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2004.11.28

コーラ界のシーラカンスを飲む

cola.jpg

 今年の秋、茅ヶ崎駅ビルの改装があり、成城石井が店を出した。駅構内や駅ビルに店を出し、世界中の食品雑貨を扱うというコンセプトで成長しているスーパーマーケットチェーンだ。最近、焼き肉の牛角が成城石井の株を買収して傘下におさめた。会社の業績そのものは好調で、この子会社化は成城石井のオーナー社長の都合らしい。

 会社の動向とは別に、この成城石井、品揃えがなかなか私の好みなのだ。間違っても普通のスーパーで扱っているような一般的な食品は扱わず、輸入物を中心に面白そうな食品雑貨がごっそり置いてある。ここの売り物で生命を維持することはできないだろうが、生活を豊かにはできるというラインナップだ。各種オイルにつけたオイルサーディーンとか、にしん(ヘリング)の大きな缶詰とか、生パスタとかニョッキとか。出来合いの総菜でも例えばチリビーンズやラタトゥーユがあったり、餃子は水餃子用と焼き餃子用があるなど、多種多様である。

 そこで見つけたのが、写真の瓶。イギリス製の「キュリオスティーコーラ」というコーラの一種だ。275mlで305円というお高い代物なのだが、なかなか気に入ってしまった。

 養命酒などに通じる「薬臭さ」全開の味なのだが、非常にマイルドなのだ。

 原材料を見ると、砂糖、発酵ショウガ根抽出液、ガラナエキス、キャラメル、リン酸、コーラフレーバー、カフェイン、とある。うげ、リン酸だと?コーラってのはこんなもので出来ていたのか。

 そもそも我々、通常なんの違和感もなく「コーラ」という言葉を使っているが、コーラとは一体何だろうか。と、思ったらちゃんとウィキペディアに「コーラ」という項目が立っている。ほほう、コーラというのはアオギリ科の植物だったのか。で、その実を使った清涼飲料がコーラだが、現在のコーラはそもそもコーラの実は使っていないと。
 キュリオスティーコーラの原材料にある「コーラフレーバー」というのがコーラの実の抽出物だろうか、それとも人工的に作った代用品か?

 元を正せば19世紀末アメリカで、薬局の店頭でソーダ水を売るソーダファウンテンが大流行、そこで「万病に効く」というふれこみでブームになったのがコーラだった。もちろん「万病に効く」というのはインチキで、人々は「これは薬だから」と自他に言い訳しつつがぶがぶ飲んだのである。
 需要あれば供給ありで、次々に「なんたらコーラ」が出現、激烈な競争を繰り広げた。そのうちに、原材料に「コーラの実」を使うなどということは忘れ去られて、「カラメルで黒く着色し、カフェインを含んだ炭酸清涼飲料」がコーラということになったのだ。

 中で人気を集めて一大産業となったのが「コカ・コーラ」と「ペプシ・コーラ」だった。ちなみに「コカ」は、麻薬であるコカインを採る南米原産の樹木。もちろん現在のコカコーラにはこんな剣呑な成分は入っていないが、当時は「万能薬」だからこんなものも使っていたのだ。そして「ペプシ」は、胃液中のタンパク質分解酵素「ペプシン」からの命名。もちろんペプシコーラにペプシンなど入ってはいない。「消化を助ける」という宣伝で売った名残である。どっちにせよ、今なら「JAROに電話しよう」だ。

 ここから先は、以前見た「ヒストリーチャンネル」の番組の受け売りなのだが、なぜライバルの中からコカコーラとペプシコーラがのし上がったかと言えば、ライバルよりも大量の砂糖をぶち込み、大量の炭酸ガスを吹き込んで刺激を強調したしたからなのだそうだ。巨大市場を押さえるために、どんどん刺激をアップしていく――いかにもアメリカな市場展開である。

 で、手元のキュリオスティーコーラを見ると「90年以上前から守られたレシピ」という宣伝文句が入っている。どうやら、コーラ界のシーラカンスのような位置づけのコーラらしい。

 その味は、あくまで柔らかく、コカコーラのような強烈な刺激は全くない。ちょっとほっとするような優しい味である。あまりのマイルドさに、薬臭さもほとんど気にならない。かつて「万能薬」として売った名残かと思えば、むしろ味わい深い。

 コカコーラだのペプシコーラといった代物をほとんど飲まなくなってから、すでに20年以上経つが、もしも世間で言う「コーラ」がこのキュリオスティーコーラのようなものだったら、私はコーラを日常的に飲んでいたかも知れない。

 値段が高いということもあり、そうそう飲む気はない。それでも最近はコーラというもののイメージを変えてくれたこのキュリオスティーコーラを、時々買って来たりしているのである。


 ところで、本当にコーラの実をがっちりと使った元祖コーラ、まだあるのだろうか。一度飲んでみたい気がする。

2004.11.27

父を偲ぶ会を開催する

 本日、無事に父の追悼会を終えることができた。

 多くの友人達が集まってくれた。それは父が多くの友誼を結んできたということでもあり、同時に友達よりも早く死んだということでもある。うれしいと同時に悲しくもある。

 一人の友がスピーチでこういった。
「我々の年齢の平均余命はあと6年半だそうだ。ということはあと6年も経てばまた会えるから、松浦、その時は楽しくやろう」

 本日集まってくれた皆様、本当にありがとうございました。

 事前の準備に加え、慣れない司会などをやって疲労困憊。本日はもう寝ます。

2004.11.26

テレビからの声に泣く

 本日、テレビをつけっぱなしにして原稿を書いていて、不覚にも泣いてしまった。

 テレビでは、中越地震でひどい被害を受けた山古志村の様子を流していた。画面に、やっと村に戻ってきて倒壊した家の前にたった農家の方が写り、こう言ったのだ。

「また元気が出てきました。ここにもう一度家を建てて、牛舎を建てて、家族と牛を飼って暮らします」

 ここで、ぶわっと涙が出てきてしまった。一体これからどれほどの苦難があるかも知れないのに、こう言うのか。こう言い切るのか。

 と、同じ感情を映画で味わったことを思い出した。どの映画だったか…そうだ、「風と共に去りぬ」だ。ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラが、荒れ果てた故郷に戻り、土をつかんで「二度と飢えない!(Never hungry again!)」と誓うシーンだ。

 精神は死んでいない。

 被災しなかった地域にいて、ひいこら原稿を書いている自分には、これ以上なにも言うことはできない。


 原稿に詰まり、深夜コンビニに出かける。大して金額を確かめもせず541円だと思いこんで、レジで1041円を出す。考え事をしつつ釣り銭を受け取り、店の外に出て、初めて自分が500円玉ではなく100円と10円の塊を握っているのに気が付く。しめて490円なり。

 551円だったらしい。だったら気付よ店員、機械的な対応してるんじゃないよ、と憤慨しかけて思い至る。自分も機械的に釣り銭を受け取って外にでてきてしまっていたのだった。

2004.11.25

我々は歴史を生きているということについて

 一昨日書いた「独占を再考する」かなり手厳しいコメントが付いた。
 基本的に、私の態度は私の書く文章で証し続けていくしかないと思うのだが、このようなことを書いた私の動機を「悲しい」と書かれてしまったことに一言。

 私は14年、途中2年間大学院に出たので実質12年間、日経BP社(入社時は日経マグロウヒル社)に記者として勤務した。その過程で、一般の人が見ることがないであろう現場を色々見てきた。もちろん産業記者であり、事件記者ではなかったのでたかが知れているのだが、それでも「俺、歴史の生成する過程を見てるんじゃないだろうか」と思うことは多々あったのである。

 最近、そういう体験は、メモでもいいからまとめて公開するべきなんじゃないか、そう思うようになった。
 というのは、特に企業を引退した方や官僚OBといった人たちに会うと、「なんでそんなこと黙ってたんだ!」と言いたくなるようなことを聞く事があるのだ。本人にすれば当たり前だし、守秘義務もあるしでずっと黙っていたのだけれども、それが公知の事実になっていれば、様々な決断も違うようになっていたんじゃないかというようなことが意外に多い。

 こりゃ、自分の乏しい体験もともかく書いておいたほうがいいな、と思うようになったところで、たまたま「巨大独占」を読み、ADSLのことを思い出したのだった。それぐらい、インターネット協会総会におけるNTT糾弾は印象に残っていたのである。

 で、ここに書いた次第だ。

 なにしろこのblogは「日々感じる『揚力』と『抗力』についてアップします」という場所なのだ。

 ところで、森山さんの日記


プロデューサーとディレクターを混同しているようなところもあったし。

ということで、調べてみたらディレクターのお仕事というページを見つけた。同HPにはプロデューサーのお仕事という文章もある。
 なるほど。番組の方向付けを行い、予算をはじめとした番組枠を管理するのがプロデューサー、その下で各回の番組を作るのがディレクターなのだな。

 というわけでNHKの現状について本を紹介するの「プロデューサー」を一カ所「ディレクター」に直しておきました。

2004.11.23

独占について再考する

 森山和道さんが、彼のWeb日記11月21日の記述で、私が書いた「独占について考える」についてコメントしている。
 要約すると「ソフトバンクが本当の意味でブロードバンド時代をもたらしたのは事実だが、ADSL導入にあたって、NTTと激しく戦ったのは東京めたりっく通信をはじめとしたADSL業者たちだ。また、日本で最初にADSLを研究したのはNTT光ネットワークシステム研究所で、NTTもまた一枚岩ではなかった」という内容である。

 その通りだ。ただ、私はそれら初期のADSL事業者の戦いは、NTT、もっと言えばNTT経営戦略部門が設定した予定調和へと吸収されてしまったと見ている。そういった従来の日本型予定調和では、ADSLの低下価格化は進まなかったろう。それを破り、価格低下をもたらしたのはソフトバンクだったのである。

 もっと書けば、「NTTのえげつなさに対抗して時代のフェーズを進めるには、NTTと同等以上のえげつなさをもつソフトバンクのえぐみが必要だった」ということではないだろうか。

 本当はきちんと調べて書くべきことなのだが、当時の取材などの状況をメモ代わりにまとめておくことにしよう。
 あくまでもメモであり、認識の誤りや事実関係の誤認も含んでいる可能性があることを承知の上、以下を読み進めて欲しい。


 日本でADSL有効性が広く認識されたのは1997年9月から始まった伊那xDSL利用実験からだった。この実験は当時のインターネット関係者達がボランティアで集まり、企画したものだった。が、当時取材した限りでは、NTTはこの実験を陰に日向に妨害しようとしてたふしがある。まず、実験の前提となる電話回線を絶対に貸そうとはしなかった。「混信が発生し、通常の通信業務に支障を来す」というのがその理由である。実は当時混信の可能性が指摘されていたのは、さほど普及していなかったINS64との間であり、通常の電話信号との混信は問題ないとされていた。

 当時の貧弱なINSの利用状況からすれば、NTTには実験に協力する余地が十分にあったはずだが、そうはならなかった。

 この時期のNTTの内部事情は知らない。私は、まだ経営企画の根幹にまでADSLの存在はきちんと知られておらず、現場レベルで「膨大な投資をしてきたINSを無にしかねない実験は妨害するに如かず」という論理が働いたのではないだろうかと想像する。

 結果、伊那の実験はNTTの回線ではなく、農水省の回線を使って行われた。これまた実に驚くべき縦割り行政の一例なのだが、伊那では「農村電話」という農水省の補助で作られた緊急連絡用の電話網が存在したのだ。当時すでに農村電話は廃止の方向にあり、農水省は農村電話に代わってケーブルテレビに補助金を付けていたが、伊那ではこの農村電話の配線がそのまま残っていたのだった。

 しかも農村電話は、ADSLに向いていた。NTTの家庭電話回線、通称「ラストワンマイル」は、戦後の物資困窮時に敷設された。このため、配線直径がアメリカ規格の0.5mmより細かったのである。うろ覚えなのだが0.4mmだったと思う(余談だが細くすればその分銅資源が節約でき、早く全国に電話網を敷設できるという計算は、典型的な学校秀才の思考法であるように思える)。その分インピーダンスが高く、周波数の高いADSL信号を通すには不利だった。一方農村電話は、日本が高度経済成長を始めてから敷設されたので、インピーダンスの低い太い信号線を使っていたのである。

 伊那の成果はインターネット事業者に、とてつもない技術革新がすぐそこまで来ていることを実感させた。なにしろNTTのINSは従来のメタルラインでは64Kbps、最大でも128Kbpsの通信速度しかない。1.5Mbpsを出したければ光回線にしなければならない。ところがADSLなら、そのままで1.5Mbpsのサービスが可能で、将来の技術革新によってはそれ以上、光に迫る速度を従来のメタル回線で出すことができるのだ。

 伊那の実験を受けた翌1998年初夏の日本インターネット協会総会(7月16日でした。いしどうさん、ありがとうございます)は、壮絶なNTTバッシングの場と化した。なにしろ事業者達は、NTTの実験非協力でいらだっており、それに伊那での素晴らしい成果が加わって、ラストワンマイルを解放しないNTTに対する怒りが煮えたぎっていたのだ。ところが、総会に招待されたNTTはどういう口実を付けたか知らないが代表が欠席したのだった。
 どかーん、だ。その場にいた私があっけにとられるほどの勢いで、強烈なNTT批判が次々に飛び出し、しかもNTTを擁護する意見はどこからも出なかった。

 それに対するNTTの反応だが、しぶしぶという感じで、確か98年秋から公衆回線を使ったADSL通信実験を開始した。が、これがなんとも煮え切らない実験で、モニターを公募したものの、そのモニター応募者にもいつ実験が始まるのかよく分からないという状況だった。いくら取材をかけても実験をやってるんだかやっていないんだかよく分からない状況で、実験がいつ始まったのか。いつ終わったのかすらよく分からないという奇妙なものだった。
 今にして思えば、あの公開実験は見せ玉で、NTTは裏でADSLの実力と将来性を必死になって探っていたのだろう。彼らにとって実験用の回線の手当など造作もないことだから。その上で、自らが損をしない、しかも自らの市場支配力を損なわない形でADSLを取り込むための経営指針を策定していたのだろう。

 同時期、NTTは例の「64たす64で128」というコマーシャルで一般家庭向けインターネット接続にINS64を「フレッツISDN」という名前で徹底的に売り込み始める。すでに技術的には1.5Mbps以上の速度を既存回線のまま提供できることが見えていたのに、なぜ急にINS64を売りだしたのか。
 なにしろINS64は、それまであまりに敷居が高かった。そもそも、申込用紙は一般消費者には理解できないNTT専用の通信用語で埋め尽くされていたのだ。
 そんな用紙の殿様商売で売っていたINS64を申込用紙の改訂を行ってまで大々的に売り出した理由は、一つしか考えられない。

 ADSLなど知らない一般消費者から、INSの投資を少しでも回収するためである。

 この時、うっかりINS64を申し込んでしまった人たちは、後でADSLへの乗り換え時に回線をアナログに戻すという面倒な手順を踏むことになった。NTTは、アナログへ戻す手続きを、当初「同じ電話番号のままでは出来ない」と突っぱね、やがて世間の非難を浴びて同番移行サービスを提供するようになった。これもまた計算済みの時間稼ぎだったのではないだろうか。

 今の時点で1990年代末から2000年代初頭にかけてのNTTのADSL対策を振り返ると、以下のような方針だったように見える。

 1)まず、詭弁でも構わないからああでもないこうでもないと理屈を展開して時間を稼ぐ。時間をかせいで巨大独占事業体であるNTTが、ラストワンマイルを独占しているというメリットをフルに生かせる体制を整える。
 2)その間に、ADSLが普及すれば用済みになるINSを売りまくり、少しでも投資を回収する。
 3)ADSL事業者に対しては、1)局舎のADSLモデム設置場所を貸すための手続きを引き延ばす、2)ラストワンマイルの回線使用料を高止まりさせる――で経営を圧迫する。最終的には廃業に追い込むか、資本注入で傘下におさめる。多様な事業者がサービスを提供しているように見せつつ、実はすべてNTT関連企業という体制を作る。

 これは独占事業体が利益を最大にすることを目的としたもっとも合理的な行動だ。だが、一般消費者の利益を最大にする行動ではない。

 森山さんの指摘する東京めたりっく通信を始めとした、初期のベンチャー的事業者は、結局NTTのシナリオ通りに解体され、吸収されてしまった。そして、「ADSLもやっぱりNTT東日本と西日本のフレッツADSLだね」という雰囲気ができてきたところに、ソフトバンクが参入したのだった。

 以上、メモ代わりに書いてみた。記憶に頼って書いているので、事実関係に誤認がある可能性がある。間違いを見つけた人は、コメントないしトラックバックで指摘していただければと思う。

 こういう話は、本当はずっとネットをウォッチしていたINTERNET Watchあたりの関係者がきちんとまとめておくべき話だと思う。私がこの分野を専門として取材していたのは1998年と1999年の2年間だけ。後は自宅にADSLを入れるタイミングを狙ってあれこれ情報を収集していただけだから、とてもその任には耐えない。

2004.11.22

火星は実にアメリカが好きそうな星だな、と気がつく

 火星探査機の本を書いていて気がついた。

 火星という星は実にアメリカ向きだ。

 なぜか。火星にはオリンポス山がある。高度2万7000m、すそ野の広さが直径600km超という太陽系最大の火山だ。ほかにもタルシス三山のような、ヒマラヤなんぞまったくもってめじゃない巨大火山が火星には存在する。
 また、マリネリス渓谷がある。全長4000km、幅600kmというこれまたおそらくは太陽系最大級の渓谷である。
 しかも全土は砂と岩の連続だ。気圧が低いのでタンブルウィードは転がらないだろうが、サボテンやらタンブルウィードやらが似合いそうな土地である。
 現在火星表面を走行中のNASAの火星ローバー2機が撮影した画像の片隅に、強いラム酒あたりを出すぼろい木造のバーが写っていても不自然ではない。

 なにであれ、とにかく大きいものが大好きで、荒涼とした中西部の風景にフロンティア・スピリットを重ねてきたアメリカにとって、これほど感情移入しやすい星はないのではないだろうか。

 で、そういった心のありようとは無縁である日本の我々は、果たして火星を目指すべきなのだろうか。

 火星探査機の本を書きつつ、だんだん考えがまとまってきたのだが、日本はなにも火星に行く必要はないのではないだろうか。

 ブッシュ政権は今年の初めに発表した新宇宙政策で、有人月探査を復活させ、やがで有人火星探査を目指すとしている。日本でもそれに協力しようという動きがある。

 が、アメリカに協力することが本当に日本にとって有益なのだろうか。スペースシャトルへの日本人飛行士搭乗、国際宇宙ステーション計画への参加、なにか日本に利益をもたらしただろうか。私の考えるところ、利益どころか停滞という害毒をもたらしたにすぎなかった。

 とりあえず過去のことは考えからはずし、まっさらな態度で検討するとしても、そもそも火星は日本が今後少ない予算で力こぶ入れるべき目的地だろうか。私にはそうは思えない。

 火星はアメリカがやりたいというのだから、アメリカにやらせておけばいい。アメリカの心象風景に日本がつきあう必要は全くない。太陽系は広いのだから別の観点から別の鉱脈を探した方が、人類全体としても絶対楽しいと思うのだ。

 「アメリカの計画が動き出すから、それにくっついて国家予算を引き出して、新たな官需でしばらく食おう」というような発想は捨てよう。もっと楽しく宇宙に行きたいではないか。

  では日本はどこに向かうべきか。今、そんなことを考え、また議論をしている。

 本日はひたすら原稿書き。夕方、東京に出て本郷方面で定例会議。終了後、実にうまいインド料理の店で夕食を取る。汗がでるほどにいい香辛料でした、


 独占について、森山和道さんからコメントを貰っているのだが、これについては明日以降書くことにしたい。

2004.11.21

しきしまさんにレンズを渡し、粟岳さんと初対面する

 172ページの一気編集2回徹夜はきつい。へろへろのまま起き、へろへろと飯を食い、へろへろへろと出かけていく。行く先は同人誌即売会コミティア70。デジカメ用コンバーターレンズを売る約束をしているしきしまさんが出ているのだ。夏に渡す予定だったのにうまく都合が付かずにずるずるとここまでひっぱってしまったのだった。

 デジカメ用品は製品のサイクルが早い。時期をはずすと無意味となる。早めに渡さねば、と出かけた次第。

 東京ビッグサイトではサイクルショーもやっている。観ていきたいがそんなパワーはなし。コミティアのとなりでは、なにやら18禁ゲームのイベントらしきものをやっている。好奇心がもたげるが、そんな体力は残っていない。へろへろへろへろとコミティア会場に崩れ込んで、しきしまさんにレンズを渡し、精算。

 ちょっと会場を歩くと、当blogの第一発見者である粟岳高弘さんが出ているのを発見。挨拶する。なるほど、いかにもエッジの立った漫画を書きそうな人だな、という怜悧な印象。最新刊を買うと粟岳さん、「宇宙、全然出てないんです」としきりに恐縮する。でも、別に私がいつもいつも宇宙物を読んでいるわけではないですよ。

 終了後、しきしまさん、おかちんさんと丸の内のオアゾで食事をし、少し話すが、ダメだ。全然力がでない。書かねばならない原稿が頭にひっかかって、会話も回らない。本日は大学の模型クラブOB会もあるのだが、とてもではないが出席して現役連中とさわぐパワーはない。

 早々に帰宅。この一文を書いて、さあ、また火星探査機だ。

2004.11.20

父の原稿を公開する(その2)

 亡父が書いた原稿を、昨日掲載した通り、もう一本公開する。

「北京の景観を見て、絶対君主制を考える」という文章だ。北京の景観から説き始め、中国という国の成立を考えていくという内容だ。

 この文章は1998年の3月に書かれている。

 父は、中国首脳部では、朱鎔基首相を高く評価し、その一方で江沢民国家主席を「あいつはバカだ」と言ってはばからなかった。2004年9月に江沢民は国家主席を引退すると発表した。死の床についていた父は、苦しい息で「あんなバカヤロウはさっさと辞めるべきだったんだ。ざまあみろだ。辞めるのが遅すぎたよ」と毒づいた。

 父はそういう人だった。


 いつも通り「続きを読む」以降に掲載するので、読みたい方だけクリックして、読んでください。

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独占について考える

 今回、父の追悼文集を作るにあたって大阪にあるプリントオンデマンドの印刷会社を使ったのだが、仕事の素早いことよ、中一日で試し刷りを送ってきた。
 時間が逼迫しているのですぐに朱を入れて返送する。合わせてこちらに残っているデータファイルにも校正を反映させて送信。宅配便会社とADSLによる高速通信回線があればこそだ。

 こうなってくると印刷会社などはわざわざ家賃の高い東京にいる理由はない。電話を多用するサービス窓口を請け負う会社が、賃金の安い沖縄にコールセンターを作ったという話を聞いたのは。もう5年近く昔だったはずだが、ますますその傾向は進行しているのではないだろうか。

 国家安全保障という面でも分散は好ましい。新潟の地震災害を目の当たりにして、自宅の防災を考えている人は多いだろうが、もしも今、東京をあの地震が襲ったら、国家機能は麻痺する(うるさく既得権益にしがみつく中央官庁が全滅すれば、地方分権にちょうどいいという話はさておく)。国家システムは適度に分散していたほうが、打たれ強くなるのだ。

 そう考えていくと、ヤマト運輸を率いて郵政省と戦った小倉会長は、実に尊敬すべき愛国者ということになる。で、うだうだと利権にしがみついた郵政省の郵便屋共はどいつもこいつも日本の国のためにならない国賊だ、と。

 ホントかよ。でも、論理から言えばそうなる。

 同様の論理的帰結として、孫正義率いるソフトバンクグループは、実に愛国的ではないかという結論が導かれる。そして、日本へのADSL導入にうだうだと抵抗したNTTグループは国賊の集まりだと。

 ホントかよ。

 でもそうなるのだ。「ヤフーBBでーす」のかけ声もさわやかに、老若男女の区別無くモデムを押し売りし、個人情報だだ漏れはおろか、孫会長自らスパムメールと見まごうメールを全ユーザーに送った、そんなソフトバンクグループだが、ことADSLの普及と低価格化という一点では、日本の通信事情を良くするのに大きく貢献した。

 政府がe-Japanとかなんとかいってせっせと投資しているが、日本のIT事情を良くしたのは決して日本政府じゃない。既得権益にぎゃんぎゃんかみついたソフトバンクグループと、こりゃいかんと押っ取り刀で立ち上がったライバル事業者のおかげだ。

 だから私は、昨今の携帯電話の利用周波数帯を巡るソフトバンクグループと、その他のグループの綱引きを興味深く見守っている。NTTドコモは完全に既得権益にあぐらをかきたくって仕方ないのが見え見えだ。au-KDDIも、DDI発足当時の意気は薄れ、むしろNTT以上のでろでろ独占事業体だった(なにせ国際通信を独占していたものなあ)KDDの体質が強く出てしまっているようだ。
 これは是非、かませ犬ソフトバンクにかみついて貰い、奴らの尻の肉ぐらい削り取って貰わねばならぬ。いやいや、すねの骨一本ぐらい持っていってもいいかもしれない。

 だが、たとえソフトバンクが携帯電話事業に参入するにしても、私が利用することは決してないだろう。独占をうち破るためとあらば多少の不便は忍ぶ決意ではあるが、個人情報をだだ漏れにされたらたまらない。

 ちなみに私は東京デジタルフォン時代からの、ボーダフォンユーザーである。

 愛国者とか国賊とか、本当は軽々しく使うべきではない言葉だ。しかし、こういうどきつい言葉を投げつけないと、自分がなにをしているか理解できない連中が存在することも事実である、

 お前だ、お前!、INS64のサービスが始まったとき、申し込みに行ったら(パソコン雑誌で記事を書いたのだ)「アイエスディーエヌってなんですかあ。うち、そんなサービスやってないんですけど」と抜かしたNTT九段局の窓口おやじ!。あの時は他の選択肢が無かったから、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで契約してやったんだぞ。
 お前、OCNエコノミーが始まったときにやはり申し込みに行ったら(これまた記事のためだった)「おーしーえぬってなんですかあ。うち、そんなサービスやってないんですけど」と言ったよな。あの時はすでに日本テレコムのODNが立ち上がっていたので、即刻日本テレコムに電話したのであった(ちなみに日本テレコムの営業さんは迅速に対応してくれた。そのテレコムも今やソフトバンクの傘下だ。ああ)。

 独占の弊害かくの如し。難は雲霞のごとく多々あれど、それでも私はソフトバンクに期待しているのである。使わないけれども。


 本日の課題図書。
 「巨大独占 NTTの宿罪」町田 徹 (著) 新潮社 1680円
   AmazonBK1

2004.11.19

父の原稿を公開する(その1)

 原稿執筆の合間をぬって、27日の父を偲ぶ会に配布する冊子の編集作業を行った。父が北京滞在時に書いていた文章をまとめたものだ。

 執筆中の火星探査機の話が第一部を書き終えたので、第二部を書き出す前に、ととりかかった。ところが、いざ作業を始めると予想以上に大変なことがわかった。
 文章の量が半端ではないのだ。色々整理したが、A4版2段組全172ページというものになった。

 印刷所のスケジュールはまったなし状態だ。結局、仮眠を挟んで2日連続の徹夜という強行軍で、どうやら入稿することができた。とはいえ、プリントオンデマンド印刷のデータ入稿なので、まだまだトラブルが出る可能性もある。実際、入稿に当たってはフォント周りのトラブルが発生した。

 やれやれだ。

 父への供養を兼ねて、ここで硬軟2本の原稿を公開することにする。最初に柔らかい方、「心に染みる北京の朝食」を掲載する。大学教授として北京に滞在していた父が、おいしい朝食を求めて四苦八苦する話だ。

 例によって「続きを読む」以降に掲載しておく。読みたい方だけクリックして、読んでみて欲しい。

 火星探査機本の執筆はやっと第二部に移行した。あと少しで 1998年7月4日の打ち上げである。

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2004.11.15

フジテレビとディスカバリーチャンネルの心霊写真を巡る番組を比較する

 イベントが終われば日常が待っているのであり、つまりは遅れている原稿をせっせと書き続けるのだ。

 テレビを付けっぱなしにしていると、フジテレビが、季節はずれの心霊写真の番組を流している。

 以前観たディスカバリーチャンネルの番組を思い出す。写真フィルム世界最大手のコダックが、心霊写真を収集しているという話だ。彼らにしてみれば化学反応の結果である写真に、霊が写るというのは、二重の意味で解明しなければならない問題だ。もしもそんなものが本当に写るならマーケティングに影響するし、すべてが間違いならば風評被害を阻止しなくてはならない。

 長年にわたりコダックは大量の心霊写真を収集し、分析してきた。結論はこうだ。「一枚を除いて、心霊写真とされた写真のすべては科学的に説明がつくものだった」。画面に例外とされた一枚が映し出される。「この写真だけは、説明が付かない。この写真が正しいなら霊は存在する」、「が、しかしよく見て欲しい。この霊とされる女性には影が映っている」

 霊に存在して貰わなければ視聴率が取れないフジテレビと、科学的に正しい懐疑主義の視点で写真を分析するコダックとどちらが正しいか――このことを判断するのがメディアリテラシーだ。

 私からのコメント「恥ずかしいな、フジテレビ」。

 籠もっていると話題が乏しくなってくる。テレビであれこれ書くとは、独居老人並みだ。

2004.11.14

ロフトプラスワンの壇上で絶句する

 13日は曇り。昨日まで、11月とは思えない暖かさだったのだが、急に寒くなった。東京では今年初めての木枯らしが吹いたとのこと。

 午後、大森のFさんを訪問する。父が所属していた釣り愛好家の集まりで、会誌の編集をしている方だ。過去15年近くにわたって会誌に父が書いてきた文章をコピーして貰う。
 会の名前は釣飲会という。以前このblogにも書いた片瀬の漁師Kさんが舟を出し、東京から湘南一円の海釣り好きが月に1回、相模湾に出て季節の魚を釣り、釣果をさばいて酒を飲むという会合だ。父は発足の時から、そこのメンバーとして釣りを楽しんできた。元々茅ヶ崎に居を構えたのだって「俺は山よりも海が好きだ」ということからだった。

 Fさんの整理箱から、色々な原稿や写真がでてくる。「ほら、この写真なんかいい顔してるじゃない。もってって、もってって」。そうだった。好きなことをやっている父の顔は、実際どの写真もにこにこしている。

 11/27に、ホテルを使い父を偲ぶ会を開催することになった。交遊の広い人だったので、密葬ではすまなかったのだ。その日のために、父の残した文章をまとめ小冊子を作らねばならない。納期の短い印刷所を探し、後はDTPで締め切りを引っ張れるだけ引っ張って、仕事の原稿と同時作業ということになる。大変だが、やらねばならない。

 Fさんのところは、プレス部品加工の工場を経営している。積み上げた部品を前に、「ここはどこそこ、こっちはどこそこ」とライバル企業の名前を言うFさん。ライバルから注文があるというのも、高い技術力を持っておればこそなのだろう。

 その足で新宿・歌舞伎町のロフトプラスワンへ。「ロケットまつり3――ロケット一代男がやってくる」に出演するためだ。私の到着した午後6時過ぎの時点で、すでに地上に列が伸びるほどお客さんが来ていた。びっくりしてしまう。今回は「コンタクト・ジャパン」と日程が重なったので、お客さんの数が減るかと思っていたが、むしろ前回より増えている。

 午後6時40分頃、ゲストの林紀幸さんが到着。「松浦さん、物を持ってきて欲しいならもっと早く言わなくっちゃダメだよ」といい、今となっては貴重な資料の数々を鞄から取り出す。

 定刻前に会場は満員になる。ロフトの渡辺マネージャーが事前説明で「ここに初めてくる人」と会場に問いかけると、かなりの数の手が上がる。そうか、初めての人がたくさん来てくれたのか。大変にうれしい。

 そうやって始まった本番だ。笹本さん、あさりさんとの打ち合わせでは「なるべく自分たちは話さず、林さんに話して貰う」ということだったのだが、心配は一切無用だった。 無造作にペンシルロケットを持って林さんが登場すると、それだけで会場からオオッという声が上がり、一気に雰囲気が盛り上がる。
 その雰囲気に乗って、林さんが次々と現場の生々しい話をしてくれる。打ち合わせでは「松浦が司会をやってうまく話を引き出す」ということになっていたが、途中私が絶句してしまうシーンもしばしば。あげくに林さんから「あなたどうしたの。今日はおとなしいねえ」と言われてしまう。だってねえ、そんな話を聞かされちゃ、言葉も止まろうというもので。

 来場した方は本当にツいていたと思います。お呼びした我々もあれほど色々なことを話してくれるとは思ってもいませんでした。

 ペンシル打ち上げの映像や、東大が秋田から撤退するきっかけになった「カッパ8型10号機」爆発事故の画像など、貴重な資料も次々に紹介される。「私このとき見ましたよ。糸川先生が坂を転げ落ちるの」。

 こういう人に「失敗って楽しいでしょ」といわれれば、「ハイ」としか言いようがない。実際、林さんの語る話のほとんどは、失敗の話であって、それらをまた実に楽しそうに語るのだ。

 最後は質疑応答。ここでも林さんはキレの良い口調で次々に質問に答えていく。

「実際、携わった打ち上げのどれだけが成功でしたか」
「ミッション全体では完全な成功は40%くらいじゃないかと思いますよ。大体の場合どこかしらにトラブルが出るものです」

「失敗してしまったときの心構えはどうすればいいのですか」
「失敗を忘れることです」
 この返答には笑いが起きたが、実際には含蓄の深い言葉だ。決して失敗をなかったことにするという意味ではないだろう。失敗に打ちのめされないという意味なのだ。

 最後にカッパロケット爆発事故の時のエピソード。事故の5日後が林さんの結婚式だった。「そうしたら糸川先生が『あなた、生きててよかったですねえ』って(笑)。それから『ずいぶん大きな花火上げちゃいましたね』ってねえ(大爆笑)」。


 終了後、林さんを打ち上げ会場まで案内するが、ここで私が大ミスをやってしまう。昨日飲んだ店だったのに道に迷ってしまったのだ。結局笹本さんに携帯電話で連絡を取り、お互い怒鳴り合うようにして遭遇、やっと店に着く。笹本「ゲストを迷わせるとは何事か」。
 申し訳ありません。敗因は、私が「交差点から一本入った末広通り」と記号化して場所を覚えていたのが、実際には「交差点から二本入った通り」で、付近はどの通りもなぜか末広通りという名前が付いていたためでした。ぎりぎりまで色々話をして、終電で茅ヶ崎に帰る。

 今回はペンシルからカッパまでの話をしてもらいましたが、ラムダ、ミューの話が残っています。というわけで来年2月あたりに、また林さんをお呼びしてロフトで話をしてもらう話が進んでいます。今回来られなかった方も、次回はどうぞおいでください。

2004.11.12

久しぶりに東京に出る

 書き続けている火星探査機の話は、ようやく1997年末の27万人署名のところまでたどりつく。もう少しで第一部が書き終わり、やっと本番の「恐るべき旅路」へと進む。

 本日は久しぶりに東京に出る。原稿が遅れに遅れているので、東海道線の中でも書き続ける。

 笹本祐一さん、小林伸光さんなどと新宿で打ち合わせ。用件は明日のロケットまつりの打ち合わせなど。原稿はこれこれこのような状態だよ、と笹本さんにいうと「あんたそりゃ最終的に1000枚、場合によっちゃ1200枚の大作になるな」といわれる。「だらだら書いているんだろ」とも。

 いや、そんなはずはないんだがなあ。

 例えば自動車について書くとき、タイヤは通常4つであるとか、ハンドルは右側座席だが、国によっては左側座席につくなどということを書く必要はない。皆知っているからだ。
 火星探査機はそうはいかない。三軸安定とスピン安定といってすぐに分かるのは本当にごく一部の人だけで、多くの人に火星探査機という機械をイメージしてもらうには丁寧に説明しなくてはいけない。しかも丁寧すぎてもいけない。簡潔でない文章はそもそも読まれないからだ。
 一見へんてこに見える衛星や探査機の形状が、実はぎりぎりに引き絞られた機能追求の結果であることを、読む人に納得してもらわなくてはならない。

 ってなことを言っても、まあ言い訳でしかない。長過ぎる本は読まれないので、読みやすい範囲になんとかしておさめなくてはならない。

 その後3人で少々酒を飲む。なぜ女子学生は本来水兵の服だったセーラー服を着ることになったのだろうかだとか、車田正美「リングにかけろ」のばかばかしいまでの面白さだとか。オタクな話題の間に挟まるのは、アメリカの選挙のことと、中国のこと。実は今は、アメリカ、イスラエル、日本の三国同盟の時代じゃないかとか、結局はキリスト教原理主義とイスラム教原理主義がぶつかっているじゃないかとか。小林さんが「今の世界情勢は、少し前に話したらトンデモ扱いされたんじゃないですか」と言う。

 帰りの電車の中でも原稿を書く。頭の中ではここ数日エンドレスで聞いている「ひょっこりひょうたん島」の歌がぐるぐる。

 今日が駄目なら明日にしましょ、明日が駄目なら明後日にしましょ。

 いかんいかん。それでは駄目だってば!

己のやらかした誤報を思い出す

 火星探査機の話を書き続けているので、本日は簡潔に(あれ、デジャヴが)。

 NHKの「奇跡の詩人」問題を追求し続ける小林泰三さんが、来られたので、もう少しNHKの話をする。

 私は記者としての職歴の最後2年間を通信・放送業界のニューズレター記者として過ごした。取材対象にはNHKも入っており、実際何回も取材をした。ちょうど地上波デジタル放送が始まろうとしていた時期で、NHKは高精細デジタル放送を「デジタル・ハイビジョン」と命名して大々的な宣伝をしていた。
 ご存じの方も多いだろうが、通常のテレビ画面は縦横比が4:3で、ハイビジョンのような高精細テレビ(HDTVという)は16:9だ。HDTVの画面のほうが横長なのである。

 ある時、NHKで「デジタル・ハイビジョン」を取材していた時、私は思いついて「縦横比が変わることでカメラマンはとまどいませんか」と質問してみた。高精細放送に切り替わる時に一番変化に抵抗するのは人間の感性の部分ではないかと思ったのである。

 取材相手の部長は即座に「そんなことはありません」と答えた。
「16:9という比率は、人間の視覚に対する実験から導き出された値です。それだけ人間にとって4:3よりも自然なのです。だからカメラマンはすぐに慣れます。むしろ構図を取りやすいほどです」

 私はなるほどと思い、その旨記事を書いた。

 独立してから、しばらく経った頃、私は独立系映像プロダクションのプロデューサーと話をする機会をもった。話題は放送機材のデジタル化に及び、HDTVカメラに言及することとなった。思いついて私はかつてNHKにぶつけたのと同じ質問をしてみた。
「縦横比が変わることでカメラマンはとまどいませんか」

「そりゃあとまどいますよ。問題大ありです」
 彼は即答した。
「カメラマンにとって4:3という縦横比は、身体に染みついたものです。もう何十年も我々はその縦横比で仕事をしてきたんですよ。カメラマンだけじゃなくてディレクターだってずっと4:3で発想してきたんです。それをいきなり切り替えろというのだから、ものすごく大変です」
「でもNHKは、すぐに切り替えられると言っていましたが」
「ああ」、彼は笑った。
「ハイビジョンを普及させたいNHKが、フいたんでしょう」
 そう話す顔には「NHKは何も知らない記者に吹き込んだんだろうな」という表情が浮かんでいた。

 彼の言葉にはいちいち実感がこもっていた。管理職であるNHKの部長よりも、長年現場で番組を作ってきたプロデューサーの言葉のほうが遙かに信用できるな、と私は判断した。

 NHKから出てくるコメントがすべて嘘だとは思わない。しかし、自らの組織に対する利害が関係する事柄では、NHKの管理職は嘘をつくこともある。本人が信じ込んでいる可能性もあるものの、少なくとも結果として嘘になるような発言が飛び出す場合がある。

 私はそのように胸に刻み込んだ。「あの時、裏を取っておけば良かった」という反省と共に。

2004.11.11

究極のおやじアニメ、「装甲騎兵ボトムズ」を語る

 深刻な話題だけというのもいけないので、気楽にオタクな話題などを。

 現在、デジタルCS/CATVのアニマックスで、「装甲騎兵ボトムズ」(1983年サンライズ、高橋良輔監督)というアニメをやっている。仕事をしつつ深夜の放送を観ているのだが、いやあ、やっぱりボトムズは面白いですな。

 このアニメ、本放送の時にえらく流行った。どこで流行ったかといえば、当時私が所属していた大学の模型クラブで流行ったのである。

 最近「げんしけん」(木尾士目 アフタヌーン連載)というマンガが面白くて、「アフタヌーン」を久しぶりに買っている。
 このマンガが描くオタクライフは非常に生ぬるい(もちろんマンガを面白くするためであって、作者の能力不足ではない)。「高々テレビアニメでぐだぐだしている」とか「コミケに売り手ではなく単なる買い手で通っている」とか「同人誌あさりだけで秋葉原を徘徊している」とかで言っているのではない。

 「真のオタクの極北には、非オタクの彼女も、コスプレ好きのやおい巨乳娘も、自意識過剰のロリータ娘も来ない」のである。「ケバい化粧の妹」だって来ないのだ。

 真の漢は、プラモデルあるのみ!

 そういうクラブだった。渋谷の、壁に巨大なベアキャット戦闘機の写真が貼ってあった喫茶店に集まって、「メッサーシュミット戦闘機はバランスのE型かパワーのG型か」「フォッケウルフはA型かD型か、はたまたTa152CかHか」、「タイガーとT-34ではどちらが兵器として正しいか」とか、まあそんな話ばかりしていた。そういえばフォークランド紛争の時も「ミラージュかハリアーか」「エタンダールは本当に使えるのか」「そもそもフォークランド諸島と呼ぶべきなのか、マルビナス諸島と呼ぶべきか」なんて議論をした記憶もある。

 で、そこで流行ったのだ。「ボトムズ」が。

 どんなに流行ったかと言えば――

 キャンパスを歩いている奴がなにやら歌っている。「ちゃんちゃーっちゃちゃちゃちゃちゃちゃー」、そう、あまりの格好良さで話題になったレッドショルダーマーチを歌っているのだった。もちろんウォークマンなどはなしだ。

 バカである。

 あるいは、体育館のような天井の高い建物に入ると銀河万丈の声色で「ウドの街は金次第…」とウド編の次回ナレーションを始める奴が出る。

 バカである。

 さらには宴会、そろそろ空き瓶が転がる頃になると、必ずビール瓶を束ねて持つ奴が出てくる。ビール瓶2本、ノンアルコールの小さな瓶が1本というのが基本だ。で、顔の前に瓶の底面をかざして持ち、くるくる回して歌い出すのだ。「ぬすうまれーたかこさがしつーづけて」。ボトムズのオープニングだ。

 大バカである。

 どういう訳か、ボトムズにはまったのは、飛行機パートでもAFV(アーマード・ファイティング・ビークル:戦車とか装甲車とかです)パートではなく、ウォーターラインパートが多かった(ウォーターラインというのは喫水線から上だけを再現した艦船模型です。もちろん潜水艦であっても喫水線から上だけを作るのです)。

 その後も「ボトムズ」は再放送の度に楽しませてもらった。番組が面白い上に、青春のろくでもない楽しい思い出も付随してくるのだからたまらない。もちろん本放送の後でビデオで出た分は無視だ。真の漢は本編のみ!そこまでストイックであってこそボトムズである。

 今観ると、このボトムズ、なかなかとんでもないアニメだと思う。

 まず舞台はすべて当時流行った映画からの借り物だ。ウド編は「ブレードランナー」、クメン編は「地獄の黙示録」、サンサ編は「砂の惑星」、クエント編は「砂の惑星」プラス「2001年宇宙の旅」――オリジナリティはどこ?と問いたくなる。
 が、通してみると他に例のないものに仕上がっている。基本は井原西鶴だろうか、つまりは主人公キリコとヒロインであるフィアナの道行なのである。

 そして極端に女性キャラが少ない。全編を通して出てくるのは、フィアナとサブヒロインのココナの2人だけである。

 さらに登場人物の年齢がやたらと高い。はっきりティーンエイジャーと特定できるのはココナだけ。確かキリコは設定上は19歳だったはずだが、あの行動はどう考えても20代後半だ。フィアナも25歳前後の思慮を備えている。

 でもって可愛い娘に代わって出てくるのが、おやじ、おやじ、おやじ――ゴウト、ボロー、イスクイ、キリイ、ロッチナ、バッテンタイン、カンジェルマン、カン・ユー、ゴン・ヌー――魅力的なおやじキャラが輩出する史上最高のおやじアニメではないだろうか。

 なかでもクメン編に登場する傭兵の中間管理職、カン・ユー大尉は最高でありましたな。気が小さいくせに威張るのが大好き、強きを助け弱きをくじき、部下の手柄は独り占め、自分の失態は部下に押しつけ、部下を怒鳴って上司にゴマをする――ダメでイヤな中年男をあそこまで容赦なく描くというのは大笑いを通り越して感嘆するしかない。

 もちろんメカも素晴らしかった。「スコープドッグ」「機動戦士ガンダム」「ザク」に続く大河原邦男氏がデザインしたアニメメカの傑作だ。最近鉄工で作っている方もいますな。
 これらに「蒼き流星SPTレイズナー」「スカルガンナー」を加えると、私にとっての大河原メカは完結する。

 驚くべきことに、この格好いいスコープドッグ、作中ではただの量産メカであり、キリコは次々に乗り捨てにするのだ。赤と青と黄色で塗られて「主人公でござい」と記号付けされたメカではないのだ。あまつさえ全編のクライマックスで、キリコはスコープドッグではない、別のメカに搭乗するのである。初代ガンダムのクライマックスでアムロが足付きジオングに乗って登場するようなものじゃないだろうか。

 そんなこんなで、ボトムズに夢中になった模型クラブの面々だが、数年後には卒業して社会へと出ていった。そして――実はここが本当に恐るべきところなのだが――それぞれの職場で、カン・ユーだとかゴン・ヌーだとか、はたまたロッチナだとかの実物に出会って「どっひゃー」となったのである。

 実社会は、アニメどころではなく奥が深かったのであった。


追記:
 おお、ココログでDVD発売プロモのblogが始まっているではないか。いくら本編だけではなくビデオ版も入っているとはいえ10万5000円は私の財布から出ないなあ、と思いつつ、とりあえずトラックバックをかけることにする。

2004.11.10

NHKの現状について本を紹介する

 火星探査機の話を書き続けているので、本日は簡潔に。

 相次ぐNHKの不祥事に関連して、労組が海老沢勝二会長の辞任要求を突きつけている。

 私は海老沢会長を、「エビジョンイル」などと呼んで溜飲を下げる前に、まず、NHKとはそもそもどのような組織で、特に政治権力とこれまでどのような形で関わってきたかを知ることが第一だと考える。

 まず必要なのデータだ。「事実」と言ってもいいだろう。

 そこでこの問題について興味を持つ方に以下の本を推薦する。

 著者はNHK政治部記者出身。内側で見たNHKの実態を、調査によって裏付けていく。見えてくるのは、放送とはどういう権力装置で、その威力に何がすり寄り、何が屈服したかだ。

 特にNHKという組織の歴史をきちんと追っていることは評価できる。歴史的経緯を抜きにして、NHKの現状を理解できないと、私は思う。

 それこそ「ひょっこりひょうたん島」をはじめとして、NHKは真のコンテンツと呼びうる優れた番組をも作ってきた。それ故、私は昨今の状況をひどく腹立たしく感じている。
 ひとつだけ、実際に見聞した例を書こう。

 数年前に人気番組の「プロジェクトX」がH-IIロケットを扱った時のことだ。私のところに宇宙開発事業団(NASDA)の広報から電話が掛かってきた。「松浦さんが本で書いた科技庁の資料をNHKが見たいと言ってきているがすぐに出せるか」というものだった。私は終わった仕事の資料はまとめてしまい込む癖がある。というか住んでいるところが狭いので他の方法がとれないのだ。「資料はありますが、すぐには出てきません」と返答すると、この件はそれっきりになった。

 すこし読書家ならば、「プロジェクトX」にはほぼ毎回ネタ本が存在することがすぐに分かる。どうやら「プロジェクトX」のディレクターは、私が書いた「H-IIロケット上昇」を少なくともネタ本の一冊に使うつもりのようだった。
 私にも、出版社である日経BP社出版局にもNHKからは一言も連絡はなかったが、それはどうでもいいことだ。私が書き得なかったことを補って、一層事実が露わになるならば、しかもそれが出版よりも大きな影響力を持つNHテレビK第1で放送されるならば、そのほうが遙かに好ましい。

 が、私は不安を感じた。私から資料が出てこなければ、私に資料を貸してくれた関係者に直接当たればいいだけの話だ。「どうもNHK、取材が足りないんじゃないか」、そう思った。

 結論を言えば、「プロジェクトX」が前編後編の2回を費やして全国に放送したのは、事実の歪曲だった。ロケット開発の経緯は「アメリカからの屈辱のブラックボックス供与に対して男達が立ち上がった」という形にゆがめられていた。
 1969年の時点で、日本もまたアメリカからの技術供与を望み、最終的に新幹線建設を指揮した島秀雄がNASDA初代理事長になって、アメリカからの技術導入を決断した経緯は、故意に無視された。というか番組では、島秀雄について一言も触れなかった。
 ロケット開発のもう一つの系統である東大ロケットについては、糸川英夫によるペンシルロケット実験に一言触れただけで、そこから一気にNASDAのブラックボックスに話が飛んでいた。

 番組にはNASDAのOB達が憤慨して立ち上がった。新聞に投書し、もちろんNHKにも抗議をした。
 詳細は知らないのだが、抗議に対してNHKは「あれはドキュメンタリーではなくドラマですから」と返答したという。

 当時の関係者が登場し、昔を思い出して涙を流す番組は、NHKの定義によればドラマに入るのだそうだ。

 実はNHKはH-IIロケット1号機が打ち上げられた1994年、立花隆氏をフィーチャーしてH-IIロケット開発に関する大変に優れた2時間のドキュメンタリーを制作している。「プロジェクトX」のディレクターは、この社内のリソースすら観ていないようだった。

 ドキュメンタリーと作為というのは非常に難しい問題で、どうしてもドキュメンタリーは事実そのものにはなり得ない。必ず作り手の作為なり意図なりが入る。が、「プロジェクトX」は、踏み越えてはいけない線を大幅に踏み越えていた。

 テレビ業界は視聴率が命だから、視聴率のためには何をしてもいい、それがビジネスだ。この命題は一見正しく思えるが、放送が多くの人に影響を与える権力だ、ということを考えると実は間違っている。一昨日も書いたが、権力である以上、商売の前に倫理が必要なのだ。

 まして、視聴率に左右されない受信料という収入源を持つNHKは、「皆様のNHK」であればこそ、商売以前の倫理を堅持しなければいけない立場のはずだ。それが視聴率を追って水戸黄門のように、番組開始後40分で「男達の逆転のドラマ」が始まるような一見ドキュメンタリー風の創作を放送するというのは、明らかに組織の腐敗である。

 案の定、今回のNHKを巡る問題の中で、「プロジェクトX展」において、登場企業に協賛金を要求するという問題が出ている。

 NHK労組は、海老沢会長の辞任を要求しているが、おそらく会長辞任では何も解決しないだろう。事の本質は公共放送の矜持をどう保つかというところにあるからだ。その問題を理解するためには、NHKの歴史を押さえておく必要がある。

 上掲書を紹介する由縁である。

 ああ、また怒ってしまった。なかなか心豊かに遊ぶというわけにはいかないなあ。しかも全然簡潔ではなくなってしまったよ。

2004.11.08

宣伝:11月13日(土)、新宿・ロフトプラスワンでトークライブに出演します

MV5.jpg

 昨年秋、今年8月と開催した「ロケットまつり」、第3回は、「ロケットの神様」をゲストに迎えて、打ち上げ現場のあれこれを話してもらいます。

宇宙作家クラブpresents
「ロケットまつり3」 ~ロケット一代男がやってくる!~


日時:11月13日(土曜日) 午後7時30分~
場所:新宿・歌舞伎町 ロフトプラスワン

 その男は昭和33年、18歳で東京大学糸川研究室に就職した。時代は移り平成12年、男は文部省・宇宙科学研究所を定年退職した。その間、男は400機以上の打ち上げに携わった。カッパロケットの爆発に立ち会い、日本初の衛星「おおすみ」の打ち上げに参加し、惑星空間を目指した探査機「さきがけ」「すいせい」を見送った。カッパロケットからM-Vまでのロケットを打ち上げた幸福な42年間!
 日本で一番たくさんロケットを打ち上げた男、林紀幸氏。今回は氏をゲストに迎え、ロケット打ち上げの現場で起きたあんなことやこんなことを、話してもらいます。打ち上げにとりつかれた作家、漫画家、ノンフクション作家が、秘蔵ビデオと共にロケット一代男の話を引き出す第三弾!


出演


    林紀幸氏(現NPO「二見浦・賓日館の会」事務局長、元宇宙研・ロケット班長)

     あさりよしとお(漫画家)、笹本祐一(SF作家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)

Open/18:30 Start/19:30 \1000(飲食代別)当日券のみ


 ロフトプラスワンでのイベントも3回目、今回ははじめてゲストを迎えた。実のところ、あさり、笹本、松浦がなんでああも種子島や内之浦に通うのかといえば、まさにそこが現場であるからだ。
 その現場で42年間を過ごした林氏の話は、実に興味深く、同時にすさまじいものだ。保証するのでとにかく来るべし。

  写真は小惑星探査機「はやぶさ」を打ち上げたM-Vロケット5号機(2003年5月9日)

2004.11.07

ファイアフォックスをインストールする

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 現在、原稿執筆にWindows2000を使っている。PowerBookのハードディスクが飛んで以来、環境を復旧している時間がないので、Windows2000をインストールしたVIAO SRを使っているためだ。
 
ふと思いついてWWWブラウザをファイアフォックス(Firefox)にしてみた。現在バージョン1.0のプレ版(RC1)がダウンロード可能で、明日11/9には正式のバージョン1.0がダウンロード可能になる。ファイアフォックスはオープンソースで開発されたフリーソフトであり、もちろん日本語版だだ。

 非常に良い。動作は高速だし使い勝手も良好だ。私はこれまで自分のメインブラウザとして「モジラ」を使っていたが、思わず乗り換えてしまった。

 もしもこのページを読んでいる人が、まだWindows付属のインターネット・エクスプローラー(IE)を使っているならば、ファイアフォックス1.0日本語版の公開後、速やかにダウンロードし、ブラウザーを乗り換えることを強く推奨する。

 IEはパソコンウイルスの温床であり、マイクロソフトの出すパッチはウイルスを引き込むバグの発見に全く追いついていないためだ。

 このことはパソコンのヘビーユーザーにとっては常識だが、パソコン初心者や、特にWindows95以降にパソコンに触れるようになった中高年ビジネスマンにとっては決して自明ではない。そしてそのような層は、「成功した企業マイクロソフト」、「天才ビル・ゲイツ」といったマスコミの作り出した虚像に幻惑され、マイクロソフトの製品が信用できるものと信じ、ウイルスの被害に遭っている。

 パソコン雑誌はこのことを積極的に書かない。マイクロソフトがパソコン雑誌にとって主要な広告主であり、大きな収入源だからである。

 Windows3.1から95、98へ。そしてネットスケープから、インターネット・エクスプローラーの登場と市場支配、そしてウイルス増殖し放題に至るまでに、いったいパソコンマスコミがどんな態度を取り、何を見過ごして、何で商売したか――一度はまとめるべきなのだろうな、と思っている。

 1990年代前半から半ばにかけて、私はパソコン雑誌の編集を4年間経験した。色々正しいことをしようとしたつもりだったが、一部は当たりで一部は外れ、ついでに私はマックユーザーだったこともあり、今でいう「マカー」のレッテルを貼られた。

 あの頃、Windowsの技術的考察をきちんとせずに、時の勢いに乗ってWindowsと共に雑誌も売ろうとする動きは確かに存在した。そのような雑誌が、結果としてパソコン・ユーザーをミスリードし、現在のウイルスとスパムメールでいっぱいのネット環境を導いてしまったことは否定できない。

 とある雑誌編集長が、インターネット・エクスプローラー4.0が公開されたときに言った言葉が忘れられないのだ。「最初は、『IE4.0がやってくる』で特集だ。次が『IE4.0のインストール』、そして最後は『IE4.0のトラブルシューティング』、これが商売ってものだろ」。
 もちろん彼はIE4.0がどんな問題点を抱えていたかを知った上で、こう言ったのである。

 商売ならそうだ。しかしマスメディアは権力である以上、商売に優先して倫理が存在しなければならない。

 だから、私の小さな罪滅ぼしとして、ここでファイアフォックスを推薦しておく。

 調子に乗って手元のiBookG4にもファイアフォックスをインストールしてみた。こちらはまだ英語版だ。まあまあだ。MacOSXには「サファリ」という出来の良いブラウザが付いているが、使い勝手はちょっとファイアフォックスのほうがいいかな、と言う程度。乗り換えるかどうかは、慣れの問題だろう。

記憶の歌に再会する

 実家に詰めて、原稿を書き続けている。

 シーズー犬2匹が足下にまとわりついてくる。父が最後までかわいがっていた犬だ。疲れて寝転がると、体を丸めて寄り添ってきて一緒に眠る。愛されるという目的のためだけに人工的に作り出された役立たずの犬だが、確かにその体温は、本能的に人間の心を安らがせてくれる。

 といっても原稿書きのストレスは犬2匹だけではなかなか解消されない、「マンガを書くことのストレスはマンガを書くことで解消する」というマンガがあったし、某作家は「長編に詰まると短編を書いてストレス解消する」そうだが、私はそこまで集中できない。

 で、「ぽちっとな」、オンラインショッピングで無駄遣いする。

 今回買ったのは、「ひょっこりひょうたん島 ヒット・ソング・コレクション(オリジナル版)」(amazon)

 中学生の頃の私の夢のひとつは、「NHKに行って、倉庫の中にあるであろう『ひょっこりひょうたん島』のフィルム(当時の自分にビデオという概念はなかった)を見せて貰う」ということだった。「ひょうたん島」の本放送は、私が3歳から7歳であるが、かなり初期から私は見ていた。記憶というだけなら前番組の「「チロリン村のくるみの木」から覚えている。

 中でも私が喜んだのは「ひょうたん島」の劇中歌だった。「NHKにいってフィルムを見る」というのは、つまり「もう一度あの歌を聴きたい」ということだったのである。

 月日は流れて、もう就職してからだったか、私は衝撃的な事実を知った。NHKは「ひょうたん島」の映像をほとんど消去していた。当時はコンテンツなどという概念もなく、2インチのビデオテープは高価だという理由だけで、「ひょうたん島」はフィルムに起こされた8話を除いてすべて消されていたのである。

 ところが世の中には桁の外れたコレクター精神の持ち主がいたのだった。当時小学生から中学生であった伊藤悟氏が、番組を詳細に記録すると同時に、人形操演をしていたひとみ座と連絡を取って、台本を貰い受けて保存していたのである。

 伊藤氏が保存していた記録を使い、数年前、「ひょっこりひょうたん島」はリメイクされたのだ。

 リメイク版本放送の日、テレビの前にわくわくした気分で座った私は、またも衝撃を味わった。
 「こんなの『ひょうたん島』じゃない、俺が見た『ひょうたん島』はこんなんじゃない!」

 そう、「ひょうたん島」の中核であるキャラクター、ドン・ガバチョの声を藤村有弘ではなく名古屋章が当てていたのだ。私にとって、ガバチョは藤村有弘でなくてはならなかったのである。どうしても。

 もちろん、これはないものねだりだった。藤村有弘はとうの昔に他界しており、それこそ恐山のイタコにでも呼んでもらわなくてはリメイク版への出演は不可能になっていたのだ。私は泣いた。頭の中で葬送行進曲を鳴らし、子供の頃、テレビの前で過ごした甘美な時間の記憶を見送った。

 ありがたいことに、今回購入したCDには、オリジナルの劇中歌が収録されている。もちろんガバチョ役で歌っているのは藤村有弘だ。今、私は幸福な気分で「ひょうたん島」を彩った曲を聴いている。

 数十年振りに聴き直し、あらためて藤村有弘の声の芸が素晴らしいことに驚く。「今日がダメなら明日にしましょ」の「ドン・ガバチョの歌」、「コケコッコ・ソング」、「外交の花」――どれもとてつもなく完成度が高い。一体他の誰が、「コケコッコ・ソング」をあのように歌えるだろうか。
 彼の持ち芸だったデタラメ外国語もきちんと入っている。そういえばタモリもハナモゲラ語をやらなくなってからだいぶ経つが、デビュー時、「なんだ、藤村有弘の真似じゃないか」と感じたのを思い出した。

 宇野誠一郎が作曲した音楽も、記憶に残る以上に高い完成度を示しているのを確認する。時には堅実に時には柔軟に、日本語を自由自在に扱い、一部はラップ調を先取りするような部分もある。この人の仕事は、もっと高く評価されていいはずだ。

 「夜を待とうよ」「翼があったら」「勉強の歌」、どれも記憶に残る名曲だ。

 不満もある。「ワンワンGIブルース」が入っていない(これはアニメ版ひょうたん島でも歌っていたから、絶対に音が残っているはずだ)し、口笛の「ダンディのテーマ」も未収録、「借金バードの歌」も入っていないし、個人的に記憶に残っている「ポストリア志士の歌」もない。

 でもいいではないか。30年以上の時間を隔てて、記憶の中にしかなかった音楽に再会できたのだから。


 というわけで、今、「当選したブッシュに『外交の花』を聴かせたいものだ」などと考えつつ、原稿を書いています。

「どこまでいっても明日がある ドンドンガバチョ、ドンガバチョ」そーれ!


#追記
 ここまでくれば、「ネコジャラ市の11人」の劇中歌も聴きたいな、と思うのであった。

#追記2
 名古屋章も、もう鬼籍に入ったのですね、嗚呼。

2004.11.05

北海道ロケットに関する防衛副長官の発言を考察する

 もう6年ほども以前になったが、SpaceServerという宇宙開発系ニュースサイトをせっせと更新していたことがあった。今日は、そのころの論調で真面目に行く。

 日本惑星協会のメールマガジン「TIPS/Jニュース」の最新号で、JAXA/ISASの的川先生が、北海道・大樹町で打ち上げ試験を行っているハイブリッドロケットが、販売に乗り出そうとしたところ、国会議員が「テロに悪用されるのではないか」と発言したことで足を引っ張られていることについて、札幌の雰囲気を書いている。

 的川先生は、宇宙開発の足を引っ張られる危惧をそれとなく書いているのだが、この件の真の問題はそこにはない。テロリズムもまたコストパフォーマンスの問題であることを防衛副長官が理解しておらず、「庶民感覚」の発言で新たな産業の芽を摘むかのような発言をしてしまったことだ。

 「『テロに使われる危険があるのではないか』と感想を述べた」のは、今津寛防衛庁副長官だ。

 が、考えてみよう。テロリストの資金には限りがある。テロの目的は破壊を持って社会に恐怖を与えることであり、限られた資金でより大きな恐怖を与えることが必要になる。 報道によると、北海道のロケットは210万円で、打ち上げサービスには別途100万円がかかる。自分で打ち上げを行うとしても、最低でも210万円かかる。

 210万円もあれば、もっと簡単かつ効果的なテロの実施方法がいくらでも存在する。中古の10tダンプに山ほど爆発物(知識があればそこいら辺で手に入るもので作れないわけではない)を搭載して国会正門に突っ込むなどというテロでも、おそらく210万円はかからない。中古ダンプはロケットよりも入手は容易だし、そもそも調達にあたって足がつきにくい。盗むというような非合法手段を使えば、調達にあたって必要なコストはゼロになる。

 テロリストにとって、北海道のロケットを入手するというのはまったくもって非現実的なのだ。

 今津副長官のホームページの冒頭には「私は魚屋の五男坊です。大衆の中で育ちました」とある。それはいい。が、ひとたび防衛庁副長官になり、日本の防衛政策に責任を持つ立場になった以上、公の会議において「ロケット=ミサイル。なんとなく不安」という庶民的感覚で発言するようでは、勉強不足の評価は免れないだろう。

 しかも、今津副長官の不用意な発言は、彼の地元である北海道に新しい産業が創生するかもしれない機会に水を差したのである。

 私自身は、以前も書いたが、もっと三菱重工業や石川島播磨重工業だけではなく、日本のあちこちでロケットを開発する試みが立ち上がるべきだと考えている。物事が進展する時には、有象無象が希望を持って参入することが不可欠なのだ。

 テロへの転用を防ぐという点は、推進剤を液体に限るということでほぼ確実に防げるだろうと提案する。

 液体水素を使うならば、そもそも大量の液体水素需要は限られているので追跡が可能だ。液体酸素とケロシンの組み合わせでも、液体酸素の販売にそれなりのトレーサビリティ技術を応用することで、十分に「どこで、誰がどのようなロケットを開発し、打ち上げようとしているか」を追跡し、把握することができるだろう。

 「どこで誰がどんな開発をし、どんな打ち上げをしようとしているか」という情報が共有されれば、後は適切なルールづくりだけで、誰でもロケット開発に参入できる状況が生まれる。

 現在、軍用ロケットモーターは、ほぼすべてが即応性に優れる固体ロケットを利用している。が、宇宙に出ていくロケットを開発するなら、性能的に固体ロケットよりも液体ロケットのほうが有利だ。
 糸川英夫博士がロケット研究を始めた昭和30年当時は、日本の機械加工技術では液体ロケットを開発するのは非現実的だった。だから東大から宇宙研へというロケット研究は固体ロケットを中心に進んだ。

 しかし、現代日本で宇宙を目指すならば、固体ロケットに改めて手を出す理由は全くない。そして、液体ロケットエンジンなら、テロに利用される可能性は、10tダンプほどにもない。

 なんとかして、誰でもロケットを開発し、地上燃焼試験を行い、ロケットを打ち上げられるようにならないだろうか。国民に選ばれた代表である国会議員の方々には、むしろこの方向で考えて欲しいのである。


 以下に参考リンクを掲載する。


  • スペースレフの記事

     今津副大臣は、自由民主党衆議院議員、北海道六区(旭川市を中心とした上川支庁管内)選出で当選3回、1946年生まれの58歳。中央大学法学部を卒業している。

     発言があった副大臣会議は首相官邸で開催される各省庁副大臣の間の意見交換のための会合。発言の記録は見つけることができなかった。

     ホームページ内には、この報道に対する記述はなかった。

     問題となったロケットは、NPO法人の北海道宇宙科学技術創成センター(HASTIC)が開発したハイブリッド・ロケット「CAMUI」だ。開発の中心になっているのは北海道大学で、北海道・大樹町で発射実験を行っている。

     HASICは、このロケットを210万円で販売するとしている。販売にあたっては打ち上げサービスとセットとなる。つまり購入者が自分で打ち上げることは出来ず、打ち上げはHASTICに委託することになる。1回の打ち上げサービスは約100万円。

2004.11.04

さかなさんのホームページと「夕凪の街 桜の国」を紹介する

 本日午後8時台から、信じがたいほどのアクセスが集中している。リロードでいたずらされている風でもないし、どこかで紹介されたのだろうか。その割にアクセス解析にリンク元が現れないところを見ると、イラク人質殺害関連で、直接リンクを避ける形でどこかにURLが貼られたのかも知れない。いずれにせよ、様々な人がこのページを見てくれるのはうれしいことだ。

 このアクセス集中をひとつのチャンスと見て、不特定多数の方々に何かを紹介するのがいいかもしれない。

 色々考えたのだが、心のささくれを静め、同時に何事かを考えさせてくれるページと本をひとつずつ紹介することにする。

 まずは、さかなさんという方ののホームページだ。

 さかなさんの絵物語は、一見宮沢賢治の模倣のように思えるが、独自の暖かさと深みを持っていると思う。涼しい風のような物語だ。


 もう一つはこうの史代さんの「夕凪の街 桜の国」というマンガだ。

 昭和30年の広島を舞台に、決して声高にではなく、ましてイデオロギー的でもなく、原爆が人々に落とした影を淡々と描いていく、素晴らしいマンガだ。

 どちらも、ここでの紹介に興味をもったならば、是非とも閲覧して欲しい。

 自分で考えるためにも、自分の意見を持つためにも、何かを感じる心を涵養するためにも、インプットは不可欠だ。人とは会うべきだし、体験はするべきだ。同様にホームページは見るべきだし、本は読むべきだし、映画もテレビ番組も、選んで摂取していくものだ。その、ほんの小さな一助になればと願う。

四十九日を行い、矢野さんと対談する

 11月3日は、少々早いが父の四十九日法要。お寺から坊さんに来て貰い、自宅にて母と我ら兄弟のみの質素な法要を執り行った。およそ虚飾を呼びうるものすべてにあかんべえを食らわすタイプだった父には、これ以外のやりかたを思いつかない。

 面白いもので、このような伝統的プロセスを踏むことで、確かに父が自分の側に帰ってきたということを実感する。正確には遺伝子を受け継ぐ自分の裡に、父と共通の部分を再発見するということなのだろうが、悪い気分ではない。
 キリストの復活を、「人々の心の中に、キリストの人となりが強く蘇ること」と解説したのは遠藤周作だったが、凡人たる父と、凡人たる私の間でもミニ復活があったとも言えるのかも知れない。

 義弟の自動車で、駅まで坊さんを迎え、送る。道すがら話すことは
「晴れてるなあ」
「晴れてますねえ」
「あー、バイクで箱根行きてえ」
「ボクだってクルマで箱根でも走りたいですよ」
「たまらんなあ」
「ですねえ」

 ああっ、快晴!

 夜は横浜に出て、天文ガイド新年号のためにJAXA/ISASの矢野創さんと対談の収録。矢野さんは「『はやぶさ』の運用当番とシンポジウムを生き延びまして」といって現れる、。「はやぶさ」の運用は、それこそサバイバルというしかない過酷なものなのだそうだ。
 天ガのカメラマンである大田原さんに、矢野さんと並んだ写真を撮られる。矢野さんは、「世界で一番まつげの長い惑星科学研究者」の称号を持つ美男子なので、並ぶと私は明らかに煤ける。が、それもまたよし。終了後、天文ガイドの秋元編集長も交えて会食し、飲む。

 帰途、桜木町へと歩く途中で矢野さんが言う。
「ランドマークタワーの高さが300mぐらいあるんですが、『はやぶさ』の向かう小惑星イトカワの短径がちょうど300mぐらいなんです」
 矢野さんが、夜空に屹立する横浜ランドマークタワーを指さす。
「あの高さが短径で、長径が600mほど。つまり、横にランドマークタワー2つぶんぐらいの大きさがあるんですよ」そして「大体の大きさが思い浮かぶでしょ」。

 見える。確かに見える。ランドマークタワーの背後に、タワーと同じほどの大きさで横にその2倍の大きさがある岩塊が浮かんでいるのをありありと思い浮かべることができるじゃないか。
 そこに、あの大きさの小惑星探査機「はやぶさ」がとりつくとなると…うわあ、ぞくぞくする。

「惑星も衛星も、その大きさを実感するには大きすぎるけれど、イトカワは僕らの生活実感で想像できるぐらいの大きさなんです。そんな世界に探査機が向かうのは『はやぶさ』が初めてなんですよ」

 適切な比喩は人間のイマジネーションを大きく飛躍させることができる。確かに私の酔眼にも見えた。ランドマークタワーの背後に浮かぶ岩塊に、小惑星探査機「はやぶさ」が接近していくのが。

 背筋を走る戦慄とも予感とも付かないぞくぞくは、子供の頃に見た森永チョコべーのCMの衝撃と似ていた(同年代しか分かりませんね)。

 すっかりいい気分で帰宅すると、ブッシュ再選のニュースが待っていた。

2004.11.02

ついに幻の第1楽章を聴く

 1977年、諸井三郎という作曲家がこの世を去った。翌年、彼の作品による追悼演奏会が開催され、NHK-FMがその様子を放送した。

 それから、26年にも渡って、私は幻の第1楽章を追い求めるはめになったのである。NHK-FMのバカヤローっ。

 順序立てて説明しよう。追悼演奏会では、諸井の「第3交響曲」が演奏された。当時高校2年生だった私は、NHK-FMをでそれを聴き、それこそ鳥肌が立つほど感動した。
 ところが、放送時間の関係であろう。全3楽章の交響曲を、NHKは第2楽章と第3楽章しか放送しなかったのである。
 私はエアチェックした、第2楽章と第3楽章を繰り返し聴き、なんとかして第1楽章を聴きたいものだと願った。
 こういう場合、まずはレコード(当時はまだLPレコードの時代だった)を探すものであろう。ところが、諸井三郎「第3交響曲」のレコードはなかった。「第2交響曲」のレコードはあったが絶版で入手できなかった。数年後に「第4交響曲」のレコードが出て、さっそく入手し、期待と共に聴いてみたが、「第3交響曲」の感動には及ばなかった。

 なにせ邦人のコンサート用オーケストラ曲というのは、レコード会社にとって儲からないアイテムの極北みたいなもので、1000枚も売れたら御の字という世界だ。同じレコード1枚出すなら100万枚売れるユーミンやら松田聖子やらオフコースのほうが全然いいわけで(そういう時代だった)、私の魂の叫びがレコード会社に届くはずもなく、26年が過ぎたのであった。

 ところが、この秋になって出たのだよ。諸井三郎「第3交響曲」のCDが!

 しかも、日本のレコード会社からではなく、ナクソスという1枚1000円という低価格で、非常に妖しくも楽しいマイナーなクラシック系音楽を次々にリリースする謎の海外メーカーから出たのだ。

 このナクソスという会社、数年前から何を思ったのか、全60枚だかで「日本作曲家選輯」という日本人作曲家の全集を出し始めた。そして、どうせ儲からずに途中でつぶれるであろうというおおかたの予測を裏切り、じりじりと匍匐前進を続ける爆弾三勇士のように戦前戦中のしぶい選曲のCDを出し続けているのだ。その1枚として、ついに諸井三郎の作品集、それも第2でも第4でもない、あの第3交響曲のCDを出してくれたのである。


     ・「日本作曲家選輯 諸井 三郎(1903-1977)」

      ■こどものための小交響曲(1943)(世界初録音)/交響的二楽章(1942)(世界初録音)/交響曲第3番(1944)(世界初録音) *日本語解説書付き

      ●湯浅卓雄指揮、アイルランド国立交響楽団

      録音・編集(24bit/48kHz):2002年9月アイルランド、ダブリン、国立コンサート・ホール


 で、買ったのだ。聴いたのだ。泣いたのだ!

 あなたがクラシック音楽を聴く習慣を持ち、特にブラームス、ブルックナー、マーラー辺りのの19世紀後半から20世紀にかけてドイツで産み出された交響曲が好きならば、もうこれは絶対に聴かなくてはならない。

 日本でこれだけ優れた魂の音楽が、生まれていたのだ。しかも戦争真っ最中の昭和19年にだ。泣くしかないではないか!

 CDには片山杜秀氏による力のこもった解説がついているので、諸井三郎が何者かとか、曲の成立の経緯などはそちらを読んだ方がいいだろう。簡単に言えば、日本の西洋音楽受容の流れは最初ドイツから、次いでフランスから来たのだが、諸井はドイツの流れを組み、しかもドイツ絶対音楽が生んだ最高の形式である交響曲にこだわった作曲家だ。

 作曲は昭和18年から昭和19年という太平洋戦争が緊迫する中で行われ、この曲の完成後、諸井は陸軍少尉として敗戦まで国内で任官した。明らかに自分の死を意識し、自分のすべて込めようとした一世一代の曲なのである。

 そして本当にすべてを込めきったのだろう。諸井は戦後32年を生きたが、その間に書いた曲は8曲だけだそうだ。第3交響曲にすべてを集中し、おそらくは燃え尽きたのである。真っ白に。

 色々言いたいが、第2楽章が、「5拍子の戦争の音楽」であるところは要注目だ。これはクラッシックが持つ「格好いいパターン」の一つで、発明者はおそらくホルストだ。「惑星」組曲の「火星」のアレである。冬木透は「ウルトラセブン」のウルトラホーク発進シーンの音楽で使っているし、ジョン・ウイリアムズも「スター・ウォーズ」の戦闘シーンで使っていた。諸井の第3・第2楽章も、この流れにつながるものだが、聴けば分かるように全く違う新しいパターンで「5拍子の戦争の音楽」になっている。

 第2楽章の狂乱が収まると、第3楽章冒頭でオルガンの低音に支えられてゆるやかな旋律がゆっくりと音階を昇っていく。こういう例えが諸井に対して失礼であることを承知の上で、言ってしまえば「マーラーの未完の第10交響曲クック版の第5楽章冒頭と同じぐらい感動的」だ。

 そんな魂の曲だが、初演も含めてこれまでに4回しか演奏されたことがないそうだ。このCDの録音が5回目だとか。ああ、まったく邦人オーケストラ作品の商売にならなさ加減には涙が出る。

 とにかく聴いて欲しい。というわけでアマゾンにリンクしておく。
 ・アマゾンで第3交響曲のCDを買う

 最後に、ここに来ているかもしれないマニアな皆さんに。松本零士の戦場まんがシリーズに「戦場交響曲」という作品がある。作中に出てくる「戦場交響曲」は、もちろんマンガの中の作品であり音はしない。

 が、今、我々は真の「戦場交響曲」を聴くことができる。この諸井の第3交響曲こそが、本物の「戦場交響曲」だ。

格好つけすぎかも知れないが

 戦う、戦わないで、少々書いたばかりなのだが。

 ココログには、訪問者がどんなキーワードで検索をかけ、自分のページにたどり着いたかを調べる機能がある。

 昨日から、「香田証生 遺体 画像」でやってくる者が増えた。

 見たいという欲望は分かる。そして私は、インターネットにはそのような欲望を満たす可能性もあるということも知っている。時として私も似たような欲望を感じ、負けてしまったことがあることも告白しておく。人間にはきれいごとではすまない欲望が住んでいることは、身をもって知っている。

 そう理解し、白状した上で、上記キーワードで検索をかけてきた人に一言。

 たとえ香田証生氏がどんな人となりであったとしても、あなたがしているのは、ご遺族がどんな気持ちで今この時間を過ごしているかに思い至らぬ、そんな貧弱な想像力に基づく、心ない行いである、と。

 背筋を伸ばして生きよう。それがネット上であったとしても。否、ネット上であればこそ。


追記:11/2、午後8時40分
 本記事に、2ちゃんねるからトラックバックが付いた。確認すると、相手ページにあるリンクから、香田さんの遺体写真へ飛ぶことができた。

 誰がやったかは知らないが、まったく「真夏の夜の夢」のパックのようなお人だと思う。

 トラックバックは削除しない。これだけネットで流通しているということは、画像はあちこちにアップされているはずだ。どうしても見たいと思えば、早晩たどり着く状態になっているはずである。

 再度、遺体写真を目指して検索をかけて、本ページにやって来た人へ言う。

 あなたはおそらく被害者とは縁もゆかりもないのだろう。だが、首を切断された息子の遺体の写真がネットで流通していることに対して、彼のご両親はどんな気持ちでいるか、それを不特定多数の人間が好奇心から閲覧することにどう感じるであろうか、そのことに思いを致して欲しい。

 その上で、自分がどのように振る舞うのが人間らしい行いかを自分で考えて欲しい。

 私はなにも強制しない。強制はネットに似合わない。ただ、皆さんに自分で考えて貰いたいと願う。

2004.11.01

ソビエト・ロシアの科学技術を称揚する

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 いつだったか、SF作家の野尻抱介さんと話をしていて、「なんだって松浦さんはそう戦いますかねえ」と、やんわりと指摘されたことがあった。何の話題だったか、野山歩きの話をしていて、林野行政の矛盾へと脱線した時だったか。

 確かにそうなのだ。私にはがまんならないことを、がまんならない、と言ってしまう傾向がある。「それは流せ」と言われても、心理的にどうしても流せないことがある。

 このblogも、最初は時事的な話題に触れず、どうでもいい写真と身辺雑記に終始する、それも積極的に終始するはずだったのが、2回ほど中断を経て、いつのまにやら、妙に社会派っぽいことを書いていたりするではないか。どうしたことか。

 父の死を契機に、あれこれ思い出したり、父の書いた文章を読んだり、様々な人から思い出話を聞いたりして、なんとなく分かった。「この親父の息子ならしょうがないか」

 というわけで、力を抜くことにした。積極的に方向付けをせずに、今後とも気が向くままに書いていくことにする。ということは、時事ネタも積極的には避けないということである。

 とはいえ、せっぱ詰まっているので(この辺は身辺雑記)、しばらくは他人が書いたことの紹介ということなるだろう。


 そこで表題の話。宇宙機技術者の水城徹さんが、lifelogというページで、旧ソ連のコンピュータ技術について書いている。これが非常に面白い。

 ・水城さんのHP「航天機構」

  ・HP内、雑記帳に相当するページ「lifelog--not diary, not blog」

 ソ連にも優秀な科学者がいて、初期には独自のアーキテクチャやOSを考案していたこと、さらには1960年代に計画経済との絡みでアメリカとは別個のインターネット的ネットワークシステムの開発に取りかかっていたことなど、今まで知らなかったことばかりだ。それらが、思想闘争の姿を借りた権力闘争と、共産党指導部の技術に対する鈍感さとでダメになっていく過程は、昨今の日本を見るようで、まったくもって他人事じゃない。

 科学的を標榜した社会主義が、真の科学的発想を抑圧したのは、遺伝学のルイセンコ学説だけではなかったのだ。

 一般の人は「旧ソ連、ロシアの科学技術」といってもピンとこないだろう。
 少し知っている人は、「あのぼろっちい技術ね」ぐらいに感じているはずだ。
 もう少し踏み込んだ理解をしているのは、おそらくミリタリーマニアではないか。「荒っぽいけれど合理的なT-34戦車と、性能第一だけど整備性最悪のタイガー戦車」だとかだ。

 ロシアの科学技術は、一見やぼったく見えるが、子細に見ていくとその最良の部分は驚くほどよく出来ている。
 なんだかんだで過去1年ほど、「ふじ」グループの討論で「ソユーズ」宇宙船と「ソユーズ」ロケットを調べてきた。
 実によく考え抜かれた設計をしている。「こいつは日本人じゃ無理だ」と思わせるセンスを感じさせる部分も多い。

 なぜ、ロシアの技術は素晴らしいかと言えば、原理原則に立ち返ってゼロから徹底的に考え抜かれているからだ。映画でいえば「スターウォーズ」と「惑星ソラリス」の差である。いきなり巨大宇宙戦艦が、ががーっと頭上を通過して観客の心理をつかむのがアメリカ流なら、3時間の映画の冒頭1時間近く、美しい地球の風景に続いて「一体ソラリスでなにが起こっているのか」と延々と議論をするのがロシア流だ。
 おそらくロシアの技術者は、未知の問題にぶつかった時、原理原則に立ち返って徹底的に議論をし尽くした上で、実際の設計にかかるのである。


 20年ほど昔の学生時代、大学工学部の図書館で、数学の公式を集めた辞典を見つけた。岩波書店発行のかなり古い本だった記憶がある。
 序文を読んでみると(もちろん中身を賞味する能力はなかったのだ)、オリジナルはソ連、確かレニングラードで出版されたもので、分厚い本を向こうの官憲の目をかいくぐって持ち帰って翻訳した、というようなことが書いてあった。

「自分で辞典を編纂せずにソ連から持ってきたのか!」と驚いた。

 これが、日本とロシアの違いだと思う。数学の研究と応用の両面で基本となる数学公式辞典を自ら編纂するロシアと、持ってきて翻訳してしまう日本。

 ショッキングな体験だった。なにしろ、それまでの私のソ連技術に対する理解は、「ベレンコ大尉が亡命の時に乗ってきたMig25戦闘機は翼の前縁が鉄製で錆びる」といった、揶揄を含んだものだったから。

 もっともこの体験以降も、私はずっと心のどこかで「比較すればアメリカの技術のほうがソ連よりもずっと優れている」と思っていた。確かにそういう面は多いが、それだけではないということを、はっきりと意識したのはここ数年のことだ。情けない話である。


 ところで、水城さんは、例の「宇宙の傑作機」シリーズで、「ソ連のコンピュータをやります」と言っているそうのなので、次のコミケあたりで、「ソ連の傑作コンピュータ」を読めるかも知れない。版元である風虎通信の高橋さん、よろしく水城さんを叱咤激励してください。

 久しぶりの写真は、モスクワ中心部の飛行場で野ざらしになっているMig25戦闘機。2003年7月撮影。こんなことになった責任は、この戦闘機の設計者にはない。明らかに共産党をはじめとした指導部のマネジメントの失敗の帰結である。

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