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2007.05.18

夢の残骸を見つける

1988list1

 資料の整理をしていて、とんでもないものを見つけてしまった。上の写真をクリックすると大版の写真が表示される。

 宇宙開発事業団(NASDA)の計画管理部の手による「人工衛星等打ち上げスケジュール(一部想定)」という表だ。日付は昭和63年(1988年)6月8日。今から19年前である。


1988list2
 色々見慣れない略語が出てくるが、略語の一覧表はこちら。

 実際の打ち上げ実績(2001年以前はこちら)と、比較してもらいたい。

 涙が出てはこないだろうか。

 これが当時の夢だった。

 現実との差を考えるならば——残酷なようではあるが——夢の残骸としか呼びようがない。

 この表に従えば、H-IIは1991年度冬期、つまり1992年の2月に打ち上がることになっている。実際にはLE-7エンジンの開発が難航したことで、スケジュールは2回、1年ずつ延期された。

 H--IIロケットの1号機は1994年2月4日に打ち上げられている。

 編集長に「俺は、絶対に行きますからね」と、1年前から言い続けて、休暇を取って種子島に行ったこと、そしてプレスセンターで初めて笹本祐一さんやあさりよしとおさんと遭遇したこと(あくまで遭遇だ、親しく話をする機会を得るにはさらに3年の月日が必要だった)など思い出すが、これは別の話だ。

 H-IIをどんなペースで打ち上げるつもりだったか、そしてH-IIAを含めた実績がどう推移したかを比べてみると以下の表になる(H-Iロケットの打ち上げは省略した)。






















































年度表中の打ち上げ回数実際の打ち上げ回数
1991年度1機0機
1992年度3機0機
1993年度4機1機
1994年度4機2機
1995年度4機0機
1996年度6機1機
1997年度6機2機(うち1機打ち上げ失敗)
1998年度5機0機
1999年度表に記載なし1機(打ち上げ失敗)
2000年度表に記載なし0機
2001年度表に記載なし2機(H-IIからH-IIAに移行)
2002年度表に記載なし3機
2003年度表に記載なし1機(打ち上げ失敗)
2004年度表に記載なし1機
2005年度表に記載なし2機
2006年度表に記載なし3機

 表と現実の落差には泣くしかない。1996年度に実現するはずだった年6機の打ち上げは、未だ実現したことがない。この表では1991年から1998年までの8年間でH-IIを22機打ち上げることになっているが、2007年現在、H-IIとH-IIAを合わせても19機の実績しかない。しかも、うち3機が失敗だ。

 いったいなぜこんなことになってしまったのか。

 この表を入手した経緯は、ありありと思い出せる。この表は、NASDA計画管理部の内部資料だったが、日経産業新聞にすっぱ抜かれたのだった。

 1988年、私は日経エアロスペース編集部に勤務していた。26歳で、ひたすらこき使われる下積み記者生活を送っていた。

 日経産業を読んだ職場の先輩が、NASDA広報に「こっちにもよこせ」と電話したのだった。広報は「これは内部資料であってそもそも外部に出す性質のものではなく…」とかなんとか言ったのだが、「一度新聞に載ってしまったのだから公開資料も同然だろう」といって、ファクシミリで送ってもらうことに成功したのである。私はといえば、先輩と広報との電話を通じたせめぎ合いを、横で聞いていた。

 編集部内の反応は、「こんな夢みたいな資料作っているからNASDAはダメなんだ。予算の裏付けのない計画を並べるだけ並べて、奴らはバカか?」というものだった。

 実際、表の中にはかなり怪しいものが、一杯入っている。1994年度のTRMMぐらいまでは、一応当時、具体的な衛星計画として検討をしていたものだが、そこから後は、「民間通信衛星」などという曖昧なもの(SCCやJSATあたりの衛星を受注するつもりだったのだろうか)が入っていたり、1996年には「月探査衛星」などいうものが入っていたり(あの頃、月探査は筑波で細々とI氏が検討をしていた。後にセレーネにつながるものだが、つまり当時の思惑からするとセレーネの現状は11年遅れということになる)、1996年以降、ミニシャトルHOPEの打ち上げが年1〜2回入っていたり——要は当時の筑波宇宙センターにおける将来検討を、とにかくあるだけ並べてみたというのがはっきりと分かる。

 1996年度には、JEM、つまり国際宇宙ステーションの日本モジュール「きぼう」が打ち上げられ、1997年度には最初の補給フライト、つまりHTV打ち上げが行われることになっている。ここまでくると、怒りを通り越して脱力感すら感じてしまう。

 1997年度には軌道間輸送機(OTV)やら、テレロボティックの無人作業機(OSV)まで打ち上げることになっている。これらは今現在、検討すらされていない(必要なくなったから、というのが大きな理由なのだが)。

 1988年6月という時期がどんなものだったかといえば、H-IIロケットの開発が4年目に入り、液体酸素・液体水素を使う二段燃焼サイクルを採用したLE-7エンジンの開発が容易なことではないと分かり始めた頃だ。1987年7月にLE-7は田代試験場で最初の爆発を起こしている。液体水素ターボポンプは、NASDA角田で高温ガスでタービンを駆動しての試験を繰り返していたが、振動が出てなかなか定格回転数を達成できずにいた。
 この表が作成された直後の1988年7月には、LE-7の最初の原型エンジン「EG101」が、田代試験場で燃焼試験に投入されており、試験開始直後に、さっそく燃焼室内部の焼損という事故を起こしている。

 直前の5月、私はNASDA角田とNAL角田(現在は統合されて角田宇宙センター)に出張取材に赴いて、液体水素ターボポンプ開発が容易ならざる困難に突き当たっていることを聞いている。確か「オフレコですよ」という条件付きだった。

 当時、浜松町の本社広報で話を聞くと、「順調です、大丈夫です、問題ないです」という中身のない返事が返ってくるばかりで、そのこともマスコミの間でNASDAの信頼度を下げていた。
 まだ、生活の中にインターネットは影も形もない。パソコン通信がようやく立ち上がった時期で、もちろん「正直が最高の広報」という常識が確立する以前である。

 だが、19年を経てこの表を見ると、とてもではないが「夢物語をかきあつめて、意味のない表を作りやがって」と非難する気にはならない。

 あの当時の雰囲気は、「今は苦しいが、ここを乗り越えれば1990年代に一層の飛躍が可能だ」というものだった。

 今見れば、それこそ学童疎開の子供がひもじさをまぎらすために、画用紙に書いたお菓子の絵のように思える。
 しかし当時は「ここで頑張れば、こんなに輝かしい未来があるんだよ」という、難航するH-II開発に対する道しるべの意味があったのだろう。

 そして道しるべが、反故の手形と化すにあたっては、NASDA自身の責任以外の要因もあった。翌1989年にアメリカ通商代表部(USTR)は、スーパー301で衛星市場開放を日本に迫る。当時の自民党政権は、アメリカのごり押しをそのまま呑んだ。結果として日本の衛星産業は壊滅的打撃を被り、H-IIは打ち上げるべき官需ペイロードを失ってしまった。

 この表は、夢の残骸だ。だが、残骸を直視せずして、未来はない——少なくとも私はそう思い、ここに公開するものである。

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Comments

88年というと、札幌の北大クラーク会館でISTSのあった年でしたか。

あの頃は、夢が溢れるかのような楽しい時代でしたね…(遠い目)

1980年代初めのNASAのスペースシャトルのマニフェストを見ていても、同じような感慨に陥ります。

HOPE、そして月探査衛星…。なるものもあればならなかったものもあります。あの頃、私もまさか今のようになっているとは思いませんでした。宇宙へのフラッシュバック、というところでしょうか。
夢をみないと先へは進めないが、現実も直視しないと食ってはいけない。世間は厳しいんですよね。

メーカーの開発部門にいる者ですが、どこの開発部門もロングプラン(LP)って策定しません?
そのロングプランは常に全部うまくいくとこんな感じという夢物語で、失笑を買いがちですが、すべて上手く行く絵を描かないで上手く行くはずがないんです。

もっとも、ウチのLPが外部に漏れたら大変なことになりますけどね。
だって、あんなことやこんなことまで計画しているなんて、ばれたら大変。

このときのNASDAの中の人、かわいそう・・・。

壮大な夢と厳しい現実で使うツールがほぼ同じというのは・・・?
ここらで一旦、仕切り直しが必要な気がします。
JAXA統合あたりでそういう動きがあったようですが
うやむやのうちに無かったことにされたのは残念でなりません。
前進も後退も出来ずあてもなくH-IIAを運用する先に一体何が待っているのでしょうか

健康づくりも原子炉も財政再建も…みんなこのようなものではないですか?
http://www.med.or.jp/nichinews/n190420s.html
140兆円の医療費をソフトも含めて使えるはずだったのが、56兆円に押さえられてしまった、国民医療費。
地に足つけた計画達成だけでは、夢は膨らみません、とでも云っておこう。

この表を見ているとLOST WORLDということばを思いおこしますね。

年間5から6機の打ち上げとすると、漁業関係の休漁保障とかはどう考えていたのでしょうか。
ケープカナベラルの様に観光客/宇宙関係者相手の経済効果で地元に補填?する予定だったのでしょうか。(地元の雇用も増えるから式の話で漁協と交渉するつもりだったのでしょうか。)

あと気が付いたのですが、月探査衛星以外に深宇宙探査は入っていませんね。旧ISAS関係の絡みもあり学術関係の探査を削除しているのはわかりますが、棲み分けの悪しき面が見て取れます。
当時アメリカでタイタン・セントールは空軍もNASAも使用していたのですから。

失礼!

 興味深い資料を見せてくださってありがとうございます。
 少なくともこの資料を作ったときは、NASDAには輝かしい未来があったんですな。

 ところで、テスト飛行が3機プラス予備1機、PFというのが準備飛行だとしてこれが6機、その後のOFが運用飛行だとして98年までに22機、合計は31機プラス予備1機。これだけ飛ばさなきゃアリアンに勝てないんだってごり押しする若き日の五代さんが見えるようだ。

>これだけ飛ばさなきゃアリアンに勝てないんだ
なるほど。そういう意味じゃ正しいプランと言えますね。

>すべて上手く行く絵を描かないで上手く行くはずがないんです。
同感。自分としてはこれを冷笑する気にはなれません。

それら、バラ色の宇宙計画に夢を抱いて、宇宙工学に進学した世代です。
さすがに当時の私でも、実現性は7割くらいと思っていましたが、ここまでひどかったとは。

その一方で、気になったのですが、今の学生は(たとえ絵に描いた餅でも)こんな大きな夢を抱く機会を経ないできたのではないだろうか。それが悪いことではないけれど、大学の宇宙開発が、小型衛星と小型ロケットに偏っている昨今が、当時の反動に思えます。

僕はこの表、これはこれで良いと思うのですけどね。というのも、この表が「どのような位置づけで」書かれたのか、良くわからんと思うのですよ。とにかくみんなからやりたい衛星を全部集める、っていうのもあり、次ぎに現実論としてはこーだよな、っていうのがあり、いろんなフェーズがあるのではなかろうか、と。なのでこの資料からだけだと、何ともっておもいます。

学生が小型衛星・小型ロケットに偏っているというのは、ただ資金面の話しだけと思うのでそんなに気にしていないのですが(今、立ち上がりつつある月衛星は100kg級だし、今後のステップアップに繋がっていくと思います)、問題は学生達に既に固定概念(衛星といえばキューブサットだ!とか)が生まれつつあるような気がするのです。キューブサット初期の頃の人は僕も知りませんが、文献を読む限り、彼等はフロンティアを試行していたんだと思います。しかし、今の学生達がフロンティアを試行しているのか?というとそこがちょっと?。どんどん新機軸を打ち出してくる学生達で在って欲しいと思います。

インクリメンタル開発で最も大切なのはマイルストーンを確実にヒットしていくという達成感が大切なのです、そのことが「私たちはやれている、できている、方向は間違っていない」という自信につながり、次の開発への活力となっていくのです...それ以外の駆け引きは、やってる本人の満足以外の効果なんて無いのではないでしょうか

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