることを誇りに思います。

 私にとって父はまず、オタクの導師であった。といっても本人はオタク的属性は皆無だった。旧満州、満州帝国の首都である新京(現長春)に生まれ、戦争で祖父を失った父は、実物を見ていたのである。小学4年生の時にレベルのプラモデルをもって飛行機に興味を持った私にとって、父の話は驚異そのものだった。

 隼戦闘機:「座席に座らせてもらったことがあるよ。小さな飛行機だった」
 特急「あじあ」:「小学校の頃、何度も乗った。でかい動輪だったな。当時冷房が付いていたんだよ」
 97式大艇:「釜山航路の途中で不時着水しているのを見た。波間にぷかぷか浮かんでいた」
 フォッケウルフ「コンドル」旅客機:「ルフトハンザがやった世界一周飛行の途中、新京の上空を飛ぶのを見た。初めて見た4発機だったんだ。『うわあ、大きいなあっ』と見上げたものだった」
 Yak-9戦闘機:「敗戦の日だったかな。新京の上空にやってきて、ぶわーっと垂直上昇していった。日本の戦闘機にはあんなことできなかった。負けるのも当然だと思ったね」
 T-34戦車:「なんでも踏みつぶしていきやがるんだ。日本の九五式戦車もぺしゃんこさ。陸軍はあんな戦車でよく勝てると考えられたもんだよ」

 このような話に私はずいぶんと興奮したものだった。

 敗戦後の新京で、祖父はソ連軍に抑留されてそのまま行方不明になった。その中で父は国民党と八路軍(共産党軍)の内戦に巻き込まれ、死体運びをやらされたという。17歳で弾丸が飛び交う中を死体を運んだ経験は、彼の死生観の基本的な部分を形成したらしい。

 その後、父は祖母と共に日本に引き揚げてきた。その過程で筆舌を尽くしがたい苦労をしたらしい。後に農業問題を専門とするにあたって、この時の飢餓体験が大きな契機となったという。「食こそ人の基本」という考えは、終生変わることはなかった。

 岡山の旧制六高と京都大学法学部を卒業。大阪毎日新聞社に就職した。大学時代は、いとこである多田道太郎氏(フランス文学者)とつるんでずいぶんと遊んだらしい。「みっちゃん(多田氏のこと)とな、京大会館で最後の来日をしたアルフレッド・コルトーのピアノを聴いた。いやひどいひどい、コルトーじじいは鼻水をぬぐいながらその手でピアノを弾きやがるし、音もばんばん外すんだ。でも音楽は素晴らしかった」
 後に確認したのだが、同じ演奏会には同時期に京大文学部に在籍していた小松左京氏もいたそうだ。

 父は名古屋の整理部勤務で社会人としてのキャリアを開始した。名古屋では伊勢湾台風を経験している。整理部は刻一刻と出稿される記事の重要度を判断して新聞紙面を構成する部署だ。新聞社の社内ではかなりの権力を持つセクションである。
 しかし、彼は唯々諾々と会社の命じた仕事をするようなタマではなかった。「給料もらってんだから仕方ない」などと自分に言い聞かせるようなことは絶対にしなかった。彼の望みは、「整理部なんて内勤はイヤだ。経済部に行って農業問題をやりたい」「名古屋ではダメだ。東京に出たい」であり、実現のために相当社内で運動したようだ。やがて東京勤務となり、結婚して長男の私が生まれた頃、念願の経済部勤務となった。

 後に若き日の整理部勤務を、父は「時間の無駄だった」と語っていた。つまり彼にとって「したいことができない」というのは、どんなにおいしい仕事でも「時間の無駄」だったのである。

 新聞記者時代の父の仕事を、私は断片的にしか知らない。佐藤栄作が退陣表明で「私は新聞を信用しない」と言って、新聞記者を会見場から追い出し、テレビカメラ相手に退陣演説を行った時にそこにいただとか、運輸省記者クラブにいた1967年にアメリカに出張して、当時旬のネタだったSST(超音速旅客機)を取材して「SSTなんか採算が取れない。航空輸送の将来はジャンボジェットにある」という記事を日本で初めて書いた、というような話を本人から聞いたぐらいだ。後者はそのうち、縮刷版でも当たって当該記事をきっちり検証してやろうと思っている。
 確かに父には、自慢話が針小棒大になる傾向があった。

 息子から見た父の方法論は、「虚勢と意地を張る」だった。ひたすら虚勢を張り、意地を張り、しかも張り続けることで虚勢を虚勢ではない実体のあるものにしていくのである。もちろんその過程ではずいぶんと努力をしたのだろうが、努力を他人に見せることはなかった。常に「こんなことなんでもない」という態度をとり続けた。
 だから味方も多かったけれども敵も多かった、らしい。私はずっと後に、父のシンパである農家の方から、「先生が後ろから刺されないように、あんたが頑張ってくれ」と懇願されたことがある。

 そういえばどういう理由からか、毎日新聞に勤務しつつ、しばらくの間NHK総合の早朝番組「明るい農村」のキャスターを務めていたことがある。当時父はひどく太っていたので、家族はテレビを見るたびに「象に目鼻」といっていた。今だったら始末書ものなのではないかと思うのだけれども、当時の毎日新聞は記者のそのような活動を許容するおおらかさがあった。

 父が太っていたのは、本人の弁によると「戦後の飢餓でひどい目にあったから、就職した時に給料はすべて食い尽くしてやろうと考えた結果」だった。
 暴飲暴食の人だった。「俺は繊細な味が分かる」と自称していたが、醤油を料理にかければ常にかけすぎだった。酒は非常に強かった。
 とにかくすべてが過剰だった。過剰なのは調味料や酒だけではなく、頭にヘアトニックをかければ常にかけすぎだったし、歯ブラシに付ける歯磨きも過剰、水虫に付ける軟膏も過剰だった。要するにすべてに関して「ほどほど」という概念を持たなかった。
 結果、40代に糖尿病を患った。糖尿病には教育入院という制度がある。入院して生活習慣を自己管理する術を学ぶのだ。父は2回、教育入院したが、生活の管理はついぞ覚えなかった。家族が主治医に3回目の教育入院を要望したことがあったが、「あまり何度も教育入院をされた方が来られると他の患者さんに悪影響を与えるので」と断られた。
 体重が増えるたびに背広を新調したが、服装のセンスは悪いを突破して極悪と表現するほか無かった。あんたは金貸しかヤクザかコメディアンかと問いつめたくなるような背広を平気で着ていた。帽子を好み、たくさんの帽子を持っていたが、きんきらの背広によれよれのコートを羽織り、ヘアトニックが染みたテンガロンハットをかぶって自転車に乗る父の姿は、息子として泣きたくなるほど奇妙だった。

 糖尿病は徐々に進行し、60代以降は毎日インシュリンを自己注射しなければならなくなった。しかし本人は「俺は自己コントロールができているんだ。その証拠に主治医の先生は、俺には事細かなインシュリン注射の管理を指導しない。信用されているんだ」となどと言っていた。ほとんど、「ほざいていた」というレベルである。
 タバコの量も並ではなかった。両切りピースを愛用し、晩年になるとフランスの「ゴロワーズ」を好んだ。一時期はハバナの葉巻を吸っていたこともある。ニコチンの強いタバコが好きだったのだ。

 大腸ガンの危険因子は、肥満、ストレス、タバコだという。父の生活習慣にはそのすべてが揃っていた。

 並の父子ならば、その縁は子供の成人と共に希薄になるものだろう。が、私と父は違った。そこには、Iという私の大学時代の友人が関係してくる。
 Iの家は千代田区にいくつかのマンションやビルを所有していた。大学卒業後、私が中国を卒業旅行していた時、そのIから「どうだ、お前就職を機に俺のところのマンションを借りないか」という話が来たのである。私が不在の実家で、その電話を受けたのが父だった。
 当時父は毎日新聞を辞めて、どこをどうしたのか休眠財団法人を一つ引き受け、そこを拠点に本格的な農業経済のフィールドワークに乗り出そうとしていた。ところが金がない。最初は事務所を都心から離れた賃貸料の安いところに設置しようと思っていたのだが、財団法人の約款に「事務所は千代田区内に置くこと」という一文を見つけて頭を痛めていたところだった。
 そこにIの申し出である。しめた、ってなものだ。息子を押し込むついでに自分の事務所もIのところに借りてしまえ。
 というわけでその後10年に渡って、私は父の事務所の階上に住むことになったのである。
 酒好きの父は事務所にいつも美味な酒をストックしていた。で、私も酒好きである。深夜に神経がささくれだったまま帰宅した時など、私はよく父の事務所にある酒をくすねた。時には事務所に行くと、父がうんうんうなりながら何事か原稿を書いている。すると元新聞記者の父と、現役雑誌記者の私の酒盛りが始まるわけで、私は父と酒を飲みながら、ずいぶんと色々な議論をした。
 父と交わした議論は、間違いなく私の血肉となっている。今の私の思考パターンのかなりの部分は、父から授かったものなのだ。

 例えば、私が日経マグロウヒル社(現日経BP社)に勤務し始めた頃、事務所での深夜の酒盛りで、父から「お前の会社に○○という奴はいるか」と聞かれたことがあった。当時日経ビジネス誌の編集長が、その名前だったので、そのように返事すると父曰く、「○○は日経の記者で、日銀記者クラブで一緒になったことがあったがな、俺があんまりスクープを出すもんで奴は青くなってな、最後は『松浦さん、一般紙の記者なんだから勘弁してくださいよー』と泣きを入れてきたことがあったぞ」。経済専門誌の日経が、一般紙の毎日に金融記事で遅れを取るというのは、日経新聞にしてみれば失態である。
 しかしそんなことが可能だったのか、ホラを吹いているのと違うのか、と思っていたら父は種明かしをしてくれた。「記者クラブに入れない業界紙の記者とギブアンドテイクで協力するのさ。こっちは記者クラブにだけ出てくる情報を奴らに流す。奴らは足で稼いだ一次情報を流す。後は分析だ」。
 父は、自己顕示欲が強いほうだったと思う。しかし、自己顕示欲の裏打ちもしっかりとしていた。


 財団法人の理事長時代の父は、ずいぶんと色々な仕事をした。やりたいことを、自分で金を集めて、自分でやる。父にとってこれほど楽しいことはなかったのではないかと思う。
 一番大きかった仕事は、多分日本の穀物取引市場に先物取引を導入するということではないだろうか。当時父は、「先物取引というと投機的なイメージが強いが全然違う。先物取引は長期的な穀物価格の安定のために必要不可欠な仕組みだ」とよく言っていた。保守的な日本の穀物取引市場に、この理屈を納得させるために父は世界中に調査に赴き、データを積み重ねた。コーヒー豆の調査を行った時にはトラジャコーヒー原産地のイリアンジャヤにまで行っている。
「おい、イリアンジャヤでYS-11に乗ったぞ。あんなところで使ってるんだな」と言っていた。

 自己顕示欲が強いにもかかわらず、父は名誉には無関心だった。自分のやっていたことが金や名誉になりそうになると、「ものになるなら俺がやる必要がないな」とさっさと放りだし、次の面白そうなテーマへと流れてまたパイオニアを務めた。次の時代に何が必要になるかを読みとる、鋭い選別眼を持っていた。自己顕示欲よりも自尊心が強かったとも言えるかも知れない。

 仕事の成就に関しては、「俺がやったと思いたい奴がいるなら思わせておけばいいんだ」というのが口癖だった。

 ずっと後に、私は某穀物取引所がコーヒー豆の先物取引を上場するにあたって出した挨拶状を読む機会があった。農林水産省からの天下りと思しき理事長が、いかに苦労して先進的な先物取引を実施するに至ったかを説明した文章を読んで、私は思いきり笑った。
 その遙か以前に、私は父から「腰の重い穀物取引所を、どういう手段を使って先物取引を始めざるを得ないところに追い込んでいくか」という話を聞いていたのである。父の「俺がやったと思いたい奴には思わせておく」というのは、つまりそういうことだった。

 もう一つ父が力を注いだのは、「農の匠の会」という組織だった。父の人物に対する好みははっきりしていて、頭の良い人物を好み、愚か者は疎んじた。「農の匠の会」は、そんな父が日本中を歩いて見いだした優秀な農業従事者を横断的に相互につなぐ組織だった。

 インターネットが民間に開放されていない時点で、父はネットワーキングを実践し、農業を活性化しようとしたのだった。

 もう一つ、農の匠の会には、優秀な農業者に官と戦ったり官を利用するためのノウハウを伝授するという意味もあった。地方在住の農業者は、時として過剰なまでの敬意と恐怖を中央官庁に持っていたりする。「お上には逆らえない」という感覚だ。
 父は長い官庁取材経験から、官僚とのケンカのしかたも、官僚と仲良くする方法も知っていた。これを様々な地域に点在する農業者達に伝授していったのである。
 彼らは、自らの生産物を我が家に送ってきた。父が元気な頃、松浦家の食卓には、美味な季節の産物がよく上った。
 農の匠の会の会員達は現在も連絡を取り合い、ネットワークを維持しているという。

 1991年のバブル崩壊は、財団法人運営に決定的な打撃を与えた。父の研究資金集めの才覚では財団を維持できなくなり、父は財団法人を手放して、素浪人となった。
 しばらくは鬱屈していた父が、再起動したのは新しいテーマを中国に見つけたからだった。中国における稲作である。
「21世紀のコメを考えるには、中国のジャポニカ米稲作の実情を押さえなくてはダメだ」と父はいい、中国に渡航する算段を探すようになった。これまた息子には分からない手練手管を使い、引っ張ってきたのは、北京にある中国人民大学の農業経済系客員教授という身分だった。

 後で思えば、この中国渡航前にきちんと健康診断を受けていれば、父の命を奪うことになる病魔は、ごく初期の状態で大事に至ることなくつみ取られていたはずだった。しかしこのとき、父は中国に行くことしか考えていなかった。それどころか、中国に渡るために健康面の問題が見つかると面倒だと考えて、あえて健康診断を受けなかったようでもある。

 母は、何度も健康診断を受けるように父に懇願したが、父は「大丈夫!」といって頑として健康診断を受けなかった。そして、客員教授の任期が始まる2ヶ月も前に自費で中国に渡航してしまった。それほどまでに中国に行きたかったのだ。

 父は1年だったはずの任期を2年近くまで引き延ばし、中国の学生を教え、中国における稲作の調査を行った。インターネット時代になっていたので、パソコンを北京に持ち込み、東京とのやりとりには電子メールを使った。「パソコンがなんぼのものだ。俺は整理部時代に英文タイプを使ったことがある。キーボードの配列は同じなんだろ」といって、とにもかくにも中国でメールを使いこなし、「アレが足りない。これを送れ」という要求のメールを送ってきては。家族を右往左往させた。

 中国時代の父の写真は、どれもいい表情をしている。葬儀で遺影に使ったのも北京での写真だった。学生に鞄持ちならぬパソコン持ちをさせて、父は中国の各地へ稲作調査へと赴いた。特に旧満州の現状には強い衝撃を受けたようだ。「子供の頃一面のコーリャン畑だったところが稲作に変わっているんだ。朝鮮民族が栽培しているんだよ。満州で朝鮮人が作る米は、21世紀の日本に取って大きな問題になる」と一時帰国した時に語っていたのを思い出す。

 しかし、その中国滞在時に、父の体調は徐々に悪化していった。帰国後はめっきり弱り、外出先で倒れて救急車で運ばれるほどだった。

 我々家族は実にうかつだった。父の体調不良は糖尿病の悪化の結果だとばかり思いこんでいたのだ。これは一度入院させて糖尿を治療するしかないと、平塚の病院の内科に入院させたのは、帰国した年の9月だった。
 そこで念のため、と撮影したレントゲン写真を、たまたま外科のT医師が手に取ったことで、父の病名が判明した。重度の大腸ガン。腫瘍は大腸から小腸、ぼうこうをも巻き込んで広がっており、手術ができるかどうかぎりぎりというところだった。大腸ガンは成長が遅い。明らかにガンが芽生えたのは中国に赴く前のはずだった。
 同年11月に、父は13時間にも及ぶ手術を受けた。父は入院前に、シーズー犬の子犬を貰ってきて、「陽陽」(ヤンヤン)と名前をつけてかわいがっていた。手術直前、弟がデジカメで撮影した子犬の動画像を父に見せた。すると父は「俺はこいつ(ヤンヤン)のために生きるんだ。お前らなんかどうでもいい」と悪態をついた。看護婦(看護師と名前が変わる前なので。、あえて「看護婦」を使う)に最初の麻酔剤を打たれ、「松浦さーん、眠くなってきましたか」と問いかけられると、「ああ、あんたの顔が美人に見えるようになったよ」と応じた。虚勢と意地張りが出てくる限り、父の精神は正常であり、我々家族は最後に父の手を一度ずつ握って、手術室に入る父を見送った。

 私は手術中、待合室で飯島虚心の「北斎伝」を読みつつ、父の無事を祈った。90歳にして「もしもあと10年生きられれば、本物の画工になれたのに」と言いつつ死んだ北斎の生命力が、父にも宿ることを願った。
 T医師は凄腕だった。父の手術は成功した。私はすさまじい悪臭を放つ肉塊と対面し、手術結果の説明を受けた。集中治療室の父と面会が許可されると、私は酸素テントの中で弱々しくもがく父に、「あんたの腹黒さは確認したよ」と言った。「バカヤロウ」というのが返事だった。

 手術後の父は、余計な延命をしない、つらいことをしないというポリシーで穏やかに5年間を生きた。酒は止めたが、タバコは家族に隠れて吸い続け、母を嘆かせた。

 主治医となったT医師は、論理的に隙のない日本語で身も蓋もなく事実を患者に伝えるタイプで、水際だったメスさばきに裏打ちされたストレートさが父には合ったようだった。父はT医師を信頼し、その説明をいつもうなずきながら聞いた。どんなに絶望的な説明も一見平然と聞き、いつも「ハイッ、それじゃ」といって診療室の椅子を立った。結局最後は、T医師が父の死亡診断書が書くことになった。。
 肺転移が発見された時、「追加の手術は一回だけ」と決めて手術に挑み、昨年秋に再度肺転移が見つかったときは手術を拒否した。抗ガン剤の点滴も、副作用が出てつらくなると投与を拒否した。

 そんな父を、私はAZ-1で通院の度に病院まで送った。ガルウイングで背の低いスポーツカーの乗降は、体力の衰えた父にとってかなりつらかったらしく、「さっさとこの車を買い換えろ」と何度も言われた。その都度、私は「この車に乗り降りできる間は大丈夫ってことさ」と言い返した。

 父は今年の春頃から、どうやら自分の死期を自覚していたようだ。家族には一切告げなかったが、行動に変化が表れた。
 旧制高校関係者が毎年開催してきた寮歌祭に「後ろ向きだ」として一度も出席しなかったのに、自分の卒業した六高寮歌集を入手して、「俺の葬式にはこれをかけろ」と宣言した。
 常々「戦前戦中に中国に住んでいた者がノスタルジアで中国観光に行くのは愚劣だ」と公言して、中国で2年間を過ごした時もかつて自分が住んでいた新京(現在の長春)に足を踏み入れなかったのに、今年の7月には衰えた体力をおして新京の観光に行った。かつて自分が住んでいた建物の写真を撮ってきて、「これは私的なノスタルジアでしかないんだが…」と絶句した。

 8月27日の診察で、T医師から「あと2ヶ月ぐらいか」と宣告された。いつも通り、「ハイッ、それじゃ」と診察室を出たが、帰途、AZ-1を回り道させて様々なタバコがあるタバコ屋の前を通過させ「いよいよ死にそうになったら、ここで最高級の葉巻を買って吸わせろ」と要求した。これがAZ-1に乗った最後の機会となった。

 9月1日に胸の痛みを訴えて入院、声が出なくなり鎮痛剤を使い始めた。いったんは痛みのコントロールに成功して退院したが、すぐに呼吸困難を起こして再入院した。
 9月11日の再入院後、父の容態は日一日と目に見えるほど悪化していった。酸素マスクに供給される酸素の濃度はどんどん高くなり、やがて上限に達しても息苦しさが続くようになった。死の一週間前、ついにそれまで一言も発したことがなかった泣き言を口にした。「ええい、まったくもってなんでこう苦しいんだ」。それでも泣き言というよりは悪態にずっと近かった。

 死の当日、容態は急変した。胸に水が溜まり、呼吸のたびにがぼがぼと音を立てた。それでも昼過ぎまでは話ができ、見舞客と応対した。午後3時前、妹が来た。父は家族を集めて声を振り絞り、「お前達を誇りに思う」と言った。「さあ、看取ってや」とも。妹が泣いた。
 そこで、かっと目を見開き、「箸を出せ」と要求した。しかし食べるものは見舞いの梨のゼリーしかない。父は恐ろしいほどの迫力で、梨のゼリーを半分食べた。看護師があわてて「気管に入るかも知れませんからやめてください」と言ったが、スプーンを口に運ぶのを止めなかった。一生、食にこだわった父の、最後の食事だった。

 午後4時前、T医師の説明があった。胸にドレンチューブを入れて溜まった水を抜くことができる、喉を切開してたんを除去することもできる。ただし引き延ばしで数日といったところである――すでに父とは余計な延命をしないということで打ち合わせしてあった。私は「モルヒネをお願いします」と言った。点滴でモルヒネが血中に注入され、父は苦痛から解放され、眠った。呼吸は浅く小さくなっていき、午後8時40分に死亡が確認された。

 思うに、30代半ばで経済部記者となってから以降、父は自分がイヤだと思うことは何一つしていない。金のためにいやな仕事も我慢するというのではなく、自分のやりたいことで生計を立てるために努力するという態度で一生を貫いた。

 父の人生には父が望んだすべてがあった。ただ一つ、なかったのは余生だけだ。だが、余生と呼べる時間があったとしても、結局自分がやりたいことへ突っ込んでいくために使ってしまったろう。

 父の戒名は覚文院貫道龍翁居士という。彼の人生そのものの戒名だと思う。

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Comments

 お悔やみ申し上げます。
 御父君の思い出話は今の松浦さんの一部がどう象られたのか、興味深く読ませて頂きました。

お悔やみ申し上げます。

いつも hpを覗かせていただいているだけですが お悔やみ申し上げます。これからも 松浦さまのご活躍を 期待いたしております。くれぐれも 健康には・・・・うちの父も 昭和2年生まれではありますが 幸いなことに最近は大病もせず 少々頑固さに ターボが ・・・行きつけの先生のところで 大腸内視鏡を 月末にでも 受診して来ようかと思います。
くどくなりますが 松浦さんの健康は H2Aより きぼう より 重い と ・・・・

元宇宙開発関連大好き少年(51)

お悔やみ申し上げます。

お父様・・・カッコイイ!
あこがれます。

謹んでお悔やみ申し上げます。
初めての書き込みがこの機会というのも誠に情けない限り
ではありますが、あらためて松浦さんの驚くべき懐の深さ、
見通しの広さがどこから生まれてきたのかを垣間見ること
が出来たように思います。
松浦さんは書かれていませんが、おそらくお父様には「小
人物にも寛容と忍耐をもって接してくれる」美徳もあって、
それは確実にご子息に受け継がれているのでしょう。私が
松浦さんと何某かの接点を持つことが出来たのもそのおか
げなのですから、おおいに感謝するところです。

拙筆ご容赦の段。

お悔やみ申し上げます。

このように立派な追悼の文章を書いてもらえたお父様と松浦さんの関係、うらやましいと思います。

お悔やみ申し上げます。
しばらく大変でしょうが、落ち着いたら、またうまいメシでも食いに行きましょう。

 みなさん、どうもお言葉ありがとうございます。

 生まれてからこのかた、ずっと気配を感じ続けていた存在が消えるというのは、なんとも奇妙な気分です。最期を看取り、骨まで拾ったのに、まだ、どこかに出かけているような気もします。

 いずれは慣れるのでしょうね。

 今回のことで強く感じたのは、「結局、生きてきたようにしか死ねないのだな」ということです。生きてきた結果として死がある。

 私も42歳です。他人事じゃなく、自分もあだやおろそかには生きられないな、と思います。

いいなぁ、惜しまれつつ逝く親父って。
うちは一刻も早く死なないかなぁって思っています。
本当に死なないかな。明日にでも。
誇るべき一つまみの業績と、家人を苦しめた山積みな悪行と。
いやぁ、うちの親父は「俺(あさりよしとお)の悪いところ全部」と「それを悪いと自覚していない」が同居ですから。すンげぇ性質悪いですよ。
なんて言いながら、死にゃぁ死んだで俺だけは泣くんでしょうけど。

遅ればせながら、お悔やみ申し上げます。
なんと申してよいか、言葉には表せませんが、私も自分の父と同じ世界で飯食っているので、松浦さんのお父上との議論等の話、切に心に響きます。

私も松浦さんとは殆ど同じ年。
言葉になりません。

遅ればせながら,謹んでお悔やみ申し上げます.
私の場合は,職人(大工)の父とはほとんど話があうことがありませんので(編集業も職人技的な部分も多いとはいえ),松浦さんとお父様の来し方がちょっと羨ましかったりもしますが…….
松浦さんも健康には大いに留意して,末永く健筆をふるってください.

謹んでお悔やみ申し上げます。
松浦さんの文章を通して、父君の感性に触れさせていただた気がしました。

私自身、3年前に父を亡くした時に考えたことを思い出しました。存在しなくとも、存在を感じながら日々を送っています。

 あさりさん、ohsawaさん、國分さん、中津さん、どうもありがとうございます。

 こうしてみると男の子は多かれ少なかれ父親の影を見ながら成長するものなんですね。

 ジョン・フォード監督の「我が谷は緑なりき」、ラストのナレーションを思い出しています。

 「父は死んだ。しかし父のような男に死は無意味だ。父は我々の中に生き続ける」

 私の父に適用するには格好よすぎですが。

 それでも、今後、なにかにつけて記憶の中の父に問いかけながら生きていくことになるんだろうと思います。

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