2005年始動
2005年が始まった。
宇宙開発という分野は、かつて、整然とした未来年表の元に進んでいた時期があった。そこには宇宙開発委員会の長期ビジョン懇談会の構想があり、宇宙開発政策大綱があり、年度ごとの宇宙開発計画があり、と、一見美しく矛盾のない政策システムが動いていた。
取材を始めた1988年頃、「1998年打ち上げ予定の地球観測衛星」の予想図を見て、くらくらしたものだ。10年も未来のことを我が事として想像できなかったのだ(ちなみにくらくらきた未来の衛星は、後に「みどり2」として2002年に打ち上げられ、2003年秋に無惨な最後を迎えた)。
それがついに2005年だ。自分は応分に歳を取り、スプートニクからアポロ11号よりも長い時間が経ち、その間年間1000億円以上の予算=税金を投入して、日本国は宇宙分野で何を得たのだろうか。
せめて前に進んだという実感を持って、この年を終わりたいではないか。行動しよう。
などと年頭から力んでばかりでも仕方ないので、ぐだぐだと身辺雑記を。
29日は高校のクラス会。なぜか2年生の時のクラス会が25年に渡って続いているというもので、つまり高校2年の1年間は、それほどまでに楽しかったのだ。当時は若く独身だった担任の先生も、今は3人の子供を育て上げた校長先生となり、「あと1年3ヶ月で定年だあ」と叫んでいた。
火付け…いやいや、「焚き火」でしたな、が、大好きな先生のために、定年後に場所を確保して一大焚き火大会をやるという話もあるので、そろそろ話でも動かそうか。先生は巨大焚き火をしたい一心で某新興宗教に入信しかけたという逸話の持ち主なので、教え子が組織する焚き火もそれ相応の規模にしないと。
30日は、コミケ2日目。おかちんさんの「ILMA Express」で売り子。午前8時集合の予定が寝坊して遅刻し、ディーラー入場のタイムリミットである午前9時ぎりぎりに、入場口でチケットをぱっと受け渡して入場。思わず頭をよぎったのは、原爆の時限装置が「007」で停止する「007ゴールドフィンガー」だった。
一般入場なら間違っても朝からは行かないであろうイベントだが、売るとなれば別。物を売るというのは原始的な楽しみがあるので、時折コミケで売り子をさせて貰っている。そっち方面に広がった知り合いと会い、それぞれの新刊を読む楽しみもあるし、仕事的な興味ではオタク状況の定点観測という意味合いもある。会う人ごとに「原稿大丈夫ですか」「ここにいていいんですか」と言われるのは、まあ自業自得というもの。
午前10時の会場からしばらくの間、西館には人が流れて来なかった。「今年は出足がゆっくりだなあ」などと話しているうちに昼過ぎからどんどんお客さんがやってくる。やって来た人が「東館はすごいことになってますよ」という。一気に入場したお客さんが、東館に配置された18禁系サークルに引っかかって大渋滞を引き起こしたらしい。東館がうまい具合に人の流れに対してダンパーとして作用したようで、メカ・ミリの配置された西館は大混雑になることなく、ゆったりと楽しむことができた。
終了後、メカ・ミリ系サークルの飲み会に顔を出す。ついにアバルトを買ってしまった沖兄弟などから、ここに書けないような話を聞く。沖兄弟は互いに「今日は自分でしゃべらずに他人の話を聞くはずだろ」と牽制しつつしゃべることしゃべること。最後に「松浦さんと『ハウルの動く城』で語り合うはずだったのに」、いや、沖さんズも私もまだ「ハウル」を観ていないのです。
31日はPowerBook臨終に振り回される。雪の中を実家に行くと、妹が甥と姪を連れて帰ってきていた。甥に踏んづけられ、姪に鼻水をつけられ、彼らのおもちゃに徹して過ごす。夜は、年末にオーロラ見物にフィンランドまで行ったKI-CHIさんから貰ったアルコール分60%のウォッカをなめつつ、アニマックスで「攻殻機動隊SAC」などを。面白いけれど、気が付くとイシカワが個人情報までがしがしハッキングしている社会というのは、少なくとも私は住みたくない。
新年、目を覚ますと犬共が私の布団に乗って丸まっていた。姪がぎゃーと泣く声が聞こえる。
2005年の原稿書きと、資料調べが始まる。数日すれば取材が始まる予定だ。
« 死を送る | Main | 兄弟そろってテレビでだべる »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 安倍晋三氏追悼、及びその分析/政治に巣くうカルトについて——明日は選挙です。投票に行きましょう。(2022.07.09)
- ブログの蜘蛛の巣を払った(2022.04.02)
- 東峰神社に行ってきた(2016.01.13)
- あけましておめでとうございますと、年末の災難からの復帰(2016.01.01)
- 石碑建立(2011.07.21)
The comments to this entry are closed.
Comments