Web検索


Twitter

ネットで読める松浦の記事

My Photo

« March 2007 | Main | May 2007 »

2007.04.26

帰還開始にあたって補足

 はやぶさ帰還開始の報に、少し補足を。

 打ち上げ直後の運用初期は、よくイオンエンジンが異常を検出して自動的に動作を停止していた。が、現在、イオンエンジンの運転は安定している。

 地上側の臼田局は、地球が自転しているので1日8時間しか、「はやぶさ」と通信できない。通信不可能な16時間の間にイオンエンジンが停止しても、再起動は次の通信時間に行うしかない。それだけ時間を消費し、加速に使える時間が減ることになる。

 イトカワへの行程では、イオンエンジンを安定させて、時間のロスを減らすことが重大な課題だった。

 現在、Dエンジンはもちろん、ややおかしくなりかけているBエンジンも、動作は安定しており、連続運転をしても問題を起こすことはほとんどないという。これは帰還成功に向けての明るい側面だ。

 一方、今後、はやぶさが帰ってくるか、それとも帰還不可能となりミッションを終了するか、そのどちらかの結果を迎えるまで、運用チームには常以上の負担がかかることになる。

 通常、惑星間空間を航行する探査機の運用は淡々としたものだ。ほとんどの機器は電源を落として眠っているし、軌道もロケットエンジンの噴射が終了した時点でほぼ確定している。探査機とそのミッションを脅かす要素はほとんどない。
 通信を確立すれば、後は通信不可能時間帯に何が起きたかの記録をダウンロードし、場合によっては今後の動作に向けたコマンド列を送信する。時折機器に通電してチェックを行う。どれもそんなに大変な作業ではない。

 しかし、イオンエンジンを搭載した「はやぶさ」の運用は違う。常にイオンエンジンは稼働しており、探査機を加速している。だから、探査機の軌道は常に変化しており、もしも軌道がずれてしまえば、ミッションの遂行は困難になる。
 特に現状の「はやぶさ」は、化学推進剤のスラスターも使えず、ホイールは1基のみが動いている。姿勢制御が難しくなっているわけだ。探査機の姿勢が崩れれば、イオンエンジンの噴射方向が狂い、軌道に影響がでる。
 だから衛星の姿勢についても毎回の運用で調べ、地上から対応して行かなくてはならない。

 「はやぶさ」の運用では、毎回イオンエンジンの動作状態を確認し、通信不可能時間帯に何か起きていないかを調べ、場合によってはコマンドを送って動作を修正する必要がある。さらに、時折エンジンを停止して、軌道を精密測定し、今後の軌道計画を修正し、修正に合わせてイオンエンジンの運転計画を策定し、それに合わせたコマンドを送信しなくてはならない。
 姿勢に問題が出た場合も、元に戻すのに使えるのは、イオンエンジンの噴射方向だけである(緊急時には、例の生キセノンガス噴射も使うだろうが)。

 姿勢が定まらないために、高速のハイゲイン・アンテナによる通信は使えない。32bpsで通信できるミディアム・ゲイン・アンテナは姿勢によっては使えなくなる。探査機の姿勢は、あくまで太陽電池パドルに当たる太陽光の方向、そしてイオンエンジンの噴射方向が優先される。

 従って最悪の場合、8bpsの速度しか出ないローゲインアンテナで通信を行うことになる。それで、イオンエンジンの状態や姿勢を調べ、対策を立て、コマンドを送信しなくてはならない。8kbpsではない。8bps、1秒に8ビットだ。

 これは運用チームに多大な負荷をかける事態だ。これから最長で3年、運用チームは土日祝日関係なく、毎日気の遠くなるような低ビット通信で「はやぶさ」と格闘しなくてはならない。

 イオンエンジンで探査機を地球に戻すということそのものが、過去に例のないミッションだ。まして、難破しかけた探査機を、イオンエンジンをあやつりつつ帰還させるというのは、とんでもない無茶であり、成功すればアーネスト・シャックルトン隊の漂流と生還をも超える偉業となるだろう。

 運用チームの人数は決して多くない。正直、メンバーの健康が心配だ。計画的に人材を育成して投入し、一人ずつの負荷を軽減し、常にクリアな頭で判断できる状態を保てるだろうか。

 探査機に余裕がないなら、今からでも手配できる地上側の体制に余裕を持たせるべきなのだ。

 JAXA予算には理事長裁量経費も予備費もあるので、それを「はやぶさ」運用のための人件費にまわせればいいのだが。


 1914年、イギリスのアーネスト・シャックルトンは、南極大陸横断をめざし、27名の隊員と共に探検船エンデュアランス号で南極へと向かった。しかしエンデュアランス号は流氷に閉じこめられ、やがて氷の圧力で破壊されてしまう。脱出した隊員達は、無人島のエレファント島にたどり着いて救助を待つが、一向に救助船が訪れる気配はない。このままでは全滅すると判断したシャックルトンは、選抜した隊員と共に、小さな救難ボートで荒れ狂う南極の海を渡り、イギリスの捕鯨基地があるサウス・ジョージア島に救援を求めることを決意する——20世紀初頭に本当にこんな事が可能だったとは信じがたい、驚異の冒険の記録。



 シャックルトン自身の記録と合わせて、アルフレッド ランシングによる迫真のノンフィクションを推薦しておく。



 シャックルトンは、この途方もない危難に果敢に立ち向かい、超人的リーダーシップで隊員を統率する。そして遂に一人の死者をだすことなく、全員が生還した。

 南極海で船を失うだけでも大変なのに、その後小さな救命ボートで頑張り抜いてエレファント島にたどり着き、さらに荒海を1300km以上渡ってサウス・ジョージア島へ向かった精神力には絶句する。



 しかも、サウス・ジョージア島では捕鯨基地のある海岸と反対側に漂着してしまう。シャックルトンらは、前人未踏の島内部の山岳氷河を不十分な装備で越えたのだった。



 ノルウェーのアムンセン隊による南極点到達が、十分な準備が探検をどれほど容易なものにするかという例ならば、シャックルトン隊の漂流は、あきらめないことがいかに重要かを示している。


 シャックルトン隊の漂流を描いたテレビドラマ。基本的に汚い男共と、海と雪と氷と岩しか出てこないが、ラストの感動は圧倒的である。



 シャックルトンの名前は、探検隊員募集の文句と共に永遠に記憶されるだろう。



"MEN WANTED FOR HAZARDOUS JOURNEY. SMALL WAGES, BITTER COLD, LONG MONTHS OF COMPLETE DARKNESS, CONSTANT DANGER, SAFE RETURN DOUBTFUL. HONOR AND RECOGNITION IN CASE OF SUCCESS."



「危険な旅に男求む。低報酬、厳寒、何ヶ月もの完全な闇、常なる危険。生還は疑問。成功すれば名誉と名声あり」



 その通りの旅を、シャックルトン以下28人は、一人として欠けることなく完遂したのだった。



 だが、運命は過酷だ。生還した隊員達のほとんどは、そのまま第一次世界大戦に従軍し、その多くは戦死した。シャックルトンはさらに南極探検に執念を燃やすが、1922年、新たな探検に向かう途上、サウス・ジョージア島で、心臓発作のために急逝した。



 どうせ危難が避けられないなら、シャックルトンを超えたいと思う。締めくくりは「そして、みんな幸せに暮らしましたとさ」でありたい。


2007.04.24

明日帰還開始宣言、ますます状況は厳しく


Kawaguchikuninaka


 本日午後4時30分から、「はやぶさ」帰還に向けた記者会見がJAXA東京事務所で開催されました。

 出席は川口淳一郎教授(プロジェクト・マネージャー)、國中均教授(イオンエンジン担当)、吉川真助教授(プロジェクト・サイエンティスト)。

 まず川口プロマネから現状説明。

・明日午後17時に帰還開始を宣言する。
・本日16時30分をもって「はやぶさ」の取得データの公開を開始。


 状況はますます厳しくなっています。イオンエンジンはついに1台のみの運転となりました。


國中教授からイオンエンジンのステータス説明

・2月22日~3月2日:イオンエンジン加速を用いた姿勢維持の試験開始
・3月3日~9日:JPLの支援を受けつつ精密な軌道決定
・3月12日~16日:イオンエンジン2台による連続イオン加速を実施(試験運転、可視時間のみの運転)
・3月28日以降:微調整を行いながら、イオンエンジン2台による連続イオン加速(調整を加えつつ、24時間運転。ただし土日は停止、4月に入り連続24時間運転へ)
・4月20日:イオンエンジンBスラスタの中和電圧が上昇したために、Bスラスタを停止。Dスラスタのみの加速に切り替えた。

スラスタの運用状況。

 Bスラスタは9600時間の運転に達しており、一部性能低下が見られる。また、はやぶさが近日点通過することによる温度上昇で、動作不安定が起きている。
 AとCスラスタは動作特性が安定していない。

 帰還はDスラスター1台で当面加速する。

各スラスターの運転履歴。

A:待機、このエンジンはチューニングが悪かったらしく最初から性能が安定しなかった。
B:9600時間
C:6500時間
D:11100時間

各スラスターの設計寿命は、14000時間。

 発表資料のグラフを使った説明。

 当初予定は、太陽から近い位置ではホイールを回転させてイオンスラスター2台を運転、太陽から離れたらホイールを止めてイオンエンジン1台を運転することにしていた。しかし、イオンエンジンBの動作不安定により、常時ホイール回転でエンジン1台による帰還運用を実施することを決断した。


 吉川助教授より、観測データ公開の説明。

 「はやぶさ」に搭載した4つのセンサーの全データを公開する。

 データは自由公開。登録もパスワードも不要。ただし研究者用公開なのですべて英語で書かれている。その主旨は全世界の研究者に公開するということ。

 今回の公開データはレベル1(もっとも生に近いデータ)を公開する。一部についてはキャリブレーションを加えたもの(レベル2)データも公開する。レベル2データは今後アップしていく。
 イトカワの形状モデルはより高次の処理を施したデータだが、要望が多いので公開した。

 データに必須のいつどんな条件で取得したかなどのドキュメンテーションの整備は、遅れている。まだ十分ではない。
 公開画像には撮影に失敗した画像もすべて入っている。

 川口から補足。

「正確には『帰還できないわけではない』というのが現状。正常運転が可能なイオンエンジンはDのみ。これから数千時間を運転しなくてはならないので、設計寿命は完全に超えてしまう。

 また、ターゲットマーカーが写っているようなデータは今回の公開には入っていない。あの画像は探査機運用用のデータなので、今回公開の対象に入っていない。今後科学分析に使えるようにデータを整理してから公開したいと思うが、まだそこまで手が及んでない。」

以下は質疑応答

時事通信:ホイール回転とどのイオンエンジンを使うかで、有利不利が生じるか。

國中:Dエンジンとホイールの組み合わせは、そう悪くはないと考えている。ロール軸周りのトルクが発生しにくい位置関係だ

共同通信:中和器の電圧は何を示すものか。

國中:イオン流の電流だけ同じだけ電子を出すというもの。その電圧が上がっているということは電子が出にくくなっているということを意味する。機能としては100Vまで出すように作ってあるが、電圧が上がると寿命が短くなる。設計上は50Vを目安に作ってあるので、このままではエンジンの寿命が短くなると判断して停止した。2台を同時運転するとエンジン温度が上がり、寿命に影響する。
 また、はやぶさは2台のイオンエンジンを別個に推力スロットリングする設計にはなっていない。したがってBとDを最適なスロットリングで同時運転することはできない。1台づつならば、それぞれのエンジンに最適な運転条件で運転することができる。

朝日新聞:Dスラスターのみで帰還は可能なのか。またAとCを運転する可能性はあるか。

國中:現在は1台のみの運転で帰還できる軌道が存在するということ。地上試験では2万時間までの動作試験をしているが、Dのみ動作で2万時間以内で軌道設計をするのは難しい。ただし、2万時間以上は地上でも実証していないので、それ以上動くこともありうる。

川口:プロマネとしてはもっと押さえた言い方をしなければならない。スラスターについては1万4000時間で設計しても1万時間以下で調子が悪くなる個体が出てきている。だから、1万4000時間から2万時間はエキストラだと思っている。エキストラがなければかえってこれない。ホイールは壊れるかも知れませんね。3台のうち2台は壊れているわけだから。

 帰還時期は変化するのか。ホイールの回転数を下げると聞いているが、Z軸のホイールなしの地球帰還もありうるか。

國中:現状ホイールは3500rpmで回している。通常は4000ぐらい。往路3つが生きていた時は2000ぐらいで使っていた。今後1800ぐらいまでホイールの回転は徐々に下げていく予定。イオンエンジン1台になったので、外乱も小さくなりますから。

川口:今日の会見は「こんなに困っています」という報告の会見です。それが私の主旨です。「これから出帆するぞ」ではないです。

朝日新聞 信号でいえば黄色と赤とどっちが近いか。

川口:定量的には難しいです。イオンエンジンがだめになっても、ホイールがだめになっても、帰還は難しいです。四月上旬の段階では心配はホイールだけですから、心配事は増えています。「帰還できないと決まったわけではない」ということ。

時事通信 地表に近接した時の画像はどこまで得られていますか。

吉川:現在、公開データには距離の情報がまだ入っていません。タッチダウン前後の画像は約60m前後で撮影しています。現在写真ヘッダに補足情報を入れる作業をしている。

フリーランス・喜多:積み木を積んで抜いていくゲームがありますが、それにたとえれば、あといくつのピースを抜くことができるでしょうか。

國中:難しい質問ですが、2010年の帰還チャンスを逃すと次は2013年にしかかえってこれません。延びると機械が非常に厳しくなります。あと2、3個ピースを抜かれるともう無理だと思います。本来僕らは、探査機を一本もピースを抜けないように作っているのですが、それがこうなっています。ともかくここまでがんばっているので。がんばります。


フリーランス・青木:今までと違う特徴的な画像がリリースに出ていますけれど、解説をお願いします。
 以下リリース参照。

吉川:5番の写真はミューゼスの海の近くの荒い地形のコマバ・クレーターの一部です。6番はその一部の拡大で、先だっての東大の宮本先生の論文発表に関係する部分です。7番はペンシルボールダーというごつごつした地域の地図です。


松浦:2010年の帰還までに累積でどれほどイオンエンジンを運転する必要があるのか。

川口:残り時間3年。そのうち1/3、つまり8000時間から1万時間はイオンエンジンを運転しなくてはならない。これは1台運転の場合だ。調子の悪いエンジンを運転することで累積の運転時間を稼ぐこともあり得る。

國中:調子の悪いエンジンは1000時間ぐらいしか運転できないかも。逆に言えばそれだけ累積運転時間を稼げる可能性はある。それも含めていくつかの策を現在考えている。


 記者会見終了後のぶらさがり取材にて。

川口「明日の帰還宣言といっても何かが変わるわけじゃないですよ。船が赤道を超えるのと同じ。今だって(はやぶさは)加速しているわけだし。これはマスコミの人たちが『区切りをつけてください』というから、やるわけですよ」

川口「ぼくは、決して楽観できないと考えている。『帰還できないわけじゃない』。(國中教授の方を見て)この人はそうは思っていないみたいだけれども」
國中「川口先生はこう言っていますけれど、僕としてはまだ打つ手がいくつか残っていると考えています」


以上です。

 写真は、川口プロマネ(左)と、國中教授(右)

23:13記 文章の乱れを直しました。

2007.04.16

ジャンクフードを考える

Jiroramen

 タイトルは「考える」であって「食う」ではない。念のため。

 昨年春、ほぼ四半世紀振りに「ラーメン二郎」のラーメンを食べた。

 その日は、神保町の出版社で打ち合わせが長引いたのだった。腹が減ったぞ、さあどうしよう、と歩き回ると、靖国通りから路地を入ったところに行列を発見した。「二郎神保町店」とある。

 一つの記憶が蘇った。学生最後の年の三田祭(そう、私は慶應出身である。ただし三田には学祭ぐらいでしか通わない理工学部生だった)、私は「最後の記念に食べておくか」と、まだ三田の四つ角にあった「二郎」本店の行列に並んだのだった。ところが行列はあまりに長く、別の用事が入っていたので、途中で列を外れざるを得なかったのである。

 見ると行列はそう長くない。よし、学生時代の妄執をここで晴らしておこう。私は行列に並び、二郎ラーメンにありついたのである。

 山のようにもやしが載ったアブラぎとぎとのラーメンを一口食べて、思い出した。「俺、これ食ったことあるわ」

 記憶はさらに遡る。大学に入った年、学祭の準備で先輩に連れられ、三田にやってきた私は、「三田に来たらこれ食わなくっちゃな」という先輩と共に二郎ラーメンを食べたのだった。不味いとしか形容しようがない味に「なんだこりゃ」と思った。
 ずっと忘れていたのだが、最初の一口でありありと、それこそ、脂で微妙に粘っている二郎本店のカウンターの手触りまで含めて思い出した。
 おお、プルーストの「失われた時を求めて」みたいじゃないか。


 二郎のラーメンについては、このあたりのページWikipediaの記述を参照してほしい。かつては三田の四つ角にあり、慶大生に絶大な人気を誇ったラーメン屋だ。場所こそ移動したものの、現在も三田で本店は営業しており、その他のれん分けの店が首都圏を中心に多数存在する。

 二郎のラーメンはとにかく盛りが良い。野菜がどんぶりにてんこ盛りになって出てくる。その味は脂ぎとぎと、化学調味料たっぷりの奇怪なものだが、くせになる習慣性を持つ。
 二郎にはまった者は「ジロリアン」を自称し、のれん分け全店制覇する者や、自宅で二郎の味を再現しようと研究を重ねる者(「家二郎」なる単語まで存在する!)など、多彩な活動を展開しているらしい。

 その他、勉強せずに卒論のネタに詰まった学生が、二郎のおやじさんにインタビューして「二郎ラーメンの来歴」を卒論代わりに提出して卒業したとか(驚いたことにネットにアップされている。これだ)、「ラーメン二郎」の商標を他者に登録されて名乗れなくなりそうになった時、慶大出身の弁護士が一致団結して無償で協力し、商標を取り返しただとか、二郎を巡るエピソードは尽きない。
 ジロリアン作と伝えられる「二郎はラーメンではなく、二郎という食べ物である」という言葉は、けだし名言であろう。

 さて、ここからが本題。

 四半世紀振りに二郎ラーメンを食べた私の脳裏で、ひとつの疑問がわき上がったのである。「二郎ラーメンは明らかにジャンクフードだ。ではジャンクフードとは何か?」

 Wikipediaでは「ジャンクフード(junk food)とは、エネルギー(カロリー)は高いが他の栄養価・栄養素の低い食べ物のこと。」と書いているが、二郎ラーメンがカロリー以外の栄養価が低いとも思えない。
 単にカロリーが高いことがジャンクフードの条件にすれば、氷砂糖なども入ってしまうことになる。

 昨年の夏から秋にかけて色々考えた末に、遂に私は妥当と思われるジャンクフードの定義にたどり着いた。キーワードは「過剰」である。

ジャンクフードの定義(松浦による、2007)
・炭水化物を中心に
 1)過剰な塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)過剰なアミノ酸
   b)肉、チーズなど過剰なタンパク質
   c)過剰な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

・タンパク質を中心に
 1)過剰な塩分で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)過剰な油脂
   b)過剰なアミノ酸
   c)過剰な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

 この定義ならば、カップ麺や駅の立ち食い蕎麦や牛丼から、ビーフジャーキーや魚肉ソーセージに至るまでをカバーすることができる。
 すべての項目に「過剰」とあるところに注意して貰いたい。過剰さこそが、ジャンクフードのジャンクフードたる所以なのである。

 この定義に従うと、二郎ラーメンのジャンクフードとしての完成度が見えてくる。まず、中心となる炭水化物は自家製極太麺だ。醤油味で化学調味料たっぷり豚骨スープには、塩分とアミノ酸がたっぷり入っている。もちろん脂ぎとぎとで油脂は十分。「ブタ」と称する極端な厚切りチャーシューで過剰なタンパク質という条件もクリアする。「ニンニク」山盛りトッピングで、過剰な香辛料もオッケーだ。
 しかし、それだけに留まらないのが二郎ラーメンの恐るべきところと言えるだろう。「野菜マシマシ」のコールとともにトッピングされる山盛りのゆでたもやしとキャベツ。

 そう、二郎ラーメンには、「過剰な野菜」というもう一つの隠し武器まで装備されているのだ。すごいぞ二郎ラーメン、まさに無敵。最強のジャンクフードの名にふさわしい。

 そんな二郎ラーメンの欠点は、極太麺を茹でるため、作るのに時間がかかるということ。店の前にはいつも行列ができるので、熱烈なジロリアン以外は、なかなかその味に触れる機会がない。中毒患者を増やすのが困難なのである。

 ふ、そんなことでは世界征服に使えぬではないか。目指すはジャンクフードによる世界の食の蹂躙。手本はマクドナルド、と、昨年来「究極のジャンクフード」というレシピをつらつらと考え続けている。モデルは二郎ラーメンだ。これを短時間でサーブ出来るように改良すれば、世界のいかなる民族をも味で支配できるに違いない。
 わはははは、世界が我の足下にひれ伏す日は近いぞ。

 が、考えてみれば、ジャンクフードで生活習慣病ばかりの国民となった国を征服しても、大して面白くはないのだっだ。

 究極のジャンクフードレシピは、とりあえずは、レインボーマンの「死ね死ね団」あたりに、「日本を破滅させるにはこれっすよ」とフランチャイズ権として売りつけるのが適当なのであろう。


 なにやら話が妙な方向に向かってしまったが、気にせずまとめることにしよう。
 上記のジャンクフードの定義から、「過剰」を抜いて、代わりに「適度」と入れてみよう。

・炭水化物を中心に
 1)適度の塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)肉、チーズなど適度なタンパク質
   c)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

・タンパク質を中心に
 1)適度な塩分と油脂で味付けされた食物
 2)さらにそれらに
   a)適度なアミノ酸
   b)適度な香辛料
  の一部、ないし全部が付加された食物

途端にヘルシーフードに早変わりする。二郎ラーメンのようにこれに適度の野菜が加わるならば、けっこうな健康食だ。

 つまりは程度問題であり、人間の脳は過剰に対して快感を感じるようにできているのだな、というまあ当たり前と言えば当たり前の話なのであった。

——我ながら詭弁っぽい話ではあるが、ともあれ昨年来ジャンクフードについて考え続けているのは事実。ちょっとばかり実験もしているのだけれど、その話はまた気が向いたら。

 写真はラーメン二郎神保町店のラーメン。

2007.04.10

宣伝:新著「コダワリ人のおもちゃ箱」が4月10日に発売されました

Kodawaribido
エクスナレッジ
四六判300ページ、定価(税込み)\1,680、ISBN 978-4-7677-0329-6
amazon bk1(著者コメントあり)

好奇心と興味にまかせ、やりたいことを突きつめる
趣味人を超えた
コダワリ人たちの熱中人生!

——突き抜けてしまった人たちはいつもほがらか。
趣味を超えて「好き」のコダワリをつきつめていった人たち
突き当たる課題難題も楽しみ、高みに突き抜けろ
そんな人たちを現在の活動も交えて紹介


    ●線路を敷いて本物の蒸気機関車を走らせています!−羅須地人鉄道協会 

    ●小さな力で楽々走れる自転車を作っています!−織田紀之

    ●公道を走るバイクやサイドカーを自作しています!−オートスタッフ末広

    ●学生たちと、本物の人工衛星を作っています!−中須賀真一

    ●東京の都心で美しい天体写真を撮っています!−岡野邦彦

    ●自分の全てを記憶させる、自作の電脳住宅に住んでいます!−美崎薫

    ●リッター4000キロ走る車を作っています!−中根久典

    ●世界一のプラネタリウムを作っています!−大平貴之


 本書は、趣味の域を超えて自分の楽しみが社会的な意味を持つまでの域に達した人を「コダワリ人」と命名し、そんな人たちを訪ね歩いたルポルタージュです。2002年から2003年にかけて1年半の間「日経WinPC」誌に行った同名の連載に基づき、継続して活動している方をセレクトし、さらに再取材を行ってまとめました。

 実際、世の中にはすごいことを実に楽しげにやってしまう人たちがいるものです。その数は、決して少なくありません。彼らのたどった道のりは決して平坦なだけではなかったですが、実際にあった誰もが難関突破のプロセスをも楽しみつつ、とんでもないところへと突き抜けていました。
 こういう人たちが増えていくと、世の中も楽しくなるんじゃないか、そうだといいな、という気持ちで書いた本です。

 読んで頂ければ、と思います。

本書を担当した編集者、今村さんによる紹介

#著者から一言。画像では分かりませんが、実物の表紙は、白地ではなくパールの地のとてもきれいなものです。今までの私の本で一番よくできた表紙じゃないでしょうか。この表紙はとてもうれしかったです。

「レッドショルダーマーチ」の正体が判明する

 気張った話を続けても仕方ないので、最近に私のところに届いた話を。

 2ちゃんねるでは数ヶ月前に騒ぎになっていたそうだから、情報の早い人はすでに知っているのだろうけれども。


「レッドショルダーマーチ」の正体が判明した。

 「装甲騎兵ボトムズ」というアニメがあった。私もこんな記事を書いている。

 作中で、主人公のキリコは、かつて軍の特殊部隊、通称「レッドショルダー」に所属していたという設定になっていた。このレッドショルダーは命令とあらば、どんな残酷なことでもする悪逆非道の軍隊であり、そんなところに所属していたことがキリコのトラウマになっているのだが、それはともかく。

 作中では、レッドショルダー部隊が登場する時に、実に格好良い行進曲がBGMにかかっていた。これが「レッドショルダーマーチ」である。

 放送当時、この音楽にヤられた我らアニオタ共は、サントラの発売を待ち望んだのだが、発売されたサントラには、なぜか「レッドショルダーマーチ」が収録されていなかった。その代わり、ボロディンの未完に終わった「交響曲3番」のポピュラー編曲が入っていたり——もちろん本編には使っていない——今考えるとあれも妙なサントラだったな。

 いったいあの曲は何だったのか?放送局が蓄積している著作権フリーの曲だとか、様々な噂があったものの、その正体は不明のまま四半世紀が過ぎたのである。

 それが、今年に入ってから2ちゃんねるへの投稿で、判明したのだった。


 こちらがその正体。おや、品切れを起こしているな。



 1966年のイタリア映画「Due marines e un generale」(2人の水兵と1人の将軍)のサントラ盤だ。このCDの2番目の曲「Arrivano i Marines」(水兵の到着)という曲が、「レッドショルダーマーチ」だったのである。作曲者はPiero Umiliani(ピエロ・ウミリアーニ)と言う人。イタリアではかなり有名な映画音楽の作者らしい。

 ちなみに、サントラ中6番目の曲「L’offensiva di primavera」(春の攻勢)は、「機動戦士ガンダム」の第12話「ジオンの脅威」で、ジオン公国のギレン総帥が演説するシーンでかかる音楽なんだそうだ(私は見たはずだけど覚えていない)。あの「諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。なぜだ!」「坊やだからさ」で有名なシーンですな。

 この「Due marines e un generale」という映画は、2人のアメリカ兵が、北アフリカでナチスドイツの将軍を捕獲しようとするという話とのこと。それに、ニセの作戦計画をわざと盗ませようとするナチス側と、本物を入手しようとするアメリカ兵の駆け引きが絡み、最後はアンツィオの攻防戦になだれ込むというストーリーのようだ。「アンツィオ・アニー(アンツィオ攻防戦で活躍したドイツの列車砲)」が出てくるなら見てみたいね。



 CDが品切れであっても、嘆くには及ばない。iTunes Music Storeでは、ちゃんと「Due marines e un generale」のサントラが売っている。試聴はできるし、曲をばら売りの1曲150円で購入できるし、品切れもない。やあ、いい時代になったもんだ。



 もちろん私はCDを買った。最初に気が付いた方は本当に偉いと思う。取りあえず長年の疑問と欲求を解消させて頂き、ありがとうございます。

2007.04.09

早坂文雄の音楽を聴く

 携帯電話がきっかけになって、改めて早坂文雄の音楽を聴いている。

 聴くほどに、この人が長生きしたならば、日本の音楽シーンは大きく変わっていただろうと思う。

 一般に、早坂文雄は全盛期の黒澤映画の映画音楽で知られている。「七人の侍」のメインテーマは有名だし、ちょっと映画が好きならば「羅生門」のうねうねとうねるようなボレロ調の音楽を思い出すだろう。
 もちろん、早坂は映画音楽にも力を注いだのだけれど、本質はコンサート用音楽の作曲家だった。彼は決して書き飛ばすことなく、コンサート用の作品を作るのと同じ態度で、映画音楽に臨んだのだった。

 早坂文雄(1914〜1955)は、とてつもない不幸のどん底から出発した人だった。仙台で生まれ、幼少時に親の都合で札幌に移住。
 15歳で父が家出し、16歳で母が病死、17歳で弟妹と生き別れになって一人で生きていかなければならなくなる。しかも極貧の生活の中、本人は結核を患って、生死の境をさまよったのだ。

 昭和の初めの札幌の話だ。その寒さたるや形容のしようがない。

 凄まじい境遇の中、同じ歳の伊福部昭と出会って、将来共に作曲家になることを誓う。21歳で初めて書いたオーケストラ曲「二つの讃歌への前奏曲」がコンクールに入選して一気に運命が開ける。並のドラマどころではないドラマチックさだ。

 やがて、東宝映画社長の植村泰二に認められて上京し、映画音楽の仕事をするようになる。彼は貧乏を脱出し、映画音楽で作った財産で35歳で成城に豪邸を建て、それでも命を削るようにして働き続け、41歳で死んだ。
 死に方も壮絶だ。自宅に来客があり、自作の楽譜を取り出そうとして屈んで体を伸ばした拍子に、肺結核で癒着を起こしていた肺が破れたのだ。呼吸ができなくなった彼は、もがき、苦しみつつ死んだ。

 彼の葬儀では、作曲家仲間が、映画監督の溝口健二に「おまえが仕事をさせすぎたから早坂は死んだんだ」と迫ったそうだが、おそらく彼は止めても止めても止まらずに仕事へと自分を追い込んでいったのだろう。

 生前、最期に構想していたのは「ニルヴァーナ(涅槃)」というオーケストラ曲だった。このタイトルは黛敏郎に引き継がれ、傑作「涅槃交響曲」が生まれることになる。


——————————

 まとめて聴いていくと、早坂の音楽が最後まで未完成であったことが分かる。逆に言えば遺作となった「交響的組曲ユーカラ」の向こうには、もっともっと素晴らしい、はるかな高みに近づいた音楽があったはずと思えるのである。

 伊福部昭が初期から高い完成度を誇り、長い人生の最期までその水準を維持したとするなら、盟友の早坂は、稚拙から出発し、生涯を通じて進歩しつづけた。彼が41歳で死なずに、伊福部の91年といわず、武満徹の65年でも生きながらえたら、どんな素晴らしい曲を書いたろうか。

 私は昨年12月10日のオーケストラ・ニッポニカの早坂文雄作品演奏会で、彼21歳の「二つの讃歌への前奏曲」(1935)を聴いた。初演以来、実に70年振りの2回目の演奏だった。

 「二つの讃歌への前奏曲」は若さゆえの稚拙さが露呈した曲だ。

 伊福部昭21歳の出世作であるオーケストラ曲「日本狂詩曲」は、すでに完成されきった斬新な曲だった。しかし早坂が同じ21歳で書いた「二つの讃歌への前奏曲」は、作曲を始めた音楽高校の学生が、初めて書いたオーケストラ曲のような不器用さと不慣れさに溢れている。旋律の瑞々しさが才能を証しているものの、オーケストレーションも和声もぎこちない。

 それが27歳で書いたオーケストラ曲「左方の舞と右方の舞」では、ある種の風格すら感じさせるようになる。
 太平洋戦争後の1948年、34歳の時の「ピアノ協奏曲は」、ロマン派的曲想を持つ雄大な作品だ。「管弦楽のための変容」 (1953)では、音楽は高度の構築性を示すようになり、そして最後の「交響的組曲ユーカラ」(1955)にたどりつく。

 「ユーカラ」は、全6楽章、演奏時間50分の大作だ。それぞれの楽章はアイヌの叙事詩に基づくタイトルを持つが、音楽はよりいっそう抽象的になり、他に例のない構築性と張りつめた精神性を示すようになる。
 それは、彼がごく初期から考え続けてきた「東洋人にとっての音楽はどんなものか」という命題に対する回答だった。「ユーカラ」で、彼は和声による肉付きの良い豊穣な響きではなく、「点」と「線」による緊張感に満ちた水墨画のような音楽へと踏み込んでいく。
 それは、早坂の生涯の到達点であり、同時にその後の彼の音楽の出発点になるはずだった。

 「ユーカラ」作曲の時期、結核のためにすでに早坂の健康は予断を許さない状態になっていた。この頃、早坂の映画音楽の仕事を手伝っていた武満徹は、「ユーカラ」初演を聴いて「早坂さんの遺書のようだ」と言って泣いたという。

 武満の予感は当たり、運命は早坂にさらなる高みを目指すための時間を与えなかった。生涯を通して進歩しつつけた彼の音楽は、「ユーカラ」をもって途切れた。

 現在、早坂の作品が演奏される機会は徐々に増えている。私が音楽を聴き始めた30年前に比べれば手に入る録音も多くなった。
 だからこそ聴いてほしい。「七人の侍」の作曲家が遺したのは、とても豊かな音楽だったのだから。


 早坂文雄入門としては、この一枚がいいだろう。冒頭、あの「七人の侍」のテーマが収録され、さらに「羅生門」の音楽を例のボレロも含めて聴くことができる。加えて早坂が二十代の作品「古代の舞曲」「序曲ニ調」、そして晩年の「管絃楽のための変容」も入ったお得な一枚だ。

 このCDを聴くと、早坂が映画音楽にも一切手を抜くことなく、ぎりぎりに自分を駆り立てるようにして臨んだことが分かる。映画音楽とコンサート用音楽との間に、ほとんど差を感じさせないのだ。それは同時に彼の健康をも蝕み、寿命を縮めたのだろう。

 ちなみに、「羅生門」の「真砂の証言の場面のボレロ」は、泰西名曲が大好きな黒澤明がラヴェルのボレロに合わせて絵コンテを切ってしまったので、早坂が仕方なく苦心して書いたものだ。「羅生門」がヴェネチア映画祭に出た時には、映画の高評価とうらはらに「日本人がラヴェルの真似をしている」とだいぶけなされたという。

 しかし、今になって聴いてみると、これはラヴェルのアイデアを使いつつも全く異なる独立した音楽になっていると思う。少なくとも、以前に「涼宮ハルヒの憂鬱」と引っかけて書いたショスタコーヴィチの「レニングラード交響曲」における「戦争の主題」よりは、音楽としてはるかに上等だ。





 自分は音楽を色々と聴いているという自信があるならば、是非ともこの「交響的組曲ユーカラ」を聴こう。

 名曲だ。保証する。だが、同時に未完成さも感じさせる曲であるということは言っておかねばならない。何度も書くが、この後に一体どんな音楽があり得たのか。早すぎる死が惜しまれてならない。

 第1曲「プロローグ」は、なんとクラリネットソロ。クラリネットが一人で延々と、瞑想的なメロディを演奏する。オーケストラは第2曲の「ハンロッカ」で初めて鳴るが、決して大音響で押してくることはなく、室内楽的な音の戯れに終始する。第3曲「サンタトリパイナ」は、弦楽器のみが息の長い、どこまでも続くような旋律を演奏し、盛り上がり、そして消えていく。

 第4曲「ハンチキチー」は、ラプソディックで色彩豊かな楽章。第5曲「ノーベー」はかなり変化の激しい、当時としてはかなり前衛的な響きがする。最後の第6曲「ケネペ・ツイツイ」は複雑な、それでいて瞑想的な、墨絵を思わせる渋い渋い響きの曲だ。



 先に早坂の曲の演奏機会が増えていると書いたが、それでもこの曲は不遇だ。初演は1955年6月に上田仁指揮の東京交響楽団が行った。その後ずっと演奏されず、再演はそれから20年以上を経た1976年になった。記憶に頼って書いてしまうと、演奏は山岡重信指揮の読売日本交響楽団だったはず。

 多分、ではあるが、3回目はこのCDに収録された、山田一雄指揮日本フィルハーモニーによる1986年4月の演奏である(そう、このCDはライブ録音だ)。

 そして、これまた多分、になるのだけれど、4回目の演奏は2004年7月15日の矢崎彦太郎指揮東京交響楽団。

 これだけである(私の知らない演奏会が1〜2回あった可能性はある)。

 2004年の演奏を、私は東京文化会館で聴いた。決して万全の演奏ではなかったと思うけれど、それでも「ユーカラ」は心に沁みた。

 この曲は、もっと演奏されてしかるべきだと思う。





 NAXOSの「日本作曲家選輯」からもちゃんと早坂作品集が出ている。しかも岡田晴美が弾く「ピアノ協奏曲」という、うれしい選曲だ。収録された曲目は以下の通り。



・ピアノ協奏曲(1948)(世界初録音)

・左方の舞と右方の舞(1941)

・序曲 ニ調(1939)



 同シリーズではなにかとその演奏が問題とされるドミトリ・ヤブロンスキー指揮ロシア・フィルハーモニー管弦楽団だが、この録音はなかなか良い演奏をしている。もちろん岡田博美のピアノも素晴らしい。伊福部昭の「ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲」(1941)と聞き比べると、二人の資質の違いがはっきりと見えて面白いかも知れない。





 高橋アキによる、早坂のピアノ曲集。早坂はその生涯に渡ってピアノソロの小品を作り続けた。彼のその時々の問題意識が一番はっきり出ているジャンルかも知れない。演奏は折り紙付き。早坂のピアノ曲は、どれも超絶技巧を要求するようなことはないので、ピアノが弾けるならば、自分で弾くつもりで聴くのもいいだろう。





 タイトルに「黒澤明と早坂文雄」とあるが、本書の主人公は早坂だ。主に映画音楽の側から、早坂の人生を追った評伝である。従来あまり知られることがなかった、早坂の札幌時代の生活や、映画音楽の仕事をするようになった経緯、さらには彼が映画音楽の仕事を引き受けるようになったことで巻き起こる、音楽関係者と映画関係者の間の緊張関係に至るまで丹念に早坂の生涯を追っている。

 早坂の葬儀では、「七人の侍」のテーマが流されたが、音楽関係者は「なぜ、映画の音楽なんだ」と不満を漏らしたという。早坂にとって映画音楽もコンサート用音楽も区別なく取り組むべき仕事だったが、世間的には両者の間に断絶があったのだった。

 実際難しいところで、現在早坂は「七人の侍の作曲家」として記憶されているが、彼の仕事の質と量からすれば、本当は「ユーカラの作曲家」であるべきだろう(「七人の侍」では、佐藤勝、佐藤慶次郎、武満徹がアシスタントに入っている)。しかし、「侍のテーマ」が、早坂一世一代の名旋律であることも事実である。


2007.04.07

携帯電話で音楽を聴く


Lismo

 WindowsXPが使えるようになったので、以前から気になっていたLISMOを使ってみようと思い立った。
 LISMOは、auが行っている音楽ダウンロード販売である。昨年携帯電話をauに切り替えた時に、ソフトウエアが付いてきたのだが、WindowsXPにしか対応しておらず、これまで使えなかったのだ。

 iTunes Music Store(iTMS)は、時々使っている。最初は「ダウンロードでCDよりも音質が悪い圧縮音声ファイルの音楽を買うなんてなあ」と思っていたのだが、いざ使ってみると、ユーザー・インタフェースが秀逸なことと、ストアの構成が巧みなことが相まって、実に手軽に聴きたい曲を見つけることができる。
 記憶の底に引っかかっていたけれども、曲名が分からなかったというような曲も見つかったりして、ついつい「ポチっとな」で、買ってしまうことが重なった。結局これまでに1万円ほど、ダウンロード音楽販売に貢献してしまっている。

 LISMOのソフトは、「au Music Port」という。これ自身は音楽専用ではなくて携帯電話の電話番号登録や内蔵カメラの画像などのバックアップ機能も持っている。あくまで携帯電話とパソコンを連動するためのソフトウエアであり、その一環として音楽ダウンロード販売の機能も持っているわけだ。

 というわけで、Let'snoteに「au Music Port」にインストールして立ち上げ、一通りLISMO Music Storeの中をさ迷ってみた。
 残念なことにLISMOは最新J-Popを聞きたい若者をターゲットにしているらしく、私が聞きたい1970〜80年代洋楽とか、古い映画の映画音楽とか、クラシック系音楽とかは販売されていないようだった。

 私は宇多田ヒカルも大塚愛も倖田來未も興味はない。ピンクフロイドとかクイーンとか、「史上最大の作戦」のテーマ音楽とか、ヴォーン・ウィリアムズやら伊福部昭が聞きたいのだ。

 価格もiTMSの1曲150円〜200円に比べ、基本が315円と高い。ビデオクリップが1曲525円というのは、「うーん」とうなってしまう。レンタルショップに行って同じ金額を払えば、アルバム全曲ライブのDVDを借りておつりが来るだろう。もしも若者向けを狙っているならば、高い値段というのは、市場攻略方法を間違えてはいないだろうか。相手は、安くすますためにレンタルショップでCDを借りてリッピングするだけの時間的余裕を持っている連中なのだから。

 試聴の時間もiTMSが30秒なのに対して、LISMO Music Storeは11秒。後発なのだから、アドバンテージを押し出さなければ市場は取れないと思うのだけれども、試聴時間までけちってどうしようというのだろう。

 文句ついでに言ってしまえばLISMO Music Storeのユーザー・インタフェースの設計もほめられたものではない。なかなか聴きたい曲が探し出せないのである。特に検索窓の使いにくさは、なんとかしてほしいところ。LISMO Music Storeは地が白で枠線が黄緑というデザインなのだけれど、そこに枠線でかこっただけの白色の検索キーワードの入力窓があっても、なかなか存在に気が付かない。

 「品揃えが悪い、価格が高い、サービスが悪い、使いにくい」というわけで、「一曲買ってみるか」という意志はあっさり挫折した。携帯電話からちょこちょこやって着うたを買うのならともかく、これはパソコンをあれこれ操作してまで音楽を買う環境ではない。

 そこで方針転換して、手持ちのCDをリッピングして、携帯電話にダウンロード。携帯電話を音楽プレーヤーとして使ってみた。

 まず、携帯電話用に1GBのマイクロSDカードを買う。昨今のフラッシュメモリーチップの値下がりは凄まじく、2000円を切る価格で買うことができた。どうなっているのだろう。2年前に1GBのUSBメモリーを確か1万円で買った記憶があるのだけれど。

 次に、au Music PortでCDをリッピングし、USBケーブル経由で携帯電話にデータを送り込む。少しでも良い音質で、とリッピングのビットレートをあれこれいじったものの、携帯電話にダウンロードする際には、まとめて48kbpsに変換されてしまった。私の使っている携帯電話「W42SA」の仕様なのか、それともau全体の仕様なのかは分からない。

 48kbpsかよ、MP3もAACも128kbpsが基準だし、これは音質は期待できないなあ——と思っていたら大間違いだった。

 イアフォンで聞く分には十分な音質なのだ。室内楽のような繊細な音質の音楽でも試してみたのだけれど、かつてのカセットテープ並、あるいはそれ以上の音質で音楽を楽しむことができる。

 一体コーデックは何か、と調べてみると、HE-AACというものだった。これはすごい技術だ。MP3ならここまで圧縮するとくぐもった音になってしまうところを、室内楽でもソロでもきちんと音楽として楽しむことができる音質を確保できるのだから。

 かくして、現在私の携帯電話には、伊福部昭に早坂文雄、ヴォーン・ウィリアムズにアルチュール・オネゲル、そして吉松隆、と、偏った曲目がずらりと入っており、主に電車の中で聴いている。
 東海道線の中で、晩年(といっても今の私より若いのだ)の早坂文雄が骨身を削った「交響組曲ユーカラ」を聴いたりしていると、なんとも言えない気分になる。
 1955年に41歳で死んだ早坂が、かくも音楽というものがお手軽に楽しめる時代が来ると知ったら、どう思っただろうか。

 あんまり聴きすぎると、携帯電話の電池が尽きてしまう。電話として使えなくなってしまっては本末転倒なので、外出時に音楽を聴く時間は、とりあえず1時間以内とということにしている。もともと携帯電話のおまけ機能と思えば、使用時間の制限ぐらいは許容範囲内だ。

 ちなみに、リッピングしたCDの音は、着うたには設定できないようだ。「着うたは、LISMO Music Storeで買え」ということだろうか。ネットを検索すると、自分で着うたを作る裏技があれこれ公開されている。まあ、私は着信音には無頓着なので、これ以上どうこうするのはやめにする。

 音楽業界がこんな規制をかけているのか、それともauが悪いのかは知らないが、自分が金を払って買ったCDも、着うたに出来ないというのは、度量の狭い話ではある。

2007.04.02

パソコンを新調する


Pasocom

 2月に種子島に行くにあたって、パソコンを新調した。パナソニックのLet'snote CF-R-5。1kgと軽く、11時間の長時間電池駆動が可能なサブノートだ。

 もともと、基本はMacノート、持ち歩きはWindowsのサブノートという区別でノートパソコン2台を使い分けてきた。先代WindowsマシンはソニーのVAIO SR-9で、2001年に購入している。Windows2000を積んでいて、今も原稿を書くには不便がないのだけれども、筐体がきしむようになってきたことと、なによりも電池が持たなくなってきていた。さすがに6年前のパソコンに3万円近いバッテリーを新調する気にはならない。
 インタフェースもUSB2.0が使えないとか、無線LANもイーサネットも内蔵されていないとか、なにかと不便さが目立つようになっていた。
 結果、ここ1年ほどは、重いPowerBookG4を持ち歩いていたのである。

 そして、買い換えの最大の動機は、Windows Vista発売だった。Vistaが欲しかったのではない。なくなる前に、XP機を手に入れねばならないという強迫観念にかられたのである。

 ここを読む人ならば、よもやVistaに飛びついた人はいないと思う。そもそもマイクロソフトの新OSが、すぐに仕事に使えると思っているのは、よほどのパソコン初心者か、お人好しかだろう。

 最低でもSP2が出るまではマイクロソフトのOSは信用できない。

 もっともこれはアップルも同じであって、アップルの新OSは、バージョン番号の最後の桁が「3」にならないと信用できない。「MacOSX 10.4.3」というように。

 知り合いのパソコン雑誌編集者達に聞くと、案の定Vistaは阿鼻叫喚の巷となっているようで、「Me以来のダメッ娘OS」という声も聞こえてきている。

 仕事に使うならば、パソコンメーカーが「新OS搭載!」と麗々しくモデルチェンジする前に、安定しているXPのサブノートを是非とも手に入れねばならない。

 軽いこと、電池が持つこと、キーボードがしっかりしていること、という条件で後継機選定に入った。ThinkPad X60とLet'snote CF-R5が候補となったが、ThinkPadは、レノボのものになってからかつての堅牢という美質を失っているようだ。知人のユーザーからはあまり良い話を聞かなかった。
 キーボードに難はあり、CPUがCore DuoではなくCore Soloだという問題はあったが、軽さと稼働時間を優先してCF-R5を選んだ。要は出先でデジカメの写真を処理し、原稿を書ければいいのだ。それでもメモリーは1GBを足して最大に拡張した。

 入手して最初にやったのは、ユーザーインタフェースを可能な限りWindows 95に近づけることだった。Mac使いとして言わせて貰えば、XPの青とオレンジを基調としたインタフェースは、醜悪以外の何物でもない。95のインタフェースがまともとも思わないが、マイクロソフトの歴代OSの中では一番ましだ。

 更に、カスタマイズソフトの「窓の手」をインストールして不要な機能を片っ端から切っていく。

 最後によく使うソフトをインストールする。仮名漢字変換はATOK(ただし購入以来アップデートしていないのでATOK14)、エディタはQXエディタ(その昔買った本についていた古いバージョン)、メールはThunnderBird、ブラウザーはFirefox、画像ブラウジングはVix、画像処理はJTirm、オフィスはOpenOffice。可能な限りオープンソースのソフトウエアを使う。

 かくして準備したCF-R5は、種子島で十分に使うことができた。なにより1kgという軽さはありがたかった。PowerBookG4の2.45kgはなんだかんだいって重い。

 使ってみるとXPは意外に堅牢で、一度も落ちることはなかった。キーボードはこだわる人はいるが、私は慣れの問題だと割り切っている。実際、CF-R5の小さなキーボードで、種子島の記者会見でリアルタイムの入力を行うことができた。

 アップルがサブノートを出してくれればこんな苦労はしなくても済むのだがと思いつつ、けっこう気に入っている。気に入らない点があるとすると、スリープ時に電源ボタンが下品なグリーンで点滅することだ。なぜ白色光にしなかったのだろう。思い切りセンスが悪い。

 ところで、一つ質問。スタートボタンに付いているWindowsの旗アイコンを書き換えるユーティリティはないだろうか。これがディスプレイにこびりついた鼻くそのように見えて目障りなので、置き換えたいのだけれど。

« March 2007 | Main | May 2007 »