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2005.09.18

一周忌に満州の話を聴く

father

 本日は父の一周忌。母と兄弟で三島の菩提寺に赴く。

 来るのは数少ない親族(なにしろ父は一人っ子だっった)と、足が達者な父の友人達のみ。ささやかなものだ。それでもトラブルが発生した。9月の連休、しかも快晴で東名高速は大渋滞。まず、自動車で来た妹夫婦が遅刻、同じく自動車を孫に運転させて来た大叔母は遂に間に合わなかった。

 ともあれ本堂に読経の声は流れ、墓所には父の戒名を記した卒塔婆が一枚増えた。雲一つ無い空からは、本当に9月かといいたいほどの強い太陽が照りつける。

 次いで場所を移して昼食をとる。三島広小路の桜やで鰻重。少々ビールも入れて、父の友人達から父の子供の頃のエピソードや、家族には見せなかった面などを聴く。彼らは皆、満州国の首都だった新京(現在の長春)で育った。「満州国の首都計画」という本に詳しいが、新京は当時最先端の都市計画で作られた街だった。「下水道は当たり前で育ったから、引き上げてから『内地には下水道がない』って驚いた」というような発言も出てくる。

 彼らの通った小学校は、満州鉄道が経営していた学校で、後に日本の文部省が乗り込んできた。
「文部省がやってきて全部おかしくなったな」
「そうだったな。優秀な先生は全部辞めさせられたしな」
「内地のやり方を持ってきて根こそぎにしちまった」
 巨大な国策会社である満州鉄道を民間企業というにはちと無理があるが、官が主導権を取ろうとしてろくでもない結果になるのは古今東西よくあることらしい。

 私の祖父は、満州国の官僚を養成するための大同学院という学校の先生をしていた。
 友人のYさん曰く「小学校の時に松浦が、巨大な戦艦の図面を見せてくれてな。後で考えればそれは大和だったんだ。戦後聞いてみたら松浦は『あれは少年倶楽部についていた図面だ』って言うんだよ。嘘付けって」
「『少年倶楽部』なら新戦艦高千穂だよなあ」
「だいたい戦時中俺らは大和なんてものがあることを知らなかったよ。あんなもの作っていたなんて知ったのは戦後の話だ」
「そう。しかも見間違えるはずもない、三連砲塔の図面だったんだよ。ありゃ、きっと松浦のお父さんが、どこかで入手したものだったんだろうな」
「大同学院の先生ともなりゃ、特務機関とも付き合いがあったろうしなあ」
 これが事実なら、日本帝国海軍の防諜の実態も、中央を離れて満州まで行くと、学校の先生が大和の図面を入手できる程度だったらしい。しかもその図面を小学生だった父が持ち出していたわけだ。父のことだから、自慢をずいぶんしたんじゃないだろうか。まるでスネ夫だ(思い違いの可能性もあるようだ。追記を参照のこと)。

 昨今、「東京裁判は勝者の横暴だ」とする議論が勢力を得ている。インターネットでは割と目立つ論調だ。しかし実際に満州で育った父の友人達の視点は辛辣だった。
「確かに日本は満州で色々やったけどなあ。多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」
「俺もそう思う。東京裁判はでたらめだとかなんとかいうけれどもさ、関東軍が勝ったら何をしたか、って考えると東京裁判どころじゃない悪いことをしたろうなあ」
 関東軍は満州に配置された日本陸軍の方面軍だ。
「新京でペストが出たことがあったろ。で、石井部隊が出動して街を封鎖した」
 この話は生前の父から聞いたことがある。石井部隊は「悪魔の飽食」で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。本来の仕事は防疫だった。
「あれ、今にして思えばノモンハンやらなんやらで失点続きだった関東軍が目をそらすために仕組んだ謀略だったような気もするなあ」
と、とにかく関東軍は評判が悪い。

「満州は惜しかったね」
「ああ、惜しかった。色々な可能性があったのに」
「関東軍が全部つぶしたね」
「そうだな、あんなに横暴じゃダメだよ」
というような会話が続く。
「何しろ居留民保護が目的の軍なのに、8月9日にソ連が侵攻してきたら逃げたんだからな」
 関東軍が逃げたということについては諸説ある。が、軍とは言い難いほどに混乱していたことは間違いない。そして当時実際に満州に住んでいた彼らにとっては、「関東軍が逃げた」というのが実感だったのだ。

 鰻重を食べつつ、様々な話を聞いた。昼からのビールで気持ちよく酔い、義弟の運転する自動車で帰宅する。

 写真は、父のアルバムから出てきた写真。昭和23年頃、旧制高校時代の父(左)と友人。バンカラを気取っている風だが、今の目で見ると「夜露死苦」とかなんとか文字を入れたくなる雰囲気ではある。


追記:「新戦艦高千穂」で検索すると、大阪国際児童文学館のページが見つかった。同ページによると平田晋作の「新戦艦高千穂」には、艦体図が付属していた。また表紙を見る限り作中の戦艦高千穂は三連砲塔のようだ。これはひょっとするとYさんの勘違いで、父が言ったように「少年倶楽部」の付録を見せただけかも知れない。

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Comments

満州というと、熱海から下田へ向かう国道沿いに下田へ向かって山側に「満鉄ホテル」(だったかな?)と書かれていた寺院のような建物がありますので、東伊豆へ行かれるときは注意深く観察してみてください。

>東京裁判はでたらめだとかなんとかいうけれどもさ、
>関東軍が勝ったら何をしたか、って考えると
>東京裁判どころじゃない悪いことをしたろうなあ

東京裁判も「新京裁判」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」で勝者の都合のよいように裁かれるものなのでしょう。

追記の「新戦艦高千穂」、大阪国際児童文学館のページに掲載されている表紙の左隣のジャケットの絵は2連装主砲塔が艦首に2基描かれていて、艦尾には主砲塔らしきものが見当たらないので水上機の待機甲板なのだろう。
http://www.iiclo.or.jp/100books/file/book.gif
50センチ4連装主砲塔3基を艦首に配置し、艦尾を水上機の待機甲板にした藤本喜久雄案の戦艦大和はこの絵に近いです。
遠藤昭の「超航空戦艦「大和」戦記〈1〉ミッドウェイ大逆転!」では、艦上機を運用できるようになっていますが、藤本喜久雄案の戦艦大和はだいたいこのページの絵ようなものです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774710474/249-2977326-3816354

 どうも情報ありがとうございます。満鉄ホテルですか。本当に関係がある建物なのか、それとも単に名前だけなのか、興味あるところです。

 リンクは両方とも画像が含まれていませんね。とりあえず趣旨は分かるので、このままにしておきます。

 戦艦大和は色々な伝説がまとわりついているのが面白いところでもあり難しいところでもあると思います。結局、現代の公共事業と同じ箱物行政となってしまったわけですが。

 私としては、ことさらに大和を悲劇の戦艦として美化するのはよくないと思っています。なにしろ箱物なのだから。
 我々としてはその運用に注目して、なぜ役立たせることができなかったかについて考察するのが建設的と言えるのではないでしょうか。

私の手元にある「新戦艦高千穂」には、上面からの略図があります。作中にも書いてありますが、高千穂は四十糎四連装三基(略図ではうち一基が艦尾)になってますね。村上松次郎の挿絵でも四連装砲塔になってます。

大和については、陳腐な表現ですが大和そのものよりもそれだけのものを纏め上げる組織、運用する組織というものが後世にとって重要であったと思います。

お父様が持っていた図面が何なのか、それは考えるに楽しい謎ですね。

松浦さん、先のコメントで何か気に障ったことを書きましたか?
IP制限まで受けましたので、別のプロバイダからアクセスさせていただきました。
閑話休題
先のコメントで書き忘れた「満鉄ホテル」を追記させていただきます。
このホテル、正しくは「ムクデン満鉄ホテル」という名前で、静岡県の網代にあります。
このホテルのモデルは新京(現、吉林省の省都「長春」です)にあった「大和ホテル」です。
詳しくはリンクの写真をご覧ください。

 おお、失礼いたしました。

 ここしばらく、ネットランナーあたりを読んで夏休みにネットデビューしたと思われる中学生らしき奴が、しきりにIPをあれこれ弄くってコメントスパムを書き込んでいます。季節外れの夏厨は迷惑なので、さっさと学校の教室に戻って欲しいのですが。

 うっとうしいので、あやしいIPで来ている奴、及び夏厨特有の書き口の投稿は問答無用で削除しています。夏厨が来なくなるまで、この方針を続けます。

 おややややさんもまた、怪しまれるに十分な書き込みをしておられますね。
 あなたの、書き込みIPは、127.0.0.1でした。このアドレスは、NIFTYが「『127.0.0.1』を追加すると、ココログ全体からのトラックバックが投稿規制されてしまうので、ご注意ください。」とアラートを流しているアドレスです。何をどこで学んでこられたのですか?別のプロバイダとは何のことですか?

 怪しすぎるアドレスを詐称している以上、あなたという人物の信用度は皆無と判断します。以後あなたの投稿を一切禁止します。返事無用です。上記投稿は有用な情報を含んでいるので、削除しません。

 また今後127.0.0.1からの投稿があった場合、名義の如何に関わらず、同アドレスからの投稿を封鎖します。不便ですが、厨房によって私が不利益を被ったという記録は残ります。後々、厨房を懲らしめるようなことになった際には、何かの証拠となるでしょう。

『悪魔の飽食」は小説ですよ。ノンフィクションではありません。スペースシャトルにせよ、731にせよ、メディアリテラシーを鍛えて、プロパガンダに踊らないようにして下さい。

kkさん、こんにちは。

 私は「石井部隊は『悪魔の飽食』で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。」と書きました。これは例えば「『寅さん』で有名な葛飾柴又」と同じロジックです。「悪魔の飽食」の真偽は文意に影響ないと思いますよ。


 とはいえ、当方も731部隊について詳しく知っているというわけではないのので、ちょっと調べてみました。

 まずはお手軽なところでWikipedia
「731部隊」
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

「悪魔の飽食」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%A3%BD%E9%A3%9F

 「悪魔の飽食」は回収騒ぎを起こしていますが、それは内容ではなく掲載した写真が偽物であったという理由からですね。また、内容については「赤旗」記者の下里正樹氏が相応の部分を提供したそうです。ソースが赤旗記者ということも、本書の真偽について大きな論争を引き起こす原因になったとか。

森村誠一氏本人による解説
http://www.morimuraseiichi.com/list/html/096.html

 ざざっと検索をかけただけでは、石井部隊のやったことに対するまとめは見つかりませんでした。とりあえず信用できそうな記述として以下の2つを見つけました。

霊長類フォーラム:「悪魔の生物学」書評
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsvs/05_byouki/prion/pf119.html

当時満州で従軍していた方が体験した敗戦前後の石井部隊の動き
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8868/column59.html


 「悪魔の飽食」について、様々な議論があることは私も知っていますが、残念ながらそれに論評を加えることができるほどの知識を私は持ち合わせていません。また、ネットで少し検索したぐらいで、一冊の本の真偽を判断することはできません。

 メディア・リテラシーに基づき、「悪魔の飽食」の真偽について一定の心証を得るには、少なくともオリジナル及び、数冊の石井部隊に関する研究書を読み、その知識に基づいて検索をかけるぐらいの手間が必要でしょう。それでも主張できるのはあくまで「心証」レベルです。

 「『悪魔の飽食』は小説である」と主張するには、オリジナルの資料(石井部隊の残した資料や、関係者へのインタビューなど)を読み込む必要があるかと思います。資料は未だにアメリカの国立公文書館で非公開扱いになって眠っているそうです。本気で取り組むならば、ライフワークものですね。

 こういった歴史的事実の追求において、ある主張を覆すのはかなりのハードワークです。私にできるのは、信頼できる研究者の仕事を読み、それに基づいて感想を述べることだけではないかと考えています。

 とりあえず、私としては、この狭いコメント欄において、「『悪魔の飽食』は小説ですよ。ノンフィクションではありません。」と、あっさりと言い切ってしまうことに、あやうさを感じたことを申し添えておきます。

> 本気で取り組むならば、ライフワークものですね。
神奈川大学教授の常石敬一氏がされてますね。『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)、『七三一部隊―――生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書)など。
(URLは氏の「ここは常石のホームページです―――基本的に文字ばかりです」)

>私は「石井部隊は『悪魔の飽食』で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。」と書きました。これは例えば「『寅さん』で有名な葛飾柴又」と同じロジックです。「悪魔の飽食」の真偽は文意に影響ないと思いますよ。
あなたが書かれたのは、「石井部隊は「悪魔の飽食」で有名な細菌戦部隊731部隊のこと。本来の仕事は防疫だった。」です。最後の「本来の仕事は防疫だった。」は、それ以外の仕事、人体実験が含まれていたと示唆していると、私は読みましたが、他の読み方がありますか?
また、
>「悪魔の飽食」は回収騒ぎを起こしていますが、それは内容ではなく掲載した写真が偽物であったという理由からですね
と書かれていますが、写真も内容の一部です。それも作者による捏造の容易な証言などのテキストよりも、重要な証拠です。
ライフワークにしなければ分からないといのなら、疑わしきは罰せず、事後立法の禁止の原則に従うものでしょう。
まして、「多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」にいたっては、書く気も失せます。

Junoさん、どうもご教示ありがとうございます。時間を見つけて常石教授の著作を読んでみることにします。

kkさん
>「本来の仕事は防疫だった。」は、それ以外の
>仕事、人体実験が含まれていたと示唆している
>と、私は読みました
 なるほど、kkさんは、そもそも731部隊は、人体実験をしていないという立場に立っておられるわけですね。

 この微妙な件について、手短に書くのはかなり困難でしょうが、まずWikipediaにあるように、現在、731部隊が人体実験を行ったということについては、ほぼコンセンサスが得られていると私は認識しています。
 私の心証としては、1)石井部隊関係者が戦後、連合軍の追求をのがれている、2)米国立公文書館にはまだ未公開の関連資料がある——という2点から、石井部隊関係者が戦後連合軍となんらかの取引をしたことと、そこに細菌戦に関してアメリカ軍が有用だと判断した情報、少なくとも「防疫」ではない情報を彼らが保持していたことは間違いないだろうと感じています。

>写真も内容の一部です。
 もちろんそうですね。だからこそ本は回収されました。

>作者による捏造の容易な証言などのテキストよりも、重要な証拠
 これはそう簡単に断言できませんね。写真もまた偽造の対象となってきたこと(レーニンの隣のトロツキーが消された有名な写真はご存知ですか)、そして写真は、いつどのようなシチュエーションで撮影されたかの情報がなければ誤解を招く可能性があることを思い出さねばなりません。
 テキストは事実を記述しているが、付属した写真が偽物であったという可能性も考え得るのです。
 もちろん、実際にそうなのかは、また別問題です。

 「疑わしきは罰せず」というのは司法の理念ですね。石井部隊がなにをしたかというのは歴史的事実の判定です。そして上記の通り、私は人体実験に関しては石井部隊はクロであるという心証を持っています。
 現在進行形の司法裁判では心証をもって事実を語るべきではありません。しかし歴史的事実に関しては、より闊達な議論を引き出すために、心証を語るぐらいは許されるべきか、と私は感じています。心証の上に論考を重ねるのは、あまり感心したことではないですが。


「多分あそこで日本が勝っていたら東京裁判どころじゃない無茶苦茶をやったに違いないよ」というのは、実際に満州で育ち、艱難辛苦の引き揚げを経て日本に帰ってきた、父の友人達の言です。当時実際に満州に生きた人達の言葉として記録しておいてもいいだろうと思い、当blogに掲載した次第です。
 もちろん、そのことに対してkkさんがどのような感想を持つのも自由です。が、現実に満州国に育った者の言葉は、それなりの重みを持って受け取ってもらえれば、と希望するものです。


 kkさんも、書く気が失せたようですし、この件はこれにて終わりにしたいと思います。kkさんが望むならば、もう一度だけ当コメント欄に意見を書き込んで下さい。

 そこから先は、当blogの読者がそれぞれに判断するでしょう。

 なにかそれ以上の膨大な反論がありましたら、ご自分のページで行って頂ければと思います。当ページ、リンクは自由ですので。

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