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2008.11.21

我、如何にして占いより脱せしか

 少し占いについて書こう。それは、自分が過去、いかにトンデモや疑似科学に惹かれてきたかの告白でもある。

 姓名判断に興味を持ったのは確か小学生五年の時、母方の祖母が持っていた野末陳平の姓名判断本を読んだからだった。

 それは明快で、素晴らしいものに思えた。漢字の画数を数える。それらを足し合わせて、出てきた数が吉数か凶数かを調べ、それぞれの数字の象徴するものと考え合わせれば、人の運命が分かる。身も蓋もない「数字だけ」というところがずいぶんと気に入った。

 その後、父方の祖母が持っていた別の本も読んだ。少々やり方が違い、もう少し複雑な計算をしていたが、基本は足し算だった。私は自分の名前を判定して喜んだりおたついたり、様々な人の名前を判定してはそれらの人々の人生を思った。

 究極の名前を作ろうとしたのは確か中学の2年の時だったか。名前が良いとか悪いとかいうが、その実態はたかだか2ケタの足し算だ。それならばいくつかの条件を課して総当たりで調べていけば、「もっとも良い名前」を見つけることができるに違いない——そこまで組織的に考えたわけではないが、すべてが吉数で構成され、その他偶数奇数で判断する陰陽やら名字と名前の接続やら、とにかくすべてが最高の名前を作ってやろうとしたのだった。
 確かに大した手間ではなかった。10日ほど熱中したら、すべてのパターンを尽くしてしまったと記憶している。が、「究極の良い名前」は存在しなかった。あちら立てればこちらが立たず。いくら除去しようとしても欠点は必ず入り込んできた。

 姓名判断に対して、最初の疑念を抱いたのはその時だったかも知れない。が、そう考えるのは後から振り返ってのことであり、その時は単に「なんだ、最高の名前なんてないじゃん」で、飽きて放り出したのだった。
 父方の祖母は、いわゆる気学が好きで、いつも手元に長く連なった易断用の暦を置き、会話には「あの人は三碧木星だから」というような言葉が出てくる人だった。その関連からちょっと四柱推命に興味を持ったこともある。が、その興味は続かず、次にのめり込んだのは占星術だった。高校を卒業して浪人生活を送っていたころのことである。

 当時、割とマスコミに露出している科学者が占星術に根拠ありという内容の本を出していたと記憶している。確か糸川英夫の名前を冠した占星術の本もあったはずだ。
 星の動きなら、二ケタの足し算よりは性格に人の運命を見通せるのかも——という期待もあったが、それよりも、当時のちょっと科学っぽい装いを被った占星術に惹かれたといったほうがいいだろう。色々な本を読んだ。

 占星術の夢が破れたのは、多分大学に入った最初の年の学祭だったろう。電算機研究会がやっていたコンピューター星占いで、自分のホロスコープを出して貰った。
 占星術では星と星の角度で吉凶を占う。角度が60度、120度なら吉、90度、180度なら凶。ところが自分のホロスコープにはそんな明快な角度などなかった。各惑星はてんでばらばらに散らばっているように見えた。ところが、コンピューターは、半角カタカナ(当時のパソコンはそれしか扱えなかったのである)でなにやら私の運命について、どこそこが良くて別のところが悪くて、と宣言していた。

 具体的に星の位置を見せられた時、それまでさんざん読んでいた占星術の本へ期待が消えた。どこが60度やねん!どこが90度やねん!!角度のずれを許すっていったって、例えば70度は吉で80度は凶だというのか??

 正確に書くならば、回心は突然訪れたのではなかった。占いに期待し、なおかつ生じる不審な事実が徐々に蓄積していき、気が付くと私は一切の占いを信じなくなっていたのだった。

 はっきり言い切ろう。占いの類はキリスト教の奇跡から姓名判断、気学、占星術、手相に顔相に易に四柱推命にノストラダムス、果てはトルココーヒーのコーヒー占いから深夜テレビのエレクトーン占いに至るまで、一切当たらない。

 正確には確率論的にしか的中しない。私たちが当たったケースを記憶し、外れたケースを忘れているだけだ。

 この世はでたらめを言っても的中する確率が常に存在する。「明日飛行機が大事故を起こすぞ!」、そうかもしれない。そうでないかもしれない。言い続ければいつか当たる確率は上昇していく。全部確率論だ。

 もちろん職業的な占い師は、はっきり白黒が付くような結果は出さない。常に解釈の余地があるようにして、収入の道を保護する。例え外れたことで追いつめられたとしても、過去何千年にも渡る占いの歴史は、外れた場合の言い逃れの論理を洗練させてきた。先人に習えば、いくらでも言い逃れることはできる。

 例えば、易で言う「より深い易断」を知った時には、涙が出るほど笑ったものだ。易は陰陽四象八卦と2進法で運命を分類する。それぞれの二進数に意味が付与されるわけだが、時として「この場合はより深い読みをする」として、意味を全く逆に解釈することがあるのだ。つまり筮竹から引き出された二進数に意味はない。意味は占い師が与えるのである。なんというハンプティ・ダンプティ。

 今も占い師という職業は成立しているから、占いに頼っている人は多いのだろう。民放テレビ局は朝の放送では大抵「今日の運勢」を放送している。あんなものは私が子供の頃はなかったのだが。

 それを「バカが多いな」と切って捨てることはできない。そして未来への不安をまぎらす文化的な装置として占いをとらえると、それは決して悪いものではない。

 だが、自分の人生行路を占いに依存するぐらいなら、数学の教科書を開いて確率論の勉強をしたほうが、よほど実用的だということは、頭に置いておくべきだと思う(特に賭け事において。期待値を理解すると馬券や宝くじを買うのがバカらしくなる)。


 自分の恥ずかしい記憶を掘り起こしていくと、私が占いから脱するにあたっては堀晃さんのハードSF2編が道しるべとなってくれたことに思い至る。

 一つは「アンドロメダ占星術」。占星術に実は重力が運命に与える影響という理論的基盤があったという話だ。人類は運命から逃れるべく、地球を脱出する。するとそこは太陽の重力が支配する空間だった。人類は太陽の重力を逃れ、恒星間空間に進出する。するとそこは銀河系の重力が運命を支配する空間だった。すると人類は——という規模がインフレーションを起こす壮大な短編である。
 これを読んだ時、はっきり書くなら既存の占星術よりよほど信頼できるのじゃないかと思った。少なくともこの小説程度に論理の筋道が通っていなければ、それは占いとは言えないのではないか、と。

 もう一つが「地球環」。異星人からの謎のメッセージを解読するには、というところから始めて、エネルギーのエントロピーと情報理論におけるエントロピーを巧みに混合して、「記号が存在するとして、その記号に意味を与えるのは誰か」というテーマを扱ったものだ。

 だから、今、占いに頼らなければならないほど自分の未来に不安を感じている、特に若い人へのアドバイスがあるとすれば「ハードSFを読めばいいと思うよ」だ。自分の狭い経験に基づく我田引水の忠告だが、私の実感である。

 石原藤夫、堀晃、谷甲州、山本弘、野尻抱介、林譲治、小林泰三、A・C・クラーク、ハル・クレメント、ラリイ・ニーブン、ロバート・フォワード、テッド・チャンなどなど。

 実は「ハードSFを読もう」、というオチなのでした。


 「アンドロメダ占星術」は、今やSFファンの間で幻の本と化している(結果、古本はすさまじい高値となっている)ハヤカワ文庫「梅田地下オデッセイ」(1981年)にしか収録されていない。「地球環」は2000年刊のハルキ文庫で読むことが出来る。新刊は売り切ったようだが、まだ古本も安い。傑作がぎっしりと詰まった一冊だ。読むべし。


 堀晃の最高傑作というと、この「バビロニア・ウェーブ」になるのだろう。太陽系を離れた遙かな辺境宙域で、巨大なレーザービームの光束が発見される。人工物か自然のものかすら分からない光束から、やがて人類はエネルギーを取り出すことを覚え、未曾有の繁栄を謳歌することになるが、しかし…という壮大なストーリーだ。

 こちらは昨年文庫で復刊した。これも今すぐ買って読むべき本だ。

追記:
 なぜ、こんな話を書いたかというと、某科学者のblogのコメント欄に、占星術の擁護者が現れて物の見事にやっつけられているのを見て、過去を思い出したのであった。

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Comments

私もご多分に漏れず、はまりましたなぁ。トンデモ。
五島勉に中岡俊哉などなど。
ノストラダムスは言うに及ばず、「世界の怪獣」(秋田書店から出ていたと記憶)とか二見書房から出ていた「心霊写真」とか。。。
バイオリズムの本は、ブルーバックスから出ていましたね。これはマジに信じてバイオリズムの表を計算して作って、自分の勉強スケジュールとか考えましたもん。

堀晃さんの「梅田地下オデッセイ」、2冊持っていたので、堀さんのご自宅に遊びに伺ったとき、その2冊にサインをもらおうとしたら「ボクは1冊しか持ってないからもろうてええか」と、有無を言わさず1冊取り上げられてしまいました。゜゜(´□`。)°゜。
著者が自分の本をファンから取り上げるってアリ?┐(´д`)┌

 あー、ありましたねえ。私は五島勉はそんなにはまりませんでしたが、中岡俊哉は随分読みました。

 読んでドキドキ、成長して知識が増えるに連れて実態が分かって大笑い、という一粒で二度おいしい、とてもためになる本だったと思います…などとまとめちゃっていいのかな。

 ああいう、うさんくさい本がなくなってしまうのもつまらないのですが、その一方で信じ込んじゃって抜けられない人も出てくるというのは、まあどうしたもんかと思います。

 堀さん、なんと無体なことを。ともあれ、大澤さんは「堀晃にウメチカを贈呈したファン」という称号を得たわけですね。

 何年か前に「究極の姓名判断」というのが周りで流行りました。簡単な話で、GoogleかYahooで自分の名前で検索するだけ。すると同姓同名のみんながどうしているかわかるので、そこから判断しようというものです。つまり、姓名判断の結果は既に実在しているわけだから、それを利用しない手はない、という発想の転換。
 欠点は、珍しい名前の人だと他に誰も引っ掛かってこなくて情報が少なすぎる&ネットでの活動が活発な人だと自分の情報ばかりひっかかるので使い物にならない、という点です(笑)。

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