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2006.02.21

カブのように、セブンのように

 引き続き、大隅高山の高山やぶさめ館に滞在中。

 ちょっと時間があるので、書こう書こうと思っていたことを。

 雑誌「サイエンスウェブ」3月号に、日本独自の有人宇宙構想についての記事が掲載された。

 中核となるのは、開発凍結になった無人ミニシャトル「HOPE」とほぼ同型の5人乗りミニシャトルだ。ミニシャトルは翼を持つ本体と拡張モジュールからなり、拡張モジュールは打ち上げごとに使い捨てとなる。ミニシャトルと拡張モジュールの合計は25t。
 ミニシャトルは、HOPEとほぼ同型。これはHOPE検討の過程で行った空力解析の結果を有効に利用するためと説明されている。
 打ち上げに使うのは、LE-7A後継エンジンを2基使うコアの第1段に、同型の4本の液体ブースターを装着した2段式ロケットだ。
 第1段のエンジンは、明記されていないものの、2003年10月の秋にJAXAが設立された際、公表された「基幹ロケット」構想で検討されたものだろう。推力、比推力はLE-7Aとほぼ同じで、二段燃焼サイクルをやめて、より構造が簡素なエキスパンダーサイクルを採用している。
 JAXAとしては、「今後10年は独自の有人宇宙構想を持たない」とした内閣府・総合科学技術会議の縛りが解ける2015年以降に、こういう有人宇宙輸送システムを開発したい、というアドバルーンを上げたといえるだろう。

 「ははあ、松浦がまた有翼シャトルを批判しようとしているな」と思うだろうか。もちろん正解なのだが、実はこの構想、翼を別にしても全く成立していない。

 このミニシャトル、打ち上げ前から軌道までの全領域での緊急脱出が不可能である。

 もう知っている人は多いだろうけれども、スペースシャトルは打ち上げ初期の固体ロケットブースターが燃焼している間は、脱出の手段がない。1986年のチャレンジャー事故は、まさにその時間帯に発生した。
 対して、ソ連/ロシアの「ソユーズ」宇宙船は、打ち上げのどの時間帯でも緊急脱出手段が存在する。緊急脱出用ロケットモーターが、人が乗るカプセル部分のみをロケットから分離できるのだ。射点上でロケットが火災を起こして、カプセルが緊急分離し、宇宙飛行士が生還できたこともあっった。
 有人宇宙輸送システムとしては、打ち上げのどの段階でトラブルが起きても「とりあえず死なない。ケガは負っても生還できる」というシステムは必須だろう。
 「ソユーズ」宇宙船は、「何があってもとりあえず死なない」という思想が徹底している。例えば大気圏突入時に、カプセルが適切な姿勢を取り損なった場合は、カプセルをぐりぐり軸回りに回転させて姿勢を安定させ、大陸間弾道ミサイルの弾頭のようにまっすぐ大気圏に突入するモードに入る。搭乗した宇宙飛行士は強烈な回転と加速度に晒され、目が回ったり肋骨を折ったりするかもしれないが、とりあえず大気圏再突入で燃え尽きたり空中分解したりすることはなく、生きたまま帰還できる。

 そういう、有人宇宙船を成立させる上で必要な合理性が、このJAXAのミニシャトルからは見て取ることができない。この形式のミニシャトルに5人が乗るとすれば、打ち上げ時の全領域で緊急脱出可能にするには、射出座席を装備するしかないだろう。しかしたかだか25tのミニシャトルに5人分の射出座席を装備できるとは思えない。

 もっと言ってしまえば、25tで5人を打ち上げる有人宇宙機、というのが無駄の塊であろう。25tといえば、ソ連の最初の宇宙ステーション「サリュート1」よりも重いのだ。たかだか低軌道との往復のためには、もっと軽量な往復手段を考えるべきである。少なくとも1人/1tぐらいでいいのではないか。1人あたりの宇宙機重量を削れば、それは打ち上げコスト削減に繋がる。

 打ち上げるロケットも、決してこれで低コストな有人輸送システムになるとは思えない。この打ち上げコンフィギュレーションでは、LE-7A後継エンジンが10基必要になる。エンジン1基をどこまでコストダウンするつもりなのだろうか。現在エンジンLE-7Aエンジン1基を装着するH-IIAが100億円ほどだ。固体ロケットブースターが不要になる分などを色々勘案しても、エンジン1基を2〜3億円程度に抑えないと、現状と同じ価格にはならない。それとも「打ち上げ能力が向上するから高くてもいい」ということなのだろうか。

 まして、この構想では、再利用するのは翼を持つミニシャトル部分だけである。ロケットは使い捨て、有人セグメントの拡張モジュールも使い捨て。それで、ミニシャトル部分が再利用できるとして、いったいいかほどのコストダウンになるのだろう。
 一つの考え方として、「将来のSSTO構想に向けた練習だ」ということは言えるかも知れない。だが、現状では単段で宇宙に行き、そのまま帰還するSSTOは技術的に妥当な解が存在しない。研究は続いているが、まだ成立するかどうかは分からないわけだ。研究は続けるべきだが、それを遠未来の目標として高々と掲げてしまっていいのだろうか。

 この構想から思い出すのは、1989年頃の、ぶくぶくと機体重量が増えていった時期の欧州版ミニシャトル「ヘルメス」だ。ヘルメスは最初15tで4人乗り、ペイロードベイとリモートアームを持つ、全くの「小さなスペースシャトル」として検討がスタートした。ところが1986年のチャレンジャー事故の結果、安全対策がクローズアップされて、重量がどんどん増え始めた。1989年には遂に、ミニシャトル全体を再利用することを諦め、軌道上で使い捨てにする「リソースモジュール」「推進モジュール」を装備した三段重ねとなった。それでも22tを超えた機体重量の増加はどうしようもなく、ついにはヘルメスを打ち上げるためだけに、打ち上げ能力を向上したロケット「アリアン5マーク2」の検討を行うという本末転倒が起きてしまった。こんなものがうまくいくはずもなく、計画は1990年代初頭に中止になった。

 ここまで、私は翼を持つデメリットについて一言も触れていない。
 それでも、これだけ突っ込みができるほど、この構想は形になっていない。翼を持つデメリットを言い出せば、正直なところ、この構想は突っ込みどころ満載だと思う。

 JAXAの宇宙輸送システム系は、優秀な人たちが集まっている。それが、このような構想を出してしまった理由はどこにあるのだろう。彼らも分かっているはずだと思うのだけれども。

 ひとつ、この構想が「HOPEの空力データを有効利用する」ということで始まっているところに、理由があるかもしれない。過去の資産を生かそうという圧力がどこかでかかったというのはあり得ることだ。
 もっとも、私が知る限り、HOPEの空力設計は、打ち上げから着陸までの全領域で成立することは遂になかった。特に、打ち上げ時の横風安定性(ロケットの頭に大きな翼を持ったミニシャトルが乗っている。矢羽根が先頭についている矢と同じで、横風で簡単に姿勢が崩れてしまう)と、大気圏再突入から着陸までの全領域で機体の安定性を確保することは困難を極めたという。

 私としてはHOPEは貴重な経験として頭の奥にしまい、とりあえずはゼロに戻ってまっさらな頭で、本当に有効で役立つ有人宇宙輸送システムはどんなものか、考え直すほうが良いと思う。

 もう一つ、この構想はどう考えても、高価になり長期の開発期間が必要となる。それは実際に宇宙に行ってみたい向きには困ったことだが、そういう開発を歓迎する感性も存在する。
「官需に食いついて、長期間収益を上げたい」という産業にとっては、このミニシャトル構想は歓迎すべきものとなる。
 それは国民の税金と「宇宙に行きたい」という国民の願いを食い物にするということだ。だが、公共事業というものがそういう性格を持つことを、皆、道路公団その他でよく知っているだろう。
 「産業を支えるために官需が必要」というのは、宇宙産業ではよく行われる議論だけれど、税金を払っている側からすれば「国民にとってろくに役に立たないもので会社の売り上げを立てようというのは、ふざけるんじゃない」だろう。

 「ふじ」構想を検討している時、仲間内では「カブを作ろう」ということを意識していた。ホンダのスーパーカブだ。そば屋さんが出前に使っている、あの小さなバイクである。スーパーカブは、世界で一番早いわけではないし、すごい技術を使っているわけでもない。でも、世界で一番役に立っているバイクであることは間違いない。
 もう一つ、意識したのはロータスのスポーツカー「スーパーセブン」だった。セブンは、「安いスポーツカー」というコンセプトで作られた。その構造は簡素そのもので、フェラーリやポルシェに比べれば全然豪華じゃない。むしろ思いっきり安っぽい。サスペンションなんて「バカじゃないの」って思うぐらい簡単だし、エンジンパワーだって全然小さい。でも「心楽しく走る」というスポーツカーの役目に対しては、フェラーリよりもポルシェよりも応えている。

 すごい技術を無理に開発する必要なんて全然ないのだ。同じ目的が達成されるなら、簡単で簡素、安っぽい技術で達成するほうが、システムとしては優れている。安くて安全で定時運行できれば、すごい必要は全くない。

 すごい技術の開発は、すごい技術がどうしても必要不可欠となるときまで、とっておけばいいのである。


 しかし、ヘルメスの失敗について若い技術者やマスコミは知らないのだろうか。このあたりは、「宇宙の傑作機 アリアン5」にかなり書き込んだのだけれども。
 再販して、せめてマスコミに配布するぐらいのことはしたほうがいいのかなあ。版元の高橋さん、どうしましょうね。

打ち上げが1日延期となる

 というわけで、皆さんご存知の通り打ち上げは1日延期になった。現在大隅高山に戻ってきてこれを書いているが、外はまぶしいほどの快晴である。一体あの雨は何だったのだろう。

 今日の午前0時から6時の天気予報は晴れで、降水確率は10%だった。ところが午前3時半にセンターに向かうと、途中はすごい霧で雨もぱらついている。
 M-Vロケットのフェアリングは防音・断熱のためにコルクを使用している。(「日経ものつくり」の記事)大量の水を浴びると、コルクに水がしみこんで劣化してしまう。
 だから霧の中、ロケットを出したということは、よほどのことがない限り打ち上げるということだろうと考えていた。

 ところが今回の場合、ほとんどねらい澄ましたように局地的な雨雲が発生して内之浦のセンターに大雨を降らせた。降雨レーダーで雨雲の接近を察知した打ち上げ班は打ち上げを中止して大急ぎでロケットを組立棟内部に戻した。その直後、1分も立たないうちに大雨が降ってきたそうだ。
 これが、大雨を浴びていたら、おそらく1日の延期では済まなかったろう。

 今はとりあえず、快晴が明日の午前6時28分まで続くことを祈って、持ってきた仕事を宿ですることにする。

 こういう場合、SAC取材陣では「出番がないまま撤退かよ!」というセリフが出てくるのだけれど…これもまあ、同世代以外に通じにくいかも。

2006.02.20

内之浦で大先生と並び、ラーメンをすする

 19日はフェリーで鹿児島に戻り、内之浦に移動。当地で大阪からの2名が合流し、取材陣は合計6名となる。

 本日昼、内之浦のセンター入口で受付をしていると、自動車で的川先生が通りかかる。「ラーメン食べに行くんですよ」。はい、松脇ですねと、後から我々も付いていく。松脇は笹本さんの「宇宙へのパスポート2」に出てくる。「大・中・小・めし」の潔いメニューしかないラーメン屋。豚骨あっさり味のとてもおいしい店だ。

 店は混んでいた。いつもは山のように出てくる大根の漬け物も「こめんなさい。終わっちゃったんです」となし。スープがおしまいのようで「大」の注文も不可。それでも我々が入った直後に、売り切れとなったので、運が良かったと考えるべきだろう。

 的川先生一行は、稲谷先生に若者、そして温厚な雰囲気のご老体の4人連れ。的川先生がご老体を紹介してくれる。「平尾先生です。『さきがけ』『すいせい』のプロマネです」。おお、平尾邦雄先生。日本初の惑星間探査機の開発と運用を指揮した大先生だ。平尾先生は「もう、あれから21年経ったんだねえ」と感慨深そうだった。

 そんな大先生一行と並んで、我々6人もラーメンをすする。一ヶ月ぶりの松脇のラーメンは美味でありました。

 「明日は打ち上げの本番じゃからな」といって、いつまでも打ち上げ前日、というのは、SAC取材陣で良く出るジョークだが。…まあ同世代以外に通じにくいかも。

打ち上げを追ってさまよう

 現在、内之浦の隣の大隅高山に来ている。明日はM-V/ASTRO-Fの打ち上げだ。時刻は午前6時28分。天候はよいようなので、美しい打ち上げを期待しよう。

2006.02.18

プレスセンターで打ち上げを待つ

 午後2時現在、竹崎プレスセンターで打ち上げを待っている。打ち上げ準備作業は昨日来順調すぎるほど順調に進んでいる。

 上空は午後1時過ぎまで見事に晴れていたのに、この1時間で、厚い雲に覆われてしまった。腹立たしいが、天気だけはどうにもならない。

 願わくば、打ち上げの方向だけにでも雲が切れますように。

プレスセンターで待つ

 2月18日土曜日午前1時48分現在、種子島宇宙センターのプレスセンターで、H-IIA9号機のロールアウトを待っている。先ほど、プレスツアーに参加する面子がバスで出発した。プレスツアーは1団体2名に制限されている。宇宙作家クラブとしては、初めて島に来た者と、写真など映像関係者を優先という基準でプレスツアーに参加している。

 実際問題として、推進剤充填開始の前はセンター内をかなり自由に動ける。いくつ機体ロールアウトを見ることができるポイントがあるので、そこに行けば、プレスツアーに参加できなくとも、かなり満足のいく絵をみることができる。

 午後11時34分時点でのGO/NO GO判断はGO。機体のロールアウトは午前2時30分からだ。空は快晴だが、月がほぼ南中しており、満天の星というわけではない。

 ロケットは輸送手段であって、毎回感動したり「成功しますように」と祈るようでは駄目だ。軽トラックのようにさりげなく、当たり前に衛星を打ち上げなくてはならない。
 とはいえ、それでも50m以上もあるロケットが巨大な機体組立棟から出てくる風景は胸が躍る。
 これはどうしようもない。私は「サンダーバード」で育った世代である。

2006.02.17

またも島へと向かう

 現在2月17日金曜日朝、鹿児島港のジェットフォイル乗り場にいる。18日のH-IIAロケット9号機打ち上げの取材のため。またも自動車を交代で運転しつつ、えっちらおっちらと一晩かけて東京から走ってきた。

 以前は鹿児島まで来ると、「ああ、遠くまで来たもんだ」と思ったけれども、今回は前回1月に引き続き1ヶ月間隔。「また来た」と、ちょっと感慨も薄い。

 うまく18日に上がれば、そのまま内之浦に回り、そのまま21日のM-Vロケット打ち上げを取材する。前回に引き続き、種子島、内之浦ダブルヘッダーだ。

 問題は天候その他で予定が崩れた場合。

1)種子島で、上空を通過するM-Vロケットを見る
2)大隅半島から、種子島より昇るH-IIAロケットを見る
3)天気が悪くて何も見えない

 さあ、どうなるか。

2006.02.09

宣伝:2月11日(土曜日)、新宿・ロフトプラスワンのトークライブ「ロケットまつり10」に出演します

 今週の土曜日に「ロケットまつり10」を開催します。1970年2月11日、日本初の衛星「おおすみ」打ち上げが成功しました。それから36年目の2月11日、「おおすみ」打ち上げとラムダロケットについてお聞きします。笹本、松浦の「はやぶさ」タッチダウン取材の話もあるかも。

 林さんの誕生日ということでちょっとしたイベントあり。

宇宙作家クラブPRESENTS
「ロケットまつり10」
1970年のおおすみ発射の日。そしてロケット班長であった林紀幸さんが生まれた日でもある、この日に10回目を開催!

【Guest】林紀幸(元ロケット班長)、垣見恒男 (日本で初めてジェットエンジンを設計)
【出演】浅利義遠(漫画家)、笹本祐一(SF作家)、松浦晋也(ノンフィクション・ライター)、他
2月11日土曜日
Open/18:30 Start/19:30
ロフトプラスワン :新宿・歌舞伎町

¥1000(飲食別)
当日券のみ

今井紀明氏のblogが炎上する

 昨年末に普通の20歳には許されるバカな行い(それは成長に必要な行為だったりもする)が、彼の場合思わぬ非難を引き起こす可能性がある。と書いたのだけれども、懸念が現実化してしまった。

 今井紀明氏がblogで、イラク人質事件当時に実家に届いた匿名の批判の手紙を公開しはじめた。

批判、中傷の手紙を公開 イラク人質事件の今井さん:共同通信2月8日

今井さんは公開について、気持ちに一つの区切りがついたからと説明。「事件については誤認も多く、問い直すきっかけになればと思っている。家に届いた手紙の約9割は匿名。批判するのは構わないが、匿名はフェアではない」と話している。  ブログのタイトルは「向き合いの中から生まれるもの、それは対話」。

 その結果がどうなったかといえば、2月9日午後現在、「向き合いの中から生まれるもの、それは対話」は、アクセス過多で閲覧不可能に。もうひとつのblog「今井紀明の日常と考え事」のコメント欄は炎上状態になっている。

#2月9日午後8時注:こちらから「向き合いの中から生まれるもの、それは対話」の内容を読むことができる。

 一個人の感想を述べるなら、「何をまた智恵の足りないことを」ということだ

 今このタイミングで、匿名の手紙を公開すれば、「自分のやったことには反省その他の言及なしで『自分はこんなにひどい目にあったんだよ」と主張している』と受け取られることは、自明ではないだろうか。
 文章を書いて事実を伝えることを職業とするなら、そのように受け取られるということを前提として、なおかつ相手に真意が届くような情報の出し方を考える必要がある。
 が、実際に彼がやったのは、あまりに若い、下の下といえる方法だった。

 この件に関して今井氏は迷惑をかけて申し訳ありません、ただ少し聞いていただきたいですという記事を2月8日付で公開している。

しかし、手紙や今僕のブログに書かれた言葉を見るように、当初僕は「死ね」「バカ」「きもい」など多くのことをいわれました。そして、今日もです。  そういう言い方の批判はあるのでしょうか。最近はネットで誹謗中傷を受けた被害者の方などにも会ったりしていますが、面と向かっていえる「言葉」なのでしょうか。もちろん、匿名は悪い面ばかりではないと思います。しかし、匿名だから批判できる(言葉が極端になる)というのはいささか考えたほうがよいのではないか、とあの事件を通しては思います。  反省しているか反省しないかは受け取る方の判断に任せますが、そういったリンチ的なものに関しては違和感を持たざるを得ないのではないでしょうか。

 上記のように書いてしまえば、「お前が言うか」と、ネットの悪意を一層引き出すだけだろう。

 事態は起きてしまった。後は彼の運と生命力の問題だ。それらが旺盛なら、批判すら取り込んで彼は成長するだろうし、そうでないならつぶれることになるだろう。

 とりあえず私のコメントはおしまい。トラックバックも送らないことにする。以後、よほどのことがない限り、今井氏については書くことはないだろう。

 しかし、彼に助言する大人はいなかったのだろうか。

2006.02.08

伊福部昭氏逝去す

 訃報:伊福部昭さん91歳=作曲家 映画「ゴジラ」も作曲:(毎日新聞)

 北海道・釧路生まれ。北海道帝大専門部卒。林務官を務めながらアイヌ音楽や樺太のギリヤーク民族の音楽を研究、「民族の特異性を経て普遍的な人間性に至る」ことを作曲理念に据え、ほぼ独学で民族色豊かな作品を作り出した。1935(昭和10)年、「日本狂詩曲」でパリのチェレプニン賞に入選。同曲は翌年米国でも演奏され、国際的な脚光を浴びた。来日したロシア出身の作曲家、チェレプニンに近代管弦楽法を師事。「土俗的三連画」「交響曲 オホツク海」など独自の交響作品を次々に完成させた。

 一昨年の卒寿記念コンサートでも車いすの登場だったので、かなりお年を召されたなという印象だった。41歳にして肺の病で倒れた盟友の早坂文雄や、65歳にしてガンで忽然と風のごとく去っていった武満徹などを考えれば、この世で成すべき事をすべて成し遂げた、幸福な人生だったと言えるのだろう。

 ただ一つ、戦争中の作品「交響詩・寒帯林」の復活演奏が死に間に合わなかったのは、悲しいことだと思う。この曲は、中国に楽譜があることが確認されたにも関わらず、中国側の事情で楽譜返還が未だ実現していない、

 他に比べるもの無き、「伊福部音楽」としか呼びようのない音楽の数々。私は幼少時に「ゴジラ」シリーズの音楽で、まずその洗礼を受け、高校時代に管弦楽曲を心に刻んだ。一度もお会いしたことはなかったが、心の師の一人であった。

 偉大なる人の偉大なる人生の終幕に、心からの敬意を。ありがとうございました。

 以下、とりあえず思いつくままに並べておきます。


 伊福部昭の伝記。現在のところ、もっともよくまとまった伝記だと思う。



 伊福部本人が、一般向けに自らの音楽観を語った唯一の本。彼の技術が大部の著作「管絃楽法」にまとまっているとするなら、彼の音楽芸術に対する精神的態度はこのコンパクトな本に凝縮されている。
 大変な名著。読むべし。



 伊福部を初めて聴くなら、まず初期管弦楽曲から聴こう。21歳にして書いた最初のオーケストラ曲「日本狂詩曲」の冒頭、静かなヴィオラのソロが鄙びた旋律を歌い出す部分で、もうノックアウトされるはずだ。驚くほどの音楽の瑞々しさ。一転して第二楽章では本人が「この楽章は打楽器が主で、管絃が伴奏である」語った通り、打楽器群が大音響の饗宴を繰り広げる。
 その上で、一転して簡素な音で書かれた「土俗的三連画」と第二次世界大戦中にこの世を去った兄への追悼として書かれた「交響譚詩」の、簡潔な佇まいに耳を傾けるべし。


 代表作である「タプカーラ交響曲」は、複数の録音があるのでお好きなものをどうぞ。ここでは一番手に入りやすいかと思われる広上淳一と日本フィルの録音をリンクしておく。



 「オレはゴジラが聴きたいんだ」という人にはこれ。伊福部の怪獣映画の音楽を演奏会用に編曲した「SF交響ファンタジー」が「1番」「2番」「3番」とまとめて収録されている。
 個人的には1番のラストを飾る「宇宙大戦争」のファンファーレと、それに続く「怪獣総進撃」マーチのあたりが大好きだ。3番に出てくる「海底軍艦」のテーマは「僕らの海底軍艦轟天号、轟天号」というファンが付けた後付けの歌詞を思い出す方もいるのではないかな(後半「●●●●艦長神宮寺、神宮寺」というフレーズが出てくるので人前では歌えないのだ)。


 このCDのメインである「タプカーラ交響曲」はあまり良い演奏ではないのだけれども、同時収録の「ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ」は、ある程度伊福部の音楽を聴いたことがある人にこそ聴いて貰いたい。「エネルギッシュ」とか「土俗的」という言葉で形容されることの多い伊福部だが、実は細心の注意を払って理知的に曲を構成しているということが分かる作品だ。
 とはいえ、実際に響く音楽はまぎれもなく伊福部節。耳がひきつりそうなほどの変拍子でピアノがばく進する。

2006.02.05

「滑って」「転んで」の記憶が蘇る

 今週は雪の富山に仕事で行ってきた。帰ってくると茅ヶ崎も雪が降ったようだ。

 駐車場の自動車、住宅の塀、店頭の日よけ——あちこちに雪が乗っている。それもさらさらの、一切水を含んでいない乾いた雪だ。こんな雪を茅ヶ崎で見るのは初めてだ。寒い。本当に寒いんだな。

 道路のあちこちに雪が残って凍っている。

 恥の記憶が蘇る。1980年も寒い冬だった。私は高校3年の大学受験生で、共通一次試験という奴を受けることになっていた。
 試験当日、自宅の前の道路には大きな氷が張っていた。一緒に会場に行こうと、友人がやってきた。私は自宅前に自転車で出た。

 突如、妄想が頭の中にわき上がった。氷の上を、自転車ですーと滑走したら面白いのではないか。試験前にちょうど良い景気づけじゃないか。
 少し考えれば、自分の頭の中で「猿回路」が発動したことが分かったはずだ。だが、自分がバカなことをしているとは全然思わなかった。試験勉強でどこかが麻痺していたのだろう。きっとそうに決まっている。

 私は少々勢いをつけてから、自転車を氷の上に乗り入れた。

 当然滑りますわな。滑れば転びますわな。気が付くと私は転倒して、斜めになった路面を見ていた。友人がそれこそ凍り付いたような表情で私を見ていた。空気が冷たかったのは寒波のせいだけではなかったはずだ。

 その年、私も、一緒に会場に行った友人も浪人した。もちろん勉強不足のせいだ。決して滑って転んだからではない。断じて…

 数年後、「めぞん一刻」という漫画で、主人公の浪人生五代君が坂を滑り落ちるという場面を読んだ。

 ありがちだ、と私は深くうなずいたのであった。

2006.02.01

「バランタイン17年物」の梅酒を堪能する

 種子島から帰還以来、しばし潜航しているのだが、いい加減時季外れになっている正月の話を。

 例によって妹一家が来た。我らが母に甥やら姪やらを見せたり、温泉に連れて行ったり。彼女曰く「いつもより疲れたよ」。まあそう言うな。母は孫に会うのを楽しみにしているのだから。

 で、覚えておられるだろうか。妹が昨年の正月、「シーバス・リーガル12年」の梅酒を漬けて持ってきたのを。

 彼女は今年、さらなる弾頭を用意してきていた。すなわち「バランタイン17年物」で漬けた梅酒。一体なぜ、そんなものを漬ける気になったのか、そもそもお前んとこになぜそんなにバランタインがあったのとか、問いつめたいことはいくつもあれど、もちろん問いつめない。彼女の機嫌をそこねて、飲ませてくれないということになったら大変だ。

 ええ、話を聞いた時から、そりゃあ期待していましたとも。バランタイン、しかも17年物で漬けた梅酒ですぜ。酒飲みなら言語道断と言い切るであろう邪道の梅酒。いったいどんな味かと思うじゃないですか。

 例によってブツは、500mlのペットボトルに無造作に入っている。バランタイン様17年ものの梅酒を、ストレート用の小さなグラスでちょこっと味見する。

 …旨い。

 シーバス・リーガル12年梅酒では、梅のさわやかな味とシーバス本来の風味がうまく溶け合って、えもいわれぬ香りと味の饗宴を醸し出していたが、こいつは溶け合ってはいない。梅とバランタインが鋭く対立し、香りも味もがつんとショックを与える味になっている。
 笑いが止まらない。この、邪悪なる梅酒と、そんなものを漬けた我が妹の両方に対して笑いがこみ上げてくる。

 が、妹は不満そうな顔をしている。
「まずくはないんだよ。まずくは。でもね、うまく梅とベースが溶け合っていないのさ。生かし合っていないというか」
「これはこれでいいじゃないか」
「うーん、でも、もうバランタインで梅酒を漬けることはしないと思うよ」

 なんだか罰当たりな会話だが、とにかく、バランタイン17年の梅酒は、私の人生でこれが最後ということになるらしい。そうそう彼女のところに、バランタイン17年が回ってくることもないだろうし、一期一会という奴か。

 しかしこいつ、と妹を見る。つくづく思い切りのいい奴っちゃ。ともあれ、滅多に出来ない体験をありがとう。

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