ジャミロクワイと半導体娘
この10日ほどで対照的な動画が2つ、ニコニコ動画に投稿された。
MikuMikuDanceで、ジャミロクワイの世界的なヒット曲「Virtual Insanity」(1996)のミュージックビデオを再現したもの。「ジャミロクワイって誰?、Virtual Insanityって何?」という人も、見ればシルクハットをかぶったあんちゃんが廊下をうろちょろする映像を思い出すだろう。
こちらは、なんと電子楽器を自分で設計し、自分で作り上げ、それでもって自分が作曲したオリジナル曲を演奏し、初音ミクに歌わせるというもの。最初から最後まで自作の精神を貫いており、自作でないのは個々の電子部品とソフトウエアとしての初音ミクだけと言っていいだろう。
これら2つの投稿の対照性を解く鍵は、再生数にある。「MikuMikuDanceでVirtual Insanity」はどんどん再生数が伸びて、そろそろ20万再生に届くところにまで来ているが、「自作音源で自作曲を演奏してみた/半導体娘計画【新番組】」は今のところ2万半ばのあたりだ。
この差は、ニコニコ動画ユーザーが、あらかじめ内容についての情報を与えられているか否かによるものである。
「Virtual Insanity」は音楽産業の周到なプロモーションによって作り上げられたヒット曲だった。質の高い楽曲と歌い手、さらには贅を尽くして作り上げたミュージックビデオを用意し、それらを様々なメディアで繰り返し一般聴衆に刷り込むことで世界的なヒットを作り上げた。
だから、ニコニコ動画のユーザーは「MikuMikuDanceでVirtual Insanity」というタイトルを見ただけで、ある程度その内容を推測することができる。ミュージックビデオの内容を覚えている人は「ああ、あれをミクが演じるわけだな」と思い、その再現度や、忠実な再現からのちょっとしたはずし方や、場合によってや似てなさ加減などを楽しむことができるなと考え、視聴し、今回の場合はその出来のすばらしさにびっくりしてマイリストに加えたり、他人に教えたりで、ますます再生数が増えていくわけだ。
一方「自作音源で自作曲を演奏してみた/半導体娘計画【新番組】」は、ほとんどの人にとって事前にどんな内容かが分からない。「ひょっとしたらつまらないかもよ」と思った人は見ない。見た人はその内容の高度さに驚いて、「Virtual Insanity」と同様にマイリストに加えたり、他人に教えたりで再生数は伸びていくものの、その数は「Virtual Insanity」ほどではない。
これまで、当blogで何度も書いてきたが、人間には知っていることしか知りたがらないという性質がある。知らないものは基本的に危険物であると仮定して扱ったほうが安全だからだ。その一方で、未知のものに触れたいという欲求も存在するが、それは「人間には知っていることしか知りたがらない」という性向からすれば基本的に従属物である。
だから、知っている安全な情報を基本にして、ちょっとだけ新規要素を付け加えたものが多くの人々の耳目を集めることになる。「MikuMikuDanceでVirtual Insanity」ならば、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」というすでに音楽産業によって人々に刷り込まれた情報を基本に、「初音ミクがミュージックビデオを再現する」という新規要素を組み込むことで再生数を伸ばしたわけだ。
確かオペラの作曲家プッチーニが成功するオペラの作り方を問われて「大衆の半歩先を行くこと」と答えているが、構図は同じである。みんなが知っていることを基本にちょっとした新規要素を組み込むこと――大衆の一歩先に出て、新規要素ばかりですべてを構成すると、それ自身が「みんなが知っていること」となるまでの長い時間、無視や無理解と戦わねばならないことになる。
ところで「自作音源で自作曲を演奏してみた/半導体娘計画【新番組】」もまた、「みんなが知っていること」の恩恵を受けている。
キーワードは「初音ミク」だ。ニコニコ動画には初音ミクが一枚かんでいるというだけで、どんな投稿でも一応は視聴してみるという傾向が存在している。そして大変重要なことだが、一度視聴した情報は「知らないこと」から「知っていること」になる。何らかのおもしろさを感じて二度三度視聴すれば、それだけ投稿に込められた新規要素に馴染む機会が増え、それが素晴らしい新規要素であるならば「おお、なんと斬新で素晴らしい」と感じる人の数が増えていく。
ニコニコ動画では「ミクだっ、初音ミクだ」というだけで、どんなに新規な情報でも人々の間で一般化する可能性がある。ミクが歌ったというだけで、ジョン・ケージの「4分33秒」が4万再生を超え、松浦某とかいう食わせ者の自作が何千再生かを記録してしまう。
私は、ここに文化的装置としてのニコニコ動画と初音ミクの可能性を見る。
ニコニコ動画では「神曲」という言葉が単なる「ちょっと良い曲」という意味で、割と安易に使われているが、真の意味での「神曲」、それこそ人類が滅亡に当たって宇宙に人類が存在した証としてこの宇宙に残すべきほどの情報は、いつも長い無理解の果てにやっと人々に受け入れられてきた。なぜならそれらの情報がいつも人々にとって新規な要素を十分に含んだものであったからだ。
バッハのマタイ受難曲は、メンデルスゾーンが蘇演するまで100年以上歴史の隙間に埋もれていたし、ベートーベンの第9交響曲も初演当時は「合唱まで入ったトルコ風味の風変わりな曲」としか認識されなかった。マーラーの交響曲はワルターやスプリングハイムのような弟子達が世界各地で必死になって演奏し続けなければ一般化しなかったろうし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が初舞台で浴びたのは賞賛の拍手ではなく、賛否入り交じった怒号だった。
クラシック音楽以外でもこのような例は多いのではないだろうか。絵画ならば、ゴッホやゴーギャン、ユトリロなどの例がすぐに思い出せる。
プッチーニの言い方を借りるなら「神曲とは、いつも一歩以上先の立ち位置に現れ出るもの」なのである(もちろん「一歩先に踏み外したヤツ」も存在しうるわけなのだけれども)。
ニコニコ動画プラス初音ミクならば、そのような新しい情報を一般が受け入れるプロセスを加速できるのではないだろうか?
ジャミロクワイをミクでなぞるのも、自分で電子楽器を作って自作を演奏するのも、共にニコニコ動画の楽しみだ。そのことを理解して上でなおかつ、私としては「自作音源で自作曲を演奏してみた/半導体娘計画【新番組】」の行き方を応援したいな、と感じているのであった。
もちろんこれは仮説であり、ニコニコ動画や初音ミクに対する過大評価かも知れない。それでも、ある日、バッハのマタイ級の傑作がニコニコ動画に投下され、やがて「神曲!」というコメントで画面が埋め尽くされるってのは、ちょっと見てみたくありませんか?
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» [test][video][music]むしろ「初音ミクだ」というだけで“埋もれてしまう”というのが新しい事態なんだと思う [つちのこ、のこのこ。(はてな番外地)]
キーワードは「初音ミク」だ。ニコニコ動画には初音ミクが一枚かんでいるというだけで、どんな投稿でも一応は視聴してみるという傾向が存在している。 (中略) ニコニコ動画では「ミクだっ、初音ミクだ」というだけで、どんなに新規な情報でも人々の間で一般化する可能性... [Read More]
半導体娘計画はトリミングしてNHKの「みんなのうた」で流すべき。いや、ピタゴラスイッチもいいんですけどね。個人的には「泣ける歌」でしたけど。
Posted by: 須田浩之 | 2008.10.28 01:29 AM