“A-Bike”で検索してくる人が多いので、「A-Bike」というカテゴリーを新設した。初音ミクもいずれカテゴリーを作ったほうが良いのかも。
元日本電気会長、関本忠弘氏の訃報を聞く。享年80歳。
私がパソコン雑誌で記者をやっていた1990年代前半が、関本氏の最盛期であり、日本電気もまたPC-98シリーズの最盛期だった。
記者懇談会に行くと、いつも長身白髪の関本氏の周囲には記者が群がっていた。その多くは「少年探偵団」と揶揄された日経BP社の若い記者であり、私もその中に混じって話を拝聴したものである。
「声と態度のでかいじいさん」というのが第一印象であり、実際「関本ラッパ」という言葉も記者の間ではささやかれていた。経団連の宇宙開発推進会議のトップでもあり、記者懇談会や記者相手の新年会などの席で宇宙関係の話を振ると、「そりゃ宇宙開発は、国が力を入れて是非ともやらにゃいかんですよ。君らももっともっと書いてくれなくちゃ」と、ひときわ大きな声で言われたものだ。
私は、傲岸な印象を振りまく老経営者に興味を持った。彼は理学系の学部を卒業して日本電気に入社している(11/13記:関本氏は工学部ではなく、東京大学理学部物理学科を卒業でした。訂正します)。にも関わらず、関本氏の行動には理工系とは異質の、政治的な思惑が目立った。技術に生きる者なら、そうはしないだろうという言動を、彼はしばしばした。そのアンバランスさの理由を知りたかった。
彼は、1960年代、設立されたばかりのコムサットに出向した経験がある。あの政治的な言動は、多国籍の技術者がそれぞれの国益を担って集まるコムサットで覚えたものか、とも思った。もちろんこれは本人に確認したものではなく、私の想像である。
あの頃は日本電気も業績絶好調だった。技術のNECの未来は、盤石に思えたものだ。
「これはまずいかも」と思ったのは、日本電気が三田に新本社ビル、通称NECスーパータワーを竣工し、マスコミ向けに内部を公開した時だった。
会長室は、スーパータワーのてっぺんのワンフロアを使ってしつらえてあった。眼下には東京の街が一望できる部屋のインテリアは白を基調としており、なぜか病院の集中治療室のように感じられた。人間が精神を自在に活動させる場所とは思えなかった。
部屋には巨大なタンス大のディスクオルゴールが置いてあった。もちろん社費でインテリアとして買ったのだろう。
失礼ながら、関本氏はオルゴールに愛着を抱く質には見えなかった。アンティークの大型オルゴールは、それこそ数千万円の値段で取引される。オルゴールの設置が関本氏の意志かは知らないが、虚栄のために巨費を投じて巨大オルゴールを入れたのならば、それは会社としてのビジネス精神の退廃ではないか。
孤独な会長室に巨大なオルゴールが鎮座しているのを見た時、初めて私は一見絶好調に見える日本電気の将来に危機感を感じた。
その後のことは皆さんもご存知の通りである。PC-98シリーズはWindows時代の到来と共に衰退した。日本電気は1998年に防衛庁や宇宙開発事業団への過剰請求が発覚し、関本氏は退任。その後、後継の経営陣と対立して、相談役を解任となった。
関本時代は絶好調だった日本電気の業績は、その後の経営陣の元で長く低迷し、スーパータワーも売却された。最近やっと回復への糸口が見えてきたところである。
私はなんとかして関本氏から詳細な聞き取りをしたいと思っていた。日本電気その他の過剰請求事件だが、どうしても単なる一メーカーの暴走に思えなかったからだ。
技術開発型のメーカーが、官需において全然儲かっていないことは、知る人ぞ知る事実である。
官が「なにかを欲しい」と言い出す前に、相当の先行投資を独自に行って技術を開発しておかなければならない。にもかかわらず官から取れる仕事からの収益はといえば、実費プラス数パーセントの利潤で計算される。官は、決して技術開発のための先行投資を回収することを認めてはくれない。
私には、あの過剰請求の手法が、そういうメーカーの事情を知った上で、財政当局が「こんな方法もある」と指導した結果ではないかと思えるのである。一般に官需メーカーは極端なまでに官の顔色を気にする。官が「やってもいい」とでも言わなければ、過剰請求をするとは考えられないのだ。
かつての日本には、この手の「硬直化した制度の不備を現場のやりくりでうまくやり過ごす」仕組みが随所にあった。
この憶測が正しければ、過剰請求は官の責任をもすべて民、それも日本電気ほか数社がかぶる形で正常化されたということになる。そうならば、官やその他の官需メーカーは、責任をすべて日本電気以下数社にかぶせて逃げたわけだ。
そのあたり、実際にどうだったのか。
私は関本氏に知っていることを話してもらいたかった。日本電気に過剰請求の責任があることは間違いない。しかし、すべてを日本電気が被るべきものかは、もっと事実関係が明らかにならないと分からない。
2004年に、「国産ロケットはなぜ落ちるのか」を上梓した後、私に興味を持ったのか、関本氏が知人達と開催している食事会の末席に呼んで貰ったことがあった。その時、遠回しに「知っていることを全て話して欲しい」と頼んだのだが、色よい返事はなかった。
あるいは氏としては、引退したつもりはなく、また権力の中枢への返り咲きを目指していたのかも知れない。まだまだ、真実を話す時期とは考えず、すべてを腹に秘めて、捲土重来を期していたのかも知れない。
関本氏の死により、様々なことが表沙汰にならずに消えていく——そんな気がする。私の憶測も、裏付けを得る機会を失った。
関本氏と、そんなに多くを話したことがあるわけではない。少なくとも通り一遍の記者としての接触で、共感を抱けるようなキャラクターではなかった。
それでも、気にしないわけにはいかない雰囲気をまとい、注目せざるを得ない存在感を放射していた経営者であった。
謹んで関本忠弘氏の冥福をお祈りいたします。