遅ればせながら「ユリイカ」の初音ミク特集を読んだ。よくまとまった論考だ。ただし…
哲学という学問は自分の立ち位置を確認するのには有効だ。しかし当たり前のことながら「では何をすればいいか」は教えてくれない。それは自分で考えるべきことである。そういう意味で、「初音ミク現象のど真ん中に飛び込んでみようぜ」的なアジテーションの文章がなかったのは残念。
自分で動画を投稿して、反応に一喜一憂してこそ見えてくることもあると思う(と、2本しか投稿していないのに、偉そうなことをまあ…)。
さて。
年末年始とニコニコ動画がらみの記事ばかりを書いていたのは、はまっているというだけではなくて、「ニコニコ動画に、プロのジャーナリズムで今後とも食っていくきっかけがあるかな」と感じているからでもある。
ご存知の通り、昨年からマスメディアの崩壊がいよいよ現実のものとなりだした。朝日、毎日、産経新聞が赤字に、テレビ局も在京キー局が日本テレビを除いてすべて赤字になり、今年も状況が好転する見込みはない。出版業界は何年も前から右肩下がりだ。
1994年にインターネットの一般開放が実施され、誰でもWWWを読めるようになりホームページを公開できるようにもなり、写真も動画もなにもかもまとめてネットで配信できるようになった時点で、技術的には新聞とテレビの未来は決まっていた。社会的に「いつ終わりが来るか」がはっきりと分からなかっただけだ。
その「終わり」が今、到来しつつある。同時に「始まり」も。
おそらく、今後ジャーナリズムは2層分化するだろうと、私は予想している。
一つは、世界のあちこちで生成する事象を、そのまま伝えるという通信社的形態だ。例えばインプレスWatch、ITmediaのように、企業が発表するリリースをそのまま記事に仕立てたり、記者会見やイベントの様子をそのまま余分な判断を可能な限り交えずに記事化するというやり方である。記事を書くのは若くてフットワークの良い外部ライターで、収益は主にネット広告で得る。
この業態は現状でも、この先どのようにしてネットでビジネスを成立させるかがはっきりと見えてきている。
おそらく、新聞やテレビニュースの機能のかなりの部分は、ここに吸収されるはずだ。速い話、インプレスが「政界Watch」を立ち上げないのは、単に内閣記者会(記者クラブ)が首相記者会見を独占しているからだろう。
もう一つは、集めた情報を加工・分析し、新たな視点を提示する調査報道系のジャーナリズムだ。こちらの未来は大問題である。
調査報道は地味で手間が掛かるし、すぐに読者が関心を持ってくれるとは限らない。事前の投資が大きく、投資の回収期間が長期にわたる。しかも、ネット社会の進展の中で、「どこから投資を回収するのか」という問題も抱えている。例えば、どこかの大企業の問題点を指摘するならば、そのメディアは広告の大幅減収を覚悟しなくてはならない。
一つの解は、Google Adのような、人間の意向や意志を介さない、純粋に広告効果だけをアルゴリズムで算出する広告出稿システムだろう。しかしGoogle Adにしても、その他のネット広告にしても巨大クライアントの意向を無視できるとは限らない。
健全なジャーナリズムには、何物にも依存しない健全な財政基盤が必要だ。逆に言えば、全ての人に広く薄く依存することが望ましい。それは同時に、メディアが一部の広告主や権力ではなしに、全ての人々によって実効的に監視されるということでもある。
私はそろそろ、「情報のエンドユーザーが無形の情報に価値を認めて対価を支払う」ことを一般化する時期に来つつあるのではないかという気がしている。
もしも、「インターネットの時代にも健全で深いジャーナリズムが必要だ」と考えるなら、「ポケットの中の小銭をきちんと無形の情報の対価として投げることが習慣になるべきではないのかと思っているのである。
既存の紙の新聞やNHKには、情報のエンドユーザーからの購読費(受信料)として料金を徴収している。しかし、ネットでは「情報はタダ」という観念が浸透しているので、過去有料化に挑んだ媒体のかなりの部分が失敗している。
また、エンドユーザーが支払う対価は、NHKの受信料のように法的に強制されるべきものではない。あくまで「面白いから」「意味があるから」「意気を感じるから」「応援したいから」支払うべきものだ。
広告による無料の情報提供というビジネスモデルでは、広告主が経費を負担する。しかしよくよく考えてみると広告主が支払う資金は、エンドユーザーへの何らかのビジネスで働きかけて得た収益の一部が回っている。エンドユーザーは広告主が支払う広告コスト込みの価格で諸々のサービスを購入しているわけだ。
つまり、メディアに直接購読費を支払うのも、その分を、日常購入する物品やサービスの価格に上乗せして支払うのも、社会全体で見ると同じなのだ。
違う点は2つ。一つはメディアを支える費用が、広告主を通じて広く薄く徴収されるということ。もう一つは、広告主がコストを支払うことで、広告主はメディアへの影響力を持つことだ。
となると、エンドユーザーがメディアへの影響力を行使するためには、積極的にメディアに経費を支払うのが合理的ということになる。
さて、ここで話は本文冒頭で触れたニコニコ動画に戻ってくる。野尻さんのアピールに始まった「プレミアム推進ユーザーアピール」は、単に「ニコニコ動画で楽しんでいるのだから、運営に金を払おう」という道義的なものではない。そのことによって、ネットで結ばれたユーザーが、ニコニコ動画を運営するニワンゴに影響力を及ぼし、同時に広告主の恣意的な影響を排除する可能性を持つということなのだ。
ニコニコ動画のユーザーは他ならぬニコニコ動画において、四六時中インタラクティブに結びついている。運営側がなにかやらかしたらすぐに「ニコニコ動画プレミアム退会ユーザーアピール」で、運営に揺さぶりをかけられるポジションにいるわけだ。
一部の広告主のためではなく、わずかなプレミアム料金を支払う多数のユーザーのためのメディア——これは理想のマスメディアではないだろうか。
広告に依存しない一般向け媒体というのは、出版界長年の理想だったが実現し、継続したのは花森安治の「暮らしの手帖」誌ぐらいではないだろうか。それがネット時代の進展で可能性が見えてきている——と、私には思えるのである。
このことは野尻アピールにもきちんと書いてある。
もしプレミアム会員の収入で自活できれば、ニコニコ動画はせこい商売をしなくてすむ。わずらわしい広告もなくなる。
スポンサー企業ではなくユーザーの意見が反映されるようになる。文句を言うなら金を払おう。動画作者への還元も期待できる。
ユーザー提案のプロジェクトに出資させることだってできるだろう。わずかな出資ですべてうまくいく。
いま20万人いるプレミアム会員が100万人になれば、毎月3億円の黒字になる。
その金はプレミアム会員が握っているも同然だ。運営に注文をつけて、世界を面白くしようではないか。
(強調部分は松浦による)
これは、株主でも広告主でもなく、プレミアム料金を払うユーザーによるニコニコ動画簒奪の試みといえるだろう。ニコ動としてもユーザーに簒奪されることにより、よりネットユーザーに密着したサービスを展開することが可能になるわけだ。巨大企業が広告主について、これらの企業に批判的な動画を投稿できなくなるよりも、ユーザーが広く薄くプレミアム料金を支払って、自由な投稿の場を確保した方が、はるかに健全である。
そして、「コンテンツを生成するライターの取材経費と生活費」というものも必要だ。ニコニコ動画が記者やライターを雇用するならともかく、投稿によって成立するとなると、投稿者へも適正な報酬が配分されるようになるのが望ましい。
こちらも私は、ニコニコ動画に希望を見ている。その理由は「振り込めない詐欺」タグの存在にある。もちろんこのタグはよく出来た動画への称賛の意味であり、本当に振り込む人がいるかどうかは分からない。それでも、このタグの存在によって、「素晴らしいと思ったものを金銭的に支える精神」が準備されつつあるように思うのだ。
1円、10円、100円オーダーの決済をネット上で行うために必要なマイクロペイメントの技術も、いよいよ準備が整ってきつつあるように見える。そろそろ、「後は誰かビジネスとしてやるだけ」という状況になっているのではないだろうか。書いた文章に対する対価が多くの人々から広く薄く入るならば、「書く」という行為の基盤は非常に強くなる。
ひとつの組織、ひとりの人間に圧力をかけることはできても、社会に分散する多種多様の人々にまとめて圧力をかけて従わせるのは容易ではない。
もちろん、理想がそんなに簡単に実現するはずがない。理想が実現したとしても、そこで自分がジャーナリズムの端っこに引っかかって生き残ることが保障されるわけでもない。多くの人々から広く薄くとなると、「多くの人にとって身近な話題」「知っていること」「理解しやすいこと」にのみお金があつまり、本当の意味で知のフロンティアを開拓する言論にはお金が回らないということも考え得る(ああ、宇宙開発の話題にならなさといったら!これが「科学技術」全体に広げても状況は似たようなものなのだよな)。
「ニコ動はマスゴミじゃねーぞ」と声がかかりそうだな。
それでも、私は、現状のニコニコ動画を、自分の未来に引き寄せて、「これは面白いぞ」と思っているのである。