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2005.01.31

失礼なコメントを削除する

 ひどい風邪を引いてしまい、しばらく更新を停止していた。本日久しぶりに料理をしたが、舌が駄目になっていてちっともおいしくない上に、どうもおいしく作れていない模様。味覚が弱ると世界全体が灰色になったような気分になる。

 先ほど、はるか過去の記事にコメントが付いた。まったく当方の記事とは関係ない。

「第26期東京都青少年問題協議会にて、フィルタリングサービス使用義務を条例に規定するよう求め、「情報から子どもを隔離する意義」まで強調する答申が出されました。

  (中略)

私は高校生ですが、こどもの権利を否定するような東京都様の動きには全く賛同できません。」
というような長々としたコメントだった。一言で言えば「学校のネットにフィルタリングをかけるのに反対です」という内容だ。

 即刻削除である。馬鹿者が。

 インターネットでは、それを「本気の馬鹿」がやったのか「誰かがネタとして投稿したのか」、「本気の誰かへの悪意を増幅するために敵対する誰かが投稿したのか」を見極めるのは非常に難しい。が、blogにおいて、当方の書いた記事に対して全く無関係のコメントをつけるのが失礼な行為であることは明らかだろう。上記の3つのいずれにせよ、投稿者は相当な無礼者である。

 そんな奴のために、当方が維持コストを支払っているページにスペースを提供する義理はない。

 意見を表明したければ、自分のページで自分の名前を使ってやるべきである。もしも投稿した者が、自己申告の通り高校生であるならば、この当たり前のことが高校生になっても理解できていない恥ずかしい奴ということになる。

 はっきり書いておく。私はそういう馬鹿がネットに出てこないためにも、学校のネットにおけるフィルタリングに賛成するものである。ガキ(とあえて書こう)が、大人と同じ権利を持っていると思ったら大間違いだ。

 その上で、お上がやらかすであろう間抜けなフィルタリングを、あれこれの検索技術を駆使して「おお、こんなにバカじゃん」と笑い飛ばせるぐらいのスキルをすべての高校生が身につけることを希望する。

 以下は今回のことで思い出したので。そろそろ四半世紀以上以前の昔話である。

 私が高校に通っていた時の話だ。とある学校行事の後、悪ガキ共が居酒屋で酒盛りをやらかしてとっつかまったことがあった。悪ガキ共を前にした先生が言ったことには「お前ら、我々に見つかるようなところで酒を飲むんじゃない!」

 おお、無責任教師出た!見つからなきゃ飲んでもいいんだな、表裏がある汚い大人だ——そう思うだろうか。

 そうじゃない。これは実に教育的な叱責だったと思うのである。やってはいけないことをやらないためには、まず「なにがやってはいけないことか」を認識する必要がある。そして高校生の飲酒というのは、法律を離れて社会通念で考えるとなかなか難しい問題だ。確かに違法ではあるが、十代の後半は背伸びしたくてたまらないというのが当たり前でもある。それはむげに否定できない。
 「お前ら、我々に見つかるようなところで酒を飲むんじゃない!」という先生の叱責は、「まず、何はともあれやっていいことと悪いことを弁えろ」という意味だったのである。その上でどう振る舞うかを自分で考えろ、ということだったのである。
 世の中は法律ですべてがが動いているわけではなく、様々な「良い加減さ」が存在してしなやかに組み合わさっている。ネットにおいてはその「良い加減さ」が、まだうまく機能していないようだ。

2005.01.17

あの日あの時、自分のしていたことを思い出す

 本日、阪神淡路大震災から10年。地上波のテレビチャンネルは関連番組で埋まる。

 「阪神淡路大震災の時、あなたは何をしていたか?」

 私は東京にいて働いていた。朝起きてテレビをつけたら、信じられない光景が写っていた。なにしろ疲労していたのでようようやっとこ出社したが、いま一つ現実感がなかった。出社した時点で確か死者数は数人と報道されていたと覚えている。「そんなもので済むはずがない。絶対に1000人を超える」と思ったが、まさか6000人以上が死亡する大災害だとは考えもしなかった。

 あの時あなたは何をしていたか、というのは同時代を共有していることの確認行為だろう。かつてニフティのFSPACEでサブシスをしていた時にはチャレンジャー事故が起きた1月末が来るたびに、「あなたはあのとき何をしていたか」というお題で書き込みを募った。アメリカでは「ケネディ大統領が暗殺された時、あなたは何をしていたか」という問いが繰り返されるそうだ。
 それは同時に、「ああ自分はこんなに生きてしまったか」と自分の年齢を確認することでもあるのだろう。

 本日風邪気味。延々と続けている仕事に先が見え始める。薬を飲んだので眠い。よって短く、思ったことだけを。おやすみなさい。

2005.01.16

月面せんべいに宇宙開発の停滞を見る

 「ホイヘンス」のタイタン着陸の興奮も冷めやらず、あれこれ考えていると妙な単語が浮かび上がってきた。

「ホイヘンスまんじゅう」

 自分の無意識をごそごそとまさぐると、どうやら「これだけのイベントなんだから便乗商売があって当たり前」という感覚が、こんな単語を作り出したらしい。少々情けない。

 まあ「アポロチョコ」だってあるのだからなんでもありだよなあ。「ホイヘンスどらやき」、「タイタンサブレー」、「カッシーニしゅうまい」とか。

 そこでまた連想が働いて思い出す。そうだ、かつて「月面せんべい」というのがあった。直径30cmもあろうかという巨大な堅焼き醤油せんべいで、表面に月面のクレーターが焼き込んであるというものだった。
 月面せんべいを発見したのはもう15年も昔、私が航空宇宙業界ニューズレター誌で働いていた頃だ。JR東京駅構内の売店に売っていたのである。

「いったいなんだこれは?」

 職業的な興味もあって、売り子さんに質問してみた。分かった事実は以下の通り。

     
  • アポロ11号の頃に売り出したもの。その後ずっと売っている。  
  • クレーターは焼き型でつけている。本物の月の地図ときちんと合わせてある。

 もっとも、あの時点ですでにアポロの月着陸から21年。焼き型がだいぶ痛んでいたのか、クレーターは「本当に月面か」と思うほどおぼろになっていた。
 買って食えばよかったのだろうが、いまいち食欲が湧かずに結局そのままとなった。その後しばらく月面せんべいは売っていたが、いつの間にか姿を消し、今は東京駅に行っても買うことはできない。

 食っときゃよかったなあ。

 しかし(と、ここでまじめな話にするのだ)、これは宇宙開発の根本的問題の現れではないだろうか。アポロからこっち、一番便乗ものが出やすい食品分野で便乗商品が出ないというのは、それだけ停滞しているということではないか。

 うん、やっぱりあの月面せんべい、買って食っておくべきだったな

2005.01.15

異星の風景だ、見知らぬ風景だ

 次々とタイタンからの映像が公開されている。タイタンに降りた「ホイヘンス」から、土星探査機「カッシーニ」に送信され、蓄積されたデータが、少しずつ地球に送信されてきているのである。

 欧州宇宙機関によるホイヘンスのページ——ここが一番情報が早いようだ。


 素晴らしい!

 異星の風景だ。酸素と窒素ではないが空気があり、水ではないが液体が流れる異星の風景だ。

 ネットを見て回ると「なんだ白黒か」、「動画じゃないとな」というような贅沢な意見も散見される。なにをいっているんだ!白黒であっても静止画であっても、CGやミニチュアではない、本物の異星の風景じゃないか。遙か彼方のタイタンの地表に、本当に存在するまごうことなき異星の風景だ。

 記憶に残る最初はアポロの時だった。次は「ヴァイキング」の火星着陸、金星に着陸したソ連の「ヴェネラ」、「パイオニア10/11」——「ヴォイジャー」はすごかったな、木星、土星、天王星、海王星。新たな惑星を通過するたびに、私は新しい風景にわくわくした。
 金星をマッピングした「マジェラン」、木星の衛星を巡った「ガリレオ」、「マーズ・パスファインダー」とラジコンのような大きさのローバー「ソジャーナ」。

 今という時代には、色々問題もある。ありすぎるぐらいだ。
 だが、こと新しい風景の楽しみという点では、私は今生きていることを大変幸福だと思う。ガリレオ・ガリレイも、クリスティアン・ホイヘンスも、ジョヴァンニ・カッシーニも見ることができなかった風景を、見ることができるのだから。

 こうして探査機が新しい風景を送ってくるたびに、私は子供の頃に読んだ一冊のSFを思い出す。「宇宙パイロット」(ゲオルギー・グレーヴィッチ、袋一平訳 岩崎書店刊)。「エスエフ世界の名作」というシリーズの一冊として1967年に発行された。グレーヴィッチの「竜座の暗黒星」というSF短編を、子供向きに書き直したものだという。手元にある本の発行の日付(昭和42年6月20日)からして、私がこれを読んだのは幼稚園の年長か、小学校1年生の時だ。

 このお話には、新しい惑星の探査に一生を捧げた主人公のおじいさんが登場する。詳細は読んで欲しい(最近になって岩崎書店から「栄光の宇宙パイロット」という題名で復刊された。amazonbk1)が、このおじいさんの台詞が、ずっと私の中に深く沈み込んで、今の私につながっているように思える。

 竜座に発見された暗黒星に向かった探検隊に、おじいさんは最後の仕事として参加する。そこには生命の兆候があったが十分な探査機材がなかった。ある覚悟を決めておじいさんは、探検隊のクルーを説得する。

「わたしはじぶんのさいごの一行をかき、さいごの一ページをよんでしまった人間だ。たのむ。もう一つ、頂上にのぼらせてくれ。もう四十年、おまけをつけてくれ。そして次の世紀の学界ニュースをのぞかせてくれ。
 たのむ、つぎの探検隊がみるものを、いまわたしにみせてくれ。 たのむ、ギリギリの線から、はん歩でもいい、ふみださせてくれ」

 これは90歳を過ぎた老人の台詞なのだが、今、四十代の私は、半歩といわず一歩も二歩も三歩も先を見たいな、と思うのだ。

2005.01.14

「ホイヘンス」、タイタンに突入!

 土星を周回中の米航空宇宙局(NASA)の土星探査機「カッシーニ」から分離した、欧州宇宙機関(ESA)のタイタン突入プローブ「ホイヘンス」が、日本時間の14日午後7時過ぎ、土星の衛星タイタンの大気圏へ突入した(惑星探査を担当するジェット推進研究所のホームページ)。

 データは明日朝には地球に届くようで、これは楽しみだ。

 「ホイヘンス」にはカメラも搭載されているので、いったいタイタンの地表だかメタンの海面上だかがどんな風景かを知ることができる。私としては、「メタンの海に着水。するとカメラの視野に海中からがばっと目玉が出現するのが写り、そのまま通信途絶」というのを期待している、と書いておこう(実際問題として動画は無理だが)。

 そうなりゃ、ブッシュのあの益体もない新宇宙政策も一気に吹っ飛ぼうというものである。

ニコンSP復刻の報を聞く

 カメラという機械には、マニアックな愛着を呼び起こすなにかがある。それはレンズに対するフェティシズムかもしれないし(例:「やっぱりスーパーワイドへリアー12mmだぜ」某漫画家)、美しく合理的な機構への賛美かも知れないし(例「コンタックスよりライカだね。なにもかもびしっと決まらなければならないコンタックスの機構よりも、位置あわせがいい加減でもピントの精度が出るライカのほうがよい設計さ」某宇宙機エンジニア)、特定の設計者への信仰かも知れない(例「米谷さんの設計は素晴らしいなあ。ペンFの設計はほれぼれする」某ノンフィクション・ライター)。

 本題だ。ニコンが「ニコンSP」を2500台限定で再生産すると発表した。何を隠そう、私が学生時代、ニコンF3を買ってもっとも写真に入れ込んでいた時期、ニコンSPはあこがれのカメラだったのだ。むむ、物欲が。

 ニコンSP、1957年から1965年にかけて販売された、ニコン最後のレンズ交換可能なレンジファインダーカメラだ。この後ニコンはニコンFに始まるプロ向け一眼レフで、世界的な声価を確立していく。

 なぜニコンSPかといえば、その精緻を極めたメカニズムにあこがれたからだ。特に28mmから135mmまでのレンズに対応したフレームが出てくるSP独自のファインダーは、光学ギミックの粋であり、もう見ているだけでほれぼれするような設計をしていた。
 ニコンが世界ブランドになる直前に、機械加工の粋を尽くして作り上げた最後のレンジファインダーカメラ、それがニコンSPなのである。

 とはいえSPのファインダー持ってしても135mm望遠は使いづらかったそうだが、所有欲をそそる機械としては実用性はどうでもいいのである。ああ本末転倒。

 ニコンSPのようなレンジファインダーカメラの世界は、まず何よりもライカの愛好家の圧倒的な勢力があり、ライカコレクターという独自の世界を築いている。さらにライカは通称パルナック・ライカと呼ばれる旧機種と、ライカM3に始まり現行のM7につながる新機種とがあり、それぞれにファンが付いている。これとは別に、ゲルマンのメカフェチっぷりが存分に発揮されたコンタックスの一統があり、これまた独自の世界を持っている。
 そこに第二次世界大戦後に殴り込みをかけたのが日本光学の「ニコンS」シリーズで、最高峰が「ニコンSP」というわけだ。そのほかF0.95という前代未聞の明るいレンズで異彩を放つ「キヤノン7」なんてのもあって、まあ基本的にコレクションにはまってしまえばそこは冥府魔道の世界だ。

 学生の頃、欲しくてずいぶんとニコンSPの出物を探したものだが、当時の中古価格がだいたい25万円。とても手が出なかった。それだけあれば、F3の交換レンズをそろえるのが先だったし、フィルムと現像代に回して一枚でも多くの写真を撮るほうがもっと先だったのである。

 欲しかったなあニコンSP。しみじみと思い出しつつ、今回の復刻品の価格はと調べてみれば72万4500円。

 これは出ないな。買えないな。今の自分には高すぎる。ましてや時代の主役がデジカメになった現在、このSPの価値は嗜好品かコレクションでしかない。むしろこの再生産で値段が下がるであろう中古のSPを探したほうがいいかもしれない。

 ところで私はニコンとは別個の、ごくごくささやかなカメラコレクションを持っている。これについてはまた気が向いたら書くことにしよう。


メモ
 懸念していた通り、アチェでは独立派とインドネシア軍の軋轢が表面化してきたようだ。
アチェ紛争、津波救援活動の妨げに…外国軍撤収希望も(読売新聞1/13)
インド洋大津波 アチェ州救援活動、規制強化 過激派活動に懸念高まる(産経新聞1/14)

 停戦への動きもあるようだが、はたしてあの因業なインドネシア国軍が納得するかどうか。かつての虐殺でインドネシア国軍が取った行動を考えると、地震を利用して一気に独立派制圧に出てもおかしくはないような気がする。
インドネシア・アチェ独立派、停戦交渉の用意を表明(日本経済新聞1/13、共同通信)

 blogを探すと、現地在住の日本人からのメールが掲載された記事があった。現地は情報統制されていると送ってきている。
メダンからの声——owner's log by Kentaro Takahashiより

 日本からいち早く現地入りしたピースウインズは、事実のみを伝え、政治情勢には触れていない。彼らは何よりも救助を優先するスタンスなのかも知れない。
ピースウインズの活動報告ページ

 アチェにどのルートで誰が入るか注目していたのだが、一番早かったのが空母エイブラハム・リンカーンに記者を載せていたCNNだった。日本メディアとしては1月2日に共同通信と毎日新聞が陸路を独自にルートを開拓してアチェに入り第一報を送ってきている。
 残るメディアは10日近くなってまとめてアチェ入りしていた。これはインドネシア軍の合同取材に乗っかったのではないだろうか。

 前にも書いたが、天災と政情不安が重なるととんでもない悲劇が起こる可能性がある。報道メディアが現状を正確かつ迅速に伝えれば、悲劇は防げるかも知れない。

 おこがましい言い方かも知れないが、今こそ日本の報道メディアの正念場ではないか。行きやすいプーケットあたりで、日本人被害者の愁嘆場を延々と報道し続けている場合ではない。愁嘆場を流せば視聴率は取れるかも知れない。が、遺族の方々の悲しみは増し、亡くなられた被害者の方が帰ってくることもない。しかしアチェの現状を冷静かつ正確に報道し続ければ、無用の死を防げるかも知れないのだ。
 剣に勝るペンを今こそ。

2005.01.11

宣伝:1/22、NAKED LOFTに野田さんとあさりさんが出演します

 宣伝です。1月22日土曜日に、新宿の「NAKED LOFT」でこんなイベントがあります。

■1.22(土)@NAKED LOFT
「宇宙にいこう!」
ロケットを設計したり、いままでにない技術のものを創造したり……
まるでリアルドラえもんポケット・野田司令こと野田篤司さんに訊く、
宇宙への行き方。質問コーナーあり。

 第一部:野田司令、浅利さんによるトーク(宇宙にいくための知識講座)
 第二部:質問コーナー

【出演】野田篤司(宇宙機エンジニア)
【司会】浅利義遠(あさりよしとお/漫画家)
OPEN 18:00 / START 19:00 \1000(+1order)

■チケットは予約制です。〆切日1/14(金)
 1/12追記:応募が定数に達したため予約は締め切られました。ありがとうございます。
詳しくは以下のURLにて。
http://www.loft-prj.co.jp/naked/ucyu.html

 場所はいつも「ロケットまつり」をやっているロフトプラスワンではなく、姉妹店のNAKED LOFTです。会場が狭いので予約制をとっています。申し込みはお早めに。

2005.01.10

スコッチで漬けた梅酒を味わう

 9日は妹が姪を連れてピンポイントで実家に帰ってきた。とんでもないおみやげを持って。

 「金は天下の回りもの」というが、金だけではなく贈答品も結構使い回され、あちこちの家庭を回っている。いかなる理由か、何年かかったかは知らないが、妹夫婦のところにスコッチウイスキーの「シーバス・リーガル12年」が4本集まった。義弟は酒は飲むものの、「酒がなくて何が人生」というタイプではない。そして妹は大胆な性格である。何が起きたか。

 妹はありったけのシーバス・リーガル12年で、梅酒を漬けたのだ!

 12年もの熟成期間を要したスコッチだぞ。なんてことしやがる。慨嘆する兄に妹は言った。「これがうまいんだよ兄ちゃん。今度持って行ってあげるから」

 で、エヴィアンの350mlペットボトルに入ってやってきましたシーバス・リーガルの梅酒。味はどうかといえば——

 負けたよ妹よ。うまいじゃないか。それもとてつもなくおいしいではないか。なめらかで芳醇で、梅の味わいとスコッチの深みが見事にマッチしている。アルコールくさい甲類焼酎で漬けた梅酒とはまるで別の酒だ。

 そうだった。こいつは大胆な決断をぱっと下して、しかも外さないタイプだった。おかげでおいしい梅酒を味わうことができた。ありがとうよ。

 妹によると、氷砂糖を通常の半分以下にするのがコツだという。そうそうスコッチで梅酒を漬ける人がいるとも思えないがメモしておく。

 正月以来の姪は、ますますぷっくらとして頬などいっぱいくるみを頬張ったリスのようだ。もうすぐしゃべり出すだろうから、「ボクはマリネラの王子パタリロだぞ」と教えてみようか。

2005.01.09

ぶつぶつおじさんになって文句をたれる

 8日は、宇宙開発史HPの新年会だったが連絡行き違いで場所が伝わらず、行くことができなかった。主催の桜木さんが連絡にフリーメールのアドレスをつかったところ、現在試行錯誤中の迷惑メールフィルタがはじいてしまったらしい。

 まあ、原稿が遅れているので「こういうこともあるさ」と原稿書き。桜木さん、申し訳ありませんでした。

 で、ちょっとうるさいおじさんになってぶつぶつ文句をば。

その1
 駅から帰宅する途中に一件のコンビニエンス・ストアがある。ここ、入店すると店主夫婦とおぼしきおじさんとおばさん、それにバイトもひっくるめて「いらっしゃいませ、こんばんわー!」とでっかい声で挨拶してくるのだ。それも入店する客一人一人に丁寧に、である。「いらっしゃいませ、こんばんわー」も繰り返せば「イラシャイアセ、コバワー」と聞こえる。
 うっとうしい。実にうっとうしい。コンビニというのは必要な時にしか声をかけない、ドライなところがよかったのではないか。
 声をかけるのはいい。機械的に声をかけられるのはうっとうしいだけだ。
 どうも店主夫婦は、これがサービスだと思っているらしい。いつ気が付くかと思ってみているのだが、一向に気が付く風もない。うっとうしいなら行かなければいいのだが、何しろ道すがらなのでついつい寄ってしまうのだ。で「イラシャアセコバワー」と攻撃を受けて、精神にダメージを食らうのである。

その2
 昨年の半ばぐらいから夕暮れになると、駅前に居酒屋のバイト君が立つようになった。駅を出て帰宅する人波にでっかい声で怒鳴り続けるのである。「居酒屋○○でーす。チューハイ、ビール、安くなってまーす」。無視されても無視されても怒鳴り続けるのだ。
 うっとうしい。実にうっとうしい。
 思わず思い出してしまったのが、オウム真理教最盛期に秋葉原の路上で傍若無人な呼び込みをやっていたマハポーシャ(オウムのパソコン販売部門)の連中のことだ。「チョーチョーチョーチョー、超激安、チョーゲキヤース、マハボーシャチョーゲキヤース」と延々とわめいていた。そういえば「DOS/Vマン」とかいう、アリイのバチモンキャラクタープラモのような着ぐるみを着て宣伝していたこともあったな。

 「イラシャイマセ」コンビニ、居酒屋の呼び込み、マハポーシャ、これらの共通点は、「声をかける」というコミュニケーションの手段を過激に使いつつ、実はコミュニケーションをとろうとしていないという点だ。「自分は声を上げている」という行為に自己満足しているだけなのである。それが証拠に正常なコミュニケーションは、声かけの後にすぐ双方向へと移行するが、彼らのは常に一方通行なのである。それも暴力的に。

 居酒屋も「早く無駄だということに気が付かんかな」と思っていたが、一向に止める気配もない。最近は「早くつぶれないかな」と内心で呪っている私がいるのだった。


 全くの余談だが、1994年頃、隣の編集部の記者がショップブランドパソコンの記事を書くに当たって「あそこもショップだろ」とマハポーシャに取材に行ったことがあった。素晴らしき哉記者魂。
 なんでも「うちのパソコンはヴィシヌ回路(記憶は定かではないがそんな名前だった)が付いているので速いのです」とかなんとか説明されたそうな。なんだそりゃ。

2005.01.08

理想のメーラーを求めてさまよう

 1月7日は今年初の取材、八重洲の某社で2時間みっちりと話を聞く。

 昨日の話題と関連して自分のメーラー遍歴を思い出してみる。

 最初はフリーウエアの「Eudora」だった。
 思い出せばインターネットというものに初めて触れたのが1994年の秋(職場で新しいもの好きの某編集長がIIJと契約し、デモンストレーションを行ったのだった。9600bpsのモデムで北海道大学のホームページにアクセスしたのを覚えている。確かリンドウの花の画像が張ってあったのではなかったかな)、1994年の暮れに、ベッコアメの尾崎社長に取材に行ってその場で入会し、本格的にインターネットを使い出した。だからEudoraは1994年暮れから使い出したはずだ。
 Eudoraは今考えても傑作だった。当時のメール環境では何一つ過不足ない機能を持ち、しかも堅牢で信頼できた。その後2年以上、私はEudoraで何も不足を感じなかった。

 さすがにメールが増えて、Eudoraの画面インタフェースではつらくなった1997年の夏、一時期マイクロソフトが配布していた「Internet Mail3.0」に乗り換えた。現在標準的になっている3分割画面を取り入れた最初期のメーラーで動作も安定していた。忘れている人も多いだろうが、マイクロソフトはかつてマック用に優れたソフトをいくつもリリースしていた。「Word」も「Excel」も、元をただせばマック用に開発されたもので、ともに現在からは考えられないほど優秀でよくできたソフトだっだ。
 「Internet Mail3.0」はなかなか使いやすかったのだが、どうも時々妙な動作をした。どんな動作だったかはもはや記憶にないのだが、「これ、マイクロソフトに文句を言っても『仕様です』で終わりだろうなあ」と考えたのは記憶している。要するにそういう「妙さ」だった。

 そこで1998年に入ってから「クラリスメール2.0」に乗り換えた。これは使い勝手もよく、動作も安定している実によいメーラーだった。その後クラリス社は事業のあらかたを売却してファイルメーカー社になってしまい、サポートがなくなってしまったが、それでも私は使い続けた。

 が、クラリスメールには2000年問題未対応という問題があった。2000年の正月、「お前のところから来たメールがきちんと日付順にソートされないぞ」という苦情を貰った私は、「ARENA」に乗り換えた。
 ARENAはあの時期のマック用メーラーの最高峰といっていいんじゃないだろうか。それほどよくできたソフトだった。特にフィルター機能が充実しており、ここにいたって初めて、私はメールの過去ログを整理するということを始めた。
 ところがARENAも開発元が活動を停止してしまい、それ以上の発展が望めなくなってしまった。2003年に入るとスパムメールが急速に増加し、無視できなくなってきた。迷惑メールのフィルタリングができないARENAで、私は条件をあれこれ工夫して迷惑メールを阻止しようとしたがなかなかうまくいかなかった。

 2003年末、私はMacOSXに乗り換えたのをきっかけに、OS付属の「Mail」に乗り換えた。ARENAのような遊び心が皆無の、無味乾燥なソフトだったが、Mailにはかなり信頼できる迷惑メールのフィルター機能が付いていた。メールの検索機能が怪しく、検索中にたびたびダウンしたが、それ以外はOS付属というおまけ的位置づけにもかかわらず予想以上に使えた。

 現在は、そのMailとThunderbirdを同時並行して使用してみている。予備機のVaioにはQMailとThunderbirdをインストールして、同じく並行運用中だ。

 私がメーラーに求めるのは、まずは安定していること、そして長期間にわたってサポートされることだ。クラリスメールやARENAのようになってしまうと、どんなによいソフトでも困ってしまう。
 ことブラウザーやメーラーのような基本的なソフトに関する限り、開発者が企業である商用ソフトや、ソースコード非開示の個人制作フリーウエア・シェアウエアではいけないのではないだろうかという気がしている。オープンソースがいいのではないか、というのが私の現在の意見である。
 昨年、Windows用でかなり人気が高かったタブブラウザー、「Sleipnir(スレイプニル)」の作者のパソコンが盗まれ、ソースコードが失われるという事件が起きた。どうやら作者は後継ブラウザの開発を始めたようだが、過去の「Sleipnir」開発の成果は戻ってこない。
 
 オープンソースのThunderbirdは、果たして私の希望をかなえてくれるだろうか。

2005.01.07

スパムメールと戦う

 パソコンのトラブルが続いているのをきっかけに、メールの運用体制を根本的に考え直そうとしている。

 なにはさておき、スパムメール対策だ。昨今、賢い迷惑業者はOutlookアドレス帳の登録内容を使ってウイルスがまき散らすメールから、アドレスを収集している。おかげで仕事専用にしてネットでは公開していなかったアドレスにもスパムがくるようになってしまった。それも海外から毎日100通以上くるのだからたまらない。

 まずプロバイダーの迷惑メール対策を利用する。いろいろ工夫したことでだいたい9割はサーバー側でブロックできるようになった。どうも@Niftyの迷惑メール対策は、おそらく誤分類でクレームが来るのを警戒してだろう、少々判定が甘い。
 思いついて楽天からのダイレクトメールを「これは迷惑メールだ」と学習させてみたが、決してスパムとは認識しようとはしなかった。Niftyと楽天には密約でもあって、フィルターにビジネス上の穴でも開けてあるのだろうか。

 もちろん楽天からのダイレクトメールは正規に解約した。買い物したけりゃこっちから行くから、うるさいメールを送ってくるんじゃないってなもんだ。楽天のダイレクトは買い物時の申し込みデフォルトが「メールを受け取る」になっているので、意識して「受け取らない」をチェックしないと次々にダイレクトメールが来るようになってしまう。これは確かeメールマーケティングでは、お行儀の悪いページ設計ということになっていたはずだ。楽天ともあろうオンラインショップのパイオニアがどうしたことか(今は直っているのかな?)。


 残りは、メーラーの迷惑メール分類機能で迎撃することにする。現在、試しにオープンソースのThunderbirdを使ってみているが、なかなか賢い。一渡りサンプルとして保存してあった300通ばかり(それでも3日分だ)のスパムを食わせて学習させると、ほぼ100%判別するようになった。これは意外に使えるメーラーかも知れない。

 ブラウザーは比較的移行が容易だが、メーラーは過去のメールログやらアドレスブックやらをファイルコンバートする必要があるので、移行は簡単ではない。
 正直、「Becky!」のようなできのよいメーラーを使っている人には乗り換えを勧めない。が、あのウイルスの温床であるOutlook系を使っている人なら、Thunderbirdに乗り換える価値があると思う。そして私のように大量のスパムに悩んでいる人も。


 トリビア:スパムは豚肉ハムの缶詰「SPAM」から。オリジナルは、「モンティ・パイソン」の「どんな料理を注文してもスパム料理が出てくるレストラン」というコント。「モンティ・パイソン」を好んだ初期ハッカーたちが迷惑メールをスパムと呼ぶようになった。コント中で「スパム、スパム」としつこく連呼するのが、迷惑メールのようだというわけだ。その背景にはスパム・イコール・まずいものの代表という一般のコンセンサスがあった(1/8、コメントを受けて書き直しました。コメントには有益なリンクも紹介されているのでご一読を)。

 なぜスパムがそんな扱いを受けるようになったかというと、第二次世界大戦中、アメリカ軍の食料として戦場に大量に送られたからだ。戦線によっては連日スパム料理ということになり、いかなアメリカ人でも「もうスパムはたくさんだあ」ということになってスパムは「まずい食い物」の代名詞となってイメージを下げてしまった。
 確か「戦争から帰ったら、まず戦争を始めた奴をぶち殺して、次はスパムの発明者をぶち殺す」という軍歌があったと記憶している。

 それでも、スパムがあっただけアメリカの兵隊は幸せだった。同じ時日本軍は「現地調達、ジンギスカン作戦!」とかやっていたのだから。

 戦後、アメリカに占領された沖縄に、大量のスパムが流れ込んだ。そんなまずいもの、あのおいしいものを食べている沖縄の人が食べるはずがない——と思いきや、極度の食糧不足の中、沖縄の人々はアメリカ兵すら忌避したスパムをあれこれ工夫して、おいしく食べられるようなレシピを開発してしまった。現在、沖縄料理にとってスパムは欠かせない食材になっている。実際チャンプルに入れるとけっこういけます。

 と、以上は記憶に基づいたトリビア。多少の間違いはご容赦のほどを。指摘があれば直します

2005.01.06

ネットの「マツリ」を目撃する

 実家に詰めて一日原稿。書いては犬をからかって遊び、また書いて食って。運動不足だ。

 昇天したPowerBookG3に代わって、父が使っていたiBookG4を使い始める。

 ネットをうろちょろしていて、年末から年始にかけて発生した騒ぎを知る。記者歴6年という人物が、自分のblogに「イラク人質事件の三人が自己責任を問われるのは、スマトラ沖地震の津波に巻き込まれた人が自己責任であるというようなものだ」と書いて、ネットのあちこちから総攻撃され、いわゆる「マツリ」状態になった(鈴木慎一さんの日記1月4日の記述から色々たどることができる)。

 そもそもの震源地となった自称記者氏の、およそメディア関係者とも思えない稚拙な対応に驚く。いくら匿名の批判コメントが殺到したからって、投稿者のIPアドレスをさらしたり、コメント欄を閉鎖するのはまずいだろう。主張の正当性以前の問題だ。

 一方で「自分もしっかりしなければ」と思う。自分もメディアで食っている以上、不用意な一言で転落する可能性は常にある。「明日は我が身」。


 もう一つ感想。「いったいいつから左翼言論や市民運動の言論は、かくも脆弱になってしまったのだろうか」。今回の自称記者氏のような人物ばかりではないと思うが、ネットで「プロ市民」「サヨ」といった言葉で軽蔑のニュアンスをもって語られてることが多いのはどうしたことか。

 ネットというメディアが本質的に抱える問題?ソ連崩壊以降の左翼勢力の弱体化?そもそも左翼言論がその程度のものだった?日本が右傾化している?

 だが考えて欲しい。

 ネット、特に匿名の世界は雰囲気で雪崩のような動きが起こる怖い世界だ。しかし、しっかりとした論拠を押さえて、まともな議論を展開していけば、「敵も多いが味方も多い」という状況には持っていけるはずだ。

 なぜそうはならないのだろうか。

2005.01.04

大人が乗ってもうれしくない新幹線の話を思い出す

 一日原稿。夕方から母を連れて湯河原の温泉へ。父があれほどやりたい放題だったのも、母あってこそ。ごくろうさまでした。

 帰路、自動車の中で母と父についてあれこれ話していて、ふっと思い出した。確か私が小学校の低学年だった時だったか、出張で新幹線や飛行機に乗れる父がうらやましくて仕方なかった。
 私は電車に乗れば先頭に飛んでいって、運転席越しに前を食い入るように見つめるタイプの子供だった。だから新幹線(もちろん当時は東海道新幹線しかない)も飛行機もあこがれであり、乗りたくて仕方なかったのだ。

 自分も乗りたいぞ、お父さん不公平だ。そういう私に父は答えた。「大人になればいくらでも乗れるさ」。続けて「でも大人になってから乗っても、全然うれしくないけどな」。

 いや、全く至言でありましたな父よ。仕事で乗る新幹線や飛行機のなんとつまらないことか。

 今やその言葉をかみしめております。

2005.01.03

アチェの情報が入りだす

 昨日の続きだ。アチェを巡る状況がネットに露出し始めた。

 テレビでも徐々にアチェの映像が入り出した。

 私がアチェに注目しているのは、自然災害に政治状況が重なった時には悲劇が起こりがちだからである。ましてネットもろくに届いていない土地となると、悲劇が起きる条件は揃いすぎている。

 ところで業務連絡です。PowerBookの機能停止に伴い、過去半月ほどのメールログが復旧できませんでした。いくつか仕事がらみのメール、しかもメールアドレスごと復旧不可能なケースがあり、困っています。まことに申し訳ないのですが、12月半ば以降に私に仕事関係のメールをした方は、再送していただければ大変ありがたく思います。

兄弟そろってテレビでだべる

 父のいない初めての正月は、母に兄弟3人、義弟に甥姪で過ごす。主が欠けた寂しい正月はせめてうまいものを、と秘蔵のシャンペンをぽんぽん開け、ロシアで買ってきたキャビアを開け、60%ウォッカを飲んだくれる。ウラー。

 2日は、父の遺品整理とパソコンの復旧など。弟が初釣りに出て、大量にカサゴを釣ってきた。夕食はカサゴのブイヤベース。最高。寒の魚はうまいうまい。

 食後、弟とああでもないこうでもないとテレビでだべる。「注文の多いにわか評論家兄弟」のテレビ鑑賞だ。


 NHK第1大自然スペシャル
「南米マラカイボ湖 謎の閃(せん)光を追う」

 私「こんなに引っ張る内容か?要はうんと遠方の雲から雲への雷だろうが。俺、音のしない雲の閃光は、シャトルの打ち上げ取材で行ったフロリダで見たぞ」


 NHKスペシャル「新シルクロード」 第1集「楼蘭 四千年の眠り

 弟「なんかやらせっぽいカット多くない?。この砂に埋もれた仮面ってやらせじゃないの?」
 私「まあドキュメンタリーとやらせというのは…(以下蘊蓄だが略)」

 番組終了後

 弟「ヨーヨーマのきれいな音楽と再現シーンとで、なんとなく雰囲気でみせちゃってんじゃない。撮影に時間をかけた割に薄味。ディスカバリーチャンネルの番組のほうが全然良いよ」
 私「金はかかっているぞ。デジタルハイビジョンで金かけた番組を作って世界中に売るコンテンツホルダーになるというのがNHKの戦略だからな。なんせ年間予算6600億円超だ」
 弟「ええーっ、NHKってそんなに金使っているの。そのうちの一部は視聴料…」
 私「何言ってんだよ。全部視聴料だって」
 弟「ボクも払いたくなくなったなあ。こんな番組作ってるんじゃ金の無駄だ」
 私「視聴料というのはだな…(以下視聴料の性格と不払いのやり方についての蘊蓄だが略)」

 テレビ画面では「義経」だの「大化改新」だのNHKドラマの紹介が延々と流れている。
 私「NHKは広告は入らないことになっているが、こうやって自分とこの広告は堂々とやっておるわけだな」

 NHK総合では続けて松平アナが大仰なイントネーションでかつての「シルクロード」の再放送を司会しはじめた。今聴くと喜多郎のテーマミュージックはひどく単調でみすぼらしい。
 弟「テクノロジーの勝利だねえ。このシンセサイザーの音って、今なら携帯電話組み込みの音楽チップレベルだよね」

 弟はさっさと寝る。私のみNHK教育に回して「シャクルトン後編」を見る。お涙頂戴がほとんど無い、硬派な演出を見てぼろぼろ泣く。事実のみを語る簡潔なラストのなんと素晴らしいことか。今のNHKに何が欠けているかはっきり分かる。

 第一次世界大戦中に南極大陸横断に挑み、船が遭難したシャクルトン隊の顛末についてはさまざまな本(amazon)が出ている。この壮絶な冒険を知らない方は是非読んで欲しい。読んで損はしないことを保証する。
 お薦めはアーネスト・シャクルトン自身の手記「エンデュアランス号漂流記」(amazonbk1)である。
 南極点到達に成功したアムンゼンの手記「南極点征服」(amazonbk1)と併読するともっと面白いだろう。

 以下はメモ。

  • スマトラ沖地震では、タイのリゾート地やスリランカもさりながら、インドネシアのアチェがひどいことになっているらしい。アチェはインドネシアからの独立運動が盛んで、激しい弾圧と虐殺のあったところだ。地下資源が豊富なので、インドネシア政府としては住民の意向がどうであれ自国領として確保しておきたい地域なのである。  mixiでは、インドネシア政府が今回の地震と津波を奇貨として、わざと救援を送らずに独立運動の弱体化を狙っているなどという話も流れている。ただし未確認情報。ネットにおいてこの手の情報は取り扱い注意だ。

  • とはいえ、確かにアチェからの被害報道は極度に少ない。情報伝達手段の乏しさを差し引いても異様だ。インドネシアは極度の官僚統制国家だ。もしかしたら独立運動とも絡んでメディア関係者がアチェの被害現場に赴くのを制限しているのかも知れない。

  • そのアチェに、鈴木宗男と一歩も引かずにやりあったことで名を上げた国際援助NGOピースウインズジャパンが、救援隊を送っている。同ホームページがどの程度アチェの現状を伝えてくれるか、要注目だと思う。

追記:CNNがかろうじて、アチェにおける米軍の救援活動開始を伝えていた。「なぜに米軍はアチェへ?」と考えると、色々意味深ではある。

追記その2(1/3朝)本日になって各種メディアにアチェの現状が出てきた。

2005.01.01

2005年始動

 2005年が始まった。

 宇宙開発という分野は、かつて、整然とした未来年表の元に進んでいた時期があった。そこには宇宙開発委員会の長期ビジョン懇談会の構想があり、宇宙開発政策大綱があり、年度ごとの宇宙開発計画があり、と、一見美しく矛盾のない政策システムが動いていた。
 取材を始めた1988年頃、「1998年打ち上げ予定の地球観測衛星」の予想図を見て、くらくらしたものだ。10年も未来のことを我が事として想像できなかったのだ(ちなみにくらくらきた未来の衛星は、後に「みどり2」として2002年に打ち上げられ、2003年秋に無惨な最後を迎えた)。

 それがついに2005年だ。自分は応分に歳を取り、スプートニクからアポロ11号よりも長い時間が経ち、その間年間1000億円以上の予算=税金を投入して、日本国は宇宙分野で何を得たのだろうか。

 せめて前に進んだという実感を持って、この年を終わりたいではないか。行動しよう。

 などと年頭から力んでばかりでも仕方ないので、ぐだぐだと身辺雑記を。

 29日は高校のクラス会。なぜか2年生の時のクラス会が25年に渡って続いているというもので、つまり高校2年の1年間は、それほどまでに楽しかったのだ。当時は若く独身だった担任の先生も、今は3人の子供を育て上げた校長先生となり、「あと1年3ヶ月で定年だあ」と叫んでいた。
 火付け…いやいや、「焚き火」でしたな、が、大好きな先生のために、定年後に場所を確保して一大焚き火大会をやるという話もあるので、そろそろ話でも動かそうか。先生は巨大焚き火をしたい一心で某新興宗教に入信しかけたという逸話の持ち主なので、教え子が組織する焚き火もそれ相応の規模にしないと。

 30日は、コミケ2日目。おかちんさんの「ILMA Express」で売り子。午前8時集合の予定が寝坊して遅刻し、ディーラー入場のタイムリミットである午前9時ぎりぎりに、入場口でチケットをぱっと受け渡して入場。思わず頭をよぎったのは、原爆の時限装置が「007」で停止する「007ゴールドフィンガー」だった。
 一般入場なら間違っても朝からは行かないであろうイベントだが、売るとなれば別。物を売るというのは原始的な楽しみがあるので、時折コミケで売り子をさせて貰っている。そっち方面に広がった知り合いと会い、それぞれの新刊を読む楽しみもあるし、仕事的な興味ではオタク状況の定点観測という意味合いもある。会う人ごとに「原稿大丈夫ですか」「ここにいていいんですか」と言われるのは、まあ自業自得というもの。
 午前10時の会場からしばらくの間、西館には人が流れて来なかった。「今年は出足がゆっくりだなあ」などと話しているうちに昼過ぎからどんどんお客さんがやってくる。やって来た人が「東館はすごいことになってますよ」という。一気に入場したお客さんが、東館に配置された18禁系サークルに引っかかって大渋滞を引き起こしたらしい。東館がうまい具合に人の流れに対してダンパーとして作用したようで、メカ・ミリの配置された西館は大混雑になることなく、ゆったりと楽しむことができた。
 終了後、メカ・ミリ系サークルの飲み会に顔を出す。ついにアバルトを買ってしまった沖兄弟などから、ここに書けないような話を聞く。沖兄弟は互いに「今日は自分でしゃべらずに他人の話を聞くはずだろ」と牽制しつつしゃべることしゃべること。最後に「松浦さんと『ハウルの動く城』で語り合うはずだったのに」、いや、沖さんズも私もまだ「ハウル」を観ていないのです。

 31日はPowerBook臨終に振り回される。雪の中を実家に行くと、妹が甥と姪を連れて帰ってきていた。甥に踏んづけられ、姪に鼻水をつけられ、彼らのおもちゃに徹して過ごす。夜は、年末にオーロラ見物にフィンランドまで行ったKI-CHIさんから貰ったアルコール分60%のウォッカをなめつつ、アニマックスで「攻殻機動隊SAC」などを。面白いけれど、気が付くとイシカワが個人情報までがしがしハッキングしている社会というのは、少なくとも私は住みたくない。

 新年、目を覚ますと犬共が私の布団に乗って丸まっていた。姪がぎゃーと泣く声が聞こえる。

 2005年の原稿書きと、資料調べが始まる。数日すれば取材が始まる予定だ。

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