Web検索


Twitter

ネットで読める松浦の記事

My Photo

« August 2005 | Main | October 2005 »

2005.09.30

のまねこ騒ぎ、決着の報を聞く

 本日、たまたま外苑前のエイベックス本社前を通ったところ、右翼の宣伝カーがなにかをがなっていた。しきりに現社長を糾弾しているようだ。
 おや、のまねこ絡みだろうか。2ちゃんねらーどころか、インターネット・ユーザー全体を敵に回そうかというような同社の拙い対応は、ついに右翼まで引っ張り出してしまったか。そう考えつつ帰宅すると、エイベックスがのまねこの商標登録を取り消すという報道が出ていた。当たり前の結果といえるだろう。

 それでも、今回の騒ぎでネットには同社の看板である浜崎あゆみとマドンナの類似を指摘したページができて、それなりのページビューを集めているわけで、エイベックスという会社がネットユーザーの間で「何をするかわからない行儀悪い会社」として認知されたのは間違いないだろう。

 現役記者生活の最後の頃、1999年始めだったろうか、エイベックスを取材したことがある。当時、同社は音楽分野で快進撃を続けており、取材に応じた依田巽社長は素晴らしく勢いが良かった。ちなみに依田氏はあまりに収益優先の姿勢を嫌われ、後にお家騒動で追い出されることになる。

 実のところ、そのときの取材は、映像コンテンツ業界を追っていた後輩記者に付いていっただけだった、このため話の内容はさほど覚えてない。ただインタビューの最後のほうで依田社長は、「これからはアニメも力を注ぎます」と言ったのははっきりと覚えている。「アニメのキャラクターは出演料が要りません。高収益が見込めるビジネスです」。

 その、あまりにビジネス優先の姿勢に少々鼻白んだが、それでも今後の展開を聞いてみた。依田社長からは「これから強力にプッシュしていきます」という2つの具体的作品名が出てきた。

 すなわち「OH! スーパーミルクチャン」「トラブルチョコレート」

 後で作品を見て、私が「エイベックスは映像作品に出ていかないほうがいいな」と考えたのは言うまでもない。

 その後も同社は「サイボーグ009」に出資したりしていたが、どうもぴんとこなかったという印象だ。今回の騒ぎも、私から見ると「やはり映像でミソつけたか」というところである。


#10月1日追記
 どうも「決着」というのは間違いのようだ。コメント欄にもあるように、エイベックスが撤回したのは「のまねこ」という名称の全く別のグラフィックの申請で、実際ののまねこのグラフィックスは「米酒」という名称で申請されているという。もしそうなら、かなり姑息な手段で収束を図ったということになる。
 その他、松浦真在人現エイベックス社長が、mixiで肖像写真を使ったmixiユーザーに「訴える」とメッセージを送ったり、ますます事態は混沌としているようだ。

2005.09.29

「9.11 生死を分けた102分」を読む

 大阪への行き帰りで、「9.11 生死を分けた102分」(ジム・ドワイヤー/ケヴィン・フリン著 三川基好訳 文藝春秋)を読んだ。2001年9月11日の同時多発テロ、その中でも、ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突入してから2棟のビルが崩壊するまでを、生き延びることができた当事者や犠牲者からの最後の電話を受けた家族からの取材、消防、警察の無線交信記録などから再現したドキュメンタリーだ。


 とてつもない力作だ。おそらくは事故直後から取材を始めたのではないだろうか、それでも刊行までに3年(原著は2004年12月刊行)がかかっている。物書きとしては、まず著者達の執念と体力に感嘆する。自分もこんな仕事をやり遂げる力を持たないと。
 本書は莫大な証言と記録を再構成し、衝突からビル崩壊までの102分間をそれこそ一分ごとに追っていく。その作業が明らかにするのは、主に三点。1)事故の被害者達の生死は驚くほど偶然に左右されたこと、2)救出のためにできたことはいくらでもあったのに実際にはなされなかったこと、3)そして従来言われていた様な「消防隊員の献身的活動」ではなく、事故に遭遇した一部民間人のボランティア的活動によって多くの生命が救われたこと——である。


 まさに旅客機が衝突した階にいたのに、衝突の5分後にはロビーに降りてビルから逃げ出していた者がいる。一方で、この日、いつもは来るはずがない世界貿易センタービルの高層階にたまたま来ていた者がいる。2番目に旅客機が衝突した南タワーでは、いったん地上に避難したものの、危険無しと考えて自分のオフィスに戻り、旅客機衝突に遭遇してしまった者もいる。「こういう時、自分は的確な判断を下せるだろうか。今日と同じ明日があるという錯覚から逃げ出せず、危地にどっかりと座り込んでしまうことはないだろうか」と考えずにはおられない。

 事態が進行するにつれて露わになっていくのは、警察、消防署、ビルを管理する港湾公社の非常時への準備の悪さ、そして連携の悪さだ。無線機はリピーターの整備が不十分だったので建物の中では使えなかった。警察のヘリは上層階の阿鼻叫喚の状況を見ていたが、それは消防隊員には伝わらなかった。

 その中、もっとも活躍したのは事故に遭遇した何人かの民間人だった。特にフランク・ディマティーニ、パブロ・オーティズ、カーロス・ダコスタ、ピート・ネグロンという4人の名前は本書を通じて永遠に記憶されるべきだろう。港湾公社に勤務していた彼ら4人は、バールで壁を破り、エレベーターのドアをこじあけ、人々を誘導した。そしてより多くの人々を救わんとビルを登って行き、崩壊に巻き込まれて命を失ったのだ。

 できるだけ多くの人に読んでもらいたい一冊だ。


 世界貿易センタービルの跡地に、アメリカは「フリーダムタワー」と命名したビルを建設している。より強固な守りを固めた超高層ビルだ。その下層階は窓がない構造となった。

 が、アメリカの土木工学の大家で、一般向けの技術解説でも有名なヘンリー・ペトロスキーは、事故直後のインタビューで「摩天楼の時代は終わった」とコメントしている。「かりに同じ型のビルを建てようにも、あのような攻撃に対処するためには壁の強度をより強くしなければならない。そのためには窓無しの壁にするか、ナノ・テクノロジーの成果を取り込んだ新しい材料を開発しなければならない。だが窓なしの摩天楼にメリットはないし、また新材料の開発はおいそれとできない。くわえて、通信ネットワークが発達した現代においては、オフィスを小さい空間に詰め込む必要はない」(「ゼムクリップから技術の世界が見える」後書きから)。

 私には、アメリカが取った再建という方向よりも、ペトロスキーの示した未来のほうが正しいと思える。コミュニケーション手法の革新を通じて、「そもそも一ヵ所に人が集まらない」社会を実現していくほうが、テロリズム対策として有効だし抜本的なのではないだろうか。テロリストが分散するなら、社会システムもインターネットのノードのように分散すべきではと思うのである。


 ペトロスキー1996年の著書。様々な道具の来歴を通じて技術を語るというわりと軽めの本だ。最終章に世界貿易センタービルの地下駐車場爆破が取り上げられており、後書きに翻訳者によって上記のペトロスキーのコメントが掲載されている。






 そしてもう一冊。完全に分散化された社会はどのようなものかを追究したSF。著者の林譲治さんは架空戦記においても一貫して人間組織のありようをテーマにしてきた。本書では完全に分散化された宇宙開発のための組織AADDと、既存の縦割りの構造を残した地球政府との抗争を描いている。この秋には続編が出るそうだ。

2005.09.28

熱を出す

 大阪行きやらなんやらで、少々無理がかかったのだろう。熱を出してしまった。

 蒲柳の質というほどではないが、私がおせじにも頑丈とはいえない。年に1回から2回は風邪で熱を出す。調子を崩しやすいのだ。

 熱を出すと、必ず水とガラスの夢を見る。何億年にも渡る造山運動を時間を縮めて見てみたり、一面ガラスの柱の中を飛んでみたり、自分が出た高校の体育館が水につかるのを呆然と眺めていたり、宮沢賢治の「貝の火」を様々な視点で体験したり、支離滅裂、まあ悪夢と言っていいだろう。

 同じ透明でありながら水は流れ、ガラスは塊だ。一方で水は温度を下げれば氷となり、ガラスは温度を上げれば融ける。どうもそのようなことが、私の中で全く異なるこれら2つの物質を結びつけているらしい。
 よくよく記憶を探っていくと、その根底には子供の頃、風邪を引くと水飴を食べさせて貰ったというような体験が眠っていたりする。水飴は水でもなくガラスでもないが、透明だ。
 透明というキーワードに多様な物性がまとわりつき、私の悪夢が完成する。

 なかなか熱が下がらないので病院に行く。とりあずは安静にして、一刻も早い回復を図ろう。

2005.09.27

ペーパークラフトを見て数学的直感を考える

 ちょっと体調が悪いので手短に。



papercraft

 大阪の海遊館で開催されていた「SHARK&RAYでアートしよう!」という展示に出てきた恐竜(こいつはなんという名前だっけ。確か頭蓋骨が思い切り分厚い奴だ)のペーパークラフトだ。秋山美歩さんという作家の方が作ったもので、どれもこれペーパークラフトとは思えないぐらい素晴らしいできばえだった。

 気になったのは、展示にあった秋山さんのプロフィールに「嫌いなもの:数学」とあったことだ。

 これほど精緻な3次元のペーパークラフトを作れる人ならば、2次元と3次元との間を変換する卓越した数学的直感を持っているはず。それが「数学が嫌い」とはどういうことなのだろうか。学校教育が悪かったのか?

 私の知る限り、理系学問はどれも大いなる直感を必要とする。勘の悪い者は専門家になれないといってもいいほどだ。特に数学は、決して理詰めだけの学問ではない。理詰めは証明を書き下す最後の瞬間に必要となるのであって、それ以前の広大な領域は直感が物言う。

 このような優れた人に、「数学は嫌い」と言わせてしまうのは、大変に惜しいことだと思うのである。

2005.09.26

大阪を見物する

takokurage

 原稿が押している。少しでも書き進まねばならぬ。しかしここんところ休みなしだぞ。こんな生活でいいのか、後ろめたさを振り切って、1日大阪見物することにする。

 本日は他のメンバーと別れて単独行動、ジュンク堂書店にて時間をつぶした後、ビジネス街の昼休み、昨日の先輩と昼食を食いがてら、色々と話す。
 その足で、大阪港にある水族館「海遊館」へ向かう。以前から行きたかったのだけれども、なかなかチャンスがなかった。
 地下鉄の大阪港駅から歩いて数分、青と赤に塗り分けられた特徴的な建物が見えてくる。入場料は2000円、ちょっと高いぞ。

 と思ったのがあさはかだった。ここは入場料分以上の価値がある。縦に深い巨大な水槽をいくつも作り込み、その間を上から下へ螺旋状に見学通路を設定してある。魚類のみならず、ラッコやペンギン、イルカに至るまでを水上から水底に至るまで見せてしまおうという仕組みだ。

 これが素晴らしい。様々な水深で実際に泳いでいる生き物を見ることができる。マンタがいる、ジンベエサメがいる、マンボウもいる。すっかり夢中になってしまった。

 公立学校のお休みでもあったのだろうか。子供がずいぶんと多かった。どの子も走り回りはしゃぎ回り、興奮状態だ。若いカップルも多い。これまた興奮状態。マンタが悠々とガラスをかすめるたびに、きゃあきゃあ声を上げている。
 おじいちゃんおばあちゃんも大興奮だ。「あー、あれ、あれ」「うわあ、すごいねー」と声を上げている。

 順路を一番下まで降りてくると、そこは「日本海溝」と命名された水槽。薄暗い水槽の中で多数のカニがうっそうとはさみを振り回している。さらに進めばクラゲの展示。様々なクラゲがライトアップ水槽の中で光る。

 カニやクラゲを見るといつも、「こいつらが知性を持っていたら、どんな身体感覚で世界をとらえるのだろうか」と思ってしまう。それはよほど人間の世界認識とは異なるものとなるだろう。
 いつか我々は宇宙の彼方で異なる進化の過程を経た生命と出会うだろう(私は楽観的だ)。そしてその中には知性体も含まれているはずだ(これまた楽観的である)。
 我々はどんな知性と出会うのか。いずれにせよ先入観だけは持ってはいけないな、と思うのだ。

 ちょっと時間があったので、小川一水さんの「登っちゃいました」発言を思い出し、通天閣へ行くことにする。ポートライナー経由で昨日と同じく地下鉄の恵比須町へ。
 初めて通天閣というものに登る。大阪の街並みが見事に一望できる。高さ91mということだが、ずっと高いような気がする。ビリケンさんは、残念ながら東京の物産展に出張中で、なぜか代わりに渋谷のハチ公が鎮座していた。
 東の遠くにけぶる生駒の山々を見ていると、急に涙が出てくる。小松左京「果てしなき流れの果てに」を思い出したのだ。
 数奇な時空の冒険を経て、記憶を失い、年老いた主人公の野々村(正確には野々村だけではないのだが、かなり複雑な経緯は読んで貰うしかない)は、これまた老婆となった恋人佐世子のところに戻ってくる。かつての恋人すら認識できぬ彼を、佐世子は優しく迎え入れる。
 確かラストは生駒山系を眺めつつだったのではなかったのかな。老野々村が佐世子に向かって「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」と語り始めるのではなかったか。
 なんだろうね、そのラストと、眼下に広がる大阪の街並みとが妙にシンクロして、センチメンタルな気分になってしまった。

 茅ヶ崎に帰り着くと、アスファルトには雨の跡が残っていた。やっと秋になったか、と感じさせる風が吹いている。

 写真は海遊館のタコクラゲ。


 小松左京さんの代表作といえば「日本沈没」ということになるだろうが最高傑作となるとこちらを推す人も多いのではないだろうか。白亜紀から始まった物語は時間も空間も超え、宇宙の歴史全体を駆けめぐる。私としては「いいから読め。絶対読め」と自信を持って薦められる一冊。

2005.09.25

大阪でライブイベントに出演する

tsuutenkaku
 25日は午後から、大阪へ。新大阪に着くとあさりさんと笹本さんから相次いで「大阪に着いたぞ」と連絡が入る。午後4時半過ぎに、会場の日本橋ジャングルに到着。サブカルチャーとオタク系グッズが渾然一体となった、東京にはない雰囲気の店の三階だった。今回の企画を担当したロフトのSさんが忙しく会場準備をしている。  すぐに小川一水さん到着。「昼前に大阪に来て、俺、通天閣に登っちゃいましたよ」。名古屋駅では小泉総理を見たそうな。

 開始まで時間があるので、少々日本橋の電気街をうろつく。フィギュアやガレージキット、同人誌のオタク系ショップが派手に店を出しているのは秋葉原と同じ。しかし、その同人誌ショップが「いらっしゃい、いらっしゃい!」と派手に呼び込みをやっている。これは東京では考えられない。
 ソースの匂いを無分別にまき散らしているキャベツ焼きの露店でちょっと腹ごしらえ。会場に戻り、ライブイベント開始。

 だいたい会場のキャパシティ一杯のお客さんの前で、4人してしゃべりまくる。

 ラスト近く、笹本さんがアメリカで買ってきたグッズのクイズ形式でお客さんに配る。ちなみに笹本さんが出した「SR-71偵察機はタイヤを何本装着しているか」に、あっさりと正解を出したのは、私の大学模型クラブの先輩です。後で挨拶したら、「そりゃ俺、1/48も1/72も作ったもんね」と笑っていた。

 来場してくれた皆様、どうもありがとうございました。

 しゃべりまくった高揚感と満足感を引きずって二次会。難波の瀟洒なお店でワインを飲みまくる。梅田に移動して朝までカラオケ。あさりさんの喉があんなに音域が広いとは思わなかった。夜も明けた頃に宿に戻って轟沈。
 Sさんはその足で、始発新幹線にて東京に戻ったらしい。本当にお疲れ様でした。

 写真は通天閣の根本。撮影したのは26日。

2005.09.24

急告;明日25日の大阪ロケットまつりは午後6時からです

 一部前売りチケットに、午後7時からと誤記されているようです。正しくは午後6時からですので、お間違えなきようご注意下さい。

 以下、案内を再掲載します。
————————————
宇宙作家クラブ PRESENTS in大阪
「ロケットまつり」
集え!ロケット野郎共よ、種子島に、鹿児島県・内之浦に——日本にはなんと2カ所もロケット打ち上げ基地がある。世界に自国内でロケット打ち上げを見ることが出来ない国のほうが多い。こんな面白いモノを見ない手はない。さあ、ロケット打ち上げを見に行こう。

【出演】あさりよしとお(漫画家)、小川一水(作家)、笹本祐一(作家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)。

場所:日本橋ジャングル 〒556-0005 大阪市浪速区日本橋5-12-4
●最寄駅 地下鉄(堺筋線) 「恵美須町駅」下車、1-B西出口を左へ50m。

日時:9月25日日曜日 Open 17:00 / Start 18:00
¥1500(ドリンク代別)

 チケットぴあ (Pコード:605-223)、ローソンチケット (Lコード:57821)、e-plus (http://eee.eplus.co.jp/) にて7/30〜発売
お問合せ:清水音泉 06-6357-3666
————————————

2005.09.23

自転車屋店主の思わぬ活躍に驚く

 本屋でこんな本を見つけてびっくりした。


 フィットネスの本だが、著者のエンゾ早川氏。なんと私が自転車を買った自転車屋の店主ではないか。

 今月の「バイシクル・クラブ」誌は、「“体幹”を意識して走りを変える!」という特集を組んでいる。そこにもこのエンゾ氏、コーチとして登場している。確かにユニークな人だとは思っていたけれども、いつのまに「エンゾ早川」などという二つ名を名乗って雑誌に単行本にと活躍するようになっていたのだろうか。

 3年前、彼の店で自転車を買おうと思ったのは、店構えに独特の面白さがあったからだった。
 店頭には、箱根を2度越える総行程170kmのコース地図を書き込んだホワイトボードが展示してあり、「このコース、私が走れるようにして見せます」と宣言している。その横にはコピーの小冊子が「ご自由にお持ち下さい」と置いてあった。内容はと言えば、「自転車で有酸素運動をしよう」「食生活を改善しよう」というもので、食生活はオリーブオイルをたっぷりとってマーガリンは食うな、と力説していた。
 面白いじゃないか。この小冊子をまとめた人物はかなり癖っぽい性格であるようだが、主張に筋は通っているように思える。
 ちょうど私は大学時代から20年近く乗ったロードバイク(昔懐かしスポルティーフという奴だ)のギアが傷んできていた。すでに自転車パーツの規格は完全に変わってしまっており、最新のパーツを入れることはできない。よし決めた。この面白そうな店で買い換えよう。

 店に入ると、背の高い、なんとはなしにジャン・レノを思わせる店主が出てきた。雰囲気は映画「グラン・ブルー」のエンゾそのものだ。彼は私に、健康の大切さと自転車がいかに健康にいいかをとうとうと説き、体格にあった大きさのフレームの自転車、そして心拍数を監視するハートレートモニターを買うことを薦めた。
 私はまずハートレートモニターを買い、彼から有酸素運動のやり方を教えて貰った。
 彼の手法は極めて単純だった。「心拍数は140まで。それ以上に上げてはいけない。ウォーミングアップに15分、クールダウンに15分。時間がなければウォーミングアップとクールダウンだけでも構わない」。後でスポーツ医学の本を調べてみると、有酸素運動に最適な心拍数の算出はもっと複雑だったが、実際に走ってみると目安としては、エンゾ氏の方法は確かに有効だった。

 その後、ハートレートモニターを使って、ある程度鍛えてから、私は自転車を買った。彼お薦めのGIOSのシクロクロスだ。使っているコンポーネントはシマノのSORA。ママチャリよりは大分高価だが、まあそんなに高い自転車ではない。

 一時は毎日40kmぐらい走っていたのだが、昨年の夏以来調子を崩してしまい、今はあまり走っていない。そろそろ涼しくなったら、自転車を再開するか、と思っているのだが、今年はなかなか涼しくならず、自転車再開はずるずる延びている。

 で、この「フィットネスミシュラン 茅ケ崎的カラダ変身プロジェクト」だが、茅ヶ崎の書店では「野口さんに続いて茅ヶ崎からベストセラーを」というようなポップと共に店頭に山積みになっている。「今度店に行ったらサインでも貰うか」と思い購入した。
 今晩さくさくと読み終わったが、なかなか面白い。「余分な筋肉は付けるな」など、普通のフィットネスの本とはひと味違う、やや癖っぽい主張を展開している。

 興味のある方はどうぞ。

2005.09.22

甕出しの上澄み紹興酒を堪能する

 昨夕は、神保町の新世界菜館で友人達と会食。目的は、紹興酒。

 日本では紹興酒と言い習わしているが、実は餅米を紅麹で発酵させた黄酒のこと。黄酒のうち浙江省の紹興市で作られたもののみを紹興酒と呼ぶ。
 実は紹興酒、発酵に使う甕の上澄みや底によって大きく味が異なるのだという。そこらへんで買う瓶詰めは、ボトリングの際に一切合切を混ぜてしまっているのだそうだ。
 新世界菜館は紹興酒を甕で仕入れてている。つまり、甕の上澄みや底の濃い部分など、さまざま紹興酒を味わうことができるのだ。一人が、ここで上澄みの紹興酒を飲み、その味に感激したと言うので、「そんなうまいものなら俺も」「俺も」ということで会食となった次第。

 で、その上澄み部分の紹興酒の味だが、実に素晴らしかった。すっきりしたさわやかな味で、上質のブランデーを思わせる。これを普通は混ぜ合わせて出荷してしまうのか。なんともったいない。
とはいえ、食事が進むにつれて、舌のコンディションが、この淡麗な紹興酒を味わうには向かなくなるということで、出してくれるのは最初の一杯のみ。

 だから味わって飲む。舌で転がすように飲む。

 もちろん食事も最高。うまいうまい。

 その後は、甕の底のほうの紹興酒が出てくる。これがまた食事に合う。ずっと味が濃く、深く、幾分は渋みすら感じさせる味わいが、脂の勝った食事と相まって、我々を至福に誘う。

 文化だよなあ。

 生命維持のために食事に要求されるのは、栄養のみだ。だが、人間は栄養の摂取のみに満足できず、多種多様な食文化を作り出した。文明は必ず食文化を育んだ。逆に食文化のあるところには必ず高い水準の文化が存在するといってもいいだろう(その意味では、アメリカは私にとって野蛮の園である!!)。
 この紹興酒の飲み方一つをとっても、中国が尊敬すべき文化を育んできたことが身体の細胞ひとつひとつで実感できる。

 うまい酒とうまい食事で話題が弾む。素晴らしい酔い心地で、気分良く帰宅。
 

2005.09.21

巨大台風再び、で気象制御を妄想する

 この前のハリケーン「カトリーナ」に引き続き、アメリカ中部メキシコ湾岸にハリケーン「リタ」が接近しつつある。台風規模は着々と大きくなり、またしても最大級の「レベル5」に達した。

 カトリーナの被害がはっきりした時に、「巨大台風で、アメリカ京都議定書へ復帰、と妄想する」という記事を書いた。その後調べてみると、確かに「台風の大型化は地球温暖化のせいだ」という意見があるものの、一方で「台風の大型化は長期気候変動のせいであり、温暖化とは関係ない」という声もまた強いらしい。

 特に最後のニュースは「全米ハリケーンセンターの所長が議会で、ハリケーンの増加は地球温暖化が原因ではないと証言した」というもので非常に興味深い。

 環境問題が話題になり、その規制が経済に影響を及ぼす場合、かならずこういう反論が出てくる。確かフロンガスを規制するかしないかで揉めた時は、確か「オゾン層破壊は皮膚ガンの発生率に影響しない」という論文が出ていたと記憶する。

 もう少し、アメリカが積極的に考えてくれたらな、と私は思う。地球温暖化はハリケーン増加の原因ではないかも知れないが、二酸化炭素排出量を減らせば長期気候変動を積極的にコントロールでき、ハリケーン被害を減らせる——というように。前にも書いたが、二酸化炭素排出規制は、単なる環境保護ではなく、気候制御という巨大な夢につながっているのだ。

 そうこうしているうちに、「リタ」はニューオリンズに再度大雨を降らせそうな状況になってきた。ひどいことにならないよう祈るしかない。

 ところで、味噌漬け続報。

 生鮭の切り身を付けてみた。うはははは、最高だ。ご飯が進むこと進むこと。あんまり食い過ぎるとまずいぐらいだ。

 野菜を漬けるとおいしいという話も聞いたので、魚で一巡したら野菜でやってみるつもり。


9月23日追記
 林譲治さんの指摘で、小松左京「極冠作戦」が、地球温暖化進行の過程を予言的に描いているのを思い出した。

 大気中の二酸化炭素濃度上昇により海面が上昇するという指摘に対して、経済活動を優先しようとした体制側は、温暖化による海面上昇は起きないと主張する科学者をバックアップするのである。そうこうしているうちに手遅れになり、地球は温暖化して海面は上昇、広大な土地が海に飲み込まれてしまった——。

 現在アメリカで起きているのは、この短編SFとまったく同じことなのかも知れない。

 実際問題として、科学者として「正しいことを主張しろ」と言われても困惑するだけだろう。何が正しいかなどは、時間をかけて実証しなければわかりはしない。しかし、時間をかけている内に手遅れになりかねない問題だったらどうするか、どう振る舞うのが正しいのか。

 とりあえず文学の側からの問題指摘は、そろそろ40年近く前になされているわけだ。これにどう答えるべきなのだろうか。


 「極冠作戦」は現在この短編集に収録されている。収録作は以下の通り。

 ・物体O
 ・お召し
 ・終りなき負債
 ・自然の呼ぶ声
 ・彼方へ
 ・五月の晴れた日に
 ・石
 ・黴
 ・袋小路
 ・牙の時代
 ・静寂の通路
 ・極冠作戦

 どれも作者三十代から四十代の、力が充ち満ちていた時代に書かれた名作揃いだ。読むべし。

2005.09.20

NASA有人月探査復帰に対して

 本blogでは、宇宙関連であまりシビアな話題はかかないようにしているのだが、以下は例外として書く。

 9月19日、米航空宇宙局(NASA)は、2018年に有人月探査に復帰するという計画を公表した。

How We'll Get Back to the Moon

 これは2004年1月にブッシュ大統領が発表した新宇宙政策に対応してNASAが具体案をまとめたものだ。中核となるスペースシャトル後継の新しい有人宇宙船「CEV」は、カプセル型宇宙船である。

nasacev
(Photo by NASA)

 2001年、私は宇宙開発事業団(当時:現在は宇宙航空研究開発機構)の野田篤司氏が主導した日本独自の有人宇宙船構想の検討作業に参加した。検討結果は、H-IIAロケットによる打ち上げを前提としたカプセル型宇宙船としてまとめられた。我々は、そのコンセプトを「ふじ」として命名した。

「日本独自の有人宇宙船構想」(JAXA総合技術研究本部)

 当時、宇宙関係者の間では、具体的な有人宇宙活動について語ることすら「人死にが出たら世間の糾弾を受けて日本の宇宙開発が停止する」という理由からタブー視されていた。我々の最初の目標はまず、タブーを破りフランクに日本独自の有人宇宙活動について語り合える環境を作ることとなった。

fuji1

fuji2


 「ふじ」を巡る議論の中で、検討参加者は「スペースシャトルやスペースプレーンに代表される再利用型有翼宇宙船は、宇宙を飛ぶ飛行体として無駄が多い。特に完全再利用型は技術的に当面は実現できる見込みがない」という認識を共有した。

 しかし当時の日本は、「20年後にスペースプレーンを開発して有人宇宙活動へ」というような議論が幅を効かせていた。スペースシャトルは1986年のチャレンジャー事故以降、まがりなりに安全運航を続けており、その安全性を改めて疑う者はほとんどいなかった。

 我々は、様々な方面へ、「ふじ」コンセプトの説明した。併せて、将来をスペースプレーンに代表される有翼飛翔体に頼り、絞ってしまうことの危険性も説いた。しかし、2001年から2002年の段階では、耳を傾ける人はほとんどいなかった。
 内閣府や文部科学省にも説明をした。
 しかし反応は、まず「日本が有人活動をするなんてねえ」、次いで「それは失敗を嫌う日本人の国民性になじまないのではないか」「財政難の日本にそんなことをする余裕はないのではないか」「カプセル型宇宙船なんて時代遅れのことを今更やるなんて」などなど、冷たいものだった。

 私たちは人間が先入観から抜け出すことの困難さを実感した。「彼らは外圧に弱いから、アメリカから何か来ないと自分の過ちを認めないんじゃないか」「そのうち、アメリカの新宇宙船がカプセル型ということになって、俺たちは『だから言ったのに』と言わなければならなくなるんじゃないか」などと話し合った。

 私は一般へアピールする必要を感じて「われらの有人宇宙船」(裳華房)という一般向け解説書を執筆した。当時、宇宙関連の書籍はおよそ売り上げの見込みが立たないということで、一度決まった出版社が降りたりもした。出版してくれた裳華房にはひたすら感謝するしかない。
 幸い、本書はささやかながら一定の部数を販売することができた。「宇宙ものは売れない」とする当時の出版界の固定観念に、いくらかは風穴を空けることはできたかも知れない。
 本書は、仲間からのカンパを募り(みんな、どうもありがとう)、関連すると思われる政治家にも献本した。ほとんどはなしのつぶてで、一部は印刷だったり秘書代筆だったりの礼状が届いて、それで終わりだった。我々としては、献本に対する礼などどうでも良くて、秘書なり本人なりに読んで貰いたかったのだが。
 「なるほど、政治が利権とはこれか」と私は感じた。政治家には利権にありつきたい者が、様々な情報を持ち込んでいるのだ。そんなものにいちいち耳を傾けていたらやっていられない。どんな情報を送付したところで、その大部分はノイズとして自動的に処理されるのだろう。

 2003年2月、スペースシャトル「コロンビア」の悲劇的な事故が起きた。2004年1月、アメリカは新宇宙政策でスペースシャトルの2010年引退と、国際宇宙ステーション(ISS)の2010年完成と、2016年運用終了を打ち出した。
 2010年までにスペースシャトルが、ISSを当初規模で完成させることができる回数のフライトを行うことは、すでに絶望的となっている。2010年完成とは、「できたところまでで『完成』と宣言する」ということに他ならないだろう。
 その完成形態に「きぼう」が付いているかどうかはかなりあやしい。アメリカの有人宇宙技術を学ぶとして、1985年から検討が始まった宇宙ステーション日本モジュール「きぼう」は、すでに完成にしているにもかかわらず打ち上げのメドは立っていない。

 他の国に頼って学ぶという姿勢ではいけない。たとえ時間がかかっても、自分で技術を手にに入れるという姿勢でなければ——私はそう訴え続けてきた。

 世間の慣性は巨大だが、それでも事実の積み重ねは、世間に認識の変化を迫らざるを得ない。コロンビアが墜ち、中国がカプセル型宇宙船で有人飛行を行い、アメリカが君子豹変と形容できるほどの方針転換を行い、そして今、アメリカの新宇宙船がカプセル型であることが明白になった。

「だから言ったのに」

 多分私たちは、そう言っても構わない立場に立ったのだろう。

 が、その言葉のなんとむなしいことか。我が身にしみるのは何もできなかった無力さである。

 「ふじ」構想は、とりあえず有人宇宙活動に関するタブーを破ることには成功したと思う。しかしそれだけでは、有人宇宙活動に向けた動きには足りない。

 そして、現在、より切実な問題が姿を現しつつある。

 「ふじ」以降の議論では、打ち上げロケットも問題になった。「ふじ」は単純にH-IIAロケットで打ち上げることにしていたが、その後H-IIA6号機が事故を起こして、情報収集衛星2機の打ち上げに失敗した。
 有人打ち上げに最適なロケットはどのようなものかと検討していくうちに、我々にはスペースシャトルが世界中にもたらした巨大な害悪が見えてきた。その議論の一部が拙著「スペースシャトルの落日」に繋がった。そして、シャトルの毒は確実に日本のロケットにも回っていることに、私は気が付いた。

 今や、H-IIA、GX、M-Vというロケットラインナップを根本から考え直さなければならないのだ。1994年のH-II1号機打ち上げ成功で希望と共に始まったH-IIシリーズの運用が、あれから11年——それこそアポロ計画開始から11号着陸までと同等以上の時間だ——も経つのになぜもたついているのか。なぜGXはずるずると遅れ続けているのか。なぜM-Vは安くならないのか。

 すべては、技術的も組織的にも産業構造的にも、まっさらな状態で、先入観なしにもう一度日本のロケットのありようを再検討する時期に来ているというサインなのだ。「すでにLE-7があるからそれを利用して」だとか「三菱重工と石川島播磨重工の仕事の切り分けがあるから」だとか「今までの実績があるから」「来年の受注ベースは」といった思惑を一切廃して、ゼロからロケットを考え直す時期なのである。今の技術を使って、目的に最適なロケットをゼロから考え直すべきなのだ。
 いたずらに過去や、既存の官需に拘泥し、既得権益ベースで議論を進めれば、大して多くもない官需もあっさりなくなるだろう。

 ずいぶんと、とんでもないところに来た、と思う。が、私は常に希望を持っている。何度でも書こう。見上げればそこにはいつだって宇宙があるのだから。


 あらためてこの本を宣伝しておく。有人宇宙船に関する基本的な問題は一応網羅している。すでに残部がごく少なくなっており、増刷のメドは立っていない。特に、私のところに「なんでアメリカはシャトルみたいなのをやめてアポロみたいな宇宙船に戻っちゃったんでしょうか」と質問してきたマスコミ関係者は必読、と言っておこう。





 こちらの本も載せておく。スペースシャトルが何であったかについては、もっと多くの人が認識を共有する必要があると思う。その一助になれば、ということで。

2005.09.19

モトラの写真を掲載する

motora83

 古い写真が出てきたので掲載する。学生時代に私が最初に乗ったバイク、ホンダ・モトラだ。1983年7月から8月にかけて九州を一周し、屋久島まで行った時の写真。確か途中、浜松の路上で撮影した一枚である。

 「1982年、風が追い抜いていった」で書いたような経緯で買ったバイクだ。こいつで北海道も九州も走った。スーパーカブゆずりのエンジンの、カタログ上のパワーは4.5馬力。サブミッション付き3×2速リターンミッションと遠心クラッチの組み合わせだった。箱根を登るにはいい加減低いギア比の二速に落とさねばならず、しかも登り切る途中で熱だれを起こしてパワーが落ちた。
 サブミッションはほとんど役に立たなかった。もともとパワーが無かったのでローギアードにして力で押し切るようにオフロードを走ることができなかったのだ。リアサスは車高調整機能付きだったが、これも基本的には役立たずだった。そもそも積んだ荷物でシビアに走りが変わるというようなバイクではなかった。
 燃費は良かった。通常は60km/l程度で、北海道を走った時は80km/lまで伸びた。燃料タンク容量は3.5lしかなかったが、一回の給油で十分1日走ることができた。1982年当時、ガソリンはリッター150円しており、節約のためにガソリンスタンドは休日休業だった。北海道ではさらにガソリンは高く、リッター180円もしていたが、高燃費のせいで別に高いとは感じなかった。

 実際このバイクで走った旅はどれも強烈に印象に残っている。

 仙台まで一気走りした時は、いい加減走り疲れた福島付近で「仙台まで162km」という標識を見た。「お、これで仙台が射程距離に入ったぞ」と、うれしかった。
 佐賀では雷雲に追いかけられて走った。バックミラーに稲妻が光るのが映る、雨が降り始めて飛び込んだ喫茶店で、カレーを注文すると、なぜか山のようにキャベツの入った味噌汁が付いてきた。
 根室では夜、持参したラジオを聴いて過ごした。別に北方領土が近いからではないだろうが、なぜかモスクワ放送の日本語放送がよく入った。「日本の皆さん、これからかける曲は何でしょうか。局名が分かった方は答えを書いてはがきをお送り下さい。景品を進呈します」というアナウンスの次ぎに流れてきたのは「さくら、さくら」だった。思わず脱力した。何しろ冷戦まっただ中だったから、「こいつに返事を書いたら、KGBからスカウトでも来るのだろうか」と夢想した。
 知床では台風にぶつかり2日ほどウトロのユースホステルに閉じこめられた。何人かのライダーと「今日は客が少ないぞ、ラッキー」というのが口癖のヘルパーの作る飯を食って、マンガを読んで過ごした。

 屋久島では、山中のトロッコ鉄道の路線にモトラで突っ込んだ。釘かなにかでパンクし、その場はタイヤ修理剤でしのいだ。撤退することにして海岸に出てきたものの、そこで再度パンク。ずっしりと重くなったモトラを押して、工具のありそうなところを探して歩いた。通りがかった地元の小学生がずいぶんと親切に、バイク屋を探してくれた。
 バイク屋を見つけてパンクを修理後、安房(あんぼう)という町で食堂に入った。ところが店のおばさんは、メニューにあるものは材料がないから何も作れないという。これなら作れると言って出てきたのがゴーヤの炒飯だった。当時は害虫のウリミバエがまだいたので、本土へのウリ類の出荷は厳重に規制されていた。ゴーヤという苦いウリを、その時初めて食べた。
 
 今となってはこれほどまでに思い出深いバイクだが、当時の私の憧れは「クラッチのついたハイパワーバイク」だった。2年ほど乗って、私はモトラを売ってVT250Fに乗り換えた。

 また乗りたい気もするけれど、妙に人気が出て、値段が高騰しているのが気にくわない。まあ、縁があるならば、またモトラに乗ることもあるだろう。無理することはない。

2005.09.18

一周忌に満州の話を聴く

father

 本日は父の一周忌。母と兄弟で三島の菩提寺に赴く。

 来るのは数少ない親族(なにしろ父は一人っ子だっった)と、足が達者な父の友人達のみ。ささやかなものだ。それでもトラブルが発生した。9月の連休、しかも快晴で東名高速は大渋滞。まず、自動車で来た妹夫婦が遅刻、同じく自動車を孫に運転させて来た大叔母は遂に間に合わなかった。

 ともあれ本堂に読経の声は流れ、墓所には父の戒名を記した卒塔婆が一枚増えた。雲一つ無い空からは、本当に9月かといいたいほどの強い太陽が照りつける。

 次いで場所を移して昼食をとる。三島広小路の桜やで鰻重。少々ビールも入れて、父の友人達から父の子供の頃のエピソードや、家族には見せなかった面などを聴く。彼らは皆、満州国の首都だった新京(現在の長春)で育った。「満州国の首都計画」という本に詳しいが、新京は当時最先端の都市計画で作られた街だった。「下水道は当たり前で育ったから、引き上げてから『内地には下水道がない』って驚いた」というような発言も出てくる。

 彼らの通った小学校は、満州鉄道が経営していた学校で、後に日本の文部省が乗り込んできた。
「文部省がやってきて全部おかしくなったな」
「そうだったな。優秀な先生は全部辞めさせられたしな」
「内地のやり方を持ってきて根こそぎにしちまった」
 巨大な国策会社である満州鉄道を民間企業というにはちと無理があるが、官が主導権を取ろうとしてろくでもない結果になるのは古今東西よくあることらしい。

 私の祖父は、満州国の官僚を養成するための大同学院という学校の先生をしていた。
 友人のYさん曰く「小学校の時に松浦が、巨大な戦艦の図面を見せてくれてな。後で考えればそれは大和だったんだ。戦後聞いてみたら松浦は『あれは少年倶楽部についていた図面だ』って言うんだよ。嘘付けって」
「『少年倶楽部』なら新戦艦高千穂だよなあ」
「だいたい戦時中俺らは大和なんてものがあることを知らなかったよ。あんなもの作っていたなんて知ったのは戦後の話だ」
「そう。しかも見間違えるはずもない、三連砲塔の図面だったんだよ。ありゃ、きっと松浦のお父さんが、どこかで入手したものだったんだろうな」
「大同学院の先生ともなりゃ、特務機関とも付き合いがあったろうしなあ」
 これが事実なら、日本帝国海軍の防諜の実態も、中央を離れて満州まで行くと、学校の先生が大和の図面を入手できる程度だったらしい。しかもその図面を小学生だった父が持ち出していたわけだ。父のことだから、自慢をずいぶんしたんじゃないだろうか。まるでスネ夫だ(思い違いの可能性もあるようだ。追記を参照のこと)。

 昨今、「東京裁判は勝者の横暴だ」とする議論が勢力を得ている。インターネットでは割と目立つ論調だ。しかし実際に満州で育った父の友人達の視点は辛辣だった。
「確かに日本は満州で色々やったけどなあ。多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」
「俺もそう思う。東京裁判はでたらめだとかなんとかいうけれどもさ、関東軍が勝ったら何をしたか、って考えると東京裁判どころじゃない悪いことをしたろうなあ」
 関東軍は満州に配置された日本陸軍の方面軍だ。
「新京でペストが出たことがあったろ。で、石井部隊が出動して街を封鎖した」
 この話は生前の父から聞いたことがある。石井部隊は「悪魔の飽食」で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。本来の仕事は防疫だった。
「あれ、今にして思えばノモンハンやらなんやらで失点続きだった関東軍が目をそらすために仕組んだ謀略だったような気もするなあ」
と、とにかく関東軍は評判が悪い。

「満州は惜しかったね」
「ああ、惜しかった。色々な可能性があったのに」
「関東軍が全部つぶしたね」
「そうだな、あんなに横暴じゃダメだよ」
というような会話が続く。
「何しろ居留民保護が目的の軍なのに、8月9日にソ連が侵攻してきたら逃げたんだからな」
 関東軍が逃げたということについては諸説ある。が、軍とは言い難いほどに混乱していたことは間違いない。そして当時実際に満州に住んでいた彼らにとっては、「関東軍が逃げた」というのが実感だったのだ。

 鰻重を食べつつ、様々な話を聞いた。昼からのビールで気持ちよく酔い、義弟の運転する自動車で帰宅する。

 写真は、父のアルバムから出てきた写真。昭和23年頃、旧制高校時代の父(左)と友人。バンカラを気取っている風だが、今の目で見ると「夜露死苦」とかなんとか文字を入れたくなる雰囲気ではある。


追記:「新戦艦高千穂」で検索すると、大阪国際児童文学館のページが見つかった。同ページによると平田晋作の「新戦艦高千穂」には、艦体図が付属していた。また表紙を見る限り作中の戦艦高千穂は三連砲塔のようだ。これはひょっとするとYさんの勘違いで、父が言ったように「少年倶楽部」の付録を見せただけかも知れない。

2005.09.17

101歳大往生の報を聞く

 訃報を聞く。父方の祖母の友人であるTさん。享年101歳、寝込んでから5日目の大往生だったという。

 大阪に、梅花女子大学という学校がある。かつては梅花女学校という名前だった。祖母とTさんは、そこの寄宿舎で知り合った。
 祖母は曾祖母の離婚に伴い、家から離されて寄宿生になったのだという。一方のTさんは家が貧しく、寄宿生として学ぶ一方、学校の購買で働いていたそうだ。それぞれに不幸を抱えた女学生の出会いは、その後90年近い交遊となった。関西に育った二人は、まさか最晩年を湘南海岸で十数kmしか離れずに過ごすことになるとは思っていなかったろう。

 孫である私は、27歳の時に働きすぎで倒れたことからTさんと縁ができた。自律神経失調で、左半身が動かなくなってしまったのだ。三ヶ月の休職でとりあえず体は動くようになったものの、しびれは残ったままだった。この手の病気に、西洋医学は全く無力だった。首周りのレントゲンを撮り「異常はないですね」と言い、精神安定剤を処方するだけだった。
 その時、祖母が「Tさんは手かざしができる」と言い出したのだ。
 半信半疑だったが、他に方法があるわけでもない。私はしばらくTさんの家に通って、手かざしを受けることとなった。

 その時点で、すでに80台半ばになっていたが、Tさんはやさしい声で話す、とても魅力的なおばあさんだった。私の首筋に手をあて「一体あなた、何をやったらこんなに疲れを溜められるの」と驚いた。
 手かざしの効果があったかは分からない。ただTさんの手はとても温かく、手かざしを受けた後は気持ちが落ち着いた。手かざしの最中、Tさんは何度もあくびをし、終わると盛大に鼻水をかんだ。「あんたの体の悪いものが、こうやって私を通じて出て行くの」ということだった。
 手かざしを受けつつ、私はTさんと色々な話をした。実に明晰な頭脳の持ち主だった。私が仕事の話をすれば的確な質問を投げてきた。思い出話をすれば、そこには深い含蓄がにじみ出てきた。何度となく「あんたは色々な人や物に支えられて生きているのだから、感謝の心を忘れてはいかんのよ」と言われた。陳腐な内容だと思ったが、Tさんのやわらかな声で言われると、そんなものかという気になった。

 Tさんはとある新興宗教を信じており、手かざしは信仰の中で授かったのだと言っていた。実はその教祖にも引き合わされたのだけれど、こちらは私から見ると全くもって評価に値しない人物だった。教祖は「周囲に感謝しなければいけません」と言った。私は内心「けっ」と毒づいた。同じ内容の言葉でも、誰が話すかによって正反対に受け取られるということを、私は学んだ。

 あの頃は祖母、Tさん、そしてもう一人の梅花の同級生が近くに住んでおり、皆、年齢以上に元気だった。時々3人は集まってはおしゃべりを楽しんでいた。何度か、並んで歩く3人を見たことがある。湘南海岸の小路を、横に並んで小さな老婆三人がとことこと歩く。なぜかその姿は、女子高生を連想させ、ひどくかわいく見えた。

 Tさんのところには半年ほど通ったろうか。ある日、私の首筋に手をあてたTさんが「あら、もうなんにもないわ」と言って、手かざしは終わった。「さあ、ここから後はあんた次第よ」といってTさんは手を離した。その時点では体のしびれは残っていたが、その後数年で自然としびれは消えていった。

 あの力は一体何だったのだろうか。同時に鍼治療に通っていたので何が効いたのかははっきりしない。ずっと後に、脳波多点計測設備を持つ大学の研究室を知り、Tさんに被験者になってもらおうとしたことがある。
「あらまあ」、Tさんはころころと笑った。「はずかしいわあ。やめといて」。そう言われれば引き下がるしかなかった。

 最後に会ったのは2年半前、祖母をTさんの入った老人ホームに連れていった時だ。歩けなくなったTさんは車椅子に乗っていた。記憶というものは新しいほうから抜けていくらしい。もう私を見ても誰だか分からなかった。
 それでも祖母と会うと、Tさんは喜んだ。話す声と内容にはほとんど衰えを感じさせなかった。「もう歩けなくなったから、昔の楽しかったことを思い出して過ごしているの」と言った。
 祖母は耳が遠くなっていたので、Tさんと祖母の会話は通じているような通じていないような、なんとも言い難いものだった。それでも、90年近くを友人として過ごした二人は、満足しているようだった。

 その姿を見ながら、私は「二人が会うのはこれが最後になるだろう」と思った。その通りになった。面会の4ヶ月後、私の祖母は99年4ヶ月の人生を終えた。

 人格者という存在は、未熟者に自省を促すようだ。Tさんの訃報を聞き、私は最後の手かざしの日の言葉を思い出している。

 「さあ、ここから後はあんた次第よ」

 一世紀を超える人生の中で、つらいことも悲しいことも多かったろうに、Tさんはなぜあんなににこにこしておれたのだろうか。自分はこれから、いくぶんでもTさんのように生きることができるのか。

 今は、重荷を下ろしたTさんに「ごくろうさま」と言うことしかない。Tおばあさん、私は一緒に過ごす時間を幾分かもてて、大変幸運だったと思います。ゆっくりお休みください。

2005.09.16

宣伝:9月25日(日曜日)、大阪・日本橋ジャングルでトークライブに出演します

 ロフトプラスワン10周年記念の大阪ライブに、出演することになりました。昨年から東京でやっている「ロケットまつり」の大阪出張版です。東京でやっていることをさらに濃縮してお届けできれば、と準備しています。


宇宙作家クラブ PRESENTS in大阪
「ロケットまつり」
集え!ロケット野郎共よ、種子島に、鹿児島県・内之浦に——日本にはなんと2カ所もロケット打ち上げ基地がある。世界に自国内でロケット打ち上げを見ることが出来ない国のほうが多い。こんな面白いモノを見ない手はない。さあ、ロケット打ち上げを見に行こう。

【出演】あさりよしとお(漫画家)、小川一水(作家)、笹本祐一(作家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)。

場所:日本橋ジャングル 〒556-0005 大阪市浪速区日本橋5-12-4
●最寄駅 地下鉄(堺筋線) 「恵美須町駅」下車、1-B西出口を左へ50m。

日時:9月25日日曜日 Open 17:00 / Start 18:00
¥1500(ドリンク代別)

 チケットぴあ (Pコード:605-223)、ローソンチケット (Lコード:57821)、e-plus (http://eee.eplus.co.jp/) にて7/30〜発売
お問合せ:清水音泉 06-6357-3666

2005.09.15

「ニコチアナ」を読む

 川端裕人さんの「ニコチアナ」を少し前に読了した。出版時に読もう読もうと思いつつ、いつの間にか本屋から姿を消してしまった本だが、例のスーパー源氏で発見して購入した。ちゃんと新刊で買うべきだったと後悔。とてつもない小説だ。

 大ざっぱにいって、人間は世界を認識するための方法を2つ知っている。一つめは「世界は自分を含む。自分の見た世界こそが世界だ」という方法。主観による世界理解とでも言えばいいのだろうか。普通私たちはこの方法論を無意識に使って暮らしている。
 もう一つは「世界とは自分を含まないものだ。自分だけではなく、様々な人の視点から見た世界の共通部分のみが世界だ」とする方法、科学はこちら側に入る。

 「ニコチアナ」は、この2つの世界把握の方法を、タバコという奇妙な植物と、タバコの生み出した文化と社会現象をもって結びつけようとした小説だ——そう私は理解した。

 手法としてはタバコを中心に据えた多視点小説だ。タバコに代わる無煙ニコチン嗜好品を売り出そうとするビジネスマン達、アマゾンに迷い込み、新種のタバコを栽培する種族に拾われて住み着く日本人、村で育つもアメリカに出てタバコビジネスに関わるようになるその孫、長年の喫煙で健康を損ねた米タバコ産業のボスとその跡目を狙う若者、タバコ葉を蝕む謎の病——こういったストーリーは、常にひとつの事象を二通りに注釈しつつ展開する。

 例えば米タバコ産業のボスの病気はタバコがもたらした健康被害だが、同時にアマゾンの種族にすればスペイン人に滅ぼされた過去の文化が「西洋なるもの」にかけた呪いの発現でもある。「健康被害」と解釈するのは主観を含まない世界認識であり、「呪い」と解釈するのは主体込みの世界認識だ。同様にタバコ葉を蝕む病は、レトロウイルスによる遺伝子の種間転移であると同時に、「予言」の成就でもある。小説内の事実は、すべてに渡って二種類の解釈が施される。

 そしてテーマは、喫煙なる習慣の意味へと切り込んでいく。本来、喫煙は神と人を取り結ぶ神聖な行為だった。それは文化だった。しかし紙巻きタバコというテクノロジーは、どこでもいつでも手軽な喫煙を可能にした。テクノロジーは世界を客観的に見ることによってもたらされる。

 それにより、喫煙は文化ではなくなり、健康被害をもたらす悪習となった。神聖な行為は、近代のテクノロジーを経て、死を伴うが抜けることが困難な消費行為へと堕落したのだ。それは同時に、タバコ会社に莫大な収益をもたらした。

 端々に挟まれるタバコを巡る蘊蓄は素晴らしく濃い。私は、紙巻きタバコが第一次世界大戦で決定的に普及したということにショックを受けた。戦場における非日常的なストレスから逃れるために、兵士はタバコを吸い、生き残った者らは喫煙のニコチンのもたらす鎮静作用から逃れられぬまま社会に散っていった。非人間的な大量殺戮なくしてタバコの浸透と拡散はなかったのである。

 小説として見るとラストが弱い。でも、そういうことは別の作家に求めるものなんだろう。とにかくタバコという題材に目を付け、膨大な情報を渉猟し、整理し、多視点の小説にまとめ上げた力量にはひたすら感服するしかない。

 喫煙という行為について書いてみたい気もするが、もう少し気持ちが整理できたらということにしよう。思い出すのはそろそろ一周忌近い父のことだ。最盛期、父は両切りピースを毎日4〜50本消費した。原稿を書く父の手元には、いつも吸い殻てんこ盛りの灰皿があった。「俺はタバコを吸いながら長生きするんだ」とうそぶいていた父は、大腸ガンで死んだ。大量喫煙は大腸ガンの発病確率を3〜4倍1.7倍程度押し上げる(9/16注;勘違いだったようで訂正しました)。肺転移が大きくなり、死期がはっきりしても、父はタバコを吸うことに執着した。
 まだ私にはうまくまとめることができない何かが、タバコにはある。

 しかし、著者がネットで活動しているというのはなかなか恐ろしい。願わくば「自分はステーキのつもりで差し出したのに、あいつは『なんて旨い刺身なんだ。しかも新鮮なのがいい』とか抜かしているぞ」ということにはなりませんように。

2005.09.14

バイクをメンテする

katana18in

 バイクの調子が悪い。

 当たり前だ。鹿児島だアメリカだ、シャトルだ原稿だ、とバイクに乗らないでいるうちに、台風14号が来て雨をかぶったからである。

 とりあえずエンジンをかける。AX-1はかなり手こずったがエンジンスタート、ブレーキがきいきいと鳴くので少し乗ってやると、本調子に戻った。だが、どうもパワーが低下している気がする。ひょっとするとエアフィルターが寿命かも知れない。前に買えたのは1万kmほど前だから、あり得る話だ。

 問題は刀である。台風で水が入ったかゴミがはいったか、アクセルが戻らなくなってしまった。グリスアップのためにアクセルケーブルを取り出そうとすると、なんとネジの位置が悪くてドライバーがカウルと干渉してしまう。おいおい、カウルを外さねばならんのかよ。
 こっちはもう一件トラブルを抱えている。左サイドカバーにあるチョークを引くためのノブが、きちんと途中で止まらなくなっているのだ。以前はずれた時になにか部品を紛失してしまったらしい。だましだまし使ってきたが、ついにノブがとれてしまった。開けてみるとノブの回転軸にヒビが入っている。これはもう部品を交換するしかない。
 時間があればメンテマニュアルと首っ引きで修理するのも楽しい。しかし忙しいし面倒だ、ということでなじみのバイク屋に刀を放り込んでくる。

 ああ、長距離ツーリングに行きたい。死ぬほど走って「もう走れねえ」と道ばたに寝ころびたい。適当な場所でテントを張って、インスタントラーメンで焼酎を傾けつつ、星を眺めたい。

 と、ここで我に返る。以前そろえたツーリング装備は、軒並み寿命が来ている。買い直さなければならない。金がかかるな。金を手に入れるには仕事するしかない。シャトル関連の仕事の収入は、アメリカ取材の旅費と眼鏡で消えてしまった。もうない。

 …仕事しよ。

 写真は、3年半前にホイールを18インチに換装した時に撮影した刀。現状、これよりも大分サビが進んでいる。いずれエンジンを降ろしてフレームは再塗装だろう。いくらかかるか…仕事しよ。

2005.09.13

レポーターが演技するということについて、考察する

 ここしばらくアクセスが小爆発している。どうしたのかと思ったら、台風にテレビ報道の退廃を見るが、大手ニュースサイトに紹介されたためだった。この前の台風14号で、日本テレビの報道番組に出演した阿部祐二氏というレポーターが、強風で立っているのもやっとという風でレポートを終えると、まだ放送が続いているにも関わらず、すたすたとなんでもない様子で画面の外に歩いていったのだという。

 こちらに問題の映像のmpeg画像があるとコメント欄で教えて貰った。なるほど、これでは突っ込まれても仕方がない。阿部氏が俳優出身ということもあって、一部ではマツリ状態になったそうだ。
 なお、このようなテレビ画像のキャプチャーをアップロードすることを、テレビ局各社は著作権侵害であるとアピールしている。
 が、私は番組を当該シーンの脈絡を失わない程度に長く、番組全体を構成するには短いという長さでアップロードすることは、検証目的に限り、従来の書籍における「引用」と同等であるとして認めるべきだと考えている。放送メディアだけが「引用」から自由というのは理不尽だ。

 この7月から8月にかけて、スペースシャトル関連でテレビに出演していた時、テレビが視聴者に見せずに行っているからくりの一端をかいま見る機会があった。

 とある報道バラエティ番組に出演した時のこと。

 取材チームは1時間以上、私を取材し、ビデオを撮っていった。ビデオ取材の場合、そのごく一部だけが放送される。私はどの一部を切り離されても恣意的に編集されにくいように努めて話したが、それでも恣意的な編集は避けられなかった。

 それはいい、あり得るだろうと思っていた程度だったし、編集する側にはする側の権利がある。

 問題は、スタジオに詰めたタレントのコメントだった。
「アメリカはスペースシャトルに飽きているんですよ。止めたがってるんです。それで国際宇宙ステーションのほうにシフトしたいと考えているんです」と、タレントは言ったのだ。

 これが、いかに奇妙なコメントかは、すこしでも宇宙開発に興味があれば分かるだろう。アメリカは2004年1月に発表した新宇宙政策で、2010年のシャトル引退と2016の国際宇宙ステーション運用終了を発表し、有人月・火星探査へと大きく舵を切った。

 私はだいたいのところ、取材で次のように話した。「アメリカはスペースシャトルや国際宇宙ステーションにうんざりしているんですよ。止めたがってるんです。それで有人月・火星探査にシフトしたいと考えているんです」

 おそらくこのタレントは宇宙分野について何も知らなかったのだ。私を取材した記者が、私のコメントをタレントに伝え、「本番ではこう話して下さい」と振り付けしたのだろう。そこで伝言ゲームが発生して、上記の発言となったと思われる。

 これの意味するところは、タレントを並べて勝手にしゃべらせるバラエティ番組の、少々まともなコメントは、事前にタレントに教え込んでおく仕込みである可能性があるということだ。
 いかにも賢げに語るタレントのまともなコメントは、実は演技であって、タレント自体は空虚なのである。

 そりゃそうだ、タレントは演技をするのが本職であり、様々な知識を持っている必要はない。しかし一方で「頭が良い」「まともなことをいう」「意外と鋭い」というキャラクターイメージで売っているタレントもいる。タレントは商品であり、イメージは傷つけられない。となれば、事前に仕込みをして、タレントはあたかも自分の考えであるかのようにカメラの前で覚えたての知識を開陳するしかない。

 虚像を維持することによって、タレントと所属事務所はタレントの価値を維持し、テレビはタレントを利用することで、視聴率、つまり収益を上げる。24時間という時間しか売るものがないテレビ局にとって、収益を上げるには番組の時間単価を上げるしかない。現状、時間単価は視聴率で決まる。視聴率を上げることは、私企業である民間放送によって至上命題となる。

 もちろん、正しい知識をネタ元である私のような者が話そうがタレントが話そうが、視聴者にはどうでもいいことだ。だが、このような細工を繰り返すことで、番組の作り手はごくプリミティブな「正義」を少しずつ失っていく。「嘘をつかないこと」という「正義」をだ。

 真実がどこにあるかは実のところ微妙であって、なかなか難しい問題だ。しかし、「嘘を付かないこと」という「正義」が失われることで、はっきり消滅するものがある、

「真実を追究する態度」だ。

 これは深刻だ。「真実のふりをして真実ではないことを伝える」ことが日常化するということだから。その弊害が、今やあちこちに出てきている。受ければいい。だからレポーターは、大したことのない風によろける演技をする。真実はどこかに忘れ去られる。

 そして、テレビ局がそのような形で収益を上げる根源には、公共の電波を国家の承認の元、利用しているという事実がある。本来国民のものである電波帯域で、収益を上げているのだ。
 私企業が国民のものである電波を占有し、不実を世間に振りまくことで収益を上げるという構図が、こうして完成する。

 テレビ番組すべてが、不実であるわけではない。しかし、こと私に関しては、ほとんど地上波の番組を見なくなってしまって久しい。見る意味を感じないのだ。
 ケーブルテレビに加入した今、ディスカバリーチャンネルとヒストリーチャンネル。CNNやBBCを初めとしたニュース専門チャンネル、それにいくつかのアニメ系チャンネルにドラマ・映画系チャンネル、これだけあれば地上波はほとんど不要だというのが私の実感である。いくつかの真摯なドキュメンタリーのみが、私にとっての地上波テレビの価値だ。

 NHKはどうなんだ、とか、デジタルBSやスカパー!はどうだとか、色々意見はあるかも知れない。このあたりは、また気が向いたら。

2005.09.12

自民党大勝の日、10年振りに眼鏡を新調する

 衆議院選挙の結果が出た。自由民主党大勝、民主党惨敗。自民党と公明党で議席の2/3を押さえる結果となった。、最終確定投票率は小選挙区が67.51%、比例代表が67.46%。小選挙区比例代表並立制となってから最高の投票率となった。
 多くの人が投票し、選んだ結果だ。この勢力地図で、今後何を起こるかを我々はきちんと見ていかなければならない。そして次の選挙の時に、与党が歴史的大勝の結果、どのように日本を導いたかを考慮して投票しよう。
 私としては、「郵政民営化は行わねばならない、が、自民党が勝ちすぎるのは好ましくない」というスタンスだった。だから、自民党大勝に失望している。が、これが国民の審判だ。では、これから次の選挙までに、これほどの議席を得た与党が何をするか、きちんと見て、評価しなければならないと考えている。

 今回きちんと投票した皆さん、自分の選択が今度どのような結果をもたらすかをきちんと見据えて評価を下し、次も投票しましょう。今回も投票しなかった方は、次こそきちんと投票してください。政治家を単に「阿呆だ」と言うことはできない。選挙がある以上、その資質は国民の資質の反映である。

 まず、僕らが賢くならなければいけないのだ。

 10年振りに眼鏡を新調した。6月に友人達と渓谷に入ってたき火をした時、川の中で転んで、眼鏡のレンズに傷を付けてしまった。レンズ交換の歳に眼鏡屋のカルテを見ると、眼鏡を作ってから10年も経っている。そろそろ新調するか、と考えた。
 この10年使ってきた眼鏡は大きく重い高屈折率ガラスのレンズを使っていた。視野が広く、傷が付きにくい、徹底したヘビーデューティ仕様だ。そこで次の眼鏡はそこそこの視野、そこそこの傷つきにくさの代わりに、徹底した軽さを追求することにした。
 結果、やや小さめのハードコートを施したプラスチックレンズを選択した。フレームは前と同じチタン製だ。
 本日出来上がってきた眼鏡は、思惑通りに非常に軽い。頭が軽くなった気分がする。

 この眼鏡ほどに軽やかに、原稿も進めばいいのだけれども。

2005.09.11

選挙に行きましょう!

 朝からここをみている人は少ないと思うが、書かずにはおられない。

 期日前投票に行った以外の人、まだ投票していない人。



投票しましょう!





 今回の投票は本当に難しい。政治自体が制度疲労を起こしており、結果どの政党も日本の現状にきちんと対応できていないからだ。

 今回は、かなり戦略的に判断して一票を投じる必要がある。ひどい話だが「どの政党が一番公約を無効にする傾向があるか」を判断する必要すらある。

 ともあれ、投票しない理由はいくらでも付けられる。投票すればよりよい社会になる保証もない。しかし、投票率が下がるほどに、この社会が「ぼくらの社会」ではない「どこかの誰かの社会」になっていくのだ。

 そして忘れてはいけない、最高裁判事の国民審査。
 ここや、ここに、判事がどのような判決を出したかが掲載されているので、しっかり読むこと。その上で気に入らない判決を出した判事には、しっかり×をつけよう。


2005.09.10

味噌漬けを作る、その結果

misoduke2

 味噌漬けマグロその後。

 最高でした。うまくできました。

 考えてみれば素材は新鮮、味噌は悪くないし、調理の手順は簡単。うまくならないはずはない。

 水分が抜けて味噌の味がしみた魚肉は最高だ。焦がさないように弱火で焼いて、ほうれん草のおひたしと付け合わせる。若干塩味がきつめとなったが、それもまたご飯に合う。

 うまくできたので、次のターゲットを考えることにする。最近安くなっているサンマでも付けてみるか。豚肉もいいし、いっそステーキ肉でも買ってきて牛肉でやってもいいだろう。

 味噌はまだたっぷりある。

2005.09.09

先生と呼ばれる、ほどに

 最近「先生」と呼ばれることが増えている。

 先生、なんだそりゃ。

 早い話がテレビ局。スペースシャトル関連で7月から8月にかけてテレビ局に赴くことが多かったが、必ず先生と呼ばれた。「やめてくれ」と再三頼んだところ、本音がでた。「先生と呼んでおくと問題が少ないんですよ」。中には先生と呼ばないと機嫌の悪い出演者もいるという。

 つまり「先生」と呼ばれたい少数の人への対策として、全員をとりあえず「先生」と呼んでおくわけだ。

 「先生と呼ばれるほどにバカじゃなし」という言葉が、適用できるケースと言えようか。まあ構わないけれども。

 先生を字義通り「先に生まれた」と考えるなら、そろそろ私は世間において先に生まれたほうに入る歳になった。が、「教師」という意味なら、むしろ私は様々なことから学んできたほうであり、何かを教えたということは、まああまりない。真に先生だった時期は、大学の頃に家庭教師のバイトをしてきた時だけだろう。

 情報は世界を流通している。送り手になることもあり、受け手になることもある。それだけだ。私の職業は情報の収集と分配であり、それが「先生」と呼ばれるものなのか、実のところ良く分からない。

 状況により「先生」と呼ばれる機会があるなら、せめて名実伴うようにしなくては、ね。

2005.09.08

残暑に、渡辺美里の歌が耳の中で蘇る

 台風一過の素晴らしい晴天、温度計の目盛りも天井知らず。9月だというのにだらだら汗を流しつつ、東京某所へ。深刻な顔であれこれ意見交換。

 夏で思い出すのは、「チューブ」だったり「サザン・オールスターズ」だったり。「ブルーハーツ」なら暑苦しさ倍増だ。

 私の場合は渡辺美里。ただしその記憶はほろ苦い。

 デビューからしばらくの彼女は、全身全霊で歌っていた。「18歳のライブ」とか「My Revolution」だったり「Teenage walk」だったり。その没入っぷりは、危ういほどだった。
 尾崎豊に感じた危うさと同じだ。「このままティーンズのカリスマになって死んでしまうじゃないか」と思わせる、人間としての未熟さを未熟なまま昇華させてしまうような、そんな危うさがあった。「死んでいるように生きたくない」などは怖いほどの迫力ではないか。

 だからこそ、なのだろう。その歌は魅力的だった。18歳でデビューして「eyes」「Loving you」「BREATH」「ribon」と年1枚ずつのアルバムが続く。突っ走っているとしかいいようがない。
 その頂点となるアルバムが5枚目の「Flower Bed」(1989年)だと思う。特にラスト、大江千里が提供した「すき」は、ちょっとした個人的思い出もあって、私にとっての永遠の一曲である。

 おそらく「Flower Bed」と次のアルバム「tokyo」(1990年)の間で、何か心境の変化があったのだと思う。「tokyo」で、彼女は歌う主体である自分と、歌との間に距離を取り始めた。有り体に言えば全身全霊では歌わなくなった。
 「tokyo」には「サマータイムブルース」という曲が収録されている。世間的には名曲とされているけれども、私はこの曲を聴いたとき、渡辺美里のアルバムを買う意味はなくなったと思った。なぜなら、この曲は「ブルース」と銘打ちつつも全然音楽はブルースではなかったから。
 こういう曲名の嘘は、かつての彼女がもっとも嫌うものではなかったか。そう私は勝手に思いこんだのだった。

 おお、松浦よ。「ミサトちゃん、純粋じゃなきゃイヤだーい」とでも思ったか?

 うん、そうかも知れない。

 それでも7枚目のアルバムである「LUCKY」(1991年)までは買った。収録された「卒業」を聴いて、「もういいや」と思った。

 渡辺美里は、初期に「さくらの花の咲く頃に」(「ribon」収録)という卒業をテーマにした曲がある。これは本物の名曲だ。個人的には村下孝蔵の「初恋」を超えていると考えるほどである。
 一方「卒業」は、明らかに卒業シーズンの高校生あたりに受けるという意図をもって作られていた。「みんな、卒業式で歌ってねー」だ。
 それは全身全霊では決して歌えない曲だった。

 私は渡辺美里のアルバムを買うのを止め、後には5枚のCDという形で、全力を持って駆け抜けた女性歌手の記録が残った。

 それは本人にとって幸せなことだったのだろう。人間は年を取る。いつまでもティーンエイジャー向けの歌を全身全霊で歌うことはできない。強いて全身全霊であろうとすると、袋小路が待っていて、場合によっては死に至ることだってある。

 誰だって大人になり、成熟しなくてはならないのだ。

 渡辺美里は尾崎豊のように死なないで済んだ。多分に成熟を選び、歌い方を変えたからなのだろう——そう勝手に考える。そろそろ40歳近くになるまで歌い続けられたし、西武球場でコンサートを続けることだってできた。

 でも、私にとっての渡辺美里は初期の、針で突いたらはじけてしまいそうな、若くて危うくて本気と元気一杯の渡辺美里なのである。

 アマゾンにリンクしようとしたら、ありゃ、「BREATH」と「Flower Bed」は廃盤になってしまっているのか。この2枚こそが素晴らしいというのに。とりあえず、初期CDへのリンクを掲載しておく。


 デビューアルバム。「死んでいるように生きたくない」「18歳のライブ」など、危うさと元気が共存している。あるいは聴く人を選ぶかも。特定の年代、特定の気分の人が聴いてこそ意味があるアルバムかも知れない。




 2枚組。「My Revolution」「Teenage Walk」など。表題作「Lovin' you」は見事なバラードだ。




 このアルバムも名曲揃い。「センチメンタルカンガルー」「恋したっていいじゃない」「さくらの花の咲くころに」「悲しいね」「10years」と来る。くうう、甘酸っぱいぞ。

2005.09.07

「箕作秋吉の遺産」を聴く

 茅ヶ崎の図書館はCDの貸し出しも行っている。棚を見ていると「箕作秋吉の遺産」というCDがあったので借りだした。

 箕作秋吉(みつくりしゅうきち)(1895〜1971)は1920年代から60年代にかけて活動した作曲家。理学博士でもある。意外と作曲家は理工学系出身が多い。
 日本の五音音階を生かした作品を発表し、独自の音楽理論体系まで作り出したという人だ。CDは「箕作秋吉先生生誕95周年記念楽譜刊行会」が企画したもの(なぜきりのいい100周年じゃなかったのだろう?)。どうやらお弟子さん筋の関係者の手による非売品のようだ。箕作は茅ヶ崎に住んでいたので、その関係で図書館にあったのだろう。

 録音はラジオ放送に使ったテープと戦前戦中のSPレコードの復刻によるもの。おせじにも音質が良いとは言えない。曲目は以下の通り。括弧内は作曲年代

  • 「ピアノと室内管弦楽のための小協奏曲」(1953)
  • 「日本古謡を主題とする管弦楽のための3楽章」(1963)から第1楽章と第3楽章
  • 「芭蕉紀行(バリトンとオーケストラ)」(1937)より
  • 「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」(1935)
  • 「ローマン組曲(ピアノ)」(1927)より
  • 「小曲集(ソプラノと管弦楽)」(1929)より
  • 「三つの悲歌(バリトンとオーケストラ)」(1943)より
  • 「働く人のために(合唱)」(1947)より

 冒頭の「ピアノと室内管弦楽のための小協奏曲」が鳴りだしたとたん「そうそう、これだよ」と思わず口に出してしまった。そうだった。中学の頃、つまり現代音楽に興味を持ちだした頃に、戦前の日本人作品というと、まさにこんな曲をイメージしていたのだ。つまり五音音階を基調に、のったりのったりと進む歯切れの悪い曲を。
 なんでそんなイメージを持ったのかといえば、おそらくは音楽の授業で聴かされた近衛秀麿編曲の「越天楽」と、同じ頃にラジオで聴いた清瀬保二作曲の「日本祭礼舞曲」あたりのイメージがごっちゃになったからだろう。もちろん、そのイメージはその後武満徹、三善晃、そしてなかんずく伊福部昭と聴き進めて、ひっくり返ったわけだけれども。

 そして今、こうやって古い録音で箕作の音楽を聴いていると、私が戦前の日本音楽の特徴だと思いこんでいた歯切れの悪さが、実は曲ではなく当時の演奏に問題があったということが分かる。演奏技術が曲に追いついていなかったのだ。
 多分、このCDに収録されている曲は、現在の卓越した技術を持つ演奏家が、クリアな音質の現在の技術によって録音を入れれば、全く異なる印象を持って蘇るはずだ。誰でも知っている「さくらさくら」で異様な雰囲気の変奏曲を構成する日本古謡を主題とする管弦楽のための3楽章」の第3楽章など、なかなか面白い響きを作り出している。

 「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」は、巌本眞理、草間(後の安川)加寿子という、当時のゴールデンコンビが演奏しており、演奏そのものは素晴らしい。しかし、針音バリバリのSPの音質のため印象がしぼんでしまっている。朗々とヴァイオリンが鳴る曲なので、派手な音質のヴァイオリニストが演奏すれば映えると思う。

 曲は十分面白いのに、こうやって古い録音の私家版でしかCDを出せないというのは、悲しいことだ。私としては、せめて「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」をいい録音で聴いてみたい。

 ところで、箕作はその作品以上に、音楽史上の大失策で名前を残している。昭和22年、17歳の武満徹は、茅ヶ崎の小和田に住んでいた箕作秋吉を訪ねた。作曲を教えて欲しいと押しかけたのである。しかし箕作は、この未来の大作曲家を追い返してしまったのだった。後に箕作が語ったところによると、あまりに武満少年がみすぼらしい身なりをしていたので怪しんで追い返したのだという。

 作家の中井英夫は、このエピソードに感動して17歳の武満を「襤衣の天使」と形容したエッセイを書いた。でも、私はもっと単純なことなんじゃないかと思う。
 たとえイタい行動を取る若者であっても、人を見かけで判断しちゃいけないのだ。
 

2005.09.06

台風にテレビ報道の退廃を見る

 台風14号が九州を縦断。大変な被害が出ている。一方で空っぽになっていた高知の早明浦ダムは一気に満水になったとのこと。台風は災厄であると同時に恵みでもある。

 で、一ついいたいのだが、「ニュース番組でテレビ記者らが現地に行って『すごい雨と風です』とか叫ぶ理由は何?」。

 私がニュースに望むのは、正確な情報と的確な分析だ。放送局の就職試験に合格しただけで、別に見目麗しいわけでもないテレビ記者が、演技含みで「すごい雨と風です」と叫ぶのを見たいわけではない。

 2つの点で邪魔だ。まず、ニュースという演技が入るべきではない番組で、記者らがカメラの前で多分に演技含みでしゃべっていること。もう一つは、そうやってカメラの前で彼らがしゃべることによって、何一つとして伝達する情報が増えているわけではないことだ。台風の被害を伝達するだけなら、現地映像とスタジオからのアナウンスだけで必要十分なのである。

 ただ一つ、現場中継には意味がある。現場に記者という人がいて、現場の状況に応じて声のニュアンスをコントロールすることで(演技、それも下手な演技含みであるが)、視聴者が「ああ、現地は大変なんだ」と感情移入することができるということだ。

 しかし当方としては、別にテレビによって情動を揺り動かされなくても構わない。いや、ニュース番組が情動を揺り動かすのはかえって迷惑である。当方の判断を狂わせる可能性があるから。

 もうひとつ、現地に行った報道記者達の、明らかにテレビの向こう側の視聴者を意識した演技が、見るに堪えないということもある。確かにカメラを意識すれば、誰しもある程度演技せざるを得ない。特に「出演は○秒」と限られ、その時間内で言うべき事をすべて言わなければならないとなればなおさらだ(自分もテレビに出て痛感した。そんなことを日常的に行っているという意味ではテレビ局の報道記者達は尊敬に値する)。
 しかし、では記者個人の蓄積や見識が画面で生かされているかと言えばノーだ。むしろ、視聴者の情動を動かすことを目的にするなら、記者は白紙のアホたれであるほうが望ましくすらある。この場合の記者の役割は、バラエティ番組において視聴者の印象を操作するために演技するコメンテーター役のタレント(多くは若手お笑い系だ)とまったく同じだ。

 テレビは、動画像によって事実を直接伝えることができるメディアとして出発した。しかし放送開始から半世紀を超えた現在、むしろテレビは事実を伝えるのが不得手で、情動を動かすのに適したメディアとなっている。

 実は結論はない。

 テレビは実態として電波の許認可による利権ビジネスであり、その利権に気が付き、徹底的に利用したのが史上最年少で郵政大臣となった田中角栄だった。電波利権の周囲には、CMやらなんやらの利権がまとわりつき、テレビ周辺の産業を発達させてきたのである。そろそろ、そんなどろどろの産業構造が崩れかけているのかな、と思うだけである。

 余談だがCM飛ばし対策協議へ、DVDレコーダー普及で広告主協(nikkeibp.jp)というような記事を見ると、正直なところ「おうおう、テクノロジーの進展で利権が崩れはじめとるわい」としか思わない。もちろん私は、CMスキップで困る側には同情しない。現状のテレビCMは、その程度のものが電波が有限であることに起因する利権に乗ってきただけだから。

 かつてのCNNに相当する、ネット時代に適応したニュース専門メディアが欲しいな、と思う。事実だけを徹底的に伝達するメディアが。ここ数年のアルジャジーラが果たした世界史的な役割を考えると(アルジャジーラにはアラブ世界から世界を見るという偏りがあったわけだが、カタールの放送局というだけで、そのことは明示されていた)、世界にはそのような事実に徹したメディアが必要だと思えるのだ。

蛇足というか付記:シマゲジこと島桂次が現状を知ったらどう考えただろうね。

2005.09.05

味噌漬けを作る

misoduke


 今年の7月、M-Vロケット6号機の取材に行った時、宿泊した高山やぶさめ館という宿泊施設の物産売り場で麦味噌を買った。地元の婦人会が作った手作り味噌ということで、きっとうまかろうと思ったのだ。
 ところが持って帰ってきて、味噌汁を作ってびっくり。甘い麹味噌だった。これは味噌汁には使えない。
 ちょうど弟が恒例の釣りで、メバチマグロを釣ってきた。そこでお裾分けに預かって味噌漬けにチャレンジすることにした。味噌漬けでは甘味を出すために味醂をつかうこともあるそうで、それならこの甘い味噌も生きるだろう。
 切り身にしたメバチマグロに軽く塩を振ってペーパータオルに包み、水分を抜く。そして麹味噌の中につけ込むだけだ。完全に漬かるまで冷蔵庫内で3日ほどかかるらしい。

 さあ吉と出るか凶と出るか。味噌はまだまだあるので、うまくいくようならば豚肉でもチャレンジしてみることにしよう。

2005.09.04

「スパムメールと戦う」、その後の経過を報告する

 2005年1月7日付けの「スパムメールと戦う」のその後について。

 スパムメールとの戦いは、現在のところ暫定的な勝利を得ている。一番の勝因は私の工夫、ではなくてメインプロバイダーであるNIFTYのスパムメール判定精度が向上したためだ。ユーザーからスパムメールを収集する制度をスタートさせてからぐっと良くなった。一時は精度が低下して、スパムメールの5割程度しかブロックしてくれなかったのが、最近ではコンスタントに9割程度のスパムメールをはじいてくれる。

 現在講じているスパムメール対策は以下の通り。

 まず、NIFTYのフィルタをくぐり抜けてくるスパムを分析して、特徴的な言い回しをどんどん受信メール振り分けサービスに登録した。引っかかったメールは有無を言わさずゴミ箱行きだ。主に英語圏から来るスパムメールに特徴的な単語や言い回しを集中的に登録すると、英語圏からのスパムメールはほぼ完全にブロックできるようになった。英語のスパムは意外とワンパターンで工夫がない。

 英語圏以外の海外からのスパムメールは、文字コードの関係か文字化けしていることが多い。これらはNIFTYのフィルタがほぼ完全にはじいてくれる。

 残るはNIFTYのフィルタをくぐり抜けてくる日本語スパムメールだ。
 まずは受信メール振り分けへの単語登録だ。ところが、日本のスパマーは英語圏のスパマーに比べて研究熱心らしく、あの手この手でかいくぐる手法を開発してくる。あまり単語登録がうまくいかない。
 次はメール受け取り拒否サービスを利用することにした。NIFTYには登録したアドレスから来るメールをすべて遮断するサービスがある。登録可能アドレス数が、100から1000まで増やされたのを機会に、送られてきたスパムのアドレスを片っ端から登録してみた。
 ところがうまくいかなかった。スパマーはスパムを送るごとにアドレスを変えていたのだ。あっという間に登録アドレスは1000に達したが、効果的にスパムを遮断してくれなかった。

 メール受け取り拒否サービスに登録できるのはアドレスだけではない。ドメインでも登録できる。そこで、スパムを送ってきたドメインを問答無用で登録することにした。

 現在のところスパムの9割が、NIFTYのスパムメール遮断サービスでブロックされている。残る1割のうち7%程度が単語を登録した受信メール振り分けで直接ゴミ箱行きだ。メールボックスまで届くスパムメールは全スパムメールの3%程である。こいつらは即刻送信ドメインを受け取り拒否に登録している。

 間違ってスパムとして扱われるメールはほとんどない。数ヶ月に一通あるかないかというところだ。

 これら3%のスパムメールは、最終的にメーラーの迷惑メール判定で弾いている。私が使っているメーラーはオープンソースのThunderbirdだ。このソフトのフィルタはかなり強力で、ほぼ完全にスパムを排除できる。
 サーバー側のスパムメール排除に頼らずに全部ダウンロードしてThunderbirdの機能で排除しても構わないのだが、私としては、そもそもスパムメールをダウンロードする事自体が気にくわないのだ。モバイル環境で低速通信を強いられることもあるわけだし。

 かくして、私のメールボックスはスパムメールがネットに繁殖する以前の静謐を取り戻した。1日数通のスパムメールを受け取り拒否に登録するのは、苦痛というよりもむしろサディスティックな楽しみである。

 しかしこのような状態がいつまで続いてくれるか分からない。とりあえず私の素直な意見を言うならば、「スパマーに呪いあれ、彼らにネット上での死を」。


 アメリカにおけるスパマーとアンチスパマーの戦いを追ったなかなか面白いドキュメンタリー。スパマーの素顔をかいま見ることができる。同時にアメリカにおけるアンチスパマーが、あまり行儀がよいとは言えない活動をしていることも記述されている(スパマーにストーカーじみた行為をしたり、ネットでスパマーのプライバシーをばらまいたりしているのだ)。
 ショックなのは、意外なぐらい、スパムメールでついふらふらと買い物をしてしまうネットユーザーが多いということだろう。スパマーにとってスパムメールは効率の良い宣伝手段でしかない。彼らの生活は、バイアグラや怪しげな健康食品や、人には言えない大人のオモチャをついつい買ってしまうアホたれネットユーザーが支えているのである。

2005.09.03

イベント:神奈川県・二宮町で「宇宙塵」関連の展示と講演会があります

 神奈川県・二宮町図書館で、地元の柴野拓美さんと「宇宙塵」関連の展示及び講演会が開催されます。

二宮町図書館開館30周年記念行事

1.地域資料展示
 小隅 黎(柴野拓美)氏と 宇宙塵ー日本SFの軌跡。
 町内在住のSF作家・評論家・翻訳家、小隅黎(柴野拓美)氏の著作や日本SF小説の歴史などに関する資料を展示します。
 とき 9月13日(火)−19日(月 祝)9:30−17:00
 ところ ラディアン展示ギャラリー
 *入場自由、無料。

2.講演会 宇宙塵の軌跡ー日本SFと柴野拓美氏ー
 SF研究家 牧眞司氏に、柴野氏の業績や日本SFの歴史、SFの面白さを語っていただきます。(9/13注:横田順弥氏体調不良のため、講師が牧氏に交代しました)
とき 9月18日(日)14:00−16:00
ところ ラディアン ミーティングルーム2
講師 牧眞司氏(SF研究家)
 定員 80人 参加費 無料
申込み 8月3日(水)9:30から電話0463−72ー6913か図書館カ
ウンターで受付。
  (定員になり次第締切)


 以上、興味のある方はどうぞ。

 「宇宙塵」は日本最古のSF同人誌。現在も活動を続けており199号を出している。「宇宙塵」からは、星新一、広瀬正、山田正紀など、そうそうたる作家達がデビューしている。次は記念すべき200号だ。
 発行人の柴野拓美さんは、本業(教師)の傍ら「宇宙塵」発行と翻訳、創作(小隅黎名義)で活動してきた。最近ではE・E・スミスの「レンズマン」シリーズを改めて翻訳しなおした(創元推理文庫から発売中)。

2005.09.02

あり合わせの材料でガーリック炒飯をでっちあげる

 夕方だ。腹が減った。

 冷蔵庫をかき回すと、昨日炊いたご飯と卵がある。む、納豆がない。仕方ない。ご飯を温めて卵を落として食べるとするか。

 なんだその貧しい夕食は、などと思うなかれ。いい年齢の独身者がかき込む日常的食事はそんなものだ。

 が、今日は精神的に少々余裕がある。一手間かけようかという気になる。冷蔵庫をさらに漁ると、まずニンニクがひとかけら。それから一昨日のスープに使った残りのキャベツとタマネギ、油揚げが一枚。

 そこでガーリック炒飯を作ることにする。

 フライパンにオリーブオイルを適当にいれ、少し暖まったら刻んだニンニクを落とす。あまり温度を上げずに低い温度でじわじわとニンニクの風味を油に移す。そこに刻んだキャベツ、タマネギと油揚げを入れる。本当はベーコンがあればいいのだけれど、まあタンパク質と油という点では肉も油揚げも似たようなものだ(と、自分を納得させる)。

 タマネギに火が通ったところでブラックペッパーを振る。その上からご飯を入れて強火で炒める。
 醤油を惜しみなく使って味を付ける。醤油の水分を飛ばすためにしばし炒めるのがコツだ。最後に卵を一つ割り入れる。一気にかき回して米粒の表面に半熟の卵がコーティングされた状態になったら火を止める。卵を入れてから炒めすぎず、半熟のとろみを残す。最後にまたブラックペッパーを振れば、あり合わせのガーリック炒飯のできあがりだ。
 冷凍グリンピースでもあればよかったんだけどな。黒ごまがあれば、最後に振りかけるのもいい。

 味は醤油とブラックペッパーの加減で決まる。「健康のためには薄味」などと考えずに、ややきつめの味をつけたほうがおいしい。

 料理の味は、素材とレシピに加えて、作り手の精神状態にも左右される。
 肉代わりの油揚げが入った奇妙なガーリック炒飯は、とてもおいしく食べられた。よしよし、このコンディションを維持しないとな。

2005.09.01

インドの再回収カプセルの記事を教えてもらう

 本blogを読んでいる方から教えてもらった(どうもありがとうございます)。インド・カルカッタの「テレグラフ」という新聞のホームページに掲載された、インドの再突入カプセル実験の記事だ。

 27日に射場のあるスリハリコタから東方25kmのベンガル湾で510kgの円錐型再突入カプセル「Space capsule Recovery Experiment (SRE)」を、ヘリコプターを使い、5000mの高度から落下させる実験を行ったとある。本番は2006年初頭、PSLVロケットのセカンダリーペイロードとして高度600kmの極軌道に打ち上げて二週間の実験を行った後、ベンガル湾で回収する。日本でいえばUSERSに相当するシステムのようだ。
 記事では低コストの再利用型宇宙輸送システムに向けた取り組みだと書いてあるが、むしろこの形式ならば、その先にはソユーズタイプの宇宙船のほうが考えやすい。ただし使い捨てとは限らない。CXVのようなカプセル型再利用宇宙船も当然考えられる。
 カプセル型宇宙船は、確かに宇宙実験の重要な手段だ。しかし同時に有人宇宙飛行にとっては最初の一歩である。

 インドは長い歴史と文化的な深みを背景とした大国意識を持っている。また、国境を接する中国に対しては強烈なライバル意識も持っている。中国は、2003年10月に神舟5号で旧ソ連、アメリカに続いて世界で3番目に有人宇宙飛行を成功させた。

 記事にはこうある。

Indian Space Research Organisation (Isro) sources said the experiment will test an array of technologies with applications in future space goals: reusable launch vehicles, remote-operated science experiments in space, and manned space missions.

 もちろん新聞というものは、とかく大げさに書きたがるものではあるが。

 先週来、アメリカが国際宇宙ステーション(ISS)の縮小を決定したとの報道が始まっている。日本はISSに日本モジュール「きぼう」で参加している。

 さあ、我々はどうするべきなのだろうか(ちょっと書き方がいやらしいかな)。

« August 2005 | Main | October 2005 »