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2006.08.06

広島に黙祷する

 今年は広島に行ったこともあり、朝から広島の原爆の日式典をテレビで観ている。61年前の今日、午前8時15分、アインシュタインの手紙に始まり、アメリカが科学と財力の限りを尽くして完成させた原子爆弾が、トルーマン大統領の指示の元、ティベッツ機長率いるボーイングB29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって、広島に投下された。

 かくして現出した地獄絵図の余波は、今も続いている。

 式典の音楽や、広島市長のあいさつなど、色々感じるところはあれど、今日は私も黙祷する。

 もちろん、「過ちを繰り返さないのは誰だ?」と考えつつ。

 式典に関して一つだけ言うと、そろそろ誰か有能な作曲家が式典用の実用音楽としての鎮魂音楽をもう一度作曲すべき時期ではないだろうか。
 コンサート用音楽としては、ペンデレツキの「広島の犠牲に捧げる哀歌」(これは作曲後に後から付けた題名で、曲と広島には内的関連は一切ないだそうだが)があり、大木正夫の「カンタータ 人間を返せ」「交響曲5番」があり、もっと若い世代では細川俊夫「ヒロシマ・レクイエム」があるが、どれも式典で使える音楽ではない。
 真の式典用音楽の作曲は、己の主張を押し出せばいいコンサート用音楽よりもずっと難しい。そろそろ、今後100年200年のために、誰かが新たに曲を書いていい時期に来ていると思うのだが。

 私見を述べるなら、2発の原爆投下について、アメリカ、特にトルーマン大統領は人道に関し、真っ黒の有罪であると思う。そこに至るまでの大日本帝国指導部の政策的な稚拙さと甘さもさりながら、爆弾一発の放射線と熱線で、赤ん坊から老人に至るまでの非戦闘員を10万人単位で焼き殺し、生き延びた人にその後60年以上も続く後遺症を残したということが、人道に対して有罪でないと考えるほうがおかしい。

 免罪があるとするなら、原子爆弾がそれほどのものだと、完成するまで誰も、それこそ開発に携わった科学者らですら、思いもしなかったということの一点のみだろう。人間の想像力は悲しいほど限定されている。

 ハリー・トルーマンという一人の人間の行為から学ぶことがあるとするなら、「自分が同じ立場に置かれたらどうするか」をよくよく考えることしかないだろう。
 自分の国の若者は、今日も星条旗の下、太平洋の戦場で死につつある。なにやらソ連では先代の大統領が結んだ密約に基づいて、スターリンが戦後地図を睨んで兵を動かしそうな雰囲気だ。そして手中には決定的かつ最終的解決をもたらしてくれそうな強力な爆弾が2発。
 この状況で、現在交戦中の敵国の一地方、見たこともない知らない土地に住む、人種も違う、赤ん坊から老人に至るまでの人々の日々の生活に、あなたなら思いを致すことができるだろうか。
 それが、想像力を持つということなのだ。


 広島と原爆を巡るCDを2枚紹介する。最初は芥川也寸志がただ一曲だけ残したオペラ「ヒロシマのオルフェ」。1960年に「暗い鏡」という題名で初演され、その後の改訂を経て1967年に「ヒロシマのオルフェ」という名前の決定版となった。

 脚本は大江健三郎。顔にケロイドを持つ若者が、娼婦から不思議な鏡を受け取り、鏡に映る己の姿を通じて希望と絶望を経験するという象徴的なストーリーだ。

 音楽は芥川特有の切れの良さと、表現主義的な暗さが見事にマッチした傑作である。

 音楽では、全体のバランスを取るためにどこかに明るい部分があったほうが良いが、原爆を題材にすると、明るい曲調を埋め込むことが極端に難しくなる。芥川も非常に苦労したようで改訂にあたっては全曲中唯一明るい曲調の第3幕「未来の夢、春の花、光の子供達」を全面的に書き直している。



 



 広島で被爆した詩人原民喜の詩に、林光が曲を付けた混声合唱曲「原爆小景」。1曲目の「水ヲ下サイ」は1958年に発表され、高い評価を受けたが、作曲者はその後をどうしても書き継ぐことができなかった。当初構想では、この後に「永遠のみどり」を書いて2曲で完結することになっていたが、どうしても書けなかったのだという。想像するに、林もまた芥川と同様に、明るい曲調を書きあぐねたのではないだろうか。

 結局、14年後の1971年になってより激越な曲調の第2曲「日ノ暮レチカク」と第3曲「夜」が書き足され、最後の「永遠のみどり」を書いて全曲が完結したのは、実に第1曲から44年を経た2001年になってからのことだった。

 林光へのインタビューによると、作曲にあたっては岩城宏之の要請があったそうだ。これもまた、岩城宏之という希代のキャラクターがあって、この世に生まれた曲なのである。

 背筋を伸ばして聴くしかない、林光一世一代、一期一会の作だと思う。


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Comments

一つ付け加えるとしたら、当時20億ドルも税金突っ込んで作ったもん一度も使わずに戦争終っちまったら、政府の責任追及されたでしょうねぇ。

アメリカ政府の情報公開法「情報自由法(FOIA)」の制定は1966年ですから、当時マンハッタン・プロジェクトはトルーマンや限られた幕僚以外は知らない文字道理の「ブラック・プロジェクト」だったでしょう。

いくら税金を使ったかは判らないでしょうし、調べて回る人間には「メン・イン・ブラック」系のごっつい公務員のおじさんに頭の中を全てを吐かせるまで尋問するでしょう。

今の世の中とは全く違う戦時体制だからできたビックプロジェクトです。(内容の善悪を別にして)

 税金を使ったプロジェクトだから、役に立たないとは言えない。だから使う。

 このロジックは大和特攻でもそうでしたよね。原爆でも同じ発想があったんでしょうか。

 ああ、ホント少し突っ込んで考えると、自分がいかに勉強不足かが分かります。

 ところで、昨日のNHKアーカイブズを観た方はおられますか。広島で被爆死したアメリカ兵士の家族を訪ねるドキュメンタリーでした。
 アメリカは、ずっと広島で死んだ自軍兵士がいることを国内で隠していたんですね。

 長崎に原爆が投下された時から、一年ほどの間だったか――記憶が定かではないですが――この地球には核兵器が存在しなかった。長崎の原爆が完成した三つの原爆の最後でしたから。
 トルーマンの判断で、核の存在しない戦後が誕生した可能性はあったかもしれないと思います。

林様はじめまして

長崎へのの原爆投下後も米国でのプルトニウムの生産と抽出は続いていました。
また米ソの冷戦も萌芽状態として始まり、スターリンも原爆製造計画に着手する旨の指示を出し、秘密都市での原爆研究に着手していました。

大量破壊兵器としての原爆の威力が世界中にわかった段階で、遅かれ早かれ核開発競争になったと思われます。

何とも煩悩に満ちた話ですが・・・

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