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2007.04.09

早坂文雄の音楽を聴く

 携帯電話がきっかけになって、改めて早坂文雄の音楽を聴いている。

 聴くほどに、この人が長生きしたならば、日本の音楽シーンは大きく変わっていただろうと思う。

 一般に、早坂文雄は全盛期の黒澤映画の映画音楽で知られている。「七人の侍」のメインテーマは有名だし、ちょっと映画が好きならば「羅生門」のうねうねとうねるようなボレロ調の音楽を思い出すだろう。
 もちろん、早坂は映画音楽にも力を注いだのだけれど、本質はコンサート用音楽の作曲家だった。彼は決して書き飛ばすことなく、コンサート用の作品を作るのと同じ態度で、映画音楽に臨んだのだった。

 早坂文雄(1914〜1955)は、とてつもない不幸のどん底から出発した人だった。仙台で生まれ、幼少時に親の都合で札幌に移住。
 15歳で父が家出し、16歳で母が病死、17歳で弟妹と生き別れになって一人で生きていかなければならなくなる。しかも極貧の生活の中、本人は結核を患って、生死の境をさまよったのだ。

 昭和の初めの札幌の話だ。その寒さたるや形容のしようがない。

 凄まじい境遇の中、同じ歳の伊福部昭と出会って、将来共に作曲家になることを誓う。21歳で初めて書いたオーケストラ曲「二つの讃歌への前奏曲」がコンクールに入選して一気に運命が開ける。並のドラマどころではないドラマチックさだ。

 やがて、東宝映画社長の植村泰二に認められて上京し、映画音楽の仕事をするようになる。彼は貧乏を脱出し、映画音楽で作った財産で35歳で成城に豪邸を建て、それでも命を削るようにして働き続け、41歳で死んだ。
 死に方も壮絶だ。自宅に来客があり、自作の楽譜を取り出そうとして屈んで体を伸ばした拍子に、肺結核で癒着を起こしていた肺が破れたのだ。呼吸ができなくなった彼は、もがき、苦しみつつ死んだ。

 彼の葬儀では、作曲家仲間が、映画監督の溝口健二に「おまえが仕事をさせすぎたから早坂は死んだんだ」と迫ったそうだが、おそらく彼は止めても止めても止まらずに仕事へと自分を追い込んでいったのだろう。

 生前、最期に構想していたのは「ニルヴァーナ(涅槃)」というオーケストラ曲だった。このタイトルは黛敏郎に引き継がれ、傑作「涅槃交響曲」が生まれることになる。


——————————

 まとめて聴いていくと、早坂の音楽が最後まで未完成であったことが分かる。逆に言えば遺作となった「交響的組曲ユーカラ」の向こうには、もっともっと素晴らしい、はるかな高みに近づいた音楽があったはずと思えるのである。

 伊福部昭が初期から高い完成度を誇り、長い人生の最期までその水準を維持したとするなら、盟友の早坂は、稚拙から出発し、生涯を通じて進歩しつづけた。彼が41歳で死なずに、伊福部の91年といわず、武満徹の65年でも生きながらえたら、どんな素晴らしい曲を書いたろうか。

 私は昨年12月10日のオーケストラ・ニッポニカの早坂文雄作品演奏会で、彼21歳の「二つの讃歌への前奏曲」(1935)を聴いた。初演以来、実に70年振りの2回目の演奏だった。

 「二つの讃歌への前奏曲」は若さゆえの稚拙さが露呈した曲だ。

 伊福部昭21歳の出世作であるオーケストラ曲「日本狂詩曲」は、すでに完成されきった斬新な曲だった。しかし早坂が同じ21歳で書いた「二つの讃歌への前奏曲」は、作曲を始めた音楽高校の学生が、初めて書いたオーケストラ曲のような不器用さと不慣れさに溢れている。旋律の瑞々しさが才能を証しているものの、オーケストレーションも和声もぎこちない。

 それが27歳で書いたオーケストラ曲「左方の舞と右方の舞」では、ある種の風格すら感じさせるようになる。
 太平洋戦争後の1948年、34歳の時の「ピアノ協奏曲は」、ロマン派的曲想を持つ雄大な作品だ。「管弦楽のための変容」 (1953)では、音楽は高度の構築性を示すようになり、そして最後の「交響的組曲ユーカラ」(1955)にたどりつく。

 「ユーカラ」は、全6楽章、演奏時間50分の大作だ。それぞれの楽章はアイヌの叙事詩に基づくタイトルを持つが、音楽はよりいっそう抽象的になり、他に例のない構築性と張りつめた精神性を示すようになる。
 それは、彼がごく初期から考え続けてきた「東洋人にとっての音楽はどんなものか」という命題に対する回答だった。「ユーカラ」で、彼は和声による肉付きの良い豊穣な響きではなく、「点」と「線」による緊張感に満ちた水墨画のような音楽へと踏み込んでいく。
 それは、早坂の生涯の到達点であり、同時にその後の彼の音楽の出発点になるはずだった。

 「ユーカラ」作曲の時期、結核のためにすでに早坂の健康は予断を許さない状態になっていた。この頃、早坂の映画音楽の仕事を手伝っていた武満徹は、「ユーカラ」初演を聴いて「早坂さんの遺書のようだ」と言って泣いたという。

 武満の予感は当たり、運命は早坂にさらなる高みを目指すための時間を与えなかった。生涯を通して進歩しつつけた彼の音楽は、「ユーカラ」をもって途切れた。

 現在、早坂の作品が演奏される機会は徐々に増えている。私が音楽を聴き始めた30年前に比べれば手に入る録音も多くなった。
 だからこそ聴いてほしい。「七人の侍」の作曲家が遺したのは、とても豊かな音楽だったのだから。


 早坂文雄入門としては、この一枚がいいだろう。冒頭、あの「七人の侍」のテーマが収録され、さらに「羅生門」の音楽を例のボレロも含めて聴くことができる。加えて早坂が二十代の作品「古代の舞曲」「序曲ニ調」、そして晩年の「管絃楽のための変容」も入ったお得な一枚だ。

 このCDを聴くと、早坂が映画音楽にも一切手を抜くことなく、ぎりぎりに自分を駆り立てるようにして臨んだことが分かる。映画音楽とコンサート用音楽との間に、ほとんど差を感じさせないのだ。それは同時に彼の健康をも蝕み、寿命を縮めたのだろう。

 ちなみに、「羅生門」の「真砂の証言の場面のボレロ」は、泰西名曲が大好きな黒澤明がラヴェルのボレロに合わせて絵コンテを切ってしまったので、早坂が仕方なく苦心して書いたものだ。「羅生門」がヴェネチア映画祭に出た時には、映画の高評価とうらはらに「日本人がラヴェルの真似をしている」とだいぶけなされたという。

 しかし、今になって聴いてみると、これはラヴェルのアイデアを使いつつも全く異なる独立した音楽になっていると思う。少なくとも、以前に「涼宮ハルヒの憂鬱」と引っかけて書いたショスタコーヴィチの「レニングラード交響曲」における「戦争の主題」よりは、音楽としてはるかに上等だ。





 自分は音楽を色々と聴いているという自信があるならば、是非ともこの「交響的組曲ユーカラ」を聴こう。

 名曲だ。保証する。だが、同時に未完成さも感じさせる曲であるということは言っておかねばならない。何度も書くが、この後に一体どんな音楽があり得たのか。早すぎる死が惜しまれてならない。

 第1曲「プロローグ」は、なんとクラリネットソロ。クラリネットが一人で延々と、瞑想的なメロディを演奏する。オーケストラは第2曲の「ハンロッカ」で初めて鳴るが、決して大音響で押してくることはなく、室内楽的な音の戯れに終始する。第3曲「サンタトリパイナ」は、弦楽器のみが息の長い、どこまでも続くような旋律を演奏し、盛り上がり、そして消えていく。

 第4曲「ハンチキチー」は、ラプソディックで色彩豊かな楽章。第5曲「ノーベー」はかなり変化の激しい、当時としてはかなり前衛的な響きがする。最後の第6曲「ケネペ・ツイツイ」は複雑な、それでいて瞑想的な、墨絵を思わせる渋い渋い響きの曲だ。



 先に早坂の曲の演奏機会が増えていると書いたが、それでもこの曲は不遇だ。初演は1955年6月に上田仁指揮の東京交響楽団が行った。その後ずっと演奏されず、再演はそれから20年以上を経た1976年になった。記憶に頼って書いてしまうと、演奏は山岡重信指揮の読売日本交響楽団だったはず。

 多分、ではあるが、3回目はこのCDに収録された、山田一雄指揮日本フィルハーモニーによる1986年4月の演奏である(そう、このCDはライブ録音だ)。

 そして、これまた多分、になるのだけれど、4回目の演奏は2004年7月15日の矢崎彦太郎指揮東京交響楽団。

 これだけである(私の知らない演奏会が1〜2回あった可能性はある)。

 2004年の演奏を、私は東京文化会館で聴いた。決して万全の演奏ではなかったと思うけれど、それでも「ユーカラ」は心に沁みた。

 この曲は、もっと演奏されてしかるべきだと思う。





 NAXOSの「日本作曲家選輯」からもちゃんと早坂作品集が出ている。しかも岡田晴美が弾く「ピアノ協奏曲」という、うれしい選曲だ。収録された曲目は以下の通り。



・ピアノ協奏曲(1948)(世界初録音)

・左方の舞と右方の舞(1941)

・序曲 ニ調(1939)



 同シリーズではなにかとその演奏が問題とされるドミトリ・ヤブロンスキー指揮ロシア・フィルハーモニー管弦楽団だが、この録音はなかなか良い演奏をしている。もちろん岡田博美のピアノも素晴らしい。伊福部昭の「ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲」(1941)と聞き比べると、二人の資質の違いがはっきりと見えて面白いかも知れない。





 高橋アキによる、早坂のピアノ曲集。早坂はその生涯に渡ってピアノソロの小品を作り続けた。彼のその時々の問題意識が一番はっきり出ているジャンルかも知れない。演奏は折り紙付き。早坂のピアノ曲は、どれも超絶技巧を要求するようなことはないので、ピアノが弾けるならば、自分で弾くつもりで聴くのもいいだろう。





 タイトルに「黒澤明と早坂文雄」とあるが、本書の主人公は早坂だ。主に映画音楽の側から、早坂の人生を追った評伝である。従来あまり知られることがなかった、早坂の札幌時代の生活や、映画音楽の仕事をするようになった経緯、さらには彼が映画音楽の仕事を引き受けるようになったことで巻き起こる、音楽関係者と映画関係者の間の緊張関係に至るまで丹念に早坂の生涯を追っている。

 早坂の葬儀では、「七人の侍」のテーマが流されたが、音楽関係者は「なぜ、映画の音楽なんだ」と不満を漏らしたという。早坂にとって映画音楽もコンサート用音楽も区別なく取り組むべき仕事だったが、世間的には両者の間に断絶があったのだった。

 実際難しいところで、現在早坂は「七人の侍の作曲家」として記憶されているが、彼の仕事の質と量からすれば、本当は「ユーカラの作曲家」であるべきだろう(「七人の侍」では、佐藤勝、佐藤慶次郎、武満徹がアシスタントに入っている)。しかし、「侍のテーマ」が、早坂一世一代の名旋律であることも事実である。


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Comments

「七人の侍」アシで武満もやってたんですね。あの人はこの時期、ほとんど仕事がなかったのでいろいろな人のアシスタントをやっていたことは知っていたのですが。
この映画音楽の素晴らしいところは、オープニングクレジットでメインテーマがまったく現れず、打楽器の音のみでまとめられているところと、メインテーマが確か勘兵衛や菊千代たちが道中歩いているところでさり気なく出てくるところでしょうか?こういう音楽設計は黒澤明の考えかも知れませんが(スタンリー・キューブリックと同じくやたら音楽に口を出す監督だった)、それにしても音楽がきちんと主張して、なおかつドラマツルギーのツボにすっとなじんでいくのは、職人芸ですね。

ちなみに黛先生のアシも武満やってます。黛先生のアシは武満と高橋悠二だったそうで。
早坂文雄の純音楽は、あまり聴いていないのでコメントできませんが、この時代の作曲家、少し上の世代の信時潔とか、西洋音楽と日本音楽の間の葛藤が、それぞれに興味深いところです。伊福部先生や早坂は、北海道という中央(東京)から遠く離れた地に育っているので、アイヌ文化とか北方の文化とのスタンスの取り方とか、いろいろ悩んだかも知れないと勝手に推測します。

そういえば、この4月10日で黛先生お亡くなりになって10年です。月日の経つのは速いです。

 そうか、黛没後10年なんですね。岩城宏之が生前、「武満は演奏され続けるだろうが、黛は俺が死んだらどうなるか心配だ」と言っていたそうです。あれだけの人なのに、全集が出る気配もないというのはどう考えたらいいのでしょう。

 「シンフォニック・ムード」「ルンバ・ラプソディ」こそナクソスで録音が出ましたが、「エクトプラズム」「スフェノグラム」「ミクロコスモス」はCDが出ていないです。
 事実上の最後の作品「古事記」も録音がないです。「金閣寺」だって岩城の尽力がなければ日本上演もCD化もなかったのでしょう。

 伊福部・早坂という二人は、東京がドイツ音楽を取り入れてあわあわしていたところに、札幌で「サティってすげえ」とか言いつつ、どーんと土俗的音感をもって突き抜けてしまったところがすごいですね。

 やっぱり早坂は長生きできなかったというのが、一番悔やまれるところです。記事にも書きましたが、稚拙から始まって一歩一歩進歩していった人が、進歩の途中で死んでしまったということですから。

 最後の年だったか、黒澤明にあてた手紙が残っています。早坂の体調を気遣う黒澤に対して、早坂は「自分の体調が悪いのは普通の人の平常と同じなのだから、存分に自分の音楽に注文をつけてくれ」と書いています。本当に、やりたいこと、やらねばと思っていることを一杯抱えたまま死んだのですね。

 伊福部・早坂については、ちょっと面白い人生の交差を見つけたので、また書こうと思っています。

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