年末年始、いつもならばSFとノンフィクションばかりを読んでいる私だが、珍しくハードボイルドを読んだ。これがなかなか面白かった。
以下、アマゾンの宣伝文句をやや書き直しての紹介だ。
将来を期待されながら、ある事件がきっかけで精神的に絵筆がとれなくなってしまった洋画家の本庄敦史は、知的障害者更生施設「ユーカリ園」で美術の指導をすることになる。
そこで彼は22歳の河合真理亜と出会う。真理亜は少女時代に頭部を打ったことによる精神発達遅滞のため「ユーカリ園」で暮らしていた。
敦史はすぐに、言葉を持たない真理亜が驚異的な才能の持ち主であることに気が付く。彼女は、頭部打撲の後遺症で言葉を失ったのと引き替えに、高度な直観像記憶能力「カメラ・アイ」を獲得していたのだ。真理亜の絵は評判となり、彼女は「美しくあどけない奇跡」として成功への道を歩み始める。
しかし、彼女が描いた一枚の絵が、2人の運命を変えていく。それはただの絵画ではなかった。彼女が幼少時に目撃した殺人事件、しかも時効を目前に控えた殺人事件の「目撃証言」そのものだったのである。
敵は単なる殺人者ではなかった。政治の中枢にまで食い込んだ巨悪の組織だった。真理亜の存在を知った組織は、彼女にじわじわと迫ってくる。合法的に、あくまで合法的に彼女を圧殺するために。殺人事件の背後にある、より巨大な犯罪を隠蔽するために。
物語はラスト、華やかなパーティの場へと収束していく。真理亜の絵筆は真実をえぐり出すことができるのか。それとも組織が真理亜を絡め取り、すべてを闇に葬り去るのか。そして敦史は、真理亜を連れて、光溢れる創作の場に復帰することができるのか。
「マリアの月」の作者である三上洸氏は、私にとっては「大学のクラブで後輩の、本名K君」である。
私は大学時代、プラモデラーが集う「模型クラブ」なるクラブに所属していた、K君は、私が卒業した年に入ってきたのだった。つまり彼と同時期に在学したことはない。
モデラーも大学生レベルとなると、とんでもない腕前の者がいる。歴代の腕達者は、「ゴッドハンド」「ゴールドフィンガー」などと呼ばれたものだが、K君もその流れを組む一人だった。
分かる人にしか分からない言い方をすれば、彼はあのタウロ1/35のA7Vを完璧な精度で美しく組み上げてきた。分からない人向けに言い直すならば、およそ不完全でどうしようもないプラモデル・キットを完璧な美しさで完成させるだけの腕前を持っていた。
しかし彼の才能はプラモデルだけのためにのみあるわけではなかった。
私が彼に注目したのは、クラブの部誌に寄稿したA7Vの制作記事の文章が、素晴らしく良かったからだ。一読すれば、難物キットA7Vを自分が作っているように感じることができた。大学生の部誌の文章は、どれもこれもぐしゃぐしゃなのが普通だが、彼の文章は当時から素人離れした読みやすさと表現力を持っていた。
「こいつ、ただ者ではないな」と思ったものだが、その当時はあくまで予感に留まっていた。
卒業してからしばらく音信がなかった彼が、突如「期待の新星・三上洸」として私の眼前に現れたのは2002年秋のことだった。「アリスの夜」
で、光文社の「日本ミステリー文学新人賞」を受賞。
授賞式は盛会だった。背広を着た彼は、照れくさそうに壇上に立っていた。挨拶は、文章ではひねた表現を多用する彼にしてはストレートな「頑張ります」調のものだった。
同時開催の日本ミステリー文学大賞は都筑道夫氏が受賞した。この時の都筑氏のあいさつは、ユーモア溢れる素晴らしいものだったが、それは私にとって、子どもの時からさんざん御世話になった老作家との一期一会となった。
しかし、その後の彼の行路は順調だったとは言い難い。「アリスの夜」は幼女売春というショッキングなテーマで、ひたすら暗さのみが目立つストーリーを読んでいくと最後にほのかな明るさが見えるというものだった。緻密な構成と達意の文章力は魅力的だったが、読み通すのがつらいという評価も受けた。
本人にも反省があったのか、第2作「ハード・ヒート」
は、緻密な構成はそのままにルパン三世のような軽妙な探偵物に仕上がっていた。ところが、これはあまり受けなかったようだ。そのまま彼はしばらく沈黙した。
「現時点の自分のすべてを突っ込んで書きました」と、本人から連絡があったのは昨年の晩秋のことだった。そして、私の手元に「マリアの月」が届いた。
以下、やや内容に触れるのでフォントカラーで隠蔽しました。読みたい方はテキストを選択・反転表示してくだい。(1/6記)
彼は、ハードボイルドの定型を決して外さない。過去に傷を持つ男がいる。男が「自分が救わねばならない」と思い定める女がいる。そして敵がいる。絶望的なまでに強大な敵だ。
男は決して英雄ではない。時におびえ、時に逃げ、時に哀願し、それでも筋は曲げない。
しかし、同時に彼の書く小説は、ハードボイルドという枠の限界を試すかのように、様々な方向に拡張されている。
「アリスの夜」で、主人公は借金と薬物中毒に絡め取られてヤクザの下働きとなった情けない中年だった。そんな人物が、組織の飼う9歳の幼女売春婦「アリス」と出会ったことで、彼女を当たり前の子どもに戻すため、絶望的な逃避行を決行する。物語の1/3で逃避行が始まると、後はノンストップだ。読者は吹き荒れる暴力の嵐に翻弄され、結末まで運ばれる。
逆に「マリアの月」では、前半2/3を使って、じっくりと真理亜と敦史を初めとした関係者の抱える因縁を描いていく。かつての殺人事件を追う新聞記者、敦史に淡い恋心を抱く療法士、余命いくばくもない身で敦史の将来を気遣う彼の師匠、ユーカリ園の理事長、派手な政策で人目を集めて国政進出を狙う女性市長。そして、口当たりの良いキャッチフレーズで善意を集めて食い物にするNGOと、そのトップを務める権力欲の塊のような青年。
と、同時に前半では、「絵画を描くということが、人間にとってどういう意味を持つのか」が執拗に描写される。真理亜は言葉を持たない。その感情は彼女の絵筆からあふれ出る絵画で判断するしかない。作者は、文字メディアである小説で、言葉を持たない者の思考を絵画経由で描き出すというアクロバティックな業に挑戦し、しかも成功している。
それを補足するのが、敦史と彼の師匠との間で交わされる芸術談義だ。彼らが交わす会話の中に現れる「ゴヤの“黒の絵画”のような、それを描いてしまったら画家は終わる、というモチーフ」は、ラストへの重要な伏線となる。
物語前半は、真理亜が巨大なフレスコ画を描くシーンでクライマックスとなる。フレスコ画は一人では描けない。多くの画工が協力して下地を作ることで、初めて絵師が筆を振るうことが可能になる。真理亜と共に敦史に絵を習ったユーカリ園の入園者達が、画工を務める。このシーンは感動的だ。
後半1/3は、一気のジェットコースター的展開となる。前半でじわじわと真理亜の身辺に迫っていた巨悪は、一気に真理亜を取り込み、利用しようとする。激しいアクションを含むいくつものストーリーが同時に進行し、やがてただ一つの焦点「真理亜の手元に、彼女自身が描いた一枚のスケッチを届けることができるか」に収斂していく。
驚いたことに、すべてが終わった後のエピローグで、ストーリーはさらに展開する。それはSF的といえるかもしれない。最後の一ページを読み終えると、本書がハードボイルド小説というのみならず、絵画と言語を巡る論考でもあったことがわかる仕組みになっているのだ。
多分本書で一番意見が分かれるのは、「敵」の設定だと思う。まあなんというか、現代日本に巣くうありとあらゆるうさんくさいものが一体になった設定を、「いくらなんでもやりすぎだ」と感じるか「よくやった!」と思うかで、本書の受け止め方が変わるだろう。その実行部隊のヘッドである「一矢」を、ねちねちと気色悪く描くその筆致といったら、なかなかたまらないものがある。
映画化するとしたらキムタクだな。演技開眼とかなんとかいって、この怪物的な悪役をやらせたらぴったりはまりそうだ。沢田研二が「魔界転生」で演じた天草四郎以上のショックかも。
ともあれ、作者と個人的付き合いのある私としては、やはり一言いわねばならないだろう。
三上センセー、いやさK君、よく書いたね。確かに本気の文章を読ませてもらったよ。