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2006.06.10

広島平和記念資料館で考える

Hiroshima
 旧聞だが、先月19、20日と広島に行った時の話。

 20日は午前中から、広島平和記念公園にある、広島平和記念資料館へと行った。
 不謹慎な書き方だが、期待していた。こうの史代「夕凪の街 桜の国」には、登場人物の一人がここの展示を見て気分が悪くなってしまうシーンがある。気分が悪くなるほど、原子爆弾というものの実態を突きつける展示をしているなら、それは見なくては。

 結論から言うと、ダメダメだった。特に、新しく作られたという東館の展示が見事なぐらいに駄目。公共事業で作られたと思しき「ま、こんなもんでしょ」感溢れるぐだぐださに満ちていた。修学旅行の中学生と思しき一団と遭遇したし、団体観光らしい中国人やロシア人の集団とも行き違ったが、彼らに何かが伝わったかどうか。

 博物館の要諦は、見物人に「ごめんなさい、もうしません」と泣き言を言わせるほどの展示品の密度にある。広島平和記念資料館東館の展示は、記述のイデオロギーがどうのこうの以前に、密度が低すぎる。
 大英博物館の、向こうがかすむほどでかい展示室一面に詰まった鉱物結晶サンプルとか、パリの戦争博物館のいくら見ても見ても終わらない甲冑のコレクションとか、ドイツはイエナのカール・ツァイス博物館の、建物はちょっとしたアパート程度の広さしかないのに到底1日ですべても見ることが出来ない息が詰まるほどの高密度展示とか、そういったものを経験している身にとしては、東館展示は「怠慢」と書いた紙を貼って回りたいほどに密度が低い。
 記念館に来る人は、もっとたくさんの事実を知りたいはずなのだ。壁面を写真パネルと解説で埋めるだけで、なにかが伝わるなどと思わないでほしい。

 そして展示方法も下手だ。アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆開発を進言した手紙のコピーが展示されている。たかだか便せん数枚の手紙なのに、重ねてあって全文を読むことができない。こんなものは全部読ませ、全文を翻訳展示すべきだ。読めたところだけでも、アインシュタインは原爆が重くなりすぎるので、船に乗せて港湾攻撃に使うしかないと考えていたという、興味深い一節を知ることができた。

 以前からあったという西館に移ると、展示はいくらか持ち直す。被災地から回収された遺品、破壊された建物の構造物などが展示され、ずっと原爆というものの実態を肌で感じることができる。
 それでも、やはり展示の密度が低すぎる。記念館は相当数の収蔵品を持っているらしい。ならば、もっともっと詰めてぎちぎちに展示すべきなのだ。

 常設展示にがっくりしつつ、地下の特設展示に回る。

 結論から書くと、こちらのほうが壮絶だった。まず、被爆者が当時を思い出して後に書いた絵画、通称原爆絵画などと呼ばれるものの展示。素人の絵なので、絵画としては稚拙。中には本人も想定していなかったであろう方向に突き抜けちゃった絵もあって、最初は不謹慎に笑いながら見ていたのだが、だんだんそれどころではない異様な感覚に引き込まれていった。
 絵に添えられた簡潔な言葉が、半端でなく強烈なのだ。これをなんと形容すればいいのか…淡々と生き地獄を俳句のように表現されてしまったと言えばいいのか…とにかく常設展示よりもはるかに迫真力に富む。このような事実に対面しては、もう泣くしかない。
 明らかに、これらの絵画は西館の遺品展示の中に混合して常設展示すべきだ。

 そして最大の収穫は企画展「宮武甫・松本榮一写真展 被爆直後のヒロシマを撮る」だった。被爆直後に広島に入った2人のカメラマンの撮影した生々しい写真の展示は、私の精神を打ちのめすに十分だった。現在、リンク先には一部の写真が掲載されているので、ぜひ見てもらいたい。

 原水爆禁止運動は、世界の冷戦構造に翻弄され、社会主義国の核兵器を認めるかどうかで、社会党・総評系の原水禁と共産党系の原水協に分裂した。広島平和記念資料館の展示も、あのふざけたイデオロギーの対立に巻き込まれたのだろうか。

 見学に当たっては、広島在住のまいなすさんに同行してもらった。本blogにもたびたび出演している双子の沖兄弟。その弟さんの方だ。
 彼のお祖母さんは、原爆が落ちたときに宇品の方に住んでいた。沖の似島に救護所ができたので、市内からそれこそ火傷で皮膚が大きく垂れさがったような人々が大量に橋を渡って避難してきたのを目撃したという。なにしろ情報の流通が悪かった。桟橋のあっちから船が出る、こっちから出るとうわさが流れるたびに、この世のものとも思えぬ地獄絵図の人々が、桟橋をあっちにうろうろ、こっちにうろうろしたのだとか。
 もちろん、似島の救護所に行ったところでろくな薬はなかったし、そもそも放射線障害について知識を持つ医師などいはしなかったのだ。

「ABCCって知ってますか?」
「知ってる。戦後になってアメリカが放射線障害のデータを集めるために作った設備だろ」
 アメリカにすれば広島と長崎は、来る核戦争に備えるための核兵器の実験場だった。実験である以上データを集めなくてはならない、1947年、アメリカはABCC(原爆傷害調査委員会)を広島と長崎に設立した。何をやったかといえば、占領軍の立場を利用して市民を呼び出してはデータを取っていったのである。
 治療ではない。調査したのだ。

「うちのばあちゃんも、ある日ABCCに呼び出されましてねえ」
「占領軍の呼び出しだから強制だわな」
「アメリカ人のお医者の前で、裸にされてあれこれ調べられたそうです。あんな恥ずかしいことはなかったって言うてましたわ」

 記念館から出ると、空は見事な快晴だった。素晴らしく気持ちよい天気だ。萩原朔太郎など思い出してしまう。

私の大好きな五月

その五月が來ないうちに

もしかして死んでしまつたら

ほんの氣まぐれの心から

河へでも身を投げたら

もう死んでしまつたらどうしよう

私のすきな五月の來ないうちに

 原爆ドームの方へと歩いていく。「エノラ・ゲイ」が爆撃にあたって目標にしたのは、川の上で三叉に分かれる相生橋だった。今も相生橋は三叉路になっている。

 まいなすさんが、東の空を指さした。
「原爆ドームの少し先だから…あのあたりの空で、爆発したわけですな」

 その日、一番衝撃的な言葉だった。


 原爆関係の本は多数出版されている。私はそのすべてに目を通したわけではないので、自分が読んだ範囲からごく一部を紹介する。


 比較的早い時期に、原爆開発をアメリカ側からまとめたノンフィクション。記述が古い部分もあるそうだが、今でも読む価値を持っていると思う。

 原爆開発を知るにあたっては、オッペンハイマーを中心とした科学者だけではなく、国防総省の側からマンハッタン計画の総責任者を務めたレスリー・グローブスを見落としてはならないだろう。グローブスの回顧録は翻訳も出ていたのだけれど、現在絶版中。是非とも読みたいのだが。



 ご存知リチャード・ファインマンの自伝。彼もまたマンハッタン計画に参加しており、本書には当時のロス・アラモスでの生活が出てくる。

 特に、最初の原爆、「トリニティ」爆発実験の後、かなりの関係者が「とんでも無いものを作ってしまった」と後悔したらしい記述があるのに注目したい。「トリニティ」を目の当たりにした者は、その意味を理解できた。しかし、それを見なかった者にとって、原爆は「破壊力抜群の新兵器」というだけだった。破壊力は既存の爆薬の類推で想像できても、それで何が起こるかは想像の外だったのだ。もちろんトルーマン大統領にとっても、想像の外だったのだろう。








 日本側の記録は多数出版されているが、私はそれらを取捨選択できるほど読んではいない。ここではamazonの「広島 原爆」によるキーワード検索だけを表示する。



 そしてやはりこの本を。60年を経て、やっと出現した「悲惨を語る」とも「非道を糾弾する」とも異なる、静かな、原爆を巡る物語。

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Comments

>アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆開発を進言した手紙のコピーが展示されている。たかだか便せん数枚の手紙なのに、重ねてあって全文を読むことができない。
アインシュタインの1939年8月2日付のロウズヴェルト大統領宛の手紙でしたら、便箋2枚だけのようですが。
http://www.dannen.com/ae-fdr.html
http://hypertextbook.com/eworld/einstein.shtml#first

>アインシュタインは原爆が重くなりすぎるので、船に乗せて港湾攻撃に使うしかないと考えていたという、興味深い一節を知ることができた。
この個所ですね。
A single bomb of this type, carried by boat and exploded in a port, might very well destroy the whole port together with some of the surrounding territory. However,such bombs might very well prove to be too heavy for transportation by air.

その節はお世話になりました。
確かに原爆資料館の展示は密度が低いですね。
より充実した資料館の必要性は感じるところです。綺麗なパネルより、本物に勝る展示なしです。

がしかし、これでも修学旅行元の学校から「残酷
すぎる」と苦情が来るのだそうです。
新しくできた東館も、「原爆被害を一方的に強調
しすぎる」という理由で追加されたそうで、やは
り題材が題材だけに、いろいろと気配りが難しい
ようです。特に最近は外国からの訪問者も多い
ようですので。

原爆絵画については、おっしゃるとおり技巧を超
えて訴えるものがあります。絵画の目的が何かを
伝えることにあるならば、これらはゲルニカと同
等以上に戦争の惨禍を伝えるものでしょう。
多く残る被爆証言も同様に胸に迫るものがありま
す。今はネットで膨大な証言が読めますし、平和
公園で直接話を聞くことも出来ます。

いちどだけ、祖母と原爆資料館に行ったことがあ
ります。ボロを来て焼け跡を歩く人のジオラマを
見て「もっともっとひどかった。まさに地獄だっ
た」と言ってました。
「みな水をくれ、水をくれというのだけど、私
は誰にもあげられなかった。どうして平気だった
のか、どうしてもわからない」とも。

ともかく、あの場では逆に私のほうが案内されて
いたようなもので、改めてこの施設を見つめなお
すよい機会になりました。

ありがとうございました。
またゆっくりいらしてください。

 ABCCというのは、私の育った子供時代(20年以上前ですが、もう放射線影響研究所になっていたはず)には得体の知れない恐怖の対象でした。「悪い子にしてるとABCCが来るよ」というのは子供を叱る常套手段であったりした訳で。
 私の学校ははABCCがあった比治山とさほど遠くないところにあったので、低学年の遠足で比治山に登ったときにはあのカマボコ建物のそばをおっかなびっくり通ったものです。

そういえば広島市内の小学校に通っていたころ(昭和四十年代)に、口のはたにご飯粒をつけている子をはやすとき使うこんな決まり文句がありました。
「おべんとつけてどこ行くの、比治山行って死んじゃった」
誰に聞いてもなぜ比治山がからむのか不明だったのですが、ABCCからきていたのかもしれませんね。

#遅ればせながらのbrog検索&コメントすみません。

広島での原爆炸裂から60余年
生き証人的モニュメント「広島ドーム」&広島の平和への祈りもむなしく。。地球上の「大国(軍事的発言力を主張する各国)」は核兵器を今だに手放さない。
しかも、「大国」を目指さんとする「開発推進諸国」(かつて「開発途上国」と称された各国)の多くは「大国」のまねをして核を手に入れんと日夜しのぎを削っている。。
#その世界の片隅で、被爆体験+敗戦体験国たる
#「日本国」は「非核3原則」なる大いなる
#宣言を歌いつづけていながら(歌い続けて
#いるつもりで)世界的な発言力の失墜に
#おろおろとしている。。。。

・・・・冷戦&核戦争の危機は幾分か低減しているのかも知れませんが、いったい、地球(世界)はどうなっちまうんでしょうかね。。。。。

#「ミサイル打ち上げ」と「人工衛星打ち上げ」
#の区別すら付かないお粗末な科学技術レベル
#の某隣国の乱心が報道されている昨今。
#ちと、「潜在的な核兵器拡大」に不安を
#抱きつつ個人的感想をコメントしました。

話題と少しずれるかと思いますが、少々。

1960年代のキューバミサイル危機を描いた映画「13ディズ」では、お互いに「相手はこうするに違いない。だから我々はこう対抗手段を取り・・・・」と疑心暗鬼で事態を悪化させる状況を描いています。
実際はホワイトハウスのエクスコムとクレムリンの会議室内では、もっとドロドロした危機的状況下で「あいつらは必ずこちらを攻撃するぞ!どうするんだ!!」とか家族に聞かせたくない会話(怒号?)を含んだものだったと思います。(想像ですが)

話題を変えて

某国の打上場の組立塔で弾道ミサイルの組立てが終了し燃料注入が開始されたとのこと。

射程約6千キロのテポドン2と見られること。

多分、成功の暁には「人工衛星***2号」(すみません某国報道の衛星名を忘れました)成功と発表するであろうこと。

すでにコブラボール、EP-3、青森県のXバンドレーダー、日本海のイージス艦、静止衛星軌道の早期警戒衛星などが警戒態勢に入り、打上げモニタリング体制は完了していること。

打上げ後一時的に某国は「やった!」と自己満足モードに入るが、経済制裁発動で将軍様とその取巻高官がコントロールする権力基盤の崩壊につながりかねない状況に陥ること。

以上、冷静に事態の推移を見守りましょう。

#DVDさんのコメントにかなーーり相乗り悪乗りしますが。(^_^;;)


>実際はホワイトハウスのエクスコムと
>クレムリンの会議室内では、もっと
>ドロドロした危機的状況下で「あいつらは
>必ずこちらを攻撃するぞ!どうするんだ!!」
>とか家族に聞かせたくない会話(怒号?)を
>含んだものだったと思います。(想像ですが)
>
#これも、私個人の憶測&想像ですが。。。
おそらく、どっちの陣営も。。
取り巻き側近氏が、怒号さながらワイワイぎゃーぎゃー議論している傍らで、、
当時者たる2人のリーダ(ケネディーとブレジネフ?←ソ連側は合っているか不安)は、殿様席でシクシクと「胃痛と頭痛」を感じながら会議に臨んでたんじゃないかなあ。
#だって、万が一、あの時に核戦争が勃発しちゃってたら(敬虔なキリスト教徒とロシア正教徒の)2人のリーダーは「人類滅亡(ハルマゲドン)を招いた当事者」として、「最悪の忌まわしき君主」として歴史に名を刻む所だったんだもの。
(^~^;;)

↑こんな風に考えると、某隣国の専制君主殿は
「核は作りたいが制裁怖いし。でも、宇宙開発のミエミエの言い訳を押し通して打ち上げ実験は、絶対やりたいし。。(@_@)」
なーんてキャラで、かなりショボイ感じのオッサンですにゃ。。。

(ぼそ。。)
いっそのこと、某国のミサイル発射実験と同タイムで内之浦からワザと実験ロケットを打ち上げて、衝突事故って事で、体当たりかましちまってみては?・ゝ(・▽・)ノ
#「はやぶさ」クン打ち上げる技術を持ってすれば、発射タイミングと成層圏軌道計算を正確にやればロケット同士をブチ当てる事は可能。と思えるけど・・
##隣国のオッサンが「日本の宣戦布告だ!!」って騒ぎ出すかな。。それはちと困るなあ。。。。


>当時者たる2人のリーダ(ケネディーとブレジネフ?←ソ連側は合っているか不安)は、
フルシチョフですね、ソ連側は。
フルシチョフがもう忘れ去られた人となっていることに軽いショックを受けました。

てらぽん様、江藤様、こんばんは。

将軍様もそれなりに熟慮していると思います。
ただ状況分析と論理に独自の理論とか主義が入るとちょっと付いていけない「ものすごい結論」が出てきます。
日本人のおじさんでも恐ろしく歪んだ論理と結論で平然と生きている方もいらっしゃいますので、掛ける3倍ぐらいで考えれば、将軍様の考えは大体予想できます。

フルシチョフもキューバミサイル危機のあと「冒険主義」に走ったとのことで失脚するなどまあ良い目にあわなかったですね。

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