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2014.02.12

ドッペルギャンガー続報

 「ドッペルギャンガー」ブランドの折り畳み自転車を販売しているビーズ株式会社から、今回の2ちゃんねるの件についてリリースが出た。

【ビーズ株式会社より重要なお知らせ】当社ブランドならびに当社製品に関する誹謗中傷について

 これら一切は、当社社員を詐称する誹謗中傷であり、当社社員あるいは元社員の書き込みではありません。本件について、すでに悪意のある第三者による誹謗中傷として警察ならびに弁護士に相談しております。また、この記事を元にした事実や根拠のない情報発信についても、投稿者等に対する法的措置を検討しております。

とのこと。

 が、この発表はなぜかホームページトップからリンクされていない。
 私は、Facebookのドッペルギャンガーページで知ることができた。このFacebookページは「開発担当者+社内の有志による自発的な運営です。」ということで、会社公式ではないのだが……非公式ページからリンクして、トップページからは見に行けないというのはちょっと変だ。
 さらに、「当社ブランドならびに当社製品に関する誹謗中傷について」という文書は、なぜかテキストではなく、JPEG画像でページに貼り込まれている。これは通常、検索エンジンのロボットを避けるための手法で(本気で検索エンジンを避けるためにはメタタグを使う方法が別途存在するが)、なぜこんなことをしたのか不明である(経営陣の意向?)。

 ビーズは東大阪の中規模の企業らしいが、ネットでの危機管理にちょっと甘いところがあると思う。

 本当に危ない設計か、あるいはきちんと生産管理しているかどうかは、何台かランダムに抜き出して、破壊試験や耐久疲労試験にかければ分かるので、これは予算を持ち試験設備が使える国民生活センターや、一般財団法人・自転車産業振興協会一般社団法人・自転車協会などに期待しよう。

 ちなみにビーズは自転車協会名簿に名前がない。が、この名簿にはスギノのクランクで知られるスギノエンジニアリングのような大御所も入っていないので、関連企業がすべて加入しているわけではないようだ。

2014.02.11

内部告発と、「自転車はきちんとコストをかけて選ぶ」ということ

 なんとまあ——
 ドッペルギャンガーという具体的なブランド名が出てしまっている内部告発スレッドだ。

内部告発ってどうやってするの?:ニュースウォッチ2ちゃんねる
もとのスレッド:ニュース速報VIP+@2ch新機能実験場

 ネタ元が2ちゃんねるであることから、さっ引いて考える必要はあるし、すでにドッペルギャンガー販売元のビーズ株式会社がなにか法務的に動いているかもしれない。このあたりは今後の情報待ちだ。

 この件に関連して私としては一般原則を強調しておかなくてはいけないと思い、書く。


 折り畳みのヒンジ、サスペンション、多段変速機——すべて自転車の設計と製造のコストを押し上げる要因だ。これらを装備しつつ安すぎる自転車は、性能と安全性の両面で「お買い得ではない」と疑ったほうがよい。

 20年以上前に、中国製造の“9800円”激安自転車が日本に入ってきた時もたまげた。それまで自転車は、変速機なしでも3万から5万はするのが当たり前だったから。
 それがいまや、アマゾンでも楽天でも1万円を切る折り畳み自転車が売られている。上に書いたように折り畳みヒンジはコスト増要因なのに。

アマゾン、折り畳み自転車を値段の安い順に並べた:2014年2月11日現在の最安値は6900円
楽天、折り畳み自転車を値段の安い順に並べた:2014年2月11日現在の最安値は6980円

 自転車は命を預ける乗り物だ。購入にあたってはきちんとコストをかけ、慎重に車種を選ぼう。
 特に折り畳み自転車、サスペンション付き自転車、多段変速機付き自転車は、それだけでコスト上昇要因を抱えているのだから、きちんとしたものを選ばないと後で大変なことにもなりかねない。折り畳み自転車で、走っている途中で折り畳みヒンジが開いたら、即転倒だ。大けがすることも考え得る。

 ずいぶんと以前、2009年に「自転車は、10万円を持って自転車専門店に行き、情報を集めてから選べ」という記事を書いた。

独断で語る賢い自転車の買い方(2009年8月17日、全部読むには無料登録が必要):人と技術と情報の界面を探る——PC Online連載)

 以下、上記記事より引用。


折り畳み自転車は、通常の自転車に比べて折り畳み機構が必要になる。これは設計と製造のコストを上昇させる要因だ。だから、きちんと作られた折り畳み自転車が欲しいのならば、通常の自転車よりも少し余計なお金を掛けねばならない。

 オートバイのようなサスペンションの付いたマウンテンバイクでも同様だ。私はこの種類の自転車には不案内なので、具体的に「○万円増しの予算で考えよう」とは断言できない。それでも、サスペンションなどの装備が追加されることで、設計と製造のコストが上昇することは理解できる。

 逆に言えば、コスト増加要因があるにもかかわらず、安い車種は、実はあまりお買い得ではないということでもある。豪華な装備を安い値段で売ろうとすれば、どこかで手を抜かざるを得ない。見えないところで手を抜いた自転車では、自転車にとって最も大切な性能――乗ったときに気持ちよく走り、気持ちよく曲がり、気持ちよく止まる――が犠牲になる。
 あまりに安い折り畳み自転車や、サスペンション装備の格安マウンテンバイク、安いにもかかわらず「24段変速!」などと変速ギアの段数をことさらに誇示している自転車などは、「見てくれを優先して、どこか見えないところで手を抜いている」と疑っておくべきである。
 良い物を作るには、相応のコストがかかるのだ。「安いけれども豪華装備」というのは、だいたいにおいて罠であると思っておこう。

 この記事を書いてから4年以上経ったが、価格帯も含め、原則は変わらない。

 良い自転車ライフのために、良い自転車を選びましょう。ちなみに、折り畳み自転車の世界最大手であるDAHONの最安値モデルはこちら。

DAHON Route:完成車価格:4万6000円
 価格.comでは、2014年2月11日現在、最低価格は3万8700円
Dahon_route2014
製品写真はDAHONホームページから引用


 私はこのあたりが、安心して乗れる折り畳み自転車の最低価格ラインだと考える。

2014.02.10

素晴らしいコンサートと、“もっと早坂文雄を!”

 素晴らしいコンサートに行ってきた。

探楽愉快 Vol.4 「100年前、  北の地に  伊福部昭が生れた」

 伊福部昭先生の生誕100年を記念して、伊福部先生の室内楽作品を軸にしたプログラムでお楽しみいただくコンサートです。

2014年2月10日(月) 19時15分開演 (18時30分開場)
於 大田区民ホール アプリコ 小ホール
   (京浜東北線・東急池上線・東急多摩川線 蒲田駅下車すぐ)

伊福部昭: ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲(1955/61)
早坂文雄: 「室内のためのピアノ小品集」(1941)より
A.N.チェレプニン: ティンパニとピアノのためのソナチネ Op.58(1939)
サティ: 右と左に見えるもの〜眼鏡なしで(1914-15)
伊福部昭: ピアノ組曲(1933)
伊福部昭: ヴァイオリン・ソナタ(1985)

河野 航(ピアノ)、加藤 のぞみ(ヴァイオリン)、由谷 一幾(ティンパニ)

 何が素晴らしいってプログラミングが素晴らしい。
「二つの性格舞曲」は伊福部没後、遺品から楽譜が発見された曲。伊福部44歳の作品。
 そして少年の日からの親友だった早坂文雄のピアノ作品に、伊福部の師匠であるチェレプニンの珍しい編成の小品。
 サティは、1934年9月に伊福部のヴァイオリンと早坂のピアノによって日本初演された作品。2人と共に、後に評論家になった三浦淳史、伊福部の兄でギターの名手だった伊福部勲らが、札幌で「国際現代音楽祭」というコンサートを開いた時に演奏された。この時、伊福部、早坂は20歳。
 さらにピアノ組曲は現在残っているもっとも古い伊福部の作品。作曲時19歳。
 最後のヴァイオリン・ソナタは、伊福部71歳の円熟の作。

 つまり、伊福部昭の人生を3曲で俯瞰しつつ、親友にしてライバルの早坂、師匠のチェレプニン、若き日のあこがれだったサティをまとめて演奏するという、もう「分かってるじゃないか!」と手を打ちたくなるプログラミングだ。あまりに素晴らしいので、忙しいのについ行ってしまった。
 オーケストラ・ニッポニカのメンバーである3人の演奏もこれまた素晴らしく、特に出ずっぱりの河野氏のピアノは、ワイルドな打鍵が伊福部音楽に相応しかった。

 今年は伊福部昭生誕100年ということで、記念コンサートが次々に開催されている。それはとてもうれしいことなのだけれど、忘れてはいけない。今年は同じ歳の早坂文雄も生誕100年なのだ。

 ところが、早坂関連のコンサートはずっと数が少ない。目立つ所では、8月に下野竜也と札幌交響楽団が絶筆となった交響的組曲「ユーカラ」を、そして9月にに準・メルクルと東京交響楽団が「右方の舞と左方の舞」を、演奏するぐらいだ。
 ユーカラの演奏は本当に久しぶりだから期待しているが、記念コンサート目白押しの伊福部に比べるとずいぶんと淋しい。
 なんとかできないものか、一般の耳目を引くことはできないかと、「『七人の侍』と『ゴジラ』の裏にあった友情」という文章を書いたりもした。が、注目を集めるのは本当に難しい(そうか、全聾の被曝二世作曲家を自称すれば、ほっといてもマスメディアが集まってくるのか!)。

 早坂は1955年に41歳で早世し、伊福部は2006年に91歳で大往生を遂げた。この差が、現在の人気の差となっていることは間違いない。が、早坂は忘れてよい作曲家ではない。

 もっと早坂文雄を。今年でなくてもいいから。来年は生誕101年記念だし、再来年は102年記念だから。


2014.02.09

佐村河内騒動で考える

 なにやら面白いことになっている。

 佐村河内守作曲の諸作品は、実は新垣隆作曲だったというスキャンダル。

 すでに多くの音楽関係者が語っており、その中には新垣氏を知る人も多い(中でも吉松隆氏のしつこくS氏騒動・交響曲編は傾聴すべき意見と思う)。

 ここでは佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶというブログ記事を書いた一聴き手としての感想を書く。

 私が佐村河内守という名前を知ったのは、まさに吉松氏の佐村河内守「交響曲第1番」(2008年1月13日)というブログ記事からだった。そのまま忘れていたのだが、そのうち誰かが2008年9月1日(広島厚生年金会館)の第1、第3楽章初演(の、おそらくテレビ放送)の第3楽章のみをYouTubeにアップしていたことで、実際の作品に触れた(権利者抗議で、すぐに動画は削除された)。
 びっくりした。第3楽章だけで30分近い時間を、ロマン派に近い、およそ今風ではない響き(ただし良く聴くとそれだけではないことが分かる)で満たし、なおかつ飽きさせず最後まで聴かせたからだ。YouTubeを使っている方は分かるだろうが、ネットの動画像体験は1分でも長いと感じる時は、とても長く感じる。なかなかテレビのようにのんべんだらりと長時間観ている気にならない。それが、27分間、きちんと聴くことができた。
 すれっからしの現代音楽マニアの耳には音楽的な常套句が鼻につくところはあったが、全体に非常に確実な作曲技術と熱意で作られた労作と感じた。

 正直に書こう。3楽章を聴いてから、1楽章と2楽章も聴きたくなった。実際全曲初演があると聞きつけて、行こうかと思った位だ(結局行かなかったが……)。
 後にCDを入手して全曲を聴いたが、「確実な作曲技術と熱意で作られた労作」との印象は変わらなかった。

 その後のNHKスペシャルをはじめとした、「全聾の被曝二世作曲家」を巡る盛り上がりは、「バカめ」と思って傍観していた。NHKスペシャルは観たが、その余りにひどいお涙頂戴の番組構成っぷりに「どうせNHKはまたボロを出すぞ」と思った。

 なにしろNHKには、老いて益々盛んに作曲活動を展開していた松平頼則を、老残の作曲家の夫婦愛というくくりで描いてしまい、作曲家本人の怒りを買った「妻に贈る銀の調べ(ドキュメントにっぽん:1999年放送)」という前例がある(おかげで、生前の松平の貴重な映像満載にも関わらず、番組は封印されてしまった。時折誰かがYouTubeにアップしては、権利者抗議で削除、といういたちごっこを繰り返している)。
 また、別に忘れ去られたわけでもない作曲家の吉田隆子を「忘れられた作曲家」にでっちあげてしまった、「忘れ去られた女流作曲家」(ETV特集:2012年)もあった。これについてはNHKの残念な音楽ドキュメンタリーという記事も書いた

 ——今読むと、ここでちゃんと自分はNHKスペシャル|魂の旋律〜音を失った作曲家〜に触れているな。

 ただし、この盛り上がりを、きちんと邦人のコンサート用音楽作品の聴衆を拡げる方向に繋げたいなと思って佐村河内守「交響曲1番」の次に聴くべき交響曲を選ぶを書いた。
 どんな音楽ジャンルにしても、聴き始めるにはきっかけが必要だ。きっかけはいくらあってもいい。

 NHK始め、マスメディアの視聴率欲しさからのお涙頂戴ネタへの集中は、結局「それで聴衆が増えるなら受忍すべきか」というところで、関係者が存在を許してしまっているところがある。まだまだマスメディアの影響力は大きいから。
 私も、こたびは許して、積極的に利用しようとしたのであった。

 そんなわけで、いずれボロが出るとは思っていたが、それはNHK以下メディアのお涙頂戴っぷりがであって、まさかかくも大型のスキャンダルになるとは思っていなかった。少なくとも私は、作品は佐村河内守氏の作ったものだと思っていたので。

 今回の件が発覚し、「新垣隆」という名前を知った時、まず私はネットのどこかに新垣氏の曲がアップされていないか探した。まずは経歴とか実績とかの周辺情報抜きで、実作者の音楽を自分の耳で確かめたかったのだ。
 Twitterで助けてもらい、2曲を聴くことができた。 

作曲:新垣隆「インヴェンション あるいは 倒置法 III」


作曲:新垣隆「連辞一層次Ⅱ」


 また現代曲のピアノ演奏も見つかった。
作曲:杉山洋一「君が微笑めば、それはより一層、澄んでゆく」
演奏:新垣隆


 たまげた。この新垣さんという方は、素晴らしい感性をしているし、ピアノも達者なんてものではない。とても美しい音色を紡ぎ出している。桐朋で三善晃門下であったと知り、なるほどと唸った(「お前、現音マニアとかなんとかいいつつ、いままで新垣隆も知らんかったのか」、というのはさておいて)。それは、技術が確実なはずだ。

 音楽のことは、音楽を聴くことでしか分からない。ここ数日、私は佐村河内守作曲ならぬ新垣隆作曲「交響曲1番」を繰り返し、聴いていた。

 佐村河内氏の作曲への関与を示すものとして公開された、紙1枚の構想図だが、これは私には落書きに見えた。なにしろ自分も、似たような「ぼくのさっきょくのせっけいず」を高校の頃に書いたことがあったから(実物を全部大学の時に破棄していて良かった!)。それは妄想を形にしたものかもしれないが、音にはつながっていない。音に直結しないものをいくら書いても、それは作曲という行為ではない。
 そもそも、この図は縦軸が何を意味しているか不明だし、5%単位で書き込まれた「調性音楽的」と「現代音楽的」の配分も意味不明である(そのようなフレーズを演奏するパートの数?)。

 こういう聴き方をすると、図と音楽とを比較することもできる。
Sym1

もちろん演奏ではテンポが変化しているので、きちんと対応するわけではないだろうが、それにしても図と実際の構成には乖離がありすぎる。

 新垣氏は、作曲時にこの図を手元に置いていたと記者会見で語っている。おそらくは、「祈り」「啓示」「葛藤」「混沌」の4要素があるとか、機能調性と無調の音楽的調和といった言葉が、作曲の指針として機能したのではないだろうか(しかも、この図は佐村河内氏本人ではなく、佐村河内夫人の筆跡ではないかという指摘まで出て来た。)。

 何度も聴き直したが、私の感想は変わらない。ところどころ、すれっからしのクラシックマニア(クラヲタといってもいいかも)には「あ、このやろ、チャイコフスキー(マーラーでもシベリウスでもいい)風を狙いやがって」という響きがある。しかし、全体はがっちりと、高い作曲技術で破綻なくまとまっている。しかも、そこには作曲者の“熱”も籠もっている。

 当たり前なのだ。手元に五線紙のノートがあるなら試してもらいたい。4/4拍子で、とにかく8分音符を、ノート1ページ一杯に書き込んでみてみよう。
 けっこうな労働ではなかったろうか。

 交響曲を作曲するとは、そのような楽譜を書くという労働に耐えることでもある。最近ではノーテーション・ソフトという“楽譜のワープロソフト”も存在するが、この交響曲1番は手書きで何十段にもなる楽譜を書いていたことが佐村河内氏“自伝”の表紙で判明している。
 何ヶ月も机に向かって、大量の音符をひたすら書き続ける——そんな孤独な労働が耐えられるのは、音符に己の創意を込めることができるという喜びがあるからだ。それ以外あり得ない。
 私は、佐村河内氏の発注があったにしても、少なくとも交響曲1番については、新垣氏は創作の喜びと二人三脚で作曲したのだと思う。それはきちんと音に現れていると思う。

 同時に、新垣氏の側にも、なにか歪んだ誇りというべき感情があったのだろう。

 どなたかがサントラ「鬼武者」に、“指揮者”新垣隆が寄せた文章を、はてなアノニマスダイアリーにアップしている。

 真相を知った今、この文章にある「奇跡の目撃者」の奇跡を成したのは新垣氏本人であることが分かる。
 「徹底アナリーゼ」の「この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品」という指摘は、自画自賛であり、そうと相手に知られずに自分を誇る稚気の発露であると分かる。
 そんな稚気は、やはり歪んでいると言わねばならない。

 一連の「佐村河内作品」は、詐欺師・佐村河内守と、天才・新垣隆が、陰になり陽になり絡まり合って産み出されたのだろう。詐欺師が許されるべきではないが、天才も無垢というわけではない。
 そして作品は——それが天才が自らの選び取った様式で書かれているか否かに関わらず——あくまで詐欺師のものではなく天才のものなのだ。

 新垣氏は、一連の作品の著作権を放棄すると表明している。もったいないことだ。どうせなら、新垣氏の名前で出版なりCD販売なりを継続し、収益はすべて赤十字かどこかに全額寄付することにすればいいと思う。


 私は、今回のスキャンダルで一番重大なことは、マスメディアの自浄能力のなさだと考える。が、この件についてはNHKを例に上に書いたから繰り返さない。

 同じぐらい重大なのは、「聴き手を最前線の音楽表現の実験に導くための、太い導線の不在」が顕わになったということだろう。
 現代音楽の売れなさは、もう笑うしかないレベルで、CDが出てもスタンプ枚数は数百枚というのが当たり前だ(コミケかよ!)。私はその手のCDを数百枚持っているが、「これと同じCDを世界の何人が持っているのだろう」と盤面を眺めたりもする。

 けっしてつまらないということはない。そこは玉石混淆の、持ち上げるもけなすも自在で自己責任の魅惑のバトルフィールドだ。

 ところが、そこに至るためには、せっせと聴き込んで,耳の感受性を作らねばならない。その敷居がすごく高い。理由は簡単で、クラシック系音楽は長いし、普通に生活していると聴く機会も限られているからだ。
 1時間あれば、2分のビートルズ「オール・マイ・ラビング」は30回聴ける。30回も繰り返し聴くと、曲の構造から込められた創意まで、なんとはなしに感じられるレベルの耳ができてくる。気がつくとラジオでかかったりもするし、知らずに全曲を聞いたりもする。

 しかしマーラーの交響曲は1時間あっても1曲聴けるかどうかだ。それを30回聴こうと思えば、1日以上の苦行となる。
 そこをくぐり抜けた者だけが「クラシックマニア」になる。さらにその中でも、さらに現代曲なんてものに引っかかった者が、分からないなりに聴き込んで、NHK-FM「現代の音楽」をエアチェックしたりして、やっと現代音楽の消費者となる。
 そんな小さな市場に、音大は年間100人オーダーの作曲家の卵を送り込み続けている(なんという蠱毒、オネゲルが「私は作曲家である」に書いた通りだ)。

 市場を大きくしたければ、そこに人々を導く導線が必要になる。デパートが人の動きを考えてエスカレーターを設置するのと変わるところはない。

 現状、学校の吹奏楽部と合唱部(そして若干の室内楽とオーケストラの部活)が、若干の導線の役割を果たしている。

 佐村河内守名義の各曲は、新たな導線の可能性を示したのではなかろうか。なにしろ18万枚もCDが売れたのだ。
 それが「全聾の被曝二世作曲家」というレッテルなしに聴かれるか、という問題はある。が、それでも一切手抜きなし、ガチンコにしてセメントマッチの「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」というのはありではないだろうか。アルバート・ケテルビーが、イッポリト・イワノフが果たした役割を、誰かが果たすべきではないだろうか。


 実は戦前の日本に、その萌芽は存在した。
  須賀田礒太郎作曲の東洋組曲「沙漠の情景」を聴いて貰いたい。





 1941年(昭和16年)の作品だ。沙漠とオリエンタリズムという通俗的題材が、高い管弦楽技法により見事にコンサート音楽として結晶している。私はケテルビーより須賀田礒太郎のほうが上ではないかと思う。
 現代音楽という表現の最先端が死滅しないためには、聴衆を導く導線としてのこのような曲が必要なのではなかろうか。

 つまり、わがままなオタク消費者である私としては、中川俊郎「青少年のための現代音楽入門」とか、北爪道夫「シンプルシンフォニー」とか、木山光「古典交響曲」とか、伊佐治直「語りを伴う音楽物語、いやいやえん」とか、西村朗「小樽の市場にて/北三陸の風景より“海女の行列”」とか、そんなものを聴いてみたいのであった。

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