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2005.06.20

よく噛んで食べる

 味覚についてあれこれ書いていたら、こんな記事を見つけた。サラリーマン時代の後輩、加藤小也香さんのblog「小也香の一日一膳」から。

噛めよ、噛めよ、噛め噛めよ

 今日は、Sさんがおっしゃった「皆、栄養がうんぬん、食育がどうのと、色々言い出しているけれど、本当はもっと基本的なことを考えなくちゃいけない」というお話が印象的でした。何かというと、それは「よく噛んで食べること」。

 食べ物をきちんと咀嚼できているか否かで、同じものを食べても体内での吸収率は格段に違うのだそうです。だから、医食同源だの予防医学だのと言い、「何を食べるか」にこだわるのも大切だけれど、それを「きちんと食べる」ことにも注力しなくちゃいけない、というのです。

 何を食べるにせよ、食べ方を考えろという話。この視点は私にはなかった。そうか、良く噛めか。

 ただ、我田引水してしまうならば、不味い食事ほどかまずに飲み込むようにしてがつがつと食べてしまうものだ。味に満足が得られないので、満腹感に満足を求めるためだ。おいしい食事だと、味わおうとする意識が働くのでおのずとゆっくりと噛みしめる食事となる。

 もう一つ、一人でする食事はがつがつごっくんになりやすい。食事は家族と一緒にするべきものなのだ。

 気をつけよう。独り者はどうあっても孤食から逃れられない。意識して噛むようにしなければな…

 一人で咀嚼回数を数えつつ食べるというのは、それはそれでむなしいものではあるが。

 そういえば、ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画「スローターハウス5」で、主人公のビリーがドイツの捕虜収容所に放り込まれ、やっとスープにありつけると思ったら、元からいたイギリス軍の将校に捕虜生活を生き抜く方法をえんえんと講釈されて、空腹のあまりスープの中に顔を突っ込んで気絶してしまうシーンがあったな。
 イギリス軍将校は、「良く噛んで食え」といっていたろうか。言っていたような気もするが、記憶は定かではない。

 以下は余談

 amazonで検索してみたが、「スローターハウス5」のDVDはまだ出ていなかった。レンタルには出ているようなので、機会があったら是非見て欲しい。とてもいい映画だ。

 原作はカート・ヴォネガット・ジュニア。1945年に連合軍が行ったドレスデン空襲を主題に、自分の人生の時間をいったりきたりする男の話だ。音楽はあの孤高のピアニスト、グレン・グールドが担当している。
 映画冒頭、所属部隊からはぐれて雪の西部戦線をさまようビリーの映像に、バッハのピアノ協奏曲が被さる部分や、捕虜達がドレスデンの街を引き回されるシーンに鳴るブランデンブルグ協奏曲など、映像と音楽の結合が素晴らしい。

 もっともグールドはこの映画は「ふざけすぎている」と気に入らなかったそうだ。冒頭の大笑いシーン「デトロイトタイガースの三塁手の名前を言え!アメリカ人なら分かるはずだ」、とか、なにかというと「私やせるわ」と言いつつ時代が下るほどに太っていくビリーの奥さんの扱い(実に笑うしかないひどい死に方をするのである)が嫌だったらしい。

 でも、それがジョージ・ロイ・ヒルの持ち味というものだろう。後で「華麗なるヒコーキ野郎」「ガープの世界」でも、彼は「笑うしかない悲劇」「泣くしかない喜劇」を描いている。

 ああ、また見たくなってしまったよ。

2005.06.17

味覚を鍛えるということ

 どうも風邪が抜けなくてしばらく更新をさぼっていました。

 団藤保晴さんの「ブログ時評」に取り上げられたことで、アクセスが集まり、当該記事の「代用ビールに怒る」に様々コメントが付いた。この問題を多くの人が、その人なりに考えるのはいいことだと思う。

 「さすらいの食い倒ラー」やまけんこと山本謙治氏が、「やまけんの出張食い倒れ日記」に、この件へ援用できる記事を書いている。

グレート山菜三昧の日々(2005年06月13日)

 記事自体は山菜についてのものなのだが、以下の記述に注目したい。

 そして、山菜には必ずえぐみや苦みがある。これも重要なポイントだ。人間がデフォルトでは美味しいと思わない味がある。それを我慢して食べ続けていると、ある時点でいきなり「美味しい」と感じる瞬間が来る。こうやって味覚のダイナミックレンジが拡がっていくのだと思う。幼い頃から、糖分や油分といった、人間が学習しないでも美味しいと思ってしまうものだけで育てられてしまうと、こうした味覚のダイナミックレンジは拡がっていかないはずだ。そういう意味でも、山菜を食べるということは重要な文化だと思う。子供に山菜を食べさせるのは必須だと思うな。

 美味を感じ取る味覚は、先天的に与えられるものではなく、食文化の中で獲得するものであるという主張だ。おいしいものを食べていく過程で味覚のダイナミックレンジが広がる——おいしいと感じる感覚は、後天的に獲得するものというわけである。

 「代用ビール」を巡る状況も、この考えで理解することができるのではないか。本物を飲まなくては、本物を本物として味わう感覚は身に付かないのだ。

 違いの分かる味覚は文化である。文化を引き継ぎ損ねれば、美味は美味として認識されなくなる。そこに「安ければいい」「酔えるならなんでもいい」という考えが出てくる素地がある。

 同じ事は芸術にも言えるだろう。古美術に通ずるには古美術を観ろという。絵画を楽しむためには、様々な絵画を観ることが必要だ。様々な音楽を楽しむには、多種多様な音楽を聴いて耳を作る必要がある。

 意識して自分の感覚を鍛えましょう。そう私は思う。それが味覚であれ視覚であれ聴覚であれ、様々な情報を楽しむことができれば、それだけ人生は豊かになるのだから。

2005.06.02

宣伝:6月25日、野田司令がロフトプラスワンに出演します

 6月25日に「野田司令」こと野田篤司さんが、ロフトプラスワンに出演します。

「教えて!野田司令」「それはだねえ」

 八谷和彦さんと、藤谷文子さんという豪華な組み合わせが、野田さんから宇宙の常識・非常識・反常識を聞き出します。

■「なぞなぞ宇宙講座」
トンデモSF設定? 「アルマゲドン」と「妖星ゴラス」はどっちが効率的に隕石衝突を免れる?等々。「これってどこまでできるの?」という疑問をネタに野田司令にざっくばらんに訊く、宇宙や科学のこと。
【出演】野田篤司(宇宙機エンジニア)
【聞き手】藤谷文子(作家/女優)、八谷和彦(メディア・アーティスト)
【日程】2005年6月25日(土)
【時間】Open/18:00 Start/19:00
【値段】¥1000(飲食別)飲食代:ドリンク¥500〜
【会場】新宿ロフトプラスワン
    新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2
    03-3205-6864

  M-V打ち上げが延期になったので、私も行きます。

2005.06.01

音楽の記憶をたどる

 かなりの人が十代において音楽に惑溺した記憶を持ってあいるはずだ。私もご多分に漏れず高校の頃は音楽漬けの日々だった。しかしなぜ、日本のコンサート向け音楽だったのだろう。あの当時一世を風靡していたフォークミュージックでも、プログレ黄金時代だったロックでもなく、地味でマイナーな現代音楽だったのだろう。

 思い出してみる。

 最初は中学時代、音楽室の正面に張ってあった年表だった。バッハに始まりショスタコービッチとブリテンで終わるおなじみの年表だ。そこで私は疑問を持ったのだった。「バッハ以前に作曲家はいなかったのか」「ブリテン以降、作曲家という人種は死滅したのか」。
 まったくもって文部省、現文部科学省が子供に教える内容を規定するというのは無意味で有害なことだと思う。あの時疑問を持たなければ、私はバッハ以前の豊かな音楽も、同時代を生きる様々な人々の作品を聴くことはなかったろう。

 これらの疑問に最初に答えてくれたのは、CBSソニーの企画レコード「これがバロックだ」だった。 どこかでバロック音楽という言葉を仕入れた私が、父に「バロックを聴きたい」とせがんだのだ。ちなみに、およそ音楽の素養に欠けた父がバロックという言葉に正しく反応できたのは、当時の父が東京某所にあった「ドン・ガバチョ」という「バロック音楽で飲めるバー」に通っていたためだ。なんで父はそんなところに通っていたのかは、知らない。

 「これがバロックだ」には作曲家の諸井誠による簡明にして要を得たライナーノートが付いており、私はそれを頼りに知識を増やしていった。特にガブリエリの一連のカンツォンと、グレン・グールドの弾くバードやギボンズの作品は中学生の私を魅了した。今でもグールドの遺した録音で一番のお気に入りは、「バード&ギボンズ作品集」だ。

 中学3年になって、私は図書室に音楽之友社の「世界名曲全集」があるのに気が付いた。現行版ではなく灰色の装丁の一つ前の全集だ。当然のごとく古典派もロマン派もパスし、私はバッハ以前と現代の部分を読みふけった。特に補遺の巻は何度も読んだ。そこには奇怪な楽譜と共に、シュトックハウゼン、ケージ、ペンデレツキといった作曲家の作品が紹介されていた。それらの楽譜は、3/4拍子と6/8拍子の区別もつかず、フラットが2つ以上ある調性記号を理解できずに放り出した私にとって、とてつもない自由さを実現しているように感じられた。拍子も調性記号もいらないなんてなんて素晴らしい!
 奇妙な楽譜は図形楽譜と呼ばれるものだった。それらは、純粋に形のおもしろさで私を魅了した。

 中学3年の夏近く、音楽の授業で先生が、武川寛海の作曲家のエピソードを集めた本を推薦した。その週末、私や友人達と茅ヶ崎駅前の本屋に向かった。先生推薦の本はあった。が、その横に吉田秀和の「現代音楽を語る」があった。

 現代音楽?ゲンダイオンガク!

 この言葉はあまりに魅力的であり、私は武川寛海の本を買わずに、吉田秀和の本を買った。この本で、私は武満徹という名前を知った。
 その夏、私は吉田秀和の「現代音楽を語る」を何度も読み返し、未だ聴くことができない「テクスチュアズ」「地平線のドーリア」といった曲の音を想像して過ごした。
 同じ頃、小学生時代からの天文学への興味に関係して、私はホルストの「惑星」を知り、レコードを手に入れた。東芝・セラフィムの廉価版でストコフスキーの演奏だった。その流れで、私は同じストコフスキーが演奏したシェーンベルク「浄夜」バルトーク「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」のレコードを買った。が、両曲とも「惑星」ほどわかりやすくはなかった。

 面白いのは、「浄夜」も「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」もよく分からなかったのに、ゲンダイオンガクが理解しがたいものでないかとは全然思わなかったということだ。要するに当時の私にとって「理解できない」は「いずれ理解できるだろう」と同じ意味だった。それは解くべきパズルを与えられたパズル愛好家のような状態だったのではないだろうか。
 大抵の人にとって音楽が理解できないというのは苦痛以外の何者でもない。が、私にとって理解できない現代音楽はすでに楽しみだったのである。

 最初の転機は中学3年の1月にやってきた。NHK-FMでバルトークの第1ピアノ協奏曲が放送されたのだ。これはまったくもって衝撃だった。こんな音楽を私は聴いたことがなかった。私はバルトークについて調べ始めた。
 NHK-FMに「現代の音楽」という番組があるのに気が付いたのも同じ頃だったと思う。NHKの名物プロデューサーである故上浪渡氏が独特の声で「こんばんわ、現代の音楽の時間です」と登場する曲を紹介していた頃だ。

 さあ、黄金時代が始まった。私は毎週必死になって「現代の音楽」をエアチェックし、次の週まで繰り返し聴いた。最初は何がなんだか分からなかった。が、あるところからどんな音楽を聴いても、「理解できる」という実感が得られるようになった。

 それは同時に音楽趣味において、友人達から孤立するということでもあった。小学校から中学校にかけて、女の子達の興味は新御三家の郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹から、フォークグループへと移っていっていた。ベイ・シティ・ローラーズは男女を問わず結構な人気があった。早熟な男子はピンク・フロイドやキング・クリムゾンのようなプログレロックにはまっていたし、男の子の人気の中心はスージー・クワトロだったりした。

 そんな中で、せっせと「現代の音楽」を聴くというのは、自ら自分に「変な奴」というレッテルを貼ることでもあった。

 当時、第二次ビートルズブームがあって、現代音楽とは別に私も「アビーロード」や「サージェントペパーズ」を聴いていたのだが、それはまた別の話である。

 続く——ということはありません。ここから後は、まだまだ「思い出したくない若気の至り」に属するので。

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