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カテゴリー「芸能・アイドル」の9件の記事

2010.07.25

盆踊りに演歌、替え歌

 日本において、ある事物がブームになったと判断しうる3つのポイントがある。

1)盆踊りの音頭になる。
2)演歌になる。
3)替え歌が流布する。

 ありました、はやぶさ音頭。


 ファンキーだなあ。ちなみに、飛び出したのは種子島ではなく内之浦。これは重要。

 実はイラストレーターの小林伸光さんが作った歌詞もあるので、以下に掲載する。

はやぶさ音頭 作詞:小林伸光

速い 速いよ イオンの流れ
やっと 来た 来た 小惑星
ブワッと 着陸 サンプル取って
さっと 帰ろう 故郷に

はっと しました ホイール故障
やった 置いたよ マーカーを
ふわっと 着陸 したいけど
さすがに 姿勢が 崩れたよ

入っているのか サンプルは
ヤバイ 漏れたよ ヒドラジン
普通の 帰還は あきらめた
三年 待ってよ 皆の衆

入ってきました ビーコンが
やってみました キセノン噴射
2つの イオンエンジンを
最後の手段で つなげたよ

はるばる 60億キロを
やっとの思いで たどりつく
ブルーに輝く 故郷の
砂漠の上で 流れ星

 もう一つ、小林さん作詞の演歌。

はやぶさ迎え酒 作詞:小林伸光

おまえ思って 飲む酒は  
空を見上げる 迎え酒  
その身は遠く 離れていても  
健気な姿が 目に浮かぶ
涙こらえて ほほえみを 
帰っておいでよ 愛の星 
みんな待ってる 青い星
 
夜空旅して ただ一人  
流れ流れて 遠い星  
今は傷つき くたびれ果てて
涙の雫も 枯れたけど
貴方の声が 聞けたから 
守ってきました 愛の花 
きっと見せます 流れ星  

ひとり偲んで 飲む酒は  
夜空見上げる 迎え酒  
今はその身は 消えようと 
涙の向こうに 明日を見る  
おまえの姿が そこにある 
帰ってきたんだ 流れ星  

 2005年のタッチダウン時に、漫画家のあさりよしとおさんが作った替え歌もあるので再掲載する。これら、誰かボーカロイドに歌わせて、ニコ動にアップしてくださいな。

蒲田行進曲のメロディで 替え歌:あさりよしとお

アステロイド 光の港
未踏の天地

星の姿 星間物質
凍るるところ

カメラの目に映る
モノクロの像にさへ

青春燃ゆる 生命は躍る
未踏の天地


 替え歌はすでにこういうのもある。


2009.06.15

アイマスMadふたたび

 前回ニコ動のアイマスMadを紹介したのはいつだっけ、と調べてみると、昨年の大晦日だった。

 というわけで以下はこの5ヶ月半ほどの間に見つけてブックマークしておいたアイマスMadを紹介する。


 フェリーニPの作品。この半年ほどで一番気に入ったアイマスMadである。キャラクター達とロイ・リキテンスタインのポップ・アートの組み合わせが意表を突く面白さを生み出している。音楽の選択もぴったりだ。


 同じくフェリーニPによる、同じ「ドゥーピータイム」を使った作品。キャラクターらによるファッションショーという趣向で、これまたなかなか。


 「im@sclassic」からは、まずmoguPの作品。繊細で美しい映像だ。冨田勲の「月の光」でアイマスキャラのひとり、水瀬伊織が幻想的に踊る。


 我が道を行くカルミナPの新作は、なんと三善晃の吹奏楽曲だった。複雑なリズムの曲に、三色の衣裳をコーディネートしたセンスが光る。


 つかさPの作品。これもなんでこの程度の再生数に留まっているのか良く分からない傑作。1980年代のミュージックビデオを思わせるストーリーを伴う映像だ。


 同じくつかさPのこれまた素晴らしく切れの良い映像だ。再生数が伸びているのは「 音m@s撫子ロック祭」というイベント合わせの作品だかららしいが、それとは関係なく大変優れた演出だと思う。


 もう一本、「 音m@s撫子ロック祭」の参加作品から。wacわくPの作品。同じ曲を使っても、これだけ異なる映像に仕上がるという例。シルエットを使ってほどよく抽象化された美を展開する。


 ナオキPによるこの作品は、大分以前に投稿されアイマスMadの世界では傑作と評価されていたそうだが、私は最近まで知らなかった。スローモーションを多用する独特の映像美学の持ち主だ。

 色々とアイマスMadを漁って思うのだが、投稿された作品の質と再生数はある程度関係するものの、基本的には別らしい。「なんでこんなに素晴らしい作品が」と思うものが、再生数が伸びていなかったりする。
 再生数は話題になったかどうかのバロメーターなのだろう。つまり話題になってわっと再生が伸びるということと、作品として優れているかどうかは、あまり強く相関していない。

 これは大変にもったいない話だ。ニコニコ動画は「みんなが見ているものを見る」のではなく、「優れたものを自分で探す」という態度でいれば、非常に素晴らしい作品に出会える場所なのだから。



 最後にネタ動画を。「家具の音楽」として有名なサティの「ヴェクサシオン」に、実にそれっぽい動画をつけたもの。さあ、これを840回繰り返して聞いてみよう。私はイヤだけれども。

2009.01.18

ニコニコ動画の影響力、遂に中国に及ぶか?

 うははははは。こ、これは!…面白いじゃないか。

 もちろんオリジナルは、初音ミク初期の大ヒット作である「みくみくにしてあげる♪」

 どこから見つけてくるのか、どうやって録音しているのかは知らないけれども、よく見つけてアップする人がいるものだ。これがネット時代というものなのだろう。「日本のものをパクっても、向こうには伝わらないから大丈夫」から、「あっという間に伝わって笑われる」へ。

 ただ嘲笑するのも芸がないというか、笑いが足りないというか、すでに「偽音シナ」なるタグが付いているので、後は誰か絵の描ける者が、みんなが納得する萌え系「偽音シナ」の絵をかけば、ここにもう一人、ボーカロイド派生キャラ一丁あがりということになる。

 同じく派生キャラクターの亞北ネル誕生のエピソードを思い出す話だ。こんな経緯だったのですよ。

 この件、単に「だから中国は」というヒステリックな嫌中ネタにせずに、是非とも笑いと共に向こうにボールを投げ返したいものだな。

 中国人——とひとくくりに考えてはいけないぐらい、向こうは人種も社会階層も多様なわけだが——少なくとも向こうのネットユーザーには、「こういう情報は、あっという間に世界を流通してワールドワイドにお笑いを増幅していくぜ、どうするよ?」というところをぶつけてみたいところではある。

 そもそも「みくみくにしてあげる♪」はニコニコ動画で生まれたヒット曲なのだから、出自の時点でJASRAC流のがちがちの著作権管理とは異なる、著作権的にはゆるいところがあるわけだ。

 では、この中国版パクリのどこがいけないのかといえば、「オリジナルに対する敬意なしに、ものすごく安易に『日本で流行っているものをちょっともって来ればこっちでも受ける』と考えている」らしきところだろう。要するに志が低いのだ。
 自分たちの頭を使って、もっとひねりを入れればよかったのに。


 このあたりのパクリについては、日本も中国のこと言えた義理ではなくて、日本のポップス歌謡曲の世界が、かつては(今も??)洋楽からのパクリいっぱいであったことは、割と知られているところではある。
 
 個人的に今でも忘れられない件としては、ニック・カーショウの「The riddle」が流行ったら、小泉今日子がそっくりというのも愚かな程にそのものの「木枯しに抱かれて」を歌ったなどということもあった。1986年の話である。
 これは、ひどかった。本当にひどかった。作曲者は誰かと思えば…なんだ、「THE ALFEE」の高見沢俊彦ではないか。

 個人的にインパクトの強かった件を、思い出すままに書き出すと、リプチンスキーが、アナログ時代のハイビジョン合成を駆使した映像絵巻「オーケストラ」を発表したと思ったら、日本のCM業界に「オーケストラ」もどきの合成映像が溢れたとか(これは1990年頃)、三善晃の「ピアノソナタ」の第2楽章冒頭は、アンリ・ディディユーの「ピアノソナタ」第2楽章冒頭とそっくりだとか(1965年のことだ)。
 「レスペクト」とも「パクリ」とも、「傾倒するあまりについつい似てしまった」とも付かない事例はいくらでも存在する。

 「学ぶ」の語源は「真似ぶ」なんだそうで、真似を排除すると次の世代が育たない。とはいえ、安易なウケを狙っての志の低い真似は、「そういうのは軽蔑されるぜ」という雰囲気を作っておくのは悪くない。

 13億を超える中国で、ネットユーザー人口は2億を超えているとのこと。この2億の中は、それなりにきちんと思考する人々がいる——私は、日経ビジネスオンラインに遠藤誉さんが書いた「開幕式の「まやかし」が傷つけたもの ネットに溢れる中国国民の怒り」という記事を読んでから、そのように考えるようになった(日経ビジネスオンラインの全文を読むには、無料登録が必要である。私としては、遠藤さんの記事が読めるだけでも、登録する価値はあると考えている)。

 まあ…日本のネットも玉石混淆なのだから、向こうは人口が多い分、もっと玉石混淆なのだろうが——それにしても、今回の件をうまく笑いで投げ返すとどんな反応が出るのだろう。そして、そんなドタバタを繰り返しながら、ネット時代は進んでいくのだろう、ね。


22:15追記:さっそく来た来た。

 この調子、この調子。

19日5:00追記:どうやら、単なるパクリではないという雰囲気になっている。

ニコニコ大百科:偽音シナ(コットンファーザーアキヨシ)

コットンファーザーアキヨシとは、長渕がいつも一人でいると思っている中国人(らしい)人である。

概要 

事の発端は2009年1月18日に投稿された動画(sm5874126)である。

中国語放送のラジオ番組「ニコニコ大ニッポン語FM」にて「みくみくにしてあげる♪」に似た曲が
歪みなく歌われている。
どういうことなの・・・

 当初はパクリだとして「偽音シナ」との蔑称がつけられたが、動画内で明確に「ニコニコ」と
聞き取れる部分があるため、歌いやすくアレンジされた「歌ってみた」シリーズの可能性もあり、
今後の経緯が期待される。
編集者が表示用記事名を直そうとしたが無理だった。仕方ないね。

 ニコニコ動画が4カ国語対応になったことを考えると、アレンジバージョンの登場は
やや遅くさえ考えられる。

正しい歌詞なのか、どのような経緯で歌われたのかはまったく不明。シャランQのファンらしい。
あまり裕福ではないらしく、生のピーマンを食べたり、「食材があるときに食事にする」と発言し、
サンタマン(サンタクロース?)のプレゼントを期待しているようだ。歌詞も食べ物についての内容が多い。

 いやもう、ネットでは話が早いことよ。

19日23:OO追記:そもそも元の動画が中国のラジオ放送を模した偽造だということが明らかになった。

ニコニコ大百科:偽音シナ

事の発端は2009年1月18日に投稿された動画(sm5874126)である。

「みくみくにしてあげる♪」に似た曲(通称「ニコに関して頑張る♪」)が歪みなく歌われている。

会話部分の音源はニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の学内放送であるWUSBの
「China Blue」という中国人向け番組で流れたもの。
番組表

しかし元音源(Youtubeより引用)の4:02~4:23あたりのDJコメントに後から曲を乗せ編集されている。
つまりラジオ放送において「ニコに関して頑張る♪」が歌われたという事実はない。

動画タイトルと投稿者コメント以外に情報がない現状では「中国に対する差別感情を煽る」という意図しか
伝わらない釣り動画という評価が妥当である。投稿者も現在まで一切コメントしていない。。

 「「中国に対する差別感情を煽る」という意図しか伝わらない釣り動画という評価が妥当」ということで、たちの悪い歪んだいたずらということで落ち着きそうだ。

 それにしてもあっという間に関連動画がどんどんアップされるのは相関だ。しかもそれらが「また中国www」的なものではなく、きちんと笑いを取ろうとしたものだったのは良かったと思う。とりあえず元の動画をアップした者には「釣り乙」ということで、いいのかな。

2008.12.31

アイマスMadに魅せられて

 昨日NHKで高専ロボコン全国大会を見た。
 NHKの腐敗もここまできたか。

 鹿児島高専が「篤姫」ネタで来たからといって、それに10分以上の時間を割き、あまつさえ本編の映像まで流すとは。ここはいくら「宣伝になる!」と算盤を弾いたとしても、さらりと流すのが公共放送の矜持だろう。

 そして、ゲストが全員邪魔。私は高専生と彼らの作ったロボットとその戦いが見たいのであって、稲垣吾郎がマスタ・スレーブに驚く様を見たいのではない。全試合バージョンを、新年1月2日の午前10時15分〜午前11時44分でBS-2で放送するとのこと。ゲストの出演を切れば、全試合を地上波で放送できたろうに。

 年末に紅白歌合戦などを見るよりもニコニコ動画で過ごした方が数等ましというものだろう(結局それかい)。以下、というわけで、初音ミクを離れて「アイマスMad」の話。

 ニコニコ動画の三大勢力は、初音ミク以下のボーカロイドに「アイドルマスター」、そして「東方」なんだそうだ。東方というのは、一連の「東方●●」という名前の同人シューティングゲームで、その音楽が格好良いということで追従者を生み、一連の「東方系」と呼ばれる音楽ジャンルを形成したらしい。「…らしい」というのは、私はあまり東方系の音楽がピンとこないので、きちんと聴いていないのだ。

 そして「アイドルマスター(THE IDOLM@STER:通称“アイマス[im@s]”)」はナムコ(現バンダイナムコ)の開発したゲームで現在はXBOX360用に販売されている。音楽プロデューサーになって女の子キャラクターを一流アイドルに育てるという育成ゲーム。
 特筆すべきは、3Dグラフィックスで踊る女の子達が、いわゆる「不気味の谷」をうまい具合にごまかして、それっぽく、かわいく見えること。そこで、ゲームマシンからの画像をパソコンでキャプチャーして、あれこれ加工して別の意味を与えた「Madビデオ」がニコニコ動画に氾濫し、現在に至るというわけだ。

 この「アイマスMad」達、もちろん玉石混淆なのだが、選んでみていくとアマチュアとは思えないほどの高品位の映像作品が見つかったりもする。私の場合は、「im@sclassic」というタグを見つけたことが、この世界に踏み込むきっかけだった。


 「im@sclassic」タグから、このカルミナPの作品を見つけたのだった。正直、独自の美意識を貫徹した出来映えにびっくりした。ラヴェルの「クープランの墓」から他の5曲ではなく「トッカータ」を選んだ選曲眼から始まり、ビデオ編集で独自の映像美を生み出しているところとか、後半の音楽の使い方など、どこから見てもこれはパロティ系のMadというよりも“作品”と呼ぶに相応しい。
 

 カルミナPの名前の由来は、初期にカール・オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」の曲を使った作品をまとめて投稿していたことらしい。この作品も、なんとも表現に困る面白さがある。朗々と歌い上げるフィッシャー=ディースカウの声が、かくもぴったりと踊る女の子達の映像がはまるとは。


 カルミナPの場合、選曲も渋いというか、「よくこれを選ぶ!」と感嘆することが多い。これもそうでバルトークのバレエ音楽「中国の不思議な役人」(Wikipedia)を使っている。このバレエが、どんな筋かを知った上でこのビデオを見ると、音楽と映像との落差にくらくら来る。


 これまた無茶苦茶渋い選曲。そして音楽と映像が見事にマッチしている。

 カルミナPの作品で味をしめた私は、せっせとアイマスMadを発掘することになったのだった。もちろん再生数はあてにならない。信じるは己の感性と勘のみだ。自分が面白いと思うものを、タグや本人説明などのちょっとした手がかりで探し始めたのである。


 ごく普通のアイマスMadは好きな音楽に合わせてお気に入りのキャラクターの踊る映像を組み合わせるというもの。これは正統派の作品だと思うが、ビデオ映像の作り込みが半端ではない。「世の中にはセンスのある人がいるんだなあ」と、感嘆しつつ「俺にはできねえ」と自分の卑小さにがっくりくる動画ではある。


 うはは、こんなものまであるとは。なんだか子供の頃に戻って「シャボン玉ホリデー」を白黒テレビで観ている気分になってくる。オリジナルの映画は筋としては大して面白くなかったが、空撮まで使った大がかりな映像と、ラストの円谷英二が指揮したという大爆発シーンが印象的だった。
 この森江春策Pは、どうやら推理作家の芦辺拓氏らしい。50歳を過ぎてアイマスMad作成でニコニコ動画生活とは、なんとも若々しい。


 いやもう、この堂々たるレトロっぷりは素晴らしいの一言に尽きる。


 もうひとつレトロ路線で。画用紙に柔らかめの鉛筆で書かれたと思しきイラストに独自の味わいがある。アストロPはレトロ一辺倒というわけではないのだけれど、妙な雰囲気のある作品を次々に投稿している。


 同じくアストロPの作品。ストラヴィンスキーの「春の祭典」。大混乱を引き起こした1913年の初演時に、ニジンスキーが付けた振り付けの再現映像と組み合わせるとは…良い意味であきれてしまう。


 一方で、これだからなあ。掛け値なしで、紅白歌合戦よりも面白いと思うぞ。


 コンロン・ナンカロウの一発アイデアの傑作「習作21番」にその通りの映像をつけた作品。
 これはちょっと説明の必要があるだろう。コンロン・ナンカロウは20世紀アメリカの作曲家だが、共産主義者だったことが災いし、アメリカを出てメキシコに住まざるを得なくなった。メキシコに住み着いた時、彼の手元にあったのは、ロール紙に空けた穴の通りに演奏する自動ピアノだけだった。
 ところが彼はそれを逆手にとって、「人間ではとても演奏できない、自動ピアノでしか演奏できない音楽」を作り始める。「習作21番」はその代表作。基本的に上声下声の2声部から成るポリフォニーなのだけれど、上声部と下声部のテンポが異なっている。上声部は無茶苦茶な速さから徐々に徐々にテンポがゆっくりになっていき、下声部はゆっくりとしたテンポから徐々に速くなっていく。曲の真ん中で2つのテンポは交差し、最後で上声部はゆっくりに、下声部は滅茶苦茶に速いテンポとなって終わる。
 アイドルマスターには亜美と真美という一卵性双生児のキャラクターが出てくるが、この作品は、2人のダンスをそれぞれ、スローモーションから高速再生に、逆に高速再生からスローモーションにと加工して、「習作21番」と組み合わせているというわけ。
 確かに「習作21番」を知っていれば、割と思いつきやすいアイデアだとは思うけれども、それにしても本当にやってしまうとは…

 というわけで当blogの2008年は(NHKのロボコン番組より面白い)ニコニコ動画とアイドルマスターで終わるのだった。

 皆様、良いお年を。2009年も引き続き当blogをよろしくお願いいたします。

2008.10.23

JPOPのワンパターン

 もうすこし音楽の話を。

 最近、JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話という記事が話題になっている。

 30年前に和声法の勉強を途中で放り投げた私でも、これは理解できる。

 問題のコード進行は、IV△7→V7→III7→VIというもの。サブドミナント→ドミナントと動いて、基本ならばその後に主和音が来るところを、主和音の根音を抜いてさらに上に7thを重ねて調性を曖昧にしたIII7をもってきて、短調であった場合にはIII和音がドミナントの役割を果たすことを使って、短調の主和音であるIVにもってくるというわけだ。

 記事では「メジャーとマイナーの中間を漂う浮遊感」と書いているけれどもまさにその通り。

 以下自分なりにもっと簡単な説明を試みてみよう。

 長調とか短調といった調的な音楽の場合、「こういう風に和音が並ぶと音楽がきちんとしめくくられるような感覚を聞き手に与えられるぞ」という和音の並びがある。

 その一番基本となる並びが、IV→V→Iというものだ。

 一番簡単なハ長調、ピアノの白鍵だけでドレミファソラシドの音階で説明すると。Iというのはド。同時にドの上に音階の音を3度で積み上げたドミソの和音を意味する。IVというのはドから数えて4つ目の音であるファであり、同時にファの上に積み重ねたファラドという和音である。同様にVは5つめの音であるソでありソシレという和音のことだ。

 この3つの和音は主音であるドを中心に音程でいうと5度の関係にある。5度というのは鍵盤5つめの音だと思っておいてもらいたい。

 ドから上に5度がソ、下に5度がファだ。

 ドの主音に対してソを属音(ドミナント)、ファを下属音(サブドミナント)という。これら3つの和音が、長調における一番基本の和音であって、そのまた一番基本の並びが、ファラド、ソシレ、ドミソ、つまりIV→V→Iなのだ。

 細かい理由は抜きにするがV和音はもうひとつ音を積み重ねてソシレファとして使うことが非常に多い。記号で書くとV7である。

 さて、ここでドレミファソラシドの長調は、音階の出発点を変えるとラシドレミファソラの短調になる。主音はラになるわけだ。ここでもさっきと同じ5度の関係を作ることができて、ラドミの主和音に、ミソシのドミナント、レファラのサブドミナントが存在する。これでさっきの長調と同じ基本の和音の並びを作ると、レファラ、ミソシ、ラドミ、となる。記号で書くとII→III→IVだ(本当はもっともっと色々あるのだけれど、とりあえずは省略)。

 ここで、問題の和声進行「IV△7→V7→III7→VI」に戻る。7とか△とかは、簡単に言えば和音に独特の彩りをつけるフレーバーみたいなものだから、とりあえず無視する。するとこの和声進行は「IV→V→III→VI」となる。ハ長調の音階で書くと、ファラド、ソシレ、ミソシ、ラドミ、となる。

 これを、一番基本となる和声進行「IV→V→I」と比べると、IV→Vと来たものが、Iに行かずにまずIIIに行ってしまっている。Iはドミソ、IIIはミソシだから、音は2つ共通だ。でも肝心かなめの主音であるドがなくなってしまっている。
 これは聞き手の耳の印象からすると、「あれ?ドが鳴って音楽が一段落付くはずが、なんか落ち着かないぞ。でもミとソは鳴っているよな。一段落ついたようなつかないような変な気分だぞ」ということになる。

 そしてIIIの和音は短調で考えるとドミナントだ。だから短調の基本の和音の並びに従って、次は短調の主和音VIとつながる。

 すると聞き手の耳は「あれれ、ここまで長調だと思っていたけれども、短調で収まりよく音楽が落ち着いちゃったようだなあ」と感じるわけだ。

 人間の耳は和音一つや二つ程度の音の並びでは「これは長調だ、短調だ」と断言することができない。せいぜい「なんか長調っぽいぞ、短調みたいじゃないか」と感じる程度である。つまりこの和音の並びは、それまで長調で来た音楽に一瞬長調と短調との間で、宙ぶらりんになった印象を与えることができる。

 その一瞬の曖昧さが、日本人好みである、というわけだ。

 もちろんこの和声の並びに引き続いて本格的に短調に転調してしまってもいいわけだが、JPOPはそうはせずに、また長調へと戻っていく。長調基調の曲に一瞬の曖昧さを与えるためにこの和声進行を使っているというわけである。ほんの一瞬、ウエットな印象の短調へと音楽が振れるのを「なんかいいなあ」と感じているのだね。

(ということでよろしいでしょうか、大澤先生!)

 やあ、いいことを聞いたぞ。この和声進行を使って、次は自分がヒットメーカーだ!――ではなくて。

 JPOPは、この和声進行が聴衆から受けることに気が付いた結果、「なんでもいいからこの和声進行を使っちゃえ。そうすれば売れる音楽を量産できて儲かるぞ」という思考停止に陥ってしまったということなのである。

 音楽というのは面白いメディアで、こういう安易さはじわじわと伝わる。特に色々な音楽を多数聴き込んでいる人ほど、敏感にこの手の「ま、こんなもんだろ」的な音楽作りに気が付く。つまり趣味の良い分かった聴衆ほど「けっ、ふざけんじゃねえや」と、離れていって、後にはあまり耳を鍛えていない、普段は音楽をマニアックに聴くことがない人が残っていくことになる。

 もちろん商売としては一部マニアよりも大多数を相手にしたほうが儲かるわけだから、当面はそれでもそろばん勘定は回っていく。だが、何度も繰り返せば、いかに「普通の人」であっても、徐々に気が付いていくのだ。

 同時に「普通の人だけ相手にしてりゃいい」的態度は、作り手の中から真剣さを失わせる。どんどん安易へと流れていくのだ。

 私はクラシックマニアであり現代音楽オタなので、JPOPが滅亡しても全く痛痒を感じないし惜しいとも思わないのだが、それでも「少しは考え直したほうがいいのじゃないか」と思う。かつて演歌が大ブームの後に同様の思考停止に陥って衰退したことを考えると、音楽ビジネスの維持のためには今のうちになんとかしたほうがいいのは明白だ。

 もっとも、過激に言ってしまうならば、JPOPなどというものが高収益ビジネスとして回転している状況のほうがどうかしているのかも知れない。音楽なんてものはほっといても作り手の中から泉のごとくあふれ出てくるのが本来であり、それは作り手の衣食住を支えれば十分だったはずだから(クラシックの世界の食えなさっぷりを考えると、ね)。

2008.04.07

書籍紹介:「音盤考現学」(片山杜秀著)


 音楽評論家の片山杜秀氏の本「音盤考現学」が出た。主に明治以降、日本人が西洋音楽と格闘し、作り上げてきた音楽について縦横無尽に語っている。



 本日読了。これが無類に面白かった。



 コンテンツが社会においてコンテンツとして機能するためには、「そのようなコンテンツが存在する」ということをある程度の数の人が知っていなくてはならない。

 知られていない情報は存在しないのと同然だ。J-POPの存在を知らない人は、そもそもJ-POPを聴こうとはしないし、「誰か他の歌手」と聴き進むこともない。



 この点でクラシック音楽はその他の音楽に比べて決定的に不利である。まず一曲一曲が長い。音楽の理解には繰り返し聴くことが必須だが、一曲が長いと自ずと繰り返しの回数は減る(マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」の冒頭は、映画「エクソシスト」のテーマ音楽となったので誰でも知っているだろう。では、あの素晴らしい「アンド・チューブラー・ベルズ!」というナレーションと共に高揚する第一部のラストはどうだろうか)。



 多くの人々に耳に音楽を届けるためには、テレビ・ラジオのような放送メディアでのヘビー・ローテーションが有効だが、曲が長ければローテーションの回数も減る。もちろん放送メディアは商業メディアであって、番組の枠を超えるような長い曲をそうそうかけることはできない。

 繰り返しができないから、ヘビー・ローテーションがかからない。ヘビー・ローテーションがかからないから、ますます知られない。知られないから、ヘビー・ローテーションにはならない。じり貧だ。



 ましてや邦人のクラシック系の曲となると状況は絶望的である。伊福部昭の音楽が人口に膾炙するまでに、ゴジラをはじめとした多数の映画音楽、そして30年近い時間が必要だった。



 従って、この分野は音楽評論家の役割が非常に大きくなる。単に演奏がいいとか悪いとかではない。その曲の魅力を的確にえぐり出し、知識のパースペクティブの中に曲を位置付け、読者を「この曲を聴いてみないか」と誘惑する、メフィストフェレスのような評論家が。



 片山氏の文章は、読者に対して「ほーら、これは面白いよ、聴いてごらん」と誘惑する力が非常に強い。その力の一部は、彼自身が邦人作曲家の音楽が大好きだという熱意にある。なにしろナクソスの「日本作曲家選輯」では、目が爆発するほど小さな活字にもかかわらず、CDケースが破裂するようなぶ厚いブックレットが必要になる、長大な解説を毎回書いているのだ。



 しかし、それ以上に重要なことは、彼が蓄積した膨大な知識だ。一つ一つはトリビアとしか思えない知識を組み合わせ、あっと思わせる構図を描いてみせるのである。



 團伊玖磨のオペラ「ひかりごけ」に刻印された三島由紀夫の姿を読み解いてみたり、東宝映画「大阪城物語」に伊福部昭がつけた音楽から、明治のお雇い外国人ルルーが作曲した「分列行進曲」を読み取り、その上で日本近代史において「分列行進曲」が表象したイメージを語り…あるいは社会主義リアリズムと戦前の大日本帝国が作ろうとした「国民詩曲」を並べて、その中に外山雄三を位置付けてみたり——片山氏の筆は縦横無尽に飛び回る。そして気が付けば「おおお、この曲が聴いてみたい」と思わされているのだ。



 思い出せば、私が邦人作品を聴き始めた30年以上昔、何人もの優れたメフィストフェレス的評論家が筆を振るっていた。



 札幌で同級生だった伊福部昭を作曲の道に引き込んだ“特大のメフィストフェレス”三浦淳史は、まだまだ現役で記事を書いていた。武満徹を語らせてはピカイチの秋山邦晴も元気だった。船山隆と武田明倫は新進の評論家だったし、ラジオをつければ柴田南雄がとつとつとしゃべっていた。私は彼らの文章を読み、ラジオ解説を聴き、NHK-FMの「現代の音楽」をエアチェックした。



 その後、しばらくの間、メフィストフェレス的評論家の系譜が絶えていた(そういえば秋山邦晴の訃報を、私は種子島でH-IIロケット4号機を見送った日に聞いたのだった)。



 さあ、片山杜秀という久し振りに出現した“特大のメフィストフェレス”の語りを読んで、「うう、この曲が聴いてみたい」と身もだえしてみよう。私がせっせと音楽を聴き進めていた30年前に比べれば、状況は大分良い。大抵の曲は、アマゾンでクリック一発。アマゾンになくとも、ほぼ間違いなくTower RecordやHMVには在庫がある。ものによってはiTunes Music Storeで見つかるだろう。

2005.10.02

のまねこ炎上中

 のまねこ問題は、解決どころかますます炎上している。図ってやっているとしか思えないタイミングでエイベックス側が新たなトラブルを起こし、それがますます2ちゃんねる、ネットワーク側を刺激しているためだ。

 詳しくは エイベックスのまネコ問題まとめサイト を見るといいだろう。当ページもリンクされてしまった。おかげで現在、アクセスが小爆発している。

 この件に関して、2ちゃんねるに殺人予告が書き込まれ、エイベックスが警察に訴えた。ところが2ちゃんねるが公表した書き込みのIPアドレスはUSEN、つまりエイベックス筆頭株主の会社のものだった。
 USENはプロバイダーなので、これをもってすぐにエイベックスの自作自演と決めつけるべきではない。警察は捜査権を持つので、いずれ真実が明らかになるだろう。

 9月30日の書き込み以上に、私からエイベックスについて言えることはない。
 しかし、音楽業界全般として考えると、今回の事件は古い体質とネットという新しいメディアが衝突した事件と捉えることができる。

 ポピュラーミュージック業界は、ヒットすれば天国、しなければ地獄という状況の中、何年にも渡ってヒット至上の体質を育ててきた。ヒットするためには何をしてもいいというアウトロー体質だ。その中には剽窃も含まれる。過去にも洋楽からのパクリはあれこれ指摘されてきたが、一向に改まる風もない。

 今回はその「パクリオッケー」な業界体質と、インターネット時代の「コモンズ(共有知的財産)」の概念とが衝突していると言えるのではないだろうか。今回の件をただの「吉牛と同じ2ちゃんねらーのマツリ」と思っていると、事の本質を見損なう気がする。

2005.09.30

のまねこ騒ぎ、決着の報を聞く

 本日、たまたま外苑前のエイベックス本社前を通ったところ、右翼の宣伝カーがなにかをがなっていた。しきりに現社長を糾弾しているようだ。
 おや、のまねこ絡みだろうか。2ちゃんねらーどころか、インターネット・ユーザー全体を敵に回そうかというような同社の拙い対応は、ついに右翼まで引っ張り出してしまったか。そう考えつつ帰宅すると、エイベックスがのまねこの商標登録を取り消すという報道が出ていた。当たり前の結果といえるだろう。

 それでも、今回の騒ぎでネットには同社の看板である浜崎あゆみとマドンナの類似を指摘したページができて、それなりのページビューを集めているわけで、エイベックスという会社がネットユーザーの間で「何をするかわからない行儀悪い会社」として認知されたのは間違いないだろう。

 現役記者生活の最後の頃、1999年始めだったろうか、エイベックスを取材したことがある。当時、同社は音楽分野で快進撃を続けており、取材に応じた依田巽社長は素晴らしく勢いが良かった。ちなみに依田氏はあまりに収益優先の姿勢を嫌われ、後にお家騒動で追い出されることになる。

 実のところ、そのときの取材は、映像コンテンツ業界を追っていた後輩記者に付いていっただけだった、このため話の内容はさほど覚えてない。ただインタビューの最後のほうで依田社長は、「これからはアニメも力を注ぎます」と言ったのははっきりと覚えている。「アニメのキャラクターは出演料が要りません。高収益が見込めるビジネスです」。

 その、あまりにビジネス優先の姿勢に少々鼻白んだが、それでも今後の展開を聞いてみた。依田社長からは「これから強力にプッシュしていきます」という2つの具体的作品名が出てきた。

 すなわち「OH! スーパーミルクチャン」「トラブルチョコレート」

 後で作品を見て、私が「エイベックスは映像作品に出ていかないほうがいいな」と考えたのは言うまでもない。

 その後も同社は「サイボーグ009」に出資したりしていたが、どうもぴんとこなかったという印象だ。今回の騒ぎも、私から見ると「やはり映像でミソつけたか」というところである。


#10月1日追記
 どうも「決着」というのは間違いのようだ。コメント欄にもあるように、エイベックスが撤回したのは「のまねこ」という名称の全く別のグラフィックの申請で、実際ののまねこのグラフィックスは「米酒」という名称で申請されているという。もしそうなら、かなり姑息な手段で収束を図ったということになる。
 その他、松浦真在人現エイベックス社長が、mixiで肖像写真を使ったmixiユーザーに「訴える」とメッセージを送ったり、ますます事態は混沌としているようだ。

2005.09.08

残暑に、渡辺美里の歌が耳の中で蘇る

 台風一過の素晴らしい晴天、温度計の目盛りも天井知らず。9月だというのにだらだら汗を流しつつ、東京某所へ。深刻な顔であれこれ意見交換。

 夏で思い出すのは、「チューブ」だったり「サザン・オールスターズ」だったり。「ブルーハーツ」なら暑苦しさ倍増だ。

 私の場合は渡辺美里。ただしその記憶はほろ苦い。

 デビューからしばらくの彼女は、全身全霊で歌っていた。「18歳のライブ」とか「My Revolution」だったり「Teenage walk」だったり。その没入っぷりは、危ういほどだった。
 尾崎豊に感じた危うさと同じだ。「このままティーンズのカリスマになって死んでしまうじゃないか」と思わせる、人間としての未熟さを未熟なまま昇華させてしまうような、そんな危うさがあった。「死んでいるように生きたくない」などは怖いほどの迫力ではないか。

 だからこそ、なのだろう。その歌は魅力的だった。18歳でデビューして「eyes」「Loving you」「BREATH」「ribon」と年1枚ずつのアルバムが続く。突っ走っているとしかいいようがない。
 その頂点となるアルバムが5枚目の「Flower Bed」(1989年)だと思う。特にラスト、大江千里が提供した「すき」は、ちょっとした個人的思い出もあって、私にとっての永遠の一曲である。

 おそらく「Flower Bed」と次のアルバム「tokyo」(1990年)の間で、何か心境の変化があったのだと思う。「tokyo」で、彼女は歌う主体である自分と、歌との間に距離を取り始めた。有り体に言えば全身全霊では歌わなくなった。
 「tokyo」には「サマータイムブルース」という曲が収録されている。世間的には名曲とされているけれども、私はこの曲を聴いたとき、渡辺美里のアルバムを買う意味はなくなったと思った。なぜなら、この曲は「ブルース」と銘打ちつつも全然音楽はブルースではなかったから。
 こういう曲名の嘘は、かつての彼女がもっとも嫌うものではなかったか。そう私は勝手に思いこんだのだった。

 おお、松浦よ。「ミサトちゃん、純粋じゃなきゃイヤだーい」とでも思ったか?

 うん、そうかも知れない。

 それでも7枚目のアルバムである「LUCKY」(1991年)までは買った。収録された「卒業」を聴いて、「もういいや」と思った。

 渡辺美里は、初期に「さくらの花の咲く頃に」(「ribon」収録)という卒業をテーマにした曲がある。これは本物の名曲だ。個人的には村下孝蔵の「初恋」を超えていると考えるほどである。
 一方「卒業」は、明らかに卒業シーズンの高校生あたりに受けるという意図をもって作られていた。「みんな、卒業式で歌ってねー」だ。
 それは全身全霊では決して歌えない曲だった。

 私は渡辺美里のアルバムを買うのを止め、後には5枚のCDという形で、全力を持って駆け抜けた女性歌手の記録が残った。

 それは本人にとって幸せなことだったのだろう。人間は年を取る。いつまでもティーンエイジャー向けの歌を全身全霊で歌うことはできない。強いて全身全霊であろうとすると、袋小路が待っていて、場合によっては死に至ることだってある。

 誰だって大人になり、成熟しなくてはならないのだ。

 渡辺美里は尾崎豊のように死なないで済んだ。多分に成熟を選び、歌い方を変えたからなのだろう——そう勝手に考える。そろそろ40歳近くになるまで歌い続けられたし、西武球場でコンサートを続けることだってできた。

 でも、私にとっての渡辺美里は初期の、針で突いたらはじけてしまいそうな、若くて危うくて本気と元気一杯の渡辺美里なのである。

 アマゾンにリンクしようとしたら、ありゃ、「BREATH」と「Flower Bed」は廃盤になってしまっているのか。この2枚こそが素晴らしいというのに。とりあえず、初期CDへのリンクを掲載しておく。


 デビューアルバム。「死んでいるように生きたくない」「18歳のライブ」など、危うさと元気が共存している。あるいは聴く人を選ぶかも。特定の年代、特定の気分の人が聴いてこそ意味があるアルバムかも知れない。




 2枚組。「My Revolution」「Teenage Walk」など。表題作「Lovin' you」は見事なバラードだ。




 このアルバムも名曲揃い。「センチメンタルカンガルー」「恋したっていいじゃない」「さくらの花の咲くころに」「悲しいね」「10years」と来る。くうう、甘酸っぱいぞ。