さようなら、KIMさん
木村雅文さんが8月11日、この世を去った。享年50歳。22日に葬儀があり、私も参列してきた。
日本の宇宙開発は貴重な人材を、私はかけがえのない友人を失った。
木村さんは、日本電気航空宇宙システム(NAS)の技術者で、軌道設計の専門家だった。1985年のハレー彗星探査機「さきがけ」「すいせい」に始まり、スイングバイ技術試験衛星「ひてん」(1990)、日米共同の磁気圏観測衛星Geotail(1992)、火星探査機「のぞみ」(1998)、小惑星探査機「はやぶさ」(2003)などなど、宇宙科学研究所(現宇宙科学研究本部)が実施した、ほぼすべての衛星・探査機の軌道計画立案に参加してきた。
もっとも分かりやすい部分で代表させるならば、「軌道の魔術師」川口淳一郎教授が立案する軌道計画に対して、数値計算による裏付けを与えてきたのが木村さんであり、木村さんが育てたNASの技術者達だった。宇宙の彼方で緊急の事態が起きたとき、川口教授の指揮下、昼夜を分かたぬ突貫作業で救出のための新たな軌道を計算し、妥当性を検証し、最終的にまとめ上げたのが木村さん達だった。
彼らは、川口教授が描いたデッサンを、物理法則にかなう一本の優雅な線に仕上げたのだった。
「ひてん」の華麗なスイングバイ軌道も、地球脱出時にトラブルを起こした「のぞみ」を救うためのアクロバティックな軌道も、イオンエンジンを噴射し続け、刻一刻と軌道要素が変化し続ける「はやぶさ」の軌道も――すべて木村さんとその仲間達の緻密な計算によって現実のものとなったのである。
私にとって、木村さんはパソコン通信のハンドルネームKIMさんだった。インターネット以前の1990年頃、パソコン通信Nifty-SERVEのスペースフォーラム(FSPACE)で、私は「宇宙開発の部屋」の管理人をしていた。KIMさんは常連の一人だった。あの頃、「宇宙開発の部屋」は、素人、マニア、本職が入り乱れる一種独特の言語空間だったが、彼はそこに常に的確な内容の文章を書き込んでいた。オフ会で本人と会い、本職であると知った。
うまが合った我々は、時折連絡を取っては町田の街を飲み歩くようになった。お互いの仕事の内容について差し支えない範囲内で話し合い、現在を憂い未来を語る。そんなつき合いだった。町田の飲み屋での交遊はインターネットの時代になり、FSPACEに集った者らが四散した後も続いた。
彼は常に節度を持って酒を飲んだ。飲み過ぎで終電を逃した私が彼の家に泊まったこともあった。気が付くとなぜか自宅にいることもあった、前後不覚になった私を、彼が送ったらしかった。
全く持って私はKIMさんの世話になりっぱなしで、ダメな飲み友達だった。
しかもこのダメ友は、しっかりと交友から元を取った。2002年の半ば頃だったか、「もう話してもいいだろうけれど、1998年ののぞみの地球脱出の時は本当に大変で大変で」と話してくれた。「これは書ける!」と私は直感し、その直感は後に「恐るべき旅路」となった。執筆時も彼は節度を保ちつつ、様々な資料を提供してくれた。「私はメーカーの人間でチームで動いています。宇宙研の先生達と違って、私一人でなにかができたわけじゃない。だから私のことは書いちゃダメですよ」という言葉と共に。
しかし、私はすでに彼の果たした役割を知っていた。あくまで事実に即しつつ、彼の仕事の邪魔にならず、なおかつ彼の立ち位置と役割が分かる書き方を色々と考え、私は「恐るべき旅路」の掉尾を飾る「最後の勇者達」の部分に、一度だけ、彼の名前を書き込んだ。
KIMさんは「恐るべき旅路」の出版を喜んでくれた…と思う。内心「コノヤロー余計なこと書きやがって」と思っていたのだとしても、少なくとも顔色には出さなかった。
2005年初夏、私たちは町田で出版記念の祝杯を挙げ、間近となった「はやぶさ」のイトカワ探査に思いを馳せた。
月探査機「かぐや」で、彼は軌道ではなくハイゲインアンテナによる高速データ通信システムを担当した。「おかしいでしょう。みんな『木村さんは軌道担当じゃないの』って聞くんですよ。人の使い方、間違ってるよね」といいつつも、彼は熱意を持って仕事にあたった。通信システムは開発時に色々なトラブルを出したが、打ち上げ後はノートラブルで順調にデータを送信してきた。
KIMさんは、すべての任務を達成して月面に落下するかぐやから、最後の瞬間までデータが途切れることなく送信されてくるかということを懸念していた。かぐやの月面落下は6月11日早朝と決まった。それなのに。
彼はは6月4日に病に倒れた。すぐに集中治療室入りとなり、治療のため意識レベルを下げる処置が続いた。そのまま闘病2ヶ月。
かぐやが最後の最後までデータを送ってきたことをついぞ知ることなく、忽然と君は旅立ってしまった。
ああ、KIMさん、俺は本当に悲しいよ。かぐやのミッションが終わったら乾杯するはずだったろ。「はやぶさ」の帰還だって見るはずだったよな。自分が結婚し、家庭を持った後は口癖のように「松浦さんも結婚しないと長生きできないよ」と言っていたじゃないか。長生きして、もっともっとたくさんの華麗な軌道を太陽系空間に描くんじゃなかったのかよ。
今は宇宙へと飛翔した君の魂の旅路が安からんことを祈る。そして今後とも、様々な探査機が、君の後を追って宇宙に様々な軌道を描いていくのであろう。
さようなら、KIMさん。
この本を、著者の私がこのようなエントリにおいて「読んでくれ」と書くのは、ひどく恥知らずな事なのかも知れない。それでも私は、「この本を読んでください」と言いたい。すでに読んだ人には「読み返してください」とお願いしたい。そして、私が書かなかった部分に木村雅文さんという有能で謙虚な技術者がいたことに、ほんの少しだけ思いを馳せてもらえれば、と強く願う。
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» 知人告別式を終えて [Hira's Blog]
告別式後の飲みで深酒、今日はへろへろでした。
いろいろとあり、きのうは生涯忘れない日になったと思います。
[Read More]
なぜあの本があんなにも面白く、またなぜ軌道計算のくだりにあんなに胸を熱くさせられたか良く判りました。
こんな素敵な交流があったのですね、再度読み直して見ます。
Posted by: 樋口 | 2009.08.25 09:47 AM
私も葬儀に参列させていただいた一人です。
故人とは30年余のお付き合いになりましたが、大変残念なことです。故人の仕事の詳細についてはいままで知りませんでしたが、すばらしい弔辞を読ませていただいて改めてその偉大さに敬服しました。
こんど「恐るべき旅路」は読ませていただきます。
今後の続編についても期待いたしております。
Posted by: 保科顕一 | 2009.08.27 11:01 PM
KIMさんと同じグループ会社に入社したご縁で、4月に、軌道設計に関する社内講演を聴講する機会がありました。
その時に、同じグループに、こんな技術力の高い方がいらっしゃる事を知り、心強く思っておりましたのに・・・
残念ながら、直接にお仕事する機会は有りませんでしたが、微力ながら、KIMさんが築いたものを、しっかり引継ぎ、育てていこうと思います。
松浦さんも、的確なコメントで、暖かく見守って下さいね。
Posted by: kuma | 2009.08.28 09:18 AM
私も葬儀に参列しました。みな喪服の中、一人KIMさんがポロシャツで微笑んでいました。涙が出て来ました。
私は彼が入社した時以来の付き合いで、入社直ぐだったMS-T5/PLANET-Aの時に一番深い付き合いをさせて頂きました。弔辞で川口先生がおっしゃっていたように、彼は当時の大型計算機を使って衛星の姿勢をグラフィック画像にリアルタイムに出力すると言う当時では斬新なことを行っていました。T5の打ち上げが1985年の正月で彼は1983年入社ですので、入社後1年半ほどで作り上げたことになります。
その後、彼とは深い仕事での付き合いはありませんでしたが、衛星の打ち上げ等のイベントで顔を合せたり、宇宙研に休みの日に仕事で行っていると、ふらっと現れたりして、何にでも興味を持って話す彼とお付き合いさせて頂きました。
FSPACEでは私はROM専門だったのですが、KIMさんが彼の事だと知っていたので、面白く読ませて頂きました。
未だに信じられませんが、会葬礼状に来年打ち上げの金星探査衛星PLANET-Cより早く旅立ったと書かれていましたが、きっと物理の方程式なんか関係なく、いろいろなところを飛び回っていると思います。
松浦さん、KIMさんのことを書いて頂き、ありがとうございます。
Posted by: JOK | 2009.08.28 07:12 PM
木村にかかわる者です。
本ページは、私的な連絡で知ることとなりました。
会社も、実名も世の中に発信されてしまいました。
内容の良し悪しは別として、どのような内容であれ、ジャーナリストに、お客様の情報を、木村が流してしまったという疑義です。
私たちの世界において、技術者は、設計は行っていても、それは自分の物ではなく、所有権は、あくまでもお客様のものであり、仕事が終わったら、設計に使用した情報はすべて返却し、かかわった内容は他人に知られないようにしなくてはならない保全義務があります。
コンプライアンスの遵守が叫ばれている世の中において、企業にとっても木村にとっても致命的となりかねないことです。
木村の名誉のためにも、もう私たちにかかわらないでください、お願いします。
Posted by: Protest | 2009.08.28 11:04 PM
Protest 氏の発言をみて。
ネタである事を強く願いつつ。
もし、かりに、本当にネタでないのなら。
結局我々日本人は、
宇宙開発をする資格を持っていないのではないか、
などと、フォン・ブラウンの写真を見つつ思う次第。
Posted by: MUTI | 2009.08.29 12:42 AM
木村さんにかかわる者です。
我々宇宙開発に携わる技術者は、お客様から要求されたミッションを達成することが仕事です。
しかし、国費で行われるプロジェクトに関しては特別な例を除き、納税者、とりわけ若い人たちの知的好奇心を喚起することも重要な目的と考えています。
その意味では、宇宙開発の現場を一般に示されている松浦さんの著作は非常に貴重なものです。
木村さんも、その意義を理解されて「節度ある」情報提供を行ったと信じています。
どうか、われわれエンジニアが「あれがお父さんの作った衛星だよ」と子供に自慢する自由を奪わないでください。
われわれの存在を消さないでください。
Posted by: Thor | 2009.08.29 01:23 AM
>ジャーナリストに、お客様の情報を、木村が流してしまったという疑義です。
これはKIMさんの名誉に誓って言えますが、私が彼から受け取ったのは、宇宙研などの公開シンポジウムでの発表資料でした。
宇宙研では常に各種シンポジウムが開催されており、その内容はオープンにされていますが、開催が広く通知されているわけではなく、また当日の発表に使われた資料もきちんと後日閲覧可能な形で整備されているというわけでもありません。
なるべくその手のシンポジウムには出席したいところですが、そうもいかず、また後から興味を持って調べようとしてもなかなか調べが付かないことがあります。
宇宙研の資料室にこもって調べ物をして、見つけた資料に注記されている参考文献を探しても見つからないということが多々ありましたが、主にそういう文献です。
「これは、公開されてますから松浦さんに渡してもOKですね」というのが、いつものKIMさんの口癖でした。その意味では彼はとても慎重で、常に節度を保っていました。
結局のところ、ジャーナリストの仕事のかなりの部分は、個人的な信義で成立しています。私は——あるいは完全ではなかったにせよ——KIMさんとの信義を守った、と思っています。でなければ20年もの付き合いは続かなかったでしょう。
そしてそもそもそういうコントロールのできない人だったらば、ジャーナリストの側からしても、そういう人との付き合いはどうしても“その場限り”になります。なぜなら、そういう人との付き合いは、当方にとっても危険であるからです。
メーカーの技術者の方には、自分が情報漏洩をすることを恐れ、極端にメディア関係者を忌避する方もおられます。
が、一方で、悠々と公私を切り分けて、「それはそれ、これはこれ」と友誼を結ぶことが出来る方もいます。KIMさんはこのタイプでした。
「木村の名誉のためにも、もう私たちにかかわらないでください、お願いします。」という言い方は、大変に悲しいです。
メーカーの皆さんの仕事としては、それで遺漏は起こりえなくなります。しかし、宇宙開発全体としてそれでいいのか、ということです。
KIMさんの事は、ここに書かなければ、それで済むことでした。
それでも私が彼のことを書いたのは、彼のような人がいたということ、何をし、何を語り、どのように生きたかを、私なりに記録し、追悼しておきたかった、また可能ならば色々な人に知って欲しかったからです。
私にとっては、書かずにはおれなかったことなのです。
はっきり書けば、彼が私に仕事上の秘密を渡したと疑う人が出ていることが、私には意外であり悲しむべき事実です。少しでも彼の人間性を知っていれば、そういうことをする人間ではないことは分かるでしょうに。
Posted by: 松浦晋也 | 2009.08.29 10:13 AM
Protestさま
>コンプライアンスの遵守が叫ばれている世の中において、企業にとっても木村にとっても致命的となりかねないことです。
秘密保持契約がどの様になされているかわかりませんが秘密保持の範囲、期間は明確に記載され、契約書の中に含まれておりますか?
ハヤブサを除き、探査計画は終了し探査機の運用も終わっている状況で、今回のブログ上での公表は計画遂行上の障害たりえないと思いますが。
プロジェクトに参加した経歴など、米国のエンジニアは自分の自己紹介のために公表しています。(これだけの経歴と能力があるという証明として)
米国のDARPAクラスの秘密防衛プロジェクトならともかく、惑星探査の軌道計算に関わった事を公表するのに、なぜそこまで神経質になるのでしょうか?
貴兄やお知り合いの方へ文部科学省、J***やM++の法務部あたりからクレームが来たのでしょうか?
「強いクレームが来るのでは?」と憶測で心配するのはやめましょう。
ジャーナリストに業務上知りえた情報をリークしていたと現在宇宙計画に関わっているものが疑われるというのなら、
「わたしは違います!この件でクレームがあるのなら松浦氏へ直接コンタクトしてください。」
と明確に意思表明することで終わると思いますが。
Protestさん、「俺はこんなことやってがんばってるぞ!」と胸を張って家族や知人に自慢できる方がいいでしょう?
Posted by: DVDを見せたがる男 | 2009.08.29 10:33 AM
Protestさん、本当にその様な問題があるのなら、ちゃんとメールで、自分の身分を明かした上で、松浦さんに知らせるべきです。
松浦さんも、ちゃんと物書きのプロである以上、NECの広報と連絡をとって下さるでしょう。
私も企業内のエンジニアですが、今回の松浦さんのブログの内容に特に機密漏洩等の問題があるとは思えません。内容自体はJAXAのホームページや、NECのホームページで公開されている公知の情報以上のものは特にないと思いますが。
また、著作も基本的に取材先の協力を元に作成され、問題があるなら既になんらかのクレームが出て改版されてると思いますけどね。
故人の名誉や業績に関わることです。企業人なら逆に迂闊にここで企業イメージを損なうことを書く方がおかしいと思いますが。
本当に問題なら、捨てアドでも取得して、直接連絡のチャンネルを確保して、まず松浦さんに状況を知らせるべきだと思いますが。
Posted by: Aki | 2009.08.30 05:20 PM
コメント欄ではProtestさんがKY扱いされていますが
この件は松浦さんの文章が説明不足だったと思いますよ
企業でコンプライアンスを管理監督する立場の
人間があの本文を読めば
それはちょっと物申したくなりますよ。
情報漏洩は犯罪ですからね
それこそ故人の名誉のためにも
同僚としては疑義のある文章が許せなかったんだと…
松浦さんが上記で返信されているような内容を
本文で述べるべきだったと思います。
私自身はファンとして松浦さんの仕事を信じておりますし
今後のご活躍を期待しております。
Posted by: MoriZo | 2009.09.05 01:49 AM
木村さんの元部下であり、共にのぞみを支えた一人として、一言言わせて頂きたいと思います。
Protestさんがどこのどなたか知りませんが、少なくともこの件に関しては木村さんがどのようなスタンスで取材を受けていたか御存じないことから、私より関わりの薄い方だと思います。
そのような方に“私たち”と十派一からげに気持ちを代弁するような書き込みをされたり、あのような疑義を表明して故人を貶めるような事をされるのは非常に不愉快です。
この書き込みが単なるネタではないことの証拠として、松浦さんには直接メールを送らせていただきました。
Posted by: 日高智成 | 2009.09.08 11:22 PM