なにやら面白いことになっている。
佐村河内守作曲の諸作品は、実は新垣隆作曲だったというスキャンダル。
すでに多くの音楽関係者が語っており、その中には新垣氏を知る人も多い(中でも吉松隆氏のしつこくS氏騒動・交響曲編は傾聴すべき意見と思う)。
ここでは佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶというブログ記事を書いた一聴き手としての感想を書く。
私が佐村河内守という名前を知ったのは、まさに吉松氏の佐村河内守「交響曲第1番」(2008年1月13日)というブログ記事からだった。そのまま忘れていたのだが、そのうち誰かが2008年9月1日(広島厚生年金会館)の第1、第3楽章初演(の、おそらくテレビ放送)の第3楽章のみをYouTubeにアップしていたことで、実際の作品に触れた(権利者抗議で、すぐに動画は削除された)。
びっくりした。第3楽章だけで30分近い時間を、ロマン派に近い、およそ今風ではない響き(ただし良く聴くとそれだけではないことが分かる)で満たし、なおかつ飽きさせず最後まで聴かせたからだ。YouTubeを使っている方は分かるだろうが、ネットの動画像体験は1分でも長いと感じる時は、とても長く感じる。なかなかテレビのようにのんべんだらりと長時間観ている気にならない。それが、27分間、きちんと聴くことができた。
すれっからしの現代音楽マニアの耳には音楽的な常套句が鼻につくところはあったが、全体に非常に確実な作曲技術と熱意で作られた労作と感じた。
正直に書こう。3楽章を聴いてから、1楽章と2楽章も聴きたくなった。実際全曲初演があると聞きつけて、行こうかと思った位だ(結局行かなかったが……)。
後にCDを入手して全曲を聴いたが、「確実な作曲技術と熱意で作られた労作」との印象は変わらなかった。
その後のNHKスペシャルをはじめとした、「全聾の被曝二世作曲家」を巡る盛り上がりは、「バカめ」と思って傍観していた。NHKスペシャルは観たが、その余りにひどいお涙頂戴の番組構成っぷりに「どうせNHKはまたボロを出すぞ」と思った。
なにしろNHKには、老いて益々盛んに作曲活動を展開していた松平頼則を、老残の作曲家の夫婦愛というくくりで描いてしまい、作曲家本人の怒りを買った「妻に贈る銀の調べ(ドキュメントにっぽん:1999年放送)」という前例がある(おかげで、生前の松平の貴重な映像満載にも関わらず、番組は封印されてしまった。時折誰かがYouTubeにアップしては、権利者抗議で削除、といういたちごっこを繰り返している)。
また、別に忘れ去られたわけでもない作曲家の吉田隆子を「忘れられた作曲家」にでっちあげてしまった、「忘れ去られた女流作曲家」(ETV特集:2012年)もあった。これについてはNHKの残念な音楽ドキュメンタリーという記事も書いた
——今読むと、ここでちゃんと自分はNHKスペシャル|魂の旋律〜音を失った作曲家〜に触れているな。
ただし、この盛り上がりを、きちんと邦人のコンサート用音楽作品の聴衆を拡げる方向に繋げたいなと思って佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶを書いた。
どんな音楽ジャンルにしても、聴き始めるにはきっかけが必要だ。きっかけはいくらあってもいい。
NHK始め、マスメディアの視聴率欲しさからのお涙頂戴ネタへの集中は、結局「それで聴衆が増えるなら受忍すべきか」というところで、関係者が存在を許してしまっているところがある。まだまだマスメディアの影響力は大きいから。
私も、こたびは許して、積極的に利用しようとしたのであった。
そんなわけで、いずれボロが出るとは思っていたが、それはNHK以下メディアのお涙頂戴っぷりがであって、まさかかくも大型のスキャンダルになるとは思っていなかった。少なくとも私は、作品は佐村河内守氏の作ったものだと思っていたので。
今回の件が発覚し、「新垣隆」という名前を知った時、まず私はネットのどこかに新垣氏の曲がアップされていないか探した。まずは経歴とか実績とかの周辺情報抜きで、実作者の音楽を自分の耳で確かめたかったのだ。
Twitterで助けてもらい、2曲を聴くことができた。
作曲:新垣隆「インヴェンション あるいは 倒置法 III」
また現代曲のピアノ演奏も見つかった。
作曲:杉山洋一「君が微笑めば、それはより一層、澄んでゆく」
演奏:新垣隆
たまげた。この新垣さんという方は、素晴らしい感性をしているし、ピアノも達者なんてものではない。とても美しい音色を紡ぎ出している。桐朋で三善晃門下であったと知り、なるほどと唸った(「お前、現音マニアとかなんとかいいつつ、いままで新垣隆も知らんかったのか」、というのはさておいて)。それは、技術が確実なはずだ。
音楽のことは、音楽を聴くことでしか分からない。ここ数日、私は佐村河内守作曲ならぬ新垣隆作曲「交響曲1番」を繰り返し、聴いていた。
佐村河内氏の作曲への関与を示すものとして公開された、紙1枚の構想図だが、これは私には落書きに見えた。なにしろ自分も、似たような「ぼくのさっきょくのせっけいず」を高校の頃に書いたことがあったから(実物を全部大学の時に破棄していて良かった!)。それは妄想を形にしたものかもしれないが、音にはつながっていない。音に直結しないものをいくら書いても、それは作曲という行為ではない。
そもそも、この図は縦軸が何を意味しているか不明だし、5%単位で書き込まれた「調性音楽的」と「現代音楽的」の配分も意味不明である(そのようなフレーズを演奏するパートの数?)。
こういう聴き方をすると、図と音楽とを比較することもできる。
もちろん演奏ではテンポが変化しているので、きちんと対応するわけではないだろうが、それにしても図と実際の構成には乖離がありすぎる。
新垣氏は、作曲時にこの図を手元に置いていたと記者会見で語っている。おそらくは、「祈り」「啓示」「葛藤」「混沌」の4要素があるとか、機能調性と無調の音楽的調和といった言葉が、作曲の指針として機能したのではないだろうか(しかも、この図は佐村河内氏本人ではなく、佐村河内夫人の筆跡ではないかという指摘まで出て来た。)。
何度も聴き直したが、私の感想は変わらない。ところどころ、すれっからしのクラシックマニア(クラヲタといってもいいかも)には「あ、このやろ、チャイコフスキー(マーラーでもシベリウスでもいい)風を狙いやがって」という響きがある。しかし、全体はがっちりと、高い作曲技術で破綻なくまとまっている。しかも、そこには作曲者の“熱”も籠もっている。
当たり前なのだ。手元に五線紙のノートがあるなら試してもらいたい。4/4拍子で、とにかく8分音符を、ノート1ページ一杯に書き込んでみてみよう。
けっこうな労働ではなかったろうか。
交響曲を作曲するとは、そのような楽譜を書くという労働に耐えることでもある。最近ではノーテーション・ソフトという“楽譜のワープロソフト”も存在するが、この交響曲1番は手書きで何十段にもなる楽譜を書いていたことが佐村河内氏“自伝”の表紙で判明している。
何ヶ月も机に向かって、大量の音符をひたすら書き続ける——そんな孤独な労働が耐えられるのは、音符に己の創意を込めることができるという喜びがあるからだ。それ以外あり得ない。
私は、佐村河内氏の発注があったにしても、少なくとも交響曲1番については、新垣氏は創作の喜びと二人三脚で作曲したのだと思う。それはきちんと音に現れていると思う。
同時に、新垣氏の側にも、なにか歪んだ誇りというべき感情があったのだろう。
どなたかがサントラ「鬼武者」に、“指揮者”新垣隆が寄せた文章を、はてなアノニマスダイアリーにアップしている。
真相を知った今、この文章にある「奇跡の目撃者」の奇跡を成したのは新垣氏本人であることが分かる。
「徹底アナリーゼ」の「この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品」という指摘は、自画自賛であり、そうと相手に知られずに自分を誇る稚気の発露であると分かる。
そんな稚気は、やはり歪んでいると言わねばならない。
一連の「佐村河内作品」は、詐欺師・佐村河内守と、天才・新垣隆が、陰になり陽になり絡まり合って産み出されたのだろう。詐欺師が許されるべきではないが、天才も無垢というわけではない。
そして作品は——それが天才が自らの選び取った様式で書かれているか否かに関わらず——あくまで詐欺師のものではなく天才のものなのだ。
新垣氏は、一連の作品の著作権を放棄すると表明している。もったいないことだ。どうせなら、新垣氏の名前で出版なりCD販売なりを継続し、収益はすべて赤十字かどこかに全額寄付することにすればいいと思う。
私は、今回のスキャンダルで一番重大なことは、マスメディアの自浄能力のなさだと考える。が、この件についてはNHKを例に上に書いたから繰り返さない。
同じぐらい重大なのは、「聴き手を最前線の音楽表現の実験に導くための、太い導線の不在」が顕わになったということだろう。
現代音楽の売れなさは、もう笑うしかないレベルで、CDが出てもスタンプ枚数は数百枚というのが当たり前だ(コミケかよ!)。私はその手のCDを数百枚持っているが、「これと同じCDを世界の何人が持っているのだろう」と盤面を眺めたりもする。
けっしてつまらないということはない。そこは玉石混淆の、持ち上げるもけなすも自在で自己責任の魅惑のバトルフィールドだ。
ところが、そこに至るためには、せっせと聴き込んで,耳の感受性を作らねばならない。その敷居がすごく高い。理由は簡単で、クラシック系音楽は長いし、普通に生活していると聴く機会も限られているからだ。
1時間あれば、2分のビートルズ「オール・マイ・ラビング」は30回聴ける。30回も繰り返し聴くと、曲の構造から込められた創意まで、なんとはなしに感じられるレベルの耳ができてくる。気がつくとラジオでかかったりもするし、知らずに全曲を聞いたりもする。
しかしマーラーの交響曲は1時間あっても1曲聴けるかどうかだ。それを30回聴こうと思えば、1日以上の苦行となる。
そこをくぐり抜けた者だけが「クラシックマニア」になる。さらにその中でも、さらに現代曲なんてものに引っかかった者が、分からないなりに聴き込んで、NHK-FM「現代の音楽」をエアチェックしたりして、やっと現代音楽の消費者となる。
そんな小さな市場に、音大は年間100人オーダーの作曲家の卵を送り込み続けている(なんという蠱毒、オネゲルが「私は作曲家である」に書いた通りだ)。
市場を大きくしたければ、そこに人々を導く導線が必要になる。デパートが人の動きを考えてエスカレーターを設置するのと変わるところはない。
現状、学校の吹奏楽部と合唱部(そして若干の室内楽とオーケストラの部活)が、若干の導線の役割を果たしている。
佐村河内守名義の各曲は、新たな導線の可能性を示したのではなかろうか。なにしろ18万枚もCDが売れたのだ。
それが「全聾の被曝二世作曲家」というレッテルなしに聴かれるか、という問題はある。が、それでも一切手抜きなし、ガチンコにしてセメントマッチの「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」というのはありではないだろうか。アルバート・ケテルビーが、イッポリト・イワノフが果たした役割を、誰かが果たすべきではないだろうか。
実は戦前の日本に、その萌芽は存在した。
須賀田礒太郎作曲の東洋組曲「沙漠の情景」を聴いて貰いたい。
1941年(昭和16年)の作品だ。沙漠とオリエンタリズムという通俗的題材が、高い管弦楽技法により見事にコンサート音楽として結晶している。私はケテルビーより須賀田礒太郎のほうが上ではないかと思う。
現代音楽という表現の最先端が死滅しないためには、聴衆を導く導線としてのこのような曲が必要なのではなかろうか。
つまり、わがままなオタク消費者である私としては、中川俊郎「青少年のための現代音楽入門」とか、北爪道夫「シンプルシンフォニー」とか、木山光「古典交響曲」とか、伊佐治直「語りを伴う音楽物語、いやいやえん」とか、西村朗「小樽の市場にて/北三陸の風景より“海女の行列”」とか、そんなものを聴いてみたいのであった。