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2010.07.03

2003年5月9日・内之浦

 2003年5月8日の打ち上げ前日は、穏やかな晴れだった。打ち上げ前日の休養日で、内之浦の街のそこここで打ち上げ関係者がリラックスしていた。私は、街で出会ったISASの矢野さんや、はやぶさタッチダウン時の姿勢変化の解析を担当した東北大の吉田さんなどと、街の裏手の叶岳に登った。山頂で内之浦に長逗留している矢野さんから、付近の地名の由来を色々解説してもらい、叶岳のコテージのほうに下ってくると、宿泊していた関係者がバーベキューをしていた。「どうぞどうぞ」という言葉に甘えて、そのまま混ざり、昼からビールを飲んだ。

 後で聞いた話だが、はやぶさの打ち上げ準備はぎりぎりのスケジュールで進んでいた。最後に問題になったのは、搭載する科学観測機器の視野だった。観測機器ははやぶさの表面に固定されており、首を振ることはできない。一度固定したら動かすことはできない。

7/7注:実際にぎりぎりの調整をしていたのは、レーザー測距機 (LIDAR)と近赤外線分光計 (NIRS)だったとのこと(コメント欄、ひらたさんの投稿による)。この2つの視野をあわすことの意味は、私にもまだ分かっていないので、後日この項目は書き直すことにします。

 問題は可視分光撮像カメラ(AMICA)と近赤外線分光計 (NIRS)だった。この2つの視野が重なっていれば、AMICAで撮影した特定の岩石がなにでできているかをNIRSで分析することができる。


 しかしぎりぎりまで調整しても、なかなか視野が一致しない。
 最後に、メーカーの技術者がシム(調整用の薄板)一枚を挟み込み、NIRSを取り付けるボルトを締めると、視野はぴったり一致した。

 5月8日夕刻から、打ち上げ作業が始まった。


P1010574
 姿を現したM-Vロケット5号機。プレスサイトからの撮影。第2段がカーボン複合材のモーターケースになり、白色塗装となっているのが、5号機以降の特徴。


P1010577
 肉眼で見るとこのような感じ。ただし、これでも望遠レンズでかなり遠近感を圧縮されている。


P1010585
 2003年5月9日13時29分25秒、M-Vロケット5号機は打ち上げられた。


P1010588
 第1段分離直後、噴煙が拡がっているところで、第2段が点火されている。M-Vは第1段分離と同時に第2段を点火する、ファイア・イン・ザ・ホールという方式を採用している。常に噴射していないと未来位置を予測されて迎撃を受ける恐れがある大陸間弾道ミサイルに主に使われる点火方式だが、M-Vの場合は慣性飛行による重力損失を最小にして、打ち上げ能力を少しでも稼ぐために採用された。
 はやぶさは、M-Vの3段プラス特製のキックモーター「KM-V2」による第4段とで、地球周回軌道に入ることなく、惑星間軌道に直接投入された。


P1010590_2
 打ち上げ後に残る噴射煙。ロケットの余韻。


P1010592
 同じく噴射煙。高度によって風向が異なるので、噴射煙はこのようにうねる。


P1010598_2
 打ち上げ後のランチャー。Mロケットの特徴である斜め打ち上げは、初期の無誘導の打ち上げにおいて、少しでも早く射点からロケットを離して海上に出すために採用され、そのままM-Vまで引き継がれた。


P1010607
 内之浦の射点の横は断崖、転落防止用フェンスは打ち上げのショックと噴射煙で外れてしまうことがあるので、打ち上げ前に外してある。この写真は、フェンスをつけなおしているところ。


P1010618
 打ち上げ成功後の記者会見にて。左から藤原顕教授(はやぶさ計画理学のトップ、プロジェクト・サイエンティスト)、川口淳一郎教授(プロジェクト・マネージャー)、小野田淳次郎教授(打ち上げ・実験主任)、稲谷芳文教授(打ち上げ・保安主任)、鶴田浩一郎所長、的川泰宣教授(対外協力室長)。この時、鶴田所長は就任直後だった。
 小野田教授の「実験主任」という肩書きに注目。M-Vの打ち上げは毎回「実験」であった。それは、1960年代の文部省対科学技術庁の権限争いの結果、半ば強制されたものだった。

 
  はやぶさ打ち上げは、文部科学省・宇宙科学研究所として最後の打ち上げとなった。2003年10月1日、宇宙三機関統合の結果、独立行政法人・宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、宇宙研は、JAXAの宇宙科学研究本部となった。

 その後、内之浦に起きたことは、痛みを感じずに思い出すことは不可能だ。1960年代初頭、糸川英夫博士がこの地に打ち上げ基地を作ろうと決心して以来、地元とロケット基地は独特の協調する雰囲気を作り上げてきた。それは、あたかも植物が生えるかのようにして醸成された協力関係であり、人工的に作ろうとしても作れるものではなかった。
 その意味では、内之浦は最初からロケット発射の適地ではなかった。地元と研究者の関係の中で、ロケット発射の適地となっていったのである。

 統合とそれに続くM-V廃止は、何十年もかけて醸成された、作ろうとしても二度と作れない関係・環境を無造作かつ無遠慮に破壊した。

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Comments

視野調整してたのはNIRSとAMICAじゃなくてNIRSとLIDARです.

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