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2010.03.03

船長の船出

Kosuge1

 2月28日、小菅文雄さんが亡くなられた。享年73歳。物書く漁師。江ノ島は片瀬で、60年近くも相模湾の沿岸漁業に携わってきた生粋の海の人。

 チリの地震による津波を心配し、船を見に港に出たところで心筋梗塞を起こしたという。こんな形で津波の影響が身辺に及ぶとは言葉もない。つい一週間前に、釣りの新年の宴席でお会いしてきたばかりだった。ほろ酔い機嫌で「最近どうしてんの、仕事してる? 北朝鮮のロケットってどうよ」と話しかけてきた。その時は、まだまだお元気だろうなと思ったのだけれども。


 自分のブログを検索したら、小菅さんについて触れている記事が2本あった。

 それぞれの記事に登場するKさんとは、小菅さんのことである。

 以前、小川一水さんが「漁を取材したい」と言った時に、小菅さんを紹介したことがあった。小川さんが小菅さんの漁船に同乗した時の記録。取材成果は「群青神殿」に反映された。


 3月3日の葬儀では、小川さんの弔電も読み上げられた。

 小菅さんは、片瀬の漁師の家に生まれ、中学を卒業してすぐに漁師となった。石原裕次郎や加山雄三が青春を謳歌していた同じ湘南の海で、同年配の小菅さんは毎日漁に出て、働いていたのである。
 小菅さんがただの漁師でなかったのは、文章が書くのが好きだったことだ。漁師という職業は、過酷な自然を相手とするせいか刹那的なところがあって。文章を書いたり記録を取る気風に乏しい。
 しかし、小菅さんはせっせと文章を書き続け、世間で認められるようになった。おそらく、まとまった文章を発表する唯一の漁師ではなかったろうか。

1936年、神奈川県藤沢市の代々続く漁師の家に生まれる。若い頃より家業の漁業に専念していたが、40歳代で初めての小説「海鳴」を執筆、1981年の「第8回野性時代新人文学賞」(角川書店)の最終候補作品に選ばれる。以後、漁師のかたわら創作活動を続け、1988 年、小説「五郎の海」が「KAZI海洋文学賞」(舵社)を受賞。幼い頃より親しんできた湘南片瀬の海と町をこよなく愛し、現在は伊勢エビ漁を中心にした漁師稼業と文筆業にいそしむ日々。持ち船は文成丸といい、藤沢・鎌倉に暮らす文学仲間たちと、釣りと酒を楽しみ文学を語る会「文成丸釣飲会」を主宰。著書に『五郎の海』(ペンネーム:小菅太雄、舵社刊、1996年)。 http://www.minatonohito.jp/books/b065.html より
 長年書きためていたエッセイ集を出版し、NHKラジオの「ラジオ深夜便」にも出演し、まだまだ海も文章もやる気十分だった。

 湘南藤沢あたりの文士らの釣り好きと小菅さんが語らって、釣飲会という釣りの会を結成したのは1970年代後半だったか。父が参加して私も釣飲会にしばしば連れて行かれるようになり、船を出す小菅さんとの面識ができた。

 笑顔が素晴らしい、素朴と素直と稚気を凝縮したような方だった。一方で船の上では、けっこう厳しかった。釣れないでいると「怠けてちゃだめだよー。魚は絶対いる場所に連れて来ているからね。松浦の兄ちゃん、あんたの腕が悪いんだからね」と拡声器で怒鳴られた。
 自動車マニアでもあった。外車に乗るというのがポリシーでいつもボロボロの外車に乗っていた。一度だけ、ポルシェ924に乗せてもらったことがある。床がサビて大穴があいていて、アスファルトが見えていた、「缶でも潰して敷いておかなくっちゃな」と意にも介していなかった。

 釣りの知人達は、小菅さんのことを「船長さん」と呼んでいた。小菅さんの風貌と小さな漁船は常に一体だった。

 知り合って30年近く(そして私も初めて会った時の小菅さんの年齢を超えた)、私にとっての相模湾とは、すなわち小菅船長のいる海となっていた。

 朝晩に海岸を散歩する時も、机の前で「ああ、締め切りから逃げて海に行きたい」と思う時も、思い浮かぶ相模湾とは、そのどこかで小菅船長が漁船を走らせている海なのだった。どこにいるかは知らないが、必ずどこかにいる、晴れの日も雨の日も、湾のどこかをコンコンとエンジンの音を響かせて走っている、そんな確信がいつの間にか自分の中に根付いていたのだった。

 船長、さよならはいいません。あなたの新たな海路が平安でありますように。


 生前に出た小菅さん唯一の小説。名義はペンネームの「小菅太雄」となっている。「いや、文雄というのはどこか弱そうだからさ、太雄ってしたんだよね」と言っていた。小説としては荒削りなのだけれど、本書で読むべきはストーリーではなく、自らの経験に裏打ちされた圧倒的な海の描写だ。紙面から飛沫が飛んでくるような臨場感に溢れている。


 釣飲会の会報に「片瀬今昔」と題して小菅さんが長年書きためてきたエッセイからの選集。漁師とはどのような職業か、どのように物事を見て生きているのか、かつての江ノ島あたりの漁はどのようなものだったか、進駐軍が上陸してきた日の思い出、小菅さんのお父上が語った関東大震災の時の相模湾——すべてが具体的に描かれている。

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Comments

すばらしい追悼文でした.さすがプロ.

MIXIというSNSがあります。
そこに書いた、今日の日記ですが、
僭越ながら、コメントとしてアップさせていただきます。

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「釣飲」というのは、僕が19歳の頃から所属している釣りの会、
釣飲会の会報の名前である。
「釣飲」と聞けば、その由来は想像に難しくないと思う。
文字通り、釣って飲む会である。

先日の日記に、僕を実の息子のようにかわいがってくれた方が
亡くなったと書いたが、その方こそが、釣飲会の主催者(=船長)であった。
本日、その会報である「釣飲 316号」が届いた。
会報は月刊なので、26年強続いていることになり、
今思うと、僕は、会の初期から参加していたことになる。

で、316号には、船長の断筆となる
「かたせ今昔 三百四」というエッセイが掲載されていた。
昔から車好きで、中古のオンボロ外車を乗るのが船長の趣味だった。
僕も、船長のポルシェやBMWに乗せてもらい、
少なからず、影響を受けた。

「かたせ今昔 三百四」には、そんな船長の好きな車の話が、
家族への愛を交えて書かれてあった。
普段は、海の話が書かれているエッセイに、
車と家族の話が書かれてあり、
もしかすると、ご本人には、
神からのお告げがあったのだろうかと
思ってしまうような内容であった。

船長がお亡くなりになる一週間前に、
釣飲会の新年会があったのだが、
「今年は上げ潮で釣りをするぞ!」との船長の提案で、
3月は、異例の二回の釣りの会設定された。
316号には、その「幻の例会案内」も掲載されていた。

「幻の例会案内」を見た瞬間、我慢が出来ず、
この思いを誰かにぶつけたい一心で、
編集者に電話をしてしまった。

息子にそんなパパの姿を見られまいと場所を探したが、
狭いマンションが故、そのような場所も見つからず、
パパの姿を息子がのぞいていることを承知で、
感極まってしまった。。。

僕にとって、大きな人を失ってしまったんだな。。。

 山田さんもですか。私も男泣きに泣きました。

 ずっと、片瀬漁港に行けば当たり前のように「さあ、今日も沢山釣るよ」と迎えてくれた人がかき消すようにいなくなってしまったのは、なんともさびしいことです。

はじめまして。小菅さんの娘さんの友人です。彼女と亡くなられたお父さんの事を話した時にこちらの記事を読みました。
実はその娘さんも亡くなられました。
お墓参りに伺いたいのですが、
単なる友人と言う関係はとても頼りないもので、ご実家も整理されてご家族と連絡が取れない状態です。
もし小菅家のお寺をご存知でしたら教えて頂けますか?
面識のない方に唐突なお願いをしてしまい、本当に申し訳ないと思っておりますが何卒宜しくお願い致します。

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