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カテゴリー「心と体」の3件の記事

2013.05.11

BD-Frog:肩にずしっと来るというのはどういう状態なのだろう?

Frognogawa

 気候がよくなってきたので、ほいほいと輪行に出かけるようになった。そこで気がついたこと。
 BD-Frogは、タイヤをKidsPlusに交換したことで、80gほど軽くなった。この80gが、予想以上に効いている。具体的には、輪行バッグを肩からかけた時の圧迫感がはっきり分かるぐらい軽減した。これまでは随分と軽量化したが、まだ肩に響くなあという感じだったのが、普通の肩掛けカバンのようにすいっと持ち上げられるようになった。
 たった80gなのに、これは一体どういうことか。サンプル数1で比較対照群なしの、あてにならない“実感”でしかないが、とりあえず考えてみる。
 ひょっとして「重く感じる感覚」とか「肩にずしっと来る感覚」というのは、重量に対して線形なものではなく、どこかに境目があって、それよりも軽ければぐっと軽減されるものなのだろうか。もしもそうならば、その境目を超えるための軽量化には大きな意味があるし、境目を超えてからの軽量化は、コストパフォーマンスが悪くなる。


Zygotebody1 そもそも、「肩にずしっと来る感覚」はどのようにして起きるのだろうか。ZYGOTE BODYを操作して人体の内側を見てみよう。これは。なかなか秀逸な人体解剖模型で、体の中を自由に透過して観察することができる。



 首から肩にかけては人体の中でもかなり構造が複雑な部分だ。肩に荷物をかけると、その力は主に背中から回り込んできている僧帽筋にかかる。筋肉は多層構造になっていて、僧帽筋の下の首側には肩甲挙筋という筋肉がある。自分の肩掛けをやりかたを考えるに、どうやら僧帽筋と肩甲挙筋とに力をかけているようだ。さらにその内側には、腕に行く鎖骨下動脈や、腕から戻ってくる鎖骨下静脈がある。ここには脊髄神経から分岐して腕に向かう神経も走っている。この部部に圧迫が加わるとどうなるだろう。





Zygotebody3 まず、動脈の圧迫は第一の原因には考えなくてもいいだろう。血圧が高いし、そもそも動脈が圧迫されたら腕のほうに異常がでるはずだ。同じく腕に影響が出るだろうということで静脈も原因から外す。よほど強い圧迫がなければ、この2つで深刻な影響は出ないのではないだろうか。

 神経は圧迫されると、圧迫部分ではなく、その神経に関連する末端でしびれがでる。だから「肩にずしっとくる」という感覚には多分関係ない。すると、残るは僧帽筋と肩甲挙筋だ。

 筋肉に圧力がかかると、収縮が起こり、堅くなって圧力を支えようとする。肩にベルトをかけると、かけた側の肩が上がる。筋肉が収縮している証拠だ。同時に首もかけた側の肩方向に曲がる。これは、僧帽筋と肩甲挙筋の両方が収縮していると考えて良いのではないか。

 収縮すると、筋肉に酸素を供給する毛細血管が圧迫される。毛細血管内の血圧で対抗できないぐらいに圧力が上がると、血液が流れなくなっって、酸素不足による痛みが発生する——解剖図を見ての想像はこの程度だ。もちろん正しい保証はない。人体構造には素人である私の仮説でしかない。

Zygotebody2 肩にかかる圧力と血圧のバランスによる毛細血管の開・閉という機序が存在するなら、たしかに「ある程度以上軽くなると、すっと楽になる」ということがあってもよさそうだ。が、どこか一ヵ所の毛細血管が閉じたら、別の血管からの供給が増えるというようなこともあるかも知れない。

 確かめる方法としては、肩に掛けるベルトの太さを変えるというのがいいだろう。ベルトが太くなると、単位面積あたりの力、つまり圧力は小さくなる。同じ重さでも、ベルトが太くなると楽になるとなれば、上の仮説への傍証となる(もちろんこれだけで正しいとは言えない)。
 肩掛けベルトが太くなると楽になるのは日常的によく経験するが、定量的にはどんなことが言えるのだろう。太くなりすぎると肩へのフィットが悪くなることもありそうだ。また、ベルトの肩に当たる面に均等に圧力が分散するようにしなくては、ベルトを太くする意味はない。

 自転車をいじくる身としては、定量的に「何kgまで軽くすればいいよ」という数字が出てくるとうれしい。が、人により千差万別の人体が関係してくる以上、そう簡単にはいかないだろう。
 とりあえずは、ベルトを太くして試してみることにしよう。ベルトにかかる圧力は測定できるだろうか。また、外部から筋肉内部の血流量を測定することは可能なのだろうか。
 きちんとしたカバンメーカーは、当然そういう実験を行っているのだろう。ネットのどこかにデータは落ちていないだろうか。

2005.10.10

「禁煙ファシズムと戦う」を読む

 「禁煙ファシズムと戦う」(小野谷敦編著、斎藤貴男著、栗原裕一郎著 ベスト新書)を読んだ。

 川端裕人さんの「ニコチアナ」を読んで以来、タバコの害というものを否応なしに考えさせられている。もちろんその背後には、「俺はタバコを吸い続けて長生きするんだ」とタバコを止めることなく、死に臨んでもタバコを止められなかった父の姿がある。父が何を考えていたかは手に取るように分かる。健康なときは「俺がタバコごときで死ぬはずがない」、体を悪くしてからは「どうせ死ぬのだからタバコを止める必要はない。タバコぐらいは吸い続けたい」だったのだ。

 あるいは、ちょっとばかり話題になっている「禁煙ファシズム発動(大事な人に押し付ける)」を読んでみたり。そう、私もまた、誰がタバコを吸おうと、私が煙たくなければ知ったことではない。でも、父にはタバコを止めて欲しかった。大腸ガンの発病確率が幾分なりと下がるなら、止めて欲しかったのである。

 しかも上記エントリのコメント欄に、上記本の著者の一人である小谷野敦氏が「煙草と肺癌はあまり関係ないです。癌の原因は一に遺伝、二にストレス。ファシズムはやめてください。(小谷野敦)」という、かなり感情的と思える書き込みをしている。

 どうやら「禁煙ファシズムと戦う」は喫煙者の理論武装の書らしい。なら読んでみなくてはならない。そう考えたのだった。


  本書は事実上、小谷野敦氏の著書だ。氏が企画し、文章を書き下ろし、氏の頼みに応じて斎藤貴男氏と栗原裕一郎氏が、過去に発表した文章を再掲載している。

 中核となる小谷野氏の議論だが、あまり冷静とは言えない。喫煙の害については、受動喫煙の害を否定するエンストローム論文(本書末尾に掲載されている)にのみ拠っており、その他の論文は何をどう検討し、どのような結論に至っているかを調べてはいない。つまり都合の良い論文をつまみ食いしている。受動喫煙の先駆的研究である平山雄の論文を「インチキであることはほぼ明らかになっている」と書くが、それは平山の論文の否定であっても、受動喫煙の害の否定ではない。本書からは、小谷野氏が受動喫煙の害を主張する平山以降の多くの論文を直接吟味した形跡は読み取れない。このあたりは、川端裕人さんが「『禁煙ファシズムと戦う』についてのコメント1、疫学の誤解について」で、きちんと論証している。

 川端さんの議論は、以下の3つの記事で公開されている。これも喫煙問題を考える上ではずせない文書だと思う。

 基本的な小谷野氏の主張は、以下の通りだ。


  1. 自動車の排気ガスや飲酒など、タバコの他にも社会に害なすものは多い、なぜタバコだけがかくも排斥されるのか。
  2. タバコの害をことさらに言い立てるのは特定集団を排斥したい考える心の有り様だ。それはファシズムである。
  3. ニコチンはストレス解消に効果がある。喫煙者にとってタバコよりもストレス社会であることがより大きな問題である。
  4. 人間の寿命は喫煙如何ではなく遺伝的素因で決まることが、分かってきた。先天的に寿命が決まるという不条理に耐えられない者が「遺伝」という科学に代わって「受動喫煙の害」というエセ科学にすがろうとしているのだ。

 私の意見はといえば、
 1)は、確かにその通り。しかしこれらをタバコの害とリンクさせて語るべきではない。独立して考えるべき問題だ。
 2)は、小谷野氏の考えすぎと見る。タバコを吸わない者として私は、昨今の分煙と禁煙の進行で、「タバコの煙がないということは、かくもすがすがしいものだったのか」と感じている。つまるところ、根本にあるのは喫煙者と非喫煙者がタバコというものに持つイメージが大きく異なるというところに、禁煙運動が喫煙者を必要以上に圧迫する原因があると思う。
 3)は、その通り。ニコチンに鎮静効果があり、紙巻きタバコは第一次世界大戦を契機に世界に広がった。が、戦場で死の恐怖から逃れるために使われたタバコを、いかにストレス社会とはいえ、平和な社会で一体どこまで容認するべきなのかは、よく考えねばならないだろう。
 4)は粗雑な議論だ。ガンにかかりやすいガン遺伝子は確かに見つかっているが、遺伝的素因のみで寿命が決まるわけではない。能動的喫煙が、ガン遺伝子を持つ者も持たない者の双方でガンの罹患可能性を上げることを無視してはいけない。

 本書の面白さは、むしろ小谷野氏の嘆き節とでもいうべき書き口にある。自分の体験を肴に、怒りや嘆きを文章芸にまで高めているといえるのではないだろうか。純粋に読み物として面白い。

 それと、1)に関して、少なくとも自動車が社会にもたらす害に関しては、かなり的確な指摘をしている。一体自動車がもたらす利便は、大気汚染や交通事故による不利益を補ってあまりあるものなのか。
 それはタバコの害と切り離して、十分に議論し、行動しなければならない事柄だ。自動車がタバコ以上に問題にすべき事柄だと主張するならば、小谷野氏はタバコとは独立して自動車という文明の利器がもたらす効用と害悪について、一冊の本を書くべきと思う。

 一体我々は、タバコというものと今後どう向き合うべきなのだろうか。その害ははっきりしているが、ではどう行動すべきなのだろうか。小谷野氏は自動車の害について、自動車産業の利権を指摘するが、タバコ産業もまた巨大な利益を生み出す利権だ。利権には、それで生活する者が張り付き、そこから搾取をする者が寄生する。利権の絡む問題を解決するのは非常に難しい。なにしろ国家もまた、税金という形でタバコ産業に寄生しているのだ(タバコは、税収以上に保険財政の悪化という形で国家財政を蝕んでいるわけだが)。

 私思うに、本気で社会の脱ニコチン化を進めるなら、日本統治下の台湾で、後藤新平が採用した阿片政策を採用するしかないのではないだろうか。後藤は、まず阿片中毒患者に対しては阿片を供給し、一方で阿片の流通を徹底的に取り締まり、新規の中毒者が出ないようにした。そのうちに阿片中毒患者は死に絶え、阿片中毒に支払う社会的コストはゼロになるという、極めて気の長い方法だ。

 例えば、タバコの購入を特定の電子マネーカードでしかできないようにする。現在の喫煙者には全員このカードを配布する。一方、一切の新規申請は認めないことにする。カードは本人の死去に伴って無効になる仕掛けをしておく。こうして100年も経てば、社会の脱ニコチン化は達成されるだろう。それは同時に100年をかけてタバコ産業を安楽死させるということでもある。

 それでも残るものはあるだろう。パイプで吸う刻みタバコと葉巻ぐらいは、文化として残しても良いかもしれない。しかし、手軽に喫煙できる紙巻きタバコは、はっきり絶滅させるべきだ。「ニコチアナ」を読んで、私は「紙巻きタバコは文化ですらない。ニコチン依存症を金にする商品だ」と考えるようになった。

 小谷野氏はファシズムというが、私は、現在の分煙の傾向を好ましく感じている。これほどまでにタバコの煙が社会に充満したのは、ウォルター・ローリーが喫煙をファッションとして新大陸から欧州に持ち込んて以降、なかんずく紙巻きタバコというテクノロジーが第一次世界大戦を契機に世界に広がって以降だ。そう考えれば、脱ニコチン化ということは、単に第一次世界大戦以前、ウォルター・ローリー以前に戻るということなのだ。

2005.09.28

熱を出す

 大阪行きやらなんやらで、少々無理がかかったのだろう。熱を出してしまった。

 蒲柳の質というほどではないが、私がおせじにも頑丈とはいえない。年に1回から2回は風邪で熱を出す。調子を崩しやすいのだ。

 熱を出すと、必ず水とガラスの夢を見る。何億年にも渡る造山運動を時間を縮めて見てみたり、一面ガラスの柱の中を飛んでみたり、自分が出た高校の体育館が水につかるのを呆然と眺めていたり、宮沢賢治の「貝の火」を様々な視点で体験したり、支離滅裂、まあ悪夢と言っていいだろう。

 同じ透明でありながら水は流れ、ガラスは塊だ。一方で水は温度を下げれば氷となり、ガラスは温度を上げれば融ける。どうもそのようなことが、私の中で全く異なるこれら2つの物質を結びつけているらしい。
 よくよく記憶を探っていくと、その根底には子供の頃、風邪を引くと水飴を食べさせて貰ったというような体験が眠っていたりする。水飴は水でもなくガラスでもないが、透明だ。
 透明というキーワードに多様な物性がまとわりつき、私の悪夢が完成する。

 なかなか熱が下がらないので病院に行く。とりあずは安静にして、一刻も早い回復を図ろう。