尾崎宗吉の音楽を聴く
夜の歌 尾崎宗吉作品集成
1. 小弦楽四重奏曲(1935)
2. 幻想曲とフーガ(1936)
3. 初夏小品(1936)[作詩:大木惇夫]
4. チェロ・ソナタ(1937)
5. ヴァイオリン・ソナタ第2番(1938)
6. ヴァイオリン・ソナタ第3番(1939)
7. 夜の歌(1943)
演奏:モルゴーア・クァルテット他
アマゾンから届いたので聴いた。これはすごい。戦前の日本に、こんなに良い曲を書ける作曲家がいたのか。
尾崎宗吉(1915-1945)は昭和20年に30歳で中国大陸にて戦病死した作曲家。小倉朗など関係者の回想を読むと、必ず「才能抜群」として登場する。LP時代に極少部数で作品集が一回出ていたようだが、作品が一枚のCDにまとまって、市販されるのは多分これが初めて。
こちらに尾崎に関する詳細な解説がある。
・夭逝の作曲家/尾崎宗吉
これほどの作品を書ける男が、わずか30歳で戦病死しなくてはならなかったなんて…かわいそうだし惜しいし、くやしいし、とにかくなんといっていいかわからない。残した音楽が素晴らしいほどに、死の無念さが胸に迫る、
尾崎は1915年、浜名湖に浮かぶ弁天島で旅館を営む夫婦の六男として生まれた。子供の頃から木琴を好み、音楽を志して上野の音楽学校(現東京芸大)を受験するが、音楽の成績ではなく健康診断で尿タンパクが出たというだけで受験に失敗(尿タンパクは激しい運動後には健康人でも出るものだ)。
このことが彼の人生を決めてしまう。当時、上野の音楽学校の学生には徴兵猶予があったのである。
上野に代わって東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進学し、小倉朗と知り合い、親友となる。当ブログでも取り上げた諸井三郎に師事し、やがてめきめきと頭角を現し始めた。その前に立ちはだかったのが徴兵だった。尾崎は兵隊として中国大陸の戦線を転々とすることになる。。
尾崎の創作は19歳の小弦楽四重奏曲から始まり、28歳の夜の歌で終わる。20代の10年は、そのうち5年を兵隊として戦地で過ごし、30歳でこの世を去った。作曲にあてることのできた時間は5年に過ぎない。
その間に、彼は恐ろしいほどの進歩を示した。稚拙と瑞々しさの同居の裡に才能のきらめきを見せる小弦楽四重奏曲から、プロコフィエフやバルトークすら連想させるヴァイオリン・ソナタ第3番まで、わずか4年だ。彼の音楽ははつらつとしたリズムと無駄のない構成が際立っている。初期の作品は淡い五音音階の音感で日本調を感じさせもするが、やがて自由自在に半音階を使いこなしていくようになった。
徴兵が年限になって戦地から帰ってきた時に書いた絶筆、夜の歌は他に比較する対象がないほどに透みきっている。同じく戦地から帰ってきている間に書いたヴァイオリンソナタ4番の楽譜が行方不明になっているのが惜しい。
彼の死因は戦地で患った虫垂炎だった。交通不便の地であったため、病院への搬送が遅れ、手術の甲斐無くこの世を去ったのである。今ならなんということもなく直る病気だ。ひょっとしたら抗生物質の服用のみで、助かったかもしれない。
哀しく、美しく澄み切った夜の歌の後に、一体どんな音楽があったのか、あり得たのか。彼の頭の中では、数多の音が現実化されるのを待っていたはずなのに、今やすべては想像するしかない。それどころか、彼が残した楽譜もそのかなりの部分が紛失して行方不明になっている。このCDには、現存する作品のほぼ全部(オーケストラのための田園曲以外)が入っている。これだけしか残らなかった、というべきなのか、これだけでも残って良かったというべきなのか。
以下、友人であった小倉朗の自伝「北風と太陽」(1974)に登場する尾崎。
尾崎はその音楽学校に僕より少し遅れて入ってきた。いかつい青年――第一印象はまあそういったものだった。弁天島の生まれで、僕より数ヶ月上。強い近視の眼鏡の中で目が小さく見え、堅く結んだ口元は芯の強さを示したが、笑うと目尻が下がって子供のような可愛らしい顔になった。(中略)
たちまち意気投合して、親友兼ライバルとなり、僕が学校を飛び出してからもこのつき合いは深まる一方で、彼の下宿と僕の家との行き来は頻繁。一緒に音楽会にいき、レコードをきき、勉強を競い,討論し、やがて木琴の名手と知ると僕のピアノの伴奏で,僕等が名付けた「サバリアン・ラプソディー」——つまり気分本位のごまかし演奏——をやって涙のこぼれるくらいの大笑いをした。
彼は着実に学校を卒業し、卒業するとすぐ作曲家連盟の主催する試演会で「小絃楽四重奏曲」を発表して一躍注目を浴びる、僕はその曲に旋律の発明力とリズムの自発性を見て、手強い相手に出会ったことを思い知る。
その後、彼は立てつづけに作品を書いた。その筆の早さを僕が危ぶむと、「とんでもない。まだ完成を求めるなんていう年頃じゃないよ」と笑った。尾崎はそうして遠い未来を睨んでいたのである。けれども中国で始まっていた戦争が彼をひきずり出す。徴兵検査が終るとまもなく、佐倉の鉄道隊に入り、ある朝、朝靄をついて営門を出て、銃を担い、隊列の中から目だけで僕に笑って中支に向かった。
幸い、そのときは帰ってきた。しかし戦争については「愚劣!ひどいもんだ!」というだけで、後は何も語ろうとはしなかった。そして、戦争の疲れから脱けきらないうちにまた召集される。出発の直前、彼の家を尋ねた。がらりと玄関をあけると、玄関先でこっちを向いてチェロを弾いていた。そのチェロを弾く姿が彼の最後の姿となった。――死んだのは太平洋戦争も間もなく終わろうとするころのことである。
尾崎に関する唯一の文献。古書店経由で入手できるようなのでリンクを掲載する。20年前の出版だが、当時存命だった関係者——小倉朗、柴田南雄、井上頼豊、安部幸明などは、全員がこの20年の間にこの世を去った。おそらく生前の尾崎を知る人はもうほとんど残っていないのだろう。
人は死んで去っていく。作曲家は後に楽譜という形で音楽を残す。楽譜は音楽そのものではない。楽譜を音楽にするためには演奏しなくてはならない。
もっと彼の作品が演奏されますように。そう願う。