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2022.07.09

安倍晋三氏追悼、及びその分析/政治に巣くうカルトについて——明日は選挙です。投票に行きましょう。

まず、久しぶりの更新がこのような内容になることを許して欲しい。大変重要なことと思うので書かないわけにはいかなかった。

 2022年7月8日、安倍晋三元首相が、奈良の近鉄・大和西大寺駅前で参議院選挙の応援演説中、自家製の銃に撃たれ、死去した。日本の総理大臣経験者の暗殺は二・二六事件(1936年)の高橋是清と斎藤実以来、86年振り。敗戦後は初。総理・総理経験者の受難としては、安倍氏の祖父の岸信介首相が1960年に右翼に刺されて以来ということになる(1975年には、佐藤栄作元総理の葬儀で、三木武夫首相が右翼に殴られるという事件も起きている。怪我は軽く、そのまま三木首相は葬儀に参列した)。

 今回の暗殺(そう呼ぶべきだろう)は、参議院選挙2日前という時期に発生した。このことからすぐに思い出すのは1980年の参議院選挙だ。選挙期間中に現役の大平正芳首相が急病死し、結果「弔い選挙」というかけ声と共に自民党が大勝した。

 すでにネットには故人がどんなに良い人であったかという言説が溢れている。家族が悲嘆のただ中にある時、周囲はそう言い、慰め、悲嘆を軽くするものである。

 が、故人が政治家であり、しかも選挙直前となると、また事情は異なる。むやみと政治家を「良い人」というのは、むしろ侮辱というものだろう。棺を覆いて事定まる——生涯から事績に至るまでのきっちりとした研究と分析、評価こそが政治家に対する真の敬意というものだ。まして選挙直前という時期なら尚更だ。
 大平総理死去の際は、自民の得票増は「香典票」と言われた。香典票でも勝ちは勝ちか? あるいは、主義主張に依らない香典票は政治家にとって侮辱であり屈辱ではないのか? 
 私は後者の観点を採用する。

 ここでは、安倍晋三という人の、ごく短い分析を試みる。といっても、私は長年ウォッチしていたわけでも熱心に研究していたわけでもないので、ごく限定的かつ主観に縛られたものになるだろう。それでも自分は36年間、事実を追いかけることを職業としてきたので、完全に的を外しているわけではなく、的の隅っこぐらいには当てているだろうと信じる。一次的な近似は、的をはずさなければ良い、後からより精密で正確な分析が出てくればそれでいい、という判断で、以下書いていくことにする。

 安倍晋三という人の持つ「弱さ」——といいっていいだろう——に気が付いたのは、第一期政権の直前、民放テレビのバラエティ番組で、安倍氏が学生時代にやっていたという弓道の腕前を披露した時のことだった。少なくとも自分が子どもの頃のテレビでは考えられないことだったが、昨今はバラエティ番組に政治家も出演する。顔を売る良いチャンスということだろうし、民放の側からすれば電波許認可権限を持つ政治に恩を売っておくチャンスということなのだろうと推測する。
 バラエティでは、芸人・芸能人が政治家を持ち上げる。持ち上げられ、弓道を披露する安倍氏の表情から、私は持ち上げられる満足感・安心感というものを感じた。
 政治家にとって持ち上げられるのは日常茶飯事で、しかも危険なことだ。政治家は権力と権限を持っているので、様々な人々が「先生、先生」と寄ってくる。そのほぼすべてが下心つきだ。だから政治家になによりも必要なのは、持ち上げられた時に下腹部に力を入れて平常心を失わず、舞い上がったりせずに受け流すという態度だ。持ち上げられて、浮き上がってしまったら利用されてしまうのだから。
 だが、私がバラエティで弓を披露する安倍氏の表情から感じたのは、持ち上げられて安堵するという感情だった。個人的にはその感覚を「ニヨニヨ感」と呼んでいる。「ニヤニヤ」ではない。「ニヨニヨ」だ。持ち上げられることで、自分の居場所が見つかったかのように感じ、安心するという心の動きだ。
 私が感じたのは、不安だった。持ち上げられて舞い上がる人物が首相になれば、持ち上げられるままにやってはならぬことをしてしまうのではないか。

 その後2期9年に及んだ安倍内閣において、彼の打ち出した政策に、私は一貫性を感じることができなかった。
 その最たるものが、アベノミクスと自分の名を取った経済政策だ。アベノミクスは「3本の矢から成る」とされた。大幅な金融緩和を軸とする大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略だ。基本は不況時に実施する経済政策の王道そのものである。確かに一の矢は大きな効果を上げた。失業率は下がり、雇用は改善した。
 が、二の矢たる財政政策は不徹底に終わった。大胆に財政支出を行うどころか、彼は真逆の政策である消費税を2回にわたって引き上げ、税率を5%から2倍の10%に上げたのである。これでは一の矢の効果も消えてしまう。実際消えてしまった。そして三の矢はついに放たれなかった。実施されたアベノミクスは事前の説明とは異なり、矛盾の塊であり、支離滅裂なものだった。
 そのあたりから、私は安倍氏にはバックボーンとなる定見がないらしいことに気が付いた。彼の行動は、「誰か身近にいる人に気に入って貰う」が最優先らしい。ということだ。
 それぞれの行動は、その時どんな人が身近にいるかで規定される。アベノミクスを策定し、打ち出した時は「自分を気に入って欲しいブレーン」が身近にいたのだろう。消費税増税の時には、麻生財務相に「気に入って貰う」ことが優先したのだろう。
 そう考えると、彼のあっちにいきこっちにいきの行動はきれいに整理される。森友学園の時は、森友関係者が身近にいて、その者に気に入って欲しかったのだ。桜を観る会も然り。そこに、権力者たる安倍氏を利用しようと寄ってくる者がいた結果が、あれだと考えると、きれいに辻褄が合う。
 そこからは付随して、彼が寄ってくる者を鑑別する「人を見る目」が弱いということも導きだされる。今回の暗殺に際しては、彼に親しいとされたジャーナリストや作家が、公式発表前にフライングで安倍氏の死去をネットに書き込み、図らずも安倍氏の「人の見る目のなさ」を証明してしまった。彼らジャーナリスト(しかも当日にレイプ民事訴訟で敗訴確定というおまけまでついた)や作家は、「他人よりも先に凄い情報を知っている自分を誇示したかった」のだ。普通に人を見る目を持つ政治家なら、そんな奴は真っ先に身近から排除して然るべきである。
 外交も然りである。トランプに会うときは、トランプに気に入って欲しかったのだ。プーチンに会うときはプーチンに気に入って欲しかったのだ。それで自分の心を安定させたかったのだ。そう考えると、プーチンに対するあの「駆けて駆けて、駆け抜けようではありませんか」という臭いを通り越したスピーチも、切ない願望の表れとして理解することができる。

 その一方で、安倍氏には強面で一貫した側面があった。それは盗聴法から共謀罪から安保法制から次々に強行採決し、「日本を取り戻す」と叫び、辺野古の埋め立てを現地で合意を形成する努力をも見せずに強行する——だが、これも「祖父である岸信介に気に入って欲しい」という思いの表れとすれば、きれいに理解できる。彼は祖父の政治思想に共感したのではなく、もうこの世にいない祖父・岸信介に気に入って貰いたいと願っていた——その結果の強面と考えると、ひとつの一貫した人格像が浮かび上がる。
 奥底から見えてくるのは「僕を認めてよ」というエヴァンゲリオンのシンジ的な切ない叫びだ。が、それは本来は政治家として第一歩を踏み出す前に、否、大人として社会に第一歩を踏み出す前に片を付けておくべき心の問題である。

 そのような「持ち上げて欲しい、認めて欲しい心」のままに、政策を展開すると、随所に矛盾が生じる。その矛盾を顕在化させないための方策が、公文書の軽視であり破棄であり偽造であった。これはすべてが安倍氏の問題というよりも、中央官庁に潜在していた「公文書を自由に壟断したいという欲望」という問題に、安倍氏が乗じて拡大したというのが正確だろう。
 結果、日本は近代国家としての体を失った。近代国家、それどころか繁文縟礼をという言葉を生み出した中国の歴代王朝以来、国家は公文書の蓄積の上に一貫性を保つ。「日本を取り戻す」といいつつ、安倍氏は日本の国家の一貫性を破壊した。
 個人としてはいかに切ない願望であろうと、それに国民がつきあう義理はない。

 ここにもうひとつ、政治に接近し、乗っ取ろうとするカルトという問題が重なる。反共をキーワードに、政治にカルト勢力(具体的に書くなら旧統一教会。現在は世界平和統一家庭連合という名称を使っている)を引き込んだのは、安倍氏の祖父である岸信介だった。切れ者の岸は、おそらくカルトであっても自分ならば御することができる、利用することができると踏んだのだろう。が、その関係を引き継いだ安倍晋太郎、安倍晋三と代を下るごとに、カルトに対するコントロールは効かなくなり、逆に政治がカルトに乗っ取られるケースが増えてきた。
 現下の自民党が見せる夫婦別姓や同性婚に対する頑なな反対は、明らかに統一教会系カルトの影響と見ていいだろう。選挙でカルトの組織に世話になった政治家はカルトの言うがままになる。それが、なんとなく「日本を取り戻す」という方向性に一致するならなおさらだ。取りあえず思考を停止すれば選挙の票が保証される——となれば思考を停止し、カルトの傀儡となる議員がでてくる道理である。
 あの自由で自律・自立した国民に対する奇妙な敵意を感じさせる2012年自民党改憲案も、統一教会や日本会議といったカルトの影響と考えるとうまくつじつまがあう。カルトは傀儡を欲する。傀儡を支配してロボットの帝国を作りたいというのはカルトに共通する欲求だ。彼らは言うことを聞かない国民が憎いのだ。

 そもそも1955年の保守合同で成立した自由民主党は右から左までを広く糾合し、派閥争いに象徴されるように内部で活発に抗争しつつも同時に白熱した議論をも内部で展開する政党だった。多様性を持つ党ならカルトに侵食されにくい。かつての自民党ならあれほど国民を敵に回した改憲案を公表するはずもないのである。
 もはや自民党はかつての高度経済成長を達成し、世界で最も社会格差の小さな国を作り上げた自民党ではない。安倍政権の9年とは、総理自らカルトの軍門に投降していくプロセスではなかったろうか。

 過去に日本の枢要な政治家を襲ったテロはそのほとんどが行動右翼ないしその影響下にある者の手による。だが、今回は背後関係が「自民と関係が深いカルト宗教に家庭を破壊されたことに対する怨恨」と報道されている。
 とするならこれほど皮肉なことはない。祖父に憧れ、祖父に認めて欲しかった元総理大臣は、祖父が政治に引き込んだカルトのせいで命を落としたのである。そして今、我々の前には、カルトの菌糸に侵食されてぐずぐずになった「陽だまりの樹」たる自民党がその身をさらしている。

 いかなる政体であろうとも、政治家に対するテロはあってはならない。誰であろうと不条理に生を切断されるべきではない。民主主義国家なら政治家の進退は、本人の意思及び選挙によって現される民意によってのみ決められるべきだ。そのためには選挙民たる国民には「良い人だった」というプロパガンダだけではなく全方向からの分析が判断材料として提供される必要がある。

 改めて凶弾に倒れた安倍晋三氏に追悼の意を表し、黙祷する。その上で、我々はテロに屈しない国民であることを証明する必要がある。

 自由意志をもって選択し、投票をという形で己の意志を示すこと。

 明日は選挙です。選挙に行きましょう。それが、テロに対する最も強力な「屈することはない」という意志表示になります。

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