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カテゴリー「旅行・地域」の14件の記事

2010.08.21

種子島のロケット焼き

Okonomiyaki
 丸の内のはやぶさカレーうどんで思い出したので掲載する。

 写真は南種子町の広島風お好み焼き屋「安兵衛」のロケット焼き(700円)。なぜロケット焼きかというと、打ち上げ責任者だった頃の五代富文元NASDA副理事長(おそらく1980年代、H-Iを打ち上げていた頃のことだろう)がこの店に来て、「とにかく全部具を入れて!」と注文して出来上がったメニューだからそうな。だから、マヨネーズで書いてある星模様は、陰陽師の使う道満晴明の紋…ではなく、ロケットを象徴する星のマークなのだ。

 確か安兵衛に初めて入ったのは、1995年3月のH-IIロケット3号機の取材の時だったはず。あの頃は狭い小さな店で、注文も会計もアバウトそのもの。頼んだのと違うメニューが出てきても、おつりが多少違っても気にしないという店だった。確か500円以上のメニューがなかったと記憶している。
 棚には宇宙センター関係者がキープしたらしき焼酎のボトルがずらーっと並んでいた。焼酎ブームで屋久島の芋焼酎が品薄になる前の話で、そのほとんどが屋久島の蔵元の「三岳」だった。あのブームのおかげで今は種子島の焼酎もぐっとおいしくなったが、あの頃は水の良い屋久島の焼酎のほうがずっとおいしかったのである(南泉は今や、当時が信じられないぐらい質が上がった)。
 その後安兵衛は店を建て替えて綺麗になり、鹿児島の方に店も出し、値段も相応になってしまった(残念!)が、それでも種子島に行くと一度は寄ってしまう店だ。

 当時は打ち上げが終わると、仕事から解放された打ち上げ関係者がジョイフルという居酒屋で声をからして徹夜で歌っていたものだが。センターを事実上三菱重工が仕切るようになった今、夜の事情はどうなっているのだろう。

 ああ、種子島行きたいなあ。次の打ち上げは9月11日にロケットまつりの特別版が三鷹であるので、行けないのです。

2010.07.03

2003年5月9日・内之浦

 2003年5月8日の打ち上げ前日は、穏やかな晴れだった。打ち上げ前日の休養日で、内之浦の街のそこここで打ち上げ関係者がリラックスしていた。私は、街で出会ったISASの矢野さんや、はやぶさタッチダウン時の姿勢変化の解析を担当した東北大の吉田さんなどと、街の裏手の叶岳に登った。山頂で内之浦に長逗留している矢野さんから、付近の地名の由来を色々解説してもらい、叶岳のコテージのほうに下ってくると、宿泊していた関係者がバーベキューをしていた。「どうぞどうぞ」という言葉に甘えて、そのまま混ざり、昼からビールを飲んだ。

 後で聞いた話だが、はやぶさの打ち上げ準備はぎりぎりのスケジュールで進んでいた。最後に問題になったのは、搭載する科学観測機器の視野だった。観測機器ははやぶさの表面に固定されており、首を振ることはできない。一度固定したら動かすことはできない。

7/7注:実際にぎりぎりの調整をしていたのは、レーザー測距機 (LIDAR)と近赤外線分光計 (NIRS)だったとのこと(コメント欄、ひらたさんの投稿による)。この2つの視野をあわすことの意味は、私にもまだ分かっていないので、後日この項目は書き直すことにします。

 問題は可視分光撮像カメラ(AMICA)と近赤外線分光計 (NIRS)だった。この2つの視野が重なっていれば、AMICAで撮影した特定の岩石がなにでできているかをNIRSで分析することができる。


 しかしぎりぎりまで調整しても、なかなか視野が一致しない。
 最後に、メーカーの技術者がシム(調整用の薄板)一枚を挟み込み、NIRSを取り付けるボルトを締めると、視野はぴったり一致した。

 5月8日夕刻から、打ち上げ作業が始まった。


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 姿を現したM-Vロケット5号機。プレスサイトからの撮影。第2段がカーボン複合材のモーターケースになり、白色塗装となっているのが、5号機以降の特徴。


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 肉眼で見るとこのような感じ。ただし、これでも望遠レンズでかなり遠近感を圧縮されている。


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 2003年5月9日13時29分25秒、M-Vロケット5号機は打ち上げられた。


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 第1段分離直後、噴煙が拡がっているところで、第2段が点火されている。M-Vは第1段分離と同時に第2段を点火する、ファイア・イン・ザ・ホールという方式を採用している。常に噴射していないと未来位置を予測されて迎撃を受ける恐れがある大陸間弾道ミサイルに主に使われる点火方式だが、M-Vの場合は慣性飛行による重力損失を最小にして、打ち上げ能力を少しでも稼ぐために採用された。
 はやぶさは、M-Vの3段プラス特製のキックモーター「KM-V2」による第4段とで、地球周回軌道に入ることなく、惑星間軌道に直接投入された。


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 打ち上げ後に残る噴射煙。ロケットの余韻。


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 同じく噴射煙。高度によって風向が異なるので、噴射煙はこのようにうねる。


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 打ち上げ後のランチャー。Mロケットの特徴である斜め打ち上げは、初期の無誘導の打ち上げにおいて、少しでも早く射点からロケットを離して海上に出すために採用され、そのままM-Vまで引き継がれた。


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 内之浦の射点の横は断崖、転落防止用フェンスは打ち上げのショックと噴射煙で外れてしまうことがあるので、打ち上げ前に外してある。この写真は、フェンスをつけなおしているところ。


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 打ち上げ成功後の記者会見にて。左から藤原顕教授(はやぶさ計画理学のトップ、プロジェクト・サイエンティスト)、川口淳一郎教授(プロジェクト・マネージャー)、小野田淳次郎教授(打ち上げ・実験主任)、稲谷芳文教授(打ち上げ・保安主任)、鶴田浩一郎所長、的川泰宣教授(対外協力室長)。この時、鶴田所長は就任直後だった。
 小野田教授の「実験主任」という肩書きに注目。M-Vの打ち上げは毎回「実験」であった。それは、1960年代の文部省対科学技術庁の権限争いの結果、半ば強制されたものだった。

 
  はやぶさ打ち上げは、文部科学省・宇宙科学研究所として最後の打ち上げとなった。2003年10月1日、宇宙三機関統合の結果、独立行政法人・宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足し、宇宙研は、JAXAの宇宙科学研究本部となった。

 その後、内之浦に起きたことは、痛みを感じずに思い出すことは不可能だ。1960年代初頭、糸川英夫博士がこの地に打ち上げ基地を作ろうと決心して以来、地元とロケット基地は独特の協調する雰囲気を作り上げてきた。それは、あたかも植物が生えるかのようにして醸成された協力関係であり、人工的に作ろうとしても作れるものではなかった。
 その意味では、内之浦は最初からロケット発射の適地ではなかった。地元と研究者の関係の中で、ロケット発射の適地となっていったのである。

 統合とそれに続くM-V廃止は、何十年もかけて醸成された、作ろうとしても二度と作れない関係・環境を無造作かつ無遠慮に破壊した。

2010.07.02

2003年5月7日・内之浦

 はやぶさが打ち上げられた日、私は、宇宙作家クラブの取材メンバーと共に内之浦にいた。今回は5月7日に行われたプレス・ツアーの写真を中心に掲載する。

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 5月7日早朝に行われた打ち上げリハーサルの様子。電波テストという。この写真は私が撮影したものではなく、関係者として一足先に内之浦入りしていた秋山演亮さんから提供を受けて、宇宙作家クラブニュース掲示板にアップしたもの。

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 記者らに向かって説明を行う的川泰宣教授。ホワイトボードにはM-Vロケット第1段のノズルの絵が描いてある。前回2000年の打ち上げは第1段ノズルが破損したために失敗した。はやぶさを打ち上げたM-V5号機は、第1段ノズルの一番狭くなる部分(スロート[のど]という)をグラファイトからカーボン・カーボンに変更した他、第2段を大幅に改良した、事実上M-V Mark2というべきものだった。4〜5機打ち上げたところで改良を加えるというのは、宇宙研ロケットの常道である。

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 プレスツアー、ブロックハウス内の様子。Mロケットのブロックハウスは射点のすぐ横の地下に設置されている。昔々、後の大先生、当時は大学院生2人が「爆発したらぱっと隠れればいいんだよな」といって、、ここの出入り口屋根から飛んでいくロケットを見送った——というのは知る人ぞ知るエピソード。

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 これも有名な、アナログの針が走るスケジュール表。1960年代から使われていた。はやぶさ打ち上げ時はさすがに針は走らなくなっていたが、現役だった。的川先生によれば、「職人仕事で作られておりもう作れない逸品」ということだった。

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 スケジュール表の部分拡大。こんな感じに良い具合によれて風格を放っていた。

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 当時はまだかなりの数のPC-98が打ち上げ設備で使われていた。

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 ピンぼけで申し訳ないが、打ち上げ後のシーケンス。ドットインパクトプリンター用の連続用紙に手書きで壁に貼ってあった。

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 当時やっと新設なったばかりだった34mアンテナ。内之浦は、壊れたパラボラアンテナの取り壊し予算が出なくて台風のたびに崩壊に怯えたとか、歩く度にきしむ通称「うぐいす張り廊下」とか、入ると必ず風邪を引くすきま風いっぱいの風呂だとか、電子機器関連の部屋には雨漏りに備えるビニールシートが常備されているとか——とにかく貧乏ネタには事欠かなかった。来日して内之浦を訪れたフォン・ブラウン曰く「マリリン・モンローが襤褸を着ているようだ」。

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 まあ、建物の壁面からしてこれだ。多くは1970年代の鉄板波板構造プレハブで、手入れが行き届かずにかなり痛んでいた。

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 構内の自動販売機も、微妙に時代遅れのものが…

 いくらボロでも、この時の内之浦では精神が生きていた。「自分たちの探査機を自分たちで打ち上げる」という精神が。

続く


2010.06.16

はやぶさ2に向けて

 ただいまアリススプリングスの宿にいる。はやぶさ再突入帰還カプセルの余韻にひたったまま、15日はアリススプリングス郊外にあるヘンブリー・クレーターを見に行ってきた。約5000年前に落ちた隕石によってできたクレーターだが、衝突直前に割れたことで大小10数個のクレーター群を形成している。雨のたびに土砂が流れ込み、内部には樹木が生い茂り、鳥とバッタの楽園になっていた。

 日本では、はやぶさ2推進のためのネット署名が始まっている。こういう動きが自発的かつ既存の関係者(自分も含めて)以外のところから出てくるのはいいことだと思う。
 管首相が、はやぶさ2予算に含みを持たせた発言を参議院でしたそうだが、それも一般が盛り上がったればこそだろう。一般が声をあげることはとても大切だ。私も一国民として署名をした。

 これで「はやぶさ2」がつぶれるようなことがあったら、JAXAは国と国民の両方から信頼を失うことになるんじゃないだろうか。

 そして、こちらのパブリックコメントの締め切りも迫ってきている。

「「月探査に関する懇談会 報告書(案)」に対する意見、及び「ロボット月探査の計画の愛称」の募集について 」 6月17日木曜日必着。 t

 宇宙開発戦略本部に意見をもの申すチャンスだ。「見当はずれのことを言ってしまうのではないか」「自分が意見を出したところで事態は変わらない」などと考えず、どんどん意見を出そう。
 私の見方は週刊ダイヤモンドに書いた通り。「アメリカについていくつもりで懇談会作ったはいいけれど、アメリカが有人月探査をやらないって言ったのに、自分だけ月に行こうとして、もはや存在しないアメリカの計画に付き従おうとするのは滑稽だ」というもの。
 月の科学探査には意味がある。これは間違いない。しかし、月の資源とか将来の宇宙開発の拠点とか言われると???となってしまう。

 はやぶさが示したのは、国民がきちんと興味を持てばそれを国もJAXAも無視できないということだった。
 まずは声を上げることからだ。

2010.06.14

見たぞ、はやぶさの凱旋(確定版)

 昨日の速報版の完全版です。ほぼ同じ内容ですが、一部の訂正と追加を行い、写真を追加しました。前のアップを消してこちらをアップしようかと思いましたが、当日のハイな気分の記録を残すため別記事として掲載することにします。

Reentry1_2
 6月13日の朝、観測地下見のためにニコニコ動画の生放送「ニコ生」一行とクーバーペディのビジターセンターで待ち合わせる。野尻さんがTwitterで呼びかけると、およそ10名ほどの日本人がこのオーストラリアの辺境であつまった。なかにはmixiで仲間を募り、レンタルのキャンピングカーで走ってきた猛者らもいる。車両にはやぶさマークを貼ってアデレードから走ってきたとのこと。オーストラリアではやたらとキャンピングカーを見る。ワーキングホリデー中のIさん曰く、定年退職後の楽しみとして回っている人が多い。

Reentry2

 ここで、ニコ生一行は買い物に回ったが、とんでもないことが判明。野尻さんと三才ブックスのSさんが、パスポートの入ったバッグを忘れていった!一見落ち着いていた野尻さんだけれども、実はかなり舞い上がっていた模様。彼らのホテルに忘れ物を届けてから下見に出発。スチュワートハイウェイを南下する。

Reentry3_2 下見の結果、クーバーペディから90kmほどスチュワートハイウェイを南下したところにある休憩のための駐車場ではやぶさを出迎えることにする。

 クーパーペディに戻って昼食はイタリア料理屋でピザ。野尻さんの呼びかけで知り合ったAさん、Oさんをクルマに乗せて観測場所に向かうことになる。Aさんはコマケン(小松左京研究会)メンバー、Oさんはその友人でオーストラリア労働ビザ取得を目指す看護士さん。

 6月13日午後は、クーバーペディの観光に費やした。クーバーペディは世界の9割を占めるオパールの産地だ。オパールはシリカを含む水が泥岩の割れ目にしみこみ、長い年月の間に作り上げる。オパールが出るということはその場所の地層が数億年のオーダーで安定していたということだ。
 かつてのオパール鉱山を改装した博物館を見学する。クーバーペディは1980年までテレビ放送が入らない、文字通り地果つる地だったとのこと。

 雲はかなり心配だったが、午後4時半の出発時点でかなり晴れていた。出発直前、国立天文台の渡部潤一先生に行き会う。国立天文台組はクーバーペディから30kmほど離れた自動車の入ってこない地点から観測するとのこと。しかも観測後はそのまま、明け方まで南天の夜空の撮影会に突入するという。さすが本職は力の入れ方が違う。渡辺先生は、酒瓶らしきものを手に提げていた。「お祝いに、ね」

 午後5時半に観測場所に到着。ニコ生組はすでに到着し、セッティングを行っている。

Reentry7

 日が沈む。360°地平線の風景が夕焼けで染まる。美しいの一言に尽きる。これを見ただけでいいやと思いかけるが、その後にはもっと素晴らしいものがあった。南半球の夜空だ。

 全天快晴、透明度最高の夜空。南十字星も大小マゼラン雲もはっきりみえる。野尻さんが「石炭袋がくっきりと見える」と喜んでいる。ああ、もうこれが見られただけで、今回はいいやという気分になる。いや、今度は星空のためだけにオーストラリアに来たい。私はいて座方向の銀河中心を見ているうちに、猛然と行きたくなった。そちらに行くのが正しいかどうかは別として、だが。
 宇宙開発の是非を議論するならば、まずはこのような夜空の下で一夜を過ごすべきなのだろう。見て、なお「不要」と言える人がいるとは私には思えない。

 待っているうちに、雲がまたも出てくる。雲は増え続け、午後9時頃には全天を覆うかというほどに広がった。一時はどうなることかと思ったが、再突入30分前あたりから風が吹き、雲が減り始める。ニコ生の主催者nekovideoさんが機材を必死でセッティングしている。通信料金が分3000円というインマルサットの衛星携帯の出番だ。

 これは行けるかも、という気がしてくる。

 デジカメで夜空を撮影するが写らない。撮影を一切あきらめ、眼視に徹することにする。

 はやぶさの突入時刻となる。

Narureentry1
(撮影:平田成)
 まず、西南方向の雲が非常に明るく光った。機体が大きく分解した際の光だと思う。

Narureentry2
(撮影:平田成)
 次の瞬間、雲の向こうから煌々たる光の帯が飛び出してきた。良く見ると先端には橙色の輝点、再突入カプセルだ。その後に尾を引き、四散していくのは本体だろう。分解していく機体は時折緑色の光を放っている。銅の炎色反応かと思ったが、後で聞いたところでは再突入で発生した酸素のプラズマの輝きだとのこと。

 高度60kmほどだが、あまりに速く、明るいので遠くに思えない。航空ショーなどで目の前をジェット機がフライパスしていく――その様と似ている。

 機体が四散していくのがはっきり分かる。大型太陽電池パドルが、ハイゲインアンテナが、イトカワを観測したセンサーらが、サンプラーホーンが、長期の航行に耐えたイオンエンジンが、飛散し、分解し、輝き、燃え尽きていく。

 先頭でオレンジ色に輝く再突入カプセルの飛行は安定している。揺らぎは見えない。カプセルの空力設計がうまくいった証拠だ。

 揺らぐことなくまっすぐ飛行する再突入カプセルが、輝きの尾を引いて飛散する機体を従え、南オーストラリアの星空を横切っていく。これは凱旋だ。今やはやぶさの本体(ここはウェットに“魂”というべきなのか?)は機体から再突入カプセルへと移り、分解する機体を従えて、堂々地球への凱旋を果たしたのだ。

 その間数十秒ほどか。やがて本体の光は消え、再突入カプセルの輝点も南東方向の夜空に溶けていく。音速を切るさいのショックウェーブが聞こえるかと耳を澄ましたが、聞こえなかった。

Reentrya

 野尻さんが「ビーコン受かったよ!」と叫ぶ。ストップウォッチを押してビーコン継続時間の計測を始める。スピーカーから、オクターブ違いの音を往復するビーコン信号が聞こえてくる。
 ビーコンは再突入カプセルの耐熱シェルがはずれると作動する。シェルがはずれたことは間違いない。3分、5分とビーコンは続いた。この時点でパラシュートが開傘したと考えて大丈夫だ。でなければ、カプセルは大地に激突し、とっくにビーコン送信を停止しているだろう。

Reentry9_2 nekovideoさんのアドホックな助手、通称「neko奴隷」君が、特製八木アンテナをかざしながら泣いている。三才ブックスのSさんが、「この日のために」とリポビタンDを配る。ニコ生のカメラの前で、全員リポD一気飲みをする。

 ビーコン音が小さくなり、ノイズが混じりはじめる。地表が近づいているのだ。着地するとビーコン音のパターンが変わるはずだが、変化の前にビーコン音はノイズに没した。それでも着地直前まで聞こえていたはずだ。

 その後、クーバーペディに戻り。某オーストラリアの大学の観測班との飲み会となる。
 開発開始から14年、打ち上げから7年。飛行距離60億km、地球から直線距離で3億kmの彼方まで赴いた探査機は、地球に帰還した。機体は四散し、燃え尽きたが、再突入カプセルは無事に着地し、回収を待っている。

 何度でも繰り返そう。これは始まりの終わりにすぎない。私たちにはこれから行くべきところがいっぱいある。


6月13日深夜、相模原における記者会見での川口淳一郎プロジェクト・マネージャーの言葉

 我が国の技術は潜在的に高い。

 もっと自信を持って良いが、なかなか場が与えられていない。今後もっと進められるのでは。



 挑戦することにためらいを持たないでほしい。



 今日ではやぶさは終わるが、技術の風化と拡散が始まっている。伝承する機会がもう失われているかもしれない。

 これを理解してもらい、将来につなげるミッションを立ち上げる必要がある。

 意気込みはもう強い、としか言いようがない。

 アメリカの計画は、はやぶさが火をつけた。

 身を引くような宇宙機関はあってはならないと声を大にして言いたい。

 おかえりなさい、はやぶさ。そして次のステップへ。


見たぞ、はやぶさの凱旋(速報版)

 6月13日の朝、観測地下見のためにニコ生一行とクーバーペディのビジターセンターで待ち合わせる。野尻さんがTwitterで呼びかけると、およそ10名ほどの日本人がこのオーストラリアの辺境であつまった。なかにはmixiで仲間を募り、レンタルのキャンピングカーで走ってきた猛者らもいる。車両にはやぶさマークを貼ってアデレードから来たとのこと。オーストラリアではやたらとキャンピングカーを見る。ワーキングホリデー中のIさん曰く、定年退職後の楽しみとして回っている人が多いそうだ。

 下見の結果、クーバーペディから90kmほどスチュワートハイウェイを南下したところにある休憩のための駐車場ではやぶさを出迎えることにする。

 昼食はイタリア料理屋でピザ。野尻さんの呼びかけで知り合ったAさん、Oさんをクルマに乗せて観測場所に向かうことになる。Aさんはコマケン(小松左京研究会)メンバー、Oさんはその友人でオーストラリア労働ビザ取得を目指す看護士さん。

 6月13日午後は、クーバーペディの観光に費やした。クーバーペディは世界の9割を占めるオパールの産地だ。オパールはシリカを含む水が泥岩の割れ目にしみこみ、長い年月の間に作り上げる。オパールが出るということはその場所の地層が数億年のオーダーで安定していたということだ。
 かつてのオパール鉱山を改装した博物館を見学する。クーバーペディは1980年までテレビ放送が入らない、文字通り地果つる地だったとのこと。

 雲はかなり心配だったが、午後4時半の出発時点でかなり晴れていた。午後5時半に観測場所に到着。野尻さんらニコ生組はすでに到着し、セッティングを行っている。

 日が沈む。360°地平線の風景が夕焼けで染まる。美しいの一言に尽きる。これを見ただけでいいやと思いかけるが、その後にはもっと素晴らしいものがあった。南半球の夜空だ。

 全天快晴、透明度最高の夜空。南十字星も大小マゼラン雲もはっきりみえる。野尻さんが「石炭袋がくっきりと見える」と喜んでいる。くっきりといて座方向の銀河が見える。。ああ、もうこれが見れただけで、今回はいいやという気分になる。いや、今度は星空のためだけにオーストラリアに来たい。私はいて座方向の銀河を見ているうちに、猛然と銀河中心へと行きたくなった。そちらに行くのが正しいかどうかは別として、だが。
 宇宙開発の是非を議論するならば、まずはこのような夜空の下で一夜を過ごすべきなのだろう。見て、なお「不要」と言える人がいるとは私には思えない。

 待っているうちに、雲がまたも出てくる。一時はどうなることかと思ったが、再突入30分前あたりから風が出て雲が減り始める。ニコ生の主催者nekovideoさんが機材を必死でセッティングしている。これは行けるかも、という気がしてくる。

 デジカメで夜空を撮影するが写らない。撮影を一切あきらめ、眼視に徹することにする。

 はやぶさの突入時刻となる。まず、雲が非常に明るく光った。機体が大きく分解した際の光だと思う。次の瞬間、雲の向こうから煌々たる光の帯が飛び出してきた。良く見ると先端には橙色の輝点、再突入カプセルだ。その後に尾を引き、四散していくのは本体だろう。分解していく機体は時折緑色の光を放っている。銅の炎色反応かと思ったが、後で聞いたところでは再突入で発生した酸素のプラズマの輝きだろうとのこと。
 機体が四散していくのがはっきり分かる。輝きつつ飛び散る機体を従え、オレンジ色に輝く再突入カプセルが飛んでいく。印象としては、凱旋だ。今やはやぶさの本体は機体から再突入カプセルへと移り、分解する機体を従えて、堂々地球への凱旋を果たしたのだ。
 野尻さんが「ビーコン受かったよ!」と叫ぶ。オクターブ違いの音を往復するビーコン信号が聞こえてくる。ビーコンは再突入カプセルの耐熱シェルがはずれると作動する。シェルがはずれたことは間違いない。3分、5分とビーコンは続く。この時点でパラシュートが開傘したと見ても大丈夫だ。開傘していなければ、とっくに地面に激突している。

 nekovideoさんのアドホックな助手、通称「neko奴隷」君が、特製八木アンテナをかざしながら泣いている。三才ブックスのSさんが、「この日のために」とリポビタンDを配る。ニコ生のカメラの前で、全員リポD一気飲みをする。

 ビーコン音は着地直前まで聞こえていた。よしよし。

 その後、クーバーペディに戻り。某オーストラリアの大学の観測班との飲み会となる。ビールを飲んで良い気分で今、この文章を書いている次第。夜も更けてきたので、ここまでで一度アップする。明日以降、訂正や画像などを入れる予定。

2008.08.16

宣伝:明日17日のコミケで本が出ます

 ぎりぎりになってしまいましたが、明日日曜日のコミケット74の3日目で、風虎通信(ブースは西れ−65b)から私の本が出ます。

China


「中国1986——バックパッカーの見た開放経済の夜明け」(風虎通信 900円)

 昨年の夏頃、中国の将来をどう読むかで、mixiにおいて数人のマイミクさんと議論したのですが、その過程で1986年2〜3月に自分が中国旅行をしたことを思い出し、書き留めたものです。

 1986年というのは改革開放経済が始まってまもなくでした。まだ中国は貧しく、今のような狂乱的な経済の過熱もありませんでした。ひょっとして自分の体験は、中国という隣人を考えるにあたって、客観的に見ても貴重なものなのかも知れないと感じ、まとめた次第です。

 mixiの日記に「中国に関する記憶」という題で43回連載したのですが、それを読んだ風虎通信の高橋さんが、「おもしろいから本にしましょう」といって、まとめてくれました。

 実は昨年末のコミケが初売りだったのですが、メカ・ミリタリー系の風虎通信ではどうにも売れ行きが悪く、大分余ってしまいました。個人的な体験が書いてあるので気恥ずかしく宣伝しなかったのが敗因かも知れません。

以下にサンプルとしてmixiの連載二回分を乗せておきます。旧正月の大混雑の中、桂林から昆明へと長距離列車で30時間以上かけて移動した時のこと。桂林で列車に乗り込んだところの場面です。

#    #     #
中国に関する記憶.14)何人乗れるかな

 イヤな予感は、ホームで列車を待っている時点からあった。

 溢れんばかりの人々でホームにいた。例によって大声でしゃべっている。整列乗車なんて雰囲気ではない。

 列車の本数は少ない。これが全部昆明行きの列車に乗るのか?

 列車がホームに入ってくる。乗降口は、確か手動だった。

 突撃!だ。

 ホームにいた、山のような荷物を抱えた人、人、人が、たいして大きくない乗降口に無秩序に突撃するのである。しかも誰も彼もが、大声でわめいている。声が大きければ先に列車に乗れるとでもいうように、わめく群衆が列車に突撃する。

 もちろん自分も身体の前に荷物を楯のように掲げ、「どきやがれーっ」と日本語でわめきつつ突撃するのだ。

 なんとかかんとか、乗り込んだものの、車室には入ることができなかった。乗降口からちょっと入ったところで、みっしりの人間でもうにっちもさっちもいかなくなってしまった。
 ちょうど平日午前8時頃の山手線渋谷新宿間のような、無茶苦茶なすし詰め状態である。いや、それ以上かも知れない。人に挟まれ、下手をすると足が浮いてしまう。

 フォルクスワーゲンに最大何人の人間が入れるかを競う遊びがある。列車の中は、世界記録を狙うフォルクスワーゲンの車内のようだった。


 「地球の歩き方中国編」には、確かに「硬座は混みます」とは書いてあった。しかし、私とW君は、いいところ日本の帰省ラッシュの混雑程度だと思っていたのである。


 なんでこんなことになったのか。

 中国において正月といえば旧正月。春節だ。年にもよるがだいたい2月初旬である。
 この時分は、地方から都市に働きに出てきていた労働者が故郷に帰る。民族大移動の季節なのである。

 中国の鉄道は基本的に単線であり、輸送力はさほど大きくない。もちろん列車の本数も少ない。
 そんなところで民族大移動が起こる。当然ながら期間も長くなる。春節の前後1ヶ月の2ヶ月間ぐらいだ。

 慢性的な輸送力不足でいつも混んでいる中国の鉄道は、この時期いつも以上に混むのである。

 そもそも、こんな民族大移動が起きるということは、中国において北京政府の建前が、経済の本音に突き崩されていることを意味する。

 中国人の戸籍は農村と都市とで分離されており、農村籍の者が都市籍に転籍することはほとんど不可能である。できないわけではないそうなのだが、非常に高いハードルが設定されている。
 さらに農村籍の者は、移動の自由がない。旅行をする場合もかなり煩雑な手続きで当局の許可をとらなくてはならない。

 要は農民を土地から逃げられないようにしているのである。

 しかし、改革開放政策で、都市部は慢性的な人手不足となった。農村部には人が有り余っており、しかも貧乏である。

 なにが起こるか。

 中国社会はコネで動いている。戸籍を動かすのはさすがに難しい。しかしコネさえあれば、本来は取れないはずの切符を当局の許可なしに取ることはできる。しかもその切符で列車に乗っても車内で検挙されることはない。

 かくしてヤミの労働力が都市部に集中することになる。

 北京政府が人々の移動を自由化することはない。そんなことをしたら、貧乏人の津波が都市に押し寄せることになる。あっというまに都市はスラムに包囲されることになるだろう。
 しかし、実際問題として、コネを駆使して都市に潜り込む労働者を排除することもできない。そんなことをすれば、湾岸部の「先に豊かになる」はずの地域の経済が回らなくなってしまう。

 先日のニュースだと、2007年現在、中国の出稼ぎ人口は1億5000万人だそうである。

 いちおくごせんまんだぜ。

 日本の人口を遙かに超えた人数が、貧乏からの脱却を目指して都市部に押し寄せているのである。しかも彼らは基本的にヤミ労働者であり、法の庇護を受けられないのだ(注:この部分、現在は違うようですね、許可を取って都市に出てきている農村人口が9000万人弱なんだそうです。それでもヤミ労働者が6000万人いるということにはなりますが)。

 かくして地方からヤミでやってきた労働者たちが、春節になると山ほどのおみやげを抱えて、慢性輸送力不足の列車に殺到する。もちろん金がある奴ばかりではない。大半は、二等車、すなわち座席指定のない硬座に乗ろうとする。

 我々は、まさにそのただ中の長距離列車に、うかうかと乗り込んでしまったのであった。
 
 体を動かすことが一切できない、窒息してしまいそうな状態のまま、列車が動き出した。

 おーい、ひょっとしてこれで30時間以上過ごすってえのか?


中国に関する記憶.15)老婆と子ども

 すし詰めの列車は動き出してしまった。目的地の昆明までも30数時間、なんとしてもやりすごさなくてはならない。

 幸い冬であり、しかも列車内はろくに暖房が効いていなかったので、臭いの問題はあまりなかった。それでも労働者風の筋骨たくましい男達の吐く息は、のきなみニンニク臭く、体をひねって吐息を避けるのに苦労した。

 列車はがたごとゆれながら、日本の感覚では徐行に近いゆっくりとした速度で進む。升一杯の豆も、ゆすればまだまだ豆が入るのと同じ理屈で、人間も揺すられて、だんだん体勢が入れ替わっていく。

 その中で、たくましい筋肉で武装した男共のナニや尻がこっちの局部にあたるわけですな。そっち方面の人には天国かも知れませんが、これが気色悪い。思いっきり気色悪い。しかも吐息はニンニクのかをりなのである。

 乗っているのは男ばかりではないが、若い女性は見なかった。さすがにこの状況を、若い女性は避けるのであろう。女性と言えばおばちゃんに老婆、そして子どもである。そう、老人も子どもも、すさまじいきゅうくつな姿勢を耐え忍んでいた。

 いや、耐え忍ぶというのはあまり正確な形容ではない。列車の振動で、だんだん体が入れ替わっていくのだけれども、新しい人間とぶつかり、ちょっと不自由な姿勢になると、そこで口論が始まるのである。耐える前に不満を手近で爆発させるのだ。

 中国語の口論は、日本語のそれよりよほどはげしいものだが、がこんがこん列車が揺れるたびにそこここで、大音声の口論が始まる。またがごんかごんと揺れて体勢が変わり、当事者達がちょっと落ち着いた姿勢になると口論は止むが、今度は別の場所で口論が始まる。そのうるさいことといったら。

 私もふっかけられた。相手は私の肩ほどの身長しかない、汚い白髪を結ってまとめた老婆だった。こっちの着込んでいるダウンジャケットに全身を押しつけるようにして、顔だけ私の方を見上げ、ものすごい剣幕で何事かをわめきたてるのである。顔をそむけるスペースもない。ばんばん老婆の唾が顔に飛んでくる。容赦なく口に入ってくる。

 ぼんやりと、「このばあさんが肝炎持ちだったら、俺も感染するのかな」と思ったのを覚えている。

 老婆は小さな、おそらく6歳ぐらいの男の子を連れていた。おびえた風でぴったり老婆にだきついて離れようともしない。多分に老婆のすさまじい剣幕は「子どもがつぶれるからどけ」だったと思うのだが、こっちは片言の中国語が分かるか分からないか程度なので、なにをいっているのか分からない。

 もちろんこっちも負けてはいない。「ばあさんうるせえよ!ナニいってんだかわからねーぞ!」と日本語でわめきかえすわけだ。老婆とぎゃあぎゃあすれ違いの口論をしつつ、ふっと視線を下に向けると、子どもと目があった。

 不安そうな目をしていた。

 老婆との口論がどうやって収束したのか覚えていない。おそらく揺られているうちに体勢が入れ替わり、離れたのだろう。

 面白いもので、あれほどぎゅう詰めだったにもかかわらず、揺れているうちに隙間ができてくる。私とW君は、そこにすかさず荷物を押し込んで、じりじりと車内へと入っていった。一晩かけて車内の1/3ぐらいの場所に到達。そこで今度は荷物を床に押し込んでスペースを確保し。その上に座り込むことに成功した。やれやれ、やっと体を自由に動かせる。

 が、驚異の中国春節長距離列車、硬座の旅はまだまだ続くのであった。

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 よろしくお願いします

2008.01.15

つくばりんりんロードを走る

 昨年末に発作的に青春18切符を購入した。1万1500円で5枚綴り。1日2300円で、どこまでも普通列車に乗れる「地上の銀河鉄道切符」だ。「カムパネルラ、僕たちはどこまでも行けるよね。鈍行だけど」

 ところが18切符の期限があと一週間というのに5日分のチケットをまだ1日しか使っていないではないか!

 どこかに行こうとあれこれ調べているうちに、土浦から岩瀬まで、茨城県道501号桜川土浦自転車道線、愛称「つくばりんりんロード」という自転車専用道があるのを思い出した。かつての関東鉄道筑波線が廃線となり、跡が自転車専用道になっている。全長約40km、Frogで走るにはちょうど良い距離だ。

 子供の頃の記憶が蘇る。母方の祖父母は土浦に住んでいた。そして祖母の故郷は、筑波線沿線の雨引だった。筑波線には何回か乗っている。

 よし、Frogを輪行して行って来よう。というわけで13日日曜日に走ってきました。


Start 自転車道路の始点。


Map こんなコースです。筑波山を回り込み、雨引観音をかすめて岩瀬へ。


Road 走り出してから気が付いた。西高東低の冬型気圧配置ではないか。つまり風は西から東に吹く。西に向かって走るということは向かい風だ。しまった、岩瀬から走るべきだったと思うも後の祭り。強い向かい風の中、軽いギアでひたすら脚を回して進む。



 風景はもう北関東の冬そのもの。空はあくまで澄んで、寒くて風が強くて、道はまっすぐ続いている。道路が遠近法そのものでまっすぐ地平線に消えているという風景を、東京の近場で楽しめるのだ。

 季節の良い時期は、自転車で一杯になるという道も、誰も来ない。道を独り占めというのはなかなか気分がよい。脚はつらいが。


Tower 空に伸びる鉄塔のなんと魅惑的なことよ。鉄塔武蔵野線の世界だ。


Kazari どんと焼きの準備らしい。


Minseisinnpoh 沿線には加波山事件の加波山がある。なにやら自由民権運動のにおいのする看板を発見。民声新報で検索すると色々出てくるが、これはたぶん小地方紙じゃないかなと思う。


Platform 筑波線のホームが、自転車用の休憩所となって残っている。横を走ると自分が列車になったような気がする。気分は「どですかでん」の六ちゃんだ。頭の中で武満徹のテーマ音楽を鳴らして、「どですかでん、どですかでん」と声に出して走ってみる。すると、近所の子供が「わーい、バカー」とはやし立てて追っかけてくる…ということはない。


Rail 廃線になって20年経つのに、まだこうやって線路が残っているところもある。


Ruin いい感じの廃墟。


Amabiki 母方の祖母の故郷、雨引。祖母は、大地主の六人兄弟の末っ子として生まれ、何一つ不自由せずに育った人だった。子供の頃はこのあたりの野山を思うがままに駆け回っていたそうだ。

 生前、色々と聞いた田舎の地主末っ子のワイルドライフ。

「カエルを捕ってもって帰っとな、女中さんがカエルの皮をプリっと剥いて醤油で焼いてくれるんだ。あれはおいしかったな」とか。

「アオダイショウふんずかまえっと、しっぽもって振り回して頭を石にぶつけて殺すのさ」(これも食ったんだろうなあ)とか。

「虫下し飲んだら、山で遊んでたらお尻の穴から長いのが出てきちまってよ、虫ぶらさげたまんま泣きながら山を走って降りて、家で取ってもらった」とか。

 その他サンショウウオも捕ってきて焼いて食べたとか。


Amabikikannnon1 せっかくなので、雨引観音に詣でる。急な坂を自転車を引いて登る。



 大学に入った年の春、「おまえのために取ってきた学業成就のお札を雨引さんに返すから来い」といわれ、祖母と二人で雨引観音に詣でた。筑波線で土浦から確か一時間以上かかったはず。

 祖母はぜいぜいしながら「雨引さん」への坂を登っていた。そのあと、祖母の長兄が継いだ実家に寄ったが、その長兄との会話が、生粋の茨城弁。もう何を話しているのかさっぱりわからなかった。

「ああ、楽しかった。年に一回。また来年来るさ」と祖母はにこにこしていたが、直後に急逝。雨引観音詣では祖母との最後の思い出となった。


Amabikikannon2 感傷的な記憶が残る雨引観音だが、お札を買おうとすると、キティちゃんの刺繍の付いた恋愛成就のお守りがなどというものが売っていた。なにか間違っている。なんだかがっくりしてしまい、買わずに下山する。


Sunset 雨引観音から見る日没。この、北関東のなにもなさというのは決して嫌いではない。


Iwasest 日没少しすぎに水戸線の岩瀬駅に到着。きちんと計ってはいないが、走行距離は雨引観音への寄り道を含めて46kmぐらいか。

 東北本線に出て湘南新宿ライナーで帰るつもりだったが、なにやら人身事故があったということなので常磐線経由に変更。


Dentyu 途中、土浦駅で買った。我が心の菓子「吉原殿中」。水戸名物なのだが、土浦でも売っている。子供の頃、大好きでたまらなかったお菓子。

 本日現在で、青春18切符はあと2日分残っている。期限は今週末。さあどうしよう。


2005.09.26

大阪を見物する

takokurage

 原稿が押している。少しでも書き進まねばならぬ。しかしここんところ休みなしだぞ。こんな生活でいいのか、後ろめたさを振り切って、1日大阪見物することにする。

 本日は他のメンバーと別れて単独行動、ジュンク堂書店にて時間をつぶした後、ビジネス街の昼休み、昨日の先輩と昼食を食いがてら、色々と話す。
 その足で、大阪港にある水族館「海遊館」へ向かう。以前から行きたかったのだけれども、なかなかチャンスがなかった。
 地下鉄の大阪港駅から歩いて数分、青と赤に塗り分けられた特徴的な建物が見えてくる。入場料は2000円、ちょっと高いぞ。

 と思ったのがあさはかだった。ここは入場料分以上の価値がある。縦に深い巨大な水槽をいくつも作り込み、その間を上から下へ螺旋状に見学通路を設定してある。魚類のみならず、ラッコやペンギン、イルカに至るまでを水上から水底に至るまで見せてしまおうという仕組みだ。

 これが素晴らしい。様々な水深で実際に泳いでいる生き物を見ることができる。マンタがいる、ジンベエサメがいる、マンボウもいる。すっかり夢中になってしまった。

 公立学校のお休みでもあったのだろうか。子供がずいぶんと多かった。どの子も走り回りはしゃぎ回り、興奮状態だ。若いカップルも多い。これまた興奮状態。マンタが悠々とガラスをかすめるたびに、きゃあきゃあ声を上げている。
 おじいちゃんおばあちゃんも大興奮だ。「あー、あれ、あれ」「うわあ、すごいねー」と声を上げている。

 順路を一番下まで降りてくると、そこは「日本海溝」と命名された水槽。薄暗い水槽の中で多数のカニがうっそうとはさみを振り回している。さらに進めばクラゲの展示。様々なクラゲがライトアップ水槽の中で光る。

 カニやクラゲを見るといつも、「こいつらが知性を持っていたら、どんな身体感覚で世界をとらえるのだろうか」と思ってしまう。それはよほど人間の世界認識とは異なるものとなるだろう。
 いつか我々は宇宙の彼方で異なる進化の過程を経た生命と出会うだろう(私は楽観的だ)。そしてその中には知性体も含まれているはずだ(これまた楽観的である)。
 我々はどんな知性と出会うのか。いずれにせよ先入観だけは持ってはいけないな、と思うのだ。

 ちょっと時間があったので、小川一水さんの「登っちゃいました」発言を思い出し、通天閣へ行くことにする。ポートライナー経由で昨日と同じく地下鉄の恵比須町へ。
 初めて通天閣というものに登る。大阪の街並みが見事に一望できる。高さ91mということだが、ずっと高いような気がする。ビリケンさんは、残念ながら東京の物産展に出張中で、なぜか代わりに渋谷のハチ公が鎮座していた。
 東の遠くにけぶる生駒の山々を見ていると、急に涙が出てくる。小松左京「果てしなき流れの果てに」を思い出したのだ。
 数奇な時空の冒険を経て、記憶を失い、年老いた主人公の野々村(正確には野々村だけではないのだが、かなり複雑な経緯は読んで貰うしかない)は、これまた老婆となった恋人佐世子のところに戻ってくる。かつての恋人すら認識できぬ彼を、佐世子は優しく迎え入れる。
 確かラストは生駒山系を眺めつつだったのではなかったのかな。老野々村が佐世子に向かって「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」と語り始めるのではなかったか。
 なんだろうね、そのラストと、眼下に広がる大阪の街並みとが妙にシンクロして、センチメンタルな気分になってしまった。

 茅ヶ崎に帰り着くと、アスファルトには雨の跡が残っていた。やっと秋になったか、と感じさせる風が吹いている。

 写真は海遊館のタコクラゲ。


 小松左京さんの代表作といえば「日本沈没」ということになるだろうが最高傑作となるとこちらを推す人も多いのではないだろうか。白亜紀から始まった物語は時間も空間も超え、宇宙の歴史全体を駆けめぐる。私としては「いいから読め。絶対読め」と自信を持って薦められる一冊。

2005.09.19

モトラの写真を掲載する

motora83

 古い写真が出てきたので掲載する。学生時代に私が最初に乗ったバイク、ホンダ・モトラだ。1983年7月から8月にかけて九州を一周し、屋久島まで行った時の写真。確か途中、浜松の路上で撮影した一枚である。

 「1982年、風が追い抜いていった」で書いたような経緯で買ったバイクだ。こいつで北海道も九州も走った。スーパーカブゆずりのエンジンの、カタログ上のパワーは4.5馬力。サブミッション付き3×2速リターンミッションと遠心クラッチの組み合わせだった。箱根を登るにはいい加減低いギア比の二速に落とさねばならず、しかも登り切る途中で熱だれを起こしてパワーが落ちた。
 サブミッションはほとんど役に立たなかった。もともとパワーが無かったのでローギアードにして力で押し切るようにオフロードを走ることができなかったのだ。リアサスは車高調整機能付きだったが、これも基本的には役立たずだった。そもそも積んだ荷物でシビアに走りが変わるというようなバイクではなかった。
 燃費は良かった。通常は60km/l程度で、北海道を走った時は80km/lまで伸びた。燃料タンク容量は3.5lしかなかったが、一回の給油で十分1日走ることができた。1982年当時、ガソリンはリッター150円しており、節約のためにガソリンスタンドは休日休業だった。北海道ではさらにガソリンは高く、リッター180円もしていたが、高燃費のせいで別に高いとは感じなかった。

 実際このバイクで走った旅はどれも強烈に印象に残っている。

 仙台まで一気走りした時は、いい加減走り疲れた福島付近で「仙台まで162km」という標識を見た。「お、これで仙台が射程距離に入ったぞ」と、うれしかった。
 佐賀では雷雲に追いかけられて走った。バックミラーに稲妻が光るのが映る、雨が降り始めて飛び込んだ喫茶店で、カレーを注文すると、なぜか山のようにキャベツの入った味噌汁が付いてきた。
 根室では夜、持参したラジオを聴いて過ごした。別に北方領土が近いからではないだろうが、なぜかモスクワ放送の日本語放送がよく入った。「日本の皆さん、これからかける曲は何でしょうか。局名が分かった方は答えを書いてはがきをお送り下さい。景品を進呈します」というアナウンスの次ぎに流れてきたのは「さくら、さくら」だった。思わず脱力した。何しろ冷戦まっただ中だったから、「こいつに返事を書いたら、KGBからスカウトでも来るのだろうか」と夢想した。
 知床では台風にぶつかり2日ほどウトロのユースホステルに閉じこめられた。何人かのライダーと「今日は客が少ないぞ、ラッキー」というのが口癖のヘルパーの作る飯を食って、マンガを読んで過ごした。

 屋久島では、山中のトロッコ鉄道の路線にモトラで突っ込んだ。釘かなにかでパンクし、その場はタイヤ修理剤でしのいだ。撤退することにして海岸に出てきたものの、そこで再度パンク。ずっしりと重くなったモトラを押して、工具のありそうなところを探して歩いた。通りがかった地元の小学生がずいぶんと親切に、バイク屋を探してくれた。
 バイク屋を見つけてパンクを修理後、安房(あんぼう)という町で食堂に入った。ところが店のおばさんは、メニューにあるものは材料がないから何も作れないという。これなら作れると言って出てきたのがゴーヤの炒飯だった。当時は害虫のウリミバエがまだいたので、本土へのウリ類の出荷は厳重に規制されていた。ゴーヤという苦いウリを、その時初めて食べた。
 
 今となってはこれほどまでに思い出深いバイクだが、当時の私の憧れは「クラッチのついたハイパワーバイク」だった。2年ほど乗って、私はモトラを売ってVT250Fに乗り換えた。

 また乗りたい気もするけれど、妙に人気が出て、値段が高騰しているのが気にくわない。まあ、縁があるならば、またモトラに乗ることもあるだろう。無理することはない。