SAFTY JAPANにこんな書評を書いた途端に、テレビでは例のイギリス人英語教師殺人事件を超能力者が透視するという2時間スペシャルをやったそうで……私は見ておりません。まず間違いなく透視結果は外れるでしょうから、録画した方は、事件解決時まで取っておきましょう。
というのはともかく、同じSAFTY JAPANで、森永卓郎さんが「公務員法が成立、それでも天下りはなくならない」という記事を書いている。
天下りの構造について、私から付け加えることはなにもない。今度の公務員法改正で、天下りはなくならないとする森永さんの意見にも賛成だ。
ここでは、天下りする人の心理について、ちょっと書いておこう。
私は、天下りした側もされる側も複数取材した経験を持っている。
一つはっきり言えるのは、天下りされる側は誰一人として「ウエルカム天下り」なんて考えてはいない。引き取らないですむなら、なるべくそんなものは引き取りたくないと考えている。官の側が引き取らないとペナルティをつけてくるから、仕方なく引き取っているのである。
某電機メーカーの偉い人から、愚痴を聞いたことがある。「元NASDA(もちろん旧宇宙開発事業団のことだ)で理事やった○○さんね、いい人だし、現役の時は僕も彼と一致団結して日本の宇宙開発をものにしようと官も民もなくがんばったものだよ。○○衛星は彼と協力したから実現したようなものなんだ。それでもウチの会社に天下って来たら、これがもう新聞読むことしかしないんだよ。彼一人に年間いくらかかっているか、とは考えないんだよねえ」
大ざっぱな計算だが、天下りの年収が1000万円とすると、オフィススペースの維持や秘書を付ければその人件費、さらには交通費などで、年間ほぼ同額のコストがかかる。例えば重役待遇で年収2000万円の天下りを引き受けると、実際にかかるコストは4000万円というわけだ。
企業は慈善事業ではない。年間4000万円で天下りを引き受けるということは、引き受けることによって年間4000万円以上の利益の出る仕事が官からもらえるということを期待するわけだ。
「そんなことはない。使える有能な人材が来ることもあるのだろう。その場合は4000万円も利益が出なくても得と言うことになる」と考える人もいるだろうが、それは甘い。
天下りは、基本的に下られる側に選択権はない。「そんな人要りません」とは言えないのだ。だから天下りを受け入れる側はもっとも堅い計算をする。つまり、天下りでやってくる者が全くの無能であっても損をしないところを狙うのだ。
それでは、天下る側の心理はどうなのか。
これが面白いところなのだが、必ず「みんな私によくしてくれて、私の周りで一致団結してくれた」などとと言うのだ。
私は、中央官庁で事務次官やらなんやらを経験して、複数の天下り先を回った人にも、複数人インタビューしたことがある。そんな人たちに「天下り先ではどんな仕事をしましたか」と問うと、いくつかの事例が出てきて、例外なく「ここの人は『○○さん(ここに自分の名前が入る)のためだ』と、一肌脱いで頑張ってくれたんですよ」というような話になる。
天下られる側からは、「ウエルカム」というような話は一切でない。「困ったもんだ」という話しか出てこない。これは「官→民」というパターンのみならず、「官→傘下の特殊法人や財団法人や独立行政法人」、あるいは「官傘下の法人→民」、というパターンでも一緒である。
にも関わらず当人は、私が会った限り一人の例外もなく「ここでは私に良くしてくれて」と語ったのであった。
いったいどういうことか、
簡単な話であって、天下っている当人も自分が嫌われていることに、無意識のうちに気が付いているのだ。しかしそれを意識し、認めることは、プライドが許さない。だから「みんな私を信頼してくれて、よく頑張ってくれた」というように、自己欺瞞へと逃げ込むのだ。
自己欺瞞に逃げ込んで夢の世界に生きる代償が、天下りの安定した地位と結構な額の退職金というわけである。
天下られた側も、天下りの自己欺瞞を維持するのに苦心する。「やっぱり俺のこと嫌ってるんだろ」とウサギのようにおびえる天下りよりも、「良くしてくれるねえ」とにこにこしている奴のほうが、担ぐに当たってはずっとましだ。
もちろん「ここでは嫌われた」と親官庁に報告され、天下りがこなくなり、その分仕事が減ったなどということは避けたい。「ええ夢みてもらって、次の天下りの椅子に気持ちよく送り出す」ほうが、仕事の面でも得というものである。
私思うに、天下りという仕組みは二重の意味で人間の尊厳を踏みにじるシステムである。
まず、天下られる側の「頑張って仕事をすれば自分の組織のトップになれる」という希望を打ち砕く。
そして天下る側は、「本当は嫌われている」という実態におびえつつ「みんな良くしてくれる」という自己欺瞞に逃げ込まざるを得なくなる。これもまた、人間の尊厳のかけらもない悲惨な心理である。
今現在、天下りの椅子に座っている人は、ここを読んでいるだろうか。
私の取材経験から言えば、貴方はまず間違いなく周囲から蛇蝎のごとく嫌われています。周囲は、あなたと事を起こすと面倒だから、「はい、はい」と言っているだけです。
もしも貴方が仕事のできる人ならば、「仕事はしっかりしているからまあいいか」と認められているだけです。決して好かれているわけではありません。「仕事はできるけどうっとうしいなあ」「あいつがいなけりゃこれだけ経費が浮くんだけどなあ」と思われています。
いずれ、天下りを我が事として考えねばならない官庁の方は、ここを読んでいるだろうか。
皆さんのかなりの部分(全員とは言いません)が優秀であることを私は知っています。中央官庁が決して高給ではないことも知っています。時として理不尽な働き方を強制されることも承知しています。事務次官経由以外の天下りは、事実上出世レースからの脱落であることも知っています。
それでも、官庁生活の果てに「少しは楽をしないと」と天下りを望むことは、自己欺瞞に満ちた後半生を送ることであると指摘しておきます。だれもあなたを必要としていないのに、「自分は必要とされている」と考えて生活するのは、あなたにとって幸福なことでしょうか。収入のためには仕方ないことでしょうか。
私は、天下りの根絶は、単に民間のためのみならず、今現在中央官庁で汗を流して働いている現役官僚達の、ごく原始的な人間の尊厳にとっても必須であると考えている。
早いと四十代後半から天下りが始まる。多くは子どもが学費の一番かかる年齢にさしかかっており、家計の面から、秘書課の差し回す天下りを受け入れることとなる。
つまり天下りを官僚のライフサイクルの面から見ると、人間の尊厳を差し出して収入を安定させる、一種の奴隷制なのだ。
森永卓郎さんの記事の中で、片山虎之助自民党参院幹事長が「国家公務員には身分保証があるんだよ。そうした身分保証があるなかで、あえて辞めてもらうのだから、人材斡旋機関を設けて再就職の面倒を見てあげなければまずいだろう」と語ったと出ている。
片山幹事長は、官による斡旋がそもそも人間の尊厳を損なう奴隷制であるとは、夢にも思っていないのだろう。
最近は、私よりもずっと若い官僚に会うことも増えた。中には、キューブサットを初めとしたまさに「本番」の宇宙開発を経験して、なおも官僚の道を選んだ人もいる。
私は、彼らが独立自尊で生きる、真に「国民のために働く人」となってくれればと願っている。人間としての実力を付け、秘書課が差し回す天下りの斡旋に「私は私で生きられますから」と言い切れる人になってくれればと、期待している。